*48 小林秀雄とベルクソン

塾生のみなさんに、次回(1月9日)は小林秀雄とベルクソンの話をしようかと思ってますなどと予告したのはいいけれど、さて困った。何をどう話せばいいのか、どこから話せばいいのか、見当がつかない。

十年ほど前に——正確には平成十七年(二〇〇五年)——新潮社の新装版全集に「感想」と題された長編エッセイが収められたので、勇んで買い込み読んだときの記憶から書こうかと思って、ここ数日読み返しているのだが、どんどん泥沼にはまっていくような重苦しい気分が鬱積していく。

そもそもこのエッセイ自体、文字どおり伝説と化した作品なのである。手許にある本の帯には「雑誌連載五年を経て中断、ついに刊行も禁じたベルクソン論・・・・・・」とある。

雑誌とは『新潮』のこと、連載開始は昭和三十三年の五月、中断は三十八年の六月、その後著者は連載を再開することもなく、単行本として刊行することもなかっただけでなく、死後出版も禁じた曰く付きの書物なのである。それが禁を破って(?)日の目を見た。だから「勇んで」買い込んだわけである。

わたしが大学に入ったのは昭和四十八年のこと、小林秀雄が連載を中断してから、すでに十年の歳月が流れていた。そのころはまだ、文学部の学生といえば、同人誌を出したり、読書会を開いたりすることが特別なことでも、珍しいことでもなかった時代である。

そんな文学サークルのなかに、『新潮』に連載された小林秀雄のベルクソン論を全部コピーして(当時コピーは高かった!)回し読みしているところがあるという噂が流れてきたりもした。サークル間でけっこうお互いを意識したり、ライバル心を抱いていたりしたのである。

わたしは偏屈なところがあって、著者が失敗作だと思って刊行を禁じたものを、わざわざコピーして回し読みするなんて、おぞましいというか、卑しいというか、そういうサークルには惹かれるよりも反発を感じていた。しかも、有名な批評家を招いて、ご意見拝聴と来た日には、なんだか志が低いと思ったりもした。

それはともかく、当時の学生にとって小林秀雄は仰ぎ見る巨星のようなものだった。批評の神様とも呼ばれた。文芸評論の新たな世界を切り拓き、これを独立した文学ジャンルとして確立したという評価もあった。一介の文芸評論家が哲学を論ずるなんてこと自体が前代未聞だっただけでなく、書きつづけられなくなれば、みずからこれを失敗と断じ、封印してしまう。骨董屋で買った良寛の「地震後作」と題された書を得意げに自宅の床の間にかけていたら、専門家の吉野秀雄に越後地震の後の良寛はこんな字は書かないと言われて、その場にあった一文字助光で一刀両断にしてしまう。あるいは中原中也の恋人だった長谷川泰子を奪ったあげくに、これを捨てて奈良に逃亡するという若き日のエピソード・・・・・・。田舎からぽっと出てきたばかりの世間知らずの若い文学青年は、ただもう唖然とするか、あこがれるか、尊敬するか、あるいは敬して遠ざけるかしかなかった。当時のことを思い出すと、顔が赤らんでくる。

それだけでなかった。学生時代に深い親交を持った友人が二人いたが、そのどちらも小林秀雄に深く傾倒していたのである。

ひとりは大阪の男で、今わたしの書棚にある古い新潮社版全集は、彼のアパートで初めて見た。良寛の書のエピソードを語り聞かせてくれたのも彼だった。もうひとりは福島の男で、会って飲めば必ずドストエフスキーの話になり、ゴッホの話になり、小林秀雄の話になった。

そしてどちらも若死にした。二人のことは何度かブログに書いたのでここでは繰り返さない(* 1* 5*42)。

小林秀雄がいかに偉大とはいえ、われわれの世代にとっては過去の人だった。ベルクソン論を封印したのち、みずから入るべき墓としての本居宣長論に籠もった時点で、過去の人となっていた。だが、小林秀雄の偉大さは残した作品のなかだけにあるのではない。彼が独力で切り拓いた文学評論の沃野から、じつに多くの批評家、思想家が生まれ育った。吉本隆明、江藤淳、秋山駿、柄谷行人・・・・・・列挙するのはよそう、切りがないから。わたしたちの世代は、思想と評論の時代を生きた最後の世代だろう。

では、おまえにとっての小林秀雄とは何なのか、いちばん最初に挙げるべき作品は何かと問われるならならば、躊躇なく「近代絵画」と答えるだろう。この本(上に挙げた全集の第十一巻)を手にしたときの、喜びというか、驚愕というか、湧き上がる心の高揚は今も忘れることができない。のちにメルロ=ポンティの思索の世界——とりわけセザンヌを論じた「眼と精神」*6——にとっぷりと浸ることになるけれども、その下地はこの「近代絵画」の読書体験によってもたらされたものだ。

モネ、セザンヌ、ゴッホ、ゴーガン、ルノアール、ドガ、ピカソ、扱われた画家は七人、どの論も珠玉の名作であり、小林秀雄の代表作だと信じて疑わない。

この本によって、たんに絵の見方を教わったというだけでなく、ものの考え方、ないしは考えることそのものについて、教わったような気がする。

ところでこの絵画論には序文がついていて、「ボードレール」という章題がつけられている。短いけれども凡百のボードレール論よりもはるかに密度が濃く、大学の文学史で習う無味乾燥なボードレールについての解説など蹴ちらかしてしまうような迫力があった。文学と絵画と音楽をひとつの時代が見せるさまざまな顔のようなものとして論じることで、近代という時代と芸術の本質とを同時に教えてくれるものだった。小林秀雄はわたしの学校だった。ところで、「モネ」と題された章には、こんな分析的な文章がある。

 

要するに色とは壊れた光である。〔・・・・・・〕大洋の波は砂漠や岩に当たって砕け、飛沫をあげているが、もっと大きな太陽の光は地球に衝突して、砕け散り、地球全体を麗しく彩色している。太陽の光は、地上に達する前に無論、空気に衝突するから壊れる。空中に色素も顔料もあるわけではないが、空は澄めば澄ほど深い青になる。丁度、波の大きなうねりは、小さな岩を呑んで進むが、小さな波は小さな岩にも衝突して砕けるように、光のうちでも波長の短い青の波が、空気分子にぶつかって散乱しているからだ。紺碧の海も、水の分子に関する同じ理由から紺碧に見える。日の出や落日が真紅に染まって見えるのも、その場合、太陽光線は、空気の中を、特に、空気分子より粒の大きい塵埃や水蒸気を含む下層の空気の中を長い間通らねばならず、その為に、小さい波の散乱現象が強くなり、割合から言えば大きな波のほうが沢山眼に這入って来ることになるから、太陽は地平線に近づくにつれて、黄から、橙から、赤と染まって行く、という風に普通説明される。

 

長い引用だが、小林秀雄節の特徴が典型的に表れているところなので、注意して読んでほしい。ここには二つの問題が潜んでいる。ひとつは揚げ足取りとも重箱の隅をつつくとも思われかねない、小さな問題——でも、じつは大きな問題だと思っているので——、まずはそれから取り上げる。

光は壊れて色になるのか? 文学的比喩だからいいじゃないか、と言う人もいるだろう。けれど小林秀雄という人は本来そういう曖昧な表現を嫌う人であったはずだ。でも、彼はときどき自分で設けた規矩を踏み外す。

空が「澄めば澄むほど深い青になる」のは「光のうちでも波長の短い青の波が、空気分子にぶつかって散乱しているからだ」というのは科学的説明としてはおかしい。嚙んで砕いて消化しやすいようにした表現としてもおかしい。というのは、この引用した文のなかでさえ、自家撞着しているからだ。一方で、空が青いのは、光の波長のなかの青の波が空気分子に衝突して散乱しているからだと説明しておいて、後半の夕焼けの赤を説明するところでも、「小さい波(=青)の散乱現象が強くなり」、その結果「長い波」(=赤)が眼に這入ってくる割合が大きくなるからだ、と説明している。空が青く見える論拠に基づくならば、後半の理屈は逆にならなければならない。つまり、夕日が赤いのは青の散乱現象が抑えられるからだ、とならなければならない。

そもそも、空気が澄んでいるときに空がよけいに青く見えるのは、光のスペクトルのうち、人間の眼に青と感じられる波長をもつスペクトルが大気層に含まれている塵や水蒸気にあまり邪魔されず、たっぷりと地上まで到達するからだ。空気分子のひとつひとつに衝突して散乱しているわけではない。

わたしは心密かに、小林秀雄がベルクソンについての論考を投げ出したのは、彼の思考のなかにバシュラールのいう「認識論的障害物」が色濃く残っていたためではないかと思っている。あるいは奇妙に啓蒙的に振る舞おうとするとき、彼の舌はもつれると言うべきか。

「色とは壊れた光である」とか「太陽の光は地球に衝突して、砕け散り、地球全体を彩色している」とか書かれているのを読んだときには、文字どおり、ほとんど目が眩みそうになった記憶がある。その一方で、おや?と首をひねった記憶もある。事実、わたしの持っている本の、この引用箇所に出てくる「小さい波の散乱現象が強くなり」のところには、鉛筆の薄い線が引かれている。

久しぶりでこのページを開き、この鉛筆書きを発見したときには、一瞬たじろいだ。変だと思った記憶の証拠がここにあると思ったからだ。

それはともかく、もうひとつの問題に移ろう。こちらのほうが大問題なのだ。

モネは光の画家と呼ばれる。モネは光について近代科学の分析的知識を得たから、あんなすばらしい絵を残せたのだろうか? そんなことはない。小林秀雄自身がこう書いている。

 

芸術は時代の子であるから、印象派の運動も、その時代の光や色に関する分析的な学問の進歩というものに照応しているわけだが、科学が直接に芸術家の眼を開くという様な事はない。

 

では、ある特定の時代における、科学と芸術の照応関係をどう考えればいいのだろうか。次のような箇所は、美しいだけでなく、まことに明晰で、説得力に富む、小林秀雄でなければ書けない一文だと思う。

 

色彩派{コロリスト}が外光派{リュミニスト}に転じたのは、理論によったのではなかった。屋外に溢れる光の美しさが、画家達を招き、アトリエでの仕事を放棄させたからだ。コローからラ・フォンテーヌを除き、ミレーから聖書を剥ぎ取り、もっと直接に風景を掴みたい、光を満身に浴びて、モネの言葉を借りれば鳥が歌う様に仕事をしたい、そういう画家の自然への愛情の新しい形式の目覚めが根本の事だったのである。

 

モネはこの光を画布の上に再現しようとした。たんに外光を浴びて仕事をするだけでなく、絵の具その物にも光を求めた。絵の具は混ぜれば混ぜるほど、彩度も明度も失う。その結果、色価{ヴァルール}も下がる。そこで彼は点描法と格闘することになる。つまり、基本色を直接画布の上に併置することによって、自然の持つ色の光を再現しようとしたのである。けれども「モネは、生涯、この分析的な手法のために苦しんだ」。その理由は、「理論は殆ど役に立たなかったからである」と。けれども、理論が役に立たなかったから、モネは苦しんだ、ということにはならないだろう。そんなことくらい、小林秀雄は先刻ご承知だ。もう少し我慢して、彼の論のあとを追ってみる。

 

芸術の形式が、時代の感覚と応和しなくなると、嘗ては生き生きとしていた形式も、重苦しい因襲と感じられ、芸術家は、これを脱ぎ捨てて、裸になって自然に還りたいという欲望を抱く。印象主義の運動も、画家達の、自然に還れという甲高い叫びだったのであるが、そういう場合、いつも同じことが起こる。自然は人間の鏡である。自然に還ろうという欲望は繰り返されるが、還るのは同じ自然へではない。人工の拘束から自由になって、画家は無私な眼で自然を見たいと考えるが、自然が黙々として映し出すものは、当の絵かきが、自ら無私と信じている心の形にほかならない。

 

ここに小林秀雄独自の弁証法がある。その独自さは「無私」という言葉のなかに込められている。「自然に還れという甲高い叫び」とはロマン主義のことを指している。もっと端的には、ジャン=ジャック・ルソー(1712〜1778)の思想を集約している。大雑把に言うと、ルソーは印象派の画家たちが活躍する一世紀前の人である。フランス革命の思想的背景となった人ではあるけれど、その前の人である。フランス革命は大事件である。だが、大事件に過ぎない。小林秀雄の眼は、もっと本質的な、人間の生活の根本を変える内部の革命が進行していたことを見逃さない。

マルクス(あるいはエンゲルス?)の自然弁証法は「人間が自然を人間化すればするほど、人間は自然化する」という言葉に集約される。

この言葉は、長いこと、わたしにとっては謎だった。今も謎だと言ってもいい。マルクスの著作そのものを読んでも、すっきりしない。けれども今、二十代に読んで感銘受けた「近代絵画」を読み直しているうちに、靄が晴れてくるのを感じる。

今、試みにこの言葉を「人間が自然を人工化すればするほど、人間は自然に還ろうとする」というふうに少し通俗化してみる。十九世紀に端を発した産業革命は、革命と戦争に明け暮れた前世紀を経て、新たな次元に突入したと言われている。産業資本主義の時代から金融資本主義、あるいは高度資本主義への時代への移行とか言われる。情報と交通と経済のグローバリゼーションというような言葉も常識と化した。地球は確実に狭くなった。

道という道はアスファルトに覆われ、われわれの生活と生産活動から排出される二酸化炭素が太陽熱を吸収し、地球全体が温室と化し、北極の氷も南極の氷も溶け出し・・・・・・。

確実に自然の人間化が進み、たくさんの科学者が警鐘を鳴らしている。それを一言でいうなら、「自然に還れ」「自然を取り戻せ」ということになる。

われわれ自身も、ふだんは車に乗って二酸化炭素を振りまき、大量の「燃えないゴミ」「燃やせないゴミ」(大地に還すことのできないゴミ)を出す一方で、毎朝のジョギング、ウォーキングを欠かさず、週末になれば山に登り、川に釣りに出かけ、カメラで写真を撮ったり、絵筆と画布を持って写生したりしているではないか。

なぜわれわれは、わざわざ美術館に行って、美術作品を見ようとするのか。なぜわれわれは、わざわざコンサートホールに出かけて、音楽を鑑賞するのか?

