*44 翻訳と文学をめぐる塾

〈私塾〉のようなものを立ち上げました。名前はまだありません。ずっと無名のままかもしれません。雲をつかむような塾です。

 

8月の19日に自宅で説明会を開き、翌週火曜の22日に第1回を開くことができました。毎週火曜の例会です。みなさん仕事がありますので、夜7時からの集まりです。今のところ5名の方に〈塾生〉としてご参加いだだき、この拙文を書いている段階(9月4日現在)ですでに2回の例会を数え、明日には3回目を迎えることになります。

 

雲をつかむような塾と言いましたが、有料でやっていますから(1回につき3000円)、もう少し詳しく説明する必要があるでしょう。この塾のコンセプトをあえて言葉にするなら、「翻訳と文学をめぐる塾」ということになるでしょうか。翻訳家・翻訳者を養成する塾なのか、と思われる方もおられるかもしれませんが、さにあらず、というか、そうなってくれればうれしいですが、翻訳家を養成することはそんなに簡単なことではありません。とりわけ北海道の地方都市である帯広でそれを試みるのはかなり困難を伴います。今回参加していただいた5人の〈塾生〉もそういうことを望んでいるわけではありません。

 

では、すでに2回を数えた塾の例会では、何をやっているのか?

塾の主宰者である私が出版社から依頼されて翻訳している作品を素材・材料として取り上げ、翻訳という作業がどういう工程を経て、一冊の本として世に送り出されるのかを、塾生の皆さんに身をもって体験していただくというものです。そんな塾の試みは、翻訳家を養成しようと試みること以上に無謀なのではないか? そのとおりです。発案・企画の私ですら、当初は危惧を覚えたほどです。

 

ところが、案ずるより産むが易しと言うべきか、最初の説明会のときにお集まりいただいた方々にそういうコンセプトを、あくまでも、たとえば、そういう内容の塾に関心はあるだろうかという形で提案してみたのです。すると、それはおもしろい! という反応が返ってきたではありませんか。それならば手をこまねいている理由はない。さっそく次の週から始めようということになったわけです。

 

ちなみに今回集まった5名の塾生のバックグラウンドはまったくまちまちです。いわゆる専業主婦と呼ばれる方もおられます(たぶん。詳しいことはお尋ねしませんので)。イタリア語や英語が専門という方もいます。精神科医の方もいます。共通するのはフランス語とフランス文学に興味があるということ。語学のレベルは問いません。文学や哲学、あるいは芸術、宗教など、文化一般に関心があるという方でもかまいません。重要なのは知的好奇心のようなものです。年齢も問いません。こういう多種多様な方々の関心をいつまで、どこまで惹きつけていられるか、講師役の私としてははなはだ心許ないところがありますが、今のところ手応えは十分です。

 

今のところは、目下翻訳中のローラン・ビネの第二作『コトバの七番目の機能』(La septième fonction du language)という作品を取り上げて、話を進めています。この作品は一九八〇年にパリ市内で交通事故で亡くなったロラン・バルトの死をめぐる小説です。あろうことか、著者はこれを交通事故ではなく、暗殺であるという仮説に立って一個の長編小説に仕立てあげたのです。この作品にはたくさんのテーマが含まれています。ロラン・バルトは文芸評論の世界に新たな地平を切り拓いた二十世紀を代表する知性とか呼ばれたりしますが、実際のところどういう作家、書き手だったのか。フランスの現代思想とはどういうものか。ひいてはフランス文学とはどんな文学であるか。フランス語とはどういう言語なのか。そして、文学とは何か・・・・・・。時と場合に応じて、積極的にどんどん脱線していく。出し惜しみはしない。というか、出し惜しみするほどのものは持っていないし、いつだって当たって砕けろの精神で生き延びてきたのだから、今回の場合もそれでやってみようじゃないか、それしかできないだろう。というわけです。

 

政治や経済の面でも、あるいは文化の面でも、先の見えない時代に突入した感があります。人間の築き上げてきた文明はどこに行こうとしているのかと問うこともできるかもしれません。でも、そんな大風呂敷を広げてみたところで解が見つかるわけがありません。小さな、具体的な手触りのある、人の顔が見える範囲で何かを立ち上げ、持続させること、そのなかでほのかな光が見え、手応えを感じられるならば、それを突き詰めてみること。この塾でやろうとしているのは、そういうことかもしれません。

 

参加をご希望の方、あるいは質問のある方は、下のコメント欄にその旨書きこんでください(メールアドレスを記入してください。これは公開されませんが、高橋には届くようになっていますから、コメントに対する返事だけでなく、メールでご返事することもできます)

*43 やまべ釣り

この前の日曜日、高校時代にバレーボール部で活躍していた伊藤博くんに誘われて、やまべ釣りに行ってきた。北海道では、山女魚{やまめ}のことを、やまべ、と呼ぶ。魚体の側面に楕円形の斑点が並ぶ小形の川魚。北海道では昔から、干して甘露煮にしたり、天ぷらや唐揚げにしたり、あるいは酢で締めて鮨にしたりと愛されてきた魚だが、最近は数が少なくなってなかなか捕れないと聞いていた。

だから、伊藤博くんから誘われたときも、まあ、ときには山の沢にでも分け入って気分転換するのもよかろうと思った程度なのである。あとで聞いたことだが、博くんも、二、三尾釣れれば上出来だろうと思っていたらしい。

ところがすべての予定、予想が覆った。

まずは釣り場。最初は、阿寒湖の北部にある阿幌岳を源流とする網走川がやまべの宝庫だというので、それならば日の出前から家を出るのだろうと思いこんでいた。

そのうち電話するからと博くんは言っていたのだが、なかなか連絡が来ないので、しびれを切らしてこちらから電話してみた。あのー、やまべ釣りの件、どうなったのかな?
「あー、こっちから電話しようと思ってたんだよ」

どうも最近、気が急いていけないな、とか思いつつ、
「あのさ、網走川の上流まで行くとしたら、朝早く出なければならないんでしょ。だとすると、こっちにも都合というか、心づもりみたいなものもあるわけで・・・・・・」と続けると、
「いやいや、そんな遠いところまでは行かないよ」と言う。
「じゃ、どこに行くの?」
「駒場。駒場、知ってるよね?」
「うん、でも、そんなところにやまべがいるの?」
「いや、穴場があるんだよ」
「駒場なんて、畑しかないだろ?」
「いやいや、小さな沢がたくさんあるんだよ」
「えー、そうなの?」

というわけで、その週の日曜日に駒場に行くことになった。車で三十分くらいのところである。

帯広市とその周辺の地理に冥い人のために、いちおう説明しておくと、帯広市の北側には十勝川が流れている。この川を渡ると音更町に出る。この音更町の広大な畑作・牧場地帯が駒場である。ちなみに音更は、おとふけ、と読む。「アイヌ語のオトプケ(毛髪が生ずる)から転訛したもので、音更川と然別{しかりべつ}川の支流がたくさん流れているところからついたと言われています」(音更町の公式ウェブページより)

この駒場という場所、じつは何度も通ったことがある。でも、いつも通り過ぎるだけ。だって、畑しかないんだから、車を停めてみても、ただ十勝平野の広さと空の広さをあらためて感じること以外の感興はわいてこない。というわけで、いつもはここは素通りして、大雪山国立公園に属する然別湖とか糠平湖まで車を飛ばすことになる。

日曜の朝八時、博くんがわが家まで迎えに来てくれた。なにしろ、釣り竿から胴長まで、釣りに必要なものはすべて用意してくるから、身ひとつで待っていてくれという。ありがたすぎる話である。

でも、本当にありがたいと思ったのは釣りが終わってからである。どうせ釣れるわけがないと思っていたから、ドライブの行き先として、駒場じゃつまらんなぁ、と内心思っていたのである。

車は十勝川を越え、畑の真ん中を貫通する自動車道路を走っていく。話の途中で、博くんは、ちょっと待ってね、といって車を停めた。ナビの画面を呼び出し、探索している。なんと、目的地のリストにたくさんの釣り場のポイントが登録されているのだ。
「釣り仲間がいろいろ情報をくれるんだよ」

なるほど、といっても、ナビ画面の地図には農道らしき直線道路と小川みたいに細い筋しか記されていない。
「これ、川なの? 用水路じゃないの?」

車窓からときどき目に入る細い流れは、両脇に鬱蒼と草木が生い茂っている。こんな場所に分け入ったとしても、釣り糸を垂らすことができるのだろうか? なんだか狐につままれたような気分で助手席に座っているのである。

やがて、博くん、たしか、この辺だったかな、とか言いながら、アスファルト舗装の農道から畑の脇の土手道へと降りていった。左は刈り取られたばかりの麦畑が広がっている。右手は夏の日差しをあびて勢いよく生い茂る草木。しばらく車を進めると、
「ほら、分け入った跡が見えるだろ」と言って、運転席側の茂みを指さす。そう言われれば、雑草が踏みつけられた跡があり、土手が急勾配で下っているのがわかる。でも、流れは見えない。車が停まる。
「とりあえず、この辺でやってみるか」と言って、博くんは土手の右脇に寄り、背伸びして沢を覗きこんでいる。「ほら、見えるよ」

その言葉に惹かれて、土手の下を覗いてみると、幅二、三メートルの瀬が流れていて、段差があるために流れが白く泡立っているところがある。草木に覆われていてよくわからなかったが、思ったより水量がある。それでも、こんな畑のど真ん中にやまべがいるとはにわかには信じられない。

