*44 翻訳と文学をめぐる塾

〈私塾〉のようなものを立ち上げました。名前はまだありません。ずっと無名のままかもしれません。雲をつかむような塾です。

 

8月の19日に自宅で説明会を開き、翌週火曜の22日に第1回を開くことができました。毎週火曜の例会です。みなさん仕事がありますので、夜7時からの集まりです。今のところ5名の方に〈塾生〉としてご参加いだだき、この拙文を書いている段階(9月4日現在)ですでに2回の例会を数え、明日には3回目を迎えることになります。

 

雲をつかむような塾と言いましたが、有料でやっていますから(1回につき3000円)、もう少し詳しく説明する必要があるでしょう。この塾のコンセプトをあえて言葉にするなら、「翻訳と文学をめぐる塾」ということになるでしょうか。翻訳家・翻訳者を養成する塾なのか、と思われる方もおられるかもしれませんが、さにあらず、というか、そうなってくれればうれしいですが、翻訳家を養成することはそんなに簡単なことではありません。とりわけ北海道の地方都市である帯広でそれを試みるのはかなり困難を伴います。今回参加していただいた5人の〈塾生〉もそういうことを望んでいるわけではありません。

 

では、すでに2回を数えた塾の例会では、何をやっているのか?

塾の主宰者である私が出版社から依頼されて翻訳している作品を素材・材料として取り上げ、翻訳という作業がどういう工程を経て、一冊の本として世に送り出されるのかを、塾生の皆さんに身をもって体験していただくというものです。そんな塾の試みは、翻訳家を養成しようと試みること以上に無謀なのではないか? そのとおりです。発案・企画の私ですら、当初は危惧を覚えたほどです。

 

ところが、案ずるより産むが易しと言うべきか、最初の説明会のときにお集まりいただいた方々にそういうコンセプトを、あくまでも、たとえば、そういう内容の塾に関心はあるだろうかという形で提案してみたのです。すると、それはおもしろい! という反応が返ってきたではありませんか。それならば手をこまねいている理由はない。さっそく次の週から始めようということになったわけです。

 

ちなみに今回集まった5名の塾生のバックグラウンドはまったくまちまちです。いわゆる専業主婦と呼ばれる方もおられます(たぶん。詳しいことはお尋ねしませんので)。イタリア語や英語が専門という方もいます。精神科医の方もいます。共通するのはフランス語とフランス文学に興味があるということ。語学のレベルは問いません。文学や哲学、あるいは芸術、宗教など、文化一般に関心があるという方でもかまいません。重要なのは知的好奇心のようなものです。年齢も問いません。こういう多種多様な方々の関心をいつまで、どこまで惹きつけていられるか、講師役の私としてははなはだ心許ないところがありますが、今のところ手応えは十分です。

 

今のところは、目下翻訳中のローラン・ビネの第二作『コトバの七番目の機能』(La septième fonction du language)という作品を取り上げて、話を進めています。この作品は一九八〇年にパリ市内で交通事故で亡くなったロラン・バルトの死をめぐる小説です。あろうことか、著者はこれを交通事故ではなく、暗殺であるという仮説に立って一個の長編小説に仕立てあげたのです。この作品にはたくさんのテーマが含まれています。ロラン・バルトは文芸評論の世界に新たな地平を切り拓いた二十世紀を代表する知性とか呼ばれたりしますが、実際のところどういう作家、書き手だったのか。フランスの現代思想とはどういうものか。ひいてはフランス文学とはどんな文学であるか。フランス語とはどういう言語なのか。そして、文学とは何か・・・・・・。時と場合に応じて、積極的にどんどん脱線していく。出し惜しみはしない。というか、出し惜しみするほどのものは持っていないし、いつだって当たって砕けろの精神で生き延びてきたのだから、今回の場合もそれでやってみようじゃないか、それしかできないだろう。というわけです。

 

政治や経済の面でも、あるいは文化の面でも、先の見えない時代に突入した感があります。人間の築き上げてきた文明はどこに行こうとしているのかと問うこともできるかもしれません。でも、そんな大風呂敷を広げてみたところで解が見つかるわけがありません。小さな、具体的な手触りのある、人の顔が見える範囲で何かを立ち上げ、持続させること、そのなかでほのかな光が見え、手応えを感じられるならば、それを突き詰めてみること。この塾でやろうとしているのは、そういうことかもしれません。

 

参加をご希望の方、あるいは質問のある方は、下のコメント欄にその旨書きこんでください(メールアドレスを記入してください。これは公開されませんが、高橋には届くようになっていますから、コメントに対する返事だけでなく、メールでご返事することもできます)

*43 やまべ釣り

この前の日曜日、高校時代にバレーボール部で活躍していた伊藤博くんに誘われて、やまべ釣りに行ってきた。北海道では、山女魚{やまめ}のことを、やまべ、と呼ぶ。魚体の側面に楕円形の斑点が並ぶ小形の川魚。北海道では昔から、干して甘露煮にしたり、天ぷらや唐揚げにしたり、あるいは酢で締めて鮨にしたりと愛されてきた魚だが、最近は数が少なくなってなかなか捕れないと聞いていた。

だから、伊藤博くんから誘われたときも、まあ、ときには山の沢にでも分け入って気分転換するのもよかろうと思った程度なのである。あとで聞いたことだが、博くんも、二、三尾釣れれば上出来だろうと思っていたらしい。

ところがすべての予定、予想が覆った。

まずは釣り場。最初は、阿寒湖の北部にある阿幌岳を源流とする網走川がやまべの宝庫だというので、それならば日の出前から家を出るのだろうと思いこんでいた。

そのうち電話するからと博くんは言っていたのだが、なかなか連絡が来ないので、しびれを切らしてこちらから電話してみた。あのー、やまべ釣りの件、どうなったのかな?
「あー、こっちから電話しようと思ってたんだよ」

どうも最近、気が急いていけないな、とか思いつつ、
「あのさ、網走川の上流まで行くとしたら、朝早く出なければならないんでしょ。だとすると、こっちにも都合というか、心づもりみたいなものもあるわけで・・・・・・」と続けると、
「いやいや、そんな遠いところまでは行かないよ」と言う。
「じゃ、どこに行くの?」
「駒場。駒場、知ってるよね?」
「うん、でも、そんなところにやまべがいるの?」
「いや、穴場があるんだよ」
「駒場なんて、畑しかないだろ?」
「いやいや、小さな沢がたくさんあるんだよ」
「えー、そうなの?」

というわけで、その週の日曜日に駒場に行くことになった。車で三十分くらいのところである。

帯広市とその周辺の地理に冥い人のために、いちおう説明しておくと、帯広市の北側には十勝川が流れている。この川を渡ると音更町に出る。この音更町の広大な畑作・牧場地帯が駒場である。ちなみに音更は、おとふけ、と読む。「アイヌ語のオトプケ(毛髪が生ずる)から転訛したもので、音更川と然別{しかりべつ}川の支流がたくさん流れているところからついたと言われています」(音更町の公式ウェブページより)

この駒場という場所、じつは何度も通ったことがある。でも、いつも通り過ぎるだけ。だって、畑しかないんだから、車を停めてみても、ただ十勝平野の広さと空の広さをあらためて感じること以外の感興はわいてこない。というわけで、いつもはここは素通りして、大雪山国立公園に属する然別湖とか糠平湖まで車を飛ばすことになる。

日曜の朝八時、博くんがわが家まで迎えに来てくれた。なにしろ、釣り竿から胴長まで、釣りに必要なものはすべて用意してくるから、身ひとつで待っていてくれという。ありがたすぎる話である。

でも、本当にありがたいと思ったのは釣りが終わってからである。どうせ釣れるわけがないと思っていたから、ドライブの行き先として、駒場じゃつまらんなぁ、と内心思っていたのである。

車は十勝川を越え、畑の真ん中を貫通する自動車道路を走っていく。話の途中で、博くんは、ちょっと待ってね、といって車を停めた。ナビの画面を呼び出し、探索している。なんと、目的地のリストにたくさんの釣り場のポイントが登録されているのだ。
「釣り仲間がいろいろ情報をくれるんだよ」

なるほど、といっても、ナビ画面の地図には農道らしき直線道路と小川みたいに細い筋しか記されていない。
「これ、川なの? 用水路じゃないの?」

車窓からときどき目に入る細い流れは、両脇に鬱蒼と草木が生い茂っている。こんな場所に分け入ったとしても、釣り糸を垂らすことができるのだろうか? なんだか狐につままれたような気分で助手席に座っているのである。

やがて、博くん、たしか、この辺だったかな、とか言いながら、アスファルト舗装の農道から畑の脇の土手道へと降りていった。左は刈り取られたばかりの麦畑が広がっている。右手は夏の日差しをあびて勢いよく生い茂る草木。しばらく車を進めると、
「ほら、分け入った跡が見えるだろ」と言って、運転席側の茂みを指さす。そう言われれば、雑草が踏みつけられた跡があり、土手が急勾配で下っているのがわかる。でも、流れは見えない。車が停まる。
「とりあえず、この辺でやってみるか」と言って、博くんは土手の右脇に寄り、背伸びして沢を覗きこんでいる。「ほら、見えるよ」

その言葉に惹かれて、土手の下を覗いてみると、幅二、三メートルの瀬が流れていて、段差があるために流れが白く泡立っているところがある。草木に覆われていてよくわからなかったが、思ったより水量がある。それでも、こんな畑のど真ん中にやまべがいるとはにわかには信じられない。

博くんはすでに車のハッチバックを開け、中から釣り竿、胴長、魚籠などを取り出している。
「こっちの胴長をはいてくれる?」

差し出された胴長は見た目も大きいし、持ってみるとかなり重量がある。こんなの履いて、はたして自在に動けるのか?
「靴底にはフェルトが貼ってあって、滑りにくくなっているんだよ」と言う。

両脚を突っこんでみると、下半身が潜水服を着たように重い(と言っても、潜水服を着たことはない)。靴にも重量があるし、転んでも怪我をしないようにということなのか、脛から膝にかけて、アイスホッケーの防具みたいに補強されている(アイスホッケーの防具なら付けたことがある)。

なんだか、すごいことになってきた。
「傾斜がけっこうきついから気をつけてね」

傾斜は三十度くらいだろうか。こんなごつい胴長を着て、降っていけるか心許ない。だが、この胴長、重さ、ごつさの割りには関節部は曲がりやすくなっている。

土手の下まで降りると、二、三人の男が並んで立てるくらいの水平のスペースがあった。その二メートル上手で流れが爽やかな音を立てて白く濁っている。

博くんは釣り糸の先の針に餌をつけている(イタドリ虫と言ったか、ブドウ虫と言ったか、この次会ったら、確かめておこう)。細長く、いかにも繊細そうなカーボンファイバーの釣り竿は大工の棟梁にプレゼントされたものだという(博くんは内装屋なのである)。
「今は売ってなくて、プレミア付いているんだよ」と言って、こちらに差し出すが、そんなすごい道具、初心者が使っていいのか?
「まずは白く泡立っているいるところに投げ込んで、それからすっと下に流していって、それからゆっくり戻していくんだ」

言われるがままに、白く濁っているところに糸を垂らし、そのまま下流に糸を流していくと、
「ほら、来てる、来てる!」と言う。

きょとんとしていると、
「一、二、三で合わせるんだよ!」

そんなこと言われても、意味がわからない。で、とにかく竿の先がしなっているので、引き上げてみると、銀色にきらきら輝く小魚がぴくぴく身をしならせながら、こちらに近づいてくる。
「すごい、いきなりじゃない!」

と、博くん、驚いている。小さなやまべをキャッチすると器用に針を外し、魚籠のなかに入れている。こちらは何がなんだかわからない。釣り上げたのが自分のような気がしない。で、次からは餌の付け方をならって、さっきと同じようなやり方で糸を流してみる。すると、また、ク、ク、と引きがある。小さな赤いプラスチックの浮きが水面の下に沈み、竿の先がわずかにしなる。あわてて引き上げるが、針の先には何もいない。
「ちょっとタイミングが早かったね。とにかく、一、二、三、だから」とまた言うが、やっぱりピンと来ない。

餌は取られていないので、そのまま糸を上流のほうに戻し、同じ動作を繰り返す。すると、また来た。こんどはあわてないように、しっかり食いつくまで我慢する。竿を揺らしても、手応えが外れない感じなので、そのまま引き上げてみる。ぴくぴく跳ねるやまべを今度は自分でキャッチして、針を外そうと試みるが、針は喉の奥まで入りこんでいる。
「ああ、呑みこまれちゃったね。今度はタイミングが遅かったんだ。初心者によくあるんだよ」

博くん、外科医の道具みたいな細長いペンチを取り出して、喉の奥に差し入れている。全長が人差し指くらいの、まだ子供の(?)やまべだから、見るも無惨というか、かわいそうである。
「あ、これ、ダメだね。針を取り替えよう」

博くんは、そう言うと針と錘をつなぐ小さな環のところから、魚に呑まれた針を外し、やまべはそのまま流れに返した。
「引きのタイミングを合わせるのが、やまべ釣りの醍醐味なんだよ」

なんだか悔しい。何回やってもうまくいかないのではないかという気になってくる。気を取り直し、新しい針にブドウ虫を付け、上手の白濁した部分に糸を放りこみ、そのまま流し、また上手に引き上げていく。

また来た。ツン、ツン。小さな魚影が見える。接近しては引き返し、また近づいてくる。白いブドウ虫の餌が一瞬消える。
「ほら、そのタイミング!」

竿を斜め上に引き上げる。まだ勢いよくは引けない、おそるおそる。でも、かかっている。細かい水しぶきを周囲に散らしながら、小さくしなやかな魚体を陽光にさらし、こちらに向かってくる。左手の中に収まったやまべはなおももがく。そのぬめり、艶、つぶらな目とあまりにも小さな口。
「うまい、うまい!」

針はちょうど口先の硬い骨のところにかかっている。
「名人の技だよ」と博くんが冷やかす。「ふつう、こんなにうまくはいかないんだよ」と言うが、当人はあいかわらず何がなんだかわからない、狐につままれたような感じなのである。

もう、あとは無我夢中だった。やまべは次から次へとかかった。まるで奇蹟のように。一、二、三の意味もわかってきた。やまべは慎重だから、いきなりは食いついてこない。最初は様子見のツン、次は確認のツン、で、最後に大きく口を開けて食らいついてくる。そのとき竿をひょいとしならせる。

気がつくと、一時間で二十尾くらい釣り上げていた。

もう一箇所、ポイントがあるんだというので、車で移動した。さっきよりも川幅が広く、竿も振りやすいが、なかなかかかってきてくれない。
「ここのやまべはすれてるね」という。

なるほど、そういうこともあるのか。それでも、一時間で三尾くらいは釣れた。二十尾つれたさっきの釣り場よりも、釣りをしている感じがあった。やまべとの駆け引きみたいなものがあるのだろう。これはやめられないな、と思った。

時計を見ると昼近くになっている。そろそろ引き上げようということになった。気温が上がり、水温が上がると、魚たちの動きも鈍くなるという。朝の八時に家を出て、ポイントをさがし当てたのが九時近く。移動の時間を除くと、二時間くらいは糸を垂らしていた計算になる。魚籠のなかはやまべがうようよしている。
「三十尾くらいはいるんじゃないの」

