*35 音楽への憎しみ

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(これは1997年に青土社から上梓したパスカル・キニャールの『音楽への憎しみ』に寄せた訳者あとがきである。思うところがあって、その一部を抜粋してここに掲載することにした)

チェーホフには「大学生」という掌篇がある。かつては国語の教科書に載っていたくらいだから、憶えている人も多いだろう。チェーホフ自身がもっとも気に入っているという作品だ。

神学校の学生イワン・ヴェリカポーリスキーは、やましぎ撃ちの帰り道、ワシリーサという老婆とその娘が菜園を営んでいる農家に久しぶりに立ち寄る。かつてあちらこちらの地主のもとで乳母をつとめていたワシリーサは「見違えちゃって、わかりませんでしたわ」と言う。彼は焚火にあたりながら、ふとペテロの話を思い出す。「こういう寒い晩に、使徒ペテロも焚火で体を暖めていたんだろうね」。大学生が新約聖書のエピソードを語り終えると、ほほえみを浮かべていたワシリーサが、ふいにすすり泣きをはじめ、大粒の涙が両頬を伝ってとめどなく流れ出す。焚火の明りで涙を見られるのを恥じるかのように、彼女は袖で顔を隠す。

大学生はその場を辞する。そして後ろを振り返る。

 

暗闇のなかで焚火がひっそりと瞬いていたが、そのあたりにはすでに人影はなかった。大学生はまた考えた。ワシリーサがあんなふうに涙を流し、娘があんなふうにどぎまぎしたところをみると、それは明らかに、いま自分が話した十九世紀前の出来事が、現代と——この二人の女と、そしてたぶんこのうらさびれた村と、自分自身と、すべての人々と、何らかのつながりを持っているということなのだ。老婆があんなふうに泣いたのは、彼が人の心にふれるような巧みな話術を心得ていたからではなく、ペテロが彼女にとって身近な存在であり、彼女がみずからの全存在で、ペテロの魂のなかで生じた出来事に関心を抱いていたからなのだ。
 ふいに喜びが胸にこみあげ、彼は立ち止まって一息ついた。過去は、と彼は思った、あるものからあるものへ流れ出る因果の鎖によって現在と結びついているのだ。彼はたった今、その鎖の両端をかいまみたような気がした——鎖の一方の端にふれたら、他の端もふるえたと思った。

 

ここでチェーホフは、たんなる「歴史」の連鎖ということだけを言っているわけではない。復活祭を間近に控えたロシアの「うらさびれた村」の寒々しく荒涼とした風景、その美しい描写こそ、この作品の要をなしている。やましぎ撃ちから帰る大学生の指はかじかみ、風で顔がほてっている。そしてふいに寒気が襲ってくる。

 

彼には、この突然の寒さが、もろもろの秩序と調和を破り去り、自然みずからがおぞけだって、そのために夕闇が思いがけぬ早さで濃さを増していくように思えるのだった。あたりは荒涼として、ことさら陰気な感じがした。川のほとりにある後家の菜園に火がともされているだけで、遥か一面、およそ四露里むこうの、村のあるあたりまで、すべてがひんやりとした夕闇に沈んでいた。(亀山郁夫訳、強調引用者)

 

大学生は寒さと夕闇に包まれている。自然そのものが寒がっている。そのために夕暮れは闇を急いでいる。自然がにわかにリズムを速めて、昼と夜とを交替させようとしているそのときに、自然と波長を同じくする内部生命の鼓動も速まる。彼の歩みも速まる。遠くに、かつて乳母だったワシリーサの家の明りと焚火がある。彼女は「見違えちゃって、わかりませんでしたわ」と言う。ワシリーサの優しい穏やかな微笑みと焚火の暖かさを前にして、彼は「前神学生レベル」の、「前イワン・レベル」の混沌に沈む。そしてペテロのエビソードを思い出す。

おそらく、チェーホフの「大学生」ほどキニャールの「ペテロの涙」を解説してくれる文章はないだろう。あるいは次のような文章を続けて読んでもらいたい。

 