博くんはすでに車のハッチバックを開け、中から釣り竿、胴長、魚籠などを取り出している。
「こっちの胴長をはいてくれる?」

差し出された胴長は見た目も大きいし、持ってみるとかなり重量がある。こんなの履いて、はたして自在に動けるのか?
「靴底にはフェルトが貼ってあって、滑りにくくなっているんだよ」と言う。

両脚を突っこんでみると、下半身が潜水服を着たように重い(と言っても、潜水服を着たことはない)。靴にも重量があるし、転んでも怪我をしないようにということなのか、脛から膝にかけて、アイスホッケーの防具みたいに補強されている(アイスホッケーの防具なら付けたことがある)。

なんだか、すごいことになってきた。
「傾斜がけっこうきついから気をつけてね」

傾斜は三十度くらいだろうか。こんなごつい胴長を着て、降っていけるか心許ない。だが、この胴長、重さ、ごつさの割りには関節部は曲がりやすくなっている。

土手の下まで降りると、二、三人の男が並んで立てるくらいの水平のスペースがあった。その二メートル上手で流れが爽やかな音を立てて白く濁っている。

博くんは釣り糸の先の針に餌をつけている(イタドリ虫と言ったか、ブドウ虫と言ったか、この次会ったら、確かめておこう)。細長く、いかにも繊細そうなカーボンファイバーの釣り竿は大工の棟梁にプレゼントされたものだという(博くんは内装屋なのである)。
「今は売ってなくて、プレミア付いているんだよ」と言って、こちらに差し出すが、そんなすごい道具、初心者が使っていいのか?
「まずは白く泡立っているいるところに投げ込んで、それからすっと下に流していって、それからゆっくり戻していくんだ」

言われるがままに、白く濁っているところに糸を垂らし、そのまま下流に糸を流していくと、
「ほら、来てる、来てる!」と言う。

きょとんとしていると、
「一、二、三で合わせるんだよ!」

そんなこと言われても、意味がわからない。で、とにかく竿の先がしなっているので、引き上げてみると、銀色にきらきら輝く小魚がぴくぴく身をしならせながら、こちらに近づいてくる。
「すごい、いきなりじゃない!」

と、博くん、驚いている。小さなやまべをキャッチすると器用に針を外し、魚籠のなかに入れている。こちらは何がなんだかわからない。釣り上げたのが自分のような気がしない。で、次からは餌の付け方をならって、さっきと同じようなやり方で糸を流してみる。すると、また、ク、ク、と引きがある。小さな赤いプラスチックの浮きが水面の下に沈み、竿の先がわずかにしなる。あわてて引き上げるが、針の先には何もいない。
「ちょっとタイミングが早かったね。とにかく、一、二、三、だから」とまた言うが、やっぱりピンと来ない。

餌は取られていないので、そのまま糸を上流のほうに戻し、同じ動作を繰り返す。すると、また来た。こんどはあわてないように、しっかり食いつくまで我慢する。竿を揺らしても、手応えが外れない感じなので、そのまま引き上げてみる。ぴくぴく跳ねるやまべを今度は自分でキャッチして、針を外そうと試みるが、針は喉の奥まで入りこんでいる。
「ああ、呑みこまれちゃったね。今度はタイミングが遅かったんだ。初心者によくあるんだよ」

博くん、外科医の道具みたいな細長いペンチを取り出して、喉の奥に差し入れている。全長が人差し指くらいの、まだ子供の(?)やまべだから、見るも無惨というか、かわいそうである。
「あ、これ、ダメだね。針を取り替えよう」

博くんは、そう言うと針と錘をつなぐ小さな環のところから、魚に呑まれた針を外し、やまべはそのまま流れに返した。
「引きのタイミングを合わせるのが、やまべ釣りの醍醐味なんだよ」

なんだか悔しい。何回やってもうまくいかないのではないかという気になってくる。気を取り直し、新しい針にブドウ虫を付け、上手の白濁した部分に糸を放りこみ、そのまま流し、また上手に引き上げていく。

また来た。ツン、ツン。小さな魚影が見える。接近しては引き返し、また近づいてくる。白いブドウ虫の餌が一瞬消える。
「ほら、そのタイミング!」

竿を斜め上に引き上げる。まだ勢いよくは引けない、おそるおそる。でも、かかっている。細かい水しぶきを周囲に散らしながら、小さくしなやかな魚体を陽光にさらし、こちらに向かってくる。左手の中に収まったやまべはなおももがく。そのぬめり、艶、つぶらな目とあまりにも小さな口。
「うまい、うまい!」

針はちょうど口先の硬い骨のところにかかっている。
「名人の技だよ」と博くんが冷やかす。「ふつう、こんなにうまくはいかないんだよ」と言うが、当人はあいかわらず何がなんだかわからない、狐につままれたような感じなのである。

もう、あとは無我夢中だった。やまべは次から次へとかかった。まるで奇蹟のように。一、二、三の意味もわかってきた。やまべは慎重だから、いきなりは食いついてこない。最初は様子見のツン、次は確認のツン、で、最後に大きく口を開けて食らいついてくる。そのとき竿をひょいとしならせる。

気がつくと、一時間で二十尾くらい釣り上げていた。

もう一箇所、ポイントがあるんだというので、車で移動した。さっきよりも川幅が広く、竿も振りやすいが、なかなかかかってきてくれない。
「ここのやまべはすれてるね」という。

なるほど、そういうこともあるのか。それでも、一時間で三尾くらいは釣れた。二十尾つれたさっきの釣り場よりも、釣りをしている感じがあった。やまべとの駆け引きみたいなものがあるのだろう。これはやめられないな、と思った。

時計を見ると昼近くになっている。そろそろ引き上げようということになった。気温が上がり、水温が上がると、魚たちの動きも鈍くなるという。朝の八時に家を出て、ポイントをさがし当てたのが九時近く。移動の時間を除くと、二時間くらいは糸を垂らしていた計算になる。魚籠のなかはやまべがうようよしている。
「三十尾くらいはいるんじゃないの」

博くんはあきれたような口調で言うし、こちらのほうは唖然としている。
帰りの車中はむしろ口数が少なかった。疲れたでしょ、と労ってくれるが、疲れたというよりも、茫然としているのである。

釣りはたしかにおもしろい。しかし、ただおもしろいだけではすまされないものがある。

この感じはいったいなんだろうと思って、ずっと考えこんでいるのである。
「猫じゃらしの感じと似てるような気がするんだけどね」と、とりあえず口にしてみると、「あ、うまい」と博くんが応じる。

気の利いたことを言おうとしたのではない。猫の前で、たとえば猫じゃらしを振ってみる。細長い棒でもいいし、紐でもいい。猫は前足を繰り出して、その先を自分のほうに引き寄せようとする。ただひたすら棒の先だけを見て、その動きに反応している。その向こうには人間の手があって、その手を動かしている人間がいる。それも目に入っているはずなのだが、身体は棒の先だけに反応している。

竿と糸という、自分の手の延長ともいえる道具を使って、巧みに魚を招き寄せ、釣り上げる。さっきまで透明な流れのなかに見ていた魚影が脳裡に浮かび上がる。小さな黒い魚影が見えない糸の端の針先に引っかけられた虫めがけて寄ってきては離れ、沈み、また浮かび上がってくる。

そんなことばかり考えている。いや、考えようとして考えているわけではなく、ぼんやりと思念がさまよっているというべきか。

帰りの車中でも、昼過ぎに立ち寄ったそば屋のなかでも、そして、こうしてその日のことを思い出しながら、考えをまとめ、言葉を釣り上げようとしている、この今も、やはり茫漠とした感じがさまよい続けているのである。

帯広に帰って初めて釣りに誘ってくれた伊藤博くんへの感謝の思いを記しておこうと書きはじめたはずなのに、出口が見えなくなってしまった。この続きは次回の釣りの後になるのだろうか。

*42 二つの聖書

判型がまったく同じで、発行所もまったく同じ聖書が二冊、本棚に並んでいる。判型は文庫本に相当し、発行所は銀座四丁目の日本聖書教会、一九五五年に改訳され長く親しまれてきた「口語訳」の聖書である。

違いは二つある。一方は表紙が赤、もう一方は黒、赤いほうの発行年は一九六八年、黒いほうは一九七四年。赤いほうは妻のもの、黒いほうは私のものである。

妻はキリスト教系の女子大学に入った。信者の家に育ったわけではないから、おそらく聖書講読の授業のために購入したのだろう。ページを開いてみると、所々に傍線やらカギ括弧などの書き込みがある。

妻はこのいわゆるミッション系のお嬢さん学校を嫌っていた。そもそも東京の大学に行きたかったのである。兄がすでに東京の大学に通っていて、東京での生活にあこがれていたのである。しかし、両親に反対された。娘がひとり東京で暮らしていけるものか。仕送りできる余裕など家にはないと言われた。慕っている兄にも反対された。大学に行くならちゃんとしたところに行け、と。それが地元のお嬢さん大学だった。

四年間、違和感を噛みしめながら、ひたすら我慢した。卒業したら東京に出て自活すると心に決めていた。就職を決める最後の年、一念発起して、学長にかけあった。東京の出版社に就職したいので、どこでもいいから紹介状を書いてもらえませんか。