博くんはあきれたような口調で言うし、こちらのほうは唖然としている。
帰りの車中はむしろ口数が少なかった。疲れたでしょ、と労ってくれるが、疲れたというよりも、茫然としているのである。

釣りはたしかにおもしろい。しかし、ただおもしろいだけではすまされないものがある。

この感じはいったいなんだろうと思って、ずっと考えこんでいるのである。
「猫じゃらしの感じと似てるような気がするんだけどね」と、とりあえず口にしてみると、「あ、うまい」と博くんが応じる。

気の利いたことを言おうとしたのではない。猫の前で、たとえば猫じゃらしを振ってみる。細長い棒でもいいし、紐でもいい。猫は前足を繰り出して、その先を自分のほうに引き寄せようとする。ただひたすら棒の先だけを見て、その動きに反応している。その向こうには人間の手があって、その手を動かしている人間がいる。それも目に入っているはずなのだが、身体は棒の先だけに反応している。

竿と糸という、自分の手の延長ともいえる道具を使って、巧みに魚を招き寄せ、釣り上げる。さっきまで透明な流れのなかに見ていた魚影が脳裡に浮かび上がる。小さな黒い魚影が見えない糸の端の針先に引っかけられた虫めがけて寄ってきては離れ、沈み、また浮かび上がってくる。

そんなことばかり考えている。いや、考えようとして考えているわけではなく、ぼんやりと思念がさまよっているというべきか。

帰りの車中でも、昼過ぎに立ち寄ったそば屋のなかでも、そして、こうしてその日のことを思い出しながら、考えをまとめ、言葉を釣り上げようとしている、この今も、やはり茫漠とした感じがさまよい続けているのである。

帯広に帰って初めて釣りに誘ってくれた伊藤博くんへの感謝の思いを記しておこうと書きはじめたはずなのに、出口が見えなくなってしまった。この続きは次回の釣りの後になるのだろうか。

*42 二つの聖書

判型がまったく同じで、発行所もまったく同じ聖書が二冊、本棚に並んでいる。判型は文庫本に相当し、発行所は銀座四丁目の日本聖書教会、一九五五年に改訳され長く親しまれてきた「口語訳」の聖書である。

違いは二つある。一方は表紙が赤、もう一方は黒、赤いほうの発行年は一九六八年、黒いほうは一九七四年。赤いほうは妻のもの、黒いほうは私のものである。

妻はキリスト教系の女子大学に入った。信者の家に育ったわけではないから、おそらく聖書講読の授業のために購入したのだろう。ページを開いてみると、所々に傍線やらカギ括弧などの書き込みがある。

妻はこのいわゆるミッション系のお嬢さん学校を嫌っていた。そもそも東京の大学に行きたかったのである。兄がすでに東京の大学に通っていて、東京での生活にあこがれていたのである。しかし、両親に反対された。娘がひとり東京で暮らしていけるものか。仕送りできる余裕など家にはないと言われた。慕っている兄にも反対された。大学に行くならちゃんとしたところに行け、と。それが地元のお嬢さん大学だった。

四年間、違和感を噛みしめながら、ひたすら我慢した。卒業したら東京に出て自活すると心に決めていた。就職を決める最後の年、一念発起して、学長にかけあった。東京の出版社に就職したいので、どこでもいいから紹介状を書いてもらえませんか。

そして運良く、彼女は当時目黒にあった出版社で働くことになった。

そして私は六年遅れて、その出版社に入った。

 

私が聖書を買い求めた理由は、大学に入ってしばらくして、聖書の読書会に誘われたからである。

今思えば、個人的には五月病のようなものだったのかもしれないが、大学に入って半年も経たないうちに、大学の授業にも、憧れの自炊生活にも意欲を失い、学校に行ってもいつもキャンパスのベンチにごろりと横になっていた。

そこに声をかけてきた男がいた。大阪の男だった。聖書の読書会をやろうと思っているんだが、参加しないか、という。あとで聞いた話だが、いつも白けているんだかふて腐れているんだか、ベンチで寝ている姿を見て、おもしろいやつだと思ったらしい。

大阪の男はひょろりと背が高く、持病のせいで軽い跛行があった。

読書会は掛け値なしにおもしろかった。興奮し、夢中になった。われわれはマタイ福音書を読み、フォイエルバッハを読み、ルターを読み、内村鑑三を読み、太宰治を読んだ。

キリスト教には縁もゆかりもなく、福音書のなんたるかも知らない田舎者の青年は、まさに乾いた砂が水を吸い込むように無我夢中でそこに刻まれている活字を呑みこんでいった。

大阪の男はキリスト教系の高校を出ていた。愚直でロマン主義の塊のような男だった。中原中也を愛唱し(そう、酒が入ると諳んじて、文字どおり謳うのだ)、革命の夢を追い、思想家たらんとしていた。

この読書会は、テキストを読んできて、その感想を言い合うというようなものではなかった。一字一句、声に出して音読していくのである。これも大阪の男の発案だった。

われわれは大学の周辺をうろついた。喫茶店をはしごし、貸部屋のようなところで半日を過ごし、日が暮れれば飲み屋に繰り出して議論した。

ひょろりと背が高い座長とその賛同者たち。今思えば、イエスとその使徒たちのようであったかもしれない。

福音書の、いったい何に、どこに惹かれたというのか。私個人に限って言えば、それまで読んだどんな小説よりも劇的で、しかもリアリティがあると感じられた。そんな感受性が、自分のどこにあったのかと訝るほど、読んで感動した。むしろ、動揺し、惑乱したというべきかもしれない。

これが聖なる書? 福音って何だ? ここに書かれていることは、おどろおどろしい悪魔払いと荒唐無稽な癒しの場面、原始的な医療の現場、それに仲間内の不信と裏切りと、何か得体の知れないものに対する主人公の苛立ち、焦慮、そういったものの連続ではないか?

そう、繰り返すが私はここに苛烈な人間ドラマを読んだのである。信仰に近づいたことは一度もないし、洗礼を受けてキリスト教徒になろうとしたこともない。

私はいつも文化果つる土地からやってきた野蛮人でありたいと願っていた。そういう思いと福音書のテクストは波長が合った。

そして、福音書と同じく、やがてわれわれの読書会にも別れの季節がやってくる。誰しも永遠に学生のままでいるわけにはいかない。社会との接点を見つけ、その一員にならなければ生きてはいけない。

ある者は予備校の、高校の教師となり、ある者は大学院に残った。私は出版社に勤めることになった。

 

私は妻とキリスト教の話も聖書の話もしたことがない。彼女は単位を取るために聖書を読んだのだろうし、私のほうも妻とそんな話をする必要はなかった。

しかし、十数年前に先立たれ、彼女が遺していった本を自分の書棚に入れ、判型の同じ赤と黒の聖書が並んでいるのを見ていると、本同士が会話を交わしているような気がしてくる。それは最近のことである。それだけ妻の死が遠くなったということなのかもしれない。

私に聖書の世界を開いてくれた大阪の男は三十代半ばで他界し、妻も五十代半ばで旅立っていった。自分だけ生き延びているという感覚よりも、取り残されたという感覚のほうが強い。人は死んでも書物は残る。書物が失われても記憶は残る。人が死んでも記憶は残る。私が聖書を読みつづけるかぎり、死者の記憶も失われることがないだろう。

*41 Tous les matins du monde

Tous les matins du monde: Annexe (édition de luxe)

Postface du traducteur

(Traduction par Déborah Pierret Watanabe)

 

Tous les matins du monde (Gallimard, 1991) de Pascal Quignard, fait l’objet d’une nouvelle publication chez Kajikasha, maison d’édition limitée au Kyushu et dont le siège se situe à Kumamoto. Je vais d’abord vous expliquer comment nous avons pu en arriver là.

La première traduction de cette œuvre est parue chez Hayakawa Publishing en 1992 sous le titre Meguriau asa. Comme le projet avait été de s’associer au film réalisé par Alain Corneau, le titre du livre avait été choisi en fonction de celui du film sorti au Japon.

Vingt-cinq années se sont écoulées depuis. Je me permets ici d’exprimer mon émotion, car jamais je n’aurais osé imaginer, pas même en rêve, qu’une œuvre de ce genre puisse à nouveau être publiée.

Il était fondamentalement impossible que le roman, destiné à être le scénario d’un film, puisse paraître une nouvelle fois, alors même que le film ne faisait pas l’objet de nouvelles projections.

Ce qui permit de rendre cet impossible possible fut la détermination de Yô Kaji, représentant de Kajikasha. Tout comme elle avait d’ailleurs permis la nouvelle publication du Voyage d’Hector ou la recherche du bonheur de François Lelord, fin 2015.

En mars 2016, après la sortie du Voyage d’Hector, Yô Kaji m’a invité à venir lui rendre visite dans le Kyushu. Je suis allé à Kumamoto, Hakata, ou encore Hita pour participer à des rencontres littéraires dans le cadre de la promotion du livre. Malheureusement, le 14 du mois suivant, la terre de Kumamoto a été ébranlée par un violent séisme. C’était plus fort que moi, il fallait que j’y retourne.

J’ignore à quel moment, mais, au cours d’une de nos discussions, Yô Kaji et moi-même avons eu l’idée de proposer Tous les matins du monde en tant que nouveau projet de publication chez Kajikasha.

À mes yeux, ce roman représentait le souvenir du début de ma relation avec l’auteur. Mais il était également ma pierre d’achoppement. Même la postface que j’avais rédigée pour la première publication ne me plaisait pas.

Je crois bien m’être laissé emporter et avoir fini par m’éloigner du chemin du devoir du traducteur, cet homme de l’ombre. Je n’ai pu, pendant de longues années, réussir à relire cette traduction.

Néanmoins, l’impression de Yô Kaji était tout autre. Il m’a confié que c’était justement grâce à cette traduction et à ma postface qu’il avait pu être entrainé dans le monde littéraire de Quignard.

J’étais stupéfait. Il m’a dit vouloir conserver le texte que j’avais écrit il y a vingt-cinq années de cela alors que je n’étais encore qu’un quadragénaire. L’idée que ce texte puisse à nouveau être révélé au grand jour, moi qui l’avais enfermé au grenier sans jamais oser y reposer les yeux dessus, me paraissait effrayante.

Les textes que j’ai écrits et qui ont été publiés ne m’appartiennent plus, ai-je cependant songé. Si l’un d’entre eux continue de vivre dans le cœur de quelqu’un, alors je n’ai pas d’autres choix que de me résigner.

J’ai donc à nouveau traduit cette œuvre et décidé de conserver la postface de la première publication. En revanche, j’ai coupé et abandonné les parties qui avaient vieilli et n’avaient désormais plus de sens pour ne laisser que celles indispensables à la lecture de ce livre. J’ai également profité de cette nouvelle édition pour insérer d’autres citations ainsi que de nouvelles anecdotes.

 

*

 

« J’ai lu l’histoire de monsieur de Sainte Colombe tout en ayant l’image de mon grand-père à l’esprit », avais-je impudemment écrit lors de la première postface. Il y avait une raison à cela. Je n’avais aucune envie de limiter les lecteurs de ce livre qui a pour cadre le lointain XVIIe siècle aux étudiants de Lettres et à leur entourage. Je voulais en faire un livre également ouvert à toutes les personnes sans lien particulier avec l’histoire ou la littérature qui étaient venues voir le film. Mais en réalité, ce n’était pas seulement cela.

Avec la ferme intention de lui faire rencontrer au Japon le succès que cette œuvre avait connu ailleurs, je me suis envolé pour Paris au début de l’été 1992. Je suis allé rendre visite à l’auteur — qui était alors encore en poste chez Gallimard — en emportant avec moi une petite photo encadrée de mon défunt grand-père. Je ne me rappelle plus vraiment comment nous en sommes arrivés à avoir cette discussion, mais toujours est-il que j’ai fini par lui montrer la photo.

— Mon grand-père est mort sans rien laisser derrière lui, lui ai-je dit.

Ce à quoi il a répondu :

— C’est faux. Ne t’a-t-il pas laissé, toi ?

Nos mots, tout comme lors du dernier échange entre Marin Marais et Sainte Colombe, n’avaient fait que se croiser. Cependant, à ce moment, il y eut comme une sorte de communion entre nous (du moins, c’est ce que je crois.)

Mon grand-père est décédé au cours de la dernière année de mes études universitaires. Il avait 84 ans. Allongé sur son lit de mort, il a trempé ses lèvres dans un petit bol d’alcool puis il a quitté notre monde. Je n’ai pas assisté à sa mort, mais je me suis rendu à ses funérailles. J’ai toujours pensé que ça avait été une mort parfaite. J’ai écrit ceci dans la première postface : « Il élevait chevaux, porcs, moutons, poulets, et tout comme monsieur de Sainte Colombe, il vivait dans une petite cabane dans la cour dans laquelle il avait installé son lit, et ce, même s’il avait sa chambre dans la maison. Lorsque j’étais enfant, j’aimais dormir avec lui dans ce lit de fortune. Je me souviens, même encore maintenant, du vert délavé des rigides draps de chanvre et de la fenêtre aux vitres givrées ».

Les funérailles de mon grand-père se sont achevées, une nouvelle année est arrivée, et je suis rentré à Tokyo. Le moment d’être diplômé était venu, mais je m’interrogeais toujours sur la façon d’établir un point de contact avec la société. J’étais incapable de me projeter dans l’avenir. De plus, je n’avais ni le désir ni la volonté de rester à l’université. Un jour de janvier, alors que la nuit était déjà bien avancée, un ami est venu me rendre visite, avec, comme à son habitude, une bouteille de whisky bon marché à la main. Lui non plus n’arrivait pas à se projeter dans l’avenir. Mais sa visite n’avait pas été motivée par le besoin de parler du futur. Plutôt pour débattre de littérature. Dostoïevski, Kierkegaard, Pascal… Oui, la flamme de l’existentialisme n’était pas encore tout à fait éteinte. Parmi les hommes de lettres japonais, mon ami avait une préférence pour Hideo Kobayashi et Shun Akiyama.

Je me suis endormi le premier. Quand j’ai ouvert les yeux, au point du jour, il avait disparu. Un ou deux mois plus tard, j’ai reçu un faire-part de décès. Son corps sans vie avait été retrouvé sur les quais de Shinagawa. Il s’était noyé.

C’était un garçon originaire de Fukushima. Je fus le seul de notre promotion à me rendre à ses obsèques. Son père, maître du cortège funéraire, fit une déclaration : « On pourrait penser qu’un fils qui part avant ses parents est ingrat, mais je ne suis pas de cet avis. » À cet instant, un sentiment mystérieux et féroce, à la fois colère, à la fois tristesse, envahit tout mon être. Je le réprimai de toutes mes forces. Le lendemain, son père a eu la gentillesse de me faire visiter Fukushima en voiture. J’ai alors pensé que je devais trouver un travail, peu importe où.

Ces deux morts auxquelles j’ai été confronté avant même d’être entré dans le monde ont par la suite régné sur ma vie. Ce que j’avais voulu transmettre à P. Quignard ne concernait peut-être pas mon grand-père. Peut-être que cela concernait mon défunt ami.

