*47 矢は的に当たらない(承前)

今日は少し趣向を変えてというか、角度を変えて、ゼノンの矢についての話を続けてみましょう。

たとえば人類はどこまで100メートルを最速で走れるだろうか、という思考実験のようなものをやってみます。現在の100メートル世界記録は2009年の世界選手権でウサイン・ボルトが出した9秒58ですね。この驚異的な世界記録は永遠に破られないのではないかとも言われています。

はたしてそうか。あらゆる記録はいつか破られるとも言います。でも、人間が永遠に何かの記録を更新しつづけることはできません。かりにとてつもない肉体改造が行われたとしても、100メートルを0秒で走るなんてことはできない。走るのが肉体であるかぎり、0秒ということはありえない。光でさえ、約30万km/sという速度を持っているのだから(これは速度というべきなのか、単位というべきなのか、別の問題がありますが)。

では、どこかに人類最速の限界値があるとしたら、オリンピックや世界選手権はいずれ新記録を期待することはできず、ひたすら着順だけを競う競技ということになります。

その場合も、トレーニング方法、食生活や栄養の管理、筋力や睡眠にかんする分析やコントロール方法がどんどん開発、洗練されていくと、選手間の能力の差異はどんどん縮まっていって、記録も限界値のあたりでほとんど横並びになってしまう。そうすると競技者にとっても観戦者にとっても、競い合うおもしろみは徐々に失われていくことになる。

でも、ここで考えてみたいのが、計測方法と計測装置の精度の問題です。

かつて、といってもそんなに昔のことではなく、1960年代くらいまでは——われわれの世代だと10代前半くらいまでは——、速さを競うあらゆる競技は手動計時で行われていました。複数の計測員がストップウォッチを持って時間を計り、たしか平均値を出すのではなく、上と下をカットするのではなかったかと記憶していますが、正しいことは知りません。

いずれにせよ、手動計時では誤差が大きかったので、いつしか——80年代以降?——ほとんどすべての競技会場で電動計時のシステムが導入され、写真判定システムも加わって、可能なかぎり誤差や誤審が排除されるようになった。

細かい話はともかく、手動計時の時代には10分の1秒単位の計測だったように憶えています。それが電動計時、電子計時と移り、今では100分の1秒単位の計測になった。だからボルトの世界記録も9秒58と表示される。近い将来、1000分の1秒計時の時代がくるかもしれないともいわれています。

これほど精密なデジタル化が進んだ今、そんなに難しいことではないように思いますが、それはともかく、走るのは人間の肉体ですから、当然どこかに限界値がある。その限界値に向けて、計測器がどんどん細分化、精密化していくという事態を想像してみてください。

そう、これはゼノンの矢なのです。計測器が分割と分析の精密化をどんどん加速、更新していくと、ついに矢は的に当たらない。つまり、人間の走る速度は限界値に無限に近づいていくが、限界値には達しない。

でも、矢は存在するし、的も存在するし、矢は的に当たる。人間の肉体も存在するし、スタートラインも、ゴールラインも存在するし、人間の肉体はそのラインを通過するし、その限界値も存在する。計測器だけが無限を刻んでいるわけです。

しかし、計測器も機械です。物質から成りたっているわけですから、分割の限界値もある。すなわち無限を刻むということはありえない。

無限を刻んでいるのは、あるいは無限を刻めると錯覚もしくは妄想できるのは人間の頭脳だけだということになります。

ベルクソンは、それ(科学的分析)にノーを突きつけた。直感(intuituition)は分割しない、現実(le réel)を、持続(la durée)を生きるものである、空間を飛び越えるものである、飛躍(élan)するものである、それが哲学の領分であると。

今、ガストン・バシュラールの『近似的認識試論』(Essai sur la connaissance approchée)という著作を読み返しています。これは1927年にパリ大学ソルボンヌに提出された学位論文です(翻訳は国文社から昭和57年/1982年に、豊田彰・及川馥・片山洋之介訳で出ています)。

この論文を読み返していると、ベルクソンが生涯、ゼノンの背理と格闘したように、バシュラールはベルクソンの直感と持続という概念(concept))に生涯異を唱え——あるいは補正(rectification)を加え——つづけたようにも思えてきます。

バシュラールによれば、科学的認識とは先行する認識をたえず修正しながら、限りなく精密を極めていく、近似的な過程にほかならない。つまり、真理というターゲットには永遠に到達しない! 彼はこれを「不確実性の哲学」(une philosophie de l’inexact)と呼びます。このiexactは不正確という意味ではありません。「現実」とか「真理」と呼ばれる概念に、一挙に到達するのではなく、ひたすら接近(approcher=アプローチ)していく過程をさしている。

後年(1940)、バシュラールは La Philosophie du non という著作(邦訳『否定の哲学』中村雄二郎・遠山博雄訳、白水社、1978年)をあらわします。このnonこそinecxactなのです。たえず先行する思想(経験)にnonを突きつけ、「真理」という名の極点、もしくは限界点に接近していくこと。これがバシュラールにとっての「科学」もしくは「科学的認識」だった。

この non は、いわば「理性」(raison)の声です。ところがおもしろいことに、ベルクソンの場合、この 否定の声を発する主体が違う。あるいはその声が発せられる場面が違う。「形而上学的直感」から引用してみます。

 

この〔直感の〕イメージを特徴づけるもの、それはその内部に備わっている否定(négation)の力です。ちなみにここで、ソクラテスの神霊{ダイモン}がどんなふうな働きをしていたかを思い出してみてください。このダイモンは不意に現れて哲学者の意志を抑え、なすべきことを命じるというよりは、行動することを阻止するのです。私にとって直感とは、こと思弁に関するかぎり、現実生活におけるソクラテスのダイモンのような振る舞いをするものに思えます。〔中略〕つまり、直感は禁止するのです。世間一般に受け入れられてきた通念であるとか、明白と思われていた定説であるとか、それまでは科学的なものとして通ってきた主張であるとかを前にして、直感は哲学者の耳もとで「ありえない」(impossible)とささやくのです。

 

バシュラールの考えていることとベルクソンが考えていることは、ほんのわずかしか違わないようにも見えるし、まるで背を向け合っているようにも見える。違うとすれば何が違っているのか。前者はあくまでも理詰めで考え分析し、先行する認識に「補正」を加えることに科学的認識の本質ないしは進歩があると考えるのに対して、後者は直感的に全体をとらえ、理詰めの分析にある種の欺瞞を見出し、対象との合一に究極の認識を見ようとする、そういうことだろうか。

いや、そんな単純なものではないでしょう。バシュラールは『否定の哲学』のなかで、「科学的認識の哲学」とは「開かれた哲学」であり、「未知なるものに働きかけ、先行する認識と矛盾するものを現実の中に見出そうとすることで自らを立てる精神の自覚」であると定義しています。すなわち、哲学と科学が相反するものではなく、互いに補完し合うものでなければならないということなのです。そのうえで彼はこんなふうに言う。

 

とりわけ何よりも、新たな経験が古い経験に対して〈否 non〉を突きつけるということ、それなくしては、自明の理ではあるけれども、新しい経験たりえないという事実を自覚しなければならない。しかし、この否{ノン}はけっして決定的なものではない。みずからの様々な原理を弁証法的に照らし合わし、新たな数々の種類の確かな根拠を立ち上げ、自身の解釈体系を豊かにはするけれども、何もかもそれで説明できる自然な解釈体系に見えるようなものにはいかなる特権も与えない精神にとっては、決定的なものなどありえないから。(『否定の哲学』)

 

ここで言う「経験」(expérience)は、「体験」とも「実験」とも訳せますが、日常的にごく当たり前に使われるこの言葉にこそ、ベルクソンとバシュラールのあいだにある微妙ではあるけれども、決定的な、目も眩むような深淵があるように思えます。

しかし、ここではこの問題について深入りしないことにしましょう。深入りするだけの準備もないし、本題——ゼノンの矢の問題——から遠く逸れていってしまうでしょうから。

最初に、100メートル競走における人間の肉体の限界と計測器(ストップウォッチ、電子時計)の話をしました。

100メートルを10秒で走る場合、100分の1秒差を距離にあらわすと10センチです。この距離を「たった10センチの差」とみるか、「10センチもの差」とみるか、むしろこの受け止め方の差異のなかにこそ、大きな問題が潜んでいると思うのです。

100メートル競走の当事者——選手本人、トレーナー、あるいはスポーツジャーナリスト——にとっては、この10センチの差は相当大きいかもしれない。つい最近(2017年現在)、桐生祥秀くんが日本人スプリンターとして初めて10秒を切り、9秒98の記録を出しました。快挙です。でも、ボルトの9秒58とは、0.4秒もの差がある。距離にして4メートルです。これはもう絶望的な数字かもしれない。世界新記録を狙うとすればの話ですが。

しかし、日常生活においては、1秒以下の時間はほとんど無視できるような時間でしょう。100メートルをふつうに歩いた場合、4メートルの差は感じ取れないでしょう。ましてやセンチメートル単位の差なんか、ふつうの目視では違いがわからない。

でも、トップランナーや一流のアスリートの世界、あるいは超絶技巧の職人芸の世界においては、10分の1秒、10分の1ミリの違いが、とてつもない壁、許しがたい誤差として立ち現れてくる。

こういう微分的な世界をさらに超微分的に分割、あるいは拡大した世界こそが現代科学が見ている風景だということができるでしょう。そう、言うまでもなく、近代科学は顕微鏡、望遠鏡の発明と精緻化を抜きにして考えられない。しかも、ここで重要なことは、顕微鏡が分子構造を、原子の構造を発見したわけではないということです。顕微鏡の向こう側に現れた、われわれ人間の肉眼が知らなかった新たな微視的世界を前にして、新たに世界を書き直す必要に迫られたということなのです。バシュラールが『近似的認識試論』の冒頭で「認識とは再発見するために記述することである」と言い、ピアソンの『科学の文法』からの引用を通じて、「重力の法則とは、遊星の運動を定めている規則をニュートンが発見したということではなく、われわれが遊星の運動と呼ぶ諸印象の継起を簡潔に記述する方法をニュートンが案出したということを指す」と言っているのは、そういうことなのです。

分子の構造とか原子の構造とか呼ばれるものは、物質それ自体の構造であるよりは、人間が案出した関係式(記述)を視覚化したものと言い換えてもいいし、バシュラールは『科学的精神の形成』のなかでは、そもそも関係という抽象的な記述を目に見えるようなモデルに置き換えることを「認識論的障害物」とさえ呼んでいるのです。

けれども、顕微鏡や望遠鏡といった観測装置それ自体が精緻化され、オーダー(目盛り)そのものがどんどん微分化されていくと、分子のモデルも原子のモデルも形を失い、内実を失っていく。つまり、原子核のまわりを電子が周回しているといった「古典的な」図式は意味を失う。原子核は陽子と中性子から成り立つと教えられるそばから、中間子の存在が予言され、次から次へと「究極の粒子」(素粒子)が発見されていくと、われわれはついに「物質」の消滅といった事態に遭遇しているのか、と思えてきます。そこには形のないエネルギーの構造と流動だけしかないのか、と。