そして運良く、彼女は当時目黒にあった出版社で働くことになった。

そして私は六年遅れて、その出版社に入った。

 

私が聖書を買い求めた理由は、大学に入ってしばらくして、聖書の読書会に誘われたからである。

今思えば、個人的には五月病のようなものだったのかもしれないが、大学に入って半年も経たないうちに、大学の授業にも、憧れの自炊生活にも意欲を失い、学校に行ってもいつもキャンパスのベンチにごろりと横になっていた。

そこに声をかけてきた男がいた。大阪の男だった。聖書の読書会をやろうと思っているんだが、参加しないか、という。あとで聞いた話だが、いつも白けているんだかふて腐れているんだか、ベンチで寝ている姿を見て、おもしろいやつだと思ったらしい。

大阪の男はひょろりと背が高く、持病のせいで軽い跛行があった。

読書会は掛け値なしにおもしろかった。興奮し、夢中になった。われわれはマタイ福音書を読み、フォイエルバッハを読み、ルターを読み、内村鑑三を読み、太宰治を読んだ。

キリスト教には縁もゆかりもなく、福音書のなんたるかも知らない田舎者の青年は、まさに乾いた砂が水を吸い込むように無我夢中でそこに刻まれている活字を呑みこんでいった。

大阪の男はキリスト教系の高校を出ていた。愚直でロマン主義の塊のような男だった。中原中也を愛唱し(そう、酒が入ると諳んじて、文字どおり謳うのだ)、革命の夢を追い、思想家たらんとしていた。

この読書会は、テキストを読んできて、その感想を言い合うというようなものではなかった。一字一句、声に出して音読していくのである。これも大阪の男の発案だった。

われわれは大学の周辺をうろついた。喫茶店をはしごし、貸部屋のようなところで半日を過ごし、日が暮れれば飲み屋に繰り出して議論した。

ひょろりと背が高い座長とその賛同者たち。今思えば、イエスとその使徒たちのようであったかもしれない。

福音書の、いったい何に、どこに惹かれたというのか。私個人に限って言えば、それまで読んだどんな小説よりも劇的で、しかもリアリティがあると感じられた。そんな感受性が、自分のどこにあったのかと訝るほど、読んで感動した。むしろ、動揺し、惑乱したというべきかもしれない。

これが聖なる書? 福音って何だ? ここに書かれていることは、おどろおどろしい悪魔払いと荒唐無稽な癒しの場面、原始的な医療の現場、それに仲間内の不信と裏切りと、何か得体の知れないものに対する主人公の苛立ち、焦慮、そういったものの連続ではないか?

そう、繰り返すが私はここに苛烈な人間ドラマを読んだのである。信仰に近づいたことは一度もないし、洗礼を受けてキリスト教徒になろうとしたこともない。

私はいつも文化果つる土地からやってきた野蛮人でありたいと願っていた。そういう思いと福音書のテクストは波長が合った。

そして、福音書と同じく、やがてわれわれの読書会にも別れの季節がやってくる。誰しも永遠に学生のままでいるわけにはいかない。社会との接点を見つけ、その一員にならなければ生きてはいけない。

ある者は予備校の、高校の教師となり、ある者は大学院に残った。私は出版社に勤めることになった。

 

私は妻とキリスト教の話も聖書の話もしたことがない。彼女は単位を取るために聖書を読んだのだろうし、私のほうも妻とそんな話をする必要はなかった。

しかし、十数年前に先立たれ、彼女が遺していった本を自分の書棚に入れ、判型の同じ赤と黒の聖書が並んでいるのを見ていると、本同士が会話を交わしているような気がしてくる。それは最近のことである。それだけ妻の死が遠くなったということなのかもしれない。

私に聖書の世界を開いてくれた大阪の男は三十代半ばで他界し、妻も五十代半ばで旅立っていった。自分だけ生き延びているという感覚よりも、取り残されたという感覚のほうが強い。人は死んでも書物は残る。書物が失われても記憶は残る。人が死んでも記憶は残る。私が聖書を読みつづけるかぎり、死者の記憶も失われることがないだろう。

*39 ニコラ・ブーヴィエの詩

熊本の伽鹿舎から出ている文芸誌「片隅」の4号がもうじき刊行される。今回もエッセイを書かせてもらったので、このブログに一足お先に最終校のPDFを掲載させていただく。

 

ニコラ・ブーヴィエの詩(最終)(←ここをクリック)

*35 音楽への憎しみ

007
(これは1997年に青土社から上梓したパスカル・キニャールの『音楽への憎しみ』に寄せた訳者あとがきである。思うところがあって、その一部を抜粋してここに掲載することにした)

チェーホフには「大学生」という掌篇がある。かつては国語の教科書に載っていたくらいだから、憶えている人も多いだろう。チェーホフ自身がもっとも気に入っているという作品だ。

神学校の学生イワン・ヴェリカポーリスキーは、やましぎ撃ちの帰り道、ワシリーサという老婆とその娘が菜園を営んでいる農家に久しぶりに立ち寄る。かつてあちらこちらの地主のもとで乳母をつとめていたワシリーサは「見違えちゃって、わかりませんでしたわ」と言う。彼は焚火にあたりながら、ふとペテロの話を思い出す。「こういう寒い晩に、使徒ペテロも焚火で体を暖めていたんだろうね」。大学生が新約聖書のエピソードを語り終えると、ほほえみを浮かべていたワシリーサが、ふいにすすり泣きをはじめ、大粒の涙が両頬を伝ってとめどなく流れ出す。焚火の明りで涙を見られるのを恥じるかのように、彼女は袖で顔を隠す。

大学生はその場を辞する。そして後ろを振り返る。

 

暗闇のなかで焚火がひっそりと瞬いていたが、そのあたりにはすでに人影はなかった。大学生はまた考えた。ワシリーサがあんなふうに涙を流し、娘があんなふうにどぎまぎしたところをみると、それは明らかに、いま自分が話した十九世紀前の出来事が、現代と——この二人の女と、そしてたぶんこのうらさびれた村と、自分自身と、すべての人々と、何らかのつながりを持っているということなのだ。老婆があんなふうに泣いたのは、彼が人の心にふれるような巧みな話術を心得ていたからではなく、ペテロが彼女にとって身近な存在であり、彼女がみずからの全存在で、ペテロの魂のなかで生じた出来事に関心を抱いていたからなのだ。
 ふいに喜びが胸にこみあげ、彼は立ち止まって一息ついた。過去は、と彼は思った、あるものからあるものへ流れ出る因果の鎖によって現在と結びついているのだ。彼はたった今、その鎖の両端をかいまみたような気がした——鎖の一方の端にふれたら、他の端もふるえたと思った。

 

ここでチェーホフは、たんなる「歴史」の連鎖ということだけを言っているわけではない。復活祭を間近に控えたロシアの「うらさびれた村」の寒々しく荒涼とした風景、その美しい描写こそ、この作品の要をなしている。やましぎ撃ちから帰る大学生の指はかじかみ、風で顔がほてっている。そしてふいに寒気が襲ってくる。

 

彼には、この突然の寒さが、もろもろの秩序と調和を破り去り、自然みずからがおぞけだって、そのために夕闇が思いがけぬ早さで濃さを増していくように思えるのだった。あたりは荒涼として、ことさら陰気な感じがした。川のほとりにある後家の菜園に火がともされているだけで、遥か一面、およそ四露里むこうの、村のあるあたりまで、すべてがひんやりとした夕闇に沈んでいた。(亀山郁夫訳、強調引用者)

 

大学生は寒さと夕闇に包まれている。自然そのものが寒がっている。そのために夕暮れは闇を急いでいる。自然がにわかにリズムを速めて、昼と夜とを交替させようとしているそのときに、自然と波長を同じくする内部生命の鼓動も速まる。彼の歩みも速まる。遠くに、かつて乳母だったワシリーサの家の明りと焚火がある。彼女は「見違えちゃって、わかりませんでしたわ」と言う。ワシリーサの優しい穏やかな微笑みと焚火の暖かさを前にして、彼は「前神学生レベル」の、「前イワン・レベル」の混沌に沈む。そしてペテロのエビソードを思い出す。

おそらく、チェーホフの「大学生」ほどキニャールの「ペテロの涙」を解説してくれる文章はないだろう。あるいは次のような文章を続けて読んでもらいたい。

 

君は憶えているか、ティベリスの岸辺で揺れる昆虫のように小さい猟師の網を。八人から十人くらいの、小指よりも小さい猟師たちが、肩から灰色の影を落としながらゆっくりと黄色い川のなかに入ってゆく。さらに遠くでは、まるで銅の手鏡の上のぽんやりとした反映のように雲の垂れこめるオスティアの河口の霧にまぎれ、仲間に遅れた引き網舟がひとつふたつ、迫りくる夕闇のなかを帰ってくる。私の目の前には鵞鳥が列をなして歩いていた。全身が黄色で赤い縁取りのある鵞鳥だ。ティベリスと冥府のアケロンはひとつの川だったのかもしれないし、どの川も女の子宮にたくわえられている羊水に似ているのかもしれないし、あるいはまた、われわれの身体はこの岸辺に輝く光や足もとからのびる影に包まれているが、それとは別の岸辺もあるのではなかろうか。なにもかもが赤い。川の浮き橋の手すりに乗せた私の手も夕日に染まって赤い。たぶん私の顔も赤いだろう。だが、なにひとつ私の顔を見ているものはない。(パスカル・キニャール「理性」)