小林秀雄に戻ろう。彼はモネについて、もっと謎めいた言葉を残している。

 

印象派の出現とともに強固な自然は光の中に動揺しはじめた。自然は、画家に模倣を求める自信を失って了った様な様子を見せはじめた。自然は画家のあまり細かく分析的になった不安な視覚を模倣するに至ったのである。画家は、そんな風にして、とどのつまりは、己れを語る様に誘われていく。自然に還ろうとして自己に還っていく。

 

この言葉を解説するのはよそう。解説の任に堪えないというのが本音だけれど、理解することよりも考えることのほうが大切だろうから。ただ確信を持って言えることは、これは逆説でも文学的修辞でもない。小林秀雄という思想家の放った言葉の矢がここで的に当たっているのである。飛躍とはそういうことである。ただ最低限、マルクス自身の言葉をここに置いておこう。

 

自然は人間の非有機的身体である。〔なぜ非有機的かと言えば、〕自然そのものは人間の肉体ではないからである。人間が自然に依存して生きるということは、自然は人間の身体であり、人間は死なないためには、たえずそれと交流しつづけなければならないということである。人間の肉体的・精神的生活が自然と連関しているということは、自然がおのれ自身と連関しているという意味をもつにすぎない。というのも、人間は自然の一部だからである。

(カール・マルクス『経済学・哲学草稿』村岡晋一訳。〔 〕内は翻訳者の補足)

 

(つづく)

*47 矢は的に当たらない(承前)

今日は少し趣向を変えてというか、角度を変えて、ゼノンの矢についての話を続けてみましょう。

たとえば人類はどこまで100メートルを最速で走れるだろうか、という思考実験のようなものをやってみます。現在の100メートル世界記録は2009年の世界選手権でウサイン・ボルトが出した9秒58ですね。この驚異的な世界記録は永遠に破られないのではないかとも言われています。

はたしてそうか。あらゆる記録はいつか破られるとも言います。でも、人間が永遠に何かの記録を更新しつづけることはできません。かりにとてつもない肉体改造が行われたとしても、100メートルを0秒で走るなんてことはできない。走るのが肉体であるかぎり、0秒ということはありえない。光でさえ、約30万km/sという速度を持っているのだから(これは速度というべきなのか、単位というべきなのか、別の問題がありますが)。

では、どこかに人類最速の限界値があるとしたら、オリンピックや世界選手権はいずれ新記録を期待することはできず、ひたすら着順だけを競う競技ということになります。

その場合も、トレーニング方法、食生活や栄養の管理、筋力や睡眠にかんする分析やコントロール方法がどんどん開発、洗練されていくと、選手間の能力の差異はどんどん縮まっていって、記録も限界値のあたりでほとんど横並びになってしまう。そうすると競技者にとっても観戦者にとっても、競い合うおもしろみは徐々に失われていくことになる。

でも、ここで考えてみたいのが、計測方法と計測装置の精度の問題です。

かつて、といってもそんなに昔のことではなく、1960年代くらいまでは——われわれの世代だと10代前半くらいまでは——、速さを競うあらゆる競技は手動計時で行われていました。複数の計測員がストップウォッチを持って時間を計り、たしか平均値を出すのではなく、上と下をカットするのではなかったかと記憶していますが、正しいことは知りません。

いずれにせよ、手動計時では誤差が大きかったので、いつしか——80年代以降?——ほとんどすべての競技会場で電動計時のシステムが導入され、写真判定システムも加わって、可能なかぎり誤差や誤審が排除されるようになった。

細かい話はともかく、手動計時の時代には10分の1秒単位の計測だったように憶えています。それが電動計時、電子計時と移り、今では100分の1秒単位の計測になった。だからボルトの世界記録も9秒58と表示される。近い将来、1000分の1秒計時の時代がくるかもしれないともいわれています。

これほど精密なデジタル化が進んだ今、そんなに難しいことではないように思いますが、それはともかく、走るのは人間の肉体ですから、当然どこかに限界値がある。その限界値に向けて、計測器がどんどん細分化、精密化していくという事態を想像してみてください。

そう、これはゼノンの矢なのです。計測器が分割と分析の精密化をどんどん加速、更新していくと、ついに矢は的に当たらない。つまり、人間の走る速度は限界値に無限に近づいていくが、限界値には達しない。

でも、矢は存在するし、的も存在するし、矢は的に当たる。人間の肉体も存在するし、スタートラインも、ゴールラインも存在するし、人間の肉体はそのラインを通過するし、その限界値も存在する。計測器だけが無限を刻んでいるわけです。

しかし、計測器も機械です。物質から成りたっているわけですから、分割の限界値もある。すなわち無限を刻むということはありえない。

無限を刻んでいるのは、あるいは無限を刻めると錯覚もしくは妄想できるのは人間の頭脳だけだということになります。

ベルクソンは、それ(科学的分析)にノーを突きつけた。直観(intuition)は分割しない、現実(le réel)を、持続(la durée)を生きるものである、空間を飛び越えるものである、飛躍(élan)するものである、それが哲学の領分であると。

今、ガストン・バシュラールの『近似的認識試論』(Essai sur la connaissance approchée)という著作を読み返しています。これは1927年にパリ大学ソルボンヌに提出された学位論文です(翻訳は国文社から昭和57年/1982年に、豊田彰・及川馥・片山洋之介訳で出ています)。

この論文を読み返していると、ベルクソンが生涯、ゼノンの背理と格闘したように、バシュラールはベルクソンの直感と持続という概念(concept)に生涯異を唱え——あるいは補正(rectification)を加え——つづけたようにも思えてきます。

バシュラールによれば、科学的認識とは先行する認識をたえず修正しながら、限りなく精密を極めていく、近似的な過程にほかならない。つまり、真理というターゲットには永遠に到達しない! 彼はこれを「不確実性の哲学」(une philosophie de l’inexact)と呼びます。この inexact は不正確という意味ではありません。「現実」とか「真理」と呼ばれる概念に、一挙に到達するのではなく、ひたすら接近(approcher=アプローチ)していく過程をさしている。

後年(1940)、バシュラールは La Philosophie du non という著作(邦訳『否定の哲学』中村雄二郎・遠山博雄訳、白水社、1978年)をあらわします。この non こそinexact なのです。たえず先行する思想(経験)にnonを突きつけ、「真理」という名の極点、もしくは限界点に接近していくこと。これがバシュラールにとっての「科学」もしくは「科学的認識」だった。

この non は、いわば「理性」(raison)の声です。ところがおもしろいことに、ベルクソンの場合、この 否定の声を発する主体が違う。あるいはその声が発せられる場面が違う。「形而上学的直観」から引用してみます。

 

この〔直観の〕イメージを特徴づけるもの、それはその内部に備わっている否定(négation)の力です。ちなみにここで、ソクラテスの神霊{ダイモン}がどんなふうな働きをしていたかを思い出してみてください。このダイモンは不意に現れて哲学者の意志を抑え、なすべきことを命じるというよりは、行動することを阻止するのです。私にとって直観とは、こと思弁に関するかぎり、現実生活におけるソクラテスのダイモンのような振る舞いをするものに思えます。〔中略〕つまり、直感は禁止するのです。世間一般に受け入れられてきた通念であるとか、明白と思われていた定説であるとか、それまでは科学的なものとして通ってきた主張であるとかを前にして、直観は哲学者の耳もとで「ありえない」(impossible)とささやくのです。

 

バシュラールの考えていることとベルクソンが考えていることは、ほんのわずかしか違わないようにも見えるし、まるで背を向け合っているようにも見える。違うとすれば何が違っているのか。前者はあくまでも理詰めで考え分析し、先行する認識に「補正」を加えることに科学的認識の本質ないしは進歩があると考えるのに対して、後者は直観的に全体をとらえ、理詰めの分析にある種の欺瞞を見出し、対象との合一に究極の認識を見ようとする、そういうことだろうか。

いや、そんな単純なものではないでしょう。バシュラールは『否定の哲学』のなかで、「科学的認識の哲学」とは「開かれた哲学」であり、「未知なるものに働きかけ、先行する認識と矛盾するものを現実の中に見出そうとすることで自らを立てる精神の自覚」であると定義しています。すなわち、哲学と科学が相反するものではなく、互いに補完し合うものでなければならないということなのです。そのうえで彼はこんなふうに言う。

 

とりわけ何よりも、新たな経験が古い経験に対して〈否 non〉を突きつけるということ、それなくしては、自明の理ではあるけれども、新しい経験たりえないという事実を自覚しなければならない。しかし、この否{ノン}はけっして決定的なものではない。みずからの様々な原理を弁証法的に照らし合わし、新たな数々の種類の確かな根拠を立ち上げ、自身の解釈体系を豊かにはするけれども、何もかもそれで説明できる自然な解釈体系に見えるようなものにはいかなる特権も与えない精神にとっては、決定的なものなどありえないから。(『否定の哲学』)

 

ここで言う「経験」(expérience)は、「体験」とも「実験」とも訳せますが、日常的にごく当たり前に使われるこの言葉にこそ、ベルクソンとバシュラールのあいだにある微妙ではあるけれども、決定的な、目も眩むような深淵があるように思えます。

しかし、ここではこの問題について深入りしないことにしましょう。深入りするだけの準備もないし、本題——ゼノンの矢の問題——から遠く逸れていってしまうでしょうから。

最初に、100メートル競走における人間の肉体の限界と計測器(ストップウォッチ、電子時計)の話をしました。

100メートルを10秒で走る場合、100分の1秒差を距離にあらわすと10センチです。この距離を「たった10センチの差」とみるか、「10センチもの差」とみるか、むしろこの受け止め方の差異のなかにこそ、大きな問題が潜んでいると思うのです。

100メートル競走の当事者——選手本人、トレーナー、あるいはスポーツジャーナリスト——にとっては、この10センチの差は相当大きいかもしれない。つい最近(2017年現在)、桐生祥秀くんが日本人スプリンターとして初めて10秒を切り、9秒98の記録を出しました。快挙です。でも、ボルトの9秒58とは、0.4秒もの差がある。距離にして4メートルです。これはもう絶望的な数字かもしれない。世界新記録を狙うとすればの話ですが。

しかし、日常生活においては、1秒以下の時間はほとんど無視できるような時間でしょう。100メートルをふつうに歩いた場合、4メートルの差は感じ取れないでしょう。ましてやセンチメートル単位の差なんか、ふつうの目視では違いがわからない。

でも、トップランナーや一流のアスリートの世界、あるいは超絶技巧の職人芸の世界においては、10分の1秒、10分の1ミリの違いが、とてつもない壁、許しがたい誤差として立ち現れてくる。

こういう微分的な世界をさらに超微分的に分割、あるいは拡大した世界こそが現代科学が見ている風景だということができるでしょう。そう、言うまでもなく、近代科学は顕微鏡、望遠鏡の発明と精緻化を抜きにして考えられない。しかも、ここで重要なことは、顕微鏡が分子構造を、原子の構造を発見したわけではないということです。顕微鏡の向こう側に現れた、われわれ人間の肉眼が知らなかった新たな微視的世界を前にして、新たに世界を書き直す必要に迫られたということなのです。バシュラールが『近似的認識試論』の冒頭で「認識とは再発見するために記述することである」と言い、ピアソンの『科学の文法』からの引用を通じて、「重力の法則とは、遊星の運動を定めている規則をニュートンが発見したということではなく、われわれが遊星の運動と呼ぶ諸印象の継起を簡潔に記述する方法をニュートンが案出したということを指す」と言っているのは、そういうことなのです。

分子の構造とか原子の構造とか呼ばれるものは、物質それ自体の構造であるよりは、人間が案出した関係式(記述)を視覚化したものと言い換えてもいいし、バシュラールは『科学的精神の形成』のなかでは、そもそも関係という抽象的な記述を目に見えるようなモデルに置き換えることを「認識論的障害物」とさえ呼んでいるのです。

けれども、顕微鏡や望遠鏡といった観測装置それ自体が精緻化され、オーダー(目盛り)そのものがどんどん微分化されていくと、分子のモデルも原子のモデルも形を失い、内実を失っていく。つまり、原子核のまわりを電子が周回しているといった「古典的な」図式は意味を失う。原子核は陽子と中性子から成り立つと教えられるそばから、中間子の存在が予言され、次から次へと「究極の粒子」(素粒子)が発見されていくと、われわれはついに「物質」の消滅といった事態に遭遇しているのか、と思えてきます。そこには形のないエネルギーの構造と流動だけしかないのか、と。

でも、同時にわれわれはふつうの生活を営んでいる。目に見える色と形があり、触れば固かったり柔らかかったり、持てば重かったり軽かったり、嗅げば心地よかったり不快だったり、舌に載せれば甘かったり苦かったり、そういう五感の世界に生きている。

そういう五感の立場からすれば、現代物理学の描き出す、非定形(不確定)の素粒子の世界は「ありえない」のです。

またベルクソンの直観の世界に戻ってきました。でも、ベルクソンとバシュラールを単純に同列に比較するのは公平ではない。

ベルクソン(1859〜1941)にポーランド系ユダヤ人を父に、イギリス人を母として、パリのど真ん中、ラマルチーヌ通りで生まれています。1881年に「意識に直接与えられたものについての試論」(『時間と自由』)をソルボンヌ大学に提出し、文学博士号を授与された。

かたやバシュラール(1884〜1962)はシャンパーニュ地方の小さな村で生まれています。地元の中学を出て復習教師(現在の助教師)を務めたのち、パリに出て郵便局に勤め、電信技師の資格を取ろうとするも失敗、第一次大戦に兵役として徴兵される。復員ののち復学して、数学や哲学の学士号を取得し、1927年に「近似的認識試論」をソルボンヌ大学に提出し、博士号を取得したときには40歳を越えていた。

生年を比べても25歳の年齢差があり、最初の学位論文の提出日を比べると半世紀もの開きがあるのです。この間世界は大きく変わった。

1870年、普仏戦争勃発。翌年、モルトケ元帥率いるプロシア軍がフランス軍に勝利。この戦争を題材にポール・ヴァレリーは「ドイツの制覇」(1987年)——のちに「方法的制覇」と改題——を書き、戦争と産業と思考法が劇的に変わったことを指摘します。ニーチェ「悲劇の誕生」発表。

1905年、アインシュタインが「特殊相対性理論」(原題:動いている物体の電気力学)を発表。セザンヌ、最後の大作「水浴図」を未完のまま残して、1906年に死去。

1914年、第一次大戦に勃発。戦闘機、戦車の登場。足かけ5年にわたって、900万以上の兵士が戦死したとされる。バシュラール、1915年に兵役で出兵し、戦争終結まで従軍。

1917年、ロシア革命(10月革命)勃発、ソビエト権力成立。

1933年、ヒトラーにたいする全権委任法の国会承認によるナチス・ドイツの誕生。

1941年、ベルクソン死去。ポール・ヴァレリーは「アンリ・ベルクソンは大哲学者、大文筆家であるとともに、偉大な人間の友であった」と弔意を表した。

この時代はよく「戦争と革命の世紀」と呼ばれますが、このことはよくよく考えてみる必要があります。たんなる過ぎ去った「前世紀」ですますことはできない。われわれは今も、科学技術{テクノロジー}の「暴発」、「大衆の勃興」、民主主義の「暴走」の時代を生きている。

ベルクソンとバシュラールの思想の差異を、個性や個人差に帰することはできないでしょう。かといって時代や世代の違いに帰することもできない。そこには何か、人間という得体の知れない種——自然の一部でありながら、自然から遊離し、自由になろうとする生物種——に起因する謎というのか、矛盾というのか、背理というのか、そういう問題が潜んでいるように思います。

それほどゼノンの矢の問題は深く、永遠の謎めいたところがあるわけですが、せっかくベルクソンの思想を読み解くヒントをバシュラールの思索の方法から探ろうとしたのですから、ここでひとつの解(solution)を——数学にならって——提出しておきましょう。

ゼノンの矢の背理(矛盾)は、古来から二分法と呼ばれるその分析法にあるのではなく、「それゆえ、矢は的に当たらない」(矢は動かない、アキレスは亀に追いつけない)と結論したことにある。分割を際限なく続けているのだから、終わりが永遠に来ないのは当たり前ではないか。だからこの問題は、矢が当たるか当たらないかの問題ではなく、人間にとって「無限」(際限がない)とは何かという問題なのである。以上、証明終わり。

*46 塾で話したこと

われながら奇妙なことを始めたものだと思うが、それはさておき、

先日、塾でこんな話をした。

ゼノンの矢の話である。

この話というか、この詭弁(背理、逆説とも呼ばれるけれど)の話をはじめて聞いたのは、たしか中学生のころだった。

東京の大学に入った四歳年上のいとこが、夏休みに意気揚々として帰郷し、年下のいとこ(わたしと、わたしより一学年上のいとこ)に語り聞かせてくれたのである。どういう流れで、詭弁についての話になったのか、それは憶えていない。たぶん、こんな感じだったのではないかと思う。