君は憶えているか、ティベリスの岸辺で揺れる昆虫のように小さい猟師の網を。八人から十人くらいの、小指よりも小さい猟師たちが、肩から灰色の影を落としながらゆっくりと黄色い川のなかに入ってゆく。さらに遠くでは、まるで銅の手鏡の上のぽんやりとした反映のように雲の垂れこめるオスティアの河口の霧にまぎれ、仲間に遅れた引き網舟がひとつふたつ、迫りくる夕闇のなかを帰ってくる。私の目の前には鵞鳥が列をなして歩いていた。全身が黄色で赤い縁取りのある鵞鳥だ。ティベリスと冥府のアケロンはひとつの川だったのかもしれないし、どの川も女の子宮にたくわえられている羊水に似ているのかもしれないし、あるいはまた、われわれの身体はこの岸辺に輝く光や足もとからのびる影に包まれているが、それとは別の岸辺もあるのではなかろうか。なにもかもが赤い。川の浮き橋の手すりに乗せた私の手も夕日に染まって赤い。たぶん私の顔も赤いだろう。だが、なにひとつ私の顔を見ているものはない。(パスカル・キニャール「理性」)

 

これは、ローマを追放されてスペインの故郷グアダルキビル川のほとりに連れ戻されたポルキウス・ラトロが大セネカにローマの思い出を語る場面だ。もちろんラトロの口を借りて、キニャールが語っているのだ。まるでクロード・ロランの絵をみているような光景だ。ラトロの全身が夕日に染まっている。彼の顔面が熱くほてる。誰かが自分を見ているような気がする。「だが、なにひとつ私の顔を見ているものはない」。夕日が彼を見ているのではないか。いや、夕日は彼を見ているのではない、彼を包んでいるのだ。背後からも夕日は彼を見ている。包まれるとはそういうことだ。感動とノスタルジーが彼を包む。記憶がぶりかえす。ローマの思い出、幼年期の思い出、あるいは子宮内の思い出。彼はそこで時間が停止しているのを感じているのか、それとも逆流しているのを感じているのか。

もっと素朴に問う。なぜわたしたちは夕日を見て美しいと感じるのか。そして、その美しさを表現しようとした言葉を読んで、なぜ美しいと感じるのか。美しい文章が意味からできるだけ離れようとするのはどうしてなのか。美を求める言語の動きは、言語の奥へ奥へと遡行して、ついに意味から逸れる。夕日の美しさを書いた文章に意味などない。それはただ美しいだけだ。そもそも美しいと感じる心の働きはなんなのか。なぜ犬は夕日を見て吠えるのか。なぜ鶏は夜明けに鳴くのか。

キニャールは言う。

 

わたしにはあなたの言っていることがわからない。が、夜は明ける。わたしには言語が何を明らかにするのかわからない、が、雄鶏はぞっとするようなしわがれ声を二度繰り返し、日の到来を証す。自然は雄鶏のすがたで夜明けを吠える。(第一考 ペテロの涙)

 

「自然は雄鶏のすがたで夜明けを吠える」。鶏は夜明けに向かって鳴いているのではない。犬は夕日に向かって吠えているのではない。ラトロは夕焼けに包まれて、「たぶん私の顔も赤いだろう。だが、なにひとつ私の顔を見ているものはない」とつぶやく。イワンは「自然みずからがおぞけだって、そのために夕闇が思いがけぬ早さで濃さを増していく」と感じる。ペテロは明け染める庭のすみで、さめざめと泣く。

それが音楽だ。キニャールは言う。

 

お気に入りの音楽にはどれも、音楽そのものに付加された古い音がいくらかまじっている。ギリシア語本来の意味でのムーシケが音楽そのものに付加されているのだ。いわば「付加された音楽」、大地をえぐり、やがて、わたしたちの苦しみのもとである叫びをめざすもの、だが、その叫びは名付けようもないばかりか、その出所を見たことさえない。目に見えない音、永遠に視覚とは無縁で、わたしたちの内部でさまよっている音。まだわたしたちの目が見えないころ。呼吸もできないころ。叫ぶこともできないころ。だが、耳は聞こえていた。(第一考 ペテロの涙)

