*54 異様なものとしての文字

前回のブログ(*53)で、「文字というものは、神聖なものである前に、異様なものだという自覚が欲しい」と書いた。

どういう意図で書いたのか、補足しておく必要があるだろう。

 

 

最近はどうも固有名詞がなかなか思い出せなくて苦労する。年のせいだよと言われればそれまでだが、どうもそれだけではないような気もする。ま、それはそれとして、

たしか、保坂和志の言葉だったと記憶するのだが、どの作品に書かれてあったのか、どうしても思い出せない。思い出せないということは、それ自体で不快だし、おもしろくないし、元気がなくなる。本棚にある十冊ほどの彼の作品をぱらぱらとめくってみたのだが、あきらめた。

こんなことが書かれてあったはずだ(勝手に読み替えていたらごめんなさい)、

文字による描写というものは、そもそも不自然なものである。画家が二次元の画布に三次元の空間を再現しようとするのに似ている、と。そう、文字は抽象的な記号に過ぎない。その組み合わせによって、われわれの脳内に三次元の空間を再現しようとするのが描写である。風景であれ、人の表情であれ。

でも、文学に描写が出現するのはつい最近のことだ。すくなくとも意識して何かを描写し、あるいは描写することを目的として文字を書くという試みが出現したのは。つまり、近代文学の誕生。あるいは小説の誕生。

では、その前には何があったのか。歌と語り、とふつうは答えるだろう。そして、文字の出現はそのずっと後である、と続けるだろう、たぶん。しかし、そこでちょっと待て、と半畳を入れるのが「哲学」の役割だ、とベルクソンなら言うだろう。

最初に話し言葉があって、その話し言葉をなぞるために文字が生まれた、となんとなく、われわれは信じこんでいる。しかし、言葉(language)と文字(écriture)は出自も起源も成り立ちも違うものだと考えてみたらどうなるか。言葉のほうは比較的簡単だ。動物たちも言葉を持っているからだ。たとえプリミティブで分節化があまり進んでいないにしても、彼らもまた意思疎通の道具としての言語を持っている。おそらくは、花を咲かせ、種を飛ばす植物さえも。

しかし、文字となると、これははっきりと言える。動物は文字を持たない。もちろん植物も。

人間は言葉を書き写すために文字を発明したのか? そうではないだろう。こんなことを考えるようになったのは——はっきりと憶えている——『文字の歴史』(L’écriture, mémoire des hommes; col. Découvertes Gallimard, 1987)を翻訳していたときだった。後半部の「資料篇」のなかに、ロラン・バルトの『記号の帝国』(l’Empire des signes)からの引用があった。

 

日本の文房具屋では、表意文字そのものが商売の対象となっている。この表意文字はわれわれの目には絵画からの派生物に見えるのだが、じつはごく単純に言って絵画の根本をなすものである(芸術の起源は刻むことにあるので、表現することにはないということは大事なことである)。〔元の訳が不十分なので、新たに訳し直した〕

 

ロラン・バルトらしい炯眼だと、そのとき直感的に思った。が、その時点ではそれ以上深く考えることをしなかった。この「刻む」という行為は、しかし、何のために行われるのか? バルトなら、それは快楽(plaisir)だと答えるだろう。それもあるだろう。ただ、それを言うなら、手を動かす行為はすべて快楽に結びつくことになる。

そうではなく、祈りと結びついていると思えてならないのだ(快楽と祈りもまた同根かもしれないけれど)。

人によっては、円空を思い出すかもしれない。

無心になって彫る。自分の心が手と化す。

学生時代に棟方志功の回顧展を見たとき——「十大弟子」の迫力に圧倒されて——、これは二次元の彫刻だと思ったことがある。

あるいはミケランジェロの、二つの〈ピエタ〉。

あるいは護国寺の山門で仁王像を刻んでいる運慶を描いた漱石(『夢十夜』のなかの「第六夜」)。

われわれはすでに近代の教育に毒されているから、どれも「芸術作品」だと思って見てしまう。

けれど、彫刻と墓石とどこが違うかと考えてみることはしない。版木と卒塔婆とどう違うかと考えたりはしない。

人は石に何かを刻み、木に何かを刻んでいるときに、死者と語らっているのではないか。だから、

言葉(language)は、他者と意思を取り交わし、空間を飛び越えて、遠くに何かを伝えるための声であり、文字(écriture)は死者に語りかけ、その魂を鎮め、時間を越えるための印ではないのか。

 

 

だから、もちろん、ある意味では、やはり文字は神聖なものなのだ。でも、初めから神聖なものとしてそこにあったわけではないだろう。

死者を埋めたところに石を置く。あるいは木を立てる。

目印のために。でも、

石の、木の数が多くなると、区別がつかなくなる。

だから、記号が必要になってくる。

そして、人は区別というものを知るようになる。区別が向こう側にあるのではなく、自分の内側にあるということを知るようになる。

そして、最初は単純だった記号が複雑になり、精緻になり、やがて似姿を描けるようになり、ひとつの体系を形づくるようになる。言葉(language)が複雑な分節化の経路をへて、言語(langue)という規範になっていくように。

そして、その過程のどこかの時点で、記号は言葉を写せることに気づき、言葉は記号となって時間を超えられることに気づくのだ。

それが幸福な結婚であったかどうかは、人間の歴史が証明している。

人間の歴史は戦争の歴史だ。ある体系とある体系のどちらが強いか、食うか食われるか。われわれは死滅した言語を数えることはできない。なぜなら、それは死滅してしまったからだ。

 

 

もうひとつ考えなければならないことがある。人間の文明にとって、定着とは何かということ。そして、遊牧と移動から生まれた文化と信仰とは何かという問題。それと言語との関わり、文字との関わり。

でも、それは永遠の宿題のような問題だ。少しずつ考えていくことにしよう。

*53 福音

塾で聖書を取り上げることにした。

新約聖書に収められている四福音書のうち、もっとも早い時期に書かれたと言われている「マルコによる福音書」。

それをフランス語訳で読み、翻訳する余裕のある人は試訳を提出してもらい、フランス語と日本語を付き合わせてみようという試みである。

なぜそんなことをするのかと問われると、少し困る。どこから説明すればいいのか・・・・・・。

 

 

少し遠回しになるが、直訳と意訳という言葉から考えていってみよう。この二つの言葉は単純な反意語のように見えるが、じつは翻訳という作業にまつわる一筋縄ではいかない複雑な内容を含んでいる。

たとえば、bonjour という言葉がある。ふつう、おはよう、こんにちは、などと訳される。フランス語の場合、午前と午後の挨拶に区別はない。夜に bonjour と言ったとしても、そんなに違和感はない。挨拶の言葉として、bonjour は幅広く使われるからだ。

初対面のとき、日本語で言う「初めまして」に当たる言葉として、「アンシャンテ」[enchanté (e) ]という言葉があるが、これはちょっとかしこまった感じのする挨拶である。もっとくだけた場面では「ボンジュール」を使う。お店やレストランのドアを開ければ、「ボンジュール」と声をかけられる。これを「こんにちは」と訳したのでは、その場の雰囲気が正しく伝わらないだろう。日本なら「いらっしゃいませ」と言うのが一般的だから。

つまり、bonjour に一対一で対応する日本語はないということだ。状況に合わせて、訳語を選定しているということになる。言い換えれば、bonjour を「直訳」する言葉はない。

これは基本的にはすべての単語に当てはまる。すなわち直訳は存在しないという結論になる。

しかし、そんなに簡単に結論していいものか。翻訳はつまるところ意訳なのだから、その場の雰囲気さえ伝わればどう訳してもよいということになるだろうか?

これはじつは、翻訳とは何かという根本的な問題なのである。翻訳は厳密に言えば意味しか伝えられない。音は伝えられない(カタカナによる音写は、ふつう翻訳とは言わない)。相手の言語が持つ特有のリズム、音楽性は伝えることができない。それはこちら側のまったく異なる言語の音楽とリズムに置き換えるしかない。それこそが翻訳であり、あるいは翻訳の不可能性であり、あるいはだからこそ翻訳の醍醐味なのだと言い換えてもいい。

ここで直訳と意訳に関する定義を見直してみよう。直訳とは、原文に記された音とその背景にある状況(コンテクスト)をそのまま他言語に置き換えることであり、意訳とは原文の意味を汲み取り、解釈するものであると。前者は、原文が短ければ訳文も短くなり、原文が美文であれば、訳文も美文調になり、原文が拙ければ、訳文も拙くなる。後者は、原文の意図するところ(書き手が書きたかったこと)を解釈し、想像し、原文の長さ、調子にとらわれずに、意味だけを十全に読者に伝えることを目的とする。

前者は理想的であり、後者は便宜的だということになる。もちろん100%の前者もないし、100%の後者もない。その都度、テクストの様態によって前者に傾いたり、後者に傾いたりする。統辞も文法もまったく異なる言語同士の交渉であり、取引なのだから、そうならざるを得ない。

それが聖書とどういう関係があるのか。それが問題である。

 

 

しばらく前にこのブログに掲載した記事(*50 持ち重りのする言葉)のなかで、福音書がギリシア語で書かれた時代的背景について少し触れた。

 

福音書の主人公であるナザレ生まれのイエスはユダヤ人である。使徒と呼ばれる最初の弟子たちもユダヤ人である。イエスが論争した相手の律法学者たちも、もちろんユダヤ人である。ユダヤ人である以上は、当時のユダヤ人の日常語であるアラム語を話していた。ならば、なぜアラム語で書かなかったのか。なぜ文語のヘブライ語で書かなかったのか。

 

こう書けば、そして、これを読めば、なるほど、そうなのか、と思うかもしれない。しかし、ふつうは——信者でもなく研究者でもなく、ごく一般の読者という意味——聖書が何語で書かれたのかということ自体に興味を持つ人は少ない。日本語訳を読む人すら少ないののだから、大元が何語で書かれているのかについて関心を持つきっかけさえないというのが実情だろう。

これは大きな問題である。聖書を読む人が少ないのが問題なのではない。キリスト教関係者でもないのに、そんなことを問題視するわけがない。

信仰にとって、書かれたものは本当に必要なのだろうか、という問題である。

ごく最近まで——近代の国民教育が始まるまで——、どの国、どの民族であっても、文字を読める人は少数だった。一部の聖職者、知識人が書物の富を独占していたと言ってもいい。

「聖書に帰れ」とマルティン・ルターは主張し、みずから新約聖書も旧約聖書も、それぞれギリシア語、ヘブライ語から、当時の俗語であるドイツ語に翻訳したが、そもそも当時の民衆の大半は文字を識らなかったはずである。聖書の内容は聖職者の言葉と教会を飾る絵画や彫像によって、間接的に親しむほかなかった。

しかし、そのことが彼らの信仰の基盤を疑うということにはならない。教会の階層としては、神がいて、聖職者がいて、一般信徒がいるということになるだろうが、ルターはそうは考えなかった。一般信徒が聖書を読めるようになれば、聖職者は不要になる。神と信者は一体化できる。聖職者の腐敗など起こりようもなくなると。

政治的理想論からすれば、これは正しい見解かもしれない。

けれども、こういう考え方もあるのではないか。マルティン・ルターは徹頭徹尾知識人であった。最初から最後まで、文字そのものを「聖なるもの」と見なしていた。

だが、文字はそもそも神聖なものであるか?

信仰にとって文字は必要なものであるか?

イエスはなぜにあれほどまで、古代パレスティナの知識人であり法学者であった律法学者たちに食ってかかったのか?

なぜ、無知な子供を抱き上げ、手を置いて祝福したのか?

そもそも荒野での四十日間の試練から帰ってくると、なぜにいきなり、あるいはまるで手当たりしだいに、ガリラヤの湖で網を打っていた四人の漁師——どう考えても文字を識る人々ではなかった——を弟子にしてしまうのか?

そもそもイエスは文字を読むことができたのか? 文字を書くシーンはヨハネの福音書にしか出てこない。

この問題はキリスト教にかぎったものではない。

親鸞聖人はなぜ、(たとえ意味はわからなくとも)念仏を唱えさえすれば極楽浄土に行けると説いたのか?

 

 

福音書を虚心に読むこと。そう、虚心に、そしてまず読むこと。翻訳はその次にやってくる。書かれたとおりに読んでみること。もちろん、われわれはギリシア語で読むのではない。しかし、そんなことはどうでもいい。原語のギリシア語で厳密に読む作業は専門家に任せておけばいい。そして、ときどき参考にさせてもらえばいい。

ギリシア語でもなく、日本語でもなく、フランス語で読むことに意味はあるか? たいして意味はない。語学そのものの勉強になるわけでもない。

ただ、日本語で読むと、なんとなく読めてしまう。あるいは字面をさっとかすめてしまう。外国語の抵抗感がほしい。ほんらい読むということは、そういうことなのだ。小学校から、高校・大学まで、あるいは日常生活においても、われわれは日本語という母語を空気のように吸って生きている。なんとなく、それが当たり前のように。しかし、文字というものは、神聖なものである前に、異様なものだという自覚が欲しい。

文字の発明とその使用は、ひょっとすると言語の使用よりも人間を変えてしまったかもしれない。それについてはここでは論じない(おそらく書き出せば収拾がつかなくなるだろうから)。

だが、これだけは意識しておきたい。イエスは文字を書けたか書けなかったか、それを証明することはできない。しかし、福音書を書いたのは、マルコ、マタイ、ルカ、ヨハネの四人だ。彼らがイエスを直接知る人ではなかった、つまり弟子(使徒)ではなかったことは、聖書学の常識となっている。

ソクラテスもみずから書いたものを残さなかった。弟子のプラトンが書いた。しかも、書く行為に頼りすぎることをたしなめているソクラテス像まで書いている(どの作品だったか、今は思い出せない)。

論語も孔子が書いたものではない。

数ある仏典も、ブッダが書き残したものではない。ブッダは悟りをひらいたとき、これを他者に伝えることは不可能だろうと思った。つまり、自分の体験を言語化することを断念しようとしたと伝えられている。

これはどういうことなのか?

福音書を虚心に読むということは、解釈から無限に遠ざかることを意味する。それは神学を拒絶することでもある。ありのままにフラットに読むこと。読むことのうちにすでに解釈は含まれている。われわれは読むときに、すでに「意訳」している。この無意識の「意訳」を意識して剥ぎ取り、「直訳」のような状態に還元すること。

その果てに何が見えてくるか。見えてくるかどうかはわからない。ついに見えてこないかもしれない。

それでもいいから、やってみること。そう思い立ったのである。

*52 母音


 

黒いA{あ}、白いE{う}、赤いI{い}、緑のU{ゆ}、青いO{お}、母音たちよ、

いつの日か語ろう、おまえたちの隠された生い立ちを。

A、毛ぶかい黒の胸当て、無惨な腐臭をめぐり

ぶんぶん飛びまわる燦めく蠅たちの。

 

陰の入江、E、湯気と天幕の無垢、

気高き氷河の切っ先、白き列王、傘形の花のふるえ。

I、緋の衣、吐血、美しきくちびるの嗤い

怒りに、悔悛に酔いしれながら。

 

U、緑青の海の、聖なる回帰と揺らぎ、

家畜らの点在する牧場の安らぎ、錬金の

奥義を求める碩学の額に刻まれた皺の安らぎ。

 

O、至高の喇叭、奇怪な甲高き叫び声に充ち、

数しれぬ世と天界の経てきた沈黙。

——おお、終末{オメガ}よ、紫の光を放つ、その両の眼よ!