 

*

 

Ce roman regorge des regrets envers les petites choses qui ne sont que des détails ou des anecdotes si on les regarde du point de vue du courant de la grande Histoire. Le choix du musicien Sainte Colombe en tant que personnage principal est déjà révélateur. Ce nom n’évoque absolument rien aux non-connaisseurs de musique baroque. Même ses dates de naissance et de décès demeurent floues, on sait simplement qu’il est mort vers 1700. Ou encore cet instrument de musique, la viole de gambe, qui a connu son heure de gloire sous le règne de Louis XIV pour ensuite tomber dans l’oubli. L’abbaye de Port-Royal dans la vallée de Chevreuse, siège des jansénistes également appelés les Solitaires, rasée par la poudre sur ordre de Louis XIV ; les petites écoles rue Saint-Dominique d’enfer à Paris ; les gaufrettes de Baugin, peintre que l’on peut qualifier d’anonyme comparé à Poussin ou à Champaigne de la même époque… Tous les personnages de ce roman sont des Solitaires. Les solitaires éternels de l’Histoire. Mais face au courant de la grande Histoire, je ne peux s’empêcher de penser que tout le monde l’est plus ou moins.

Le problème est la houle de cette grande Histoire, la houle qui a englouti tous les solitaires. Depuis le Moyen Âge jusqu’à la Renaissance, de la naissance du baroque à sa fin. Cette houle coule en arrière-plan du roman. Il ne fait aucun doute que le baroque, tout en étant illuminé par la splendeur de la Renaissance, regorgeait des souvenirs sombres et envoûtants du Moyen Âge. Au chapitre IX de La Sorcière, intitulé « Satan triomphe au XVIIe siècle », Michelet écrit ceci :

 

Plus sa surface, ses couches supérieures, furent civilisées, éclairées, inondées de lumière, plus hermétiquement se ferma au-dessous la vaste région du monde ecclésiastique, du couvent, des femmes crédules, maladives et prêtes à tout croire.

 

Les propos de Michelet décrivent bien les deux tendances contradictoires inhérentes au baroque : celle qui aspire à un espace plus grand et plus ouvert, et celle qui prétend à un espace plus fermé et intime. D’un côté, nous avons l’Opéra qui s’est développé en Italie, la majestueuse Passion selon Saint-Mathieu de Jean-Sébastien Bach, la splendide musique de cour de Lully, et de l’autre des pièces instrumentales diverses et variées qui cherchent à imiter les inflexions de la voix humaine ou encore la tiédeur de la peau. De même, nous avons l’architecture baroque de Rome qui use et abuse de la perspective à un point tel que l’espace ou encore les peintures sur plafond sont pareilles à des dinosaures colossaux, mais aussi les natures mortes d’Espagne ou les scènes d’intérieur du Hollandais Vermeer, la lueur froide des chandelles de Georges de La Tour. Tous partagent comme point commun une atmosphère de densité de la matière.

De même, la politique d’expansion des cartes du royaume, à mettre en parallèle avec la politique d’évangélisation des jésuites à un niveau mondial ou encore la vulgarisation de la religion contrastaient voire même s’opposaient au rigorisme et à l’élitisme des jansénistes. Si je devais m’exprimer à la manière de Michelet, je serais tenté de dire qu’il y avait là une sorte d’ambivalence, un conflit entre l’ivresse et l’angoisse envers l’appel de Satan au nom de la rationalité.

Il vaudrait tout de même mieux se pencher plus sérieusement sur la période du XVIIe siècle en France. Louis XIV accéda au trône en 1643, mais son règne ne débuta qu’en 1661, date à laquelle le cours de l’Histoire a basculé. Dans son Histoire de la Civilisation française, écrite avec la collaboration de Georges Duby, Robert Mandrou estime que la période entre 1600 et 1660 est celle où la France moderne s’est « faite » et la désigne sous le terme « adolescence » :

 

Cette adolescence est terriblement conquérante, au milieu des drames sociaux et religieux qu’elle a vécus et qui sont sa crise de croissance. À tous égards, c’est le XVIIe siècle le plus riche, le plus vivant.

 

Le roman débute en 1650 à la mort de l’épouse de monsieur de Sainte Colombe. En d’autres termes, l’histoire commence à la fin annoncée de l’adolescence de la France. De plus, il ne fait aucun doute que l’auteur fait un parallèle entre la mort de la femme du musicien et la fin proche du baroque.

Pourquoi monsieur de sainte Colombe refusait-il d’aller à Versailles avec tant d’entêtement ?

Dans l’imagination de l’auteur, le musicien était le condisciple de Claude Lancelot, corédacteur de la révolutionnaire Grammaire générale et raisonnée avec A. Arnauld, leader de Port-Royal. Cependant, si on lit attentivement l’œuvre, il n’est à aucun moment décrit comme un janséniste fanatique. Il est simplement suggéré que ses relations se limitent aux lieux éloignés du pouvoir, comme le poète Vauquelin des Yveteaux (1567-1649) qui avait perdu les faveurs du roi louis XIII à cause de sa nature libertine ou encore Baugin (1612-1663), simple artiste appartenant à la corporation des peintres parisiens. Madeleine, quant à elle, connut une période de fanatisme causée par son chagrin d’amour, mais refusa d’entrer au couvent. Père et fille sont isolés. Ils se referment volontairement sur eux-mêmes. Peu importe l’époque, lorsque le courant de l’Histoire vire brutalement, il y a ceux qui opposent une violente résistance au point d’en être imprudents et ceux qui s’obstinent à se renfermer sur eux-mêmes. Cette époque, cette obstination, ce rigorisme m’évoquent nécessairement Blaise Pascal.

En novembre 1654, à l’âge de 31 ans, Blaise Pascal éprouva une expérience mystique à cause de laquelle il abandonna tous les travaux scientifiques qu’il avait réalisés jusqu’alors pour entrer à Port-Royal. Cette nuit de novembre, il coucha sur un parchemin un texte intitulé Mémorial dans lequel il parle d’une « une renonciation totale et douce ». Blaise Pascal prit ensuite faits et causes pour Arnauld — auteur de De la fréquente communion, au cœur d’un débat lancés par les Jésuites et la Sorbonne —, devint une figure de la défense des jansénistes, et commença à rédiger les Provinciales, une série de lettres de protestations. Ses attaques vont finir par se diriger vers Descartes et son travail, qu’il qualifiera même d’« inutile et incertain ».

Qu’a t-il bien pu arriver à Pascal ? Ce n’est pas le lieu approprié pour en débattre et je n’en ai pas les compétences. Mais il me semble important d’ajouter que les jésuites et la Sorbonne n’ont cessé d’intensifier leurs attaques envers l’école cartésienne après le décès de Descartes en 1650, lui qui disait répugner à déranger l’opinion publique. C’était une époque où, au nom de la France et de la monarchie des Bourbons, tout était unifié et destiné à être intégré. Ce fut la même chose pour le courant des Beaux-Arts en Europe, de David à Delacroix, de Haydn et Mozart à Beethoven, du Classicisme au Romantisme. Les grandes vagues ont englouti les petites. Les grandioses peintures historiques et symphonies sont pareilles aux armées puissantes des états modernes. Elles mobilisent toutes les sensibilités et les écrasent. Du point de vue de la formation de cet état moderne, à la fois nationaliste et industrialiste, les époques qui ont suivies, de Louis XIV à Robespierre jusqu’à Napoléon, sont des plus cohérentes, et la Révolution française n’a finalement été qu’un feu d’artifice parmi les grandes émeutes. Les innombrables petits matins qui gardaient encore le goût envoûtant du Moyen Âge, les matins que les libertins et les cosmopolites ont admirés lors de leurs voyages, ont été anéantis par la sirène du puissant état. Ce n’est sûrement pas qu’une vieille légende limitée à l’Europe.

La période baroque comportait en son sein des contradictions à jamais inconciliables.

Près de trois siècles s’étaient écoulées depuis Descartes et Pascal, quand Paul Valéry railla ce dernier à propos d’un extrait de ses Pensées : « le silence éternel de ces espaces infinis m’effraie », écrivant qu’il lui faisait songer à « cet aboi insupportable qu’adressent les chiens à la lune ». Face à l’infinité de l’univers, ressent-on l’ivresse ? Ou au contraire, se sent-on effrayé, prend-on conscience de notre qualité de pécheur ? Tout cela me paraît être, même encore maintenant, une opposition fondamentale entre la sensibilité et ce que doit être la pensée.

On peut également citer Matisse à titre d’exemple. Il détestait le baroque, a déclaré que « Vélasquez n’était pas son peintre » et aimait parler de l’affection qu’il portait à Goya. Matisse qui préférait peindre le coin d’une pièce. Cet espace qui ne s’étend nulle part. Juste l’apaisement des couleurs authentiques. Question mystère, les peintures de Baugin ne sont pas en reste non plus. La composition de ses tableaux suggère le caractère éphémère des plaisirs d’ici-bas. Mais pourquoi avoir choisi de peindre des coins de table ? Et monsieur de Sainte Colombe, à la recherche des inflexions délicates de la voix humaine, tentant de faire venir des airs mélancoliques, des airs de regrets sous ses doigts…

Il y a là un chemin extrêmement étroit par lequel passe la beauté pour atteindre le monde des prières. Pascal Quignard a fait dire au peintre Baugin : « Personnellement je cherche la route qui mène jusqu’aux feux mystérieux. » Ces mots sont aussi ceux de l’auteur amateur de Georges de la Tour.

(Extrait du posteface du traducteur dans la première publication de la version japonaise.)

 

*

 

Pascal Quignard, écrivain français ne cesse de réfléchir à l’essence de la musique, a écrit dans la Haine de la musique (Calmann-Levy, 1996) :

 

Les dieux ne se voient pas, mais s’entendent : dans le tonnerre, dans le torrent, dans la nuée, dans la mer. Ils sont comme des voix. L’arc est doué d’une forme de parole, dans la distance, l’invisibilité et l’air. La voix est d’abord celle de la corde qui vibre avant que l’instrument soit divisé et instrumenté en musique, en chasse, en guerre.

 

Dans Tous les matins du monde, Pascal Quignard a réécrit l’histoire de Semimaru du Konjaku monogatari, pour la situer en France, au Moyen Âge. Et pour moi, Japonaise, ce fut une expérience très intéressante. Je suis allée voir le film en compagnie de Bernard Frank, traducteur français des Histoires qui sont maintenant du passé, tirées du Konjaku monogatari. C’est à ce moment que Bernard me fit remarquer d’un air heureux que les deux histoires étaient similaires. Une fois rentrés, je me suis empressée de vérifier ses dires, et effectivement, l’histoire du film était similaire à celle de Semimaru.

«La magie des sons » extrait du dernier recueil d’essais de Yuko Tsushima.

 

*

 

Bach a échoué. Il a été oublié pendant un long moment. La musique n’a pas avancé dans sa direction. Si, à l’heure actuelle, tout le monde cherche à trouver de nouvelles significations à sa musique, c’est parce que la musique est sur le point de changer. La musique est abstraite, et en allant trop loin dans une direction, il arrive qu’elle finisse par être coupée de l’ensemble. La musique européenne s’est développée à l’extrême, le moment de changer de direction est venu. Le style s’adapte à l’époque, mais ce qui est encore vivant se trouve sous le style. C’est la qualité, c’est l’attitude.

«Bach a échoué » extrait du recueil d’essais de Yuji Takahashi, musicien.

 

*

 

Un quart de siècle s’est écoulé. Cela peut paraître bien long, mais c’est comme si c’était hier. Pascal Quignard qui a écrit dans ses Petits traités I : « J’écris : 1. J’ai envie de me taire » a parlé un peu de lui à diverses occasions. En voici quelques extraits.

 

 — Où avez-vous fait vos études universitaires ?

 — J’ai fait mes études universitaires à l’université de Nanterre. J’ai commencé la rédaction, sous la direction d’Emmanuel Levinas, d’une thèse qu’il avait lui-même intitulée « Le statut du langage dans la pensée de Henri Bergson. »

— Avez-vous achevé ce travail avec Emmanuel Levinas ?

— Je n’y ai même pas pensé.

— L’avez-vous commencé ?

— Même pas. Le lien que j’avais avec Emmanuel Levinas était plus profond que ce travail. Les mois de mars, avril, mai, juin 1968 ont balayé d’un coup ce désir d’enseignement. Je m’étais résolu à reprendre l’orgue familial d’Ancenis, où une de mes grand-tantes venait de mourir.

Pascal Quignard le solitaire, Rencontre avec Chantal Lapeyre-Desmaison, Éd. Flohic, 2001

 

Mai 68 lui a infligé une profonde blessure. Après son départ pour Paris, il a fini par brûler plus de mille de ses sculptures composées de divers matériaux : tissus, bois, canevas, papier kraft, verre, et sur lesquelles il avait écrit. Et ce n’est pas tout : il a non seulement brûlé les petits morceaux pour trio ou les sonates qu’il avait composés devant l’orgue ou le piano à Ancenis, mais aussi les carnets de notes qui contenaient les petites histoires ou encore les confessions qu’il avait écrites dans cette maison.

Puis il s’est à nouveau tourné vers l’orgue de l’église d’Ancenis. Il était à l’orgue tous les matins et consacrait ses après-midis à écrire un essai sur l’amour d’après une œuvre de Maurice Scève. Une fois son manuscrit achevé, il l’a envoyé à Gallimard sans l’adresser à personne en particulier. Son essai a attiré l’œil de Louis-René des Forêts, membre du comité de lecture de cette maison d’édition. Louis-René des Forêts fit revenir Quignard à Paris et lui proposa un poste de lecteur, lui qui n’était encore qu’un jeune homme d’une vingtaine d’années. Il le présenta aux membres de la revue Ephémère qu’il dirigeait. De nombreux écrivains et poètes y apportaient leur contribution : Michel Leiris, Paul Celan, André Du Bouchet, Yves Bonnefoy, Henri Michaux ou encore Pierre Klossowski. Est-ce que cela signifie que ses premiers pas d’écrivain se firent sous le signe de la bénédiction ? J’aimerais que vous lisiez cet extrait pour continuer.

 

Le mouvement de mai fut balayé en quelques heures. Le général de Gaulle, après avoir pris conseil auprès du général Massu, fit élire l’Assemblée la plus réactionnaire depuis le maréchal Pétain. Marcellin était à la Police. Messmer à la Guerre. Les bombes atomiques françaises explosaient à Mururoa.

Nos dieux se mirent brusquement à mourir.

Celan se suicida : ce fut Sarah qui me l’apprit postée dans l’encadrement de la porte de l’appartement d’André du Bouchet.

Rothko se suicida : ce fut Raquel qui me l’apprit dans l’atelier de Malakoff.

(…)

Dans la forêt aventureuse je ne trouvai pas de fontaine, de clairière, de cerf blanc, de charrette, de lance, de reine : mais une dépression, une dépression, une dépression, une dépression.

Écrits de l’éphémère, Galilée, 2005.

 

Selon Quignard, ce fut la fin de la France d’après-guerre. On retrouve ici le regard qui veille sur le XVIIe siècle, tout comme celui qui observe l’Empire de Rome.

Et vingt-quatre ans plus tard, en 1994, il démissionna sans crier gare de son poste de lecteur qu’il avait longtemps occupé chez Gallimard. Il rompit également les liens avec sa famille. Un peu comme si, à la fin du compte, il avait fini par tout brûler.