「おい、おまえたち、詭弁というなら、こういう話を知っているか。むかし、古代ギリシアにゼノンというソフィストがいた。ソフィストというのは詭弁を操る者という意味だ。もともとは知を愛する者という意味だったらしいが、そのうち空理空論をもてあそぶようになったということだ。で、ゼノンはこういう説を立てた。矢は的に当たらない。どういうことだかわかるか?」

われわれ年下のいとこ同士は目を丸くし、きょとんとして聞いている。年上のいとこが何を言おうとしているのか、まったく見当がつかない。彼は続けた。

「つまり、こういうことだ。矢と的のあいだの距離が10メートルだとする。放たれた矢はまずこの距離の半分にあたる5メートルの点を通り過ぎる。次には残り5メートルの半分にあたる2.5メートルの点を通過する。さらにはその半分の1.25メートルのところを通過する。こうして、さらに半分、さらに半分の距離を通過していくわけだが、どんなに分割してもゼロにはならない。ということは、矢は的に当たらない、ということになる。どうだ?」

一学年上のいとこが叫び出す。

「それヘンだよ。だって現実にはぜったい矢は的に当たるんだからさ。射損じたとしても、どこかには当たるはずだよね」

「だから詭弁というのさ。じゃあ、逆にきくけれども、この論法のどこがおかしいか、説明できるか?」

中学生の目は、こんどは点になった。矢は必ず当たる。けれど届かない。現実と頭のなかが完全に食い違ってしまって、茫然としているのである。

わたしの記憶が定かならば、それは一九六九年のことだった。わたしが中学の三年、一個年上のいとこが高校一年、四つ年上のいとこが大学一年、そして六九年といえば、それはもう唖然とするほどすごい年だった。

今、「戦後昭和史」と題されたウェブページを見ている。

一月十八日、東大に機動隊八五〇〇人導入、安田講堂など占拠の学生と攻防戦。神田駿河台付近で東大闘争支援学生が解放区闘争。十九日、安田講堂封鎖解除。

大学生になったばかりのいとこは、この大学紛争の洗礼を浴びていたのである(東大生ではなかったけれど)。だから、話題は古代ギリシアの話ばかりではなかった。政治の話、文学の話、音楽の話、次から次へと話題が湯水のように湧いてきて、われわれ年下のいとこは、なにか冒険譚でも聞くような、夢物語の世界にでもいるような感じで、うっとりと耳を傾けていたのである。

「戦後昭和史」六九年のページをもう少し追ってみよう。

二月、毎土曜日、新宿西口広場のべ平連の集まりに反戦フォーク演奏会。

四月七日、四三年に東京・京都・函館、名古屋で四人を射殺した永山則夫、東京で逮捕。

六月十日、国民総生産(GNP)、世界第二位に。

七月二十日、アメリカの宇宙船「アポロ11号」、人類初の月面着陸に成功。

十一月十六日、反安保全国実行委・沖縄連共催首相訪米抗議集会、全国一二〇カ所で七十二万人参加。

十一月十七日、佐藤首相訪米。佐藤・ニクソン共同声明で四七年沖縄返還を表明。

そして、翌七〇年十一月二十五日には、三島由紀夫が東京市ヶ谷の自衛隊東部方面総監部に、縦の会のメンバーとともに乱入し、切腹してみずから果てた。

高校一年生になっていたわたしは、学校の帰り道、行きつけの本屋に立ち寄り、発売されたばかりの「毎日グラフ」を手にして、総監室の床の上に置かれた三島の首を見た記憶がある。

世界は東京を中心にして回っていた。

東京に行きたいと思った。ごく自然に。まるで当然のことのように。東京に行くということは東京の大学(どこでもいいから)に行くことを意味した。東京の大学を受験すると言ったら、父から問い返された。なぜ北海道の大学ではだめなのか? 北海道の大学で学ぶことなどないと答えた。なぜか父は納得したようだった。

だったらちゃんと勉強しろよという話だが、ギターをかき鳴らして歌ってみたり、女の子に夢中になって、ラブレターかなんか書きまくったりしていて受かるわけがない。案の定(本人は想定外)、受験に失敗して一年間浪人することになる。

翌年、晴れて東京の大学に合格し、文学部に入学するわけだが、ここから本題に戻る。父にはなぜ北海道の大学ではだめなのかと問い質されたが、今のわたしは、自分に向かって、なぜ文学部を選んだのか、と問うてみたいのである。

そんなに文学が好きだったわけでもないだろう。読書家だったわけでもないじゃないか。なぜ文学部を選んだ? 漠然とはしているが、何かものを書くことが好きだったから。なるほど。で、将来はどうするつもりだったのか? これもまた漠然としているが、新聞記者とか編集者とか、やっぱり文字を書く仕事に関係した職業につければいいと思っていた。

それがいつのまにか翻訳者、翻訳家になっていた?

ま、そういうわけだ。人生不可解とでもいうべきか。

いや、しかし、文字を書く仕事というのなら、翻訳こそひたすら文字を書く仕事ではないか。

たしかに。いや、きみの質問は逸れているぞ。誘導尋問だ。わたしがなるべくして翻訳家になったと誘導している。

いや、質問が逸れているわけではないだろう。こちらの頭が混乱しているのだ。問題を整理しよう。

はじめてゼノンの話を聞いたのは一九六九年だった。そこに話を戻そう。その話題を運んできたのは、当時東京の大学に入ったばかりの、四歳年上のいとこだった。そう、ゼノンの背理は六〇年代の終わりを迎え、混乱と崩壊と絶望と希望の入り混じる東京からやってきた。

そのころ中学生だったわたしは、北海道の片田舎でどんな暮らしをしていたのか。どんなことに関心を持ち、どんなことに若いエネルギーを注ぎこんでいたか。

夏はテニスをしていた。冬はアイスホッケーに明け暮れていた。本は?

ほとんど読まなかった。

当時読んだ本で記憶に残っている本はたった二冊。エドガー・アラン・ポーの「黄金虫」と太宰治の「人間失格」だけ。あまりに対照的。一方は十九世紀のアメリカ文学で、探偵小説の祖と呼ばれる作品。もう一方は、説明する必要もないだろう。

エドガー・アラン・ポーの短編集は、一歳年上のいとこから借りた。夢中になって読んだ。ただただうっとりしていた。「モルグ街の殺人」も「黒猫」も、もちろん強烈な印象を与えたが、一等好きなのは、やっぱり「黄金虫」だった。

暗号解読。それだけで短編小説ができあがっている! こんなに知的な、こんなに優雅な小説がほかにあるだろうか。今もそう思っている。これは世界文学史の奇蹟なのだ。

もう忘れてしまったが、ポーはどこかでこんなことを言っている。小説は二、三十分で読み切ることのできるものがよい、と。つまり、短編小説こそが小説という芸術の醍醐味なのだと。これを読んだときは、もう大学生になっていたと思うが——そう、ポーはずっと好きで、大学に入るとすぐに全集を買ったくらいだ——、その一文に触れて、そうか、シンフォニーもだいたいそのくらいだよな、LPレコード一枚聞くくらいの時間で読み切れるもの、それは人間の頭脳、あるいは感覚の集中が生理的に途切れない時間なのではあるまいか、と思ったことを今も憶えている。(*1)

さて、もう一方の太宰治。これは早熟だった同級生が読んでいるのを見て、刺激されて読んでみたのだ。「人間失格」、そもそもタイトルがおどろおどろしい。読んでみると気味が悪かった。誰もがそう思うらしいが、ここには自分のことが書かれている、自意識の芽生えた思春期真っ盛りの中学生には衝撃的だった。写真のなかの自分、笑みを浮かべているが、手もとを見ると拳を握りしめている。その手は自分のペニスを握る手でもあるだろう。

でも、その勢いで読み漁るというということはしなかった。テニスとアイスホッケーでくたくただった。

それにしてもポーと太宰治じゃ違いすぎるだろう、と思う人が多いかもしれない。べつにそのことに抗弁するつもりもないし、その必要もないだろうが、中学生なんて、そんなものじゃないだろうか。何もかも芽生えたばかり、趣味も思想も好き嫌いもポリシーもない。手当たりしだい。なにもかも偶然にさらされている。

しかし、この「偶然」と呼ばれるものの不思議、奥深さ、この年になると、そのことをしみじみと感じるのである。偶然にさらされているのは思春期だけではあるまい。全人生が偶然にさらされている。偶然はいつも雨のように、あるいは紫外線のように、われわれに降りそそいでいる。

わたしがこの日本列島の、北端に位置する島の、人口十万を超える程度の小都市に、二度目の世界戦争が終わった直後の一九五〇年代の前半に生まれたこと、これは偶然以外の何ものでもない。

だとしたら、必然とは何か。宿命とは何か。あるいは運命とは何か。意志とは何か。

わたしはそういうことを考えてみたいのである。

この塾で、このブログで。

それは哲学ということですか、と問われるなら、その言葉は嫌いだと答えておこう。文学という言葉も嫌いである。学問という言葉も、学校という言葉も好きになれない。

哲学は躓く。学問は躓く。

ゼノンの背理はそれを如実に物語っている。その背理は、じつは人間の、自然にたいする背理ではないのか。その問題をベルクソンは生涯考えつづけた。でも、矢は的に当たらない。人間の言葉で考えるかぎり。

でも、矢は的に当たる。

それが詩だ。少なくとも、喩が矢であるかぎり。それは飛躍する。分割しない。

ポーが長編を書かなかったのは、彼が詩人だったからだろう。言葉の力を飛躍に求めたからだろう。

これを書きながら、さっきから必死で思い出そうとしていることがある。太宰治の短編に数学者ガウスの名前が出てくる作品がある。それがどの短編集に収められていたか、本棚をさがし、太宰の短編集のいくつかをぱらぱらめくってみたのだけれど、肝心のタイトルが思い出せない。(*2)

そのうち、思い出すだろう。

太宰治の短編は高校時代によく読んだ。「富岳百景」が好きである。「走れメロス」が好きである。「駆け込み訴え」が好きである。「御伽草子」が好きである。短編なら、どれもこれも好きである。

二、三十分で読めるもの。

ほら、ポーとのつながりが見えてきた。

これを「必然」と呼ぶか、たんなる好き嫌いと見るか、なかなか奥深い「哲学」的問題なのである。

 

〔追記〕

*1)なにしろ40年以上前に読んだ本の記憶なので、たぶん印象と思い込みだけが残ってしまったのだろう。ポーはもっと違う書き方をしている。

「最初に考えたのは長さのことだった。どんな文学作品でも、長すぎて一気に読みきれないなら、印象の統一ということから結果する極めて重要な効果を、無にすることを余儀なくされる。なぜなら、中休みを要するとなると俗事が介入してきて、およそ作品の総体というようなものは即座にぶち毀しになってしまうからである」(「構成の原理」篠田一士訳)

ポーはあくまでも詩について語っているのである。彼の考えからすると、ミルトンの『失楽園』のような長編詩は、その半分は本質的に散文だということになる。そして、こんなふうに結論づけている。

「かくして明らかなように、すべての文学作品には長さの点で明確な限度、一気に読みきれるという限度があり、また或る種の散文作品、例えば『ロビンソン・クルーソー』のような、統一を必要としない作品では、こうした限界を超えた方が有利かも知れないが、詩作品においては限界を越えることは断じて正しいことではない」(同上)

 

*2)すぐに思い出せないというのは、明らかに加齢(老化)のせいだ。数学者のガウスが登場するのは「愛と美について」という短編である(新潮文庫『新樹の言葉』所収)。あるところに五人のロマンス好きの兄弟姉妹がいて、「退屈したときには、みなで物語の連作をはじめるのが、この家のならわしである」。長男がまず「きょうは、ちょっと風変わりの主人公を出してみたいのだが」と切り出す。次女が、それなら「老人がいいな。」と応じる。「人間のうちで、一ばんロマンチックな種族は老人である」というのがその根拠である。すると末弟が「ぼくはそのおじいさんは、きっと大数学者じゃないか、と思うのです」とアイディアを出したのはいいのだが、「ことし一高の、理科甲類に入学したばかり」なので、物語の展開など考えもせずに、授業で習ったことを滔々と語り出す。

「数学の歴史も振りかえって見れば、いろいろ時代と共に変遷して来たことは確かです。(・・・・・・)十九世紀に移るあたりに、矢張りかかる段階があります。すなわち、この時も急激に変わった時代です。一人の代表者を選ぶならば、例えば Gausse. G、a、u、ssです」

こんなふうにスペルを強調するあたり、ガウスは太宰治のお気に入りの数学者だったのだろう。どこか微笑ましい。太宰治は戦後矢継ぎ早に発表した「人間失格」「斜陽」などの長編小説のせいで、破滅型の私小説作家の典型と思われているかもしれないが、このひとは本質的に天才的短編作家であると思っている。そして、軽妙を装う文体とは裏腹に、古典を読み抜く小説家としての直感と洞察力は、芥川龍之介などより深いというのが、わたしの個人的見解である。

*45 野火

目の前に塚本晋也監督の撮った「野火」のポスターがある。娘がフォトストリームで送ってきてくれたのである。アマゾン・プライムでダウンロードして観たとコメントにある。「わたしにはおもしろかったけど、凄惨なシーンが多い上に話が淡々と進んでいくので人によっては嫌な印象を受けるかも」と続けて書いている。

ポスターには「なぜ大地を血で汚すのか」というコピーが左下に小さな活字で記されている。中央上部には大きな明朝体で「野火」の文字が、その真下に逆光の空を背景にして、銃を肩に掛け両手をわずかに広げた兵士の黒いシルエットが映し出されている。

大岡昇平の原作である。話題になっている。でも、映画のことには触れない。観ていないし、たぶん観ないと思うから。映画から「嫌な印象」を受けることを心配しているのではない。大岡昇平という「大作家」にあまりいい印象を持っていないのである。
『野火』という小説は学生時代に読んだ。読んで「嫌な感じ」がした記憶が今も残っている。

 

私は射った。弾は女の胸にあたったらしい。空色の薄紗の着物に血斑が急に広がり、女は胸に右手をあて、奇妙な回転をして、前に倒れた。
 男が何か喚いた。片手を前に挙げて、のろのろと後ずさりするその姿勢の、ドストエフスキーの描いたリーザとの著しい類似が、さらに私を駆った。また射った。弾は出なかった。(十九・塩)

 

戦争という凄惨な現場でドストエフスキーを連想するのかよ。そう思ったのである。むろんこの『野火』という作品は事実を描いたものではない。

 

私がこれを書いているのは、東京郊外の精神病院の一室である。窓外の中庭の芝生には、軽患者が一団一団とかたまって、弱い秋の陽を浴びている。病者をめぐって、高い赤松が幹と梢を光らせ、これら隔離された者共を見下ろしている。(三十七・狂人日記)

 

つまり、戦争を経て精神病院に収監された狂人の書いている日記が『野火』という作品なのである。大岡昇平という作家は、みずからの戦争体験をも自分の文学的野心の肥やしにしたのか、と血気に逸る青二才のわたしは思ったのである。

ところで、戦争を題材にしたもうひとつの代表作に『俘虜記』と題された作品がある。というより、こちらが復員後最初に書いた作品だが、そこにも似たような場面がある。こちらの作品では、語り手の「私」は、射たない。最初から、射つまい、射つくらいなら射たれて死のうと、この兵士は思っている。そして、その前に無防備な若い米兵が現れる。すると意に反して「私」は思う。「こいつは射てる」と。