 

ペテロの涙、それはヨーロッパの涙だとわたしには思える。

ベテロはかつてシモンと呼ばれるベッサイダの漁夫だった。ペテロと命名し、「人を漁{すなど}る」漁師にしてしまったのはイエスだ。一介の田舎の漁師がカトリックの「礎」となる。ペテロは孤独だ。彼はイエスに従うことを決心した瞬間に、自分の名前を捨て、故郷を捨て、故郷の音を捨てた。イエスは孤独の極限を生きている。ユダヤ教団の制度から外れ、律法学者たちの欺瞞を攻撃するばかりでなく、その父と母に対してさえ「わたしはあなたたちを知らない」と否認し、「預言者は故郷では容れられない」とうそぶき、十字架の上の死に向かってひた走る。ペテロは大祭司アンナスの中庭でイエスを否認する以前にも、幾度となく迷い逡巡し、ついていけないと心密かに思ったにちがいない。しかし、その思いをイエスにはもちろんのこと、彼の仲間にも打ち明けることはなかっただろう。その孤独が大祭司アンナスの庭で突如として崩れる。庭の真ん中で車座になって火を囲んでいる、いかにも分け隔てのなさそうな人の輪に自分も加わり、暖をとろうとするが、おまえはわれわれの仲間ではない、あのガリラヤびとの仲間だと拒否される。イエスを裏切ると同時にあらゆる人の群れから追放されたペテロは、その孤独の極限で自然の咆哮を耳にし、それに包まれることによって、もっとも深いノスタルジーの波に襲われて難破する。福音書は「苦い涙」と書くが、わたしたちにはそもそも涙の種類を区別することができない。

モーセはピッチとアスファルトを塗った籠に入れられてナイルに流された捨子だった。そしてファラオの娘に拾われる。奴隷監督の横暴に腹を立てて殺し、シナイ山の麓に逃げる。そこでエテロという祭司の養子になる。彼はシナイ山に吹き荒れる風の音を聞く。それが神の声だった。そこで彼は神と「契約」する。土着の神であれば契約などいらない。なぜならその神は母であり、父であったろうから。

ヨーロッパはかつてケルトの民が住むところだった。ローマがそこを襲う。ガリアの首領ウェルキンゲトリクスはカエサルに破れ、ローマで処刑される。やがてローマは疲れる。そのローマをゴート諸族が、ゲルマン諸族が襲う。ケルトの民もゲルマンの民も文字を知らなかった。彼らはやがて自分たちの神話と聖書物語を融合させて、ヨーロッパの民となっていく。

わたしはときどき、ヨーロッパ人にとって古代地中海世界は目の上のたんこぶではないかと思うことがある。ヘレニズムとヘブライズム。ギリシア人とユダヤ人。いつまでたってもそれを越えることができないというコンプレックス。彼らは文化の起源としての古代地中海世界と彼らの存在の根源としてのケルト・ゲルマン世界にいつも切り裂かれている。音楽{ノスタルジー}はその亀裂から溢れだす。

ペテロの涙、それはアジアの涙であり、日本の涙であるようにも思える。

ナチズムあるいはファシズム、それは遠い歴史の怨念であるように思える。

パスカル・キニャールはそれを書く。歴史の夜を書く。

 

*22 川田絢音詩集

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(青土社1986年初版)

この人の詩集が思潮社の〈現代詩文庫〉に入ったことはけっこう前から知っていた(と思う)。

気になる詩人のひとりで、少なくとも『朝のカフェ』という詩集は新刊で買った。奥付には1986年発行(青土社)とある。

80年代の終わりころまでは、よく詩集を買っていた。目立つところでは『ウンガレッティ全詩集』(河島英昭訳、筑摩書房、1988年)、『カヴァフィス全詩集』(中井久夫訳、みすず書房、1988年)、二つとも本棚の特権的なところで眠っている。

人と待ち合わせるのに、神田神保町の東京堂で時間を潰していたら、〈現代詩文庫〉版の川田絢音詩集が目に飛び込んできて、迷わず買った。

こういう気分になるときとならないときがある。こういう気分になるときは、たぶん何かがよい方に向かっているときだと勝手に思っている。

この十年は、あまりに人が死にすぎた。

詩集は忌むべきもののひとつだった。

川田絢音の詩集を読んでいて、不思議に思うことがでてきた。

私はなぜ、この詩人がイタリアに住んでいることを知っているのか?