 

L’idée de ne rien laisser après soi m’habite vraiment — même si c’est directement contradictoire avec le fait de publier des livres. Partir aussi nu qu’à l’instant de l’arrivée, c’est un rêve. (…) Manuscrits, lettres, photographies, livres, partitions, dessins, articles, tout s’y enflamme du jour au lendemain tout à trac. C’est si beau quand c’est vous qui brûlez. Remy dit à Clovis : Incende quod adorasti. Cet ordre est si étrange. L’évêque dit au premier roi de France : Brûle ce que tu aimes.

Pascal Quignard le solitaire, Rencontre avec Chantal Lapeyre-Desmaison, Éd. Flohic, 2001

 

 

En octobre de l’année dernière, je lui ai rendu visite dans son appartement rue Manin, à Paris. Lorsque j’ai pénétré dans son bureau-bibliothèque, mon regard a été attiré par les partitions posées sur le pupitre du clavier. Messiaen, Beethoven, Oiseaux furent les quelques mots que je pus saisir.

— C’est quoi, ça ? lui ai-je alors demandé.

— Je mixe deux musiques ensemble.

— Messiaen et Beethoven ?

— Oui.

Dans les affaires laissées par mon défunt ami de Fukushima, il y avait un carton rempli de disques. Et parmi eux, un album de Messiaen. Le Quatuor pour la Fin du temps. Je l’avais emporté avec moi. Quarante ans après, je n’avais toujours pas posé l’aiguille du tourne-disque dessus.

Au moment de nous séparer, je lui ai dit :

—J’ai perdu de nombreux amis. C’est pour cette raison que je me dois de survivre.

— C’est la même chose pour moi, m’a-t-il répondu.

Un tableau peint par son ami était suspendu dans le hall d’entrée.

 

Voici la liste des livres de Pascal Quignard traduits en japonais :

Tous les matins du monde, Gallimard, 1991

La leçon de musique, Hachette, 1987

Le salon du Wurtemberg, Gallimard, 1986

Les escaliers de Chambord, Gallimard, 1989

Albucius, POL, 1990

L’occupation Américaine, Éditions du Seuil, 1994

La Haine de la musique, Calmann-Levy, 1996 ; Folio, 1997

Le Nom sur le bout de la langue, POL, 1993

La Frontière, Chandeigne, 1992 ; Folio-Gallimard, 1994

Les Tablettes de buis d’Apronenia Avitia, Gallimard, 1984

Terrasse à Rome, Gallimard, 2000

Les Ombres errantes, Grasset, 2002

Villa Amalia, Gallimard, 2006

Vie secrète, Gallimard, 1997 ; Folio-Gallimard, 1999

Sur le jadis, Grasset, 2002

Les Solidarités mystérieuses, Gallimard, 2011

 

J’aimerais, pour conclure, exprimer ma profonde gratitude envers Yô Kaji des éditions Kajikasha, grâce à qui ce livre a pu voir le jour. Je tiens également à dédier la traduction de cette œuvre à toutes les personnes victimes de ce grand tremblement de terre, et à tous les habitants de Kumamoto qui ont miraculeusement su se relever.

 

Kei Takahashi, janvier 2017

Traduction : Déborah Pierret Watanabe

*40 世界のすべての朝は

『世界のすべての朝は』本文・表紙(特装版)

(訳者あとがき)

 

このほど、熊本を本拠地とする「九州限定」の出版社「伽鹿舎」から、パスカル・キニャールの『世界のすべての朝は』(Tous les matin du monde, Gallimard, 1991)が復刊されることになった。まずはここに至った経緯から説明させていただくことにする。

初版は一九九二年、早川書房から『めぐり逢う朝』という邦題のもとに出版された。アラン・コルノーの映画とタイアップした企画だったので、小説の邦題も映画に合わせたのである。

それから二十五年が経過した。個人的な感慨を述べさせていただくなら、この種の作品が再版されることなど、夢にも思わなかった。映画の原作として書かれた小説が、映画の劇場再演という機会が訪れたわけでもないのに復刊されることなど、基本的にはありえないからである。

こんな不可能事が可能になった理由は、伽鹿舎から一昨年(二〇一五年)暮れに復刊された『幸福はどこにある』(フランソワ・ルロール著、拙訳)の場合と同様、この出版社の代表である加地葉さんの決断があったからと言うほかない。

『幸福はどこにある』が刊行され、翌年の三月末に加地さんの招きで九州を訪れ、本のプロモーションの一環として、熊本、博多、日田でトークショーを行った。だがあろうことか、その翌月の十二日にあの大地震が熊本の地を襲った。私は居ても立ってもいられず、また熊本の地を訪れた。

この間のいつの時点だったか、伽鹿舎から出す次の本の企画として、加地さんと私のあいだでパスカル・キニャールのこの作品が候補に挙がった。

この小説はパスカル・キニャールとの交流が始まった記念すべき作品であると同時に、私の躓きの石でもあった。初版の訳もあとがきも気に入らなかった。あまりにのぼせ上がりすぎているし、黒子であるべき訳者の本分を踏み外している。私は長い間、この翻訳を読み直すことができないでいた。

しかし、加地葉さんの感想は違った。この翻訳とあとがきがあったからこそ、自分はキニャールの文学世界に引き込まれたのだ、と。

私は唖然とした。もう二十五年も前に、そう、自分がまだ四十代だったころに書いた文章を、加地さんはなんらかの形で残したいという。自分が倉のなかにしまい込んで、見ようともしなかったものが白日の下にさらされるのは恐ろしいことである。

私は思った。自分が書いて発表してしまった文章は、もう自分のものではない。それが他人の心のなかで生きつづけているのだとしたら、もう観念するしかない。

というわけで、訳を新たにしたうえで、初版のあとがきも再録することにした。あれから二十五年、古びて無意味になった部分は削ぎ落とし、本書を読むうえで必要な部分だけを残し、あるいは復刊の機会に引用しておきたい文章や新たなエピソードなども追加しておこうと思う。

 

 

「私は自分の祖父のことを想い浮かべながら、このサント・コロンブ物語を読んでいた」と、私は初版のあとがきに臆面もなく書いた。それには理由があった。フランスの十七世紀という古い時代を背景とするこの作品を大学の文学部とその周辺に閉じ込めておきたくなかったし、文学や歴史とは関係なしに映画を観にくる人たちにも開かれた本にしたかったからだ。しかし、実際はただそれだけのことではなかった。

この本を日本でも成功させたいという強い思いを抱いて、九二年の初夏にパリに飛び、まだガリマール社の専属顧問のような職についていたキニャールのもとを訪れたとき、私は小さな額に入れた祖父の写真を持っていったのである。もう会話の細かい前後関係は忘れた。私は彼に写真を見せ、こう言った。

「自分の祖父は何も残さずに死んでいった」

すると彼はこう答えた。

「いや、おまえを残したではないか」

まるでサント・コロンブとマラン・マレが最後に交わす禅問答のようで、言葉がすれ違っている。しかし、このときわれわれのあいだで何かが通い合ったのである(少なくとも私はそう信じている)。

私の祖父は、私の学生時代の最後の年に死んだ。享年八十四歳。死の床で小さな盃一杯の酒で唇を濡らしてこの世を去った。私は死に目には会えなかったが、葬式には出た。完璧な死だと思った。私は初版のあとがきにこう書いた。「馬、豚、羊、鶏を飼い、サント・コロンブと同じように裏庭に小屋を建て、母屋に自分の寝室があるにもかかわらず、そこにベッドをしつらえ、そこに寝起きしていた。子供のころ、私は祖父といっしょにその粗末なベッドに寝るのが好きだった。その色あせたグリーンのごわごわとした麻のシーツと凍りついたガラス窓を私は今でもよく憶えている」。

祖父の葬儀が終わり、年が明け、私は東京に戻った。大学を卒業する時期にきていたが、どこに社会との接点を見出せばいいのか、まったく先が見えなくなっていた。大学に残る意欲も気力もなかった。一月のある日、夜も更けてから、ひとりの友がやってきた。いつものように安ウィスキーのボトルを一本ぶらさげて。彼も先行きが見えなくなっていた。しかし、将来の話をしに来たのではなかった。あいかわらずの文学談義。ドストエフスキー、キルケゴール、パスカル・・・・・・。そう、実存主義の火はかろうじてまだ消えていなかった。日本の文学者で言えば小林秀雄と秋山駿、それが彼のお気に入りだった。

私は先に寝てしまった。明け方、目が覚めると、彼の姿はなかった。一ヵ月か二ヵ月が経ったころ、訃報が届いた。品川埠頭で水死体が発見された。

福島の男だった。同級で葬儀に出席したのは私だけだった。喪主のお父さんが挨拶した。「親に先立つ不孝と言いますが、私はそうは思いません」。そのとき私の内部で怒りのような、悲しみのような、得体の知れない獰猛な感情が全身にみなぎった。私はその感情を渾身の力を込めて抑えこんだ。翌日、お父さんは車に私を乗せ、福島の名所を案内してくれた。どこでもいいから就職しようと思った。

世の中に出る直前に遭遇したこの二つの死が、その後の私の人生を支配することになった。私はパスカル・キニャールに祖父のことではなく、この友のことを伝えたかったのかもしれない。

 

 

この小説は、大きな歴史の流れから見ればまさにディテイルやエピソードにすぎないものにたいする哀惜で満ちあふれている。すでにサント・コロンブという音楽家を主人公にすることがそうなのだ。よほどのパロック通でないかぎり、この音楽家の名前は初耳だろう。生没年ですら、一七〇〇年前後に死んだことくらいしか明らかになっていない。あるいは、一時期は隆盛をきわめ、だがまるでルイ十四世の親政と軌を一にするように廃れていったヴィオール(ヴィオラ・ダ・ガンバ)という楽器。隠士{ソリテール}と呼ばれるジャンセニストたちが本拠地にし、やはりルイ十四世によってつぶされたシュブルーズのポール・ロワイヤル修道院、パリのサン=ドミニク=ダンフェール通りにあった彼らの私塾{プティット・エコール}、同時代のプッサンやシャンパーニュに比ぺればほとんど匿名の画家と言ってもいいボージャンのゴーフレット・・・・・・。この小説に登場する人物はみな隠士だ。歴史の永遠の隠士たちだ。そして、大きな歴史の流れを前にしたとき、多かれ少なかれ誰もが隠士なのだという思いを禁じることができない。

だが、問題はその隠士たちをのみこんでいった大きな歴史のうねりだ。中世からルネッサンス、そしてバロックの到来とその終焉。この作品の背後に流れているのはそのうねりだ。おそらくバロックはルネッサンスの光輝に照らされながらも、中世の艶やかな闇の記憶をその内部に湛えていたのだろう。ミシュレは『魔女』のなかの「サタンは十七世紀に勝関をあげる」と題された章でこう言っている。

「この世紀の表面、すなわちその最上層が文明化し、啓蒙され、知識という光明にあふれればあふれるほど、その下では、聖職者の世界や尼僧院や、信じやすく、病気がちで、何でもすぐ信じてしまう女たちの世界の宏大な領域がますます固く閉ざされたのである」(篠田浩一郎訳)

このミシュレの言菓は、一口にバロックといってもその内部にほとんど相反する傾向、すなわち大きな空間を志向する傾向と閉ざされた親密な空間を志向する傾向をはらんでいるこの様式にそのまま当てはまるように思える。たとえばイタリアで発展したオペラはもちろんのこと、J.S・バッハのあの荘厳な「マタイ受難曲」やリュリの華麗な宮廷音楽が一方にあり、他方にはまるで人の声や肌のぬくもりを再現しているかのような大小さまざまの器楽曲もある。また、ローマのバロック建築のように、遠近法の濫用とも思をる、ただやみくもに巨大化した恐竜のような空問と天井画があるかと思えば、スペインの静物画{ボデゴン}やフェルメールに代表されるオランダの室内画、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールのあの冷たい蝋燭の光、そのすべてに共通する稠密なマチェールの肌あいもある。

そのコントラストは、王国の地図を拡大しようとする国家の動きと歩調を合わせたカトリック=イエズス会の世界的布教活動と宗教の大衆化、そしてこれに結果として弓を引くことになったジャンセニストの純粋主義、ひいては選良主義{エリテイスム}との対立にもつながるだろう。ミシュレふうに言えば、そこにあるのは理性という名のサタンの呼び声にたいする洸惚と不安のせめぎあいだったのかもしれない。

だが、このフランスの十七世紀という時代はもう少し厳密に考えたほうがよさそうである。ルイ十四世が王位につくのが一六四三年、その親政が始まるのが六一年。このあたりから時代は急回転していく。ロベール・マンドルーは『フランス文化史』のなかで、近代フランスが〈つくられた〉一六〇〇〜六〇年代を「青春時代」と呼び、「この時代は、それが体験したさまざまの社会的・宗教的ドラマ(これは成長途上の危機であった)のなかで、おそろしく自信にあふれていた。あらゆる点で、この時期こそ、もっとも豊かな、もっとも生きいきとした十七世紀なのである」(前川貞次郎・鳴岩宗三訳)と述べている。この小説は一六五〇年にサント・コロンブ夫人が亡くなるところから始まっている。つまり、物語はこのフランスの青春時代が終わりを告げようとしているところから始まっているのだ。そしてまた著者は音楽家の妻の死と迫りくるバロックの終焉をも重ね合わせたかったにちがいない。

なにゆえサント・コロンブはヴェルサイユをあれほどまで頑なに拒否したのか。作家の想像力によれば、彼はポール・ロワイヤルの指導者A・アルノーとともにあの画期的な『文法』を著したクロート・ランスロと学友だったことになっている。だが、作品をていねいに読めばわかるように、彼は狂信的なジャンセニストとしては描かれていない。ただ、リベルタン気質のゆえにルイ十三世の寵愛を失う詩人のヴォークラン・デ・イヴトー(一五六七〜一六四九)や画家組合に属する市井の一画家にすぎないボージャン(生没年未詳)なと、彼の交友範囲は権力から遠い場所に限られていることが暗示されているだけだ。マドレーヌにしても、失恋によって一種狂信的にはなるが、修道院の禁域に入ることは拒否する。この親子はどこからも孤立している。あえて自らを閉ざしていく。いつの時代ても、歴史の流れか急速に変化してゆくとき、無謀なまで過激にその流れに抵抗を示すか、あるいは頑なに自閉していく人々があるのだろうが、この時代に即して言うならば、このような頑なさ、純粋さへの傾斜は、やはりあのプレーズ・パスカルを防彿とさせずにはおかない。

一六五四年十一月、三十一歳のパスカルはある啓示を受け、これによって彼はそれまでの科学的業績のすべてを捨て、ポール・ロワイヤルの門下に入っていったとされている。その夜、彼は〈覚え書{メモリアル}〉と呼ばれているメモに「心地よい全面的な抛棄」(松波信三郎訳)と書き記す。そして、アルノーが書いた『頻繁なる聖体拝受』をめぐるイエズス会およびソルボンヌとの論戦を引き継ぐかたちでジャンセニスム擁渡の先頭に立ち、『田舎の友への手紙{プロヴァンシアル}』と呼ばれる一連の書簡体の抗議書を書き始めることになる。さらにその矛先はあのデカルトにさえ向けられ、「無用にして不確実」とさえ記す。