 


第十七回目(二月二十日)の例会で、アルチュール・ランボーの「母音」の翻訳を取り上げてみた。もちろん、ランボーにかぎらず、詩の翻訳はむずかしい。不可能と言いたくなるほどに。でも、不可能ではない。もし、詩の翻訳が不可能だというのなら、翻訳そのものが不可能な行為であると言わなければならない。それが、三十年あまり、翻訳という仕事を生業として生きてきた人間の思想である。

そこに鳴り響く音を置き換えることはできないか。そこで休止し、読点を打ち、句点を打った著者の息づかいを、自分の使う母語のなかに取り入れることはできないか。言葉をそこに書き入れることよりも、黙して行を改え、飛躍を選んだ著者の心意気をどうすれば伝えることができるか。

詩の翻訳も散文の翻訳も本質的に変わるところは何もない。ただ、詩は言葉で成り立っているというよりも、句読点と改行から成り立っていると言ったほうがいいほど、それは一般の通念に反して、沈黙の芸術なのである。

今回、あらためて——たぶん四十年ぶりくらいに——ランボーの詩を読み直し、翻訳を試みて、この沈黙を痛感させられることになった。

詩の翻訳——そして翻訳一般——は、言葉と言葉の連想ゲームではない。沈黙に耳を澄ますこと。森のなかに分け入って、梢で鳴く鳥の声に心奪われ、山頂に辿り着いて耳をかすめる風の音に同化し、打ち寄せる波を前にして、対岸の波打ち際に心運ばれ、流れる川の弾ける水の分子の昂揚に共振すること。

しかし、ランボーの詩を日本語に置き換えてみると、そんなことだけではすまされないことも見えてくる。

たとえば、第二連目の「白き列王」という訳語は、rois blancs に当てたものである。「列王」は耳慣れない日本語かもしれないが、旧約聖書の「列王記」から取った。「列王記」はフランス語では、Les livres des Rois という。古代イスラエルの歴代の王たちの書、くらいの意味だろう。

「列王」という言葉を採用した理由は、この連の最初の行にある。

湯気と天幕の無垢(candeurs des vapeurs et des tentes)。砂漠をわたる遊牧民の生活を彷彿とさせる行との対応を意識したのである。砂漠のイメージから極地の氷河へ飛躍し、そこに旧訳の文書を思わせる言葉をかぶせる。ランボーの目には、せめぎ合う氷河の切っ先の連なる光景が、居並ぶ歴代王の石像か何かに見えたのかもしれない。

そのような説明をすると、イタリア語のMさんが、最後の連も黙示録風ですしね、と指摘した。言われてみて、そう、そう、と膝を打った。甲高い喇叭の音にしても、この世の終末を告げる神の目から放たれる紫色の光線にしても。

そこまで話が進むと、ランボー詩の全体がいかに聖書の––旧約も新約も含めて––イメージと言葉に彩られていることが実感されてくる。

 

俺は『教会』の長女、フランスの歴史を想い起す。俺は賤民なりに聖地の旅をしたのかも知れない。俺の頭には、スワビヤの野を横切る諸街道、ビザンスの四方の眺めもジェルサレムの館もある。聖母への信心と救世主への感激とは、俗界百千の魔境を交えて、この身に目覚める。——太陽に蝕まれた石垣の下に、破れた壺、いらくさの上に、俺は癩を病み座っている。——降っては中世紀、騎卒となって、ドイツの夜々を、野営に明かしたかも知れない。(「地獄の季節」小林秀雄訳)

 

アルチュール少年は信心深い——あるいは、ほとんど狂信的と言っていいほどの——母親に育てられた。聖書の文言はすでに幼年期からこの異様な詩才に恵まれた脳髄に刻まれていた。彼は母の厳しい宗教的躾と聖書の文言の虜囚としての少年期を送った。彼の詩才はこの虜囚の身からの脱出を叶えてくれるものであると同時に、永遠に言葉の虜囚とならざるをえない宿命を担わされることになった。

だから、天才ランボーは二十歳にして詩を捨て、砂漠の地に冒険の旅に出たなどというロマンチックな伝説はほとんど意味をなさない。なぜならば、この種の伝説は詩の生まれ出る所以に目を向けないまま文芸を、芸術をあがめようとしているにすぎないから。

ランボーは詩に食われた。端的にそう言うべきである。

数年前に、パスカル・キニャールとパリの自宅でお会いしたとき、思い切ってこんな質問をぶつけてみた。

——詩は、捨てることができると思いますか?

——そうは思わない。

——ランボーは詩を捨てたと言われますが、あれは結局のところ、詩を捨てようとして詩に取り憑かれ、肉体で詩を演じるはめになって、最後には悲劇を演じることになったように思うんですけど。

——いや、あれは悲劇だとは思わないよ。たんに才能が去っていっただけだ。

身も蓋もないことを言う人である。そして、こんなふうに話を続けた。

——些細な個人的経験だけどね、文学を捨てようとして、精神分析を受けたことがあるんだ・・・・・・。

ふつうは文学を捨てることと精神分析は結びつかないはずだが、この人の場合はそうではないのだろう。話はやたらに厄介な方向に進んでいったので、半分も理解することができなかったけれど、衝撃的ではあった。

まずは、今やフランスを代表する作家のひとりとなったこの人も、文学を捨てようとしたことがあったのかという驚き。精神分析によって、心の奥が明るみに出れば文学を捨てられると思ったらしい。人はまず自分の心に嘘をつくから。というか、自分にとってもっとも大切なことは言葉にしたくないものである。自分にとっていちばん大切なことを言葉にするのが文学だと思っている人がいるかもしれないが、そうではない。もっとも大切なことは言葉にできない。言葉にすると嘘になる。パスカル・キニャールの翻訳を長いことやってきて、ほとんど座右の銘のように大切にしている言葉がある。

On ne sait pas ce qu’on fait, ce qu’on dit.
(人は自分のしていることがわからない、自分の言っていることがわからない)

だから、告白というものは容易には信じられない。

——言語的才能というものはどこから来るものなんでしょうね?

——・・・・・・。

——母から受け継がれるものでしょうか?

——・・・・・・。

かすかなほほ笑みを浮かべて、口をつぐんだこの沈黙を、わたしは生涯大切にするだろう。

アルチュール・ランボーは、過度に敬虔なカトリック信者の母親に育てられた。パスカル・キニャールの母親はパリ大学(ソルボンヌ)に籍を置く言語学者だった。その父親(パスカルの祖父)もまた著名な言語学の教授だった。

自分は母の愛情を受けることなく育ったと、彼は随所に書いている。幼年期に母親代わりをつとめたのはドイツ語を話す乳母だった。彼は大学を去ると、ロワール河のほとりにあるアンスニという小さな村の教会のオルガン弾きになろうとした。父方の家系は代々教会のオルガニストをつとめており、パスカルの姉が務めていたアンスニ教会の専属オルガニストのあとを継ごうとしたのだった。

しかし、人生は思いどおりには運ばない。アンスニでオルガンの練習のかたわらに書いた論文をガリマール社に送りつけたところ、当時この出版社で原稿審査委員をつとめていたルイ=ルネ・デ・フォレの目に留まり、彼はパリに呼び戻される。こうして彼は一九九四年までガリマール社で、デ・フォレと同じように原稿審査委員の職に就くことになる。

この間の経緯は『世界のすべての朝は』と題した翻訳(伽鹿舎刊)のあとがきに詳しく記したので、そちらを参照してほしい(このブログでは *40 に転載)。

父と子の葛藤と同様、母と子のあいだの葛藤もまた大きな文学の主題と言っていいだろう。ある意味では、母子の葛藤のほうが根が深いとも言える。われわれはみな母の胎内から生まれ出るのだから。

少年アルチュールの母にとって、キリスト教はすべての価値の源だった。生活習慣の上でも、文化の上でも。それを息子に有無を言わせず叩きこんだ。

われわれは誰しも、まずは言語を母から学ぶ。母の胎内において、授乳の胸のなかで、日常のすべての局面で。時間の速度が緩やかな時代であれば、それでさほどの問題はないだろう。しかし、アルチュールが生まれた時代は産業革命が加速度的に進み、政治体制は共和政、王政復古、帝政と目まぐるしく変わり、短い期間ではあったがパリ・コミューンが誕生し、プロシアが破竹の勢いでフランスを脅かしているときだった。

彼は中学校でイザンバールという若く野心的な、そして文学的素養の豊かな教師と出会い、爆発的に才能を開花させる。それは母の価値観との衝突を生み、何度も家出を繰り返すことになる。

だが、彼の言語の根底にあるのは、つねに聖書の言葉であり、つねに母の言葉だった。そう、それが文字どおり彼の母語だった。彼はどこまでいっても「教会の長女」の息子だった。その軋轢から逃れようとするエネルギーが彼の詩作品には横溢し、われわれの目を眩ませることになる。

病弱な幼年期を送ったパスカル・キニャールにとって必要だったのは、何よりも母の胸の温もりだっただろう。その温もりを与えてくれたのは、しかしながら、実の母ではなく、ドイツ人の乳母だった。

父方の音楽と母方の知性。彼の「母語」もまた異様な軋轢と葛藤のなかにある。

あるときわたしは、あまりにも乱暴で不躾な質問を繰り出した。

——あなたにとって、ポール・ヴァレリーとは何なんですか?

パスカル・キニャールはこの質問に苛立つこともなく、むしろ、わずかに目を輝かせて、「ちょっと待て」と言い、隣の部屋に姿を消し、薄い本を手にして戻ってきた。『パスカル・キニャール、ル・アーヴルの幼年期』と題された本。その名のとおり、パスカル・キニャールの幼年期の足跡を追う、ほとんど写真集に近いアルバムだった。彼はあるページを開いて、わたしに差し出した。(Pascal Quignard, une enfance havraise : Editions l’écho des vagues, 2015)

そのページには、新聞の切り抜きの写真複製が掲載されていた。ル・アーヴルの高校の先生をしていたパスカルの父ジュリアンが企画したポール・ヴァレリーの長編詩「若きパルク」に関する展覧会と講演会の記事だった。絶句した。

——あなたのお父さんはヴァレリーの専門家だったのですか?

そう尋ね返すだけで精一杯だった。彼はその大きな目に笑みを湛えて、うなずいた。

——朝早く起きて、本を読み、ノートをつけるのも、ヴァレリーに感化されたのかもしれないな。

そして彼はわたしに、マラルメとヴァレリーの美しい師弟愛について語ってくれた。マラルメに愛されたヴァレリーと、師を誰よりも敬愛し、だが師のあとは継がなかったヴァレリー。それはおそらく、パスカル・キニャールの師エマニュエル・レヴィナスとの関係を暗示するものだったにちがいない。それに気づいたのはずっとあとになってからのことだったけれど。

彼はその日、エマニュエル・レヴィナス全集の一巻をプレゼントしてくれた。(Emanuel Levinas : Oeuvres 2, Parole et Silence; Bernard Grasset / Imec, 2011)

さて、いったいこのわたしは彼にどんな恩返しをしたらいいのだろう。

*51 思索するということ

 


――それでそのポール・ヴァレリーという人は、朝早く起きて、ノートを前にして何を追究していたんですかね?

Mさんにそう尋ねられた。とても大事な質問である。とても、とても。だからふつうは、というか、生半可な文学通は、この種の質問を回避する。つまり知った振りをする。答えるほうは、お茶を濁す。

一瞬、虚をつかれたけれども、逃げたり、ごまかしたりするのだけはやめようと思い——その@ノート{カイエ}とは一種の思索日記のようなものです、と答えればそれで済んだのかもしれないが——、ヴァレリーが「レオナルド・ダ・ヴィンチの方法への序説」で何を書こうとしたか、そして、その延長上のことを生涯かけて追究したのだというような返事をした。

Mさんはいちおう頷いたものの、おそらく、その答えに満足しなかっただろうと思う。

Mさんは整体を生業としておられる。正確にはオステオパシー(Osteopathy)、骨法療法などと訳されることもあるらしいが、この訳語だとオステオパシーという医療哲学体系のほんの一部にしか対応しないので、日本語としては廃れてしまったらしい。アメリカで生まれた整体法であるが、フランスで独自の発達を遂げたという。Mさんは後者の免状を取得して、帯広で開業している。この療法を極めるためには、人間の肉体と心に関する認識を深めていく必要がある。それでこの塾に関心を持ったらしい。

フランス文学とはまったく関係のない専門を持った人がこの塾に参加してくれるのは大歓迎で、語学や文学だけを対象とする幅の狭い会にはしたくないのである。

ということは、どんな初歩的な質問にも答えなければならないということである。アスリートたちがよく言うように、もっとも大事なことは、つねに初歩、基本に戻ることなのである。野球であればキャッチボール、サッカーであればインサイドキックのように。

話は横道に逸れるが、猿から人間への進化の過程で、猿と人間を決定的に別つもののひとつに肩の関節の使い方があるという話を聞いたことがある。人間が槍や球を投擲するとき、腕全体を一度後ろに引いて(take back)、それから振りかぶって投げる(overhand pitch)ことができる。こういう動作ができるのは人間だけだという。おそらくサッカーのインサイドキックも同じだろう。猿もボールを蹴ることはできる。しかし、両足をハの字に開いて、足の内側で蹴るという動作はできないだろう。

つまり、人間のするスポーツにとって、基本となる運動は往々にして「不自然」なのである。だからいつも意識して練習していないと、「形」が崩れてしまう。そして、不自然な動きを過度に続けると、形が壊れるだけでなく、身体そのものも壊れてしまう。

思索とは、何か目標があって、それを追究するものではない、とおそらくヴァレリーなら答えたかもしれない。それは人間社会にとっては、異様な、不自然な、孤立した行為なのである。日々の鍛錬を怠れば、思索の形は崩れ、たちまち群に回収されてしまうような何かなのである。そして、過剰な知性の行使は発狂を招く。

それをヴァレリーは生涯にわたって継続した。夜明け前から起き出し、窓から徐々に差しこむ朝日がノートの白いページに差しこむのを目の当たりにしながら。

「文学とは何か?」という問いに話題を転じてみよう。個人的な答えなら、すぐに出すことができる。文学とは人間学である。人間とは何かを追究する技芸(arts)の一つである、と。

ヴァレリーは、哲学も文学の一形式であるというようなことを言った。言葉で表現する以上、哲学も特別なものではないと言いたかったのだろう。あるいは哲学が文学の上に君臨しているような自惚れを認めようとしなかった。

ヴァレリーはつねに自由であろうとした。それが彼にとっての思索の条件でもあった。だから若き日のヴァレリーにとって、おのれの思索の格好の対象であり、モデルであり、偶像であったのは、レオナルド・ダ・ヴィンチであった。

このルネッサンスの芸術家は「万能の天才」と呼ばれる。しかし、この呼称が、たんに「何でも器用にやりこなす才人」という意味なら、ただの軽薄才子にすぎない。ヴァレリーはそこに首尾一貫した「方法」があると見たのである。あるいは見ようとしたというべきか。

レオナルド・ダ・ヴィンチの方法は、言葉に還元することはできない。なるほどレオナルドは「手記」を残した。しかし、それはあくまでも手記であって、書物や出版を意識したものではなかった。たんなるメモや備忘録でもなかった。視覚型の天才であったレオナルドにしても、言葉を、あるいは書くこと(écriture)を必要としたのである。

しかしながら、ヴァレリーのレオナルドを主題にした論考においては、この手記の占める重要性は限りなく小さいと言わなければならない。なぜならば、ヴァレリーにとって、考えること(思索)の究極の姿は、言葉から解放されることだったからである。

人間と動物を別つものとして、意識と言語というようなことがよく言われる。でも、よく考えてみると、これはとてもおかしい。動物にも意識はあるだろうし――生命体である以上は――、言語もあるだろう――彼らなりのコミュニケーションがある以上は。

だから厳密に言えば、この意識は自意識と言い直さなければならないし――私とは何か、人間とは何かと自らを問い詰める、という意味で――、この言語は厳密には langage(言語機能)ではなく、制度・規範としてのlangue(言語)のことだと考えなければならない。

問題は、この langue なのである。これは人間にとって、たんに意識を拘束する規範や制度であるだけでなく、第二の自然のように作用する。つまり、雨を降らせ、風を吹かせる存在だということである。

われわれは言語を介して雨乞いする。人間にしか属さない言語{ラング}が、あたかも天に届くかのように。これが詩の発生の第一歩である。

しかし、これは「認識」にとってはまことに都合が悪い。少なくとも対象を「客観的に」「科学的に」認識しようとするときには。なぜならば、第一の自然――本当の自然――は人間の都合のいいようにはできていないからだ。というか、人間は自然の一部であって、自然に君臨することはできない。人間は自然に君臨していると自惚れれば自惚れるほど、人間は自然に支配されている。言い換えれば、自然に復讐されるのだ。