 

これは、ローマを追放されてスペインの故郷グアダルキビル川のほとりに連れ戻されたポルキウス・ラトロが大セネカにローマの思い出を語る場面だ。もちろんラトロの口を借りて、キニャールが語っているのだ。まるでクロード・ロランの絵をみているような光景だ。ラトロの全身が夕日に染まっている。彼の顔面が熱くほてる。誰かが自分を見ているような気がする。「だが、なにひとつ私の顔を見ているものはない」。夕日が彼を見ているのではないか。いや、夕日は彼を見ているのではない、彼を包んでいるのだ。背後からも夕日は彼を見ている。包まれるとはそういうことだ。感動とノスタルジーが彼を包む。記憶がぶりかえす。ローマの思い出、幼年期の思い出、あるいは子宮内の思い出。彼はそこで時間が停止しているのを感じているのか、それとも逆流しているのを感じているのか。

もっと素朴に問う。なぜわたしたちは夕日を見て美しいと感じるのか。そして、その美しさを表現しようとした言葉を読んで、なぜ美しいと感じるのか。美しい文章が意味からできるだけ離れようとするのはどうしてなのか。美を求める言語の動きは、言語の奥へ奥へと遡行して、ついに意味から逸れる。夕日の美しさを書いた文章に意味などない。それはただ美しいだけだ。そもそも美しいと感じる心の働きはなんなのか。なぜ犬は夕日を見て吠えるのか。なぜ鶏は夜明けに鳴くのか。

キニャールは言う。

 

わたしにはあなたの言っていることがわからない。が、夜は明ける。わたしには言語が何を明らかにするのかわからない、が、雄鶏はぞっとするようなしわがれ声を二度繰り返し、日の到来を証す。自然は雄鶏のすがたで夜明けを吠える。(第一考 ペテロの涙)

 

「自然は雄鶏のすがたで夜明けを吠える」。鶏は夜明けに向かって鳴いているのではない。犬は夕日に向かって吠えているのではない。ラトロは夕焼けに包まれて、「たぶん私の顔も赤いだろう。だが、なにひとつ私の顔を見ているものはない」とつぶやく。イワンは「自然みずからがおぞけだって、そのために夕闇が思いがけぬ早さで濃さを増していく」と感じる。ペテロは明け染める庭のすみで、さめざめと泣く。

それが音楽だ。キニャールは言う。

 

お気に入りの音楽にはどれも、音楽そのものに付加された古い音がいくらかまじっている。ギリシア語本来の意味でのムーシケが音楽そのものに付加されているのだ。いわば「付加された音楽」、大地をえぐり、やがて、わたしたちの苦しみのもとである叫びをめざすもの、だが、その叫びは名付けようもないばかりか、その出所を見たことさえない。目に見えない音、永遠に視覚とは無縁で、わたしたちの内部でさまよっている音。まだわたしたちの目が見えないころ。呼吸もできないころ。叫ぶこともできないころ。だが、耳は聞こえていた。(第一考 ペテロの涙)

 

ペテロの涙、それはヨーロッパの涙だとわたしには思える。

ベテロはかつてシモンと呼ばれるベッサイダの漁夫だった。ペテロと命名し、「人を漁{すなど}る」漁師にしてしまったのはイエスだ。一介の田舎の漁師がカトリックの「礎」となる。ペテロは孤独だ。彼はイエスに従うことを決心した瞬間に、自分の名前を捨て、故郷を捨て、故郷の音を捨てた。イエスは孤独の極限を生きている。ユダヤ教団の制度から外れ、律法学者たちの欺瞞を攻撃するばかりでなく、その父と母に対してさえ「わたしはあなたたちを知らない」と否認し、「預言者は故郷では容れられない」とうそぶき、十字架の上の死に向かってひた走る。ペテロは大祭司アンナスの中庭でイエスを否認する以前にも、幾度となく迷い逡巡し、ついていけないと心密かに思ったにちがいない。しかし、その思いをイエスにはもちろんのこと、彼の仲間にも打ち明けることはなかっただろう。その孤独が大祭司アンナスの庭で突如として崩れる。庭の真ん中で車座になって火を囲んでいる、いかにも分け隔てのなさそうな人の輪に自分も加わり、暖をとろうとするが、おまえはわれわれの仲間ではない、あのガリラヤびとの仲間だと拒否される。イエスを裏切ると同時にあらゆる人の群れから追放されたペテロは、その孤独の極限で自然の咆哮を耳にし、それに包まれることによって、もっとも深いノスタルジーの波に襲われて難破する。福音書は「苦い涙」と書くが、わたしたちにはそもそも涙の種類を区別することができない。

モーセはピッチとアスファルトを塗った籠に入れられてナイルに流された捨子だった。そしてファラオの娘に拾われる。奴隷監督の横暴に腹を立てて殺し、シナイ山の麓に逃げる。そこでエテロという祭司の養子になる。彼はシナイ山に吹き荒れる風の音を聞く。それが神の声だった。そこで彼は神と「契約」する。土着の神であれば契約などいらない。なぜならその神は母であり、父であったろうから。

ヨーロッパはかつてケルトの民が住むところだった。ローマがそこを襲う。ガリアの首領ウェルキンゲトリクスはカエサルに破れ、ローマで処刑される。やがてローマは疲れる。そのローマをゴート諸族が、ゲルマン諸族が襲う。ケルトの民もゲルマンの民も文字を知らなかった。彼らはやがて自分たちの神話と聖書物語を融合させて、ヨーロッパの民となっていく。

わたしはときどき、ヨーロッパ人にとって古代地中海世界は目の上のたんこぶではないかと思うことがある。ヘレニズムとヘブライズム。ギリシア人とユダヤ人。いつまでたってもそれを越えることができないというコンプレックス。彼らは文化の起源としての古代地中海世界と彼らの存在の根源としてのケルト・ゲルマン世界にいつも切り裂かれている。音楽{ノスタルジー}はその亀裂から溢れだす。

ペテロの涙、それはアジアの涙であり、日本の涙であるようにも思える。

ナチズムあるいはファシズム、それは遠い歴史の怨念であるように思える。

パスカル・キニャールはそれを書く。歴史の夜を書く。

 

*33 LGBT、あるいは「第三の性」

今月号(8月号)の「すばる」に野崎歓さんの「第三の性と出会うとき——フランス文学とホモセクシュアリティ」(特集*LGBT)と題したエッセイが掲載されている。「バルザック以来、フランス文学史において脈々と受け継がれてきた男性同性愛の表現」がジャン・ジュネにおいて絶頂に達する過程を鮮やかにすくい上げ、最後はエドゥアール・ルイの衝撃の問題作『エディに別れを告げて』(拙訳、東京創元社、2015年刊)に触れられている。

そう、そうなのだ、と読んでいて、何度もうなずいた。ホモセクシュアルの世界はフランス文学ならずとも、文学のきわめて重大なテーマのひとつではないか。

だが、フランスでは賛否両論の渦を巻く話題作となった『エディに別れを告げて』も、日本においてはほとんど無視の状態で終わりそうな気配なのだ。野崎さんの力強いエッセイの後押しで、日本版「エディ」が息を吹き返すのを見たいものだと願わずにはいられない。

それにしても、なぜ日本の読書界はこの作品を前にしてほとんど沈黙してしまったのだろうか? テレビの世界では、みずから「おかま」と称して悪びれも気後れもせず堂々と活躍しているタレントも珍しくないし、トランスジェンダーであることや肉体的に性転換を果たしたことを「カミングアウト」する人たちも増えてきているというのに、どうしてだろうと思う。

おそらく複数の要因が絡み合っているのだろうと、翻訳した本人としては考えている。翻訳の質については問わないことにしよう。自分ではいいのか悪いのか判断できないから。

まず、ひとつには、フランスの読者でさえもが、こんなに貧しく汚い世界がフランスに残されていたのかと驚いたということがある。日本の読者が、そういう事実なり真実なりに触れるためにわざわざ翻訳小説を手にするだろうか? そもそも、「破滅型」と呼ばれる日本の私小説作家たちが、さんざん貧しく憐れな世界を描き、こんなのは日本特有のいびつな「自然主義」の受容の結果だと言われつづけてきたのだ。そして、その種の貧しさからようやく脱し、世界の一流国の仲間入りを果たしたと自惚れている日本人が、わざわざ一昔前の自分たちの姿を鏡に映して喜ぶだろうか。しかも、「ホモ」と呼ばれて蔑まれ、こっぴどい「いじめ」を受ける自虐的な場面に事欠かない小説なのである。

いや、夢中にならなくてもいい。そういう小説ではないのだから。

長年、翻訳をやってきて、ちっとも売れなかったという経験ならいやというほどしてきた。だから、思ったほど刷り部数が伸びなかったことがショックなのではない。あまりにも書評の数が少ない。版元から送られてきた書評のコピーは、たった二つ、これはどうしたことか、と訝っているのだ。

野崎さんのようなけっこう分量のある秀逸な書評を期待していたわけではない。だから、今回「すばる」に掲載されたエッセイは望外の喜びと言ってもいい。

もうひとつの問題は、この野崎さんのエッセイのなかに潜んでいるかもしれない。文章の流れを寸断するようで申し訳ないのだが、ここで言及されたり引用されたりしている作家と作品の名前を一部ここに列挙してみよう。

サルトルの『水いらず』、ランボーの『イリュミナシオン』、エルヴェ・ギベールの『わが両親』、バルザックの『ゴリオ爺さん』、『浮かれ盛衰記』、プルーストの「ソドムとゴモラ」(『失われた時を求めて』)、ジュネの『花のノートルダム』、『薔薇の奇蹟』・・・・・・。

わたしはフランス文学の翻訳者ということになっているが、正直言って、ここに挙げられた作品は、読んだものもあれば読まなかったものもあるし、途中まで読んで投げ出したものもある。

もっと突っこんで言えば、「フランス文学」にはコンプレックスがある。おまえは本当に「フランス文学」が好きかと問われて、間髪入れず「はい」とは答えられないのである。学生時代からずっとそうなのだ。

ならば、なぜ「フランス文学」の翻訳者などになったのか?

