*48 小林秀雄とベルクソン

塾生のみなさんに、次回(1月9日)は小林秀雄とベルクソンの話をしようかと思ってますなどと予告したのはいいけれど、さて困った。何をどう話せばいいのか、どこから話せばいいのか、見当がつかない。

十年ほど前に——正確には平成十七年(二〇〇五年)——新潮社の新装版全集に「感想」と題された長編エッセイが収められたので、勇んで買い込み読んだときの記憶から書こうかと思って、ここ数日読み返しているのだが、どんどん泥沼にはまっていくような重苦しい気分が鬱積していく。

そもそもこのエッセイ自体、文字どおり伝説と化した作品なのである。手許にある本の帯には「雑誌連載五年を経て中断、ついに刊行も禁じたベルクソン論・・・・・・」とある。

雑誌とは『新潮』のこと、連載開始は昭和三十三年の五月、中断は三十八年の六月、その後著者は連載を再開することもなく、単行本として刊行することもなかっただけでなく、死後出版も禁じた曰く付きの書物なのである。それが禁を破って(?)日の目を見た。だから「勇んで」買い込んだわけである。

わたしが大学に入ったのは昭和四十八年のこと、小林秀雄が連載を中断してから、すでに十年の歳月が流れていた。そのころはまだ、文学部の学生といえば、同人誌を出したり、読書会を開いたりすることが特別なことでも、珍しいことでもなかった時代である。

そんな文学サークルのなかに、『新潮』に連載された小林秀雄のベルクソン論を全部コピーして(当時コピーは高かった!)回し読みしているところがあるという噂が流れてきたりもした。サークル間でけっこうお互いを意識したり、ライバル心を抱いていたりしたのである。

わたしは偏屈なところがあって、著者が失敗作だと思って刊行を禁じたものを、わざわざコピーして回し読みするなんて、おぞましいというか、卑しいというか、そういうサークルには惹かれるよりも反発を感じていた。しかも、有名な批評家を招いて、ご意見拝聴と来た日には、なんだか志が低いと思ったりもした。

それはともかく、当時の学生にとって小林秀雄は仰ぎ見る巨星のようなものだった。批評の神様とも呼ばれた。文芸評論の新たな世界を切り拓き、これを独立した文学ジャンルとして確立したという評価もあった。一介の文芸評論家が哲学を論ずるなんてこと自体が前代未聞だっただけでなく、書きつづけられなくなれば、みずからこれを失敗と断じ、封印してしまう。骨董屋で買った良寛の「地震後作」と題された書を得意げに自宅の床の間にかけていたら、専門家の吉野秀雄に越後地震の後の良寛はこんな字は書かないと言われて、その場にあった一文字助光で一刀両断にしてしまう。あるいは中原中也の恋人だった長谷川泰子を奪ったあげくに、これを捨てて奈良に逃亡するという若き日のエピソード・・・・・・。田舎からぽっと出てきたばかりの世間知らずの若い文学青年は、ただもう唖然とするか、あこがれるか、尊敬するか、あるいは敬して遠ざけるかしかなかった。当時のことを思い出すと、顔が赤らんでくる。

それだけでなかった。学生時代に深い親交を持った友人が二人いたが、そのどちらも小林秀雄に深く傾倒していたのである。

ひとりは大阪の男で、今わたしの書棚にある古い新潮社版全集は、彼のアパートで初めて見た。良寛の書のエピソードを語り聞かせてくれたのも彼だった。もうひとりは福島の男で、会って飲めば必ずドストエフスキーの話になり、ゴッホの話になり、小林秀雄の話になった。

そしてどちらも若死にした。二人のことは何度かブログに書いたのでここでは繰り返さない(* 1* 5*42)。

小林秀雄がいかに偉大とはいえ、われわれの世代にとっては過去の人だった。ベルクソン論を封印したのち、みずから入るべき墓としての本居宣長論に籠もった時点で、過去の人となっていた。だが、小林秀雄の偉大さは残した作品のなかだけにあるのではない。彼が独力で切り拓いた文学評論の沃野から、じつに多くの批評家、思想家が生まれ育った。吉本隆明、江藤淳、秋山駿、柄谷行人・・・・・・列挙するのはよそう、切りがないから。わたしたちの世代は、思想と評論の時代を生きた最後の世代だろう。

では、おまえにとっての小林秀雄とは何なのか、いちばん最初に挙げるべき作品は何かと問われるならならば、躊躇なく「近代絵画」と答えるだろう。この本(上に挙げた全集の第十一巻)を手にしたときの、喜びというか、驚愕というか、湧き上がる心の高揚は今も忘れることができない。のちにメルロ=ポンティの思索の世界——とりわけセザンヌを論じた「眼と精神」*6——にとっぷりと浸ることになるけれども、その下地はこの「近代絵画」の読書体験によってもたらされたものだ。