私が所有している唯一の詩集『朝のカフェ』には、そんな情報はいっさい記されていない。

詩集は忌むべきもの、とはいえ、本屋に行っても詩集の棚には近づかなかったというわけではないから、今は机の上に置いてある思潮社〈現代詩文庫〉の『川田絢音詩集』(1994年初刷)をどこかの本屋で立ち読みしてそれを知り、買わずに棚に戻したのだろうか?

いや、そのずっと前から、そのことを知っていたような気がする。
『朝のカフェ』をどうして買う気になったのか? 彼女がイタリアに住んでいることを知ったから? でも、この詩集にはそれを証拠立てる記述はない。詩のなかにイタリアの地名くらいは出てくるが、そんなもの、作者がそこに住んでいる証拠にはならない。

それは、ま、いいか。

ウンガレッティ、カヴァフィス、川田絢音には共通していることがある。南欧の光と影。

そして、今になってはたと気づかされるのだ。これらの詩人の詩のなかに、きっと自分はアルジェで初めて体験した地中海の光と影を無意識のうちに(便利な言葉だ)追い求めていたのだろうと。僕が二度目のアルジェリア滞在から帰ってきたのは、1984年のことだから。

東京堂で川田絢音の詩集を買ったのは——確定申告のために取ってあるレシートによれば——(2010年)6月7日の14:09pm。そして、青山ブックセンターで須賀敦子の『イタリアの詩人たち』を買ったのは、同日18:34pm(お、なんだか松本清張みたいになってきたぞ)。東京堂で時間を潰している時点では、その日のうちに青山ブックセンターにまで足を伸ばすつもりはなかったのだ。

久しぶりに川田絢音の詩を読んで、唖然としている。

須賀敦子の紡ぎ出す、20世紀イタリア詩の世界となんと共通していることか。

当たり前だと人は言うか?

イタリアに住んでいるからといって、イタリア人みたいな詩が書けると言うのか?

須賀敦子は言う。

 

おおよそ死ほど、イタリアの芸術で重要な位置を占めるテーマは他にないだろう。この土地において、死は、単なる観念的な生の終点でもなければ、痩せ細った生の衰弱などではさらにない。生の歓喜に満ち溢れれば溢れるほど、イタリア人は、自分たちの足につけられた重い枷——死——を深く意識する。(『イタリアの詩人たち』)

川田絢音はこう記す。

 

青い空が素速いので

鏡ににじむ生あたたかい血を舐めなければならない。(詩集『空の時間』)

 

だが、これはあくまでもイタリアへ旅立つ前の詩の断片だ。

イタリアへ行くとどうなるか?

 

隣に住む老人の咳がきこえる
 男は眠っていて
 外を 重いトラックが何台も通る
 夜明け前に
 男が工場へ行く
 オートバイの音が消えて
 わたしは街の方へ歩いていく
 ピサ通りは くらい
 じぶんのような塊りがころがっているのではないか
 と 振りかえる。(「ピサ通り」(詩集『ピサ通り』1976年)

 

観念的な青空は姿を消す。だが、しっかりとした距離感のある——地に足をつけた——夜の街が息づいている。これはもうパヴェーゼだ。カミュの『異邦人』のにおいだってする。

ウンベルト・サバの一節を引いてみようか。

 