 

しかし、彼がむこうの兵士に答え、私がその薔薇色の頬を見たとき、私の中で動いたものがあった。
 それはまず彼の顔のもつ一種の美にたいする感嘆であった。それは白い皮膚と鮮やかな赤の対照、その他われわれの人種にはない要素から成りたつ、平凡ではあるが否定することのできない美の一つの型であって、真珠湾以来私のほとんど見る機会のなかったものであるだけ、その突然の出現には一種の新鮮さがあった。そしてそれは彼が私の正面に進むことを止めた弛緩の瞬間私の心に入り、敵前にある兵士の衝動を中断したようである。

 

こうして、この作品は、射つか射たないか、どうして射つのか、どうして射たないのか、えんえんと心理分析が続く。

違うだろう、と若いわたしは思った。戦争という現場にあって、いまだに上から目線を維持しているこの「知識人」はいったい何者か。

わたしは、戦争はおろか、六〇年安保闘争も、七〇年安保闘争も、全共闘運動も経験していない世代に属する。ただし、そういう政治青年、知識人候補生、そういった若者の末路、そして、傍観者としての上から目線の知識人の姿——ことあらばすぐに逃げ出す——なら、いやというほど見てきた。

ここで開高健がベトナム戦争で直面した、あの有名な場面の描写を読み比べてもらいたい。

 

ふたたびどこからか瞶{みつめ}られているのを感じる。いまはそれがあるだけとなった。生還できるだろうか。にぶい恐怖が喉をしめつける。だらだらと汗をにじみつづけるだけの永い午後と、蟻に貪られぱなしの永い夜から未明へと送ったり迎えたりしているうちに自身との密語に覆われてしまえば汚水にわたしは漬かる。徹底的に正真正銘のものに向けて私は体をたてたい。私は自身に形をあたえたい。私はたたかわない。殺さない。助けない。耕さない。運ばない。扇動しない。策略をたてない。誰の味方もしない。ただ見るだけだ。わなわなふるえ、目を輝かせ、犬のように死ぬ。見ることはその物になることだ。だとすれば私はすでに半ば死んでいるのではないか。(開高健『輝ける闇』)

 

そうだ、ここでは見ているのではない。瞶られているのだ。目は輝いてはいるが、盲いている。その物と同化し、犬のように死ぬ。

開高健はこの一作をもって、「文学」と刺し違えたのだと思う。そのあと、パリを舞台にエロスに溶けていく男女の姿を描く(『夏の闇』)。そして、満を持して「闇三部作」の最後を飾るはずの『花終わる闇』に取りかかるが、中断して未完のままになってしまう。これは小説を書きあぐむ作家の物語だが、ベトナム、パリ、東京と舞台を移して、なぜ挫折したのか。その疑問は、ここではそのままにしておこう。

ところで大岡昇平はもうひとつの「戦記物」を書いている。言うまでもなく『レイテ戦記』だ。これもまたジャンルとしては「小説」の枠に収められているが、この作品はジャンルの枠など易々と超えてしまう。

この大著を前にして、青二才のころに感じたわたしの「嫌な感じ」は消し飛んでしまう。献辞には、

 

死んだ兵士たちに

 

とある。

そして、わたしは『俘虜記』を読み返す。異様な作品であることに、今さらながら感じ入る。彼は俘虜になるまでの、心理の葛藤ではなく、生死の葛藤を書いている。彼は死のうとして死ねなかった。彼は生き延びた。虜囚の辱めを一身に背負いながら。日本という国家と同じように。

彼は芸術院会員への推薦を辞退する。かつて俘虜の身であったということを理由に。この辞退の真の理由を正しく見抜いたのは、批評家秋山駿ただひとりであった。

一兵卒の感情からすると、天皇の存在は有害であると断じた大岡昇平の言葉を、さっきから探しているのだが見当たらない。『レイテ戦記』も見当たらない。あるはずなのに。だから、図書館から借りてきて、この文を書いた。

*44 翻訳と文学をめぐる塾

〈私塾〉のようなものを立ち上げました。名前はまだありません。ずっと無名のままかもしれません。雲をつかむような塾です。

 

8月の19日に自宅で説明会を開き、翌週火曜の22日に第1回を開くことができました。毎週火曜の例会です。みなさん仕事がありますので、夜7時からの集まりです。今のところ5名の方に〈塾生〉としてご参加いだだき、この拙文を書いている段階(9月4日現在)ですでに2回の例会を数え、明日には3回目を迎えることになります。

 

雲をつかむような塾と言いましたが、有料でやっていますから(1回につき3000円)、もう少し詳しく説明する必要があるでしょう。この塾のコンセプトをあえて言葉にするなら、「翻訳と文学をめぐる塾」ということになるでしょうか。翻訳家・翻訳者を養成する塾なのか、と思われる方もおられるかもしれませんが、さにあらず、というか、そうなってくれればうれしいですが、翻訳家を養成することはそんなに簡単なことではありません。とりわけ北海道の地方都市である帯広でそれを試みるのはかなり困難を伴います。今回参加していただいた5人の〈塾生〉もそういうことを望んでいるわけではありません。

 

では、すでに2回を数えた塾の例会では、何をやっているのか?

塾の主宰者である私が出版社から依頼されて翻訳している作品を素材・材料として取り上げ、翻訳という作業がどういう工程を経て、一冊の本として世に送り出されるのかを、塾生の皆さんに身をもって体験していただくというものです。そんな塾の試みは、翻訳家を養成しようと試みること以上に無謀なのではないか? そのとおりです。発案・企画の私ですら、当初は危惧を覚えたほどです。

 

ところが、案ずるより産むが易しと言うべきか、最初の説明会のときにお集まりいただいた方々にそういうコンセプトを、あくまでも、たとえば、そういう内容の塾に関心はあるだろうかという形で提案してみたのです。すると、それはおもしろい! という反応が返ってきたではありませんか。それならば手をこまねいている理由はない。さっそく次の週から始めようということになったわけです。

 

ちなみに今回集まった5名の塾生のバックグラウンドはまったくまちまちです。いわゆる専業主婦と呼ばれる方もおられます(たぶん。詳しいことはお尋ねしませんので)。イタリア語や英語が専門という方もいます。精神科医の方もいます。共通するのはフランス語とフランス文学に興味があるということ。語学のレベルは問いません。文学や哲学、あるいは芸術、宗教など、文化一般に関心があるという方でもかまいません。重要なのは知的好奇心のようなものです。年齢も問いません。こういう多種多様な方々の関心をいつまで、どこまで惹きつけていられるか、講師役の私としてははなはだ心許ないところがありますが、今のところ手応えは十分です。

 

今のところは、目下翻訳中のローラン・ビネの第二作『コトバの七番目の機能』(La septième fonction du language)という作品を取り上げて、話を進めています。この作品は一九八〇年にパリ市内で交通事故で亡くなったロラン・バルトの死をめぐる小説です。あろうことか、著者はこれを交通事故ではなく、暗殺であるという仮説に立って一個の長編小説に仕立てあげたのです。この作品にはたくさんのテーマが含まれています。ロラン・バルトは文芸評論の世界に新たな地平を切り拓いた二十世紀を代表する知性とか呼ばれたりしますが、実際のところどういう作家、書き手だったのか。フランスの現代思想とはどういうものか。ひいてはフランス文学とはどんな文学であるか。フランス語とはどういう言語なのか。そして、文学とは何か・・・・・・。時と場合に応じて、積極的にどんどん脱線していく。出し惜しみはしない。というか、出し惜しみするほどのものは持っていないし、いつだって当たって砕けろの精神で生き延びてきたのだから、今回の場合もそれでやってみようじゃないか、それしかできないだろう。というわけです。

 

政治や経済の面でも、あるいは文化の面でも、先の見えない時代に突入した感があります。人間の築き上げてきた文明はどこに行こうとしているのかと問うこともできるかもしれません。でも、そんな大風呂敷を広げてみたところで解が見つかるわけがありません。小さな、具体的な手触りのある、人の顔が見える範囲で何かを立ち上げ、持続させること、そのなかでほのかな光が見え、手応えを感じられるならば、それを突き詰めてみること。この塾でやろうとしているのは、そういうことかもしれません。

 

参加をご希望の方、あるいは質問のある方は、下のコメント欄にその旨書きこんでください(メールアドレスを記入してください。これは公開されませんが、高橋には届くようになっていますから、コメントに対する返事だけでなく、メールでご返事することもできます)

*43 やまべ釣り

この前の日曜日、高校時代にバレーボール部で活躍していた伊藤博くんに誘われて、やまべ釣りに行ってきた。北海道では、山女魚{やまめ}のことを、やまべ、と呼ぶ。魚体の側面に楕円形の斑点が並ぶ小形の川魚。北海道では昔から、干して甘露煮にしたり、天ぷらや唐揚げにしたり、あるいは酢で締めて鮨にしたりと愛されてきた魚だが、最近は数が少なくなってなかなか捕れないと聞いていた。

だから、伊藤博くんから誘われたときも、まあ、ときには山の沢にでも分け入って気分転換するのもよかろうと思った程度なのである。あとで聞いたことだが、博くんも、二、三尾釣れれば上出来だろうと思っていたらしい。

ところがすべての予定、予想が覆った。

まずは釣り場。最初は、阿寒湖の北部にある阿幌岳を源流とする網走川がやまべの宝庫だというので、それならば日の出前から家を出るのだろうと思いこんでいた。

そのうち電話するからと博くんは言っていたのだが、なかなか連絡が来ないので、しびれを切らしてこちらから電話してみた。あのー、やまべ釣りの件、どうなったのかな?
「あー、こっちから電話しようと思ってたんだよ」

どうも最近、気が急いていけないな、とか思いつつ、
「あのさ、網走川の上流まで行くとしたら、朝早く出なければならないんでしょ。だとすると、こっちにも都合というか、心づもりみたいなものもあるわけで・・・・・・」と続けると、
「いやいや、そんな遠いところまでは行かないよ」と言う。
「じゃ、どこに行くの?」
「駒場。駒場、知ってるよね?」
「うん、でも、そんなところにやまべがいるの?」
「いや、穴場があるんだよ」
「駒場なんて、畑しかないだろ?」
「いやいや、小さな沢がたくさんあるんだよ」
「えー、そうなの?」

というわけで、その週の日曜日に駒場に行くことになった。車で三十分くらいのところである。

帯広市とその周辺の地理に冥い人のために、いちおう説明しておくと、帯広市の北側には十勝川が流れている。この川を渡ると音更町に出る。この音更町の広大な畑作・牧場地帯が駒場である。ちなみに音更は、おとふけ、と読む。「アイヌ語のオトプケ(毛髪が生ずる)から転訛したもので、音更川と然別{しかりべつ}川の支流がたくさん流れているところからついたと言われています」(音更町の公式ウェブページより)

この駒場という場所、じつは何度も通ったことがある。でも、いつも通り過ぎるだけ。だって、畑しかないんだから、車を停めてみても、ただ十勝平野の広さと空の広さをあらためて感じること以外の感興はわいてこない。というわけで、いつもはここは素通りして、大雪山国立公園に属する然別湖とか糠平湖まで車を飛ばすことになる。

日曜の朝八時、博くんがわが家まで迎えに来てくれた。なにしろ、釣り竿から胴長まで、釣りに必要なものはすべて用意してくるから、身ひとつで待っていてくれという。ありがたすぎる話である。

でも、本当にありがたいと思ったのは釣りが終わってからである。どうせ釣れるわけがないと思っていたから、ドライブの行き先として、駒場じゃつまらんなぁ、と内心思っていたのである。

車は十勝川を越え、畑の真ん中を貫通する自動車道路を走っていく。話の途中で、博くんは、ちょっと待ってね、といって車を停めた。ナビの画面を呼び出し、探索している。なんと、目的地のリストにたくさんの釣り場のポイントが登録されているのだ。
「釣り仲間がいろいろ情報をくれるんだよ」

なるほど、といっても、ナビ画面の地図には農道らしき直線道路と小川みたいに細い筋しか記されていない。
「これ、川なの? 用水路じゃないの?」

車窓からときどき目に入る細い流れは、両脇に鬱蒼と草木が生い茂っている。こんな場所に分け入ったとしても、釣り糸を垂らすことができるのだろうか? なんだか狐につままれたような気分で助手席に座っているのである。

やがて、博くん、たしか、この辺だったかな、とか言いながら、アスファルト舗装の農道から畑の脇の土手道へと降りていった。左は刈り取られたばかりの麦畑が広がっている。右手は夏の日差しをあびて勢いよく生い茂る草木。しばらく車を進めると、
「ほら、分け入った跡が見えるだろ」と言って、運転席側の茂みを指さす。そう言われれば、雑草が踏みつけられた跡があり、土手が急勾配で下っているのがわかる。でも、流れは見えない。車が停まる。
「とりあえず、この辺でやってみるか」と言って、博くんは土手の右脇に寄り、背伸びして沢を覗きこんでいる。「ほら、見えるよ」

その言葉に惹かれて、土手の下を覗いてみると、幅二、三メートルの瀬が流れていて、段差があるために流れが白く泡立っているところがある。草木に覆われていてよくわからなかったが、思ったより水量がある。それでも、こんな畑のど真ん中にやまべがいるとはにわかには信じられない。

博くんはすでに車のハッチバックを開け、中から釣り竿、胴長、魚籠などを取り出している。
「こっちの胴長をはいてくれる?」

差し出された胴長は見た目も大きいし、持ってみるとかなり重量がある。こんなの履いて、はたして自在に動けるのか?
「靴底にはフェルトが貼ってあって、滑りにくくなっているんだよ」と言う。

両脚を突っこんでみると、下半身が潜水服を着たように重い(と言っても、潜水服を着たことはない)。靴にも重量があるし、転んでも怪我をしないようにということなのか、脛から膝にかけて、アイスホッケーの防具みたいに補強されている(アイスホッケーの防具なら付けたことがある)。

なんだか、すごいことになってきた。
「傾斜がけっこうきついから気をつけてね」

傾斜は三十度くらいだろうか。こんなごつい胴長を着て、降っていけるか心許ない。だが、この胴長、重さ、ごつさの割りには関節部は曲がりやすくなっている。

土手の下まで降りると、二、三人の男が並んで立てるくらいの水平のスペースがあった。その二メートル上手で流れが爽やかな音を立てて白く濁っている。

博くんは釣り糸の先の針に餌をつけている(イタドリ虫と言ったか、ブドウ虫と言ったか、この次会ったら、確かめておこう)。細長く、いかにも繊細そうなカーボンファイバーの釣り竿は大工の棟梁にプレゼントされたものだという(博くんは内装屋なのである)。
「今は売ってなくて、プレミア付いているんだよ」と言って、こちらに差し出すが、そんなすごい道具、初心者が使っていいのか?
「まずは白く泡立っているいるところに投げ込んで、それからすっと下に流していって、それからゆっくり戻していくんだ」

言われるがままに、白く濁っているところに糸を垂らし、そのまま下流に糸を流していくと、
「ほら、来てる、来てる!」と言う。

きょとんとしていると、
「一、二、三で合わせるんだよ!」

そんなこと言われても、意味がわからない。で、とにかく竿の先がしなっているので、引き上げてみると、銀色にきらきら輝く小魚がぴくぴく身をしならせながら、こちらに近づいてくる。
「すごい、いきなりじゃない!」