でも、同時にわれわれはふつうの生活を営んでいる。目に見える色と形があり、触れば固かったり柔らかかったり、持てば重かったり軽かったり、嗅げば心地よかったり不快だったり、舌に載せれば甘かったり苦かったり、そういう五感の世界に生きている。

そういう五感の立場からすれば、現代物理学の描き出す、非定形(不確定)の素粒子の世界は「ありえない」のです。

またベルクソンの直感の世界に戻ってきました。でも、ベルクソンとバシュラールを単純に同列に比較するのは公平ではない。

ベルクソン(1859〜1941)にポーランド系ユダヤ人を父に、イギリス人を母として、パリのど真ん中、ラマルチーヌ通りで生まれています。1881年に「意識に直接与えられたものについての試論」(『時間と自由』)をソルボンヌ大学に提出し、文学博士号を授与された。

かたやバシュラール(1884〜1962)はシャンパーニュ地方の小さな村で生まれています。地元の中学を出て復習教師(現在の助教師)を務めたのち、パリに出て郵便局に勤め、電信技師の資格を取ろうとするも失敗、第一次大戦に兵役として徴兵される。復員ののち復学して、数学や哲学の学士号を取得し、1927年に「近似的認識試論」をソルボンヌ大学に提出し、博士号を取得したときには40歳を越えていた。

生年を比べても25歳の年齢差があり、最初の学位論文の提出日を比べると半世紀もの開きがあるのです。この間世界は大きく変わった。

1871年、モルトケ元帥率いるプロシア軍がフランス軍に勝利(普仏戦争。この戦争を題材にポール・ヴァレリーは「ドイツの制覇」(1987年)——のちに「方法的制覇」と改題——を書き、戦争と産業と思考法が劇的に変わったことを指摘します)。ニーチェ「悲劇の誕生」。

1905年、アインシュタインが「特殊相対性理論」(原題:動いている物体の電気力学)を発表。セザンヌ、最後の大作「水浴図」を未完のまま残して、1906年に死去。

1914年、第一次大戦に勃発。戦闘機、戦車の登場。足かけ5年にわたって、900万以上の兵士が戦死したとされる。バシュラール、1915年に兵役で出兵し、戦争終結まで従軍。

1917年、ロシア革命(10月革命)勃発、ソビエト権力成立。

1933年、ヒトラーにたいする全権委任法の国会承認によるナチス・ドイツの誕生。

1941年、ベルクソン死去(ポール・ヴァレリーは「アンリ・ベルクソンは大哲学者、大文筆家であるとともに、偉大な人間の友であった」と弔意を表した)。

この時代はよく「戦争と革命の世紀」と呼ばれますが、このことはよくよく考えてみる必要があります。たんなる過ぎ去った「前世紀」ですますことはできない。われわれは今も、科学技術{テクノロジー}の「暴発」、「大衆の勃興」、民主主義の「暴走」の時代を生きている。

ベルクソンとバシュラールの思想の差異を、個性や個人差に帰することはできないでしょう。かといって時代や世代の違いに帰することもできない。そこには何か、人間という得体の知れない種——自然の一部でありながら、自然から遊離し、自由になろうとする生物種——に起因する謎というのか、矛盾というのか、背理というのか、そういう問題が潜んでいるように思います。

それほどゼノンの矢の問題は深く、永遠の謎めいたところがあるわけですが、せっかくベルクソンの思想を読み解くヒントをバシュラールの思索の方法から探ろうとしたのですから、ここでひとつの解(solution)を——数学にならって——提出しておきましょう。

ゼノンの矢の背理(矛盾)は、古来から二分法と呼ばれるその分析法にあるのではなく、「それゆえ、矢は的に当たらない」(矢は動かない、アキレスは亀に追いつけない)と結論したことにある。分割を際限なく続けているのだから、終わりが永遠に来ないのは当たり前ではないか。だからこの問題は、矢が当たるか当たらないかの問題ではなく、人間にとって「無限」(際限がない)とは何かという問題なのである。以上、証明終わり。

*46 塾で話したこと

われながら奇妙なことを始めたものだと思うが、それはさておき、

先日、塾でこんな話をした。

ゼノンの矢の話である。

この話というか、この詭弁(背理、逆説とも呼ばれるけれど)の話をはじめて聞いたのは、たしか中学生のころだった。

東京の大学に入った四歳年上のいとこが、夏休みに意気揚々として帰郷し、年下のいとこ(わたしと、わたしより一学年上のいとこ)に語り聞かせてくれたのである。どういう流れで、詭弁についての話になったのか、それは憶えていない。たぶん、こんな感じだったのではないかと思う。

「おい、おまえたち、詭弁というなら、こういう話を知っているか。むかし、古代ギリシアにゼノンというソフィストがいた。ソフィストというのは詭弁を操る者という意味だ。もともとは知を愛する者という意味だったらしいが、そのうち空理空論をもてあそぶようになったということだ。で、ゼノンはこういう説を立てた。矢は的に当たらない。どういうことだかわかるか?」

われわれ年下のいとこ同士は目を丸くし、きょとんとして聞いている。年上のいとこが何を言おうとしているのか、まったく見当がつかない。彼は続けた。

「つまり、こういうことだ。矢と的のあいだの距離が10メートルだとする。放たれた矢はまずこの距離の半分にあたる5メートルの点を通り過ぎる。次には残り5メートルの半分にあたる2.5メートルの点を通過する。さらにはその半分の1.25メートルのところを通過する。こうして、さらに半分、さらに半分の距離を通過していくわけだが、どんなに分割してもゼロにはならない。ということは、矢は的に当たらない、ということになる。どうだ?」

一学年上のいとこが叫び出す。

「それヘンだよ。だって現実にはぜったい矢は的に当たるんだからさ。射損じたとしても、どこかには当たるはずだよね」

「だから詭弁というのさ。じゃあ、逆にきくけれども、この論法のどこがおかしいか、説明できるか?」

中学生の目は、こんどは点になった。矢は必ず当たる。けれど届かない。現実と頭のなかが完全に食い違ってしまって、茫然としているのである。

わたしの記憶が定かならば、それは一九六九年のことだった。わたしが中学の三年、一個年上のいとこが高校一年、四つ年上のいとこが大学一年、そして六九年といえば、それはもう唖然とするほどすごい年だった。

今、「戦後昭和史」と題されたウェブページを見ている。

一月十八日、東大に機動隊八五〇〇人導入、安田講堂など占拠の学生と攻防戦。神田駿河台付近で東大闘争支援学生が解放区闘争。十九日、安田講堂封鎖解除。

大学生になったばかりのいとこは、この大学紛争の洗礼を浴びていたのである(東大生ではなかったけれど)。だから、話題は古代ギリシアの話ばかりではなかった。政治の話、文学の話、音楽の話、次から次へと話題が湯水のように湧いてきて、われわれ年下のいとこは、なにか冒険譚でも聞くような、夢物語の世界にでもいるような感じで、うっとりと耳を傾けていたのである。

「戦後昭和史」六九年のページをもう少し追ってみよう。

二月、毎土曜日、新宿西口広場のべ平連の集まりに反戦フォーク演奏会。

四月七日、四三年に東京・京都・函館、名古屋で四人を射殺した永山則夫、東京で逮捕。

六月十日、国民総生産(GNP)、世界第二位に。

七月二十日、アメリカの宇宙船「アポロ11号」、人類初の月面着陸に成功。

十一月十六日、反安保全国実行委・沖縄連共催首相訪米抗議集会、全国一二〇カ所で七十二万人参加。

十一月十七日、佐藤首相訪米。佐藤・ニクソン共同声明で四七年沖縄返還を表明。

そして、翌七〇年十一月二十五日には、三島由紀夫が東京市ヶ谷の自衛隊東部方面総監部に、縦の会のメンバーとともに乱入し、切腹してみずから果てた。

高校一年生になっていたわたしは、学校の帰り道、行きつけの本屋に立ち寄り、発売されたばかりの「毎日グラフ」を手にして、総監室の床の上に置かれた三島の首を見た記憶がある。

世界は東京を中心にして回っていた。

東京に行きたいと思った。ごく自然に。まるで当然のことのように。東京に行くということは東京の大学(どこでもいいから)に行くことを意味した。東京の大学を受験すると言ったら、父から問い返された。なぜ北海道の大学ではだめなのか? 北海道の大学で学ぶことなどないと答えた。なぜか父は納得したようだった。

だったらちゃんと勉強しろよという話だが、ギターをかき鳴らして歌ってみたり、女の子に夢中になって、ラブレターかなんか書きまくったりしていて受かるわけがない。案の定(本人は想定外)、受験に失敗して一年間浪人することになる。

翌年、晴れて東京の大学に合格し、文学部に入学するわけだが、ここから本題に戻る。父にはなぜ北海道の大学ではだめなのかと問い質されたが、今のわたしは、自分に向かって、なぜ文学部を選んだのか、と問うてみたいのである。

そんなに文学が好きだったわけでもないだろう。読書家だったわけでもないじゃないか。なぜ文学部を選んだ? 漠然とはしているが、何かものを書くことが好きだったから。なるほど。で、将来はどうするつもりだったのか? これもまた漠然としているが、新聞記者とか編集者とか、やっぱり文字を書く仕事に関係した職業につければいいと思っていた。

それがいつのまにか翻訳者、翻訳家になっていた?

ま、そういうわけだ。人生不可解とでもいうべきか。

いや、しかし、文字を書く仕事というのなら、翻訳こそひたすら文字を書く仕事ではないか。

たしかに。いや、きみの質問は逸れているぞ。誘導尋問だ。わたしがなるべくして翻訳家になったと誘導している。

いや、質問が逸れているわけではないだろう。こちらの頭が混乱しているのだ。問題を整理しよう。

はじめてゼノンの話を聞いたのは一九六九年だった。そこに話を戻そう。その話題を運んできたのは、当時東京の大学に入ったばかりの、四歳年上のいとこだった。そう、ゼノンの背理は六〇年代の終わりを迎え、混乱と崩壊と絶望と希望の入り混じる東京からやってきた。

そのころ中学生だったわたしは、北海道の片田舎でどんな暮らしをしていたのか。どんなことに関心を持ち、どんなことに若いエネルギーを注ぎこんでいたか。

夏はテニスをしていた。冬はアイスホッケーに明け暮れていた。本は?