これが自然弁証法であり、二十世紀を跨ぎ越した今、人間が直面している現実なのだ。

ヴァレリーは「哲学」の自惚れのなかには住まいたくなかった。もともと、「哲学」から生まれてきた人ではなかった。哲学は文学の一部門に過ぎないという言い方を少し変えるならば、哲学は近代という時代の神学に過ぎない。そのことをヴァレリーは早い時期から知っていた。

ヴァレリーは詩人マラルメにもっとも愛された弟子だった。そして、この愛弟子は師にもっとも愛された弟子であるがゆえに、師のたどり着いた場所を知っていた。詩の終焉。象徴主義(サンボリスム)最後の詩人。アルチュール・ランボーが詩と心中してからは――大方の意見に反して、ランボーは詩を捨てたのではなく心中したのだとわたしは思っている――、その後の詩人にできることは、言語との心中、もしくは言語の破壊以外に道はなかった。この道をさらに歩みつづけることはできない。ヴァレリーは深い精神的危機に見舞われる。

その体験は「ジェノバの一夜」という名の伝説として残っている。

この伝説の内実に分け入ることはよそう。それだけの知識と能力が自分に欠けているだけではなく、不毛な努力だと思うから。それよりもヴァレリー自身が残した言葉を再録しておくことが、この不世出の詩人・思索家への最大の敬意となることを信じよう。

 

・・・・・・当時の私は、文学を為すことと、一定の厳密さをもって、誠心誠意思索に打ち込むことのあいだには、一種対照的なものがあるのではないかと思っていたのである。問題はこのうえなく微妙である。これをマラルメに知らしめるべきだろうか。私は彼を愛し、誰よりも上位に置いていたが、彼が終生こよなく愛し、そのためにすべてを捧げたものを、私はすでに放棄していたのである。そんなことを彼に聞かせる気にはとてもなれなかった。

――「最後のマラルメ訪問」(一九二三年)

 

これはマラルメが死ぬ一八九八年にヴァルヴァンで最後に師と昼食をとったときの思い出を綴ったものである。弟子のヴァレリーはすでに六年前の一八九二年に詩を放棄するきっかけとなった〈ジェノバの一夜〉を経験していたし、一八九四年には「悟性神話上の怪物」たるテスト氏の物語を書きはじめると同時に、生涯にわたって思索の伴侶となる「カイエ(ノート)」をつけはじめた。そして九五年には、満を持して「レオナルド・ダ・ヴィンチの方法への序説」を発表している。

一八九八年のこの日、ヴァレリーはマラルメの最後の詩集となる『骰子一擲』の校正刷りを見せられ、師がどれほどこの長編詩の推敲とレイアウトに苦しんだかを目の当たりにしたが、弟子の心はすでにそこになく、師がその年の秋に突然この世を去ってしまうという予感もなかった。

おそらくはこのこと自体がヴァレリーにとっては〈ジェノバの一夜〉以上に痛恨の一事であったろうし、晩年になって詩作に多くの時間を割くようになったのは、この師マラルメへの敬意と悔いと、詩にたいする贖罪の入り混じった感情があったからにちがいない。

だが、若きヴァレリーを襲い、彼を〈ヴァレリー神話〉のなかに沈め、長い沈黙を強いることになった、おそらくは人生最大の危機がもうひとつあったのである。

それは〈ロンドンの一夜〉とでも称されるべき、正真正銘の精神の危機であった。その危機は、一八九六年、四月のある夜、襲ってきた。

当時二十六歳のヴァレリーは、ロンドンのグレンヴィル通りに寝泊まりし、近くのオフィスに通って機密文書の翻訳を任せられていた。誰ともまったく言葉を交わすこともなく、異国の街で孤立した生活を送っていた青年は夜ごと芯まで体が冷え込むような精神状態に追いこまれ、ついに自殺を思い立つ。

 

私は首吊りをすることにきめていた。ぶらさがるつもりだった押し入れ〔クローゼット〕のなかにすでに入りこみ、いよいよ首をかけるつもりで紐に輪をこさえにかかった。そのとき、踏み台にするつもりで積み上げていた本のほうに、ふと目を落とした。上には、表紙の黄色っぽい、仮綴じの本が開いていた。なぜその本が開いていたのか。またその本に、なぜ目が向いたのか。虚脱状態のまま、私はいよいよさいごの行為にとりかかろうとしていたのに、やっぱり私の目は知らぬ間にその本の数行を読んでいた。急に、じつに狂気じみた、じつにけたたましい笑いが、勝手にこみ上げてきたのだ。ああ、いまもあのときの笑い声は耳に残っている。そして不意に解放され、救出され、悪夢からさめた思いがした。呪いは解けていた。目のまえの首くくりの道具一式がまったくあほらしくなり、私は部屋を飛び出した。ころがるように階段をかけ降りた。気がつくと、表の歩道のガス燈の下に突っ立っていたが、あのけたたましい笑い、私を救ってくれた笑いは、まだとまらなかった。

 

この引用は、筑摩書房版のヴァレリー全集(新装版一九七三年)の月報2に収録されている杉本秀太郎氏の文からそのまま引いたものである。原書の著者はアンリ・マシス、本のタイトルはずばり『ポール・ヴァレリーの自殺』(一九六〇年)。本文わずか三ページ、五十一部限定の稀少本だという。たった三ページの本がこの世に存在するとは、この目で見てみないとにわかには信じられないような本である。杉本氏は、この薄っぺらな本を「ヴァレリー論のうちで最もすぐれた一冊に数えていた」というが、まったく同感だ。

アンリ・マシスなる人がどういう人物なのか、杉本氏の文章を読んでもわからないし、どういう経緯でこの人がヴァレリーにインタビューし、どうしてこの人にヴァレリーがこんな際どい打ち明け話をしたのか、そして、どうしてたったこれだけの分量のインタビューが活字になり、本の体裁をとることができたのか、何もわからない。

ただ、学生時代に邦訳のヴァレリー全集を購入し、大切な宝石箱の蓋でも開けるように全巻箱から取りだし、パラパラとページをめくり、さて、どの巻から読んでいこうかと思案しているとき、この月報の記事がふと目に留まったのだ。

そして、この本を発見した杉本氏と同じように、ポール・ヴァレリーの大切な秘密を垣間見たような気がした。

人は死を恐れない。恐ろしいのは群から逸脱することだ。人は死を賭して戦地へと向かう。死ぬことよりも、世間に背を向けることが恐ろしいからだ。というよりも、死への恐れは、肉体的な痛みへの恐れではなく(首を吊る痛み、ナイフを刺すときの痛み、毒を喫するときの苦しみよりも痛く苦しい思いなら、人生にいくらでもある)、ひとりこの世から去っていくときの不安に起因するのだ。

むかし東京で、冬の澄みきった空を旋回する百舌の大群を見上げたことがある。ああいう群を見ると戦争を連想するんだとつぶやくと、隣に立っていた長女は、わかるような気がすると言い、次女は、考え過ぎじゃないのと言った。

動物学者、あるいは鳥類学者は、あの群にもリーダーがいると言うかもしれないが、僕には群全体が命を形成しているように見える。そして、個体は死を回避するための本能を持っているが、群はときとして、みずから意味もなく死地へと赴くことがある。それを死の本能と呼ぶべきかどうかはわからないけれど。

話が逸れた。

ヴァレリーを死から救ったものが、狂気じみた笑いであったことはとても興味深い。ベルクソンは笑いをとても底意地の悪いものととらえたが、ロンドンで途方に暮れた青年が経験した一夜にかぎっては、死に傾く心の弱りを一蹴してくれた。

 

Le vent se lève!… il faut tenter de vivre!
(風立ちぬ、いざ生きめやも。)

 

ロンドンでの自殺未遂の記事を読んで以来、「海辺の墓地」の最終連の冒頭に記されたこの詩句を、堀辰雄が訳したような叙情的な息づかいのものとしてはとても受け止められなくなってしまった。

ヴァレリーはこのロンドンの一室で死んでいたかもしれない。彼に自殺を思いとどまらせたのは、一八八〇年頃に大衆紙で当たりをとっていたオレリアン・ショルというユーモア作家の一文だった。その一文がどういうタイトルで、どういう内容のものであったか、ヴァレリー本人も憶えていない。オレリアン・ショルという作家もおそらく歴史の闇に埋もれてしまっているだろう。

若きヴァレリーがどれほど思い詰めていたかは、本人でさえわからないことに属する。事実は、彼が死のうとしたこと、死ぬ寸前にショルという作家の滑稽話を読んで、首を吊るのをやめたということだけだ。

けれども、このほとんど忘れられたようなエピソードのほうが、〈ジェノバの一夜〉と命名された、いかにも大げさな、もったいぶった伝説よりも、はるかに現実味を帯びていると感じられるのは、おそらく自分が六十余年も生きて、すれっからしになってしまったからだろう。

さて、とりあえずはもうこの稿を閉じたほうがよさそうだ。ベルクソンとゼノンの矢の話から始まった、この一連のエッセイの試みを締めくくる詩句として、「海辺の墓地」の二十一連目を挙げておこう。

 

ゼノン、酷薄なゼノン、エレアのゼノンよ、

おれはおまえに射貫かれた、

唸り、飛び、そして飛ばない翼ある矢よ。

その音がおれを産み、その矢がおれを殺す。

ああ、太陽よ・・・・・・ 魂にとっていかなるものか、

亀の影、大股で疾ける不動のアキレスとは。

*50 持ち重りのする言葉


学生時代に夢中になって読んだ本のひとつに、ポール・ヴァレリーの『レオナルド・ダ・ヴィンチの方法への序説』という本がある。

この本を開いたとたん、文字どおり、目を奪われた記憶がある。奇妙な二段組みになっていたからだ。「奇妙な」というのは、ページの中央で均等に分かれている二段組みではなく、一対三くらいの割合の二段組みなのである。よく見ると、ただの二段組みではなかった。本文があって、上三分の一(原著の場合は横組みなので、左ページは左三分の一、右ページは右三分の一)がその本文にたいする自註なのだった。自註のほうが活字も少し小さい。

最初からそんな版面の本だったわけではない。本文は一八九五年に『新評論』(La Nouvelle Revue)に発表された。著者、若干二十四歳のときのことだ。単行本になったのは、それから二十四年が経過した一九一九年、この時点では自註はなく、当然、ふつうの版組だった。

欄外自註は一九二九年から三〇年のあいだに書かれ、一九三一年に刊行された Sagitaire 版と呼ばれる複写版の刊本で初めて読者の目に触れることになったという(筑摩書房版ヴァレリー全集、一九七三年新装版第五巻の書誌より)。

夢中になって読んだと冒頭に書いたけれど、よく理解できなかったので悪戦苦闘したというべきかもしれない。悪戦苦闘のまま卒論にまとめて出したら、論文主査の室淳介先生に「おれにはこれしかわからんよということがよくわかる」と言われて、変に感動した記憶がある。「あ、ちゃんと読んでくれたんだ」

室先生はサント=ブーヴが専門で、レヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』を本邦初訳した人でもある。といっても、当時はサント=ブーヴにもレヴィ=ストロースにも興味がなかった。

「きみ、うちに遊びにおいでよ」と言われて、のこのこ国立のお宅にお邪魔したことが一度あった。「駅から歩いていくと、大きな欅の木が見えるからすぐわかるよ」。浮世離れした先生だった。授業中に黙りこくってしまう。一分や二分ではない。五分くらい。教室がざわめく。お会いしたとき、「先生、あの沈黙はとても不安です」と言ったら、「いや、授業中に考え事するのは気持ちがよくてね」だと。

世が世なら、大学院に残って、この先生の指導を受けていたかもしれない。

この本の欄外自註に、こんな文章がある。

 

思考における、とりわけ現実的なものとは、感覚でとらえられる現実の素朴な似姿{イマージュ}ではないもの、とでも言おうか。ところが、われわれの内部で生じるものを観察すると、そもそもこの観察自体が不確かで、往々にして疑わしいものなのだが、ついわれわれは、この〔思考と感覚の〕二つの世界は比較可能なものと信じてしまう。その結果、いわゆる心的世界を感性的世界の隠喩、とりわけ身体的に実行可能な行為や操作から借りた隠喩でおおまか{グロッソ・モード}に表現することになる。
 たとえば、思考[pensée]と計量[pesée]、把握[saisir]、理解[comprendre]、仮説[hypothèse]、総合[synthèse]、など。

 

最後の一段落を補足すると、フランス語における「考える」という動詞penser はラテン語の pensare に由来し、元来は重さを量るという意味だった。peser という動詞も、諸説あるが、同語源らしい。saisir はもともと「握る」という意味。comprendre は、com という接頭辞とprendre という動詞に分解できる。すなわち「まとめて掴む」という意味。hypothèse (仮説)は「下に置く」という意味。synthèse(総合)は「一緒に置く」という意味。

ちなみに日本語の「考える」はカムカフ、すなわち二つのものを向き合わせるという意味(岩波古語辞典、補訂版一九九〇年、古くてスイマセン)。加えて、オモヒ(思ひ)とオモシ(重し)はどこか似ているが、語源は違うらしい。

言語が、われわれ人間が外部世界と触れるときの感覚に依拠していることは、それはもう言語の宿命というほかないだろう。だが、認識——とりわけ科学的認識——は、素朴な感覚的イメージから身を切り離すところにその本質がある、あるいはそのとき初めて精神はおのれにふさわしい固有の現実性を獲得すると、ヴァレリーはここで言っている。

これはガストン・バシュラールが『科学的精神の形成』(La formation de l’esprit scientifique, 1938)で展開している「認識論的障害物」に関する主張とほぼ同じことを言っているように思える。

 

科学的精神は〈自然〉に抗して形成されなければならないのである。われわれの内部においても、われわれの外部においても存在する〈自然〉からの衝迫や教唆に抗して、自然の牽引力に抗して、彩色された多様な事象に抗して形成されなければならない。科学的精神は、おのれを作り直すことを通じて形づくられていくものなのである。

 

だから、現代の科学は数式の体系と表現を必要とする。言語はそれ自体のうちに認識論的障害物を含むから。科学的精神が〈自然〉に抗して形づくられるべきものならば、それはある意味で〈非人間的〉なものでもある。

言い換えるなら、ガストン・バシュラールのいう「科学的認識」とは、身体的イメージに依存する呪術的な実体論{レアリスム}を思考から切り離そうとする不断の努力をさす。しかし、彼はその一方で呪術的イメージにあふれる文学論を展開したのである。『蝋燭の炎』『水と夢』『空と夢』・・・・・・、いずれもタルコフスキーの映像世界を言葉と論理に置き換えたような著作ばかりだ。ベクトルが真逆を向いている科学認識に関する論文と文学論の二つを併せ読まないと、バシュラールを読んだことにはならない。

先日の塾の例会で、「持ち重りのする言葉」という表現を使った。もしかりに、自分が頭のなかで行っている翻訳作業を、ヴァレリーの言うように「身体的に実行可能な行為や操作から借りた隠喩でおおまか{グロッソ・モード}に表現する」ならば、両腕を左右に開き、それぞれの手のひらを天に向け、左にフランス語の単語を、右に日本語の単語を置いて、あたかも自分の身体を天秤にするがごとくに、いつも左右の重さを量り比べているような感覚に近い。もちろん、左右の天秤皿に載っているのは単語ばかりではなく、複数の単語からなる熟語の場合もあるし、文全体のこともあるし、段落丸ごと載せることもある。

こうして翻訳全体が一冊の本となってできあがったとき、左に載せたフランス語の原本と翻訳本が釣り合っていれば、それは完璧な仕事ということになる。

が、そんなことはありえない。単語でさえ、釣り合うことはない。まったく違う言語なのだから。できることは、できるだけその誤差を小さくすることだけ、というわけだ。

翻訳は、基本的には意味(signifié)しか置き換えることができない。そのような限定——あるいは断念——のもとでは、意味さえ釣り合っていればよいということになる。しかし、言語(langue)は意味だけで成り立っているわけではない。言語は音韻の体系でもある。日本語と印欧語の場合、文法と統辞以上にこの音韻体系がまったく違う。これは翻訳不可能である。詩が翻訳不可能と言われる所以もここにある。