と、博くん、驚いている。小さなやまべをキャッチすると器用に針を外し、魚籠のなかに入れている。こちらは何がなんだかわからない。釣り上げたのが自分のような気がしない。で、次からは餌の付け方をならって、さっきと同じようなやり方で糸を流してみる。すると、また、ク、ク、と引きがある。小さな赤いプラスチックの浮きが水面の下に沈み、竿の先がわずかにしなる。あわてて引き上げるが、針の先には何もいない。
「ちょっとタイミングが早かったね。とにかく、一、二、三、だから」とまた言うが、やっぱりピンと来ない。

餌は取られていないので、そのまま糸を上流のほうに戻し、同じ動作を繰り返す。すると、また来た。こんどはあわてないように、しっかり食いつくまで我慢する。竿を揺らしても、手応えが外れない感じなので、そのまま引き上げてみる。ぴくぴく跳ねるやまべを今度は自分でキャッチして、針を外そうと試みるが、針は喉の奥まで入りこんでいる。
「ああ、呑みこまれちゃったね。今度はタイミングが遅かったんだ。初心者によくあるんだよ」

博くん、外科医の道具みたいな細長いペンチを取り出して、喉の奥に差し入れている。全長が人差し指くらいの、まだ子供の(?)やまべだから、見るも無惨というか、かわいそうである。
「あ、これ、ダメだね。針を取り替えよう」

博くんは、そう言うと針と錘をつなぐ小さな環のところから、魚に呑まれた針を外し、やまべはそのまま流れに返した。
「引きのタイミングを合わせるのが、やまべ釣りの醍醐味なんだよ」

なんだか悔しい。何回やってもうまくいかないのではないかという気になってくる。気を取り直し、新しい針にブドウ虫を付け、上手の白濁した部分に糸を放りこみ、そのまま流し、また上手に引き上げていく。

また来た。ツン、ツン。小さな魚影が見える。接近しては引き返し、また近づいてくる。白いブドウ虫の餌が一瞬消える。
「ほら、そのタイミング!」

竿を斜め上に引き上げる。まだ勢いよくは引けない、おそるおそる。でも、かかっている。細かい水しぶきを周囲に散らしながら、小さくしなやかな魚体を陽光にさらし、こちらに向かってくる。左手の中に収まったやまべはなおももがく。そのぬめり、艶、つぶらな目とあまりにも小さな口。
「うまい、うまい!」

針はちょうど口先の硬い骨のところにかかっている。
「名人の技だよ」と博くんが冷やかす。「ふつう、こんなにうまくはいかないんだよ」と言うが、当人はあいかわらず何がなんだかわからない、狐につままれたような感じなのである。

もう、あとは無我夢中だった。やまべは次から次へとかかった。まるで奇蹟のように。一、二、三の意味もわかってきた。やまべは慎重だから、いきなりは食いついてこない。最初は様子見のツン、次は確認のツン、で、最後に大きく口を開けて食らいついてくる。そのとき竿をひょいとしならせる。

気がつくと、一時間で二十尾くらい釣り上げていた。

もう一箇所、ポイントがあるんだというので、車で移動した。さっきよりも川幅が広く、竿も振りやすいが、なかなかかかってきてくれない。
「ここのやまべはすれてるね」という。

なるほど、そういうこともあるのか。それでも、一時間で三尾くらいは釣れた。二十尾つれたさっきの釣り場よりも、釣りをしている感じがあった。やまべとの駆け引きみたいなものがあるのだろう。これはやめられないな、と思った。

時計を見ると昼近くになっている。そろそろ引き上げようということになった。気温が上がり、水温が上がると、魚たちの動きも鈍くなるという。朝の八時に家を出て、ポイントをさがし当てたのが九時近く。移動の時間を除くと、二時間くらいは糸を垂らしていた計算になる。魚籠のなかはやまべがうようよしている。
「三十尾くらいはいるんじゃないの」

博くんはあきれたような口調で言うし、こちらのほうは唖然としている。
帰りの車中はむしろ口数が少なかった。疲れたでしょ、と労ってくれるが、疲れたというよりも、茫然としているのである。

釣りはたしかにおもしろい。しかし、ただおもしろいだけではすまされないものがある。

この感じはいったいなんだろうと思って、ずっと考えこんでいるのである。
「猫じゃらしの感じと似てるような気がするんだけどね」と、とりあえず口にしてみると、「あ、うまい」と博くんが応じる。

気の利いたことを言おうとしたのではない。猫の前で、たとえば猫じゃらしを振ってみる。細長い棒でもいいし、紐でもいい。猫は前足を繰り出して、その先を自分のほうに引き寄せようとする。ただひたすら棒の先だけを見て、その動きに反応している。その向こうには人間の手があって、その手を動かしている人間がいる。それも目に入っているはずなのだが、身体は棒の先だけに反応している。

竿と糸という、自分の手の延長ともいえる道具を使って、巧みに魚を招き寄せ、釣り上げる。さっきまで透明な流れのなかに見ていた魚影が脳裡に浮かび上がる。小さな黒い魚影が見えない糸の端の針先に引っかけられた虫めがけて寄ってきては離れ、沈み、また浮かび上がってくる。

そんなことばかり考えている。いや、考えようとして考えているわけではなく、ぼんやりと思念がさまよっているというべきか。

帰りの車中でも、昼過ぎに立ち寄ったそば屋のなかでも、そして、こうしてその日のことを思い出しながら、考えをまとめ、言葉を釣り上げようとしている、この今も、やはり茫漠とした感じがさまよい続けているのである。

帯広に帰って初めて釣りに誘ってくれた伊藤博くんへの感謝の思いを記しておこうと書きはじめたはずなのに、出口が見えなくなってしまった。この続きは次回の釣りの後になるのだろうか。

*42 二つの聖書

判型がまったく同じで、発行所もまったく同じ聖書が二冊、本棚に並んでいる。判型は文庫本に相当し、発行所は銀座四丁目の日本聖書教会、一九五五年に改訳され長く親しまれてきた「口語訳」の聖書である。

違いは二つある。一方は表紙が赤、もう一方は黒、赤いほうの発行年は一九六八年、黒いほうは一九七四年。赤いほうは妻のもの、黒いほうは私のものである。

妻はキリスト教系の女子大学に入った。信者の家に育ったわけではないから、おそらく聖書講読の授業のために購入したのだろう。ページを開いてみると、所々に傍線やらカギ括弧などの書き込みがある。

妻はこのいわゆるミッション系のお嬢さん学校を嫌っていた。そもそも東京の大学に行きたかったのである。兄がすでに東京の大学に通っていて、東京での生活にあこがれていたのである。しかし、両親に反対された。娘がひとり東京で暮らしていけるものか。仕送りできる余裕など家にはないと言われた。慕っている兄にも反対された。大学に行くならちゃんとしたところに行け、と。それが地元のお嬢さん大学だった。

四年間、違和感を噛みしめながら、ひたすら我慢した。卒業したら東京に出て自活すると心に決めていた。就職を決める最後の年、一念発起して、学長にかけあった。東京の出版社に就職したいので、どこでもいいから紹介状を書いてもらえませんか。

そして運良く、彼女は当時目黒にあった出版社で働くことになった。

そして私は六年遅れて、その出版社に入った。

 

私が聖書を買い求めた理由は、大学に入ってしばらくして、聖書の読書会に誘われたからである。

今思えば、個人的には五月病のようなものだったのかもしれないが、大学に入って半年も経たないうちに、大学の授業にも、憧れの自炊生活にも意欲を失い、学校に行ってもいつもキャンパスのベンチにごろりと横になっていた。

そこに声をかけてきた男がいた。大阪の男だった。聖書の読書会をやろうと思っているんだが、参加しないか、という。あとで聞いた話だが、いつも白けているんだかふて腐れているんだか、ベンチで寝ている姿を見て、おもしろいやつだと思ったらしい。

大阪の男はひょろりと背が高く、持病のせいで軽い跛行があった。

読書会は掛け値なしにおもしろかった。興奮し、夢中になった。われわれはマタイ福音書を読み、フォイエルバッハを読み、ルターを読み、内村鑑三を読み、太宰治を読んだ。

キリスト教には縁もゆかりもなく、福音書のなんたるかも知らない田舎者の青年は、まさに乾いた砂が水を吸い込むように無我夢中でそこに刻まれている活字を呑みこんでいった。

大阪の男はキリスト教系の高校を出ていた。愚直でロマン主義の塊のような男だった。中原中也を愛唱し(そう、酒が入ると諳んじて、文字どおり謳うのだ)、革命の夢を追い、思想家たらんとしていた。

この読書会は、テキストを読んできて、その感想を言い合うというようなものではなかった。一字一句、声に出して音読していくのである。これも大阪の男の発案だった。

われわれは大学の周辺をうろついた。喫茶店をはしごし、貸部屋のようなところで半日を過ごし、日が暮れれば飲み屋に繰り出して議論した。

ひょろりと背が高い座長とその賛同者たち。今思えば、イエスとその使徒たちのようであったかもしれない。

福音書の、いったい何に、どこに惹かれたというのか。私個人に限って言えば、それまで読んだどんな小説よりも劇的で、しかもリアリティがあると感じられた。そんな感受性が、自分のどこにあったのかと訝るほど、読んで感動した。むしろ、動揺し、惑乱したというべきかもしれない。

これが聖なる書? 福音って何だ? ここに書かれていることは、おどろおどろしい悪魔払いと荒唐無稽な癒しの場面、原始的な医療の現場、それに仲間内の不信と裏切りと、何か得体の知れないものに対する主人公の苛立ち、焦慮、そういったものの連続ではないか?

そう、繰り返すが私はここに苛烈な人間ドラマを読んだのである。信仰に近づいたことは一度もないし、洗礼を受けてキリスト教徒になろうとしたこともない。

私はいつも文化果つる土地からやってきた野蛮人でありたいと願っていた。そういう思いと福音書のテクストは波長が合った。

そして、福音書と同じく、やがてわれわれの読書会にも別れの季節がやってくる。誰しも永遠に学生のままでいるわけにはいかない。社会との接点を見つけ、その一員にならなければ生きてはいけない。

ある者は予備校の、高校の教師となり、ある者は大学院に残った。私は出版社に勤めることになった。

 

私は妻とキリスト教の話も聖書の話もしたことがない。彼女は単位を取るために聖書を読んだのだろうし、私のほうも妻とそんな話をする必要はなかった。

しかし、十数年前に先立たれ、彼女が遺していった本を自分の書棚に入れ、判型の同じ赤と黒の聖書が並んでいるのを見ていると、本同士が会話を交わしているような気がしてくる。それは最近のことである。それだけ妻の死が遠くなったということなのかもしれない。

私に聖書の世界を開いてくれた大阪の男は三十代半ばで他界し、妻も五十代半ばで旅立っていった。自分だけ生き延びているという感覚よりも、取り残されたという感覚のほうが強い。人は死んでも書物は残る。書物が失われても記憶は残る。人が死んでも記憶は残る。私が聖書を読みつづけるかぎり、死者の記憶も失われることがないだろう。

*41 Tous les matins du monde

Tous les matins du monde: Annexe (édition de luxe)

Postface du traducteur

(Traduction par Déborah Pierret Watanabe)

 

Tous les matins du monde (Gallimard, 1991) de Pascal Quignard, fait l’objet d’une nouvelle publication chez Kajikasha, maison d’édition limitée au Kyushu et dont le siège se situe à Kumamoto. Je vais d’abord vous expliquer comment nous avons pu en arriver là.

La première traduction de cette œuvre est parue chez Hayakawa Publishing en 1992 sous le titre Meguriau asa. Comme le projet avait été de s’associer au film réalisé par Alain Corneau, le titre du livre avait été choisi en fonction de celui du film sorti au Japon.

Vingt-cinq années se sont écoulées depuis. Je me permets ici d’exprimer mon émotion, car jamais je n’aurais osé imaginer, pas même en rêve, qu’une œuvre de ce genre puisse à nouveau être publiée.

Il était fondamentalement impossible que le roman, destiné à être le scénario d’un film, puisse paraître une nouvelle fois, alors même que le film ne faisait pas l’objet de nouvelles projections.

Ce qui permit de rendre cet impossible possible fut la détermination de Yô Kaji, représentant de Kajikasha. Tout comme elle avait d’ailleurs permis la nouvelle publication du Voyage d’Hector ou la recherche du bonheur de François Lelord, fin 2015.

En mars 2016, après la sortie du Voyage d’Hector, Yô Kaji m’a invité à venir lui rendre visite dans le Kyushu. Je suis allé à Kumamoto, Hakata, ou encore Hita pour participer à des rencontres littéraires dans le cadre de la promotion du livre. Malheureusement, le 14 du mois suivant, la terre de Kumamoto a été ébranlée par un violent séisme. C’était plus fort que moi, il fallait que j’y retourne.

J’ignore à quel moment, mais, au cours d’une de nos discussions, Yô Kaji et moi-même avons eu l’idée de proposer Tous les matins du monde en tant que nouveau projet de publication chez Kajikasha.

À mes yeux, ce roman représentait le souvenir du début de ma relation avec l’auteur. Mais il était également ma pierre d’achoppement. Même la postface que j’avais rédigée pour la première publication ne me plaisait pas.

Je crois bien m’être laissé emporter et avoir fini par m’éloigner du chemin du devoir du traducteur, cet homme de l’ombre. Je n’ai pu, pendant de longues années, réussir à relire cette traduction.

Néanmoins, l’impression de Yô Kaji était tout autre. Il m’a confié que c’était justement grâce à cette traduction et à ma postface qu’il avait pu être entrainé dans le monde littéraire de Quignard.

J’étais stupéfait. Il m’a dit vouloir conserver le texte que j’avais écrit il y a vingt-cinq années de cela alors que je n’étais encore qu’un quadragénaire. L’idée que ce texte puisse à nouveau être révélé au grand jour, moi qui l’avais enfermé au grenier sans jamais oser y reposer les yeux dessus, me paraissait effrayante.

Les textes que j’ai écrits et qui ont été publiés ne m’appartiennent plus, ai-je cependant songé. Si l’un d’entre eux continue de vivre dans le cœur de quelqu’un, alors je n’ai pas d’autres choix que de me résigner.

J’ai donc à nouveau traduit cette œuvre et décidé de conserver la postface de la première publication. En revanche, j’ai coupé et abandonné les parties qui avaient vieilli et n’avaient désormais plus de sens pour ne laisser que celles indispensables à la lecture de ce livre. J’ai également profité de cette nouvelle édition pour insérer d’autres citations ainsi que de nouvelles anecdotes.

 

*

 

« J’ai lu l’histoire de monsieur de Sainte Colombe tout en ayant l’image de mon grand-père à l’esprit », avais-je impudemment écrit lors de la première postface. Il y avait une raison à cela. Je n’avais aucune envie de limiter les lecteurs de ce livre qui a pour cadre le lointain XVIIe siècle aux étudiants de Lettres et à leur entourage. Je voulais en faire un livre également ouvert à toutes les personnes sans lien particulier avec l’histoire ou la littérature qui étaient venues voir le film. Mais en réalité, ce n’était pas seulement cela.

Avec la ferme intention de lui faire rencontrer au Japon le succès que cette œuvre avait connu ailleurs, je me suis envolé pour Paris au début de l’été 1992. Je suis allé rendre visite à l’auteur — qui était alors encore en poste chez Gallimard — en emportant avec moi une petite photo encadrée de mon défunt grand-père. Je ne me rappelle plus vraiment comment nous en sommes arrivés à avoir cette discussion, mais toujours est-il que j’ai fini par lui montrer la photo.