パスカルに何が起こったのか。ここはそれを論ずる場所ではないし、私にはその能力もない。ただ、イエズス会とソルボンヌは、あれほど世間に波風を立てるのを避けようとしたデカルトにたいしてさえ、彼が死ぬと(一六五〇)、にわかにその学派への攻撃を強めていったことはつけ加えておく必要があるだろう。ようするに、フランスとブルボン王朝の名のもとにすべてが一元化され、統合されてゆく時代だったのだ。ヨーロッパ芸術の流れもその後は周知のとおり、ダヴィットからドラクロワヘ、ハイドン、モーツァルトからベートーヴェンヘ、古典主義からロマン主義への大きな潮流があらゆる小さな芸術を呑みこんでいった。壮大な歴史画やシンフォニーは近代国家の強力な軍隊と同じだ。すべての感受性を根こそぎ動員し、圧倒してしまう。この近代国家、民族主義的・産業主義的国家の成立という観点に立てば、ルイ十四世からロベスピエール、ナポレオンヘと続く時代は一貫した流れであって、フランス革命はその大騒乱のなかの打ち上げ花火にすぎなかった。まだ中世の穏やかなたたずまいを残す無数の小さな朝や、リベルタンやコスモポリタンが旅の空にみた朝は巨大国家のサイレンにかき消されていった。それはけっしてヨーロッパだけに限られた遠い昔話ではないだろう。

しかし、歴史の大きな流れとは別に、バロックの時代は永遠に和解できないある対立をはらんでいたように思える。

たとえばデカルトとパスカルの時代から三世紀もたって、「この無限の宇宙の永遠の沈黙が私をおののかせる」という『パンセ』の断章にたいして、「犬のように吠える」と、パスカルを椰楡したポール・ヴァレリー。宇宙を無限と感じたとき、それに洸惚を感ずるか。それとも慄きを感じ、自らを罪深いと感じるか。それは今でも感受性と思想のありかたをめぐる大きな根本的な対立であるように思える。

あるいはマチスをとりあげてみてもいい。バロックを嫌い、あのベラスケスさえも「私の画家ではない」と言い、むしろゴヤ(!)への親愛を語ったマチス。好んで部屋の隅を描いたマチス。その空間はどこにも広がらない。ただ、確実な色彩の安堵があるだけだ。ポージャンの絵も不思議だ。この世の快楽のはかなさを暗示したこの絵の構図は、それにしてもなぜ机の片隅なのか。そして、ヴィオールという楽器にたおやかな肉声だけを求め、ただ哀惜の情を密かせようとしたサント・コロンブ・・・・・・。

そこには美が祈りの世界に通じてゆく、細くきわどい道があるように思える。パスカル・キニャールは画家ボージャンにこう語らせる。
「私としては、あの神秘の炎にまでたどりつく道を探しているのだがね」。これはジョルジュ・ド・ラ・トゥールを愛する著者自らの言葉でもあるだろう。

(作品と時代背景−−初版あとがきより)

 

音楽の本質を考えつづけているフランスの小説家パスカル・キニャール氏はこのように述べている。

 

神は目に見えないが、耳には聞こえる。雷鳴に、早瀬に、群雲に、海に姿を変えて。それは声のようだ。弓は距離と不可視と大気のなかで、ある言葉の形をまとう。声とはまず、道具が音楽のために、狩猟のために、戦争のために分割され、編成される以前の震える弦の声なのだ。

(『音楽への憎しみ』高橋啓訳、青土社)

 

この作家が、日本の『今昔物語』の@蝉丸{せみまる}の話(巻二十四ー二十三「@源博雅朝臣行会坂盲許語{みなもとのひろまさあそんあうさかのめしひのもとにゆくこと}」をフランスの中世に舞台を移し替え、『めぐり逢う朝』という小説を書いていることも、日本人である私にとっては興味深い。これは映画化されていて、この映画の方を私はまず見たのだったが、そのときたまたま同行していたのが、『今昔物語』をフランス語に翻訳したベルナール・フランク氏で、これはあの蝉丸の話ですね、と彼がうれしそうに私に告げたのだった。早速、フランク氏邸に戻ってから調べてみると、なるほど、この映画は蝉丸の話とそっくり同じ内容なのだった。

(「音の魔力」−−津島佑子氏の最後のエッセイ集『夢の歌から』所収)

 

 

バッハは失敗した。かれはしばらくわすれられていた。音楽はかれの方向にすすまなかった。いまみんながかれの音楽にあたらしい意味を見つけようとしているのは、音楽が変わりつつあるからなのだ。音楽は抽象的だから、ある方向にゆきすぎて、全体からきりはなされてしまうこともある。ヨーロッパの音楽は極度に発展し、いまや方向を変えるときがきた、スタイルは時代に対応するが、まだ生きているものはスタイルの下にある。これが質であり、態度である。
(「失敗者としてのバッハ」−−音楽家・高橋悠治氏の初期のエッセイ集『音楽の教え』所収)

 

 

そして、四半世紀の歳月が流れた。そう書けば長いが、たった一日しか経っていないようにも思える。この間、「私が書くのは黙っていたいから」(『小論集』第一巻、第五考「黙っていたい」)と書いたパスカル・キニャールも様々な箇所でみずからを語るようになった。その一部をここに引用しておこう。

 

−−大学の勉強はどこでなさったのですか?

−−ナンテール大学(パリ第十大学)です。エマニュエル・レヴィナスの指導のもとに論文を書くことになっていました。論文のテーマは「アンリ・ベルクソンの思想における言語機能の様態」、このテーマも彼が考えたものでした。

−−それでエマニュエル・レヴィナスの指導のもとにそれを書き上げたのですか?

−−まさか。

−−でも書きはじめたのでしょう?

−−いいえ。エマニュエル・レヴィナスと私のあいだにあった絆は論文執筆などよりずっと深いものでした。一九六八年の三月、四月、五月〔ナンテールでの大学紛争を機に広がった広範な政治運動。「五月危機」あるいは「五月革命」とも呼ばれる〕が教職に進む気持ちを完全に吹き飛ばしてしまったのです。私は、アンスニ〔ロワール河のほとりの小さな村〕の教会の専属オルガニストになろうと決意しました。ちょうど大伯母が死んだばかりで空席になっていたので。

(『隠士パスカル・キニャール』Pascal Quignard le solitaire, éd. Flohic, 2001)

 

この「五月革命」がパスカル・キニャールに与えた傷は深刻なものだった。パリに出てから、布、木版、キャンバス、クラフト紙、ガラス、ありとあらゆる素材にかきつけた千枚を超える造形作品をすべて燃やしてしまっただけでなく、アンスニの家のオルガンやピアノを前にして作曲したソナタや三重奏の小品、あるいはその家で書いた短い物語や自伝的告白を書き綴った手帳もまた燃やしてしまうのである。

そして、アンスニの教会にこもってオルガンの演奏に没頭する。午前中はオルガン、午後からはモーリス・セーヴ〔ルネッサンス期のリヨン派の詩人。「デリー」という難解な詩で知られている〕について、まるで遺書のように書きはじめる。書き上げた原稿を、特定の宛名もなしにガリマール社に郵便で送りつけた。この論考に着目したのが、当時ガリマール社で原稿審査委員をつとめていたルイ=ルネ・デ・フォレだった。そして、キニャールを再びパリに呼び寄せ、まだ二十歳を超えたばかりの青年を自分と同じ原稿審査委員の職に就かせ、自分が主宰していた「蜻蛉{エフェメール}」という名の同人誌のメンバーに紹介する。同人には、ミシェル・レリス、パウル・ツェラン、アンドレ・デュ・ブーシュ、イヴ・ボヌフォワ、アンリ・ミショー、ピエール・クロソウスキーなど、錚々たる詩人、作家が集っていた。彼は作家として恵まれた第一歩を踏み出したということか? 続けて次のような文章を読んでもらいたい。

 

五月の運動は数時間で蹴散らされた。ド・ゴール将軍は、マシュ将軍の助言を得て〔総選挙で勝利し〕、ペタン元帥以来もっとも反動的な国民議会が成立する。警察のトップにはマルセラン〔内務大臣〕、軍のトップにはメスメールが就いた。ムルロワの海で続けざまに原子爆弾の実験がおこなわれた。

われわれの神々は突如として死にはじめた。
ツェランが自殺した。それを私に教えてくれたのはサラだった。アンドレ・デュ・ブーシュのアパルトマンの戸口に立っていた。

ロスコが自殺した。それを私に教えてくれたのはラケルだった。場所はマラコフのアトリエだった。[… …]

冒険の森のなかには、泉も、空き地も、白い鹿も、馬車も、槍も、王妃の姿もなかった。あったのはただ、消沈{デプレッシオン}、消沈、消沈、消沈。
(『エフェメールの作品集』しおり。Ecrits de l’éphémère, “Prière d’insérer”, éd. Galilée, 2005)

 

フランスの「戦後」がここで終わったと言っているのである。フランスの十七世紀を見つめる視線がここにもある。帝政ローマを見る視線も同じである。

そして二十四年後の一九九四年、彼は長らく勤めたガリマール社を突然辞めてしまう。家族とも別れてしまう。まるですべてを燃やしてしまうかのように。彼はこんなふうに語っている。

 

自分のあとには何も残さないという考えに私は取り憑かれているのです−−たしかに書物を公刊するということとは明らかに矛盾するのですが。やってきたときと同じように裸で去っていくことが夢なのです。〔中略〕原稿、手紙、写真、本、楽譜、素描、記事のすべてがたちまち炎につつまれる。あなたが何かを燃やすとき、それはじつに美しい。司教のレミはクローヴィスに向かってこう言った。Incede quod adorasti. じつに奇妙な命令です。司教はフランスの最初の王に向かって、こう言ったのです。おまえの愛するものを燃やせ、と。

(『隠士パスカル・キニャール』)

去年の十月、パリのマナン通りにあるパスカル・キニャールのアパルトマンを訪れたときのこと。書斎に入ると、キーボードの譜面台に置いてある楽譜が目に入った。Messiaen, Beethoven, Oiseaux(鳥)の文字が見えた。「何ですかこれは?」と思わず訊いた。「二つの主題をミックスしてるんだ」「メシアンとベートーベンをですか?」「うん」

福島の友の遺品のなかに段ボール一箱分のレコードがあった。そのなかにメシアンのアルバムがあった。「この世の終わりのための四重奏曲」。私はそれを持ち帰った。爾来四十年、その上に針を落としたことはない。

別れ際に、パスカル・キニャールに言った。「僕はたくさんの友を失った。だから、自分だけは生き延びようと思っている」と。「おれも同じだよ」と彼は答えた。玄関ホールには彼の友が描いた絵が掛かっていた。

以下に日本で翻訳されたキニャール作品(絶版も含む。翻訳者名のないものは拙訳)を列挙しておく。

 

・めぐり逢う朝(早川書房、一九九二年)

・音楽のレッスン(吉田加南子訳、河出書房新社、一九九三年)

・ヴュルテンベルクのサロン(早川書房、一九九三年)

・シャンボールの階段(早川書房、一九九四年)

・アルブキウス(青土社、一九九五年)

・アメリカの贈り物(早川書房、一九九六年)

・音楽への憎しみ(青土社、一九九七年)

・舌の先まで出かかった名前(青土社、一九九八年)

・辺境の館(青土社、一九九九年)

・アプロネニア・アウィティアの柘植の板(青土社、二〇〇〇年)

・ローマのテラス(青土社、二〇〇一年)

・さまよえる影(青土社、二〇〇三年)

・アマリアの別荘(青土社、二〇一〇年)

・いにしえの光(小川美登里訳、水声社、二〇一六年)

・約束のない絆(博多かおる訳、水声社、二〇一六年)

・さまよえる影たち(小川美登里、桑田光平訳、二〇一七年)

・『小論集』(仮題 Petits traités 、インスクリプトから刊行予定)

 

最後にあらためて、本書の制作過程で万端お世話になった伽鹿舎の加地葉さんに感謝申し上げると同時に、この作品の翻訳にかけた思いをあの激震の犠牲になった人々、そしてそこから奇跡的に立ち直ろうとしている熊本のみなさんに捧げたい。

 

二〇一七年一月
訳者

*39 ニコラ・ブーヴィエの詩

熊本の伽鹿舎から出ている文芸誌「片隅」の4号がもうじき刊行される。今回もエッセイを書かせてもらったので、このブログに一足お先に最終校のPDFを掲載させていただく。

 

ニコラ・ブーヴィエの詩(最終)(←ここをクリック)

*38 理性(その3)

この作品の種本(大セネカ)の裏表紙。著者が序文を書いている。パリで直接手渡された。

第七章

 

ラトロは軟弱とギリシア文化と音楽と神々と砂糖が嫌いだった。酸味の強い葡萄酒を好み、これに蜂蜜や固めた雪を混ぜたりせず、そのまま土のなかに埋めて保存した。彼は訪問者を受けつけなくなっていた。口数はだんだん少なくなった。岸辺にたたずみ、雲と藺草と砂埃と花々にかこまれて暮らした。手を前に差しだし、沈黙を聴衆とすることを好んだ。沈黙はとりわけ静かな岸辺の一角に宿ったようだ。一千歩{マイル}先からも、女が機を織る音が聞こえてきた。二千歩先からも、犬がローマの門で吠えたてているのが聞こえた。石斑魚{うぐい}や川梭魚{かわかます}が川面を尾鰭でたたいたり、獲物に襲いかかる音がまるで大音響のように伝わってきた。鴎の鳴き声、蛙の喉を鳴らす声、黄昏の大気にほのかに広がる血、それらすべてがあいまって、野のはずれに、ポルキウスの土手に、尋常ならざる緊迫感をもたらすのだった。井戸はなかった。彼は川に近づいていく。ぬかるんだ土にひざまずくと、川の水を手で掬い、ティベリスの恵みをいただくのだった。彼は一本のポプラを誇りにし、それを大切にした。川辺にのびる木陰は淡く、かぼそかったが、夕暮れどきの焼けつく残照を男一人さえぎるには十分だった。ポルキウスはその影に滑りこみ、夜が降りてくるのを待つのが好きだった。彼はこう言っている。「流れるこの黄色い水、このポプラ、飛び跳ねる蛙、獲物をねらう石斑魚、遠くで犬の吠える声、葉むらのつくる陰に金色のしずくを飛ばしながら水浴びする子供の歓声、川に浸している私の足。幸福がやってくると、言葉は際限がなくなる。意味もなくなり、終わりもなくなる。」