モネ、セザンヌ、ゴッホ、ゴーガン、ルノアール、ドガ、ピカソ、扱われた画家は七人、どの論も珠玉の名作であり、小林秀雄の代表作だと信じて疑わない。

この本によって、たんに絵の見方を教わったというだけでなく、ものの考え方、ないしは考えることそのものについて、教わったような気がする。

ところでこの絵画論には序文がついていて、「ボードレール」という章題がつけられている。短いけれども凡百のボードレール論よりもはるかに密度が濃く、大学の文学史で習う無味乾燥なボードレールについての解説など蹴ちらかしてしまうような迫力があった。文学と絵画と音楽をひとつの時代が見せるさまざまな顔のようなものとして論じることで、近代という時代と芸術の本質とを同時に教えてくれるものだった。小林秀雄はわたしの学校だった。ところで、「モネ」と題された章には、こんな分析的な文章がある。

 

要するに色とは壊れた光である。〔・・・・・・〕大洋の波は砂漠や岩に当たって砕け、飛沫をあげているが、もっと大きな太陽の光は地球に衝突して、砕け散り、地球全体を麗しく彩色している。太陽の光は、地上に達する前に無論、空気に衝突するから壊れる。空中に色素も顔料もあるわけではないが、空は澄めば澄ほど深い青になる。丁度、波の大きなうねりは、小さな岩を呑んで進むが、小さな波は小さな岩にも衝突して砕けるように、光のうちでも波長の短い青の波が、空気分子にぶつかって散乱しているからだ。紺碧の海も、水の分子に関する同じ理由から紺碧に見える。日の出や落日が真紅に染まって見えるのも、その場合、太陽光線は、空気の中を、特に、空気分子より粒の大きい塵埃や水蒸気を含む下層の空気の中を長い間通らねばならず、その為に、小さい波の散乱現象が強くなり、割合から言えば大きな波のほうが沢山眼に這入って来ることになるから、太陽は地平線に近づくにつれて、黄から、橙から、赤と染まって行く、という風に普通説明される。

 

長い引用だが、小林秀雄節の特徴が典型的に表れているところなので、注意して読んでほしい。ここには二つの問題が潜んでいる。ひとつは揚げ足取りとも重箱の隅をつつくとも思われかねない、小さな問題——でも、じつは大きな問題だと思っているので——、まずはそれから取り上げる。

光は壊れて色になるのか? 文学的比喩だからいいじゃないか、と言う人もいるだろう。けれど小林秀雄という人は本来そういう曖昧な表現を嫌う人であったはずだ。でも、彼はときどき自分で設けた規矩を踏み外す。

空が「澄めば澄むほど深い青になる」のは「光のうちでも波長の短い青の波が、空気分子にぶつかって散乱しているからだ」というのは科学的説明としてはおかしい。嚙んで砕いて消化しやすいようにした表現としてもおかしい。というのは、この引用した文のなかでさえ、自家撞着しているからだ。一方で、空が青いのは、光の波長のなかの青の波が空気分子に衝突して散乱しているからだと説明しておいて、後半の夕焼けの赤を説明するところでも、「小さい波(=青)の散乱現象が強くなり」、その結果「長い波」(=赤)が眼に這入ってくる割合が大きくなるからだ、と説明している。空が青く見える論拠に基づくならば、後半の理屈は逆にならなければならない。つまり、夕日が赤いのは青の散乱現象が抑えられるからだ、とならなければならない。

そもそも、空気が澄んでいるときに空がよけいに青く見えるのは、光のスペクトルのうち、人間の眼に青と感じられる波長をもつスペクトルが大気層に含まれている塵や水蒸気にあまり邪魔されず、たっぷりと地上まで到達するからだ。空気分子のひとつひとつに衝突して散乱しているわけではない。

わたしは心密かに、小林秀雄がベルクソンについての論考を投げ出したのは、彼の思考のなかにバシュラールのいう「認識論的障害物」が色濃く残っていたためではないかと思っている。あるいは奇妙に啓蒙的に振る舞おうとするとき、彼の舌はもつれると言うべきか。

「色とは壊れた光である」とか「太陽の光は地球に衝突して、砕け散り、地球全体を彩色している」とか書かれているのを読んだときには、文字どおり、ほとんど目が眩みそうになった記憶がある。その一方で、おや?と首をひねった記憶もある。事実、わたしの持っている本の、この引用箇所に出てくる「小さい波の散乱現象が強くなり」のところには、鉛筆の薄い線が引かれている。

久しぶりでこのページを開き、この鉛筆書きを発見したときには、一瞬たじろいだ。変だと思った記憶の証拠がここにあると思ったからだ。

それはともかく、もうひとつの問題に移ろう。こちらのほうが大問題なのだ。

モネは光の画家と呼ばれる。モネは光について近代科学の分析的知識を得たから、あんなすばらしい絵を残せたのだろうか? そんなことはない。小林秀雄自身がこう書いている。

 

芸術は時代の子であるから、印象派の運動も、その時代の光や色に関する分析的な学問の進歩というものに照応しているわけだが、科学が直接に芸術家の眼を開くという様な事はない。

 