— Mon grand-père est mort sans rien laisser derrière lui, lui ai-je dit.

Ce à quoi il a répondu :

— C’est faux. Ne t’a-t-il pas laissé, toi ?

Nos mots, tout comme lors du dernier échange entre Marin Marais et Sainte Colombe, n’avaient fait que se croiser. Cependant, à ce moment, il y eut comme une sorte de communion entre nous (du moins, c’est ce que je crois.)

Mon grand-père est décédé au cours de la dernière année de mes études universitaires. Il avait 84 ans. Allongé sur son lit de mort, il a trempé ses lèvres dans un petit bol d’alcool puis il a quitté notre monde. Je n’ai pas assisté à sa mort, mais je me suis rendu à ses funérailles. J’ai toujours pensé que ça avait été une mort parfaite. J’ai écrit ceci dans la première postface : « Il élevait chevaux, porcs, moutons, poulets, et tout comme monsieur de Sainte Colombe, il vivait dans une petite cabane dans la cour dans laquelle il avait installé son lit, et ce, même s’il avait sa chambre dans la maison. Lorsque j’étais enfant, j’aimais dormir avec lui dans ce lit de fortune. Je me souviens, même encore maintenant, du vert délavé des rigides draps de chanvre et de la fenêtre aux vitres givrées ».

Les funérailles de mon grand-père se sont achevées, une nouvelle année est arrivée, et je suis rentré à Tokyo. Le moment d’être diplômé était venu, mais je m’interrogeais toujours sur la façon d’établir un point de contact avec la société. J’étais incapable de me projeter dans l’avenir. De plus, je n’avais ni le désir ni la volonté de rester à l’université. Un jour de janvier, alors que la nuit était déjà bien avancée, un ami est venu me rendre visite, avec, comme à son habitude, une bouteille de whisky bon marché à la main. Lui non plus n’arrivait pas à se projeter dans l’avenir. Mais sa visite n’avait pas été motivée par le besoin de parler du futur. Plutôt pour débattre de littérature. Dostoïevski, Kierkegaard, Pascal… Oui, la flamme de l’existentialisme n’était pas encore tout à fait éteinte. Parmi les hommes de lettres japonais, mon ami avait une préférence pour Hideo Kobayashi et Shun Akiyama.

Je me suis endormi le premier. Quand j’ai ouvert les yeux, au point du jour, il avait disparu. Un ou deux mois plus tard, j’ai reçu un faire-part de décès. Son corps sans vie avait été retrouvé sur les quais de Shinagawa. Il s’était noyé.

C’était un garçon originaire de Fukushima. Je fus le seul de notre promotion à me rendre à ses obsèques. Son père, maître du cortège funéraire, fit une déclaration : « On pourrait penser qu’un fils qui part avant ses parents est ingrat, mais je ne suis pas de cet avis. » À cet instant, un sentiment mystérieux et féroce, à la fois colère, à la fois tristesse, envahit tout mon être. Je le réprimai de toutes mes forces. Le lendemain, son père a eu la gentillesse de me faire visiter Fukushima en voiture. J’ai alors pensé que je devais trouver un travail, peu importe où.

Ces deux morts auxquelles j’ai été confronté avant même d’être entré dans le monde ont par la suite régné sur ma vie. Ce que j’avais voulu transmettre à P. Quignard ne concernait peut-être pas mon grand-père. Peut-être que cela concernait mon défunt ami.

 

*

 

Ce roman regorge des regrets envers les petites choses qui ne sont que des détails ou des anecdotes si on les regarde du point de vue du courant de la grande Histoire. Le choix du musicien Sainte Colombe en tant que personnage principal est déjà révélateur. Ce nom n’évoque absolument rien aux non-connaisseurs de musique baroque. Même ses dates de naissance et de décès demeurent floues, on sait simplement qu’il est mort vers 1700. Ou encore cet instrument de musique, la viole de gambe, qui a connu son heure de gloire sous le règne de Louis XIV pour ensuite tomber dans l’oubli. L’abbaye de Port-Royal dans la vallée de Chevreuse, siège des jansénistes également appelés les Solitaires, rasée par la poudre sur ordre de Louis XIV ; les petites écoles rue Saint-Dominique d’enfer à Paris ; les gaufrettes de Baugin, peintre que l’on peut qualifier d’anonyme comparé à Poussin ou à Champaigne de la même époque… Tous les personnages de ce roman sont des Solitaires. Les solitaires éternels de l’Histoire. Mais face au courant de la grande Histoire, je ne peux s’empêcher de penser que tout le monde l’est plus ou moins.

Le problème est la houle de cette grande Histoire, la houle qui a englouti tous les solitaires. Depuis le Moyen Âge jusqu’à la Renaissance, de la naissance du baroque à sa fin. Cette houle coule en arrière-plan du roman. Il ne fait aucun doute que le baroque, tout en étant illuminé par la splendeur de la Renaissance, regorgeait des souvenirs sombres et envoûtants du Moyen Âge. Au chapitre IX de La Sorcière, intitulé « Satan triomphe au XVIIe siècle », Michelet écrit ceci :

 

Plus sa surface, ses couches supérieures, furent civilisées, éclairées, inondées de lumière, plus hermétiquement se ferma au-dessous la vaste région du monde ecclésiastique, du couvent, des femmes crédules, maladives et prêtes à tout croire.

 

Les propos de Michelet décrivent bien les deux tendances contradictoires inhérentes au baroque : celle qui aspire à un espace plus grand et plus ouvert, et celle qui prétend à un espace plus fermé et intime. D’un côté, nous avons l’Opéra qui s’est développé en Italie, la majestueuse Passion selon Saint-Mathieu de Jean-Sébastien Bach, la splendide musique de cour de Lully, et de l’autre des pièces instrumentales diverses et variées qui cherchent à imiter les inflexions de la voix humaine ou encore la tiédeur de la peau. De même, nous avons l’architecture baroque de Rome qui use et abuse de la perspective à un point tel que l’espace ou encore les peintures sur plafond sont pareilles à des dinosaures colossaux, mais aussi les natures mortes d’Espagne ou les scènes d’intérieur du Hollandais Vermeer, la lueur froide des chandelles de Georges de La Tour. Tous partagent comme point commun une atmosphère de densité de la matière.

De même, la politique d’expansion des cartes du royaume, à mettre en parallèle avec la politique d’évangélisation des jésuites à un niveau mondial ou encore la vulgarisation de la religion contrastaient voire même s’opposaient au rigorisme et à l’élitisme des jansénistes. Si je devais m’exprimer à la manière de Michelet, je serais tenté de dire qu’il y avait là une sorte d’ambivalence, un conflit entre l’ivresse et l’angoisse envers l’appel de Satan au nom de la rationalité.

Il vaudrait tout de même mieux se pencher plus sérieusement sur la période du XVIIe siècle en France. Louis XIV accéda au trône en 1643, mais son règne ne débuta qu’en 1661, date à laquelle le cours de l’Histoire a basculé. Dans son Histoire de la Civilisation française, écrite avec la collaboration de Georges Duby, Robert Mandrou estime que la période entre 1600 et 1660 est celle où la France moderne s’est « faite » et la désigne sous le terme « adolescence » :

 

Cette adolescence est terriblement conquérante, au milieu des drames sociaux et religieux qu’elle a vécus et qui sont sa crise de croissance. À tous égards, c’est le XVIIe siècle le plus riche, le plus vivant.

 

Le roman débute en 1650 à la mort de l’épouse de monsieur de Sainte Colombe. En d’autres termes, l’histoire commence à la fin annoncée de l’adolescence de la France. De plus, il ne fait aucun doute que l’auteur fait un parallèle entre la mort de la femme du musicien et la fin proche du baroque.

Pourquoi monsieur de sainte Colombe refusait-il d’aller à Versailles avec tant d’entêtement ?

Dans l’imagination de l’auteur, le musicien était le condisciple de Claude Lancelot, corédacteur de la révolutionnaire Grammaire générale et raisonnée avec A. Arnauld, leader de Port-Royal. Cependant, si on lit attentivement l’œuvre, il n’est à aucun moment décrit comme un janséniste fanatique. Il est simplement suggéré que ses relations se limitent aux lieux éloignés du pouvoir, comme le poète Vauquelin des Yveteaux (1567-1649) qui avait perdu les faveurs du roi louis XIII à cause de sa nature libertine ou encore Baugin (1612-1663), simple artiste appartenant à la corporation des peintres parisiens. Madeleine, quant à elle, connut une période de fanatisme causée par son chagrin d’amour, mais refusa d’entrer au couvent. Père et fille sont isolés. Ils se referment volontairement sur eux-mêmes. Peu importe l’époque, lorsque le courant de l’Histoire vire brutalement, il y a ceux qui opposent une violente résistance au point d’en être imprudents et ceux qui s’obstinent à se renfermer sur eux-mêmes. Cette époque, cette obstination, ce rigorisme m’évoquent nécessairement Blaise Pascal.

En novembre 1654, à l’âge de 31 ans, Blaise Pascal éprouva une expérience mystique à cause de laquelle il abandonna tous les travaux scientifiques qu’il avait réalisés jusqu’alors pour entrer à Port-Royal. Cette nuit de novembre, il coucha sur un parchemin un texte intitulé Mémorial dans lequel il parle d’une « une renonciation totale et douce ». Blaise Pascal prit ensuite faits et causes pour Arnauld — auteur de De la fréquente communion, au cœur d’un débat lancés par les Jésuites et la Sorbonne —, devint une figure de la défense des jansénistes, et commença à rédiger les Provinciales, une série de lettres de protestations. Ses attaques vont finir par se diriger vers Descartes et son travail, qu’il qualifiera même d’« inutile et incertain ».

Qu’a t-il bien pu arriver à Pascal ? Ce n’est pas le lieu approprié pour en débattre et je n’en ai pas les compétences. Mais il me semble important d’ajouter que les jésuites et la Sorbonne n’ont cessé d’intensifier leurs attaques envers l’école cartésienne après le décès de Descartes en 1650, lui qui disait répugner à déranger l’opinion publique. C’était une époque où, au nom de la France et de la monarchie des Bourbons, tout était unifié et destiné à être intégré. Ce fut la même chose pour le courant des Beaux-Arts en Europe, de David à Delacroix, de Haydn et Mozart à Beethoven, du Classicisme au Romantisme. Les grandes vagues ont englouti les petites. Les grandioses peintures historiques et symphonies sont pareilles aux armées puissantes des états modernes. Elles mobilisent toutes les sensibilités et les écrasent. Du point de vue de la formation de cet état moderne, à la fois nationaliste et industrialiste, les époques qui ont suivies, de Louis XIV à Robespierre jusqu’à Napoléon, sont des plus cohérentes, et la Révolution française n’a finalement été qu’un feu d’artifice parmi les grandes émeutes. Les innombrables petits matins qui gardaient encore le goût envoûtant du Moyen Âge, les matins que les libertins et les cosmopolites ont admirés lors de leurs voyages, ont été anéantis par la sirène du puissant état. Ce n’est sûrement pas qu’une vieille légende limitée à l’Europe.

La période baroque comportait en son sein des contradictions à jamais inconciliables.

Près de trois siècles s’étaient écoulées depuis Descartes et Pascal, quand Paul Valéry railla ce dernier à propos d’un extrait de ses Pensées : « le silence éternel de ces espaces infinis m’effraie », écrivant qu’il lui faisait songer à « cet aboi insupportable qu’adressent les chiens à la lune ». Face à l’infinité de l’univers, ressent-on l’ivresse ? Ou au contraire, se sent-on effrayé, prend-on conscience de notre qualité de pécheur ? Tout cela me paraît être, même encore maintenant, une opposition fondamentale entre la sensibilité et ce que doit être la pensée.

On peut également citer Matisse à titre d’exemple. Il détestait le baroque, a déclaré que « Vélasquez n’était pas son peintre » et aimait parler de l’affection qu’il portait à Goya. Matisse qui préférait peindre le coin d’une pièce. Cet espace qui ne s’étend nulle part. Juste l’apaisement des couleurs authentiques. Question mystère, les peintures de Baugin ne sont pas en reste non plus. La composition de ses tableaux suggère le caractère éphémère des plaisirs d’ici-bas. Mais pourquoi avoir choisi de peindre des coins de table ? Et monsieur de Sainte Colombe, à la recherche des inflexions délicates de la voix humaine, tentant de faire venir des airs mélancoliques, des airs de regrets sous ses doigts…

Il y a là un chemin extrêmement étroit par lequel passe la beauté pour atteindre le monde des prières. Pascal Quignard a fait dire au peintre Baugin : « Personnellement je cherche la route qui mène jusqu’aux feux mystérieux. » Ces mots sont aussi ceux de l’auteur amateur de Georges de la Tour.

(Extrait du posteface du traducteur dans la première publication de la version japonaise.)

 

*

 

Pascal Quignard, écrivain français ne cesse de réfléchir à l’essence de la musique, a écrit dans la Haine de la musique (Calmann-Levy, 1996) :

 

Les dieux ne se voient pas, mais s’entendent : dans le tonnerre, dans le torrent, dans la nuée, dans la mer. Ils sont comme des voix. L’arc est doué d’une forme de parole, dans la distance, l’invisibilité et l’air. La voix est d’abord celle de la corde qui vibre avant que l’instrument soit divisé et instrumenté en musique, en chasse, en guerre.

 

Dans Tous les matins du monde, Pascal Quignard a réécrit l’histoire de Semimaru du Konjaku monogatari, pour la situer en France, au Moyen Âge. Et pour moi, Japonaise, ce fut une expérience très intéressante. Je suis allée voir le film en compagnie de Bernard Frank, traducteur français des Histoires qui sont maintenant du passé, tirées du Konjaku monogatari. C’est à ce moment que Bernard me fit remarquer d’un air heureux que les deux histoires étaient similaires. Une fois rentrés, je me suis empressée de vérifier ses dires, et effectivement, l’histoire du film était similaire à celle de Semimaru.

«La magie des sons » extrait du dernier recueil d’essais de Yuko Tsushima.

 

*

 

Bach a échoué. Il a été oublié pendant un long moment. La musique n’a pas avancé dans sa direction. Si, à l’heure actuelle, tout le monde cherche à trouver de nouvelles significations à sa musique, c’est parce que la musique est sur le point de changer. La musique est abstraite, et en allant trop loin dans une direction, il arrive qu’elle finisse par être coupée de l’ensemble. La musique européenne s’est développée à l’extrême, le moment de changer de direction est venu. Le style s’adapte à l’époque, mais ce qui est encore vivant se trouve sous le style. C’est la qualité, c’est l’attitude.

«Bach a échoué » extrait du recueil d’essais de Yuji Takahashi, musicien.

 

*

 

Un quart de siècle s’est écoulé. Cela peut paraître bien long, mais c’est comme si c’était hier. Pascal Quignard qui a écrit dans ses Petits traités I : « J’écris : 1. J’ai envie de me taire » a parlé un peu de lui à diverses occasions. En voici quelques extraits.

 

 — Où avez-vous fait vos études universitaires ?

 — J’ai fait mes études universitaires à l’université de Nanterre. J’ai commencé la rédaction, sous la direction d’Emmanuel Levinas, d’une thèse qu’il avait lui-même intitulée « Le statut du langage dans la pensée de Henri Bergson. »

— Avez-vous achevé ce travail avec Emmanuel Levinas ?

— Je n’y ai même pas pensé.

— L’avez-vous commencé ?