一日で、いちばんいいのは

宵の時間じゃないか? いいのに

それほどは愛されてない時間。聖なる

休息の、ほんの少し前に来る時間だ。

仕事はまだ熱気にあふれ、

通りには人の波がうなっている。

四角い家並みのうえには、

うっすらと月が、穏やかな

空に、やっと見えるか、見えないか。(「われわれの時間」——『ウンベルト・サバ詩集』須賀敦子訳、みすず書房、 1998年)

 

連想を急ぎすぎているかもしれない。

でも、たしかなことは、川田絢音がイタリアに旅立ったのは1969年のこと、須賀敦子がイタリアから日本に帰ってきたのは、1971年だということ。

この二人の詩人——須賀敦子を詩人と呼んでなんの不都合があるか——はなんという時代の裂け目にすれ違っていることだろう。

川田絢音はいまもイタリアに住んでいるのだろうか。彼女は1940年生まれ(旧満州のチチハル)だから、もう70歳を迎えるか、なっているかだ。でも、『朝のカフェ』の帯の小さな写真でも、現代詩文庫の裏表紙の写真でも、彼女は永遠に少女のままだ。

作家にとって、作品のなかで成熟したり老いたりするということはどういうことなのか、ふと考えてみたりした。

(2010年6月14日に公開した文章に少し手を入れた)

*21 資本論

東京では午前中は自宅で仕事をし、午後からはファミレスで本読みをして、夕方に帰ってくるという習慣が根付いていた。
『365日のベッドタイムストーリー』という本が十万部を突破してくれたので、仕事に余裕が出てきた。ふつうは午後にファミレスに行っても仕事がらみの本を読むことが多かったのだが、この機会だから、時間を忘れて没頭できるような本、読むのに時間がかかる本を読んでみようと、途中まで読んで本棚でそのまま眠っていた『資本論』に挑戦してみることにした。

学生時代に戻ったような感じで、毎日うきうきとファミレスに出かけていった。ものを考えさせてくれる本というのは、気分がいい。小説を読むよりおもしろい。そこに自分の地金があるような、ある新鮮な自己発見があった。

それが遅すぎるかどうかは別にして、『資本論』はとにかくおもしろい。けれども、マルクス先生みずから「なにごとも最初がむずかしい」と言っているように、第一章の商品分析の部分がとりわけむずかしい。

それでもなんとか、この本を読み解くための「へそ」のようなものは見つけた。すべてのすぐれた書物がそうであるように、それは第一行目にある。

 

資本制生産様式が君臨する社会では、社会の富は「巨大な商品の集合体」の姿をとって現われ、ひとつひとつの商品はその富の要素形態として現われる。したがってわれわれの研究は商品の分析からはじまる。」(資本論第1巻、筑摩書房「マルクス・コレクション」)

 

この文の発端はすでに『経済学批判』の冒頭に記されている。

 

一見するところブルジョワ的富は、ひとつの巨大な商品集積としてあらわれ、個々の商品はその富の原基的定在としてあらわれる。しかもおのおのの商品は、使用価値と交換価値という二重の視点のもとに自己をあらわしている。」(岩波文庫『経済学批判』)

 

マルクスは、一個の商品が「使用価値」と「交換価値」という二重の要素の組み合わせによって、プラスとマイナスのイオンの結合形態のようなものとして成り立っていることを発見した。

その発見の根はアリストテレスにある。

 

なぜなら、どの物にも二通りの用途があるからである。ひとつは物としての物に固有の用途であり、もうひとつはそうではない。たとえばサンダルは履物として役立ち、同時に交換可能でもある。どちらもサンダルの使用価値である。なぜなら、自分にはないもの、たとえば食物とひきかえにサンダルを交換する人は、自分自身でもサンダルをサンダルとして使用するからである。しかしそれ〔交換〕はサンダルの自然な使い方ではない。なぜならサンダルは交換のために存在するのではないからである」(アリストテレス『政治学』第一巻、第九章——前掲「マルクス・コレクション」から引用)

 