なりゆきとしか答えようがない。

ただし、「文学」を「書かれたもの」と解釈するならば、フランスの文学に対する「学恩」は計り知れないものがある。

『トリスタンとイズー』、『ローランの歌』、ミシュレの『魔女』、デカルトの『方法序説』、スタンダールの『イタリア絵画史』、バシュラールの『近似的認識試論』、夢中になって読んだものを挙げよと言われると、こんなライン・アップになってしまうのである。

大学時代のフランス文学関係の講義は苦痛で仕方がなかったけれど、科学史の授業は好んで出かけていった(教授の名前も講座の名前も忘れてしまったけれど)。

話が逸れた。

野崎さんは、「すばる」に発表したエッセイの最後を「何しろここで触れた作品はいずれも、ギベールのいう「新聞売りの回転陳列台」にあるような、本来だれにでも手に取って読むことのできる作品ばかりなのだから」という文言で締めくくっているが、それははたしてどうか、と思うのである。

もちろん、野崎さんの言わんとしているところは承知しているつもりである。ホモセクシュアルはけっしてマイナーな主題ではないということだろう。それはわかる。しかし、キオスクの回転陳列台に並べられているから、フランス人の誰もが読む作品かといえば、そうとは限らないだろう。

学生時代、フランス文学の教授(たしかスタンダールの専門家だった)が「フランスの庶民階級はあまり本を読みませんよ。識字率も日本より低い」とか語っているのを今でも憶えている。四十年前と今とではもちろん事情は違う。

しかし、「文学」にまつわる事情は日本もフランスも、今も昔も同じではないかと思うのだ。

何年か前に、急遽フランスから取り寄せたい本があって、フランスのアマゾンで検索していたら、フランス人の一読者が自分はふだんフランスの小説をあまり読まない。なぜならおもしろくないから。おもしろみを求めて読むなら、アングロサクソンの探偵小説に限る、というような内容のレビューを発見して驚いたことがある。

今、パリの書店を巡り歩くと、日本のエンタテインメント小説が平積みになっているのを目にすることが驚きではなくなっている。日本のマンガ・コーナーの広さにはほとんど唖然とさせられる。

いったいこの光景は何なのか?

フランスを文化的先進国として見上げていた自分の青春はいったいなんだったのか?

フランスは優れて近代の国だった。それが今、「近代は終わった」などと言われ、「ポストモダン」という言葉は特殊な専門用語ではなくなった。

しかし、こういうことをしたり顔で言う知識人は信用できない。なるほど「近代」という時代はいたるところで限界を露呈しているかもしれない。しかし、「近代」を軽々しく否定することは、みずからを否定することではないのか。とくに「知識人」と呼ばれる人にとっては。

それとも彼らは自分だけは別物だと思っているのだろうか。

『エディに別れを告げて』の著者エドゥアール・ルイは、このあたりの自己欺瞞に優れて敏感な作家だと思う。なぜなら、彼は成り上がりであり、自分の出自に対する裏切り者だという罪悪感をごまかそうとしないからだ。

もしかすると、「文学」は壮麗なごまかしなのかもしれない。野崎さんはこう書く。

 

作品冒頭、悪辣ないじめっ子が中学の廊下でエディの顔面にねっとりとした唾を吐きかける場面が強烈だ。『薔薇の奇蹟』にも同様の場面があったが、ジュネのような汚辱の壮麗化からははるかに遠く、救いのないベタな事実として記述されていることが逆に衝撃を与える。偉大な同性愛文学のはるか手前{原文傍点}に横たわる現実があらわにされているのであり、若き作者にはそこから出発する以外に方法はなかった。その隔たりの大きさに眩惑を覚える。

 

このような感受性と視点をもって、作品を読み込むことのできる野崎さんの文学者としての懐の深さには脱帽するしかないが、こんなふうな率直な作品評価のできる人が野崎さん以外にいないというのは、いったいどうしたことなのか?

さっき言ったことの繰り返しになるが、人生の節目節目で自分は本当に「文学」というものが好きなのかと問い直す場面に何度か直面してきた。たとえば嘉村磯多の作品を読んでいたときにもそういう思いに駆られたことがあった。天皇行幸の場面を描写した箇所を読んで、自分は貧しくしがない一介の文士だが、文を書くことにおいては帝王にもひけを取らないと言っているように思えて、「この卑怯者!」と内心つぶやいたのである。

プルーストを読んでいたときにもそういう感慨が湧き上がってきた。コルク張りの部屋を設えて、そこを王国となす。いい気なもんだね・・・・・・。でも、読み進めていくうちに、これは「失われた時」を求め、それを発見する物語ではなく、ボードレール風に言うならば、時間から逃げようとしてついに時間に捕らえられてしまう男の物語ではないかと思えてきて、作者にのしかかる強迫観念がこちらにまで押し寄せてきて、読み終わったときには、もう二度とこの小説を読むことはあるまいと、全巻友人に進呈してしまった(翻訳家になってから、やはり必要になって文庫本を全巻購入するはめになったけれど)。

また、話が逸れた。

10月には、アルルで開設される翻訳家養成のワークショップに参加するためにフランスに行くことになっている。帰りがけに、知己を得た作家に会ってこようかと思っているのだが、エドゥアール・ルイはどうしよう? 第二作目を翻訳するかどうかまだ決まっていない状態で、彼と会って何を話せばいいのか?

少なくともここで言えることは、第一作はあくまでも作家としてのスタートを切った作品であって、文体にしろ、構成にしろ、すべて手探りの暗中模索、これ以上はどうにもならないと観念して作品を手放したという感が強い。それに比べて第二作目(版権の問題があるからタイトルはあえて伏せておく)はあきらかに自覚した作家の誕生を告げる作品に仕上がっている。翻訳したいと思っても、この前代未聞の出版不況にあって、よほどの追い風が吹かないかぎり、実現はなかなか難しいだろう。

とりとめもなく書いてしまった。こんな文字どおりの拙文よりは、野崎歓さんのエッセイのほうがはるかに為になると思うので、PDFファイルを下に貼りつけておくので、ぜひ読んでみてください。

 

野崎歓 すばる

*32 本を読むこと

先日、伽鹿舎——熊本に本拠を置き「九州限定」を旗印とする出版社、念のため——の加地葉さんからメールが来て、紀伊國屋書店グランドフロント大阪店で企画されている「はじめての海外文学フェア」に協力してもらえないだろうかという間接的な(?)依頼が来た。「ビギナー」にお薦めのフランス文学関係の本を選ぶ選者のひとりになってくれないかという。添付の資料にも目を通したけれど、ちょっと条件が多すぎて、選ぶのがむずかしそうだと感じた。

ただ単に「できません」では愛想がないので、自分が訳した本のなかで、もっとも反響の大きかった小説の書評のPDFをばらばらと送った。残念なことに十年以上前に出版されてそのまま絶版になってしまった小説で、今回の企画が対象としている書籍の条件からは外れてしまうものである。加地葉さんはさぞ目を白黒させたことだろう。そのお詫びとフォローを兼ねて、なぜそんな返信になってしまったのか、少し書いてみようと思う。

その本の作者とタイトルは、ここではあえて伏せておく。なぜならば、反響は大きかったけれども、訳者としては微妙な感じの残る作品だったからである。

反響はとにかくすごかった。おもに女性の、著名な作家、評論家、フランス文学者たちがこぞって贔屓してくれたばかりでなく、テレビ・ラジオでも取り上げられたし、わたしも翻訳者として有力月刊誌のインタビューを受けたし、某誌の年間ベスト1にも選ばれたのである。

もちろん訳者としてうれしくないわけがない。だが、でも・・・と続くのである。

この小説を書いた若手作家はとにかく筆が立つ。何をやらせてもうまい。映画も撮るし、芝居の脚本も書く。そのすべてが、いわゆるウェル・メイド(well made)なのである。

もの足らない? いや、うますぎるのである。だから翻訳もなんの苦労もなく快調に進む。わたしは訳者あとがきに、前作と比べて「これはフランス語で書かれなくてもよかったのではないかと思えるほど言葉を切り詰めている」と書いた。

ようするに平易に書かれていたのである。当然読みやすい。頁を繰る手は徐々に速くなる。おまけに紅涙をしぼる場面が用意されているとくれば、「ビギナー」にはぴったりだ。これを機会にフランス文学に目が開かれれば御の字ではないか。

ところで、おまえはこの作品が好きか? と問われれば、うーむ、とうなってしまうのである。

嫌いではない。訳していて気持ちがよいものを嫌いになれるわけがない。

でも、個人的にこういう本を選んで読んではこなかったのである。

というか、今は自分の仕事にしているけれど、かつてフランス文学の敷居はとても高かったのである。若いときは、敷居の高いものにあこがれたり、挑戦してみたくなるものである。べつに難解きわまるマラルメの詩や、プルーストの大長編小説のことを言っているのではない。

たとえば、アルベール・カミュの『異邦人』、これをはじめて読んだのは十代の終わりころだったと思う。第一印象は「とりつく島がない」。主人公のムルソーに、どうしても感情移入できない。どうして作者はこんな小説を書いたのか?