しかし、詩の翻訳はある。元の詩が豊かな詩情を湛えていればいるほど、そしてその詩が書かれている言語にたいする理解が進めば進むほど、それを母語に置き換えてみたいという意欲なり野心なりは抑えがたいものになる。なぜか、とは問わない。むしろ、翻訳の本質と困難は、詩の翻訳に象徴されていて、人はその対象が困難であればあるほど、それを乗り越えたいという衝動を刺激されるものだと言うに留めておこう。アルチュール・ランボーの詩に「母音」と題された有名な作品がある。中原中也の訳で引用してみよう。

 

Aは黒、Eは白、Iは赤、Uは緑、Oは青、母音たち、
 おまへたちの隠密な誕生をいつの日か私は語ろう。

 

ランボーはこう語り出して、A、E、I、U、Oの五つの母音それぞれのイメージを二行ずつに分けて、いかにも象徴詩{サンボリスム}風に歌い上げている。さすがの中也もここでは律儀に一語ずつ丁寧に拾い上げて、どちらかと言えば「直訳」っぽく訳している。それはたぶん、この詩が他国語の理解を拒んでいるからだ(たとえば英語、ドイツ語、イタリア語を母語にする人にとってはどうかわからないけれど)。

むしろ、フランス語を母語にする読者にとっても、ただちに共感できるというようなものではないと言ったほうがいいだろう。「アー」と発音する母音から、

 

A、眩ゆいやうな蝿たちの毛むくぢゃらの黒い胸衣{むなぎ}は
 むごたらしい悪臭の周囲を飛びまはる、暗い入江。

 

というようなイメージをそのままのかたちで共有できる人はほとんどいないだろう。いるとしたら、その人は特異体質か何かだ。事実、この詩を精神病理学の一症例として読み解く論文をどこかで読んだ記憶がある(どの本だったか、どうしても思い出せない)。

それはともかく、母音に色があるというのなら、言葉(単語)には、重さがあると言ってみたらどうか。もちろん、匂いのようなものもあれば、手触りのようなものもあると言ってみてもいいのだけれども、いちばん肝心なのは、重さ、重みではないか。

重さというのは、端的に言って、時間の重みをさす。

その単語に降り積もった時間の重さ。語源的に古ければ重いということではなく、太古の昔から今の今まで使いつづけられてきた言葉。

とくに動詞。なぜなら、どんなに時代と文明が変転しようと、人間の肉体はそれほど変化していないから。少なくとも、人間が言語を得て、文字を得てからの数千年単位ではほとんど変化していないだろう。たとえば「見る voir」「聞く entendre」「触る toucher」など、五感に関係する動詞、あるいは「立つ se lever」「歩く marcher」「走る courir」などの基本的動作にかかわる動詞など。その土地に自生する植物のような言葉、そういう言葉を「持ち重りのする言葉」と呼びたいのである。

こういう動詞が出てきたときに、漢熟語は当てたくない。漢字そのものも、できるだけ開きたくなる。漢字は見た目は重そうに見えるが、日本人の感覚にとっては音であるよりもほとんど視覚的概念なので——だから、やたらに同音異義語が多い——、じつは軽い。日本人にとっては、漢語よりも和語のほうが重い。漢字の多用は、見た目を煩雑にし、思考に負担をかけるので重く感じられるが、じつはその反対なのだ。天秤は左に傾く。

翻訳家は天秤が傾くことを嫌う。

話の角度を変えてみよう。聖書から引用する。

 

太初{はじめ}に言{ことば}あり、言は神と偕{とも}にあり、言は神なりき。

 

これは新約聖書中四番目に置かれている「ヨハネ福音書」冒頭の文語訳である。岩波文庫の一冊として復刊された『改訳 新約聖書』(米国聖書会社、一九一七年)からの引用である。たぶん、誰もが一度は耳にしたことがあるだろう。口語訳ではどうなっているか、新共同訳(日本聖書教会、一九八七年)から引用してみる。

 

初めに言{ことば}があった。言は神と共にあった。言は神であった。

 

この二つの訳を比べたとき、日本人ならば誰もが、文語訳のほうが格調が高く、重々しいと感じるのではないか。ここに引用した新共同訳(カトリックとプロテスタント双方の聖書学者、神学者の共同作業による翻訳という意味)は一九五四年に成立した初めての口語訳聖書を母胎にしていて、このヨハネ福音書の冒頭訳は、この戦後初の口語訳聖書をそのまま踏襲している。この口語訳の評価は、とりわけ文語訳に馴染んだキリスト教信仰者、あるいは作家たちには、必ずしも高いものではなかった。聖なる書物の言葉らしからぬ、と。

しかしここには、聖書の翻訳のみならず、翻訳一般にとっての重大な問題が潜んでいる。新約聖書の原典はギリシア語で書かれている。もちろん、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四福音書もギリシア語で書かれている。なぜか。

福音書の主人公であるナザレ生まれのイエスはユダヤ人である。使徒と呼ばれる最初の弟子たちもユダヤ人である。イエスが論争した相手の律法学者たちも、もちろんユダヤ人である。ユダヤ人である以上は、当時のユダヤ人の日常語であるアラム語を話していた。ならば、なぜアラム語で書かなかったのか。なぜ文語のヘブライ語で書かなかったのか。

ギリシア語で書かれていると言ったが、正確にはコイネーのギリシア語といって、ギリシア本土のアッチカを中心にして語られていたギリシア語とは区別されている。専門的なことはよくわからないし、ここで深く立ち入る必要もないので、イギリス本土で語られている本来の意味での英語と、国際標準語と化した感のある米語の違い程度におさえておけば、ここでは足りるだろう。

四つの福音書のうち、最初に書かれた福音書の作者マルコは原始キリスト教団のなかで、ヘレニストと呼ばれるグループに属していたと推定されている。ギリシア語を話す人という意味である。イエスの教えは、彼が十字架の上で処刑されたのち、瞬く間に地中海沿岸各地に住む、いわゆる離散ユダヤ人のあいだに広まっていった。迫害されて離散していったのではなく、商人として各地に根付いていった人々である。彼らは商人である以上、当時の地中海世界の共通語であるギリシア語を話す人々であった。ユダヤ人であっても割礼の習慣を失った人もいた(パウロの手紙参照)。

マルコは、そういう人々に向けて、ギリシア語で風変わりなイエスの伝記を書いたのである。ふたたび、なぜか。イエス亡きあと、最初期のキリスト教団は、当然のごとく「十二使徒」と呼ばれる人々によって立ち上げられた。ペテロ(今はペトロと呼ぶのが主流)を初めとするイエスの召命を受けた最初の使徒たちは「ヘレニスト」ではない。イエスもまた、ギリシア語を語った形跡は、少なくとも福音書のなかには見いだせない。あろうことか、最初期の教団の中心には、この使徒たちだけではなく、イエスの母と兄弟のも含まれていた。

なぜ「あろうことか」、なのか。マルコ福音書の第三章には、次のような記述がある。

 

イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。大勢の人がイエスの周りに座っていた。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」(新共同訳)

 

つまり、肉親、血縁の延長上に信仰はないと明言しているのである。それなのに現実には、イエスによって否定された肉親たちが初期の教団の中枢にいて、ヘレニストたちを抑圧とは言わないまでも、ないがしろに扱う(「使徒言行録」参照)。これはイエスの教えに背くのではないか。

そう、マルコはのちに「福音書」(Evangile)と呼ばれるイエスの伝記を書くことで、当時の教団のあり方にノーを突きつけたのだ(田川健三)。

さて、これが前提である。そして、問題はマルコが書いたギリシア語による福音書はどんなものであるか、ということだ。

ひとつの言語の歴史を背負う文語ではなく、当時の地中海世界で日常的に流通していた口語なのである。しかも、マルコのギリシア語は、マタイ、ルカ、ヨハネと比べて、下手だったというのである。イエスが肉親を否定するこの場面、格調高い日本の文語ではどのように訳されているか。

 

爰{ここ}にイエスの母と兄弟と来りて外に立ち、人を遣わしてイエスを呼ばしむ。群衆イエスを環{めぐ}りて坐したりしが、或者いふ『視よ、なんぢの母と兄弟・姉妹と外にありて汝を尋ぬ』イエス答へて言ひ給ふ『わが母、わが兄弟とは誰{たれ}ぞ』斯{かく}て周囲{まはり}に坐する人々を見回して言ひたまふ『視よ、これは我が母、わが兄弟なり。誰にても神の御心を行ふ者は、是わが兄弟、わが姉妹、わが母なり』(仮名遣いは原文のママ。総ルビだが一部だけ残した)

 

たしかに格調高い日本語である。だが、「格調高い」と感じるのは、そもそも文語だからではないのか。そして、原文が口語で書かれているとき、文語でなされた翻訳は正しいのか。

そもそもの問題は、ギリシア語で書かれた新約聖書をヒエロニムスがラテン語に訳した時点にさかのぼる。そもそもこのラテン語訳聖書(ウルガタ聖書と呼ばれる)が文語であり、信仰の主体である一般信徒には読めないものだった。だから、ラテン語の読める神父さんが教会で嚙んで含めるように信者に伝えていった。やがて教会組織の肥大化と中央集権化にともなって堕落と腐敗が進行し、あの血気盛んなマルチン・ルターの登場となるわけだが、それはまた別の話だ。

要は、ここにギリシア語原文を引用して、解説できるだけの教養と語学力があればいいのだが、無い物ねだりをしてもはじまらない。苦肉の策として、フランス語訳をここに挙げてみよう。フランス語訳ならなんでもいいというわけにはいかない。ここに引用するのは、フランスのカトリック、プロテスタント双方の共同作業による「共同訳」(Traduction Oecuménique de la Bible. 1995. 略してTOB——トープと発音するらしい)である。最新の聖書学の知見をもとに、ギリシア語原文にできるだけ「忠実な」翻訳を試みたといわれる労作である。

 

Arrivent sa mère et ses frères. Restant dehors, ils le firent appeler.

La foule était assise autour de lui. On lui dit : “Voici que ta mère et tes frères sont dehors ; ils te cherchent.” Il leur répond : “Qui sont ma mère et mes frères ?” Et parcourant du regard ceux qui étaient assis autour du lui, il dit : “Voici ma mère et mes frères. Quiconque fait la volonté de Dieu, voilà mon frère, ma soeur, ma mère”.

 

その母と兄弟がやってくる。外に立ち、彼を呼んできてくれとたのむ。
 群衆が彼を取り巻いて座っていた。「あなたの母親と兄弟が外に来ている。あなたを迎えに来たのです」と言われて、「わたしの兄弟、わたしの母とは誰のことか」と彼は答える。そして、自分の周囲に座っている人々を見回し、こう言った。「ここにいるのがわたしの母とわたしの兄弟である。神の意志をおこなうものこそ、わたしの兄弟、わたしの姉妹、わたしの母なのである」(高橋訳)

解説はしない(できない?)

ランボーの詩に戻ろう。同じ「母音」の第一連。でも、鈴木信太郎訳である。

 

A{アー}は黒、E{ウー}白、I赤、U緑、O{オー}は藍色、
 母音よ、汝が潜在の誕生をいつか、我は語らむ。
 A{アー}、無慙なる悪臭の周囲に唸りを立てて飛ぶ
 燦めく蠅の 毳斑{けまだら}の 黒き胸當{コルセエ}、

(人文書院版『ランボー全集』第一巻、一九七六年)

 

いかにも古いという印象を与える翻訳だ。まるでラテン語から訳したような感じさえする。学生のころは、こんなのが名訳としてもてはやされる時代は終わったと思っていた。何が気にくわなかったか。やたらに画数の多い、強迫(脅迫?)めいた漢字の使い方。文学といえば漢文学をさし、詩といえば漢詩をさしていた時代の残滓のようなものを感じたのである。

でも、最近は考え方が変わってきた。ランボーの原詩のなかにすでに衒学趣味が潜んでいると思うようになった。中原中也はそれを vanité、すなわち虚栄と呼んでいる。

アルチュール少年はことばの天才だった。中学生ですでにラテン語の詩を書いていた。すげぇな、と若いころは思ったが、よく考えてみれば、多少早熟であれば、日本人だって中学生で平安朝風の短歌を詠む子はいるだろう。優れた作品になるかならないかは別として。

言語{ラング}は規範{コード}であるから、それなりの才覚とセンスさえあれば、たちまちのうちにこれを習得することはそんなに難しいことではない——と凡才の自分が断言するのも憚れるけれど。

そういうことよりも、最近は時代と個人が交錯するときの、宿命とか運命とか呼ばれるもののほうに関心が向くようになってきた。年をとってきたというべきなのか、それなりに成熟してきたというべきなのかは、自分ではもちろんわからない。

ランボーの詩的世界のまばゆさは、電流がショートしたときの火花に似ている。ランボーという一個の肉体の現在時が、ひとつの言語のなかに蓄えられた幾重にもかさなる時間と時代の層を突き破っていくときの快感をまざまざと見せつけてくれる。

でも、こんなたとえでは、ランボーの詩的秘密を暴いたことにはならない。詩そのものがそういう芸術かもしれないし、音楽もまたそうであるかもしれないのだから。

ランボーは一八五四年に北仏のシャルルヴィルという町に生まれた。そして、パリに出て詩人たちと交わり、アフリカに渡って武器商人となり、骨肉腫を得てフランスに舞い戻り、一八九一年に三十七歳の若さで死んだ。十九世紀のど真ん中を疾走したわけだ。生まれたのは第二共和制が崩壊して、ルイ・ナポレオンが帝位に就いた一八五二年の直後、そして彼の青春は普仏戦争の勃発、そしてフランスの敗北、そしてパリコミューンの成立と崩壊という時代の激流に翻弄されている。この間、フランスは未曾有の政治的混乱を経験しているが、その一方で産業革命は、イギリスに遅れを取っているとはいえ、着実に進み、その象徴は鉄道敷設の全国展開だろう。シャルルヴィルとパリのあいだに鉄道が敷かれていなければ、アルチュール少年が何度も家出を繰り返すこともなかったし、一九七一年のパリ・コミューンのときにパリにいることもなかった。

おそらくランボーの詩は、この激動の時代の叫びなのだ。激動の時代とは、時間の流れがどんどん加速していって、古いものが振り切られ、新しいものには手が届きそうで届かない、そんな時代のことだ。

だからランボーの詩には古いものと新しいものが同居している。いや、同居しているのではなく、葛藤し、衝突し、あるいは爆発している。あるいは太平洋プレートがユーラシアプレートの下に潜りこもうとしているというべきか。

もうランボーの詩について書くのはよそう。それが本意ではないから。何が本意か。つまり、翻訳とは何かということ。

一つの文学作品は時代とともにある。あるいは天才的な文学作品は時代の声そのものであって、天才と呼ばれる芸術家、思想家、あるいはリーダーたちは、この時代の要請に応えようとして、ときに神のように崇められ、ときに犠牲{いけにえ}として天に召されるのだ。あるいは、この声の要請に応えられたものだけが、天才の名をほしいままにするというべきか。

もし、翻訳がこの声をよみがえらせることを使命とするものであるならば、翻訳はそもそも可能な行為なのか。なぜならば、言葉はいつも時代に拘束されているから・・・・・・。

さあ、こういったことを踏まえたうえで、あなたならランボーの詩をどう翻訳するか。「母音」冒頭のスタンザの原文を最後に挙げて、この稿を締めくくることにしよう(べつに宿題ではありませんので、誤解なきよう!)