ほとんど読まなかった。

当時読んだ本で記憶に残っている本はたった二冊。エドガー・アラン・ポーの「黄金虫」と太宰治の「人間失格」だけ。あまりに対照的。一方は十九世紀のアメリカ文学で、探偵小説の祖と呼ばれる作品。もう一方は、説明する必要もないだろう。

エドガー・アラン・ポーの短編集は、一歳年上のいとこから借りた。夢中になって読んだ。ただただうっとりしていた。「モルグ街の殺人」も「黒猫」も、もちろん強烈な印象を与えたが、一等好きなのは、やっぱり「黄金虫」だった。

暗号解読。それだけで短編小説ができあがっている! こんなに知的な、こんなに優雅な小説がほかにあるだろうか。今もそう思っている。これは世界文学史の奇蹟なのだ。

もう忘れてしまったが、ポーはどこかでこんなことを言っている。小説は二、三十分で読み切ることのできるものがよい、と。つまり、短編小説こそが小説という芸術の醍醐味なのだと。これを読んだときは、もう大学生になっていたと思うが——そう、ポーはずっと好きで、大学に入るとすぐに全集を買ったくらいだ——、その一文に触れて、そうか、シンフォニーもだいたいそのくらいだよな、LPレコード一枚聞くくらいの時間で読み切れるもの、それは人間の頭脳、あるいは感覚の集中が生理的に途切れない時間なのではあるまいか、と思ったことを今も憶えている。(*1)

さて、もう一方の太宰治。これは早熟だった同級生が読んでいるのを見て、刺激されて読んでみたのだ。「人間失格」、そもそもタイトルがおどろおどろしい。読んでみると気味が悪かった。誰もがそう思うらしいが、ここには自分のことが書かれている、自意識の芽生えた思春期真っ盛りの中学生には衝撃的だった。写真のなかの自分、笑みを浮かべているが、手もとを見ると拳を握りしめている。その手は自分のペニスを握る手でもあるだろう。

でも、その勢いで読み漁るというということはしなかった。テニスとアイスホッケーでくたくただった。

それにしてもポーと太宰治じゃ違いすぎるだろう、と思う人が多いかもしれない。べつにそのことに抗弁するつもりもないし、その必要もないだろうが、中学生なんて、そんなものじゃないだろうか。何もかも芽生えたばかり、趣味も思想も好き嫌いもポリシーもない。手当たりしだい。なにもかも偶然にさらされている。

しかし、この「偶然」と呼ばれるものの不思議、奥深さ、この年になると、そのことをしみじみと感じるのである。偶然にさらされているのは思春期だけではあるまい。全人生が偶然にさらされている。偶然はいつも雨のように、あるいは紫外線のように、われわれに降りそそいでいる。

わたしがこの日本列島の、北端に位置する島の、人口十万を超える程度の小都市に、二度目の世界戦争が終わった直後の一九五〇年代の前半に生まれたこと、これは偶然以外の何ものでもない。

だとしたら、必然とは何か。宿命とは何か。あるいは運命とは何か。意志とは何か。

わたしはそういうことを考えてみたいのである。

この塾で、このブログで。

それは哲学ということですか、と問われるなら、その言葉は嫌いだと答えておこう。文学という言葉も嫌いである。学問という言葉も、学校という言葉も好きになれない。

哲学は躓く。学問は躓く。

ゼノンの背理はそれを如実に物語っている。その背理は、じつは人間の、自然にたいする背理ではないのか。その問題をベルクソンは生涯考えつづけた。でも、矢は的に当たらない。人間の言葉で考えるかぎり。

でも、矢は的に当たる。

それが詩だ。少なくとも、喩が矢であるかぎり。それは飛躍する。分割しない。

ポーが長編を書かなかったのは、彼が詩人だったからだろう。言葉の力を飛躍に求めたからだろう。

これを書きながら、さっきから必死で思い出そうとしていることがある。太宰治の短編に数学者ガウスの名前が出てくる作品がある。それがどの短編集に収められていたか、本棚をさがし、太宰の短編集のいくつかをぱらぱらめくってみたのだけれど、肝心のタイトルが思い出せない。(*2)

そのうち、思い出すだろう。

太宰治の短編は高校時代によく読んだ。「富岳百景」が好きである。「走れメロス」が好きである。「駆け込み訴え」が好きである。「御伽草子」が好きである。短編なら、どれもこれも好きである。

二、三十分で読めるもの。

ほら、ポーとのつながりが見えてきた。

これを「必然」と呼ぶか、たんなる好き嫌いと見るか、なかなか奥深い「哲学」的問題なのである。

 

〔追記〕

*1)なにしろ40年以上前に読んだ本の記憶なので、たぶん印象と思い込みだけが残ってしまったのだろう。ポーはもっと違う書き方をしている。

「最初に考えたのは長さのことだった。どんな文学作品でも、長すぎて一気に読みきれないなら、印象の統一ということから結果する極めて重要な効果を、無にすることを余儀なくされる。なぜなら、中休みを要するとなると俗事が介入してきて、およそ作品の総体というようなものは即座にぶち毀しになってしまうからである」(「構成の原理」篠田一士訳)

ポーはあくまでも詩について語っているのである。彼の考えからすると、ミルトンの『失楽園』のような長編詩は、その半分は本質的に散文だということになる。そして、こんなふうに結論づけている。

「かくして明らかなように、すべての文学作品には長さの点で明確な限度、一気に読みきれるという限度があり、また或る種の散文作品、例えば『ロビンソン・クルーソー』のような、統一を必要としない作品では、こうした限界を超えた方が有利かも知れないが、詩作品においては限界を越えることは断じて正しいことではない」(同上)

 

*2)すぐに思い出せないというのは、明らかに加齢(老化)のせいだ。数学者のガウスが登場するのは「愛と美について」という短編である(新潮文庫『新樹の言葉』所収)。あるところに五人のロマンス好きの兄弟姉妹がいて、「退屈したときには、みなで物語の連作をはじめるのが、この家のならわしである」。長男がまず「きょうは、ちょっと風変わりの主人公を出してみたいのだが」と切り出す。次女が、それなら「老人がいいな。」と応じる。「人間のうちで、一ばんロマンチックな種族は老人である」というのがその根拠である。すると末弟が「ぼくはそのおじいさんは、きっと大数学者じゃないか、と思うのです」とアイディアを出したのはいいのだが、「ことし一高の、理科甲類に入学したばかり」なので、物語の展開など考えもせずに、授業で習ったことを滔々と語り出す。

「数学の歴史も振りかえって見れば、いろいろ時代と共に変遷して来たことは確かです。(・・・・・・)十九世紀に移るあたりに、矢張りかかる段階があります。すなわち、この時も急激に変わった時代です。一人の代表者を選ぶならば、例えば Gausse. G、a、u、ssです」

こんなふうにスペルを強調するあたり、ガウスは太宰治のお気に入りの数学者だったのだろう。どこか微笑ましい。太宰治は戦後矢継ぎ早に発表した「人間失格」「斜陽」などの長編小説のせいで、破滅型の私小説作家の典型と思われているかもしれないが、このひとは本質的に天才的短編作家であると思っている。そして、軽妙を装う文体とは裏腹に、古典を読み抜く小説家としての直感と洞察力は、芥川龍之介などより深いというのが、わたしの個人的見解である。

*45 野火

目の前に塚本晋也監督の撮った「野火」のポスターがある。娘がフォトストリームで送ってきてくれたのである。アマゾン・プライムでダウンロードして観たとコメントにある。「わたしにはおもしろかったけど、凄惨なシーンが多い上に話が淡々と進んでいくので人によっては嫌な印象を受けるかも」と続けて書いている。

ポスターには「なぜ大地を血で汚すのか」というコピーが左下に小さな活字で記されている。中央上部には大きな明朝体で「野火」の文字が、その真下に逆光の空を背景にして、銃を肩に掛け両手をわずかに広げた兵士の黒いシルエットが映し出されている。

大岡昇平の原作である。話題になっている。でも、映画のことには触れない。観ていないし、たぶん観ないと思うから。映画から「嫌な印象」を受けることを心配しているのではない。大岡昇平という「大作家」にあまりいい印象を持っていないのである。
『野火』という小説は学生時代に読んだ。読んで「嫌な感じ」がした記憶が今も残っている。

 

私は射った。弾は女の胸にあたったらしい。空色の薄紗の着物に血斑が急に広がり、女は胸に右手をあて、奇妙な回転をして、前に倒れた。
 男が何か喚いた。片手を前に挙げて、のろのろと後ずさりするその姿勢の、ドストエフスキーの描いたリーザとの著しい類似が、さらに私を駆った。また射った。弾は出なかった。(十九・塩)

 

戦争という凄惨な現場でドストエフスキーを連想するのかよ。そう思ったのである。むろんこの『野火』という作品は事実を描いたものではない。

 

私がこれを書いているのは、東京郊外の精神病院の一室である。窓外の中庭の芝生には、軽患者が一団一団とかたまって、弱い秋の陽を浴びている。病者をめぐって、高い赤松が幹と梢を光らせ、これら隔離された者共を見下ろしている。(三十七・狂人日記)

 

つまり、戦争を経て精神病院に収監された狂人の書いている日記が『野火』という作品なのである。大岡昇平という作家は、みずからの戦争体験をも自分の文学的野心の肥やしにしたのか、と血気に逸る青二才のわたしは思ったのである。

ところで、戦争を題材にしたもうひとつの代表作に『俘虜記』と題された作品がある。というより、こちらが復員後最初に書いた作品だが、そこにも似たような場面がある。こちらの作品では、語り手の「私」は、射たない。最初から、射つまい、射つくらいなら射たれて死のうと、この兵士は思っている。そして、その前に無防備な若い米兵が現れる。すると意に反して「私」は思う。「こいつは射てる」と。

 

しかし、彼がむこうの兵士に答え、私がその薔薇色の頬を見たとき、私の中で動いたものがあった。
 それはまず彼の顔のもつ一種の美にたいする感嘆であった。それは白い皮膚と鮮やかな赤の対照、その他われわれの人種にはない要素から成りたつ、平凡ではあるが否定することのできない美の一つの型であって、真珠湾以来私のほとんど見る機会のなかったものであるだけ、その突然の出現には一種の新鮮さがあった。そしてそれは彼が私の正面に進むことを止めた弛緩の瞬間私の心に入り、敵前にある兵士の衝動を中断したようである。

 

こうして、この作品は、射つか射たないか、どうして射つのか、どうして射たないのか、えんえんと心理分析が続く。

違うだろう、と若いわたしは思った。戦争という現場にあって、いまだに上から目線を維持しているこの「知識人」はいったい何者か。

わたしは、戦争はおろか、六〇年安保闘争も、七〇年安保闘争も、全共闘運動も経験していない世代に属する。ただし、そういう政治青年、知識人候補生、そういった若者の末路、そして、傍観者としての上から目線の知識人の姿——ことあらばすぐに逃げ出す——なら、いやというほど見てきた。

ここで開高健がベトナム戦争で直面した、あの有名な場面の描写を読み比べてもらいたい。

 