フランス文学には何かなじめないものを感じたまま大学を卒業し、小さな出版社につとめた。そして、何度かこのブログにも書いたように、二十代の終わりに一念発起して、カミュの故郷アルジェリアに渡った。フランス語への耳慣らし、口慣らしのために作者みずから吹きこんだ朗読テープを入手して毎日聴いたりもした。

現地の光を浴び、現地の風に吹かれたのだから、作品が身近に感じられるようになったか、といえば、じつはそうでもない。

なにしろ、家族を養うために大車輪で働かねばならなかったから、「本」など読んでいる暇がなかった。もちろん、仕事で資料や本は読む。しかし、「読書」する暇はなかった。

それはそれで楽しかった。家族のためだと割り切って、あらゆることを単純化してしまうのは存外喜びを伴うことである。「断捨離」とつながるものがある。でも、危険なことでもあるだろう。人はなぜ戦争に突き進むのか? ありとあらゆることを割り切って、ひとつの価値に収斂させていくこと、それは快感なのだ。テロが世界の方々で起きているのを見て、いつもそう思う。

それはともかく、そうした幸福な生活はいつまでも続かなかった。妻が病死し、娘たちは早々と結婚して家を出ていった。家から人の気配と、人の声が消えた。がらんとした空間に男だけが取り残された。

よし、「本」を読もう、と思った。古典中の古典を。たとえば聖書、たとえば仏典、たとえば老荘、たとえばマルクス、資本論、たとえば科学史に関連する本、自分の生地が踊る本。ここに小説はあまり含まれていないのがミソ(?)だ。

午前中に翻訳の仕事を終え、昼食をたべて仮眠をとる。その習慣は変わらない。けれど三時から五時くらいにかけての昼下がりの時間には、仕事を持ちこまない。ひたすら「古典」を読む。この種の古い本はけっしてpage turning(読み出したら止まらない)といえるようなものではない。むしろ、一行ずつ、一頁ずつ、亀のように、毛虫のように這いながら読み進めていく。その間、時間は忘れている。あるいは止まっている。世界の共通時から外れていく。それが快感になる。家族がいたときとは真逆の時間がそこにはあった。

けれどそういう時間も長くは続かなかった。一人暮らしは予想以上に疲れた。誰でもいいからそばにひとがいてほしいと思うようになった。もう年貢の納め時かと思い、生まれ故郷に帰った。老いた母親も一人暮らしになっていたから。

ただし「読書」の習慣は残った。古典を遅読する習慣とでもいおうか。三時から五時にかけての昼下がり、わたしの時間は止まる。

その時間が無上の快感なのである。時間は完全には止まっていない。ゆっくりとした微風のようなものが流れている。遠い遠い時間の果てから吹いてくるような風。

「本」を読んでいるときに感じる、そういう風が「文」を書いているときにも吹けばいいと思う。

で、カミュの『異邦人』の話はどうなったか。アルジェリアから帰ってきて、長いこと忘れていた。東京で非常勤講師を頼まれたときに、テキストに使ってみたことがあるが、学生たちの反応は今ひとつだった。大学で教えている翻訳者仲間にも尋ねてみたが、『異邦人』はノーベル賞を獲得した現代の古典と呼べるような作品ではあるが、やはり学生がすぐに食いつく作品ではないらしい。

帯広に帰ってきてから、地元の同人誌から声がかかった。何か書けという。ふと『異邦人』を思い出した。この作品は自分の青春とともにあった。あまり気張らずに、新しい切り口で何か書けないかと考えた。

ムルソーの食卓」(2015年1月28日に本ブログに公開)というタイトルが思い浮かんだとき、これはいける、と直感した。そして、書きはじめるとすぐに、この小説は自分の体内に入っていると感じた。長い間、記憶の底に沈んでいたが、身体の奥で呼吸していたというべきか。食事をするムルソーの描写を通じて、ムルソーが自分の身体のなかに生きていると感じた。

そこに静かな時間が流れていた。最初にこの作品を手にしてから半世紀近い時間が流れた計算になる。

本屋さんは商品としての本を扱う。本が売れなければ本屋はつぶれる。専業の小説家や翻訳家だって路頭に迷う。三年前に本屋大賞を頂戴したくらいだから、本屋さんのありがたみは人一倍感じている。

でも、わたしにとっての「本」は、商品としての本ではなく、降りそそぐ光とか風とか、そのつど口にした食べ物とか、やはり人生そのものとしかいいようのないものなのである。

*31 熊本へ

熊本市の電気館でトークショーをおこなったのが、3月の19日。

帰ってきてから考えあぐんで書いた「魏志倭人伝」をここにアップしたのが4月の4日。

これではお世話になった熊本のみなさんには申し訳ない、と思って書いたのが「熊本の感興」、アップしたのは4月の12日。

翌々日の14日、少しほっとしてテレビで夜のニュースを見ていたら、画面が揺れている。震度6強(のちに震度7に訂正)。

ありえない。すぐに伽鹿舎の加地さんにメールを打った。今のところそれほどの被害は出ていないという返事。だが、地震は誰の予想をも裏切った。14日の最初の地震は前震、翌々日16日の震度7が本震であると。

 

熊本城の石垣が崩れ落ちる映像を見て、5年前の東北大震災の津波の映像を思い出した。上空のヘリからの映像。沖合いから巨大な波が沿岸を襲う。川を遡り、田畑を押し流し、家と樹木を、町全体を根こそぎ掠っていく。

その町の名は閖上(ゆりあげ)、川の名は名取川、亡き妻が生まれ育った土地だった。その地を訪れるたびに、実家の人々は総出で歓待してくれた。お義父さんは鮟鱇の肝和えを作ってもてなしてくれた。お義母さんはバケツ一杯赤貝を港から仕入れてきてくれた。塩鰈(一夜干し)がおいしいというと、お義兄さんは次から次へと焼いてくれて、結局7枚も食べる羽目になった。

お義父さん、お義母さんはすでに他界していたが、この震災と津波でお義兄さんが帰らぬ人となった。町はまだ復興の目途が立たず、ただ漠とした土地が海に面しているだけである。震災からしばらくして現地を訪れ、この光景を目の当たりにしたとき、妻を二度失った気がした。

 

妻がこの世を去ったのは12年前の秋のことである。乳癌だった。摘出手術をしたのち、放射線やら抗癌剤やらでだましだまし、けれど比較的元気に十数年暮らしてきたのだが、死の前年に肝臓に転移してから、急速に悪化の一途をたどった。打つ手がなくなり、本人の希望もあって家に戻った。寝たきりであったけれども、幸せそうな顔をしていた。娘たちはまだ学校に通っていた。男の作る粗末な料理に少しだけ箸をつけ、笑った。そういう生活がどれくらい続いたのだったか。ある日、それまで健気に痛みに耐えていた妻が、もうだめ、と言った。深夜、救急車を呼び、一緒に乗り込んだ。娘たちは家の車でそのあとを追った。数日は泊まり込むことになるだろうと思っていたので、その夜はとりあえず娘たちを家に帰した。

妻の運ばれた病室は一般の病室ではなかった。もう回復の見込みがない患者のための部屋。だが、そのときは気づかなかった(行動は冷静でも、頭のなかが動転している。あるいは視野が狭くなっている)。

寝袋を床に敷いて、寝ようとすると、必死に話しかけてくる。牛肉が冷蔵庫のなかに残っているから、早く食べてね・・・。もう電気を消してもいいわよ(すでに消してあった)。あ、おしっこがしたくなっちゃった(おむつを当てられていた)。当直の看護婦を呼ぶと、おむつを替えてくれた。
「ああ、気持ちいい、気持ちいい」

それが最後の言葉だった。おい、ちょっと待て、聞こえるか、ちょっと待て。そんなことを口走ったような気がする。娘たちに電話すると、すぐにかけつけた。母の死に目に会えなかったことを口惜しがった。
「お母さん、お父さんと二人きりになりたかったんだ。ぜったいそうだよ」

妻は死んだと思っていないような気がする。深い眠りに落ちて、目が覚めないだけ。そこで時間が止まっている。

だが最近、妙なことを考えるようになった。

そこで止まってしまったのは、こちらの時間ではないのか。

 

また、熊本へゆく。行かねばならないと思う。その理由はうまく説明できない。だからこんな文章を書いている。文というものは他者に向かって説明したり、言い訳したり、説得したりするために存在しているのではない、という思いが強まってきている。話し言葉はそうかもしれないが、書き言葉は違う。他者とは死者のことである。死者に言い訳は通用しない。そもそも自分の行動や感情を自分で理解できると思っていること自体が卑しい。自分のことは自分が一番よく知っている、と嘯く人はまず信用できない。人間は自分のことを知らない。だから戦争を起こすのだ。あの最悪・最低の両大戦を引き起こしてしまった人類に偉そうなことが言えるか? 政治家が悪い、軍人が悪い? 冗談じゃない、俺たちが悪いんだよ。

阪神、新潟、東北、九州。なぜなのか?