— Même pas. Le lien que j’avais avec Emmanuel Levinas était plus profond que ce travail. Les mois de mars, avril, mai, juin 1968 ont balayé d’un coup ce désir d’enseignement. Je m’étais résolu à reprendre l’orgue familial d’Ancenis, où une de mes grand-tantes venait de mourir.

Pascal Quignard le solitaire, Rencontre avec Chantal Lapeyre-Desmaison, Éd. Flohic, 2001

 

Mai 68 lui a infligé une profonde blessure. Après son départ pour Paris, il a fini par brûler plus de mille de ses sculptures composées de divers matériaux : tissus, bois, canevas, papier kraft, verre, et sur lesquelles il avait écrit. Et ce n’est pas tout : il a non seulement brûlé les petits morceaux pour trio ou les sonates qu’il avait composés devant l’orgue ou le piano à Ancenis, mais aussi les carnets de notes qui contenaient les petites histoires ou encore les confessions qu’il avait écrites dans cette maison.

Puis il s’est à nouveau tourné vers l’orgue de l’église d’Ancenis. Il était à l’orgue tous les matins et consacrait ses après-midis à écrire un essai sur l’amour d’après une œuvre de Maurice Scève. Une fois son manuscrit achevé, il l’a envoyé à Gallimard sans l’adresser à personne en particulier. Son essai a attiré l’œil de Louis-René des Forêts, membre du comité de lecture de cette maison d’édition. Louis-René des Forêts fit revenir Quignard à Paris et lui proposa un poste de lecteur, lui qui n’était encore qu’un jeune homme d’une vingtaine d’années. Il le présenta aux membres de la revue Ephémère qu’il dirigeait. De nombreux écrivains et poètes y apportaient leur contribution : Michel Leiris, Paul Celan, André Du Bouchet, Yves Bonnefoy, Henri Michaux ou encore Pierre Klossowski. Est-ce que cela signifie que ses premiers pas d’écrivain se firent sous le signe de la bénédiction ? J’aimerais que vous lisiez cet extrait pour continuer.

 

Le mouvement de mai fut balayé en quelques heures. Le général de Gaulle, après avoir pris conseil auprès du général Massu, fit élire l’Assemblée la plus réactionnaire depuis le maréchal Pétain. Marcellin était à la Police. Messmer à la Guerre. Les bombes atomiques françaises explosaient à Mururoa.

Nos dieux se mirent brusquement à mourir.

Celan se suicida : ce fut Sarah qui me l’apprit postée dans l’encadrement de la porte de l’appartement d’André du Bouchet.

Rothko se suicida : ce fut Raquel qui me l’apprit dans l’atelier de Malakoff.

(…)

Dans la forêt aventureuse je ne trouvai pas de fontaine, de clairière, de cerf blanc, de charrette, de lance, de reine : mais une dépression, une dépression, une dépression, une dépression.

Écrits de l’éphémère, Galilée, 2005.

 

Selon Quignard, ce fut la fin de la France d’après-guerre. On retrouve ici le regard qui veille sur le XVIIe siècle, tout comme celui qui observe l’Empire de Rome.

Et vingt-quatre ans plus tard, en 1994, il démissionna sans crier gare de son poste de lecteur qu’il avait longtemps occupé chez Gallimard. Il rompit également les liens avec sa famille. Un peu comme si, à la fin du compte, il avait fini par tout brûler.

 

L’idée de ne rien laisser après soi m’habite vraiment — même si c’est directement contradictoire avec le fait de publier des livres. Partir aussi nu qu’à l’instant de l’arrivée, c’est un rêve. (…) Manuscrits, lettres, photographies, livres, partitions, dessins, articles, tout s’y enflamme du jour au lendemain tout à trac. C’est si beau quand c’est vous qui brûlez. Remy dit à Clovis : Incende quod adorasti. Cet ordre est si étrange. L’évêque dit au premier roi de France : Brûle ce que tu aimes.

Pascal Quignard le solitaire, Rencontre avec Chantal Lapeyre-Desmaison, Éd. Flohic, 2001

 

 

En octobre de l’année dernière, je lui ai rendu visite dans son appartement rue Manin, à Paris. Lorsque j’ai pénétré dans son bureau-bibliothèque, mon regard a été attiré par les partitions posées sur le pupitre du clavier. Messiaen, Beethoven, Oiseaux furent les quelques mots que je pus saisir.

— C’est quoi, ça ? lui ai-je alors demandé.

— Je mixe deux musiques ensemble.

— Messiaen et Beethoven ?

— Oui.

Dans les affaires laissées par mon défunt ami de Fukushima, il y avait un carton rempli de disques. Et parmi eux, un album de Messiaen. Le Quatuor pour la Fin du temps. Je l’avais emporté avec moi. Quarante ans après, je n’avais toujours pas posé l’aiguille du tourne-disque dessus.

Au moment de nous séparer, je lui ai dit :

—J’ai perdu de nombreux amis. C’est pour cette raison que je me dois de survivre.

— C’est la même chose pour moi, m’a-t-il répondu.

Un tableau peint par son ami était suspendu dans le hall d’entrée.

 

Voici la liste des livres de Pascal Quignard traduits en japonais :

Tous les matins du monde, Gallimard, 1991

La leçon de musique, Hachette, 1987

Le salon du Wurtemberg, Gallimard, 1986

Les escaliers de Chambord, Gallimard, 1989

Albucius, POL, 1990

L’occupation Américaine, Éditions du Seuil, 1994

La Haine de la musique, Calmann-Levy, 1996 ; Folio, 1997

Le Nom sur le bout de la langue, POL, 1993

La Frontière, Chandeigne, 1992 ; Folio-Gallimard, 1994

Les Tablettes de buis d’Apronenia Avitia, Gallimard, 1984

Terrasse à Rome, Gallimard, 2000

Les Ombres errantes, Grasset, 2002

Villa Amalia, Gallimard, 2006

Vie secrète, Gallimard, 1997 ; Folio-Gallimard, 1999

Sur le jadis, Grasset, 2002

Les Solidarités mystérieuses, Gallimard, 2011

 

J’aimerais, pour conclure, exprimer ma profonde gratitude envers Yô Kaji des éditions Kajikasha, grâce à qui ce livre a pu voir le jour. Je tiens également à dédier la traduction de cette œuvre à toutes les personnes victimes de ce grand tremblement de terre, et à tous les habitants de Kumamoto qui ont miraculeusement su se relever.

 

Kei Takahashi, janvier 2017

Traduction : Déborah Pierret Watanabe

*40 世界のすべての朝は

『世界のすべての朝は』本文・表紙(特装版)

(訳者あとがき)

 

このほど、熊本を本拠地とする「九州限定」の出版社「伽鹿舎」から、パスカル・キニャールの『世界のすべての朝は』(Tous les matin du monde, Gallimard, 1991)が復刊されることになった。まずはここに至った経緯から説明させていただくことにする。

初版は一九九二年、早川書房から『めぐり逢う朝』という邦題のもとに出版された。アラン・コルノーの映画とタイアップした企画だったので、小説の邦題も映画に合わせたのである。

それから二十五年が経過した。個人的な感慨を述べさせていただくなら、この種の作品が再版されることなど、夢にも思わなかった。映画の原作として書かれた小説が、映画の劇場再演という機会が訪れたわけでもないのに復刊されることなど、基本的にはありえないからである。

こんな不可能事が可能になった理由は、伽鹿舎から一昨年(二〇一五年)暮れに復刊された『幸福はどこにある』(フランソワ・ルロール著、拙訳)の場合と同様、この出版社の代表である加地葉さんの決断があったからと言うほかない。

『幸福はどこにある』が刊行され、翌年の三月末に加地さんの招きで九州を訪れ、本のプロモーションの一環として、熊本、博多、日田でトークショーを行った。だがあろうことか、その翌月の十二日にあの大地震が熊本の地を襲った。私は居ても立ってもいられず、また熊本の地を訪れた。

この間のいつの時点だったか、伽鹿舎から出す次の本の企画として、加地さんと私のあいだでパスカル・キニャールのこの作品が候補に挙がった。

この小説はパスカル・キニャールとの交流が始まった記念すべき作品であると同時に、私の躓きの石でもあった。初版の訳もあとがきも気に入らなかった。あまりにのぼせ上がりすぎているし、黒子であるべき訳者の本分を踏み外している。私は長い間、この翻訳を読み直すことができないでいた。

しかし、加地葉さんの感想は違った。この翻訳とあとがきがあったからこそ、自分はキニャールの文学世界に引き込まれたのだ、と。

私は唖然とした。もう二十五年も前に、そう、自分がまだ四十代だったころに書いた文章を、加地さんはなんらかの形で残したいという。自分が倉のなかにしまい込んで、見ようともしなかったものが白日の下にさらされるのは恐ろしいことである。

私は思った。自分が書いて発表してしまった文章は、もう自分のものではない。それが他人の心のなかで生きつづけているのだとしたら、もう観念するしかない。

というわけで、訳を新たにしたうえで、初版のあとがきも再録することにした。あれから二十五年、古びて無意味になった部分は削ぎ落とし、本書を読むうえで必要な部分だけを残し、あるいは復刊の機会に引用しておきたい文章や新たなエピソードなども追加しておこうと思う。

 

 

「私は自分の祖父のことを想い浮かべながら、このサント・コロンブ物語を読んでいた」と、私は初版のあとがきに臆面もなく書いた。それには理由があった。フランスの十七世紀という古い時代を背景とするこの作品を大学の文学部とその周辺に閉じ込めておきたくなかったし、文学や歴史とは関係なしに映画を観にくる人たちにも開かれた本にしたかったからだ。しかし、実際はただそれだけのことではなかった。

この本を日本でも成功させたいという強い思いを抱いて、九二年の初夏にパリに飛び、まだガリマール社の専属顧問のような職についていたキニャールのもとを訪れたとき、私は小さな額に入れた祖父の写真を持っていったのである。もう会話の細かい前後関係は忘れた。私は彼に写真を見せ、こう言った。

「自分の祖父は何も残さずに死んでいった」

すると彼はこう答えた。

「いや、おまえを残したではないか」

まるでサント・コロンブとマラン・マレが最後に交わす禅問答のようで、言葉がすれ違っている。しかし、このときわれわれのあいだで何かが通い合ったのである(少なくとも私はそう信じている)。

私の祖父は、私の学生時代の最後の年に死んだ。享年八十四歳。死の床で小さな盃一杯の酒で唇を濡らしてこの世を去った。私は死に目には会えなかったが、葬式には出た。完璧な死だと思った。私は初版のあとがきにこう書いた。「馬、豚、羊、鶏を飼い、サント・コロンブと同じように裏庭に小屋を建て、母屋に自分の寝室があるにもかかわらず、そこにベッドをしつらえ、そこに寝起きしていた。子供のころ、私は祖父といっしょにその粗末なベッドに寝るのが好きだった。その色あせたグリーンのごわごわとした麻のシーツと凍りついたガラス窓を私は今でもよく憶えている」。

祖父の葬儀が終わり、年が明け、私は東京に戻った。大学を卒業する時期にきていたが、どこに社会との接点を見出せばいいのか、まったく先が見えなくなっていた。大学に残る意欲も気力もなかった。一月のある日、夜も更けてから、ひとりの友がやってきた。いつものように安ウィスキーのボトルを一本ぶらさげて。彼も先行きが見えなくなっていた。しかし、将来の話をしに来たのではなかった。あいかわらずの文学談義。ドストエフスキー、キルケゴール、パスカル・・・・・・。そう、実存主義の火はかろうじてまだ消えていなかった。日本の文学者で言えば小林秀雄と秋山駿、それが彼のお気に入りだった。

私は先に寝てしまった。明け方、目が覚めると、彼の姿はなかった。一ヵ月か二ヵ月が経ったころ、訃報が届いた。品川埠頭で水死体が発見された。

福島の男だった。同級で葬儀に出席したのは私だけだった。喪主のお父さんが挨拶した。「親に先立つ不孝と言いますが、私はそうは思いません」。そのとき私の内部で怒りのような、悲しみのような、得体の知れない獰猛な感情が全身にみなぎった。私はその感情を渾身の力を込めて抑えこんだ。翌日、お父さんは車に私を乗せ、福島の名所を案内してくれた。どこでもいいから就職しようと思った。

世の中に出る直前に遭遇したこの二つの死が、その後の私の人生を支配することになった。私はパスカル・キニャールに祖父のことではなく、この友のことを伝えたかったのかもしれない。

 

 

この小説は、大きな歴史の流れから見ればまさにディテイルやエピソードにすぎないものにたいする哀惜で満ちあふれている。すでにサント・コロンブという音楽家を主人公にすることがそうなのだ。よほどのパロック通でないかぎり、この音楽家の名前は初耳だろう。生没年ですら、一七〇〇年前後に死んだことくらいしか明らかになっていない。あるいは、一時期は隆盛をきわめ、だがまるでルイ十四世の親政と軌を一にするように廃れていったヴィオール(ヴィオラ・ダ・ガンバ)という楽器。隠士{ソリテール}と呼ばれるジャンセニストたちが本拠地にし、やはりルイ十四世によってつぶされたシュブルーズのポール・ロワイヤル修道院、パリのサン=ドミニク=ダンフェール通りにあった彼らの私塾{プティット・エコール}、同時代のプッサンやシャンパーニュに比ぺればほとんど匿名の画家と言ってもいいボージャンのゴーフレット・・・・・・。この小説に登場する人物はみな隠士だ。歴史の永遠の隠士たちだ。そして、大きな歴史の流れを前にしたとき、多かれ少なかれ誰もが隠士なのだという思いを禁じることができない。

だが、問題はその隠士たちをのみこんでいった大きな歴史のうねりだ。中世からルネッサンス、そしてバロックの到来とその終焉。この作品の背後に流れているのはそのうねりだ。おそらくバロックはルネッサンスの光輝に照らされながらも、中世の艶やかな闇の記憶をその内部に湛えていたのだろう。ミシュレは『魔女』のなかの「サタンは十七世紀に勝関をあげる」と題された章でこう言っている。

「この世紀の表面、すなわちその最上層が文明化し、啓蒙され、知識という光明にあふれればあふれるほど、その下では、聖職者の世界や尼僧院や、信じやすく、病気がちで、何でもすぐ信じてしまう女たちの世界の宏大な領域がますます固く閉ざされたのである」(篠田浩一郎訳)

このミシュレの言菓は、一口にバロックといってもその内部にほとんど相反する傾向、すなわち大きな空間を志向する傾向と閉ざされた親密な空間を志向する傾向をはらんでいるこの様式にそのまま当てはまるように思える。たとえばイタリアで発展したオペラはもちろんのこと、J.S・バッハのあの荘厳な「マタイ受難曲」やリュリの華麗な宮廷音楽が一方にあり、他方にはまるで人の声や肌のぬくもりを再現しているかのような大小さまざまの器楽曲もある。また、ローマのバロック建築のように、遠近法の濫用とも思をる、ただやみくもに巨大化した恐竜のような空問と天井画があるかと思えば、スペインの静物画{ボデゴン}やフェルメールに代表されるオランダの室内画、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールのあの冷たい蝋燭の光、そのすべてに共通する稠密なマチェールの肌あいもある。

そのコントラストは、王国の地図を拡大しようとする国家の動きと歩調を合わせたカトリック=イエズス会の世界的布教活動と宗教の大衆化、そしてこれに結果として弓を引くことになったジャンセニストの純粋主義、ひいては選良主義{エリテイスム}との対立にもつながるだろう。ミシュレふうに言えば、そこにあるのは理性という名のサタンの呼び声にたいする洸惚と不安のせめぎあいだったのかもしれない。