 

A noir, E blanc, I rouge, U vert, O bleu : voyelles,
 Je dirai quelque jour vos naissances latentes :
 A, noir corset velu des mouches éclatantes
 Qui bombinent autour des puanteurs cruelles,

*49 モーツァルト、弦楽五重奏曲ニ長調


表紙(*77)の写真に添えた文はこの曲(K. 593)で終わっている。

昔からこの曲を親愛してきたわけでもないし、そもそもモーツァルトを素直に聴くようになったのは、ここ数年のことだ。

初めてモーツァルトのレコードを買ったのは、大学に入ったばかりのころだったと思う。手許に残っているレコードは「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」(セレナード十三番ト長調、K. 525)、演奏しているのはスロヴァキア室内合奏団。

どうしてこの曲を選んだのか、どうしてこの合奏団の演奏するレコードを選んだのか、もう思い出すことができない。でも、わが家にあったコンソールタイプの古いステレオのターンテーブルにこのレコードを置いて、そっと針を落としたときの感動は忘れることができない。

感動と書いたけれど、じつは驚愕とか、茫然とか、そっちに近かったように思う。アレグロの冒頭が鳴り響くのを聞いているうちに、星が降ってくるような気配に襲われた。

夏の夜、窓は開け放たれていた。星を見ていたわけではない。窓を背にして、視線はステレオのほうに向いていた。でも、音は背後からやってきた。窓から星の光が飛びこんでくる・・・・・・。

こんな経験は書けば書くほど嘘っぽくなる。

いずれにせよ、これを機にモーツァルトにはまるということはなかった。むしろ敬遠するようになった。大学に入ったばかりのころといえば、まだ若かったマウリッツォ・ポリーニがショパンの練習曲全曲をアルバムに収めて、世界をあっと驚かせたころだった。ポリーニを初めて聴いたときも度肝を抜かれた。ショパンってこんなに男性的だったのか。

このショパンも敬遠するようになった。

時代のせいだろう。貴族世界の寵児だったモーツァルト、パリのサロン、社交界の華だったショパン、そんなもの、おれと関係ないじゃないか。

ねぇ、ぼく、美しいでしょ、ねぇ、聴いて聴いて、と言っているみたいで、吐き気がしてきた。

大学の終わりころにはもう音楽は聴かなくなっていたと思う。クラシックもジャズもフォークもみんな鬱陶しかった。もちろん、鬱陶しかったのは自分自身だった。

小林秀雄の「モオツァルト」も読まなかった。ページを繰っても入っていけなかった。

大学を出てからしばらくして、高橋悠治の本を読んだ。たまたま彼の弾くサティを聴く機会があったからだ。サティという音楽家もユニークだが、高橋悠治という音楽家のほうがよっぽど刺激的、衝撃的だった。彼の演奏については語る資格がない。文章がすごかった。『音楽の教え』(晶文社、一九七六年初版、手許にあるのは八六年10刷)というエッセイ集のなかに〈小林秀雄「モオツァルト」読書ノート〉と題された文が収められている。

衝撃を受けたなんてものではなかった。小林秀雄がここで木っ端微塵に打ち砕かれていると思った。爽快だった。もう忘れていいのだと思った。

敬遠して、そのまま遠くに置き去りにしてしまうものもある。逆に、もう半世紀近くも経つのに、ぶり返してくる記憶、思い出、体験もある。

数年前に、小林秀雄の伝説と化した「感想」を読んだ。ああ、そうだったのか。感慨深いものがあった。この人は骨の髄まで翻訳者なのだと思った。なぜそう思ったのか、ここではくどくど書かない。どうせうまく書けないだろうから。この作品は、とてもシンプルな一文から始まっている。

 

終戦の翌年、母が死んだ。母の死は、非常に私の心にこたえた。

 

なぜ「非常に」こたえたのか。実の母が死んだのだから、当たり前だろうと人は言うかもしれない。たしかに。でも、当たり前のことを書くのと、書かないのでは雲泥の差がある。これもまた当たり前の話ではあるけれど。

周知のように、というか、この「感想」の初段にも書かれているように、戦後最初に小林秀雄が発表した「モオツァルト」には、「母上の霊に捧ぐ」という献辞が添えられている。そしてこのエッセイには、こんなことが書かれている。あまりに有名な一節だから、引用するのも憚られるのだけれど。

 

もう二十年も昔のことを、どういう風に思い出したらよいかわからないのであるが、僕の乱脈な放浪時代の或る冬の夜、大阪の道頓堀をうろついていた時、突然、このト短調シンフォニイの有名なテエマが頭の中で鳴ったのである。

 

「もう二十年も昔のこと」というのは、漠然とした過去ではなく、著者自身の痛切な、痛恨の一事を指している。一九二五年(大正十四年)、小林秀雄は京都から上京してきた中原中也と出会う。中也は長谷川泰子という愛人を伴っていた。

 

中原と会って間もなく、私は彼の情人に惚れ、三人の協力の下に(人間は憎しみ合う事によっても協力する)、奇怪な三角関係が出来上がり、やがて彼女と私は同棲した。この忌まわしい出来事が、私と中原との間を目茶々々にした。言うまでもなく、中原に関する思い出は、この処を中心としなければならないのだが、悔恨の穴は、あんまり深くて暗いので、私は告白という才能も思い出という創作も信ずる気になれない。(「中原中也の思い出」昭和二十四年発表)

 

こんな「奇怪な三角関係」が長続きするわけがない。三年後、小林と泰子との同棲は破綻し、小林は大阪へと逃げる。そして、道頓堀で突如、「ト短調シンフォニイ」の主題が頭のなかで鳴り響くのである。

小林秀雄が悔いているのは、じつは中也との三角関係と泰子との同棲の無残な破綻だけではない。同棲生活から逃げて大阪に出奔したとき、それまで彼が支えてきた病弱の母も東京に置き去りにした。だから、小林秀雄の「モオツァルト」は二重の悔恨に苛まれている。そこを高橋悠治は痛烈に突く。

 

「ある冬の夜、大阪の道頓堀をうろついていた時、突然、このト短調シンフォニイの有名なテエマが頭の中で鳴ったのである」。この一行は、以後の音楽批評のパラディグマになった。だれもが音楽との「出会い」を書くことで、音楽論に替えようとする。そのとき、自分をできるだけあわれっぽく売りこむこともわすれない。(「小林秀雄「モオツァルト」読書ノート」)

 

この一節を読んだとき、おお、と声を上げたか、思わず膝を打ったか、そんなことは忘れてしまったけれど、今これを読み返してみると、自分が以前よりは小林秀雄寄りの位置に立っていることがわかる。

彼の悔恨は深い。青春の得体の知れない情念に引きずられて母を置いて逃げ出したことへの悔恨ばかりではなく、批評家という道を選んだことにたいする悔恨、というよりは、罪悪感のような、負い目のような、ある種の心的外傷のようなもの。

彼は大阪から奈良へと移り、志賀直哉の家に足繁く出入りしたのち、東京に帰ってくる。そして翌年、「様々なる意匠」を書き、「改造」の懸賞評論に応募する。これが第二席に入り(第一席は宮本顕治の「敗北の文学」)、批評家としての出世作となる。彼は青春の深い傷と引き換えに、文芸評論家になった。

彼がどこかの対談だか座談会だかで発言した「僕は演奏家でいいんです」という言葉。そういう「名言」が一人歩きする。批評家は演奏家ではない。翻訳家こそが演奏家であり、小林秀雄の批評の本質は翻訳にある、と今は強く思う。

翻訳とは何か。それは分析でも解釈でも、置き換えでもない。共感と感情移入を、どのようにして原文のスタイルを維持・保存しながら表現するか。小林秀雄のドストエフスキー論もゴッホ論もベルクソン論も、彼だけの持つ特異な感情移入の力に貫かれている。

 

この前、「モオツァルト」について書いた時も、全く同じ窮境に立った。動機は、やはり言うに言われぬ感動が教えた一種の独断にあったのである。あれを書く四年前のある五月の朝、僕は友人の家で、独りでレコードをかけ、D調クインテット(K.593)を聞いていた。夜来の豪雨は上がっていたが、空には黒い雲が走り、灰色の海は一面に三角波を作って波立っていた。新緑に覆われた半島は、昨夜の雨滴を満載し、大きく呼吸している様に見え、海の方から間断なくやってくる白い雲の断片に肌を撫でられ、海に向かって徐々に動く様に見えた。僕は、その時、モオツァルトの精巧明晳な形式で一杯になった精神で、この殆ど無定形な自然を見詰めていたに相違ない。突然、感動が来た。もはや音楽はレコードからやって来るのではなかった。海の方から、山の方からやって来た。(「ゴッホの手紙」序。昭和二十三年発表)

 

圧倒的な文だと思う。モーツァルトの音楽に素手で触れていると思わせるような筆致だ。ならば「モオツァルト」は、ここから単刀直入に切り込めばよかったではないか。なぜエッカーマンの「ゲーテとの対話」の引用から始めるというまだるっこしい迂路をたどったのか。いや、それはそれでいい。高橋悠治が徹底的にやっつけていることを、ここで蒸し返す必要はない。このモーツァルト論のハイライト・シーンはずいぶんあとに出てくる。ト短調クインテット(K. 516)の主題を楽譜そのままの形で引用したのち、こう続けているところだ

 

ゲオンがこれを tristesse allante と呼んでいるのを、読んだ時、僕は自分の感じを一と言で言われた様に思い驚いた(Henri Ghéon; Promenades avec Mozart.)。確かに、モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない。涙の裡に玩弄するには美しすぎる。空の青さや海の匂いの様に、万葉の歌人が、その使用法をよく知っている「かなし」という言葉の様にかなしい。(第9段)

 

これはほとんど「実朝」の変奏のようだ。長くなるが引用する。

 

(箱根の山をうち出でて見れば浪のよる小島あり、供の者に此うらの名は知るやと尋ねしかば、伊豆の海となむ申すと答え侍りしを聞きて)

 

箱根路をわれ越えくれば伊豆の海や沖の小島に波の寄るみゆ

 

この所謂万葉調と言われる彼の有名な歌を、僕は大変悲しい歌と読む。実朝研究家達は、この歌が二所詣の途次、詠まれたものと推定している。恐らく推定は正しいであろう。彼が箱根権現に何を祈ってきた帰りなのか。僕には詞書にさえ、彼の孤独が感じられる。悲しい心には、歌は悲しい調べを伝えるのだろうか。それにしても、歌には歌の独立した姿というものがある筈だ。この歌の姿は明るくも、大きくも、強くもない。〔中略〕「沖の小島に浪の寄るみゆ」という微妙な詞の動きには、芭蕉の所謂ほそみとはまでは言わなくても、何かそういう感じの含みがあり、耳に聞えぬ白波の砕ける音を、遥かに眼で追い心に聞くと言う様な感じが現れている様に思う、はっきりと澄んだ姿に、何とは言われぬ哀感がある。耳を病んだ音楽家は、こんな風な姿で音楽を聞くかも知れぬ。(「実朝」昭和十八年発表)

 

実朝という短命の権力者の孤独をここまで適確にとらえた表現はほかにあるだろうか。おのれの儚い宿命の予感がこの歌に宿っているというのである。モーツァルトのように。だが、これ以上の解説は僕のような無学の者には堪えられない。

「モオツァルト」と「実朝」が並んで収められている古い新潮社版全集の第八巻には「翻訳」と題されたエッセイも収録されている。著者の学生時代「一枚十五銭から二十五銭位で、ずい分沢山の代訳をしたものだ」と書かれている。この代訳とフランス語の家庭教師で得た、おそらくはささやかな収入で、彼は一家を支えていた。父の豊三が死去した大正十年(一九二一)に秀雄は第一高等学校文科に入学したが「母の喀血、自分の神経衰弱、家の物質的不如意」などのために休学している(新潮日本文学辞典)。豊三は御木本真珠店に勤務したのち、日本ダイヤモンド株式会社を設立して専務取締役に就任していた人である。そして、大正十二年(一九二三)には関東大震災が起こっている。翌年、灰燼に帰した東京で二高生だった富永太郎と出会い、ボードレール、ランボーを知り、この富永太郎を介して中原中也との交際も始まるのである。

この間、小林秀雄は「蛸の自殺」「一つの脳髄」「ポンキンの笑い」(後に「女とポンキン」と改題)などの小説を書いている。これらまるで自分の「神経衰弱」から生まれたような小説を、今読む人は——研究者を除けば——ほとんどいないだろう。でも、文学史にタイトルだけは残る。初期の段階では、彼が小説を書いていたという事実も残る。でも、彼が生活のために書いていた翻訳は残らない。本人が「私の劣悪な翻訳が、誰の名前でどこで出たか今以て知らない」と書いているくらいだから。しかし、彼は翻訳という作業の魅力、魔力を知り抜いている人だ。

彼は「ゴッホの手紙」を書くにあたって、マイエル・グレエフェの「ゴッホ評伝」を英訳で読んでいる。表紙には翻訳者の名前も書いていないが、序文を読むと翻訳の苦労がよくわかる。そこにはこんなことが書かれていたというのである。

 

原著者の真意は、その独特のスタイルの為に、普通の翻訳のやり方では英国の読者には伝え難い。そこで〔・・・〕、頭に原文が這入るまで幾度となく原著を読み、講義をする積りになってみて英語でノオトを作った。ノオトが完成すると、原著を閉じて、ただノオトを頼りに、大胆な自由訳をする心算で書いてみた。ところが、後で原著と照らし合わせて読んでみると、われ乍ら忠実に訳している事に驚いた〔・・・〕(「翻訳」昭和二十四年発表)

 

この短いエッセイは、「この本〔=ゴッホ評伝〕には、日本訳もある様である。読まないから知らないが、日本の訳者はそこまで苦心はしていまい」という皮肉で結ばれている。

まさか、こんな翻訳ノートは作らない。でも、頭のなかではいつもこの英訳者がやっているのと同じようなことを毎日繰り返している。もし機会があったら、小林秀雄の墓前でそう伝えたいと思う。

*48 小林秀雄とベルクソン


塾生のみなさんに、次回(1月9日)は小林秀雄とベルクソンの話をしようかと思ってますなどと予告したのはいいけれど、さて困った。何をどう話せばいいのか、どこから話せばいいのか、見当がつかない。

十年ほど前に——正確には平成十七年(二〇〇五年)——新潮社の新装版全集に「感想」と題された長編エッセイが収められたので、勇んで買い込み読んだときの記憶から書こうかと思って、ここ数日読み返しているのだが、どんどん泥沼にはまっていくような重苦しい気分が鬱積していく。

そもそもこのエッセイ自体、文字どおり伝説と化した作品なのである。手許にある本の帯には「雑誌連載五年を経て中断、ついに刊行も禁じたベルクソン論・・・・・・」とある。

雑誌とは『新潮』のこと、連載開始は昭和三十三年の五月、中断は三十八年の六月、その後著者は連載を再開することもなく、単行本として刊行することもなかっただけでなく、死後出版も禁じた曰く付きの書物なのである。それが禁を破って(?)日の目を見た。だから「勇んで」買い込んだわけである。

わたしが大学に入ったのは昭和四十八年のこと、小林秀雄が連載を中断してから、すでに十年の歳月が流れていた。そのころはまだ、文学部の学生といえば、同人誌を出したり、読書会を開いたりすることが特別なことでも、珍しいことでもなかった時代である。

そんな文学サークルのなかに、『新潮』に連載された小林秀雄のベルクソン論を全部コピーして(当時コピーは高かった!)回し読みしているところがあるという噂が流れてきたりもした。サークル間でけっこうお互いを意識したり、ライバル心を抱いていたりしたのである。

わたしは偏屈なところがあって、著者が失敗作だと思って刊行を禁じたものを、わざわざコピーして回し読みするなんて、おぞましいというか、卑しいというか、そういうサークルには惹かれるよりも反発を感じていた。しかも、有名な批評家を招いて、ご意見拝聴と来た日には、なんだか志が低いと思ったりもした。