収拾がつかなくなってきた。続きはしばらく時間をおいてからにしよう。

*30 熊本の感興

前回、タイトルを魏志倭人伝にするか、熊本の感興にするか迷ったあげく、どっちでも同じことだとやけっぱちで(?)書きはじめたら、あんなことになってしまったが、タイトルが違えばおのずから内容も違ってくるのは当たり前のことだ。今回は前回のフォローというのか、前回が表なら今回が裏(逆も真なり)というようなものを書いてみよう。もちろんタイトルは「熊本の感興」、ポール・ヴァレリーの「地中海の感興」をもじって。詩人はこの名エッセイのなかで、自分の生まれた小さな港町(セート)について「生まれるならばそういう場所で生まれたいと思っている場所で私は生まれた」(吉田建一訳)と、万感の思いを込めて語っているが、本人はこの故郷についに帰ることはなかった。遺体だけが望み通りに帰郷をはたし、「海辺の墓地」という名の墓地に眠っている。三年前の初夏、アルルで翻訳講師をつとめるついでに、その墓を訪れることができた。

それはともかく、前回は何を書こうか迷ったあげくに「魏志倭人伝」という古い史書の海に沈んでしまった。なぜ迷い、混乱しているかといえば、熊本(そして、博多、日田)にいるときも、帰ってきてからも、自分はどうしてここにいるのか、どうしてあそこにいたのかと考え続けているからだ。いや、考えているのではなく、茫然としているといったほうがいい。

思えばいつもそうだったような気がする。生まれ育った場所(帯広)を去って東京に出たときも、アルジェリアに出稼ぎにいったときも、パスカル・キニャールに会いにパリに出かけていったときも、自分で決断して飛び出していったにもかかわらず、ふと興奮の醒める一瞬があって、「おいおい、ここはどこだよ」とか、「ついにここまで来たか」とか、そういう言葉が頭をよぎるのだ。

たぶん、切りがないのだ。さすがにこの歳になればわかってくる、自分という逃れられないものから逃れようとしているだけだということが。お釈迦様の手のひらの上を飛び回る孫悟空みたいに。

でも、今回は少し違う。自分で決断したわけではないから。伽鹿舎の加地葉さんがいなければ、こんなことにはならなかった。最初の出会いは東京だった。三年前(2013年の10月)にパスカル・キニャールの国際学会が開かれたときに、彼女は観客席の最前列に並んでいた。同じく伽鹿舎の木間新さん、そして「片隅」の執筆者のひとり、磯崎愛さんと一緒に。

磯崎さんは以前から私の訳したパスカル・キニャールの本を読んでくれている奇特な(?)読者のひとりだった(お会いしたのはやはりこの学会が初めて)。「翻訳物でいいのないかな?」と加地さんに尋ねられて、キニャールの名を挙げたのだという。そして、三人揃って学会にまで足を運んでくれた。でも、そのときは休憩時間にほんのわずか言葉を交わしただけだった。

翻訳家という職業は、作家や作品あっての黒子のような仕事だから、いわゆる「ファン」などという存在には縁遠いものだと思っていた。べつにこんな面映ゆい言葉を使う必要はないが(「ファン」という言葉を使ったのは私ではなく、彼女たちであるので念のため)、日常的には原文テキストと向かい合い、翻訳原稿が上がれば編集者と向かい合い、そして本ができあがり、書評が雑誌や新聞に載ったり載らなかったり、重版が決まりましたよという連絡があったりなかったり、そうこうしているうちにその本は過去のものとなり、すでに気持ちは次の本のなかにのめり込んでいる。その間、ことさら読者を意識したことはない。

翻訳者が黒子であるなら、黒子には観客である読者の顔は見えないのである。

それが忽然と目の前に現れた。とても新鮮な体験だった。

それからしばらくして、加地葉さんからメールが来た。自分も出版社を立ち上げようと思っていると書かれていた。そこには、津田新吾の名前もあった。若くしてこの世を去った青土社の名編集者、キニャールの本を精力的に出してくれた、わたしのもっとも敬愛する友でもあった。彼は死の直前、「本の島」という構想を抱き、個人出版社を立ち上げようとしていたのである。「津田新吾の名前を名前を見て、無視するわけにはいきません」というような返事を書いた。

そしてまた東京の銀座でふたたび三人で再会した。そのときはしかし、もうこの歳だから新しい出版社や編集者と一からお付き合いする余裕はないんですよ、とか言ったらしい(自分では忘れてしまったが、加地さんが覚えていた)。ふつうはそこで関係は途絶えるものだ。

ところが途絶えなかった。NHK出版から仕事の依頼が来て、それ自体は忙しくて断ったのだが、かつてここから出した『幸福はどこにある』が映画化されて日本でも封切られる、NHKでは再版できないので、どこかやってくれるところはないだろうか、と当時担当だった猪狩暢子さんが言うのである。

おう、それならば駄目もと(?)で加地葉さんに当たってみようと思った。タイミングがよかった。映画の公開には間に合わないが、DVD、BDの発売になら合わせられる。という具合にトントン拍子で事が運んでいったのである。

そのあとのことは説明不要だろう。

だから茫然としているのである。偶然が重なりすぎている。仕掛け人の加地葉本人でさえ「熊本まで来てくれるとは思わなかった」と言っているほどだ。彼女にとっても「駄目もと」だったのだ。

さて、その熊本のことだが、何か書こうにも、ほとんど素通りしただけだから、じつは何も書けないのである。しかし、今回の企画に協力してくださった方々の熱意、熊本の「電気館」、博多の「ブックス・キューブリック」、日田の映画館「リベルテ」でのトークショーに来ていただいた読者の方々の熱心な姿勢には心打たれた。

こうして徐々に「読者」という抽象的な集合名詞は個々の顔になって具体的なものになってくる。

こんな人生は想定していなかった。翻訳だって、最初は日銭を稼ぐ手段でしかなかったのだから。

だが、ここまで書いて、思い出すことがある。思い出すと胸が詰まり、顔から炎が噴き出す。

もう二十年以上も前のことだ。パリのガリマールのオフィスで初めてパスカル・キニャールと会ったとき、感極まって口走った言葉。「翻訳は自分に人生を与えてくれるだろう!」(La traduction me donnera ma vie!)

別の機会には(東京でのこと)、キニャールがあの大きな目を見ひらいて言った。「おまえは何か書かないのか?」たじたじとして切羽詰まった翻訳者の答え。「あなたのせいで書けなくなった」

よくもまあ、こんな生意気なことが言えたものだ。刺し殺してやろうか。

こうなったら、伽鹿舎からキニャールの本を出していくしかないではないか。そうすれば、いやでも(?)熊本に何度でも足を運ばなければならなくなるだろう。お邪魔でなければ。

宿命とは何かという問いは愚問だ。それは神の所在を尋ねるのに等しいから。

*29 魏志倭人伝

魏志倭人伝、熊本の感興、

どっちのタイトルで書き出そうか迷ったが、結局同じことだと思い、あまり気張らずにだらだら書くことにしよう。

しかし、内心は穏やかでない。還暦の年にフランスは南仏のアルルに呼ばれ、こんなことはもうないのだろうなと思っていたら、その三年後、春先に熊本に呼ばれ、秋にはまたアルルに行くことになった。

熊本にも、九州にも、きっとまた訪れることになるだろう。ただの予感として言うのでもないし、宿命と言うほど重くもない。そのあたりの微妙なところは書いてみないと、自分でも何を感じているかわからない。

 

魏志倭人伝を読み返しているのである。岩波文庫の「中国正史日本伝(1)」という副題のつけられた巻に収められている(石原道博編訳)。奥付を見ると、一九五一年第一刷、一九八五年第四十三刷新改訂版、一九八八年第四十八刷とある。いつ、なぜこの本を買って読もうとしたのか、もう思い出すことはできない。ただ、次の一節だけは鮮やかに記憶に残っている。

 

男子は大小となく、皆黥面文身す。古より以来、その使中国に詣〔いた〕るや、皆自ら大夫と称す。夏后小康の子、会稽に封ぜられ、断髪文身、以て蛟竜の害を避く。今倭の水人、好んで沈没して魚蛤を捕らえ、文身しまた以て大魚・水禽を厭〔はら〕う。後やや以て飾りとなす。諸国の文身各々異り、あるいは左にしあるいは右にし、あるいは大にあるいは小に、尊卑差あり。その道里を計るに、当に会稽の東冶の東にあるべし。

 

刺青をした男たちが素潜りで魚介をとっている。最初は鮫や海蛇の害を避けるための刺青であったが、後に飾りになったと記し、遠い夏の時代、長江の下流一帯の会稽に封じられた小康の子(無余)が断髪入墨し、水害を避けたという伝説が紹介されている。

夏という神話時代の伝説を思い出すくらいだから、千数百年前の魏の国の記者(陳寿)は、刺青をした漁をする男たちの姿によほど強い印象を覚えたのだろう。不思議なのは、この一節を、倭の国は(海を挟んで)ちょうどこの会稽の東冶(現在の福建省)の東にあたる、と結んでいることだ。