だが、このフランスの十七世紀という時代はもう少し厳密に考えたほうがよさそうである。ルイ十四世が王位につくのが一六四三年、その親政が始まるのが六一年。このあたりから時代は急回転していく。ロベール・マンドルーは『フランス文化史』のなかで、近代フランスが〈つくられた〉一六〇〇〜六〇年代を「青春時代」と呼び、「この時代は、それが体験したさまざまの社会的・宗教的ドラマ(これは成長途上の危機であった)のなかで、おそろしく自信にあふれていた。あらゆる点で、この時期こそ、もっとも豊かな、もっとも生きいきとした十七世紀なのである」(前川貞次郎・鳴岩宗三訳)と述べている。この小説は一六五〇年にサント・コロンブ夫人が亡くなるところから始まっている。つまり、物語はこのフランスの青春時代が終わりを告げようとしているところから始まっているのだ。そしてまた著者は音楽家の妻の死と迫りくるバロックの終焉をも重ね合わせたかったにちがいない。

なにゆえサント・コロンブはヴェルサイユをあれほどまで頑なに拒否したのか。作家の想像力によれば、彼はポール・ロワイヤルの指導者A・アルノーとともにあの画期的な『文法』を著したクロート・ランスロと学友だったことになっている。だが、作品をていねいに読めばわかるように、彼は狂信的なジャンセニストとしては描かれていない。ただ、リベルタン気質のゆえにルイ十三世の寵愛を失う詩人のヴォークラン・デ・イヴトー(一五六七〜一六四九)や画家組合に属する市井の一画家にすぎないボージャン(生没年未詳)なと、彼の交友範囲は権力から遠い場所に限られていることが暗示されているだけだ。マドレーヌにしても、失恋によって一種狂信的にはなるが、修道院の禁域に入ることは拒否する。この親子はどこからも孤立している。あえて自らを閉ざしていく。いつの時代ても、歴史の流れか急速に変化してゆくとき、無謀なまで過激にその流れに抵抗を示すか、あるいは頑なに自閉していく人々があるのだろうが、この時代に即して言うならば、このような頑なさ、純粋さへの傾斜は、やはりあのプレーズ・パスカルを防彿とさせずにはおかない。

一六五四年十一月、三十一歳のパスカルはある啓示を受け、これによって彼はそれまでの科学的業績のすべてを捨て、ポール・ロワイヤルの門下に入っていったとされている。その夜、彼は〈覚え書{メモリアル}〉と呼ばれているメモに「心地よい全面的な抛棄」(松波信三郎訳)と書き記す。そして、アルノーが書いた『頻繁なる聖体拝受』をめぐるイエズス会およびソルボンヌとの論戦を引き継ぐかたちでジャンセニスム擁渡の先頭に立ち、『田舎の友への手紙{プロヴァンシアル}』と呼ばれる一連の書簡体の抗議書を書き始めることになる。さらにその矛先はあのデカルトにさえ向けられ、「無用にして不確実」とさえ記す。

パスカルに何が起こったのか。ここはそれを論ずる場所ではないし、私にはその能力もない。ただ、イエズス会とソルボンヌは、あれほど世間に波風を立てるのを避けようとしたデカルトにたいしてさえ、彼が死ぬと(一六五〇)、にわかにその学派への攻撃を強めていったことはつけ加えておく必要があるだろう。ようするに、フランスとブルボン王朝の名のもとにすべてが一元化され、統合されてゆく時代だったのだ。ヨーロッパ芸術の流れもその後は周知のとおり、ダヴィットからドラクロワヘ、ハイドン、モーツァルトからベートーヴェンヘ、古典主義からロマン主義への大きな潮流があらゆる小さな芸術を呑みこんでいった。壮大な歴史画やシンフォニーは近代国家の強力な軍隊と同じだ。すべての感受性を根こそぎ動員し、圧倒してしまう。この近代国家、民族主義的・産業主義的国家の成立という観点に立てば、ルイ十四世からロベスピエール、ナポレオンヘと続く時代は一貫した流れであって、フランス革命はその大騒乱のなかの打ち上げ花火にすぎなかった。まだ中世の穏やかなたたずまいを残す無数の小さな朝や、リベルタンやコスモポリタンが旅の空にみた朝は巨大国家のサイレンにかき消されていった。それはけっしてヨーロッパだけに限られた遠い昔話ではないだろう。

しかし、歴史の大きな流れとは別に、バロックの時代は永遠に和解できないある対立をはらんでいたように思える。

たとえばデカルトとパスカルの時代から三世紀もたって、「この無限の宇宙の永遠の沈黙が私をおののかせる」という『パンセ』の断章にたいして、「犬のように吠える」と、パスカルを椰楡したポール・ヴァレリー。宇宙を無限と感じたとき、それに洸惚を感ずるか。それとも慄きを感じ、自らを罪深いと感じるか。それは今でも感受性と思想のありかたをめぐる大きな根本的な対立であるように思える。

あるいはマチスをとりあげてみてもいい。バロックを嫌い、あのベラスケスさえも「私の画家ではない」と言い、むしろゴヤ(!)への親愛を語ったマチス。好んで部屋の隅を描いたマチス。その空間はどこにも広がらない。ただ、確実な色彩の安堵があるだけだ。ポージャンの絵も不思議だ。この世の快楽のはかなさを暗示したこの絵の構図は、それにしてもなぜ机の片隅なのか。そして、ヴィオールという楽器にたおやかな肉声だけを求め、ただ哀惜の情を密かせようとしたサント・コロンブ・・・・・・。

そこには美が祈りの世界に通じてゆく、細くきわどい道があるように思える。パスカル・キニャールは画家ボージャンにこう語らせる。
「私としては、あの神秘の炎にまでたどりつく道を探しているのだがね」。これはジョルジュ・ド・ラ・トゥールを愛する著者自らの言葉でもあるだろう。

(作品と時代背景−−初版あとがきより)

 

音楽の本質を考えつづけているフランスの小説家パスカル・キニャール氏はこのように述べている。

 

神は目に見えないが、耳には聞こえる。雷鳴に、早瀬に、群雲に、海に姿を変えて。それは声のようだ。弓は距離と不可視と大気のなかで、ある言葉の形をまとう。声とはまず、道具が音楽のために、狩猟のために、戦争のために分割され、編成される以前の震える弦の声なのだ。

(『音楽への憎しみ』高橋啓訳、青土社)

 

この作家が、日本の『今昔物語』の@蝉丸{せみまる}の話(巻二十四ー二十三「@源博雅朝臣行会坂盲許語{みなもとのひろまさあそんあうさかのめしひのもとにゆくこと}」をフランスの中世に舞台を移し替え、『めぐり逢う朝』という小説を書いていることも、日本人である私にとっては興味深い。これは映画化されていて、この映画の方を私はまず見たのだったが、そのときたまたま同行していたのが、『今昔物語』をフランス語に翻訳したベルナール・フランク氏で、これはあの蝉丸の話ですね、と彼がうれしそうに私に告げたのだった。早速、フランク氏邸に戻ってから調べてみると、なるほど、この映画は蝉丸の話とそっくり同じ内容なのだった。

(「音の魔力」−−津島佑子氏の最後のエッセイ集『夢の歌から』所収)

 

 

バッハは失敗した。かれはしばらくわすれられていた。音楽はかれの方向にすすまなかった。いまみんながかれの音楽にあたらしい意味を見つけようとしているのは、音楽が変わりつつあるからなのだ。音楽は抽象的だから、ある方向にゆきすぎて、全体からきりはなされてしまうこともある。ヨーロッパの音楽は極度に発展し、いまや方向を変えるときがきた、スタイルは時代に対応するが、まだ生きているものはスタイルの下にある。これが質であり、態度である。
(「失敗者としてのバッハ」−−音楽家・高橋悠治氏の初期のエッセイ集『音楽の教え』所収)

 

 

そして、四半世紀の歳月が流れた。そう書けば長いが、たった一日しか経っていないようにも思える。この間、「私が書くのは黙っていたいから」(『小論集』第一巻、第五考「黙っていたい」)と書いたパスカル・キニャールも様々な箇所でみずからを語るようになった。その一部をここに引用しておこう。

 

−−大学の勉強はどこでなさったのですか?

−−ナンテール大学(パリ第十大学)です。エマニュエル・レヴィナスの指導のもとに論文を書くことになっていました。論文のテーマは「アンリ・ベルクソンの思想における言語機能の様態」、このテーマも彼が考えたものでした。

−−それでエマニュエル・レヴィナスの指導のもとにそれを書き上げたのですか?

−−まさか。

−−でも書きはじめたのでしょう?

−−いいえ。エマニュエル・レヴィナスと私のあいだにあった絆は論文執筆などよりずっと深いものでした。一九六八年の三月、四月、五月〔ナンテールでの大学紛争を機に広がった広範な政治運動。「五月危機」あるいは「五月革命」とも呼ばれる〕が教職に進む気持ちを完全に吹き飛ばしてしまったのです。私は、アンスニ〔ロワール河のほとりの小さな村〕の教会の専属オルガニストになろうと決意しました。ちょうど大伯母が死んだばかりで空席になっていたので。

(『隠士パスカル・キニャール』Pascal Quignard le solitaire, éd. Flohic, 2001)

 

この「五月革命」がパスカル・キニャールに与えた傷は深刻なものだった。パリに出てから、布、木版、キャンバス、クラフト紙、ガラス、ありとあらゆる素材にかきつけた千枚を超える造形作品をすべて燃やしてしまっただけでなく、アンスニの家のオルガンやピアノを前にして作曲したソナタや三重奏の小品、あるいはその家で書いた短い物語や自伝的告白を書き綴った手帳もまた燃やしてしまうのである。

そして、アンスニの教会にこもってオルガンの演奏に没頭する。午前中はオルガン、午後からはモーリス・セーヴ〔ルネッサンス期のリヨン派の詩人。「デリー」という難解な詩で知られている〕について、まるで遺書のように書きはじめる。書き上げた原稿を、特定の宛名もなしにガリマール社に郵便で送りつけた。この論考に着目したのが、当時ガリマール社で原稿審査委員をつとめていたルイ=ルネ・デ・フォレだった。そして、キニャールを再びパリに呼び寄せ、まだ二十歳を超えたばかりの青年を自分と同じ原稿審査委員の職に就かせ、自分が主宰していた「蜻蛉{エフェメール}」という名の同人誌のメンバーに紹介する。同人には、ミシェル・レリス、パウル・ツェラン、アンドレ・デュ・ブーシュ、イヴ・ボヌフォワ、アンリ・ミショー、ピエール・クロソウスキーなど、錚々たる詩人、作家が集っていた。彼は作家として恵まれた第一歩を踏み出したということか? 続けて次のような文章を読んでもらいたい。

 

五月の運動は数時間で蹴散らされた。ド・ゴール将軍は、マシュ将軍の助言を得て〔総選挙で勝利し〕、ペタン元帥以来もっとも反動的な国民議会が成立する。警察のトップにはマルセラン〔内務大臣〕、軍のトップにはメスメールが就いた。ムルロワの海で続けざまに原子爆弾の実験がおこなわれた。

われわれの神々は突如として死にはじめた。
ツェランが自殺した。それを私に教えてくれたのはサラだった。アンドレ・デュ・ブーシュのアパルトマンの戸口に立っていた。

ロスコが自殺した。それを私に教えてくれたのはラケルだった。場所はマラコフのアトリエだった。[… …]

冒険の森のなかには、泉も、空き地も、白い鹿も、馬車も、槍も、王妃の姿もなかった。あったのはただ、消沈{デプレッシオン}、消沈、消沈、消沈。
(『エフェメールの作品集』しおり。Ecrits de l’éphémère, “Prière d’insérer”, éd. Galilée, 2005)

 

フランスの「戦後」がここで終わったと言っているのである。フランスの十七世紀を見つめる視線がここにもある。帝政ローマを見る視線も同じである。

そして二十四年後の一九九四年、彼は長らく勤めたガリマール社を突然辞めてしまう。家族とも別れてしまう。まるですべてを燃やしてしまうかのように。彼はこんなふうに語っている。

 

自分のあとには何も残さないという考えに私は取り憑かれているのです−−たしかに書物を公刊するということとは明らかに矛盾するのですが。やってきたときと同じように裸で去っていくことが夢なのです。〔中略〕原稿、手紙、写真、本、楽譜、素描、記事のすべてがたちまち炎につつまれる。あなたが何かを燃やすとき、それはじつに美しい。司教のレミはクローヴィスに向かってこう言った。Incede quod adorasti. じつに奇妙な命令です。司教はフランスの最初の王に向かって、こう言ったのです。おまえの愛するものを燃やせ、と。

(『隠士パスカル・キニャール』)

去年の十月、パリのマナン通りにあるパスカル・キニャールのアパルトマンを訪れたときのこと。書斎に入ると、キーボードの譜面台に置いてある楽譜が目に入った。Messiaen, Beethoven, Oiseaux(鳥)の文字が見えた。「何ですかこれは?」と思わず訊いた。「二つの主題をミックスしてるんだ」「メシアンとベートーベンをですか?」「うん」

福島の友の遺品のなかに段ボール一箱分のレコードがあった。そのなかにメシアンのアルバムがあった。「この世の終わりのための四重奏曲」。私はそれを持ち帰った。爾来四十年、その上に針を落としたことはない。

別れ際に、パスカル・キニャールに言った。「僕はたくさんの友を失った。だから、自分だけは生き延びようと思っている」と。「おれも同じだよ」と彼は答えた。玄関ホールには彼の友が描いた絵が掛かっていた。

以下に日本で翻訳されたキニャール作品(絶版も含む。翻訳者名のないものは拙訳)を列挙しておく。

 

・めぐり逢う朝(早川書房、一九九二年)

・音楽のレッスン(吉田加南子訳、河出書房新社、一九九三年)

・ヴュルテンベルクのサロン(早川書房、一九九三年)

・シャンボールの階段(早川書房、一九九四年)

・アルブキウス(青土社、一九九五年)

・アメリカの贈り物(早川書房、一九九六年)

・音楽への憎しみ(青土社、一九九七年)

・舌の先まで出かかった名前(青土社、一九九八年)

・辺境の館(青土社、一九九九年)

・アプロネニア・アウィティアの柘植の板(青土社、二〇〇〇年)

・ローマのテラス(青土社、二〇〇一年)

・さまよえる影(青土社、二〇〇三年)

・アマリアの別荘(青土社、二〇一〇年)

・いにしえの光(小川美登里訳、水声社、二〇一六年)

・約束のない絆(博多かおる訳、水声社、二〇一六年)

・さまよえる影たち(小川美登里、桑田光平訳、二〇一七年)

・『小論集』(仮題 Petits traités 、インスクリプトから刊行予定)

 

最後にあらためて、本書の制作過程で万端お世話になった伽鹿舎の加地葉さんに感謝申し上げると同時に、この作品の翻訳にかけた思いをあの激震の犠牲になった人々、そしてそこから奇跡的に立ち直ろうとしている熊本のみなさんに捧げたい。

 

二〇一七年一月
訳者

*39 ニコラ・ブーヴィエの詩

熊本の伽鹿舎から出ている文芸誌「片隅」の4号がもうじき刊行される。今回もエッセイを書かせてもらったので、このブログに一足お先に最終校のPDFを掲載させていただく。

 

ニコラ・ブーヴィエの詩(最終)(←ここをクリック)