それはともかく、当時の学生にとって小林秀雄は仰ぎ見る巨星のようなものだった。批評の神様とも呼ばれた。文芸評論の新たな世界を切り拓き、これを独立した文学ジャンルとして確立したという評価もあった。一介の文芸評論家が哲学を論ずるなんてこと自体が前代未聞だっただけでなく、書きつづけられなくなれば、みずからこれを失敗と断じ、封印してしまう。骨董屋で買った良寛の「地震後作」と題された書を得意げに自宅の床の間にかけていたら、専門家の吉野秀雄に越後地震の後の良寛はこんな字は書かないと言われて、その場にあった一文字助光で一刀両断にしてしまう。あるいは中原中也の恋人だった長谷川泰子を奪ったあげくに、これを捨てて奈良に逃亡するという若き日のエピソード・・・・・・。田舎からぽっと出てきたばかりの世間知らずの若い文学青年は、ただもう唖然とするか、あこがれるか、尊敬するか、あるいは敬して遠ざけるかしかなかった。当時のことを思い出すと、顔が赤らんでくる。

それだけでなかった。学生時代に深い親交を持った友人が二人いたが、そのどちらも小林秀雄に深く傾倒していたのである。

ひとりは大阪の男で、今わたしの書棚にある古い新潮社版全集は、彼のアパートで初めて見た。良寛の書のエピソードを語り聞かせてくれたのも彼だった。もうひとりは福島の男で、会って飲めば必ずドストエフスキーの話になり、ゴッホの話になり、小林秀雄の話になった。

そしてどちらも若死にした。二人のことは何度かブログに書いたのでここでは繰り返さない(* 1* 5*42)。

小林秀雄がいかに偉大とはいえ、われわれの世代にとっては過去の人だった。ベルクソン論を封印したのち、みずから入るべき墓としての本居宣長論に籠もった時点で、過去の人となっていた。だが、小林秀雄の偉大さは残した作品のなかだけにあるのではない。彼が独力で切り拓いた文学評論の沃野から、じつに多くの批評家、思想家が生まれ育った。吉本隆明、江藤淳、秋山駿、柄谷行人・・・・・・列挙するのはよそう、切りがないから。わたしたちの世代は、思想と評論の時代を生きた最後の世代だろう。

では、おまえにとっての小林秀雄とは何なのか、いちばん最初に挙げるべき作品は何かと問われるならならば、躊躇なく「近代絵画」と答えるだろう。この本(上に挙げた全集の第十一巻)を手にしたときの、喜びというか、驚愕というか、湧き上がる心の高揚は今も忘れることができない。のちにメルロ=ポンティの思索の世界——とりわけセザンヌを論じた「眼と精神」*6——にとっぷりと浸ることになるけれども、その下地はこの「近代絵画」の読書体験によってもたらされたものだ。

モネ、セザンヌ、ゴッホ、ゴーガン、ルノアール、ドガ、ピカソ、扱われた画家は七人、どの論も珠玉の名作であり、小林秀雄の代表作だと信じて疑わない。

この本によって、たんに絵の見方を教わったというだけでなく、ものの考え方、ないしは考えることそのものについて、教わったような気がする。

ところでこの絵画論には序文がついていて、「ボードレール」という章題がつけられている。短いけれども凡百のボードレール論よりもはるかに密度が濃く、大学の文学史で習う無味乾燥なボードレールについての解説など蹴ちらかしてしまうような迫力があった。文学と絵画と音楽をひとつの時代が見せるさまざまな顔のようなものとして論じることで、近代という時代と芸術の本質とを同時に教えてくれるものだった。小林秀雄はわたしの学校だった。ところで、「モネ」と題された章には、こんな分析的な文章がある。

 

要するに色とは壊れた光である。〔・・・・・・〕大洋の波は砂漠や岩に当たって砕け、飛沫をあげているが、もっと大きな太陽の光は地球に衝突して、砕け散り、地球全体を麗しく彩色している。太陽の光は、地上に達する前に無論、空気に衝突するから壊れる。空中に色素も顔料もあるわけではないが、空は澄めば澄ほど深い青になる。丁度、波の大きなうねりは、小さな岩を呑んで進むが、小さな波は小さな岩にも衝突して砕けるように、光のうちでも波長の短い青の波が、空気分子にぶつかって散乱しているからだ。紺碧の海も、水の分子に関する同じ理由から紺碧に見える。日の出や落日が真紅に染まって見えるのも、その場合、太陽光線は、空気の中を、特に、空気分子より粒の大きい塵埃や水蒸気を含む下層の空気の中を長い間通らねばならず、その為に、小さい波の散乱現象が強くなり、割合から言えば大きな波のほうが沢山眼に這入って来ることになるから、太陽は地平線に近づくにつれて、黄から、橙から、赤と染まって行く、という風に普通説明される。

 

長い引用だが、小林秀雄節の特徴が典型的に表れているところなので、注意して読んでほしい。ここには二つの問題が潜んでいる。ひとつは揚げ足取りとも重箱の隅をつつくとも思われかねない、小さな問題——でも、じつは大きな問題だと思っているので——、まずはそれから取り上げる。

光は壊れて色になるのか? 文学的比喩だからいいじゃないか、と言う人もいるだろう。けれど小林秀雄という人は本来そういう曖昧な表現を嫌う人であったはずだ。でも、彼はときどき自分で設けた規矩を踏み外す。

空が「澄めば澄むほど深い青になる」のは「光のうちでも波長の短い青の波が、空気分子にぶつかって散乱しているからだ」というのは科学的説明としてはおかしい。嚙んで砕いて消化しやすいようにした表現としてもおかしい。というのは、この引用した文のなかでさえ、自家撞着しているからだ。一方で、空が青いのは、光の波長のなかの青の波が空気分子に衝突して散乱しているからだと説明しておいて、後半の夕焼けの赤を説明するところでも、「小さい波(=青)の散乱現象が強くなり」、その結果「長い波」(=赤)が眼に這入ってくる割合が大きくなるからだ、と説明している。空が青く見える論拠に基づくならば、後半の理屈は逆にならなければならない。つまり、夕日が赤いのは青の散乱現象が抑えられるからだ、とならなければならない。

そもそも、空気が澄んでいるときに空がよけいに青く見えるのは、光のスペクトルのうち、人間の眼に青と感じられる波長をもつスペクトルが大気層に含まれている塵や水蒸気にあまり邪魔されず、たっぷりと地上まで到達するからだ。空気分子のひとつひとつに衝突して散乱しているわけではない。

わたしは心密かに、小林秀雄がベルクソンについての論考を投げ出したのは、彼の思考のなかにバシュラールのいう「認識論的障害物」が色濃く残っていたためではないかと思っている。あるいは奇妙に啓蒙的に振る舞おうとするとき、彼の舌はもつれると言うべきか。

「色とは壊れた光である」とか「太陽の光は地球に衝突して、砕け散り、地球全体を彩色している」とか書かれているのを読んだときには、文字どおり、ほとんど目が眩みそうになった記憶がある。その一方で、おや?と首をひねった記憶もある。事実、わたしの持っている本の、この引用箇所に出てくる「小さい波の散乱現象が強くなり」のところには、鉛筆の薄い線が引かれている。

久しぶりでこのページを開き、この鉛筆書きを発見したときには、一瞬たじろいだ。変だと思った記憶の証拠がここにあると思ったからだ。

それはともかく、もうひとつの問題に移ろう。こちらのほうが大問題なのだ。

モネは光の画家と呼ばれる。モネは光について近代科学の分析的知識を得たから、あんなすばらしい絵を残せたのだろうか? そんなことはない。小林秀雄自身がこう書いている。

 

芸術は時代の子であるから、印象派の運動も、その時代の光や色に関する分析的な学問の進歩というものに照応しているわけだが、科学が直接に芸術家の眼を開くという様な事はない。

 

では、ある特定の時代における、科学と芸術の照応関係をどう考えればいいのだろうか。次のような箇所は、美しいだけでなく、まことに明晰で、説得力に富む、小林秀雄でなければ書けない一文だと思う。

 

色彩派{コロリスト}が外光派{リュミニスト}に転じたのは、理論によったのではなかった。屋外に溢れる光の美しさが、画家達を招き、アトリエでの仕事を放棄させたからだ。コローからラ・フォンテーヌを除き、ミレーから聖書を剥ぎ取り、もっと直接に風景を掴みたい、光を満身に浴びて、モネの言葉を借りれば鳥が歌う様に仕事をしたい、そういう画家の自然への愛情の新しい形式の目覚めが根本の事だったのである。

 

モネはこの光を画布の上に再現しようとした。たんに外光を浴びて仕事をするだけでなく、絵の具その物にも光を求めた。絵の具は混ぜれば混ぜるほど、彩度も明度も失う。その結果、色価{ヴァルール}も下がる。そこで彼は点描法と格闘することになる。つまり、基本色を直接画布の上に併置することによって、自然の持つ色の光を再現しようとしたのである。けれども「モネは、生涯、この分析的な手法のために苦しんだ」。その理由は、「理論は殆ど役に立たなかったからである」と。けれども、理論が役に立たなかったから、モネは苦しんだ、ということにはならないだろう。そんなことくらい、小林秀雄は先刻ご承知だ。もう少し我慢して、彼の論のあとを追ってみる。

 

芸術の形式が、時代の感覚と応和しなくなると、嘗ては生き生きとしていた形式も、重苦しい因襲と感じられ、芸術家は、これを脱ぎ捨てて、裸になって自然に還りたいという欲望を抱く。印象主義の運動も、画家達の、自然に還れという甲高い叫びだったのであるが、そういう場合、いつも同じことが起こる。自然は人間の鏡である。自然に還ろうという欲望は繰り返されるが、還るのは同じ自然へではない。人工の拘束から自由になって、画家は無私な眼で自然を見たいと考えるが、自然が黙々として映し出すものは、当の絵かきが、自ら無私と信じている心の形にほかならない。

 

ここに小林秀雄独自の弁証法がある。その独自さは「無私」という言葉のなかに込められている。「自然に還れという甲高い叫び」とはロマン主義のことを指している。もっと端的には、ジャン=ジャック・ルソー(1712〜1778)の思想を集約している。大雑把に言うと、ルソーは印象派の画家たちが活躍する一世紀前の人である。フランス革命の思想的背景となった人ではあるけれど、その前の人である。フランス革命は大事件である。だが、大事件に過ぎない。小林秀雄の眼は、もっと本質的な、人間の生活の根本を変える内部の革命が進行していたことを見逃さない。

マルクス(あるいはエンゲルス?)の自然弁証法は「人間が自然を人間化すればするほど、人間は自然化する」という言葉に集約される。

この言葉は、長いこと、わたしにとっては謎だった。今も謎だと言ってもいい。マルクスの著作そのものを読んでも、すっきりしない。けれども今、二十代に読んで感銘受けた「近代絵画」を読み直しているうちに、靄が晴れてくるのを感じる。

今、試みにこの言葉を「人間が自然を人工化すればするほど、人間は自然に還ろうとする」というふうに少し通俗化してみる。十九世紀に端を発した産業革命は、革命と戦争に明け暮れた前世紀を経て、新たな次元に突入したと言われている。産業資本主義の時代から金融資本主義、あるいは高度資本主義への時代への移行とか言われる。情報と交通と経済のグローバリゼーションというような言葉も常識と化した。地球は確実に狭くなった。

道という道はアスファルトに覆われ、われわれの生活と生産活動から排出される二酸化炭素が太陽熱を吸収し、地球全体が温室と化し、北極の氷も南極の氷も溶け出し・・・・・・。

確実に自然の人間化が進み、たくさんの科学者が警鐘を鳴らしている。それを一言でいうなら、「自然に還れ」「自然を取り戻せ」ということになる。

われわれ自身も、ふだんは車に乗って二酸化炭素を振りまき、大量の「燃えないゴミ」「燃やせないゴミ」(大地に還すことのできないゴミ)を出す一方で、毎朝のジョギング、ウォーキングを欠かさず、週末になれば山に登り、川に釣りに出かけ、カメラで写真を撮ったり、絵筆と画布を持って写生したりしているではないか。

なぜわれわれは、わざわざ美術館に行って、美術作品を見ようとするのか。なぜわれわれは、わざわざコンサートホールに出かけて、音楽を鑑賞するのか?

小林秀雄に戻ろう。彼はモネについて、もっと謎めいた言葉を残している。

 

印象派の出現とともに強固な自然は光の中に動揺しはじめた。自然は、画家に模倣を求める自信を失って了った様な様子を見せはじめた。自然は画家のあまり細かく分析的になった不安な視覚を模倣するに至ったのである。画家は、そんな風にして、とどのつまりは、己れを語る様に誘われていく。自然に還ろうとして自己に還っていく。

 

この言葉を解説するのはよそう。解説の任に堪えないというのが本音だけれど、理解することよりも考えることのほうが大切だろうから。ただ確信を持って言えることは、これは逆説でも文学的修辞でもない。小林秀雄という思想家の放った言葉の矢がここで的に当たっているのである。飛躍とはそういうことである。ただ最低限、マルクス自身の言葉をここに置いておこう。

 

自然は人間の非有機的身体である。〔なぜ非有機的かと言えば、〕自然そのものは人間の肉体ではないからである。人間が自然に依存して生きるということは、自然は人間の身体であり、人間は死なないためには、たえずそれと交流しつづけなければならないということである。人間の肉体的・精神的生活が自然と連関しているということは、自然がおのれ自身と連関しているという意味をもつにすぎない。というのも、人間は自然の一部だからである。

(カール・マルクス『経済学・哲学草稿』村岡晋一訳。〔 〕内は翻訳者の補足)

 

(つづく)

*47 矢は的に当たらない(承前)

今日は少し趣向を変えてというか、角度を変えて、ゼノンの矢についての話を続けてみましょう。

たとえば人類はどこまで100メートルを最速で走れるだろうか、という思考実験のようなものをやってみます。現在の100メートル世界記録は2009年の世界選手権でウサイン・ボルトが出した9秒58ですね。この驚異的な世界記録は永遠に破られないのではないかとも言われています。

はたしてそうか。あらゆる記録はいつか破られるとも言います。でも、人間が永遠に何かの記録を更新しつづけることはできません。かりにとてつもない肉体改造が行われたとしても、100メートルを0秒で走るなんてことはできない。走るのが肉体であるかぎり、0秒ということはありえない。光でさえ、約30万km/sという速度を持っているのだから(これは速度というべきなのか、単位というべきなのか、別の問題がありますが)。

では、どこかに人類最速の限界値があるとしたら、オリンピックや世界選手権はいずれ新記録を期待することはできず、ひたすら着順だけを競う競技ということになります。

その場合も、トレーニング方法、食生活や栄養の管理、筋力や睡眠にかんする分析やコントロール方法がどんどん開発、洗練されていくと、選手間の能力の差異はどんどん縮まっていって、記録も限界値のあたりでほとんど横並びになってしまう。そうすると競技者にとっても観戦者にとっても、競い合うおもしろみは徐々に失われていくことになる。

でも、ここで考えてみたいのが、計測方法と計測装置の精度の問題です。

かつて、といってもそんなに昔のことではなく、1960年代くらいまでは——われわれの世代だと10代前半くらいまでは——、速さを競うあらゆる競技は手動計時で行われていました。複数の計測員がストップウォッチを持って時間を計り、たしか平均値を出すのではなく、上と下をカットするのではなかったかと記憶していますが、正しいことは知りません。

いずれにせよ、手動計時では誤差が大きかったので、いつしか——80年代以降?——ほとんどすべての競技会場で電動計時のシステムが導入され、写真判定システムも加わって、可能なかぎり誤差や誤審が排除されるようになった。

細かい話はともかく、手動計時の時代には10分の1秒単位の計測だったように憶えています。それが電動計時、電子計時と移り、今では100分の1秒単位の計測になった。だからボルトの世界記録も9秒58と表示される。近い将来、1000分の1秒計時の時代がくるかもしれないともいわれています。

これほど精密なデジタル化が進んだ今、そんなに難しいことではないように思いますが、それはともかく、走るのは人間の肉体ですから、当然どこかに限界値がある。その限界値に向けて、計測器がどんどん細分化、精密化していくという事態を想像してみてください。

そう、これはゼノンの矢なのです。計測器が分割と分析の精密化をどんどん加速、更新していくと、ついに矢は的に当たらない。つまり、人間の走る速度は限界値に無限に近づいていくが、限界値には達しない。