ふたたびどこからか瞶{みつめ}られているのを感じる。いまはそれがあるだけとなった。生還できるだろうか。にぶい恐怖が喉をしめつける。だらだらと汗をにじみつづけるだけの永い午後と、蟻に貪られぱなしの永い夜から未明へと送ったり迎えたりしているうちに自身との密語に覆われてしまえば汚水にわたしは漬かる。徹底的に正真正銘のものに向けて私は体をたてたい。私は自身に形をあたえたい。私はたたかわない。殺さない。助けない。耕さない。運ばない。扇動しない。策略をたてない。誰の味方もしない。ただ見るだけだ。わなわなふるえ、目を輝かせ、犬のように死ぬ。見ることはその物になることだ。だとすれば私はすでに半ば死んでいるのではないか。(開高健『輝ける闇』)

 

そうだ、ここでは見ているのではない。瞶られているのだ。目は輝いてはいるが、盲いている。その物と同化し、犬のように死ぬ。

開高健はこの一作をもって、「文学」と刺し違えたのだと思う。そのあと、パリを舞台にエロスに溶けていく男女の姿を描く(『夏の闇』)。そして、満を持して「闇三部作」の最後を飾るはずの『花終わる闇』に取りかかるが、中断して未完のままになってしまう。これは小説を書きあぐむ作家の物語だが、ベトナム、パリ、東京と舞台を移して、なぜ挫折したのか。その疑問は、ここではそのままにしておこう。

ところで大岡昇平はもうひとつの「戦記物」を書いている。言うまでもなく『レイテ戦記』だ。これもまたジャンルとしては「小説」の枠に収められているが、この作品はジャンルの枠など易々と超えてしまう。

この大著を前にして、青二才のころに感じたわたしの「嫌な感じ」は消し飛んでしまう。献辞には、

 

死んだ兵士たちに

 

とある。

そして、わたしは『俘虜記』を読み返す。異様な作品であることに、今さらながら感じ入る。彼は俘虜になるまでの、心理の葛藤ではなく、生死の葛藤を書いている。彼は死のうとして死ねなかった。彼は生き延びた。虜囚の辱めを一身に背負いながら。日本という国家と同じように。

彼は芸術院会員への推薦を辞退する。かつて俘虜の身であったということを理由に。この辞退の真の理由を正しく見抜いたのは、批評家秋山駿ただひとりであった。

一兵卒の感情からすると、天皇の存在は有害であると断じた大岡昇平の言葉を、さっきから探しているのだが見当たらない。『レイテ戦記』も見当たらない。あるはずなのに。だから、図書館から借りてきて、この文を書いた。

*44 翻訳と文学をめぐる塾

〈私塾〉のようなものを立ち上げました。名前はまだありません。ずっと無名のままかもしれません。雲をつかむような塾です。

 

8月の19日に自宅で説明会を開き、翌週火曜の22日に第1回を開くことができました。毎週火曜の例会です。みなさん仕事がありますので、夜7時からの集まりです。今のところ5名の方に〈塾生〉としてご参加いだだき、この拙文を書いている段階(9月4日現在)ですでに2回の例会を数え、明日には3回目を迎えることになります。

 

雲をつかむような塾と言いましたが、有料でやっていますから(1回につき3000円)、もう少し詳しく説明する必要があるでしょう。この塾のコンセプトをあえて言葉にするなら、「翻訳と文学をめぐる塾」ということになるでしょうか。翻訳家・翻訳者を養成する塾なのか、と思われる方もおられるかもしれませんが、さにあらず、というか、そうなってくれればうれしいですが、翻訳家を養成することはそんなに簡単なことではありません。とりわけ北海道の地方都市である帯広でそれを試みるのはかなり困難を伴います。今回参加していただいた5人の〈塾生〉もそういうことを望んでいるわけではありません。

 

では、すでに2回を数えた塾の例会では、何をやっているのか?

塾の主宰者である私が出版社から依頼されて翻訳している作品を素材・材料として取り上げ、翻訳という作業がどういう工程を経て、一冊の本として世に送り出されるのかを、塾生の皆さんに身をもって体験していただくというものです。そんな塾の試みは、翻訳家を養成しようと試みること以上に無謀なのではないか? そのとおりです。発案・企画の私ですら、当初は危惧を覚えたほどです。

 

ところが、案ずるより産むが易しと言うべきか、最初の説明会のときにお集まりいただいた方々にそういうコンセプトを、あくまでも、たとえば、そういう内容の塾に関心はあるだろうかという形で提案してみたのです。すると、それはおもしろい! という反応が返ってきたではありませんか。それならば手をこまねいている理由はない。さっそく次の週から始めようということになったわけです。

 

ちなみに今回集まった5名の塾生のバックグラウンドはまったくまちまちです。いわゆる専業主婦と呼ばれる方もおられます(たぶん。詳しいことはお尋ねしませんので)。イタリア語や英語が専門という方もいます。精神科医の方もいます。共通するのはフランス語とフランス文学に興味があるということ。語学のレベルは問いません。文学や哲学、あるいは芸術、宗教など、文化一般に関心があるという方でもかまいません。重要なのは知的好奇心のようなものです。年齢も問いません。こういう多種多様な方々の関心をいつまで、どこまで惹きつけていられるか、講師役の私としてははなはだ心許ないところがありますが、今のところ手応えは十分です。

 

今のところは、目下翻訳中のローラン・ビネの第二作『コトバの七番目の機能』(La septième fonction du language)という作品を取り上げて、話を進めています。この作品は一九八〇年にパリ市内で交通事故で亡くなったロラン・バルトの死をめぐる小説です。あろうことか、著者はこれを交通事故ではなく、暗殺であるという仮説に立って一個の長編小説に仕立てあげたのです。この作品にはたくさんのテーマが含まれています。ロラン・バルトは文芸評論の世界に新たな地平を切り拓いた二十世紀を代表する知性とか呼ばれたりしますが、実際のところどういう作家、書き手だったのか。フランスの現代思想とはどういうものか。ひいてはフランス文学とはどんな文学であるか。フランス語とはどういう言語なのか。そして、文学とは何か・・・・・・。時と場合に応じて、積極的にどんどん脱線していく。出し惜しみはしない。というか、出し惜しみするほどのものは持っていないし、いつだって当たって砕けろの精神で生き延びてきたのだから、今回の場合もそれでやってみようじゃないか、それしかできないだろう。というわけです。

 

政治や経済の面でも、あるいは文化の面でも、先の見えない時代に突入した感があります。人間の築き上げてきた文明はどこに行こうとしているのかと問うこともできるかもしれません。でも、そんな大風呂敷を広げてみたところで解が見つかるわけがありません。小さな、具体的な手触りのある、人の顔が見える範囲で何かを立ち上げ、持続させること、そのなかでほのかな光が見え、手応えを感じられるならば、それを突き詰めてみること。この塾でやろうとしているのは、そういうことかもしれません。

 

参加をご希望の方、あるいは質問のある方は、下のコメント欄にその旨書きこんでください(メールアドレスを記入してください。これは公開されませんが、高橋には届くようになっていますから、コメントに対する返事だけでなく、メールでご返事することもできます)

*43 やまべ釣り

この前の日曜日、高校時代にバレーボール部で活躍していた伊藤博くんに誘われて、やまべ釣りに行ってきた。北海道では、山女魚{やまめ}のことを、やまべ、と呼ぶ。魚体の側面に楕円形の斑点が並ぶ小形の川魚。北海道では昔から、干して甘露煮にしたり、天ぷらや唐揚げにしたり、あるいは酢で締めて鮨にしたりと愛されてきた魚だが、最近は数が少なくなってなかなか捕れないと聞いていた。

だから、伊藤博くんから誘われたときも、まあ、ときには山の沢にでも分け入って気分転換するのもよかろうと思った程度なのである。あとで聞いたことだが、博くんも、二、三尾釣れれば上出来だろうと思っていたらしい。

ところがすべての予定、予想が覆った。

まずは釣り場。最初は、阿寒湖の北部にある阿幌岳を源流とする網走川がやまべの宝庫だというので、それならば日の出前から家を出るのだろうと思いこんでいた。

そのうち電話するからと博くんは言っていたのだが、なかなか連絡が来ないので、しびれを切らしてこちらから電話してみた。あのー、やまべ釣りの件、どうなったのかな?
「あー、こっちから電話しようと思ってたんだよ」

どうも最近、気が急いていけないな、とか思いつつ、
「あのさ、網走川の上流まで行くとしたら、朝早く出なければならないんでしょ。だとすると、こっちにも都合というか、心づもりみたいなものもあるわけで・・・・・・」と続けると、
「いやいや、そんな遠いところまでは行かないよ」と言う。
「じゃ、どこに行くの?」
「駒場。駒場、知ってるよね?」
「うん、でも、そんなところにやまべがいるの?」
「いや、穴場があるんだよ」
「駒場なんて、畑しかないだろ?」
「いやいや、小さな沢がたくさんあるんだよ」
「えー、そうなの?」

というわけで、その週の日曜日に駒場に行くことになった。車で三十分くらいのところである。

帯広市とその周辺の地理に冥い人のために、いちおう説明しておくと、帯広市の北側には十勝川が流れている。この川を渡ると音更町に出る。この音更町の広大な畑作・牧場地帯が駒場である。ちなみに音更は、おとふけ、と読む。「アイヌ語のオトプケ(毛髪が生ずる)から転訛したもので、音更川と然別{しかりべつ}川の支流がたくさん流れているところからついたと言われています」(音更町の公式ウェブページより)

この駒場という場所、じつは何度も通ったことがある。でも、いつも通り過ぎるだけ。だって、畑しかないんだから、車を停めてみても、ただ十勝平野の広さと空の広さをあらためて感じること以外の感興はわいてこない。というわけで、いつもはここは素通りして、大雪山国立公園に属する然別湖とか糠平湖まで車を飛ばすことになる。

日曜の朝八時、博くんがわが家まで迎えに来てくれた。なにしろ、釣り竿から胴長まで、釣りに必要なものはすべて用意してくるから、身ひとつで待っていてくれという。ありがたすぎる話である。

でも、本当にありがたいと思ったのは釣りが終わってからである。どうせ釣れるわけがないと思っていたから、ドライブの行き先として、駒場じゃつまらんなぁ、と内心思っていたのである。

車は十勝川を越え、畑の真ん中を貫通する自動車道路を走っていく。話の途中で、博くんは、ちょっと待ってね、といって車を停めた。ナビの画面を呼び出し、探索している。なんと、目的地のリストにたくさんの釣り場のポイントが登録されているのだ。
「釣り仲間がいろいろ情報をくれるんだよ」