セネカによると、彼は日に二回は黄色と緑の葦の原に分けいって裸になり、水に浸かるとまるで子供のようにはしゃいだという。ティベリスの川面で性器をこすり、そそりたった男根を暗い水面に映して遊んだ。彼は言う、思い出に浴みすると、風景は変わらないのに、皮膚だけが勃起させた後で縮こまった男の性器のように皺寄る、と。そして「思い出は真実ではない。贈り物なのだ」と語った。さらには「男の想いは太陽に見られると、そこで止まる」とも語った。セネカはこう伝えている。「精神の業績にポルキウス・ラトロは大きな尊敬の念を抱いていた。だが彼は、書物や建築やフレスコ画にもまして、理にかなった論述こそ市民の賞賛を得るにもっともふさわしものだと考えていた。」彼は、合理性はつねにその起源の影を引きずっていると言い、その起源を狩人の戦術と比較していた。精神にしろ、その業績にしろ、彼にとってはたんなる自然のかけらでしかなく、それをその他たくさんの枝や葉にまぎれて見えない一本の枝にたとえた。理性など、樹木全体から見れば複雑に入り組んだ血なまぐさい若芽にすぎなかった。思考や都市の秩序にしろ、その都市の住人の風俗にしろ、それ自体がすでに理屈であり、かりそめのものにすぎなかった。ポルキウスいわく、幼年期に頭脳のなかで芽生えたものは自立していないちっぽけなものだ。成熟すると、それはもつれた髪の結び目のようなものとなり、やがてあらゆる種類のより糸や布地をつぎあわせた絨毯となる。たとえば、季節や眠りや消化や家庭や都市や時代など、絨毯はそこから大いにその力ないしは図柄を引き出しているのだ。彼は言う。「理性など、歯や舌や唾が果たすさまざまな役割に比べれば、何の利点も何の豊かさもない。」さらには「竪琴や幾何学のコンパスや、もしaであるならばbであるというような公式をから成り立つ弁証を見ていると、ああ、これらの物はなんと切ないのだろうと思い、感動で涙が出てくる」とも。彼はまたこう考えた。数々の街から成り立つ帝国は、ときおり大気のなかに無用の蜃気楼となってわきあがる蒸気を土台にしている。時間に流れがあり、空間に方向があり、人間の命に必然があり、宇宙に定めがあり、流れる血に大義があるというのなら、無限には顎があろう! 彼は言う、影が集まってできた反映にすぎないこの帝国で、思想が無私の認識であると信じている人々にはどれだけ自分がその無私にこだわっているかがわからないのだ、と。彼は言う。「すべては子供や鵞鳥や木々や女たちの足もとを歩む影なのだ、船乗りの行く酒場を通り過ぎる影なのだ。私は人々を見ているのでも色を見ているのでもなく、それにつきそう茶色に揺らめく斑点を見ているのだ。私は道の石や砂の上を、その道に沿って生い茂る草や麦穂の上を静かに歩んでゆく影の足音を聞いているのだ。毎日、太陽が強い光から淡い光へと移ろってゆくにしたがって影が長く伸びてゆくさまは、目のうえを移動する角膜の斑痕のようだ。かつて私はティベリスのほとりをよく歩いたものだった。ティベリスはローマを流れる川だった。ローマは街だった。君は憶えているか、岸辺で揺れる昆虫のように小さい漁師の網を。小指よりも小さい八人から十人くらいの漁師たちが、肩から灰色の影を落としながらゆっくりと黄色い川のなかに入ってゆく。さらに遠くでは、まるで銅の手鏡の上のぼんやりとした反映のように雲の垂れこめるオスティアの河口の霧にまぎれ、仲間に遅れた引き網舟がひとつふたつ、迫りくる夕闇のなかを帰ってくる。私のすぐ目の前には鵞鳥が列をなして歩いていた。全身がほとんど黄色に染まり、赤く縁どられた鵞鳥だ。ティベリスと冥府のアケロンはひとつの川だったのかもしれないし、どの川も女の子宮にたくわえられている羊水に似ているのかもしれないし、あるいはまた、われわれの身体はこの岸辺に輝く光や足もとからのびる影に包まれているが、それとは別の岸辺もあるのではなかろうか。なにもかもが赤い。川の浮橋の手すりに乗せた私の手も夕日に染まって赤い。たぶん私の顔も赤いだろう。だが、なにひとつ私の顔を見ているものはない。」

 

 

第八章

 

妻が死んだとき、彼はエジプトの商人から小さな皮張りの太鼓を買った。それをたたき、鬨の声をあげた。その後から子供たちが続き、笑い、踊った。アウグストゥスは彼を含めた十人ほどの雄弁家を自宅に招いた。そのとき彼の頭はすでにがたついていたようだ。がたつく deglinguer の語源である declinquer は北海の船乗りが使っていた古い言葉である。船の外板 clin をはずすということで、沈没しそうになることも意味した。さて、この面接と弁論コンクールがどのような次第になったのかは定かでない。アンナエウス・セネカもこの点については何も伝えていない。いずれにせよ、皇帝が帝都からただちに立ち去るように命じたことだけは事実である。
前九年、勅命を受けたアンナエウス・セネカはスペインから友人を迎えにやってきた。ポルキウス・ラトロは自分の小屋もポプラも川原も石斑魚{うぐい}も捨てようとしなかった。縄で縛るしかなかった。愛馬に彼を乗せると、手を荷物に縛りつけた。彼は赤土の故郷に連れ戻された。コルドバの街とグアダルキビル川をふたたび目にすることになった。一行を乗せたガレー船はナルボンヌの港からマジョルカ島のパルマを経て、マラガの港に入った。航海の途中、彼は魚の空揚げと水に浸した小量の乾パンしか食べなかった。スペインの土を踏みしめたとき、彼は川辺か海辺に住まわせてくれと請うた。

 

 

第九章

 

晩年の五年間、コルドバから八マイル離れたセネカの領地のはずれの森でひとり暮らした。片目を失ったにもかかわらず、なお狩りをし、魚を釣った。彼はせきこむようになったが、それは日に二回は水浴びをしたいという欲求に勝てなかったからだった。山から流れてくる川の水は身を切るほど冷たかった。ある冬の朝、鹿を追って丘陵をくだる早瀬を渡ろうとして、ふとしたはずみに胸もとまで水に浸かった。だが、服も羊毛の肩掛けも乾かさず、水がしたたり落ちるままにした。山あいの切り立った道に入ったとき、彼は切り株につながれた山羊にでくわした。山羊はじっとあたりを見まわしていた。そして不気味な鳴き声をあげた。彼はその鳴き声に聞き入り、戦慄した。彼はこのときひいた風邪から快復することはなかった。少なくとも息子のセネカ(哲学者)がポルキウス・ラトロの死にまつわる事情を語るに際しては、そのように言っている。

裏の畑には菰{まこも}を植えていた。菰は大量の水を必要とする植物で、彼はこの実を挽いて粉にしていた。彼は言う、「せめてわが言葉の生き延びんことを!」と。家の前を通りかかる牛飼いたち、あるいはひと碗の乳や藁束を求めて訪れる猟師たちにはこう言った。「箪笥を欲しがり、相手を説き伏せるための理論{システム}を欲しがり、女を、箒を欲しがる男には用心しろ!」

ときおり、領地内の酒場に姿をあらわすこともあった。青い李を食べながら賽子遊びに興じた。ある夜、床についた彼は恐ろしい夢を見た。手足を震わせながらセネカの館の使用人にその夢を語った。戦場で死んだ息子が夢にあらわれたと。汗と涙にまみれ、叫び声をあげて彼は目覚めた。だが彼には息子などいなかった。それは前四年のことだった。キリスト紀元前四年、イエス・キリストは飼葉桶の中で生まれ、母親は股を血まみれにして藁にうずくまっていた。その場に居合わせたのは、優しい声で鳴く牛と低くいななく驢馬だけだった。場所はヨルダン川西域、エルサレムの南に位置するベツレヘム。ローマ暦では七四九年のことだった。マルクス・ポルキウス・ラトロは言う。「この世に人間らしい感情はめったにない。この私でさえ、年に三度か四度しか感じない。だが身の回りにこの気持ちをわかちあえる人はいない。」私はラトロの名のもとに残されている他のどの言葉よりも、これが好きだ。

 

 

第十章

 

アンナエウス・セネカ(ラトロがアウグストゥスの寵を失ったとき、彼をスペインに戻すべく、すべてを託されたのがこの腹心の友だった)が伝える死の経緯は、ことのほか暗い。それは小春日和の暖かい冬の日のことだった。彼は馬で草原に出ると、小さな木立に囲まれた泉に向かった。乗ってきた牝馬から降りると、泉に流れこむ清流で手を、腕を、髭を、刈りあげた頭を洗った。面をあげると、二十歩ほど先でひとりの女がひざまずき、威勢よく石に洗濯ものを打ちつけているのを見かけた。女の口からは生めかしい吐息がもれていた。彼はその隻眼をもっと遠いところ、丘の頂あたりにそらそうとしたが、どうしても視線は若い女のほうに向いてしまうのだった。女は大きな尻をつきだして、トゥニカやトガを掌でたたいていた。女は彼の誘いに応じ、小屋までついてきた。小屋には、かつてそこに詰めこまれていた科木の匂いがし、部屋は三つあった。灰の匂いも満ちていた。彼は土間にじかに炉を掘り、その上を板一枚でおおっていた。彼は女に鼻を寄せ、その匂いに満足した。女は向かい合って彼の膝に座り、男根の上で腰を上下させて快を得ようとした。彼は八回も九回も長く射精し、それまで経験したことのない悦びを味わった。彼は少年期を過ぎたころ、ある年増女とこんなふうにして性を交わしたことがあったが、その名前を思い出すことができなかった。彼は女に金を払い、家族のことを尋ねた。彼女はオスク人だった。彼は女にしばらく一緒に暮らさないかと持ちかけ、その代価として馬を与えることで二人は合意した。女は二人が寝る部屋でほとんどの時を過ごした。部屋の戸口からはそれまで染みついていた匂いとは別の匂いが漂いはじめた。それは重くて甘く粘っこい匂いで、それを嗅ぐと彼はたちまち勃起した。女の汗が発散する酸っぱい匂いも気に入っていた。女はもの静かだった。女はヒヤシンスが好きだった。ヒヤシンスの小さな釣り鐘の形をした花が好きだった。二日目の夜、彼は女の背中をかかえるようにして眠りにつくと、女は彼の性器を尻の間にはさみこんだ。彼は孤独が自分から立ち去ったと感じた。これは夢にちがいないと思った。そして、このオスク女と同じように振る舞ったあの年増女の名前が思い出せなかったことで、自分の人並はずれた記憶力も去っていったのだと思った。女が眠ってしまうと、彼はランプのほの明かりのなかで、女の乳房を見つめ、それに触れ、指先で柔らかな感触を味わった。セネカは、まだあと二つラトロの言葉を伝えている。彼は快楽の後には必ず、大きな炉部屋の壁にかけてある鏡に向かう習慣があった。彼は顔の傷痕とつぶれた目と白い眉を見つめながら、こうつぶやく。「なぜに裏切る、不意の涙よ」〔原註4〕彼が「涙」という言葉で何を言おうとしたのか、よくわからない。だが、誰に聞いてもそれはわからないだろう。彼は死が近づいた最晩年の日々、セネカにこう語ったという。「なぜしゃべる。唇を開けば歯が寒いではないか。」彼は前四年の冬に死んだ。性器はまだ湿っていたが、先端はすでにしぼんでいた。彼は銅鏡に己の姿を映した。その隻眼に幸福のきらめきが見えた。彼は喉をすっぱりと切り裂いた。血がごぼごぼと音をたてて噴き出した。オスクの女はもらった馬に乗って逃げ、その行方は知れなかった。(了)

 

*4)ミュレル(Mueller)の校訂したテクストは意味をなさない。むしろ《Quid me intempestivae proditis lacrimae?》(Pourquoi me trahissez-vous, larmes inopportunes? なぜに裏切る、不意の涙よ)と読みたい。

*37 理性(その2)

原書表紙(本文わずか50ページ)

第四章

 

ウァロ〔古代ローマを代表する碩学〕はおびただしい著作を残しているが、そのなかに登場する古代ローマ人はギリシア人の風俗や哲学、空虚な思想、弁証の手続き、理論の便法などの発明を痛快にこきおろしている。ウァロはその小説のある登場人物にこう言わせている。「哲学者などというものは口論ばかりしている人魚{シレーヌ}のようなもので、そのあいだにオデュッセウスは通り過ぎてしまう。」ラトロによれば、このウァロさえも、またルクレティウスでさえも、ギリシアの思想におびえているとみなしていた。アカイア人たちとその子孫の作品には、神々はギリシア語で語っていたという思いが染みこんでいる。ギリシア人が「ロゴス」と呼び、また同時に彼らにとっての道理をも意味したその言語は、むろんオリンポス宮殿で語られ尊ばれた言葉だったが、ポセイドンをまつるタイナロンの岬の傾斜地や入り江に生きる漁師たちも使っていた言葉だった。古代ローマ人は自分たちが使っている言葉の持つ猥雑な起源の記憶を失うことはなかった。彼らは恥じらいもなく、自分たちの言語が街と同じように木の端切れと石の塊と人間と、そして雨に対する恐れからできあがっていることを認めていた。

ラトロは理{ラティオ}と情{アフェクトゥス}はたがいに切り離すことができないと言い――正確を期すると in ratione habere aliquem locum affectus〔理にはその一部に情が含まれている〕――また、理が先走ってしまったため、情はそれにぶらさがっているとも言い、最終的には「理にかなった思考はおそらく、より情の深いものから作られたものだ」とも言った。

彼は言う、われわれはこの人生において、いつも些細なことで不安を呼び起こす、それは小さな騾馬の悲鳴であり、思考は山のなかの板張りの避難小屋であり、書物は今を流れる時から逃れるためにあり、寝台は眠りと羽毛のなかで縮こまるためにある。

ようするにこれもまた、「マルケルス〔「ローマの剣」と称された古代ローマの武将〕の衝突」のひとつであり、ラトロはそれをさかんに振りまいたのである。

私は、ラトロを駆り立てたこの思考の動きを他にあまり知らない。ときにはこれに似たエピソードもある。アルキメデスにとって、パスカルにとって、ヴィトゲンシュタインにとって、数学は火事からの、肉体的苦痛からの、そして同性愛の欲望からの逃避だった。アルキメデスは幾何学の問題を解くことに没頭するあまり、シラクサ劫掠の際に街が燃えていることにも、熱い白い灰が自分の手に降りかかっていることにも気づかなかった。この地上に大英帝国を築きつつあったディズレーリは“Never explain.”〔いっさい釈明するな〕と語った。このディズレーリことビーコンズフィールド伯爵は次のようにつけ加えることもできたかもしれない。すなわち、その根拠を問われれば主権は揺らぐ、と。権力というものはそもそも野蛮なものでありながら、その根拠や起源を隠しうるかぎり、神に似ている。人それぞれが今ここにあることをさかのぼれば、快楽の野卑なうめき声があり、そのイメージはふだんあまり脳裏に浮かんでくることはない。ノルマンディーのモルターニュにエミール=オーギュスト・シャルティエとして生まれた哲学者のアランは、何かを断るとき、けっしてその理由を言ってはならないと主張した。なぜなら、ひとたび正当化をはじめれば、断るのをやめるはめになるから。最後に私は、ポルトガルのブラガンス大公の軍事的才能について語ったリーニュ公爵の言葉を喜んでここに書き写しておこう。ドン・ジュアン・デ・ブラガンスは七年戦争のとき将軍としてオーストリア軍に加わった。リーニュ公爵はこう言っている。彼の言うことはいつも理にかなっていた。というのも、彼は敵にも理があることを想定していなかったから。

 

 

第五章

 

トゥリウス・キケロはめったに演説することがなく、したとしても小数の聴衆の前で、しかも室内でおこなったが、ポルキウス・ラトロは好んで公衆の前で演説した。戸外で演説した。呼び出しを受けると、自宅のそばにあるオリーブの林の陰をその場所に選んだ。ラトロはあまり仕事をしなかったが、ふと思い立つと延々と仕事をした。五十時間ぶっ続けに働き、すべてを片づけた。