でも、矢は存在するし、的も存在するし、矢は的に当たる。人間の肉体も存在するし、スタートラインも、ゴールラインも存在するし、人間の肉体はそのラインを通過するし、その限界値も存在する。計測器だけが無限を刻んでいるわけです。

しかし、計測器も機械です。物質から成りたっているわけですから、分割の限界値もある。すなわち無限を刻むということはありえない。

無限を刻んでいるのは、あるいは無限を刻めると錯覚もしくは妄想できるのは人間の頭脳だけだということになります。

ベルクソンは、それ(科学的分析)にノーを突きつけた。直観(intuition)は分割しない、現実(le réel)を、持続(la durée)を生きるものである、空間を飛び越えるものである、飛躍(élan)するものである、それが哲学の領分であると。

今、ガストン・バシュラールの『近似的認識試論』(Essai sur la connaissance approchée)という著作を読み返しています。これは1927年にパリ大学ソルボンヌに提出された学位論文です(翻訳は国文社から昭和57年/1982年に、豊田彰・及川馥・片山洋之介訳で出ています)。

この論文を読み返していると、ベルクソンが生涯、ゼノンの背理と格闘したように、バシュラールはベルクソンの直感と持続という概念(concept)に生涯異を唱え——あるいは補正(rectification)を加え——つづけたようにも思えてきます。

バシュラールによれば、科学的認識とは先行する認識をたえず修正しながら、限りなく精密を極めていく、近似的な過程にほかならない。つまり、真理というターゲットには永遠に到達しない! 彼はこれを「不確実性の哲学」(une philosophie de l’inexact)と呼びます。この inexact は不正確という意味ではありません。「現実」とか「真理」と呼ばれる概念に、一挙に到達するのではなく、ひたすら接近(approcher=アプローチ)していく過程をさしている。

後年(1940)、バシュラールは La Philosophie du non という著作(邦訳『否定の哲学』中村雄二郎・遠山博雄訳、白水社、1978年)をあらわします。この non こそinexact なのです。たえず先行する思想(経験)にnonを突きつけ、「真理」という名の極点、もしくは限界点に接近していくこと。これがバシュラールにとっての「科学」もしくは「科学的認識」だった。

この non は、いわば「理性」(raison)の声です。ところがおもしろいことに、ベルクソンの場合、この 否定の声を発する主体が違う。あるいはその声が発せられる場面が違う。「形而上学的直観」から引用してみます。

 

この〔直観の〕イメージを特徴づけるもの、それはその内部に備わっている否定(négation)の力です。ちなみにここで、ソクラテスの神霊{ダイモン}がどんなふうな働きをしていたかを思い出してみてください。このダイモンは不意に現れて哲学者の意志を抑え、なすべきことを命じるというよりは、行動することを阻止するのです。私にとって直観とは、こと思弁に関するかぎり、現実生活におけるソクラテスのダイモンのような振る舞いをするものに思えます。〔中略〕つまり、直感は禁止するのです。世間一般に受け入れられてきた通念であるとか、明白と思われていた定説であるとか、それまでは科学的なものとして通ってきた主張であるとかを前にして、直観は哲学者の耳もとで「ありえない」(impossible)とささやくのです。

 

バシュラールの考えていることとベルクソンが考えていることは、ほんのわずかしか違わないようにも見えるし、まるで背を向け合っているようにも見える。違うとすれば何が違っているのか。前者はあくまでも理詰めで考え分析し、先行する認識に「補正」を加えることに科学的認識の本質ないしは進歩があると考えるのに対して、後者は直観的に全体をとらえ、理詰めの分析にある種の欺瞞を見出し、対象との合一に究極の認識を見ようとする、そういうことだろうか。

いや、そんな単純なものではないでしょう。バシュラールは『否定の哲学』のなかで、「科学的認識の哲学」とは「開かれた哲学」であり、「未知なるものに働きかけ、先行する認識と矛盾するものを現実の中に見出そうとすることで自らを立てる精神の自覚」であると定義しています。すなわち、哲学と科学が相反するものではなく、互いに補完し合うものでなければならないということなのです。そのうえで彼はこんなふうに言う。

 

とりわけ何よりも、新たな経験が古い経験に対して〈否 non〉を突きつけるということ、それなくしては、自明の理ではあるけれども、新しい経験たりえないという事実を自覚しなければならない。しかし、この否{ノン}はけっして決定的なものではない。みずからの様々な原理を弁証法的に照らし合わし、新たな数々の種類の確かな根拠を立ち上げ、自身の解釈体系を豊かにはするけれども、何もかもそれで説明できる自然な解釈体系に見えるようなものにはいかなる特権も与えない精神にとっては、決定的なものなどありえないから。(『否定の哲学』)

 

ここで言う「経験」(expérience)は、「体験」とも「実験」とも訳せますが、日常的にごく当たり前に使われるこの言葉にこそ、ベルクソンとバシュラールのあいだにある微妙ではあるけれども、決定的な、目も眩むような深淵があるように思えます。

しかし、ここではこの問題について深入りしないことにしましょう。深入りするだけの準備もないし、本題——ゼノンの矢の問題——から遠く逸れていってしまうでしょうから。

最初に、100メートル競走における人間の肉体の限界と計測器(ストップウォッチ、電子時計)の話をしました。

100メートルを10秒で走る場合、100分の1秒差を距離にあらわすと10センチです。この距離を「たった10センチの差」とみるか、「10センチもの差」とみるか、むしろこの受け止め方の差異のなかにこそ、大きな問題が潜んでいると思うのです。

100メートル競走の当事者——選手本人、トレーナー、あるいはスポーツジャーナリスト——にとっては、この10センチの差は相当大きいかもしれない。つい最近(2017年現在)、桐生祥秀くんが日本人スプリンターとして初めて10秒を切り、9秒98の記録を出しました。快挙です。でも、ボルトの9秒58とは、0.4秒もの差がある。距離にして4メートルです。これはもう絶望的な数字かもしれない。世界新記録を狙うとすればの話ですが。

しかし、日常生活においては、1秒以下の時間はほとんど無視できるような時間でしょう。100メートルをふつうに歩いた場合、4メートルの差は感じ取れないでしょう。ましてやセンチメートル単位の差なんか、ふつうの目視では違いがわからない。

でも、トップランナーや一流のアスリートの世界、あるいは超絶技巧の職人芸の世界においては、10分の1秒、10分の1ミリの違いが、とてつもない壁、許しがたい誤差として立ち現れてくる。

こういう微分的な世界をさらに超微分的に分割、あるいは拡大した世界こそが現代科学が見ている風景だということができるでしょう。そう、言うまでもなく、近代科学は顕微鏡、望遠鏡の発明と精緻化を抜きにして考えられない。しかも、ここで重要なことは、顕微鏡が分子構造を、原子の構造を発見したわけではないということです。顕微鏡の向こう側に現れた、われわれ人間の肉眼が知らなかった新たな微視的世界を前にして、新たに世界を書き直す必要に迫られたということなのです。バシュラールが『近似的認識試論』の冒頭で「認識とは再発見するために記述することである」と言い、ピアソンの『科学の文法』からの引用を通じて、「重力の法則とは、遊星の運動を定めている規則をニュートンが発見したということではなく、われわれが遊星の運動と呼ぶ諸印象の継起を簡潔に記述する方法をニュートンが案出したということを指す」と言っているのは、そういうことなのです。

分子の構造とか原子の構造とか呼ばれるものは、物質それ自体の構造であるよりは、人間が案出した関係式(記述)を視覚化したものと言い換えてもいいし、バシュラールは『科学的精神の形成』のなかでは、そもそも関係という抽象的な記述を目に見えるようなモデルに置き換えることを「認識論的障害物」とさえ呼んでいるのです。

けれども、顕微鏡や望遠鏡といった観測装置それ自体が精緻化され、オーダー(目盛り)そのものがどんどん微分化されていくと、分子のモデルも原子のモデルも形を失い、内実を失っていく。つまり、原子核のまわりを電子が周回しているといった「古典的な」図式は意味を失う。原子核は陽子と中性子から成り立つと教えられるそばから、中間子の存在が予言され、次から次へと「究極の粒子」(素粒子)が発見されていくと、われわれはついに「物質」の消滅といった事態に遭遇しているのか、と思えてきます。そこには形のないエネルギーの構造と流動だけしかないのか、と。

でも、同時にわれわれはふつうの生活を営んでいる。目に見える色と形があり、触れば固かったり柔らかかったり、持てば重かったり軽かったり、嗅げば心地よかったり不快だったり、舌に載せれば甘かったり苦かったり、そういう五感の世界に生きている。

そういう五感の立場からすれば、現代物理学の描き出す、非定形(不確定)の素粒子の世界は「ありえない」のです。

またベルクソンの直観の世界に戻ってきました。でも、ベルクソンとバシュラールを単純に同列に比較するのは公平ではない。

ベルクソン(1859〜1941)にポーランド系ユダヤ人を父に、イギリス人を母として、パリのど真ん中、ラマルチーヌ通りで生まれています。1881年に「意識に直接与えられたものについての試論」(『時間と自由』)をソルボンヌ大学に提出し、文学博士号を授与された。

かたやバシュラール(1884〜1962)はシャンパーニュ地方の小さな村で生まれています。地元の中学を出て復習教師(現在の助教師)を務めたのち、パリに出て郵便局に勤め、電信技師の資格を取ろうとするも失敗、第一次大戦に兵役として徴兵される。復員ののち復学して、数学や哲学の学士号を取得し、1927年に「近似的認識試論」をソルボンヌ大学に提出し、博士号を取得したときには40歳を越えていた。

生年を比べても25歳の年齢差があり、最初の学位論文の提出日を比べると半世紀もの開きがあるのです。この間世界は大きく変わった。

1870年、普仏戦争勃発。翌年、モルトケ元帥率いるプロシア軍がフランス軍に勝利。この戦争を題材にポール・ヴァレリーは「ドイツの制覇」(1987年)——のちに「方法的制覇」と改題——を書き、戦争と産業と思考法が劇的に変わったことを指摘します。ニーチェ「悲劇の誕生」発表。

1905年、アインシュタインが「特殊相対性理論」(原題:動いている物体の電気力学)を発表。セザンヌ、最後の大作「水浴図」を未完のまま残して、1906年に死去。

1914年、第一次大戦に勃発。戦闘機、戦車の登場。足かけ5年にわたって、900万以上の兵士が戦死したとされる。バシュラール、1915年に兵役で出兵し、戦争終結まで従軍。

1917年、ロシア革命(10月革命)勃発、ソビエト権力成立。

1933年、ヒトラーにたいする全権委任法の国会承認によるナチス・ドイツの誕生。

1941年、ベルクソン死去。ポール・ヴァレリーは「アンリ・ベルクソンは大哲学者、大文筆家であるとともに、偉大な人間の友であった」と弔意を表した。

この時代はよく「戦争と革命の世紀」と呼ばれますが、このことはよくよく考えてみる必要があります。たんなる過ぎ去った「前世紀」ですますことはできない。われわれは今も、科学技術{テクノロジー}の「暴発」、「大衆の勃興」、民主主義の「暴走」の時代を生きている。

ベルクソンとバシュラールの思想の差異を、個性や個人差に帰することはできないでしょう。かといって時代や世代の違いに帰することもできない。そこには何か、人間という得体の知れない種——自然の一部でありながら、自然から遊離し、自由になろうとする生物種——に起因する謎というのか、矛盾というのか、背理というのか、そういう問題が潜んでいるように思います。

それほどゼノンの矢の問題は深く、永遠の謎めいたところがあるわけですが、せっかくベルクソンの思想を読み解くヒントをバシュラールの思索の方法から探ろうとしたのですから、ここでひとつの解(solution)を——数学にならって——提出しておきましょう。

ゼノンの矢の背理(矛盾)は、古来から二分法と呼ばれるその分析法にあるのではなく、「それゆえ、矢は的に当たらない」(矢は動かない、アキレスは亀に追いつけない)と結論したことにある。分割を際限なく続けているのだから、終わりが永遠に来ないのは当たり前ではないか。だからこの問題は、矢が当たるか当たらないかの問題ではなく、人間にとって「無限」(際限がない)とは何かという問題なのである。以上、証明終わり。

*46 塾で話したこと

われながら奇妙なことを始めたものだと思うが、それはさておき、

先日、塾でこんな話をした。

ゼノンの矢の話である。

この話というか、この詭弁(背理、逆説とも呼ばれるけれど)の話をはじめて聞いたのは、たしか中学生のころだった。

東京の大学に入った四歳年上のいとこが、夏休みに意気揚々として帰郷し、年下のいとこ(わたしと、わたしより一学年上のいとこ)に語り聞かせてくれたのである。どういう流れで、詭弁についての話になったのか、それは憶えていない。たぶん、こんな感じだったのではないかと思う。

「おい、おまえたち、詭弁というなら、こういう話を知っているか。むかし、古代ギリシアにゼノンというソフィストがいた。ソフィストというのは詭弁を操る者という意味だ。もともとは知を愛する者という意味だったらしいが、そのうち空理空論をもてあそぶようになったということだ。で、ゼノンはこういう説を立てた。矢は的に当たらない。どういうことだかわかるか?」

われわれ年下のいとこ同士は目を丸くし、きょとんとして聞いている。年上のいとこが何を言おうとしているのか、まったく見当がつかない。彼は続けた。

「つまり、こういうことだ。矢と的のあいだの距離が10メートルだとする。放たれた矢はまずこの距離の半分にあたる5メートルの点を通り過ぎる。次には残り5メートルの半分にあたる2.5メートルの点を通過する。さらにはその半分の1.25メートルのところを通過する。こうして、さらに半分、さらに半分の距離を通過していくわけだが、どんなに分割してもゼロにはならない。ということは、矢は的に当たらない、ということになる。どうだ?」

一学年上のいとこが叫び出す。

「それヘンだよ。だって現実にはぜったい矢は的に当たるんだからさ。射損じたとしても、どこかには当たるはずだよね」

「だから詭弁というのさ。じゃあ、逆にきくけれども、この論法のどこがおかしいか、説明できるか?」

中学生の目は、こんどは点になった。矢は必ず当たる。けれど届かない。現実と頭のなかが完全に食い違ってしまって、茫然としているのである。

わたしの記憶が定かならば、それは一九六九年のことだった。わたしが中学の三年、一個年上のいとこが高校一年、四つ年上のいとこが大学一年、そして六九年といえば、それはもう唖然とするほどすごい年だった。

今、「戦後昭和史」と題されたウェブページを見ている。

一月十八日、東大に機動隊八五〇〇人導入、安田講堂など占拠の学生と攻防戦。神田駿河台付近で東大闘争支援学生が解放区闘争。十九日、安田講堂封鎖解除。

大学生になったばかりのいとこは、この大学紛争の洗礼を浴びていたのである(東大生ではなかったけれど)。だから、話題は古代ギリシアの話ばかりではなかった。政治の話、文学の話、音楽の話、次から次へと話題が湯水のように湧いてきて、われわれ年下のいとこは、なにか冒険譚でも聞くような、夢物語の世界にでもいるような感じで、うっとりと耳を傾けていたのである。

「戦後昭和史」六九年のページをもう少し追ってみよう。

二月、毎土曜日、新宿西口広場のべ平連の集まりに反戦フォーク演奏会。

四月七日、四三年に東京・京都・函館、名古屋で四人を射殺した永山則夫、東京で逮捕。

六月十日、国民総生産(GNP)、世界第二位に。

七月二十日、アメリカの宇宙船「アポロ11号」、人類初の月面着陸に成功。

十一月十六日、反安保全国実行委・沖縄連共催首相訪米抗議集会、全国一二〇カ所で七十二万人参加。

十一月十七日、佐藤首相訪米。佐藤・ニクソン共同声明で四七年沖縄返還を表明。

そして、翌七〇年十一月二十五日には、三島由紀夫が東京市ヶ谷の自衛隊東部方面総監部に、縦の会のメンバーとともに乱入し、切腹してみずから果てた。

高校一年生になっていたわたしは、学校の帰り道、行きつけの本屋に立ち寄り、発売されたばかりの「毎日グラフ」を手にして、総監室の床の上に置かれた三島の首を見た記憶がある。

世界は東京を中心にして回っていた。

東京に行きたいと思った。ごく自然に。まるで当然のことのように。東京に行くということは東京の大学(どこでもいいから)に行くことを意味した。東京の大学を受験すると言ったら、父から問い返された。なぜ北海道の大学ではだめなのか? 北海道の大学で学ぶことなどないと答えた。なぜか父は納得したようだった。

だったらちゃんと勉強しろよという話だが、ギターをかき鳴らして歌ってみたり、女の子に夢中になって、ラブレターかなんか書きまくったりしていて受かるわけがない。案の定(本人は想定外)、受験に失敗して一年間浪人することになる。

翌年、晴れて東京の大学に合格し、文学部に入学するわけだが、ここから本題に戻る。父にはなぜ北海道の大学ではだめなのかと問い質されたが、今のわたしは、自分に向かって、なぜ文学部を選んだのか、と問うてみたいのである。

そんなに文学が好きだったわけでもないだろう。読書家だったわけでもないじゃないか。なぜ文学部を選んだ? 漠然とはしているが、何かものを書くことが好きだったから。なるほど。で、将来はどうするつもりだったのか? これもまた漠然としているが、新聞記者とか編集者とか、やっぱり文字を書く仕事に関係した職業につければいいと思っていた。

それがいつのまにか翻訳者、翻訳家になっていた?