なるほど、といっても、ナビ画面の地図には農道らしき直線道路と小川みたいに細い筋しか記されていない。
「これ、川なの? 用水路じゃないの?」

車窓からときどき目に入る細い流れは、両脇に鬱蒼と草木が生い茂っている。こんな場所に分け入ったとしても、釣り糸を垂らすことができるのだろうか? なんだか狐につままれたような気分で助手席に座っているのである。

やがて、博くん、たしか、この辺だったかな、とか言いながら、アスファルト舗装の農道から畑の脇の土手道へと降りていった。左は刈り取られたばかりの麦畑が広がっている。右手は夏の日差しをあびて勢いよく生い茂る草木。しばらく車を進めると、
「ほら、分け入った跡が見えるだろ」と言って、運転席側の茂みを指さす。そう言われれば、雑草が踏みつけられた跡があり、土手が急勾配で下っているのがわかる。でも、流れは見えない。車が停まる。
「とりあえず、この辺でやってみるか」と言って、博くんは土手の右脇に寄り、背伸びして沢を覗きこんでいる。「ほら、見えるよ」

その言葉に惹かれて、土手の下を覗いてみると、幅二、三メートルの瀬が流れていて、段差があるために流れが白く泡立っているところがある。草木に覆われていてよくわからなかったが、思ったより水量がある。それでも、こんな畑のど真ん中にやまべがいるとはにわかには信じられない。

博くんはすでに車のハッチバックを開け、中から釣り竿、胴長、魚籠などを取り出している。
「こっちの胴長をはいてくれる?」

差し出された胴長は見た目も大きいし、持ってみるとかなり重量がある。こんなの履いて、はたして自在に動けるのか?
「靴底にはフェルトが貼ってあって、滑りにくくなっているんだよ」と言う。

両脚を突っこんでみると、下半身が潜水服を着たように重い(と言っても、潜水服を着たことはない)。靴にも重量があるし、転んでも怪我をしないようにということなのか、脛から膝にかけて、アイスホッケーの防具みたいに補強されている(アイスホッケーの防具なら付けたことがある)。

なんだか、すごいことになってきた。
「傾斜がけっこうきついから気をつけてね」

傾斜は三十度くらいだろうか。こんなごつい胴長を着て、降っていけるか心許ない。だが、この胴長、重さ、ごつさの割りには関節部は曲がりやすくなっている。

土手の下まで降りると、二、三人の男が並んで立てるくらいの水平のスペースがあった。その二メートル上手で流れが爽やかな音を立てて白く濁っている。

博くんは釣り糸の先の針に餌をつけている(イタドリ虫と言ったか、ブドウ虫と言ったか、この次会ったら、確かめておこう)。細長く、いかにも繊細そうなカーボンファイバーの釣り竿は大工の棟梁にプレゼントされたものだという(博くんは内装屋なのである)。
「今は売ってなくて、プレミア付いているんだよ」と言って、こちらに差し出すが、そんなすごい道具、初心者が使っていいのか?
「まずは白く泡立っているいるところに投げ込んで、それからすっと下に流していって、それからゆっくり戻していくんだ」

言われるがままに、白く濁っているところに糸を垂らし、そのまま下流に糸を流していくと、
「ほら、来てる、来てる!」と言う。

きょとんとしていると、
「一、二、三で合わせるんだよ!」

そんなこと言われても、意味がわからない。で、とにかく竿の先がしなっているので、引き上げてみると、銀色にきらきら輝く小魚がぴくぴく身をしならせながら、こちらに近づいてくる。
「すごい、いきなりじゃない!」

と、博くん、驚いている。小さなやまべをキャッチすると器用に針を外し、魚籠のなかに入れている。こちらは何がなんだかわからない。釣り上げたのが自分のような気がしない。で、次からは餌の付け方をならって、さっきと同じようなやり方で糸を流してみる。すると、また、ク、ク、と引きがある。小さな赤いプラスチックの浮きが水面の下に沈み、竿の先がわずかにしなる。あわてて引き上げるが、針の先には何もいない。
「ちょっとタイミングが早かったね。とにかく、一、二、三、だから」とまた言うが、やっぱりピンと来ない。

餌は取られていないので、そのまま糸を上流のほうに戻し、同じ動作を繰り返す。すると、また来た。こんどはあわてないように、しっかり食いつくまで我慢する。竿を揺らしても、手応えが外れない感じなので、そのまま引き上げてみる。ぴくぴく跳ねるやまべを今度は自分でキャッチして、針を外そうと試みるが、針は喉の奥まで入りこんでいる。
「ああ、呑みこまれちゃったね。今度はタイミングが遅かったんだ。初心者によくあるんだよ」

博くん、外科医の道具みたいな細長いペンチを取り出して、喉の奥に差し入れている。全長が人差し指くらいの、まだ子供の(?)やまべだから、見るも無惨というか、かわいそうである。
「あ、これ、ダメだね。針を取り替えよう」

博くんは、そう言うと針と錘をつなぐ小さな環のところから、魚に呑まれた針を外し、やまべはそのまま流れに返した。
「引きのタイミングを合わせるのが、やまべ釣りの醍醐味なんだよ」

なんだか悔しい。何回やってもうまくいかないのではないかという気になってくる。気を取り直し、新しい針にブドウ虫を付け、上手の白濁した部分に糸を放りこみ、そのまま流し、また上手に引き上げていく。

また来た。ツン、ツン。小さな魚影が見える。接近しては引き返し、また近づいてくる。白いブドウ虫の餌が一瞬消える。
「ほら、そのタイミング!」

竿を斜め上に引き上げる。まだ勢いよくは引けない、おそるおそる。でも、かかっている。細かい水しぶきを周囲に散らしながら、小さくしなやかな魚体を陽光にさらし、こちらに向かってくる。左手の中に収まったやまべはなおももがく。そのぬめり、艶、つぶらな目とあまりにも小さな口。
「うまい、うまい!」

針はちょうど口先の硬い骨のところにかかっている。
「名人の技だよ」と博くんが冷やかす。「ふつう、こんなにうまくはいかないんだよ」と言うが、当人はあいかわらず何がなんだかわからない、狐につままれたような感じなのである。

もう、あとは無我夢中だった。やまべは次から次へとかかった。まるで奇蹟のように。一、二、三の意味もわかってきた。やまべは慎重だから、いきなりは食いついてこない。最初は様子見のツン、次は確認のツン、で、最後に大きく口を開けて食らいついてくる。そのとき竿をひょいとしならせる。

気がつくと、一時間で二十尾くらい釣り上げていた。

もう一箇所、ポイントがあるんだというので、車で移動した。さっきよりも川幅が広く、竿も振りやすいが、なかなかかかってきてくれない。
「ここのやまべはすれてるね」という。

なるほど、そういうこともあるのか。それでも、一時間で三尾くらいは釣れた。二十尾つれたさっきの釣り場よりも、釣りをしている感じがあった。やまべとの駆け引きみたいなものがあるのだろう。これはやめられないな、と思った。

時計を見ると昼近くになっている。そろそろ引き上げようということになった。気温が上がり、水温が上がると、魚たちの動きも鈍くなるという。朝の八時に家を出て、ポイントをさがし当てたのが九時近く。移動の時間を除くと、二時間くらいは糸を垂らしていた計算になる。魚籠のなかはやまべがうようよしている。
「三十尾くらいはいるんじゃないの」

博くんはあきれたような口調で言うし、こちらのほうは唖然としている。
帰りの車中はむしろ口数が少なかった。疲れたでしょ、と労ってくれるが、疲れたというよりも、茫然としているのである。

釣りはたしかにおもしろい。しかし、ただおもしろいだけではすまされないものがある。

この感じはいったいなんだろうと思って、ずっと考えこんでいるのである。
「猫じゃらしの感じと似てるような気がするんだけどね」と、とりあえず口にしてみると、「あ、うまい」と博くんが応じる。

気の利いたことを言おうとしたのではない。猫の前で、たとえば猫じゃらしを振ってみる。細長い棒でもいいし、紐でもいい。猫は前足を繰り出して、その先を自分のほうに引き寄せようとする。ただひたすら棒の先だけを見て、その動きに反応している。その向こうには人間の手があって、その手を動かしている人間がいる。それも目に入っているはずなのだが、身体は棒の先だけに反応している。

竿と糸という、自分の手の延長ともいえる道具を使って、巧みに魚を招き寄せ、釣り上げる。さっきまで透明な流れのなかに見ていた魚影が脳裡に浮かび上がる。小さな黒い魚影が見えない糸の端の針先に引っかけられた虫めがけて寄ってきては離れ、沈み、また浮かび上がってくる。

そんなことばかり考えている。いや、考えようとして考えているわけではなく、ぼんやりと思念がさまよっているというべきか。

帰りの車中でも、昼過ぎに立ち寄ったそば屋のなかでも、そして、こうしてその日のことを思い出しながら、考えをまとめ、言葉を釣り上げようとしている、この今も、やはり茫漠とした感じがさまよい続けているのである。

帯広に帰って初めて釣りに誘ってくれた伊藤博くんへの感謝の思いを記しておこうと書きはじめたはずなのに、出口が見えなくなってしまった。この続きは次回の釣りの後になるのだろうか。

*42 二つの聖書

判型がまったく同じで、発行所もまったく同じ聖書が二冊、本棚に並んでいる。判型は文庫本に相当し、発行所は銀座四丁目の日本聖書教会、一九五五年に改訳され長く親しまれてきた「口語訳」の聖書である。

違いは二つある。一方は表紙が赤、もう一方は黒、赤いほうの発行年は一九六八年、黒いほうは一九七四年。赤いほうは妻のもの、黒いほうは私のものである。

妻はキリスト教系の女子大学に入った。信者の家に育ったわけではないから、おそらく聖書講読の授業のために購入したのだろう。ページを開いてみると、所々に傍線やらカギ括弧などの書き込みがある。

妻はこのいわゆるミッション系のお嬢さん学校を嫌っていた。そもそも東京の大学に行きたかったのである。兄がすでに東京の大学に通っていて、東京での生活にあこがれていたのである。しかし、両親に反対された。娘がひとり東京で暮らしていけるものか。仕送りできる余裕など家にはないと言われた。慕っている兄にも反対された。大学に行くならちゃんとしたところに行け、と。それが地元のお嬢さん大学だった。

四年間、違和感を噛みしめながら、ひたすら我慢した。卒業したら東京に出て自活すると心に決めていた。就職を決める最後の年、一念発起して、学長にかけあった。東京の出版社に就職したいので、どこでもいいから紹介状を書いてもらえませんか。

そして運良く、彼女は当時目黒にあった出版社で働くことになった。

そして私は六年遅れて、その出版社に入った。

 

私が聖書を買い求めた理由は、大学に入ってしばらくして、聖書の読書会に誘われたからである。

今思えば、個人的には五月病のようなものだったのかもしれないが、大学に入って半年も経たないうちに、大学の授業にも、憧れの自炊生活にも意欲を失い、学校に行ってもいつもキャンパスのベンチにごろりと横になっていた。