アリストテレスは「〔交換は〕サンダルの自然な使い方ではない。なぜならサンダルは交換のために存在するのではないからである」という。

これを人間に当てはめたらどうなるか。

どの人にも二通りの価値がある。ひとつは人としての人に固有の価値であり、もうひとつはそうではない。他の誰とも交換可能な労働力としての価値である。しかしそれは人の自然な使い方ではない。なぜなら人は交換のために存在するのではないからである・・・・・・。
『資本論』を読んでいると、ホモサピエンスという種の特徴は、意識だとか、言語だとかにあるのではなく——それなら他の動物にも意識や言語はあるだろう——、交換を目的とした「商品」にあるのではないか、とさえ思えてくる。

人間社会の富の要素である「商品」は、社会を循環・流通する品物であるだけでなく、その内部にすでに社会を宿している。人間の今に至るまでの時間が宿っている。あたかも原子の構造のなかに宇宙の構造が宿っているかのように。

そのことが見えてくると、めまいのようなものを覚える。
『資本論』に夢中になったことと、今回自分の生まれた場所に帰ろうと決断したことのあいだには関係があるのか、ないのか。そのことはこれから少しずつ見えてくるのだろう。いずれまた『資本論』を読み直すこともあるだろう。そのときにどんな感想を持つか、自分でも楽しみにしている。

(2009年5月に書いた旧ブログの記事を改稿)

*5 記号の森の伝説歌(2012年3月17日のブログ)

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昨日の夜、というか、昨日の未明というか(3月17日付の朝日新聞朝刊によると「16日午前2時13分」)、吉本隆明が死んだ。

昨日は夜遅くまで飲み屋で飲んでいたので、店のテレビで知った。

テレビで堂々と報道され、全国紙の一面でその死が報じられる「思想家」はこの人で最後だろう。

明治という時代もすごかったが、昭和という時代もすごかった。吉本隆明は昭和そのものだったと思う。

たしか大正13年の生まれのはず。うちのおやじは大正14年生まれで、平成11年(1999年)に死んだ。享年73歳だった。

僕にとって、吉本隆明はあくまでも書物の人だから、死んでも死んでない。本を読めば生きているのと同じだ。

でも、昨日の夜テレビの深夜ニュースで訃報に触れたときも、今朝、朝刊で訃報を読んだときも悲しかった。知人でも、親戚でも、友人でもないのに。

たぶん、近藤渉のことを思い出すからだろう。大学時代、僕にもっとも影響を与えた男だ。最後の論文は、吉本隆明の個人誌「試行」に掲載された。それが遺稿になった。手元にバックナンバーがないから、「試行」の何号だったか、論文のタイトルがどうだったか、思い出せない。ただ、坂本龍馬の「船中八策」からボードレール、ランボーまで同列に論ずる超ロマン主義的論文だったことだけは憶えている。

血の持病(いわゆる血友病だと思う)をかかえていたから寿命だったのだろう。

アルジェリアから帰ってきたばかりのころ、比喩でもなんでもなく、あっちの太陽と海の青さに目が眩んだ後遺症で、彼が住んでいた早稲田のアパートで大激論をかわしたことが苦い思い出になっている。意見が食い違ったというのではなかった。大学院なんかに進んで何を勉強してんだ、このやろう、って感じだったと思う。

二人の子を残して死んだ。奥さんの文子さんがひとりで育てることになった。でも、いろんな心因が重なったのだろう。近藤の実家があった大阪の家に引き取られる形になったのだけれど、文子さんもあとを追うように死んでしまった。

二人の仲人だった早稲田の窪田般彌先生は「脳の病気」と言っていた。精神病ではない。脳が萎縮する病気と言っていたから、アルツハイマーの一種だったのかもしれない。

近藤が死んで、まだ文子さんが二人の息子と一緒に早稲田のアパートで暮らしていたころのこと。何度か、線香をつけに行った。

吉本隆明の最新(結果的には最後の)詩集『記号の森の伝説歌』(角川書店、昭和61年12月刊)が出たばかりだったので、文子さんにそのことを話した。次に訪れたときは、仏壇に詩集が載っていた。