ポルキウスの妻はウンブリア地方の出身だった。娘は容姿も表情もまさにローマ女だった。その瞳は青く、ちぢれたブロンドの髪をシニョンにまとめ、豊満な胸は両わきに広がり、肌はあくまでも白く、太陽にはけっしてさらさず、口数は少なく、気性は激しく、唇は赤かった。ウィミナリスの丘にある邸宅からはティブルティーナ街道に響く馬の鉄具といななきが遠くから聞こえてきた。前二四年、インドからの皇族の使節がローマを訪れた。ちょうどこのころ、彼は毎朝夜明けととも古い唄をうたい、しつこいルフランを繰り返すようになった。「Semper! Semper!」(いつまでも!いつまでも!)。このあたりから彼の頭はおかしくなっていた。

狩りは彼のお気に入りの道楽で、書物や賽子遊びの趣味を凌駕していた。山に入るときには、その前日の黄昏どき、槍の手入れや馬の世話をする前に、彼は森の中に分け入り、雄鹿の鳴き声に耳を澄ました。性欲にさいなまれた長い叫び、喉の奥からしぼりだすその荒々しい鳴き声、いきなり甲高く響いたかと思うと、ぴたりと止まり、丘を下り、谷を渡るその声に、彼は嵐が迫っているときと同じ胸騒ぎをおぼえるのだった。

ほぼこの時期、彼はウィミナリスの丘を、街なかの丘を離れたいと思った。彼はティベリス〔テヴェレ川〕の近くに住まうことにした。ピンキウス山の向こう、フラミニア門の北に居を移した。平石を積みあげただけで漆喰も塗らず、窓もないたった二部屋だけの小屋で彼は満足した。妻と娘はすでの彼のもとから去っていた。彼は二年かけてこのあばら屋を新しい黄色の瓦でふいた。ここを訪れてきた者(彼にはたくさんの弟子がいた)にはつぶした葡萄と黒パンを与えた。床は土間だった。そこに羊毛の敷物をしいて座った。彼は礼服{トガ}を捨て、白い略衣{トゥニカ}をまとい、肩には灰色の羊毛の生地(十九世紀になってショールと呼ばれたもの)をかけた。朝は髭を焦がすのをやめた。その顔はたちまち白く短い髭でおおわれた。小屋の戸口に立っても、岸辺に乾いた藺草が密生しているために川の景色は見えなかったが、途絶えることのない水の流れる音だけは聞こえた。みずから愛着を抱き、また他人も喜ばせたあの挑発的な名言が生まれたのはこのころのことだった。いわく「真理の探求とは、つまるところ花弁の奥を探らんとして馬に乗ることに帰する。そもそも正義とは、ローマの乳母である雌狼が吠えるとき、その唇を押し広げる飢え以外のどこにあるだろう。」古いフランス語では狼にしか吠える[hurler]という言葉を使わなかった。猫にはミャオ[miauler]、人がわめくときにはバヴェ[baver]と言った。若者はポルキウスの言葉を聞きたがった。哲学者については「知恵につける薬を自分は知らない」と語った。ポルキウス・ラトロ特有の言い回しにはいくつかのヴァージョンが残っている。たとえば「おおやけ{パブリック}とは、いちもつ{メンツーラ}にひっかける亜麻の下ばきのことである」とか「われわれは糞をする。われわれは小便をする。われわれは雌どもの陰門のぬくもりを欲する。私は生涯で二度、万人の利益について考えたことがあったが、いずれのときもまぼろしだった。」ローマに商館が建てられたとき、インダス川のほとりからやってきた賢人が彼に慈善と人間の尊厳について説いたことがあったが、そのとき彼はこう言った。「あなたはじつに正しいから、私にはあなたが夢を見ているとしか思えない。」そしてこんな言葉も残っている。「みずから進んですることに良いことはない。」

 

 

第六章

 

友のルキウス・ユニウス・ガリオは元老院議員になった。ポルキウス・ラトロは何にもならなかった。川のほとり、乾いた石を積みあげた小屋の前には、洪水と雨でむきだしになった大きな石がごろごろしていた。小屋の裏手にはオリーブの森と麦畑があり、刈り入れが終わって地面に干してある麦はサンダルの革と皮膚の隙間に入りこんでちくちく刺した。さらに遠くには、葡萄畑と野原が広がっていた。

彼の講義料は高かった。たびたび馬を買った。その生涯の盛りの時を狩りに費やした。よくまだらの小さな馬に乗り、クピエンニウスとともに出歩いた。前一九年のある日、槍を八回投げて、五回しとめた。しとめた獲物の一頭は枝角が退化した鹿だった。切り落とした角の根元に、彼はそれをギリシア文字で記した。その枝角は左右が非対称だった。片側がその反対側と三対一の割合で縮まっていた。剥製にした頭部はいびつで弱々しく、シグマの文字に似た形をしていると記した。前一九年の九月二十一日、汗にまみれてギリシアから帰り、ブリンディジの港に上陸した五十一歳のウェルギリウスは咳をしているときに息を詰まらせて死んだ。

クピエンニウスは、性交の前、女が体を洗うのを好み、あの部分を白いうすぎぬで覆うよう求めた〔原註3〕。全裸になった女を見るのは忍びなかった。ローマ中がこのクピエンニウスの奇癖を嗤った。彼は股に小さな白い布をつけた女でないと勃起しないのだと言った。これはいわゆる宮廷風恋愛のはしりである。このようなクピエンニウスの性的奇癖の起源はホラチウスのなかに見られる(『風刺詩』一巻第二歌)。ポルキウスは、クピエンニウスがこんなふうに振る舞うのは仰向けの女を抱くからだと言った。また、雄牛に仰向けの雌牛と交尾させるようにしむけることなどできないとも語った。ポルキウス・ラトロは、昔ながらの風習、つまり more ferarum(後背位のことだが、直訳すれば「野生の動物の習慣に従って」となる)で女を抱き、目が悪いので女の性器を鼻でたしかめる必要があるのだと言った。

彼の妻が離婚を求め、裁判を起こしたとき、娘も家を出た。彼は匙で食器をたたくのが好きだった。重々しい声に乗せて発せられるその不躾な言葉が弟子を夢中にさせればさせるほど、近所の顰蹙をかった。娘が家を出てしまうと、彼は元老院議員のご機嫌をうかがいに回った。施しの時間になると、クピエンニウスを伴って@貴族{パトロン}から貴族へと渡り歩いた。彼らは言った。「なぜ女たちは顔に下着をつけないのか。」ひとつの季節が過ぎるあいだ、クピエンニウスとポルキウスは毎朝のようにローマでもっとも勢力を誇っていた貴族の戸口に立ち、元老院を召集して、女の顔を覆わせる法律を採択すべきだと主張した。彼らの言動に憤慨した四人のご婦人連が彼らをそれぞれ帝国の正反対の辺境へ追放しようと働いた。ポルキウス追放運動をなんとかとどめたのは、皇帝の老いた妻リウィアとアウグストゥスそのひとだった。アウグストゥスはポルキウスの言葉をよく引き合いに出した。「私の身体は淀んだ泥の川だ。私の住まいはかろうじて立っている石の山だ。今朝私が柘植の木片に書きつけた言葉は、蝸牛が萵苣{レタス}の葉に残したきらきら輝くよだれにも及ばない戯言だ。」皇帝は胡瓜の薄切りやサラダ菜など新鮮な野菜の涼味を好んだ。食事することを前もって告げると、毒を盛られる恐れがあったので、人の手がかからない即席の料理が好きだった。アウグストゥスが金本位制を定めたのは前一五年のことである。
前一三年、セネカはローマを離れ、スペインに帰った。ポルキウス・ラトロはその送別会に出席している。二人は厩舎で馬が足踏みしている音を聞いていた。彼らはほとんどしゃべらなかった。黙って腕を取りあった。(続く)

 

*3)直訳すると「白い布でおおわれた性器しか愛でないクピエンニウス」(…mirator cunni Cupiennius albi)となる。

*36 理性(その1)

自分が訳したもののなかでもっとも愛着のある作品。ここに「理性」と題された短編が収録されている(今は亡き青土社の編集者津田新吾の装幀)

第一章

 

たがいに友情を誓いあった四人のスペイン人がいた。クローディウス・トゥリヌス(父)、アンナエウス・セネカ、L・ユニウス・ガリオ、そしてポルキウス・ラトロである。このうちローマに旅したのは後者三人だけである。人生の大半をローマで過ごしたのは後者二人だけである。そして、スペインの赤土にふたたび戻ろうとしなかったのは最後の一人だけだった。

マルクス・ポルキウス・ラトロは、ローマ暦六九六年(紀元前五七)、コルドバの騎士階級の家に生まれた。その生涯の終わりころ、彼はしばしば自分は四つのもの、あるいは三つのものを愛したと語った。その三つとは声と性交と森だった。ときにはこれに書物を加えることもあったが、ごく小数しか味わっていないと言っている。彼は九十七の論判演説{コントロウェルシア}〔帝政初期に流行した仮想の訴訟パフォーマンス〕を書いた。アンナエウス・セネカは、百十は書いたはずだと主張している。彼が仮想演説{ロマン}で評価したのは精力だった。望んだのは、声がみなぎり、筋立ては一気加勢に進み、作者がもはや統御できなくなるところまで達することだった。セネカはこう書いている。「彼の声は野太く不明瞭で、徹夜と不摂生のためにかすれていた。だが、語り始めの部分では力なく思えたその声は肺の力のおかげで徐々に高まり、いつしか独自の語り口のなかで声量を増していった。彼はけっして声の訓練をしようとしなかった。スペインの粗野で武骨な習慣を捨てることはできなかった。いつも成り行きまかせに生きていた。自分の声に対して特別なことはいっさいしなかったし、最低音から最高音へと段階を踏んで声を上げたり、その逆に最高音から同じようにゆっくりと下降させるという配慮もしなかった。マッサージで汗を流すこともしなかった。散歩という手段によって呼吸をよみがえらせるということもしなかった〔原註1〕。」働き盛りのとき、度重なる徹夜のせいで彼の右目は少しずつ視力を失っていった。書付板の近くに燭台を置いているせいで炎が板に塗ってある蝋に反射し、それに近いほうの右目が焼けたのだという。彼は鉄鏝でカールさせた髪を嫌っていた。いつも猛烈な勢いで書き、自分が書いたものについては、鹿や山猫が茂みを飛び越えて魂のなかに入ってくるようなものだと言うのだった。彼には、当時のローマのあらゆる弁士や仮想弁論家がうらやむような記憶力があった。だがじつは子供のころ、彼はいっさいの記憶を失ったことがあった。この記憶喪失はちょうど、カエサルがラヴェンナの城門を出るにあたって、ルビコン――ラテン語で「赤く染める」という意味――と呼ばれる小さな川の前で命がけの決断を下した時期に当たっている。ポルキウス九歳のときだった、雌牛の蹄が顔面にあたり、六日間にわたって気絶したのである。セネカが伝えるところによれば、この事故で記憶を失ったために、忘れ去られた一時期の生活の細部をあらためてそらで憶える必要に迫られたのだという。彼の顔には、耳の上から眉の上にまで達する傷痕が残った。雄牛や雌牛の鳴き声には生涯おびえさせられた。十五の歳を数えてなお、牛が草をはんでいる野原は避けて通ったという。

前四三年、彼はアンナエウス・セネカとともにローマに赴いた(この人は四十年後にスペインに戻り、ヘルウィアという女性と結婚して、三人の息子をもうけた。アカイア総督で聖パウロとも面識のあったセネカ、皇帝ネロと命運をともにした哲学者のセネカ、そして銀行家のセネカの三人である。この末弟の息子がルカヌス〔カエサルとポンペイウスの抗争を描いた『内乱賦』の著者〕である)。この二人のコルドバ出身の青年はマルルスに師事した。マルルスは命じた、素っ気ないこと、荒いこと、唐突であること、短いこと。彼が要求したのは、声においては素っ気ないほど明確に区切って発音されること、言葉遣いにおいては荒々しいほど的確であること、文の構成においては唐突なほど意表をつくこと、持続においてはぶつ切れでほとんど短すぎると思われるほどに迅速であることだった。耳を捕らえるための素っ気なさ。心に触れるための荒々しさ。注意を引き留め、心のリズムを乱すための唐突さ。退屈に流れるよりは飢えに留まらせるための短さ。

 

*1) H・ボルネックが校訂したテクスト(H. Bornecque, Paris, Garnier, 1932)には異文がある。
《Vox robusta sed surda, lucubrationibus et neglegentia, non natura infuscata; beneficio tamen laterum extollebatur et quambis inter initia parum attulisse virium videretur ipsa actione acrescebat. Nullam umquam ili cura vocis execendae fuit; illum fortem et agrestem et Hispanae consuetudinis morem non poterat dedisceres: utcumque res tulerat, ita vivere; nihil vocis causa facere, non illam per gradus paulatim ab imo ad summum perducere, non rursus a summa contentione paribus intervallis descendere, non sudorem unctione discutere, non latus ambulatione reparare》.

*訳註――参考までにこのラテン語テクストに該当するアンリ・ボルネック自身の仏語訳をここに翻訳しておく(Seneque le Pere, Sentences, divisions et couleurs des orateurs et des rheteurs, Traduction du latin par Henri Borneque, Revue par Jacques-Henri Borneque, Preface de Pascal Quignard, Aubier, 1992)
「その野太い声は徹夜と不摂生のためにかすれていたが、生来不明瞭なわけではなかった。だが、ひとたび肺の力のおかげで声が高まると、当初力なく思えたその声が演説の途中から力強くなっていくのだった。彼はけっして声を鍛えようとはしなかった。スペインの粗野で無骨な習慣を捨てることはできなかった。成り行きまかせに生き、自分の声のために特別なことは何もせず、最低音から最高音まで段階を踏んで声を上げ、その逆に最高音から同じようにゆっくり下降させるなどということはしなかったし、マッサージで汗を流したり、散歩で肺を鍛えるようなこともしなかった。」

 

 

第二章

 

ポルキウスは齢を重ね、大いに書いた。前四三年十二月七日、キケロが輿の垂れ幕から頭を出したとき、アントニヌスの命を受けたポピリウスによってその頭を切り落とされた。若きラトロはギリシア人たちが「ロゴス」と呼び、古代ローマ人たちが「ラティオ」と名づけたものに食ってかかった。すなわち理性のことである。彼は次のような論法でパラドックスを展開した。「相手を議論でうち負かす者に無理があり、議論が下手なものに道理があることもありうる。」もっとも年長の部類に入る弁論家たちは、いちいち自分たちの弁論術に難癖をつけるこの挑発に苛立った。ラトロはあまりに熱っぽく喉の奥から声を放ってはならぬと言った。彼の声は不明瞭だったが、確信から生まれる精気があった。この精気はその隻眼にも読みとることができた。徹夜明けに起きて活動するのも厭わなかった。馬に乗って狩をするのが好きだった。彼は生{き}と素{す}の味わいを知っていた。彼の教えについた者たちの記憶には、次のような言葉がもっとも鮮烈に残った。「いつも不満をかかえている者にとっては、理屈の通った思想はフードのついたガリア人の外套である。」

この言葉を発したとき、彼はすでに四十の歳を数え、すっかり奇矯の人となっていた。たしかにこの言葉にはあまり関連性のない二つのイメージが結び合わされている。このような抽象的な言葉と外套のフードとの衝突を賞賛したのはマルルスの教えだった。彼は、論判{コントロウェルシア}などと言わず、申し立て{カウザ}と言うべきだと主張した。また、雄弁{スコラスティカ}とか弁論{デクラマティオ}などという言葉は使わず、発言{ディクティオ}と言うべきだとも主張した。彼が仮想演説{ロマン}を読むと、その朗読を聞こうとしていつも聴衆が押し寄せてきた。アンナエウス・セネカはこう書いている。「これから発表しようとする演説を暗記するにあたって、彼は原稿を読み返すことはしなかった。書いて憶えた。この現象は注目するに値する。というのも、そもそも彼が原稿を書くとき、ひとつひとつの言葉を選び、数十もの方法で文章を絞りあげながらゆっくりと書くようなことはせず、いわば彼が話すときと同じ猛烈な勢いで書き飛ばしたからである。いったん暇が与えられると、彼はありとあらゆる遊びに、ありとあらゆる気晴らしに没頭した。いったん森や山のなかに入ると、その疲労に耐える力といい、狩の巧みさといい、山で育ち、森で育った農民にもひけをとらなかった。幼年期の教育によって培われた天分は彼にたぐいまれな記憶力を与えた。それに加えて彼は忘れてはならないことを頭におさめ、とどめておく比類ない技術も獲得した。そのため、彼の記憶のなかにはそれまでに発表したすべての演説がしまいこまれていた。こうして備忘録は彼にとって不要のものとなった。彼は心に直接書き付けるのだと言っていた」(父セネカ『論判演説集』第一巻十七節 Controversiarum liber primus, XVII)〔原註2〕

 

*2)ここはエルネスト・マレシャル(Ernest Marechal)の翻訳に従っている。(Histoire romaine depuis la fondation de Rome jusqu’a l’invasion des Barbares redigee conformement aux programmes officiels, Paris, Delalain, 1881, p. 414)

 

 

第三章

 

ポルキウス・ラトロは森と山と渓流、牛の匂いと温かみ、さかりのついた雄鹿の鳴き声を好んだ。彼は理性が@合理的{ラシオネル}であることを疑う一方で、それが@理性的{レゾナブル}であることにさえ異議を申し立てた。セネカは次のような対話の断片を残している。

――知性はどこから出てくると思うかね?