そこに声をかけてきた男がいた。大阪の男だった。聖書の読書会をやろうと思っているんだが、参加しないか、という。あとで聞いた話だが、いつも白けているんだかふて腐れているんだか、ベンチで寝ている姿を見て、おもしろいやつだと思ったらしい。

大阪の男はひょろりと背が高く、持病のせいで軽い跛行があった。

読書会は掛け値なしにおもしろかった。興奮し、夢中になった。われわれはマタイ福音書を読み、フォイエルバッハを読み、ルターを読み、内村鑑三を読み、太宰治を読んだ。

キリスト教には縁もゆかりもなく、福音書のなんたるかも知らない田舎者の青年は、まさに乾いた砂が水を吸い込むように無我夢中でそこに刻まれている活字を呑みこんでいった。

大阪の男はキリスト教系の高校を出ていた。愚直でロマン主義の塊のような男だった。中原中也を愛唱し(そう、酒が入ると諳んじて、文字どおり謳うのだ)、革命の夢を追い、思想家たらんとしていた。

この読書会は、テキストを読んできて、その感想を言い合うというようなものではなかった。一字一句、声に出して音読していくのである。これも大阪の男の発案だった。

われわれは大学の周辺をうろついた。喫茶店をはしごし、貸部屋のようなところで半日を過ごし、日が暮れれば飲み屋に繰り出して議論した。

ひょろりと背が高い座長とその賛同者たち。今思えば、イエスとその使徒たちのようであったかもしれない。

福音書の、いったい何に、どこに惹かれたというのか。私個人に限って言えば、それまで読んだどんな小説よりも劇的で、しかもリアリティがあると感じられた。そんな感受性が、自分のどこにあったのかと訝るほど、読んで感動した。むしろ、動揺し、惑乱したというべきかもしれない。

これが聖なる書? 福音って何だ? ここに書かれていることは、おどろおどろしい悪魔払いと荒唐無稽な癒しの場面、原始的な医療の現場、それに仲間内の不信と裏切りと、何か得体の知れないものに対する主人公の苛立ち、焦慮、そういったものの連続ではないか?

そう、繰り返すが私はここに苛烈な人間ドラマを読んだのである。信仰に近づいたことは一度もないし、洗礼を受けてキリスト教徒になろうとしたこともない。

私はいつも文化果つる土地からやってきた野蛮人でありたいと願っていた。そういう思いと福音書のテクストは波長が合った。

そして、福音書と同じく、やがてわれわれの読書会にも別れの季節がやってくる。誰しも永遠に学生のままでいるわけにはいかない。社会との接点を見つけ、その一員にならなければ生きてはいけない。

ある者は予備校の、高校の教師となり、ある者は大学院に残った。私は出版社に勤めることになった。

 

私は妻とキリスト教の話も聖書の話もしたことがない。彼女は単位を取るために聖書を読んだのだろうし、私のほうも妻とそんな話をする必要はなかった。

しかし、十数年前に先立たれ、彼女が遺していった本を自分の書棚に入れ、判型の同じ赤と黒の聖書が並んでいるのを見ていると、本同士が会話を交わしているような気がしてくる。それは最近のことである。それだけ妻の死が遠くなったということなのかもしれない。

私に聖書の世界を開いてくれた大阪の男は三十代半ばで他界し、妻も五十代半ばで旅立っていった。自分だけ生き延びているという感覚よりも、取り残されたという感覚のほうが強い。人は死んでも書物は残る。書物が失われても記憶は残る。人が死んでも記憶は残る。私が聖書を読みつづけるかぎり、死者の記憶も失われることがないだろう。

*39 ニコラ・ブーヴィエの詩

熊本の伽鹿舎から出ている文芸誌「片隅」の4号がもうじき刊行される。今回もエッセイを書かせてもらったので、このブログに一足お先に最終校のPDFを掲載させていただく。

 

ニコラ・ブーヴィエの詩(最終)(←ここをクリック)

*35 音楽への憎しみ

007
(これは1997年に青土社から上梓したパスカル・キニャールの『音楽への憎しみ』に寄せた訳者あとがきである。思うところがあって、その一部を抜粋してここに掲載することにした)

チェーホフには「大学生」という掌篇がある。かつては国語の教科書に載っていたくらいだから、憶えている人も多いだろう。チェーホフ自身がもっとも気に入っているという作品だ。

神学校の学生イワン・ヴェリカポーリスキーは、やましぎ撃ちの帰り道、ワシリーサという老婆とその娘が菜園を営んでいる農家に久しぶりに立ち寄る。かつてあちらこちらの地主のもとで乳母をつとめていたワシリーサは「見違えちゃって、わかりませんでしたわ」と言う。彼は焚火にあたりながら、ふとペテロの話を思い出す。「こういう寒い晩に、使徒ペテロも焚火で体を暖めていたんだろうね」。大学生が新約聖書のエピソードを語り終えると、ほほえみを浮かべていたワシリーサが、ふいにすすり泣きをはじめ、大粒の涙が両頬を伝ってとめどなく流れ出す。焚火の明りで涙を見られるのを恥じるかのように、彼女は袖で顔を隠す。

大学生はその場を辞する。そして後ろを振り返る。

 

暗闇のなかで焚火がひっそりと瞬いていたが、そのあたりにはすでに人影はなかった。大学生はまた考えた。ワシリーサがあんなふうに涙を流し、娘があんなふうにどぎまぎしたところをみると、それは明らかに、いま自分が話した十九世紀前の出来事が、現代と——この二人の女と、そしてたぶんこのうらさびれた村と、自分自身と、すべての人々と、何らかのつながりを持っているということなのだ。老婆があんなふうに泣いたのは、彼が人の心にふれるような巧みな話術を心得ていたからではなく、ペテロが彼女にとって身近な存在であり、彼女がみずからの全存在で、ペテロの魂のなかで生じた出来事に関心を抱いていたからなのだ。
 ふいに喜びが胸にこみあげ、彼は立ち止まって一息ついた。過去は、と彼は思った、あるものからあるものへ流れ出る因果の鎖によって現在と結びついているのだ。彼はたった今、その鎖の両端をかいまみたような気がした——鎖の一方の端にふれたら、他の端もふるえたと思った。

 

ここでチェーホフは、たんなる「歴史」の連鎖ということだけを言っているわけではない。復活祭を間近に控えたロシアの「うらさびれた村」の寒々しく荒涼とした風景、その美しい描写こそ、この作品の要をなしている。やましぎ撃ちから帰る大学生の指はかじかみ、風で顔がほてっている。そしてふいに寒気が襲ってくる。

 

彼には、この突然の寒さが、もろもろの秩序と調和を破り去り、自然みずからがおぞけだって、そのために夕闇が思いがけぬ早さで濃さを増していくように思えるのだった。あたりは荒涼として、ことさら陰気な感じがした。川のほとりにある後家の菜園に火がともされているだけで、遥か一面、およそ四露里むこうの、村のあるあたりまで、すべてがひんやりとした夕闇に沈んでいた。(亀山郁夫訳、強調引用者)

 

大学生は寒さと夕闇に包まれている。自然そのものが寒がっている。そのために夕暮れは闇を急いでいる。自然がにわかにリズムを速めて、昼と夜とを交替させようとしているそのときに、自然と波長を同じくする内部生命の鼓動も速まる。彼の歩みも速まる。遠くに、かつて乳母だったワシリーサの家の明りと焚火がある。彼女は「見違えちゃって、わかりませんでしたわ」と言う。ワシリーサの優しい穏やかな微笑みと焚火の暖かさを前にして、彼は「前神学生レベル」の、「前イワン・レベル」の混沌に沈む。そしてペテロのエビソードを思い出す。

おそらく、チェーホフの「大学生」ほどキニャールの「ペテロの涙」を解説してくれる文章はないだろう。あるいは次のような文章を続けて読んでもらいたい。

 

君は憶えているか、ティベリスの岸辺で揺れる昆虫のように小さい猟師の網を。八人から十人くらいの、小指よりも小さい猟師たちが、肩から灰色の影を落としながらゆっくりと黄色い川のなかに入ってゆく。さらに遠くでは、まるで銅の手鏡の上のぽんやりとした反映のように雲の垂れこめるオスティアの河口の霧にまぎれ、仲間に遅れた引き網舟がひとつふたつ、迫りくる夕闇のなかを帰ってくる。私の目の前には鵞鳥が列をなして歩いていた。全身が黄色で赤い縁取りのある鵞鳥だ。ティベリスと冥府のアケロンはひとつの川だったのかもしれないし、どの川も女の子宮にたくわえられている羊水に似ているのかもしれないし、あるいはまた、われわれの身体はこの岸辺に輝く光や足もとからのびる影に包まれているが、それとは別の岸辺もあるのではなかろうか。なにもかもが赤い。川の浮き橋の手すりに乗せた私の手も夕日に染まって赤い。たぶん私の顔も赤いだろう。だが、なにひとつ私の顔を見ているものはない。(パスカル・キニャール「理性」)

 

これは、ローマを追放されてスペインの故郷グアダルキビル川のほとりに連れ戻されたポルキウス・ラトロが大セネカにローマの思い出を語る場面だ。もちろんラトロの口を借りて、キニャールが語っているのだ。まるでクロード・ロランの絵をみているような光景だ。ラトロの全身が夕日に染まっている。彼の顔面が熱くほてる。誰かが自分を見ているような気がする。「だが、なにひとつ私の顔を見ているものはない」。夕日が彼を見ているのではないか。いや、夕日は彼を見ているのではない、彼を包んでいるのだ。背後からも夕日は彼を見ている。包まれるとはそういうことだ。感動とノスタルジーが彼を包む。記憶がぶりかえす。ローマの思い出、幼年期の思い出、あるいは子宮内の思い出。彼はそこで時間が停止しているのを感じているのか、それとも逆流しているのを感じているのか。

もっと素朴に問う。なぜわたしたちは夕日を見て美しいと感じるのか。そして、その美しさを表現しようとした言葉を読んで、なぜ美しいと感じるのか。美しい文章が意味からできるだけ離れようとするのはどうしてなのか。美を求める言語の動きは、言語の奥へ奥へと遡行して、ついに意味から逸れる。夕日の美しさを書いた文章に意味などない。それはただ美しいだけだ。そもそも美しいと感じる心の働きはなんなのか。なぜ犬は夕日を見て吠えるのか。なぜ鶏は夜明けに鳴くのか。

キニャールは言う。

 

わたしにはあなたの言っていることがわからない。が、夜は明ける。わたしには言語が何を明らかにするのかわからない、が、雄鶏はぞっとするようなしわがれ声を二度繰り返し、日の到来を証す。自然は雄鶏のすがたで夜明けを吠える。(第一考 ペテロの涙)

 