ま、そういうわけだ。人生不可解とでもいうべきか。

いや、しかし、文字を書く仕事というのなら、翻訳こそひたすら文字を書く仕事ではないか。

たしかに。いや、きみの質問は逸れているぞ。誘導尋問だ。わたしがなるべくして翻訳家になったと誘導している。

いや、質問が逸れているわけではないだろう。こちらの頭が混乱しているのだ。問題を整理しよう。

はじめてゼノンの話を聞いたのは一九六九年だった。そこに話を戻そう。その話題を運んできたのは、当時東京の大学に入ったばかりの、四歳年上のいとこだった。そう、ゼノンの背理は六〇年代の終わりを迎え、混乱と崩壊と絶望と希望の入り混じる東京からやってきた。

そのころ中学生だったわたしは、北海道の片田舎でどんな暮らしをしていたのか。どんなことに関心を持ち、どんなことに若いエネルギーを注ぎこんでいたか。

夏はテニスをしていた。冬はアイスホッケーに明け暮れていた。本は?

ほとんど読まなかった。

当時読んだ本で記憶に残っている本はたった二冊。エドガー・アラン・ポーの「黄金虫」と太宰治の「人間失格」だけ。あまりに対照的。一方は十九世紀のアメリカ文学で、探偵小説の祖と呼ばれる作品。もう一方は、説明する必要もないだろう。

エドガー・アラン・ポーの短編集は、一歳年上のいとこから借りた。夢中になって読んだ。ただただうっとりしていた。「モルグ街の殺人」も「黒猫」も、もちろん強烈な印象を与えたが、一等好きなのは、やっぱり「黄金虫」だった。

暗号解読。それだけで短編小説ができあがっている! こんなに知的な、こんなに優雅な小説がほかにあるだろうか。今もそう思っている。これは世界文学史の奇蹟なのだ。

もう忘れてしまったが、ポーはどこかでこんなことを言っている。小説は二、三十分で読み切ることのできるものがよい、と。つまり、短編小説こそが小説という芸術の醍醐味なのだと。これを読んだときは、もう大学生になっていたと思うが——そう、ポーはずっと好きで、大学に入るとすぐに全集を買ったくらいだ——、その一文に触れて、そうか、シンフォニーもだいたいそのくらいだよな、LPレコード一枚聞くくらいの時間で読み切れるもの、それは人間の頭脳、あるいは感覚の集中が生理的に途切れない時間なのではあるまいか、と思ったことを今も憶えている。(*1)

さて、もう一方の太宰治。これは早熟だった同級生が読んでいるのを見て、刺激されて読んでみたのだ。「人間失格」、そもそもタイトルがおどろおどろしい。読んでみると気味が悪かった。誰もがそう思うらしいが、ここには自分のことが書かれている、自意識の芽生えた思春期真っ盛りの中学生には衝撃的だった。写真のなかの自分、笑みを浮かべているが、手もとを見ると拳を握りしめている。その手は自分のペニスを握る手でもあるだろう。

でも、その勢いで読み漁るというということはしなかった。テニスとアイスホッケーでくたくただった。

それにしてもポーと太宰治じゃ違いすぎるだろう、と思う人が多いかもしれない。べつにそのことに抗弁するつもりもないし、その必要もないだろうが、中学生なんて、そんなものじゃないだろうか。何もかも芽生えたばかり、趣味も思想も好き嫌いもポリシーもない。手当たりしだい。なにもかも偶然にさらされている。

しかし、この「偶然」と呼ばれるものの不思議、奥深さ、この年になると、そのことをしみじみと感じるのである。偶然にさらされているのは思春期だけではあるまい。全人生が偶然にさらされている。偶然はいつも雨のように、あるいは紫外線のように、われわれに降りそそいでいる。

わたしがこの日本列島の、北端に位置する島の、人口十万を超える程度の小都市に、二度目の世界戦争が終わった直後の一九五〇年代の前半に生まれたこと、これは偶然以外の何ものでもない。

だとしたら、必然とは何か。宿命とは何か。あるいは運命とは何か。意志とは何か。

わたしはそういうことを考えてみたいのである。

この塾で、このブログで。

それは哲学ということですか、と問われるなら、その言葉は嫌いだと答えておこう。文学という言葉も嫌いである。学問という言葉も、学校という言葉も好きになれない。

哲学は躓く。学問は躓く。

ゼノンの背理はそれを如実に物語っている。その背理は、じつは人間の、自然にたいする背理ではないのか。その問題をベルクソンは生涯考えつづけた。でも、矢は的に当たらない。人間の言葉で考えるかぎり。

でも、矢は的に当たる。

それが詩だ。少なくとも、喩が矢であるかぎり。それは飛躍する。分割しない。

ポーが長編を書かなかったのは、彼が詩人だったからだろう。言葉の力を飛躍に求めたからだろう。

これを書きながら、さっきから必死で思い出そうとしていることがある。太宰治の短編に数学者ガウスの名前が出てくる作品がある。それがどの短編集に収められていたか、本棚をさがし、太宰の短編集のいくつかをぱらぱらめくってみたのだけれど、肝心のタイトルが思い出せない。(*2)

そのうち、思い出すだろう。

太宰治の短編は高校時代によく読んだ。「富岳百景」が好きである。「走れメロス」が好きである。「駆け込み訴え」が好きである。「御伽草子」が好きである。短編なら、どれもこれも好きである。

二、三十分で読めるもの。

ほら、ポーとのつながりが見えてきた。

これを「必然」と呼ぶか、たんなる好き嫌いと見るか、なかなか奥深い「哲学」的問題なのである。

 

〔追記〕

*1)なにしろ40年以上前に読んだ本の記憶なので、たぶん印象と思い込みだけが残ってしまったのだろう。ポーはもっと違う書き方をしている。

「最初に考えたのは長さのことだった。どんな文学作品でも、長すぎて一気に読みきれないなら、印象の統一ということから結果する極めて重要な効果を、無にすることを余儀なくされる。なぜなら、中休みを要するとなると俗事が介入してきて、およそ作品の総体というようなものは即座にぶち毀しになってしまうからである」(「構成の原理」篠田一士訳)

ポーはあくまでも詩について語っているのである。彼の考えからすると、ミルトンの『失楽園』のような長編詩は、その半分は本質的に散文だということになる。そして、こんなふうに結論づけている。

「かくして明らかなように、すべての文学作品には長さの点で明確な限度、一気に読みきれるという限度があり、また或る種の散文作品、例えば『ロビンソン・クルーソー』のような、統一を必要としない作品では、こうした限界を超えた方が有利かも知れないが、詩作品においては限界を越えることは断じて正しいことではない」(同上)

 

*2)すぐに思い出せないというのは、明らかに加齢(老化)のせいだ。数学者のガウスが登場するのは「愛と美について」という短編である(新潮文庫『新樹の言葉』所収)。あるところに五人のロマンス好きの兄弟姉妹がいて、「退屈したときには、みなで物語の連作をはじめるのが、この家のならわしである」。長男がまず「きょうは、ちょっと風変わりの主人公を出してみたいのだが」と切り出す。次女が、それなら「老人がいいな。」と応じる。「人間のうちで、一ばんロマンチックな種族は老人である」というのがその根拠である。すると末弟が「ぼくはそのおじいさんは、きっと大数学者じゃないか、と思うのです」とアイディアを出したのはいいのだが、「ことし一高の、理科甲類に入学したばかり」なので、物語の展開など考えもせずに、授業で習ったことを滔々と語り出す。

「数学の歴史も振りかえって見れば、いろいろ時代と共に変遷して来たことは確かです。(・・・・・・)十九世紀に移るあたりに、矢張りかかる段階があります。すなわち、この時も急激に変わった時代です。一人の代表者を選ぶならば、例えば Gausse. G、a、u、ssです」

こんなふうにスペルを強調するあたり、ガウスは太宰治のお気に入りの数学者だったのだろう。どこか微笑ましい。太宰治は戦後矢継ぎ早に発表した「人間失格」「斜陽」などの長編小説のせいで、破滅型の私小説作家の典型と思われているかもしれないが、このひとは本質的に天才的短編作家であると思っている。そして、軽妙を装う文体とは裏腹に、古典を読み抜く小説家としての直感と洞察力は、芥川龍之介などより深いというのが、わたしの個人的見解である。

*45 野火

目の前に塚本晋也監督の撮った「野火」のポスターがある。娘がフォトストリームで送ってきてくれたのである。アマゾン・プライムでダウンロードして観たとコメントにある。「わたしにはおもしろかったけど、凄惨なシーンが多い上に話が淡々と進んでいくので人によっては嫌な印象を受けるかも」と続けて書いている。

ポスターには「なぜ大地を血で汚すのか」というコピーが左下に小さな活字で記されている。中央上部には大きな明朝体で「野火」の文字が、その真下に逆光の空を背景にして、銃を肩に掛け両手をわずかに広げた兵士の黒いシルエットが映し出されている。

大岡昇平の原作である。話題になっている。でも、映画のことには触れない。観ていないし、たぶん観ないと思うから。映画から「嫌な印象」を受けることを心配しているのではない。大岡昇平という「大作家」にあまりいい印象を持っていないのである。
『野火』という小説は学生時代に読んだ。読んで「嫌な感じ」がした記憶が今も残っている。

 

私は射った。弾は女の胸にあたったらしい。空色の薄紗の着物に血斑が急に広がり、女は胸に右手をあて、奇妙な回転をして、前に倒れた。
 男が何か喚いた。片手を前に挙げて、のろのろと後ずさりするその姿勢の、ドストエフスキーの描いたリーザとの著しい類似が、さらに私を駆った。また射った。弾は出なかった。(十九・塩)

 

戦争という凄惨な現場でドストエフスキーを連想するのかよ。そう思ったのである。むろんこの『野火』という作品は事実を描いたものではない。

 

私がこれを書いているのは、東京郊外の精神病院の一室である。窓外の中庭の芝生には、軽患者が一団一団とかたまって、弱い秋の陽を浴びている。病者をめぐって、高い赤松が幹と梢を光らせ、これら隔離された者共を見下ろしている。(三十七・狂人日記)

 

つまり、戦争を経て精神病院に収監された狂人の書いている日記が『野火』という作品なのである。大岡昇平という作家は、みずからの戦争体験をも自分の文学的野心の肥やしにしたのか、と血気に逸る青二才のわたしは思ったのである。

ところで、戦争を題材にしたもうひとつの代表作に『俘虜記』と題された作品がある。というより、こちらが復員後最初に書いた作品だが、そこにも似たような場面がある。こちらの作品では、語り手の「私」は、射たない。最初から、射つまい、射つくらいなら射たれて死のうと、この兵士は思っている。そして、その前に無防備な若い米兵が現れる。すると意に反して「私」は思う。「こいつは射てる」と。

 

しかし、彼がむこうの兵士に答え、私がその薔薇色の頬を見たとき、私の中で動いたものがあった。
 それはまず彼の顔のもつ一種の美にたいする感嘆であった。それは白い皮膚と鮮やかな赤の対照、その他われわれの人種にはない要素から成りたつ、平凡ではあるが否定することのできない美の一つの型であって、真珠湾以来私のほとんど見る機会のなかったものであるだけ、その突然の出現には一種の新鮮さがあった。そしてそれは彼が私の正面に進むことを止めた弛緩の瞬間私の心に入り、敵前にある兵士の衝動を中断したようである。

 

こうして、この作品は、射つか射たないか、どうして射つのか、どうして射たないのか、えんえんと心理分析が続く。

違うだろう、と若いわたしは思った。戦争という現場にあって、いまだに上から目線を維持しているこの「知識人」はいったい何者か。

わたしは、戦争はおろか、六〇年安保闘争も、七〇年安保闘争も、全共闘運動も経験していない世代に属する。ただし、そういう政治青年、知識人候補生、そういった若者の末路、そして、傍観者としての上から目線の知識人の姿——ことあらばすぐに逃げ出す——なら、いやというほど見てきた。

ここで開高健がベトナム戦争で直面した、あの有名な場面の描写を読み比べてもらいたい。

 

ふたたびどこからか瞶{みつめ}られているのを感じる。いまはそれがあるだけとなった。生還できるだろうか。にぶい恐怖が喉をしめつける。だらだらと汗をにじみつづけるだけの永い午後と、蟻に貪られぱなしの永い夜から未明へと送ったり迎えたりしているうちに自身との密語に覆われてしまえば汚水にわたしは漬かる。徹底的に正真正銘のものに向けて私は体をたてたい。私は自身に形をあたえたい。私はたたかわない。殺さない。助けない。耕さない。運ばない。扇動しない。策略をたてない。誰の味方もしない。ただ見るだけだ。わなわなふるえ、目を輝かせ、犬のように死ぬ。見ることはその物になることだ。だとすれば私はすでに半ば死んでいるのではないか。(開高健『輝ける闇』)

 

そうだ、ここでは見ているのではない。瞶られているのだ。目は輝いてはいるが、盲いている。その物と同化し、犬のように死ぬ。

開高健はこの一作をもって、「文学」と刺し違えたのだと思う。そのあと、パリを舞台にエロスに溶けていく男女の姿を描く(『夏の闇』)。そして、満を持して「闇三部作」の最後を飾るはずの『花終わる闇』に取りかかるが、中断して未完のままになってしまう。これは小説を書きあぐむ作家の物語だが、ベトナム、パリ、東京と舞台を移して、なぜ挫折したのか。その疑問は、ここではそのままにしておこう。

ところで大岡昇平はもうひとつの「戦記物」を書いている。言うまでもなく『レイテ戦記』だ。これもまたジャンルとしては「小説」の枠に収められているが、この作品はジャンルの枠など易々と超えてしまう。

この大著を前にして、青二才のころに感じたわたしの「嫌な感じ」は消し飛んでしまう。献辞には、

 

死んだ兵士たちに

 

とある。

そして、わたしは『俘虜記』を読み返す。異様な作品であることに、今さらながら感じ入る。彼は俘虜になるまでの、心理の葛藤ではなく、生死の葛藤を書いている。彼は死のうとして死ねなかった。彼は生き延びた。虜囚の辱めを一身に背負いながら。日本という国家と同じように。

彼は芸術院会員への推薦を辞退する。かつて俘虜の身であったということを理由に。この辞退の真の理由を正しく見抜いたのは、批評家秋山駿ただひとりであった。

一兵卒の感情からすると、天皇の存在は有害であると断じた大岡昇平の言葉を、さっきから探しているのだが見当たらない。『レイテ戦記』も見当たらない。あるはずなのに。だから、図書館から借りてきて、この文を書いた。