――知性は闘争への欲望から出てくるものだ。

――その場合、知性が他人を打ち負かす手段を与えてくれるものであるならば、その目的は真理ではなく、勝利であるわけだ。

――いや、論争が目指すのは勝利ではなく、勝鬨なのだ。さてこの勝鬨だが、これは勝利において満たされるわけでも、相手を死に至らしめたときに満たされるわけでもない。その要件とは、民衆の叫びであり、行進であり、祭典であり、流された血の光景であり、赦しの可能性なのだ。

――叫び、それはわかる。血、それも見える。だが赦しとは?

――赦すということは、「命を助けてやる」ということだが、「自分は死を宣することも、とりやめることもできるほどに強い」ということでもあるのだ。

ポルキウス・ラトロのこの身も蓋もない思想は、他の誰よりも――ルクレチウスよりもタキトゥスよりも――ローマの現実を物語っている。

一九一四年と一九四〇年の戦争は文明と非文明の区別を説得力のないものにしてしまったといえるだろう。いずれにせよ、この二つの戦争は合理性を殺戮の無秩序に対峙させることができるかどうかが問われた戦いだった。理性と文明がじつは野蛮な力からそれほど遠いものではなく、むしろ理性と文明はその仮面の役目をはたすことで増長してゆくものだということを認める思想は歴史にほとんど見られない。人受けのする多くの思想の面目を失わせるこの不愉快な思想を愛するまでに至った文明もほとんどない。古代中国があり、古代ローマがあり、そのローマにおいてはキンナ、カエサル、そしてラトロがいた。彼は古代ローマにふさわしいごくまれな思想のひとつを打ち立て――それはアテネやアレクサンドリアで生まれたギリシア的理論の著作に対してローマの特徴を際だたせるものでもあった――、しかもその思想をこのうえなく不快な結論にまで導いていったのだった。近代の大学教授たちは、古代都市の雄弁術教師のように、誰もがギリシア的教養で育まれているから、みずから好んでこのような思想を引き立てようとはしなかった。だがラトロの思想は、たしかに酔狂で、晩年に彼を襲った錯乱のあとがいくらか見られるものの、学校でまともに批判されたこともなかった。彼は、ローマ追放後も含めて、民衆から愛され続けた。(続く)

*35 音楽への憎しみ

007
(これは1997年に青土社から上梓したパスカル・キニャールの『音楽への憎しみ』に寄せた訳者あとがきである。思うところがあって、その一部を抜粋してここに掲載することにした)

チェーホフには「大学生」という掌篇がある。かつては国語の教科書に載っていたくらいだから、憶えている人も多いだろう。チェーホフ自身がもっとも気に入っているという作品だ。

神学校の学生イワン・ヴェリカポーリスキーは、やましぎ撃ちの帰り道、ワシリーサという老婆とその娘が菜園を営んでいる農家に久しぶりに立ち寄る。かつてあちらこちらの地主のもとで乳母をつとめていたワシリーサは「見違えちゃって、わかりませんでしたわ」と言う。彼は焚火にあたりながら、ふとペテロの話を思い出す。「こういう寒い晩に、使徒ペテロも焚火で体を暖めていたんだろうね」。大学生が新約聖書のエピソードを語り終えると、ほほえみを浮かべていたワシリーサが、ふいにすすり泣きをはじめ、大粒の涙が両頬を伝ってとめどなく流れ出す。焚火の明りで涙を見られるのを恥じるかのように、彼女は袖で顔を隠す。

大学生はその場を辞する。そして後ろを振り返る。

 

暗闇のなかで焚火がひっそりと瞬いていたが、そのあたりにはすでに人影はなかった。大学生はまた考えた。ワシリーサがあんなふうに涙を流し、娘があんなふうにどぎまぎしたところをみると、それは明らかに、いま自分が話した十九世紀前の出来事が、現代と——この二人の女と、そしてたぶんこのうらさびれた村と、自分自身と、すべての人々と、何らかのつながりを持っているということなのだ。老婆があんなふうに泣いたのは、彼が人の心にふれるような巧みな話術を心得ていたからではなく、ペテロが彼女にとって身近な存在であり、彼女がみずからの全存在で、ペテロの魂のなかで生じた出来事に関心を抱いていたからなのだ。
 ふいに喜びが胸にこみあげ、彼は立ち止まって一息ついた。過去は、と彼は思った、あるものからあるものへ流れ出る因果の鎖によって現在と結びついているのだ。彼はたった今、その鎖の両端をかいまみたような気がした——鎖の一方の端にふれたら、他の端もふるえたと思った。

 

ここでチェーホフは、たんなる「歴史」の連鎖ということだけを言っているわけではない。復活祭を間近に控えたロシアの「うらさびれた村」の寒々しく荒涼とした風景、その美しい描写こそ、この作品の要をなしている。やましぎ撃ちから帰る大学生の指はかじかみ、風で顔がほてっている。そしてふいに寒気が襲ってくる。

 

彼には、この突然の寒さが、もろもろの秩序と調和を破り去り、自然みずからがおぞけだって、そのために夕闇が思いがけぬ早さで濃さを増していくように思えるのだった。あたりは荒涼として、ことさら陰気な感じがした。川のほとりにある後家の菜園に火がともされているだけで、遥か一面、およそ四露里むこうの、村のあるあたりまで、すべてがひんやりとした夕闇に沈んでいた。(亀山郁夫訳、強調引用者)

 

大学生は寒さと夕闇に包まれている。自然そのものが寒がっている。そのために夕暮れは闇を急いでいる。自然がにわかにリズムを速めて、昼と夜とを交替させようとしているそのときに、自然と波長を同じくする内部生命の鼓動も速まる。彼の歩みも速まる。遠くに、かつて乳母だったワシリーサの家の明りと焚火がある。彼女は「見違えちゃって、わかりませんでしたわ」と言う。ワシリーサの優しい穏やかな微笑みと焚火の暖かさを前にして、彼は「前神学生レベル」の、「前イワン・レベル」の混沌に沈む。そしてペテロのエビソードを思い出す。

おそらく、チェーホフの「大学生」ほどキニャールの「ペテロの涙」を解説してくれる文章はないだろう。あるいは次のような文章を続けて読んでもらいたい。

 

君は憶えているか、ティベリスの岸辺で揺れる昆虫のように小さい猟師の網を。八人から十人くらいの、小指よりも小さい猟師たちが、肩から灰色の影を落としながらゆっくりと黄色い川のなかに入ってゆく。さらに遠くでは、まるで銅の手鏡の上のぽんやりとした反映のように雲の垂れこめるオスティアの河口の霧にまぎれ、仲間に遅れた引き網舟がひとつふたつ、迫りくる夕闇のなかを帰ってくる。私の目の前には鵞鳥が列をなして歩いていた。全身が黄色で赤い縁取りのある鵞鳥だ。ティベリスと冥府のアケロンはひとつの川だったのかもしれないし、どの川も女の子宮にたくわえられている羊水に似ているのかもしれないし、あるいはまた、われわれの身体はこの岸辺に輝く光や足もとからのびる影に包まれているが、それとは別の岸辺もあるのではなかろうか。なにもかもが赤い。川の浮き橋の手すりに乗せた私の手も夕日に染まって赤い。たぶん私の顔も赤いだろう。だが、なにひとつ私の顔を見ているものはない。(パスカル・キニャール「理性」)

 

これは、ローマを追放されてスペインの故郷グアダルキビル川のほとりに連れ戻されたポルキウス・ラトロが大セネカにローマの思い出を語る場面だ。もちろんラトロの口を借りて、キニャールが語っているのだ。まるでクロード・ロランの絵をみているような光景だ。ラトロの全身が夕日に染まっている。彼の顔面が熱くほてる。誰かが自分を見ているような気がする。「だが、なにひとつ私の顔を見ているものはない」。夕日が彼を見ているのではないか。いや、夕日は彼を見ているのではない、彼を包んでいるのだ。背後からも夕日は彼を見ている。包まれるとはそういうことだ。感動とノスタルジーが彼を包む。記憶がぶりかえす。ローマの思い出、幼年期の思い出、あるいは子宮内の思い出。彼はそこで時間が停止しているのを感じているのか、それとも逆流しているのを感じているのか。

もっと素朴に問う。なぜわたしたちは夕日を見て美しいと感じるのか。そして、その美しさを表現しようとした言葉を読んで、なぜ美しいと感じるのか。美しい文章が意味からできるだけ離れようとするのはどうしてなのか。美を求める言語の動きは、言語の奥へ奥へと遡行して、ついに意味から逸れる。夕日の美しさを書いた文章に意味などない。それはただ美しいだけだ。そもそも美しいと感じる心の働きはなんなのか。なぜ犬は夕日を見て吠えるのか。なぜ鶏は夜明けに鳴くのか。

キニャールは言う。

 

わたしにはあなたの言っていることがわからない。が、夜は明ける。わたしには言語が何を明らかにするのかわからない、が、雄鶏はぞっとするようなしわがれ声を二度繰り返し、日の到来を証す。自然は雄鶏のすがたで夜明けを吠える。(第一考 ペテロの涙)

 

「自然は雄鶏のすがたで夜明けを吠える」。鶏は夜明けに向かって鳴いているのではない。犬は夕日に向かって吠えているのではない。ラトロは夕焼けに包まれて、「たぶん私の顔も赤いだろう。だが、なにひとつ私の顔を見ているものはない」とつぶやく。イワンは「自然みずからがおぞけだって、そのために夕闇が思いがけぬ早さで濃さを増していく」と感じる。ペテロは明け染める庭のすみで、さめざめと泣く。

それが音楽だ。キニャールは言う。

 

お気に入りの音楽にはどれも、音楽そのものに付加された古い音がいくらかまじっている。ギリシア語本来の意味でのムーシケが音楽そのものに付加されているのだ。いわば「付加された音楽」、大地をえぐり、やがて、わたしたちの苦しみのもとである叫びをめざすもの、だが、その叫びは名付けようもないばかりか、その出所を見たことさえない。目に見えない音、永遠に視覚とは無縁で、わたしたちの内部でさまよっている音。まだわたしたちの目が見えないころ。呼吸もできないころ。叫ぶこともできないころ。だが、耳は聞こえていた。(第一考 ペテロの涙)

 

ペテロの涙、それはヨーロッパの涙だとわたしには思える。

ベテロはかつてシモンと呼ばれるベッサイダの漁夫だった。ペテロと命名し、「人を漁{すなど}る」漁師にしてしまったのはイエスだ。一介の田舎の漁師がカトリックの「礎」となる。ペテロは孤独だ。彼はイエスに従うことを決心した瞬間に、自分の名前を捨て、故郷を捨て、故郷の音を捨てた。イエスは孤独の極限を生きている。ユダヤ教団の制度から外れ、律法学者たちの欺瞞を攻撃するばかりでなく、その父と母に対してさえ「わたしはあなたたちを知らない」と否認し、「預言者は故郷では容れられない」とうそぶき、十字架の上の死に向かってひた走る。ペテロは大祭司アンナスの中庭でイエスを否認する以前にも、幾度となく迷い逡巡し、ついていけないと心密かに思ったにちがいない。しかし、その思いをイエスにはもちろんのこと、彼の仲間にも打ち明けることはなかっただろう。その孤独が大祭司アンナスの庭で突如として崩れる。庭の真ん中で車座になって火を囲んでいる、いかにも分け隔てのなさそうな人の輪に自分も加わり、暖をとろうとするが、おまえはわれわれの仲間ではない、あのガリラヤびとの仲間だと拒否される。イエスを裏切ると同時にあらゆる人の群れから追放されたペテロは、その孤独の極限で自然の咆哮を耳にし、それに包まれることによって、もっとも深いノスタルジーの波に襲われて難破する。福音書は「苦い涙」と書くが、わたしたちにはそもそも涙の種類を区別することができない。

モーセはピッチとアスファルトを塗った籠に入れられてナイルに流された捨子だった。そしてファラオの娘に拾われる。奴隷監督の横暴に腹を立てて殺し、シナイ山の麓に逃げる。そこでエテロという祭司の養子になる。彼はシナイ山に吹き荒れる風の音を聞く。それが神の声だった。そこで彼は神と「契約」する。土着の神であれば契約などいらない。なぜならその神は母であり、父であったろうから。

ヨーロッパはかつてケルトの民が住むところだった。ローマがそこを襲う。ガリアの首領ウェルキンゲトリクスはカエサルに破れ、ローマで処刑される。やがてローマは疲れる。そのローマをゴート諸族が、ゲルマン諸族が襲う。ケルトの民もゲルマンの民も文字を知らなかった。彼らはやがて自分たちの神話と聖書物語を融合させて、ヨーロッパの民となっていく。

わたしはときどき、ヨーロッパ人にとって古代地中海世界は目の上のたんこぶではないかと思うことがある。ヘレニズムとヘブライズム。ギリシア人とユダヤ人。いつまでたってもそれを越えることができないというコンプレックス。彼らは文化の起源としての古代地中海世界と彼らの存在の根源としてのケルト・ゲルマン世界にいつも切り裂かれている。音楽{ノスタルジー}はその亀裂から溢れだす。

ペテロの涙、それはアジアの涙であり、日本の涙であるようにも思える。

ナチズムあるいはファシズム、それは遠い歴史の怨念であるように思える。

パスカル・キニャールはそれを書く。歴史の夜を書く。