「自然は雄鶏のすがたで夜明けを吠える」。鶏は夜明けに向かって鳴いているのではない。犬は夕日に向かって吠えているのではない。ラトロは夕焼けに包まれて、「たぶん私の顔も赤いだろう。だが、なにひとつ私の顔を見ているものはない」とつぶやく。イワンは「自然みずからがおぞけだって、そのために夕闇が思いがけぬ早さで濃さを増していく」と感じる。ペテロは明け染める庭のすみで、さめざめと泣く。

それが音楽だ。キニャールは言う。

 

お気に入りの音楽にはどれも、音楽そのものに付加された古い音がいくらかまじっている。ギリシア語本来の意味でのムーシケが音楽そのものに付加されているのだ。いわば「付加された音楽」、大地をえぐり、やがて、わたしたちの苦しみのもとである叫びをめざすもの、だが、その叫びは名付けようもないばかりか、その出所を見たことさえない。目に見えない音、永遠に視覚とは無縁で、わたしたちの内部でさまよっている音。まだわたしたちの目が見えないころ。呼吸もできないころ。叫ぶこともできないころ。だが、耳は聞こえていた。(第一考 ペテロの涙)

 

ペテロの涙、それはヨーロッパの涙だとわたしには思える。

ベテロはかつてシモンと呼ばれるベッサイダの漁夫だった。ペテロと命名し、「人を漁{すなど}る」漁師にしてしまったのはイエスだ。一介の田舎の漁師がカトリックの「礎」となる。ペテロは孤独だ。彼はイエスに従うことを決心した瞬間に、自分の名前を捨て、故郷を捨て、故郷の音を捨てた。イエスは孤独の極限を生きている。ユダヤ教団の制度から外れ、律法学者たちの欺瞞を攻撃するばかりでなく、その父と母に対してさえ「わたしはあなたたちを知らない」と否認し、「預言者は故郷では容れられない」とうそぶき、十字架の上の死に向かってひた走る。ペテロは大祭司アンナスの中庭でイエスを否認する以前にも、幾度となく迷い逡巡し、ついていけないと心密かに思ったにちがいない。しかし、その思いをイエスにはもちろんのこと、彼の仲間にも打ち明けることはなかっただろう。その孤独が大祭司アンナスの庭で突如として崩れる。庭の真ん中で車座になって火を囲んでいる、いかにも分け隔てのなさそうな人の輪に自分も加わり、暖をとろうとするが、おまえはわれわれの仲間ではない、あのガリラヤびとの仲間だと拒否される。イエスを裏切ると同時にあらゆる人の群れから追放されたペテロは、その孤独の極限で自然の咆哮を耳にし、それに包まれることによって、もっとも深いノスタルジーの波に襲われて難破する。福音書は「苦い涙」と書くが、わたしたちにはそもそも涙の種類を区別することができない。

モーセはピッチとアスファルトを塗った籠に入れられてナイルに流された捨子だった。そしてファラオの娘に拾われる。奴隷監督の横暴に腹を立てて殺し、シナイ山の麓に逃げる。そこでエテロという祭司の養子になる。彼はシナイ山に吹き荒れる風の音を聞く。それが神の声だった。そこで彼は神と「契約」する。土着の神であれば契約などいらない。なぜならその神は母であり、父であったろうから。

ヨーロッパはかつてケルトの民が住むところだった。ローマがそこを襲う。ガリアの首領ウェルキンゲトリクスはカエサルに破れ、ローマで処刑される。やがてローマは疲れる。そのローマをゴート諸族が、ゲルマン諸族が襲う。ケルトの民もゲルマンの民も文字を知らなかった。彼らはやがて自分たちの神話と聖書物語を融合させて、ヨーロッパの民となっていく。

わたしはときどき、ヨーロッパ人にとって古代地中海世界は目の上のたんこぶではないかと思うことがある。ヘレニズムとヘブライズム。ギリシア人とユダヤ人。いつまでたってもそれを越えることができないというコンプレックス。彼らは文化の起源としての古代地中海世界と彼らの存在の根源としてのケルト・ゲルマン世界にいつも切り裂かれている。音楽{ノスタルジー}はその亀裂から溢れだす。

ペテロの涙、それはアジアの涙であり、日本の涙であるようにも思える。

ナチズムあるいはファシズム、それは遠い歴史の怨念であるように思える。

パスカル・キニャールはそれを書く。歴史の夜を書く。

 

*33 LGBT、あるいは「第三の性」

今月号(8月号)の「すばる」に野崎歓さんの「第三の性と出会うとき——フランス文学とホモセクシュアリティ」(特集*LGBT)と題したエッセイが掲載されている。「バルザック以来、フランス文学史において脈々と受け継がれてきた男性同性愛の表現」がジャン・ジュネにおいて絶頂に達する過程を鮮やかにすくい上げ、最後はエドゥアール・ルイの衝撃の問題作『エディに別れを告げて』(拙訳、東京創元社、2015年刊)に触れられている。

そう、そうなのだ、と読んでいて、何度もうなずいた。ホモセクシュアルの世界はフランス文学ならずとも、文学のきわめて重大なテーマのひとつではないか。

だが、フランスでは賛否両論の渦を巻く話題作となった『エディに別れを告げて』も、日本においてはほとんど無視の状態で終わりそうな気配なのだ。野崎さんの力強いエッセイの後押しで、日本版「エディ」が息を吹き返すのを見たいものだと願わずにはいられない。

それにしても、なぜ日本の読書界はこの作品を前にしてほとんど沈黙してしまったのだろうか? テレビの世界では、みずから「おかま」と称して悪びれも気後れもせず堂々と活躍しているタレントも珍しくないし、トランスジェンダーであることや肉体的に性転換を果たしたことを「カミングアウト」する人たちも増えてきているというのに、どうしてだろうと思う。

おそらく複数の要因が絡み合っているのだろうと、翻訳した本人としては考えている。翻訳の質については問わないことにしよう。自分ではいいのか悪いのか判断できないから。

まず、ひとつには、フランスの読者でさえもが、こんなに貧しく汚い世界がフランスに残されていたのかと驚いたということがある。日本の読者が、そういう事実なり真実なりに触れるためにわざわざ翻訳小説を手にするだろうか? そもそも、「破滅型」と呼ばれる日本の私小説作家たちが、さんざん貧しく憐れな世界を描き、こんなのは日本特有のいびつな「自然主義」の受容の結果だと言われつづけてきたのだ。そして、その種の貧しさからようやく脱し、世界の一流国の仲間入りを果たしたと自惚れている日本人が、わざわざ一昔前の自分たちの姿を鏡に映して喜ぶだろうか。しかも、「ホモ」と呼ばれて蔑まれ、こっぴどい「いじめ」を受ける自虐的な場面に事欠かない小説なのである。

いや、夢中にならなくてもいい。そういう小説ではないのだから。

長年、翻訳をやってきて、ちっとも売れなかったという経験ならいやというほどしてきた。だから、思ったほど刷り部数が伸びなかったことがショックなのではない。あまりにも書評の数が少ない。版元から送られてきた書評のコピーは、たった二つ、これはどうしたことか、と訝っているのだ。

野崎さんのようなけっこう分量のある秀逸な書評を期待していたわけではない。だから、今回「すばる」に掲載されたエッセイは望外の喜びと言ってもいい。

もうひとつの問題は、この野崎さんのエッセイのなかに潜んでいるかもしれない。文章の流れを寸断するようで申し訳ないのだが、ここで言及されたり引用されたりしている作家と作品の名前を一部ここに列挙してみよう。

サルトルの『水いらず』、ランボーの『イリュミナシオン』、エルヴェ・ギベールの『わが両親』、バルザックの『ゴリオ爺さん』、『浮かれ盛衰記』、プルーストの「ソドムとゴモラ」(『失われた時を求めて』)、ジュネの『花のノートルダム』、『薔薇の奇蹟』・・・・・・。

わたしはフランス文学の翻訳者ということになっているが、正直言って、ここに挙げられた作品は、読んだものもあれば読まなかったものもあるし、途中まで読んで投げ出したものもある。

もっと突っこんで言えば、「フランス文学」にはコンプレックスがある。おまえは本当に「フランス文学」が好きかと問われて、間髪入れず「はい」とは答えられないのである。学生時代からずっとそうなのだ。

ならば、なぜ「フランス文学」の翻訳者などになったのか?

なりゆきとしか答えようがない。

ただし、「文学」を「書かれたもの」と解釈するならば、フランスの文学に対する「学恩」は計り知れないものがある。

『トリスタンとイズー』、『ローランの歌』、ミシュレの『魔女』、デカルトの『方法序説』、スタンダールの『イタリア絵画史』、バシュラールの『近似的認識試論』、夢中になって読んだものを挙げよと言われると、こんなライン・アップになってしまうのである。

大学時代のフランス文学関係の講義は苦痛で仕方がなかったけれど、科学史の授業は好んで出かけていった(教授の名前も講座の名前も忘れてしまったけれど)。

話が逸れた。

野崎さんは、「すばる」に発表したエッセイの最後を「何しろここで触れた作品はいずれも、ギベールのいう「新聞売りの回転陳列台」にあるような、本来だれにでも手に取って読むことのできる作品ばかりなのだから」という文言で締めくくっているが、それははたしてどうか、と思うのである。

もちろん、野崎さんの言わんとしているところは承知しているつもりである。ホモセクシュアルはけっしてマイナーな主題ではないということだろう。それはわかる。しかし、キオスクの回転陳列台に並べられているから、フランス人の誰もが読む作品かといえば、そうとは限らないだろう。

学生時代、フランス文学の教授(たしかスタンダールの専門家だった)が「フランスの庶民階級はあまり本を読みませんよ。識字率も日本より低い」とか語っているのを今でも憶えている。四十年前と今とではもちろん事情は違う。

しかし、「文学」にまつわる事情は日本もフランスも、今も昔も同じではないかと思うのだ。

何年か前に、急遽フランスから取り寄せたい本があって、フランスのアマゾンで検索していたら、フランス人の一読者が自分はふだんフランスの小説をあまり読まない。なぜならおもしろくないから。おもしろみを求めて読むなら、アングロサクソンの探偵小説に限る、というような内容のレビューを発見して驚いたことがある。

今、パリの書店を巡り歩くと、日本のエンタテインメント小説が平積みになっているのを目にすることが驚きではなくなっている。日本のマンガ・コーナーの広さにはほとんど唖然とさせられる。

いったいこの光景は何なのか?

フランスを文化的先進国として見上げていた自分の青春はいったいなんだったのか?