文子さんも一生懸命だった。本人は現代詩なんか読む人ではなかったのに。

窪田先生は「人形さんのようにきれいな人だったな」と何度も言った。たしかに、とてつもなく肌の白い人だった。目も大きかった。きれいでチャーミングで色っぽかった。

詩集の内容よりも、近藤の死と文子さんの死ばかりを思い出す。

コンピュータの日本語変換は皮肉だ。〈し〉と入力して、変換すると「詩」になったり「死」になったりする。

吉本隆明が死んで、なぜか東京が呼んでいると感じる。

*1 メシアン(2012年5月24日のブログ)

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あまりにも間があきました。2ヵ月以上。
吉本隆明の死と、わが友近藤渉の死のことを書いて、それっきり。

それっきりになってもいいかと思っていた。どうせ6月末になれば、このアップル提供のmobile.meというブログの軒下(?)もなくなるし、ちょうどいい潮時かと・・・。

ブログを書きつづけることで何かが開けるかと思っていたけれど、書いているうちにまるで墓を掘っているような気になってきた。それは本意ではないというか、本意がどこにあるのか、当人にもわからなくなってきたというか・・・。

そして、メシアン。

没後20年ということで、フランスでも日本でもCDの全集なんかが出たりして盛り上がっているようです。

でも、そんなこと、どうでもいいことだ。

どこから書けばいいのか。
Pascal Quignard ou la littérature démenbrée par les musesとう本があります。(訳せば、パスカル・キニャール、ミューズたちに引き裂かれた文学)

2010年にソルボンヌで開かれた学会のような、キニャールと親しい画家や音楽家が集まって、対談やらコンサートを催した記録のような本。対談の記録やら、短い論文やらが集められています。DVDも付録についています。

このなかに、エマニュエル・レヴィナスの息子ミシャエルとキニャールの対談が入っている。ミシャエルは音楽家で、エマニュエル・レヴィナスはキニャールの大学時代の恩師。

こんな事実を説明しているのも煩わしいくらいだ。

この対談で、僕は初めて、キニャールが、現代音楽の泰斗というのか、先駆者というのか、オリヴィエ・メシアンに深く傾倒しているということ—— 深い親近感を抱いているといったほうがいいのもしれないが、適切な言葉が浮かばない——を知った。

手もとに一枚のレコードがある。
オリヴィエ・メシアン作曲「世の終わりのための四重奏曲」
1975年メイド・イン・ジャパン。メシアン自身がピアノを弾いている。

1941年、33歳のときに収容所で書いた曲。

このレコードは僕が買ったものではない。

大学時代の友人、宮下昭が持っていたレコードだ。

遺品のなかから、このレコードを選んだのは僕だ。

彼のぼろアパートで(たしか、国分寺だったか)、二人いっしょにこの曲を聴いた記憶はある。

でも、彼が死んで、このレコードの所有者となった僕が、これをターンテーブルに乗せたことは一度もない。

二度と聴かないために、遺品として選んだレコードというべきか。

YouTubeでメシアンの曲を聴いている。

黙示録とはこういうことか、と思う。

ヨーヨーマの演奏が胸を打つ。

チェロはもっとも人間の声に近い楽器という。

キニャールもチェロを弾く。

父方はオルガニストの家系。

メシアンもオルガニスト。

オルガンの即興曲を聴いた。

凄まじい。

バッハのマタイ受難曲よりすごいと思ったりする。

来年はキニャールを招聘して、学会のようなものが東京で開かれる。
キニャール本人は「学会」のような堅苦しいのはいやだと言っているらしいけれど。

僕も呼ばれている。

たぶん、世界でもっともキニャール作品を翻訳したから。

結局は回帰していくのだと思う。

最初の場面に。

そこから逃れようとした、その場面に。

また墓を掘るような文章になってしまった。

しばらくお休みします。

このブログにずっとお付き合いいただいた少数の読者のみなさん、ほんとうにありがとう。

スタンダールみたいに、Happy fewと言えないのが残念ですが、きっとまた別なかたちで、お会いすることになるでしょう。
そのときまで、さようなら。
(6月末には、このブログのページは消滅します)