魏志倭人伝はのっけから倭の国の位置を詳しく説明するところから始まっている。朝鮮半島の帯方郡を発って、対馬、壱岐に渡り、末魯国(肥前松浦郡、今の名護屋か唐津)に上陸し、伊都国(糸島郡)、奴国(博多付近)、不弥国(?)、投馬国(?)、そして邪馬台国へと至る道のりを、方角と距離を添えてかなり詳細に記そうとしている。だが、この「詳細」さが徒になって、われわれ日本人に難題をふっかけることになる。邪馬台国はどこにあったのか? 不弥国あたりから畿内大和説と九州説とに分かれて、いまだに決着がついていないようだ。

それも無理はない。倭人伝に記された妙に細かい地理の記述を読んでいると目眩がしてきて、これを書いた魏の国の記者は方向音痴だったのではないかと思えてくるほどだ。その一方で「(倭の国までの)道里を計るに、当に会稽の東冶の東にあるべし」と、あきれるほど大雑把に書かれている。これでは読者は戸惑うしかない。

つまり、この記者は実際に倭の国を訪れ、みずから調査して書いているわけでなく、又聞きで——伝聞をかき集めて——邪馬台国までの道のりを記し、「会稽の東冶の東」のところでは自らの感慨を述べているということなのだろう。

だが、重要なのはそんなことではない。この記者が倭の国の風俗、とりわけ鮮やかな刺青の美しさに触れて、中国の神話時代の記憶を新たにしているということだ。この刺青に驚いたのは古代の中国人ばかりではなく、大航海時代の西洋人もまた南太平洋諸島に住む民の浅黒い肌に彫り込まれたみごとな刺青に驚嘆し、おびただしい細密画を残している。

そしてなによりも、四方を海に囲まれた列島に住む日本人が、かつて——農業の民であるよりも前には——もっぱら漁労採集生活を営んでいたことを、この倭人伝の一節は鮮やかにわれわれ自身に思い出させてくれる。

邪馬台国の位置に関する論争は、魏志倭人伝の解釈をめぐる論争のように見えて、じつは日本という国の起源に関する論争なのだ。かつてわたしは次のように書いた。

 

ヨーロッパはかつてケルトの民が住むところだった。ローマがそこを襲う。ガリアの首領ウェルキンゲトリクスはカエサルに敗れ、ローマで処刑される。やがてローマは疲れる。そのローマをゴート諸族がゲルマン諸族が襲う。ケルトの民もゲルマンの民も文字を知らなかった。彼らはやがて自分たちの神話と聖書物語を融合させて、ヨーロッパの民となっていく。

わたしはときどき、ヨーロッパにとって古代地中海世界は目の上のたんこぶではないかと思うことがある。ヘレニズムとヘブライズム。ギリシア人とユダヤ人。いつまでたってもそれを越えることができないというコンプレックス。彼らは文化の起源としての古代地中海世界と彼らの存在の根源としてのケルト・ゲルマン世界にいつも切り裂かれている。音楽(ノスタルジー)はその亀裂から溢れだす。(パスカル・キニャール『音楽への憎しみ』解説、青土社、1997年)

 

九州もしくは九州北部の地は、かつて「海の道」と「絹の道」の交点に位置していた。「海の道」は命の道であり、「絹の道」は文明の道だ。われわれもまた文明・文化の起源としての大陸・半島世界と、みずからの存在の根源としての環太平洋世界に切り裂かれている。柳田国男が三河の半島の岸辺に流れ着いた椰子の実から直感したものは、そのことであっただろう。

白川静は『中国の神話』を次のように書き出している。

 

わが国の神話は多元的であり、複合的であるといわれている。それはさらに遡っていえば、わが国の民族と文化とが、多元的であり、複合的な成立をもつものであることを意味していよう。神話はいうまでもなく、その民族と文化の成立する過程において生まれ、その発展の段階に応じて展開し、何らかの統一的意志によって体系づけられるものである。はじめから統一的な民族、統一的な文化というものはなかった。統一はその最終的な段階において、ある求心的な目的に対して、その神話的表象を通じて成就されるのである。わが国の場合、それは国家成立の段階においてなされて。わが国の神話に、国家神話としての政治的性格が著しいのはそのためである。

 

これに続けて、日本の神話は「時間的な結びつきで成立する組織様態」(a)に特徴があり、ギリシア、ゲルマン、ケルトなどの西欧諸族の神話では「横様に結びつく組織様態」(b)、すなわち同時現象的なものを特徴としていると述べている。とくにギリシアの神話にはわが国の神話のような求心的な複合の関係がない、と。中国の神話はこのどちらにも属せず、「それぞれ孤立的、非体系的な群」をなす第三の神話様態(c)を特徴としている。中国はときに「神話なき国」と呼ばれたりすることがあるが、神話がないように見えるのは、このCの神話様態もまた複雑な構造と時間を内に秘めているからだ。もう少し引用を続けてみよう。

 

殷にかわった周は、もと西方の国である。それは古く、夏といわれる地であった。中国の古代文化は、東方の夷と西方の夏の対立としてとらえることができる。周が都を東の洛陽に遷した春秋期以後には、秦がその地を占めた。この周、秦は、西域とすでに交通をもっていたと思われる。西域の遊牧者、あるいは騎馬族によって、遠い西方の文化が次第にもたらされていた。東アジアの文化が不断に東海のわが国に波及していたように、その文化は草原と沙漠を越えて、中国に影響を与えた。こうして西方に対する神秘な想念が、やがて世王母説話を発展させた。神々の世界が、世王母の住むという崑崙を中心に展開される。古い山岳信仰を伝えるとされる『山海経』の神話は、この崑崙に集中されている。殷の神話がa的であるとすると、それはb的な平面的、同時的な世界である。

 

だが、強固な文字文化(漢字)を基礎とする中華の伝統はa的な世界にも、b的な世界にも自らを定めることはできなかった。殷の太陽神伝説も、夏の洪水神話も、たんなる古い帝王の説話として経典の形に取りこまれていく。「(C類型の)神話はこうして、経書のなかに隠されるのである」と白川静は言う。

少し遠回りしすぎているようだが、ようするに、どんな文明、どんな文化も一筋縄で語られるべきものではないということが言いたいだけだ。文明や文化、あるいは国に一つの起源だけを求めようとすることは、どんなに理と論を尽くそうと、それは短絡でしかなく、ある偏ったイデオロギーを粉飾しているにすぎない。

魏志倭人伝の世界に戻ろう。

 

その南に狗奴国あり、男子を王となす。その官に狗古智卑狗あり。女王に属せず。

 

「その南」というのは、邪馬台国の南という意味である。岩波文庫の編訳者橋本道博氏は、この狗奴国をクナ(国)と読み、「熊襲であろう」と比定し、クマソは球磨(Kuma)と阿蘇(Aso)のつづまったものだと自説を註で述べている。そして狗古智卑狗は菊池(久々智)彦のことではないかと推定している。たしかに、広大な阿蘇の西部には菊池という地名が今も残っている。もちろんこれは邪馬台国北九州説に拠らなければ成立しない論理である。

さて、問題はその北である。狗奴国の北は現在の佐賀、福岡にあたる。そこに二十一の国名が並んでいる。斯馬国、已百支国、伊邪国、都支国、弥奴国、好古都国、不呼国、姐奴国、対蘇国、蘇奴国、呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、為吾国、鬼奴国、邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国と続き、「これ女王の境界の尽くるところなり」という記述で締めくくられる。こんな面妖な国名を羅列しても読みにくくなるだけだろうが、なんらかの呼び名を採用すること自体がその仮説に与することになるので、あえてそのままにしておく。

橋本説によれば、狗奴国=熊襲は「女王に属さない」ところで、その北は「女王に属する」ところということになる。

だが、「女王に属する」国々の名前をよく見ると、対蘇国とか、蘇奴国とか、華奴蘇奴国とか、「蘇」のつく国名が三つも含まれている。これはたんに和音に漢字を当てただけのことなのか?

ひょっとすると、阿蘇山の北側は「女王に属する」ところだったのではあるまいか? 「男子を王となす」国はもっと南に下がるのではあるまいか?

どうやら、卑弥呼と阿蘇を無理やりにでも近づけたくなったらしい。

阿蘇山を初めて見て、火を噴く雄々しい山という先入観は消し飛んだ。世王母のような地母神の住む豊穣の山とでも言おうか。阿蘇のカルデラが描き出す曲線は、富士の絶妙に均整のとれた線でも、アルプスの剣呑な稜線でもない。そこから草千里の広大な斜面がたおやかになだれおちていく。

よくもまあ、こんな土地と縁ができたものだと思う。熊本、博多、日田といえば、ちょうど邪馬台国とその境界あたりをうろうろしていたことになる。個人的には、頭のなかに畿内説が残る余地はまったくなくなった。

魏志倭人伝の読み方もすっかり変わってしまった。もはや史書ではなく、日本の起源について考えるための資料でもなく、空間的にも時間的にもはるか彼方の世界に思いをはせ、想像力の翼を羽ばたかせてくれる書物となった。

こんな機会を与えてくれた伽鹿舎のスタッフと、歓迎してくれた各地の人々に深く感謝したい。

今度熊本に行ったら、ぜひ有明と不知火の海を見てみたい。