フランスは優れて近代の国だった。それが今、「近代は終わった」などと言われ、「ポストモダン」という言葉は特殊な専門用語ではなくなった。

しかし、こういうことをしたり顔で言う知識人は信用できない。なるほど「近代」という時代はいたるところで限界を露呈しているかもしれない。しかし、「近代」を軽々しく否定することは、みずからを否定することではないのか。とくに「知識人」と呼ばれる人にとっては。

それとも彼らは自分だけは別物だと思っているのだろうか。

『エディに別れを告げて』の著者エドゥアール・ルイは、このあたりの自己欺瞞に優れて敏感な作家だと思う。なぜなら、彼は成り上がりであり、自分の出自に対する裏切り者だという罪悪感をごまかそうとしないからだ。

もしかすると、「文学」は壮麗なごまかしなのかもしれない。野崎さんはこう書く。

 

作品冒頭、悪辣ないじめっ子が中学の廊下でエディの顔面にねっとりとした唾を吐きかける場面が強烈だ。『薔薇の奇蹟』にも同様の場面があったが、ジュネのような汚辱の壮麗化からははるかに遠く、救いのないベタな事実として記述されていることが逆に衝撃を与える。偉大な同性愛文学のはるか手前{原文傍点}に横たわる現実があらわにされているのであり、若き作者にはそこから出発する以外に方法はなかった。その隔たりの大きさに眩惑を覚える。

 

このような感受性と視点をもって、作品を読み込むことのできる野崎さんの文学者としての懐の深さには脱帽するしかないが、こんなふうな率直な作品評価のできる人が野崎さん以外にいないというのは、いったいどうしたことなのか?

さっき言ったことの繰り返しになるが、人生の節目節目で自分は本当に「文学」というものが好きなのかと問い直す場面に何度か直面してきた。たとえば嘉村磯多の作品を読んでいたときにもそういう思いに駆られたことがあった。天皇行幸の場面を描写した箇所を読んで、自分は貧しくしがない一介の文士だが、文を書くことにおいては帝王にもひけを取らないと言っているように思えて、「この卑怯者!」と内心つぶやいたのである。

プルーストを読んでいたときにもそういう感慨が湧き上がってきた。コルク張りの部屋を設えて、そこを王国となす。いい気なもんだね・・・・・・。でも、読み進めていくうちに、これは「失われた時」を求め、それを発見する物語ではなく、ボードレール風に言うならば、時間から逃げようとしてついに時間に捕らえられてしまう男の物語ではないかと思えてきて、作者にのしかかる強迫観念がこちらにまで押し寄せてきて、読み終わったときには、もう二度とこの小説を読むことはあるまいと、全巻友人に進呈してしまった(翻訳家になってから、やはり必要になって文庫本を全巻購入するはめになったけれど)。

また、話が逸れた。

10月には、アルルで開設される翻訳家養成のワークショップに参加するためにフランスに行くことになっている。帰りがけに、知己を得た作家に会ってこようかと思っているのだが、エドゥアール・ルイはどうしよう? 第二作目を翻訳するかどうかまだ決まっていない状態で、彼と会って何を話せばいいのか?

少なくともここで言えることは、第一作はあくまでも作家としてのスタートを切った作品であって、文体にしろ、構成にしろ、すべて手探りの暗中模索、これ以上はどうにもならないと観念して作品を手放したという感が強い。それに比べて第二作目(版権の問題があるからタイトルはあえて伏せておく)はあきらかに自覚した作家の誕生を告げる作品に仕上がっている。翻訳したいと思っても、この前代未聞の出版不況にあって、よほどの追い風が吹かないかぎり、実現はなかなか難しいだろう。

とりとめもなく書いてしまった。こんな文字どおりの拙文よりは、野崎歓さんのエッセイのほうがはるかに為になると思うので、PDFファイルを下に貼りつけておくので、ぜひ読んでみてください。

 

野崎歓 すばる

*32 本を読むこと

先日、伽鹿舎——熊本に本拠を置き「九州限定」を旗印とする出版社、念のため——の加地葉さんからメールが来て、紀伊國屋書店グランドフロント大阪店で企画されている「はじめての海外文学フェア」に協力してもらえないだろうかという間接的な(?)依頼が来た。「ビギナー」にお薦めのフランス文学関係の本を選ぶ選者のひとりになってくれないかという。添付の資料にも目を通したけれど、ちょっと条件が多すぎて、選ぶのがむずかしそうだと感じた。

ただ単に「できません」では愛想がないので、自分が訳した本のなかで、もっとも反響の大きかった小説の書評のPDFをばらばらと送った。残念なことに十年以上前に出版されてそのまま絶版になってしまった小説で、今回の企画が対象としている書籍の条件からは外れてしまうものである。加地葉さんはさぞ目を白黒させたことだろう。そのお詫びとフォローを兼ねて、なぜそんな返信になってしまったのか、少し書いてみようと思う。

その本の作者とタイトルは、ここではあえて伏せておく。なぜならば、反響は大きかったけれども、訳者としては微妙な感じの残る作品だったからである。

反響はとにかくすごかった。おもに女性の、著名な作家、評論家、フランス文学者たちがこぞって贔屓してくれたばかりでなく、テレビ・ラジオでも取り上げられたし、わたしも翻訳者として有力月刊誌のインタビューを受けたし、某誌の年間ベスト1にも選ばれたのである。

もちろん訳者としてうれしくないわけがない。だが、でも・・・と続くのである。

この小説を書いた若手作家はとにかく筆が立つ。何をやらせてもうまい。映画も撮るし、芝居の脚本も書く。そのすべてが、いわゆるウェル・メイド(well made)なのである。

もの足らない? いや、うますぎるのである。だから翻訳もなんの苦労もなく快調に進む。わたしは訳者あとがきに、前作と比べて「これはフランス語で書かれなくてもよかったのではないかと思えるほど言葉を切り詰めている」と書いた。

ようするに平易に書かれていたのである。当然読みやすい。頁を繰る手は徐々に速くなる。おまけに紅涙をしぼる場面が用意されているとくれば、「ビギナー」にはぴったりだ。これを機会にフランス文学に目が開かれれば御の字ではないか。

ところで、おまえはこの作品が好きか? と問われれば、うーむ、とうなってしまうのである。

嫌いではない。訳していて気持ちがよいものを嫌いになれるわけがない。

でも、個人的にこういう本を選んで読んではこなかったのである。

というか、今は自分の仕事にしているけれど、かつてフランス文学の敷居はとても高かったのである。若いときは、敷居の高いものにあこがれたり、挑戦してみたくなるものである。べつに難解きわまるマラルメの詩や、プルーストの大長編小説のことを言っているのではない。

たとえば、アルベール・カミュの『異邦人』、これをはじめて読んだのは十代の終わりころだったと思う。第一印象は「とりつく島がない」。主人公のムルソーに、どうしても感情移入できない。どうして作者はこんな小説を書いたのか?

フランス文学には何かなじめないものを感じたまま大学を卒業し、小さな出版社につとめた。そして、何度かこのブログにも書いたように、二十代の終わりに一念発起して、カミュの故郷アルジェリアに渡った。フランス語への耳慣らし、口慣らしのために作者みずから吹きこんだ朗読テープを入手して毎日聴いたりもした。

現地の光を浴び、現地の風に吹かれたのだから、作品が身近に感じられるようになったか、といえば、じつはそうでもない。

なにしろ、家族を養うために大車輪で働かねばならなかったから、「本」など読んでいる暇がなかった。もちろん、仕事で資料や本は読む。しかし、「読書」する暇はなかった。

それはそれで楽しかった。家族のためだと割り切って、あらゆることを単純化してしまうのは存外喜びを伴うことである。「断捨離」とつながるものがある。でも、危険なことでもあるだろう。人はなぜ戦争に突き進むのか? ありとあらゆることを割り切って、ひとつの価値に収斂させていくこと、それは快感なのだ。テロが世界の方々で起きているのを見て、いつもそう思う。

それはともかく、そうした幸福な生活はいつまでも続かなかった。妻が病死し、娘たちは早々と結婚して家を出ていった。家から人の気配と、人の声が消えた。がらんとした空間に男だけが取り残された。

よし、「本」を読もう、と思った。古典中の古典を。たとえば聖書、たとえば仏典、たとえば老荘、たとえばマルクス、資本論、たとえば科学史に関連する本、自分の生地が踊る本。ここに小説はあまり含まれていないのがミソ(?)だ。

午前中に翻訳の仕事を終え、昼食をたべて仮眠をとる。その習慣は変わらない。けれど三時から五時くらいにかけての昼下がりの時間には、仕事を持ちこまない。ひたすら「古典」を読む。この種の古い本はけっしてpage turning(読み出したら止まらない)といえるようなものではない。むしろ、一行ずつ、一頁ずつ、亀のように、毛虫のように這いながら読み進めていく。その間、時間は忘れている。あるいは止まっている。世界の共通時から外れていく。それが快感になる。家族がいたときとは真逆の時間がそこにはあった。

けれどそういう時間も長くは続かなかった。一人暮らしは予想以上に疲れた。誰でもいいからそばにひとがいてほしいと思うようになった。もう年貢の納め時かと思い、生まれ故郷に帰った。老いた母親も一人暮らしになっていたから。

ただし「読書」の習慣は残った。古典を遅読する習慣とでもいおうか。三時から五時にかけての昼下がり、わたしの時間は止まる。

その時間が無上の快感なのである。時間は完全には止まっていない。ゆっくりとした微風のようなものが流れている。遠い遠い時間の果てから吹いてくるような風。

「本」を読んでいるときに感じる、そういう風が「文」を書いているときにも吹けばいいと思う。

で、カミュの『異邦人』の話はどうなったか。アルジェリアから帰ってきて、長いこと忘れていた。東京で非常勤講師を頼まれたときに、テキストに使ってみたことがあるが、学生たちの反応は今ひとつだった。大学で教えている翻訳者仲間にも尋ねてみたが、『異邦人』はノーベル賞を獲得した現代の古典と呼べるような作品ではあるが、やはり学生がすぐに食いつく作品ではないらしい。

帯広に帰ってきてから、地元の同人誌から声がかかった。何か書けという。ふと『異邦人』を思い出した。この作品は自分の青春とともにあった。あまり気張らずに、新しい切り口で何か書けないかと考えた。

ムルソーの食卓」(2015年1月28日に本ブログに公開)というタイトルが思い浮かんだとき、これはいける、と直感した。そして、書きはじめるとすぐに、この小説は自分の体内に入っていると感じた。長い間、記憶の底に沈んでいたが、身体の奥で呼吸していたというべきか。食事をするムルソーの描写を通じて、ムルソーが自分の身体のなかに生きていると感じた。

そこに静かな時間が流れていた。最初にこの作品を手にしてから半世紀近い時間が流れた計算になる。

本屋さんは商品としての本を扱う。本が売れなければ本屋はつぶれる。専業の小説家や翻訳家だって路頭に迷う。三年前に本屋大賞を頂戴したくらいだから、本屋さんのありがたみは人一倍感じている。

でも、わたしにとっての「本」は、商品としての本ではなく、降りそそぐ光とか風とか、そのつど口にした食べ物とか、やはり人生そのものとしかいいようのないものなのである。