では、ある特定の時代における、科学と芸術の照応関係をどう考えればいいのだろうか。次のような箇所は、美しいだけでなく、まことに明晰で、説得力に富む、小林秀雄でなければ書けない一文だと思う。

 

色彩派{コロリスト}が外光派{リュミニスト}に転じたのは、理論によったのではなかった。屋外に溢れる光の美しさが、画家達を招き、アトリエでの仕事を放棄させたからだ。コローからラ・フォンテーヌを除き、ミレーから聖書を剥ぎ取り、もっと直接に風景を掴みたい、光を満身に浴びて、モネの言葉を借りれば鳥が歌う様に仕事をしたい、そういう画家の自然への愛情の新しい形式の目覚めが根本の事だったのである。

 

モネはこの光を画布の上に再現しようとした。たんに外光を浴びて仕事をするだけでなく、絵の具その物にも光を求めた。絵の具は混ぜれば混ぜるほど、彩度も明度も失う。その結果、色価{ヴァルール}も下がる。そこで彼は点描法と格闘することになる。つまり、基本色を直接画布の上に併置することによって、自然の持つ色の光を再現しようとしたのである。けれども「モネは、生涯、この分析的な手法のために苦しんだ」。その理由は、「理論は殆ど役に立たなかったからである」と。けれども、理論が役に立たなかったから、モネは苦しんだ、ということにはならないだろう。そんなことくらい、小林秀雄は先刻ご承知だ。もう少し我慢して、彼の論のあとを追ってみる。

 

芸術の形式が、時代の感覚と応和しなくなると、嘗ては生き生きとしていた形式も、重苦しい因襲と感じられ、芸術家は、これを脱ぎ捨てて、裸になって自然に還りたいという欲望を抱く。印象主義の運動も、画家達の、自然に還れという甲高い叫びだったのであるが、そういう場合、いつも同じことが起こる。自然は人間の鏡である。自然に還ろうという欲望は繰り返されるが、還るのは同じ自然へではない。人工の拘束から自由になって、画家は無私な眼で自然を見たいと考えるが、自然が黙々として映し出すものは、当の絵かきが、自ら無私と信じている心の形にほかならない。

 

ここに小林秀雄独自の弁証法がある。その独自さは「無私」という言葉のなかに込められている。「自然に還れという甲高い叫び」とはロマン主義のことを指している。もっと端的には、ジャン=ジャック・ルソー(1712〜1778)の思想を集約している。大雑把に言うと、ルソーは印象派の画家たちが活躍する一世紀前の人である。フランス革命の思想的背景となった人ではあるけれど、その前の人である。フランス革命は大事件である。だが、大事件に過ぎない。小林秀雄の眼は、もっと本質的な、人間の生活の根本を変える内部の革命が進行していたことを見逃さない。

マルクス(あるいはエンゲルス?)の自然弁証法は「人間が自然を人間化すればするほど、人間は自然化する」という言葉に集約される。

この言葉は、長いこと、わたしにとっては謎だった。今も謎だと言ってもいい。マルクスの著作そのものを読んでも、すっきりしない。けれども今、二十代に読んで感銘受けた「近代絵画」を読み直しているうちに、靄が晴れてくるのを感じる。

今、試みにこの言葉を「人間が自然を人工化すればするほど、人間は自然に還ろうとする」というふうに少し通俗化してみる。十九世紀に端を発した産業革命は、革命と戦争に明け暮れた前世紀を経て、新たな次元に突入したと言われている。産業資本主義の時代から金融資本主義、あるいは高度資本主義への時代への移行とか言われる。情報と交通と経済のグローバリゼーションというような言葉も常識と化した。地球は確実に狭くなった。

道という道はアスファルトに覆われ、われわれの生活と生産活動から排出される二酸化炭素が太陽熱を吸収し、地球全体が温室と化し、北極の氷も南極の氷も溶け出し・・・・・・。

確実に自然の人間化が進み、たくさんの科学者が警鐘を鳴らしている。それを一言でいうなら、「自然に還れ」「自然を取り戻せ」ということになる。

われわれ自身も、ふだんは車に乗って二酸化炭素を振りまき、大量の「燃えないゴミ」「燃やせないゴミ」(大地に還すことのできないゴミ)を出す一方で、毎朝のジョギング、ウォーキングを欠かさず、週末になれば山に登り、川に釣りに出かけ、カメラで写真を撮ったり、絵筆と画布を持って写生したりしているではないか。

なぜわれわれは、わざわざ美術館に行って、美術作品を見ようとするのか。なぜわれわれは、わざわざコンサートホールに出かけて、音楽を鑑賞するのか?

小林秀雄に戻ろう。彼はモネについて、もっと謎めいた言葉を残している。

 

印象派の出現とともに強固な自然は光の中に動揺しはじめた。自然は、画家に模倣を求める自信を失って了った様な様子を見せはじめた。自然は画家のあまり細かく分析的になった不安な視覚を模倣するに至ったのである。画家は、そんな風にして、とどのつまりは、己れを語る様に誘われていく。自然に還ろうとして自己に還っていく。

 

この言葉を解説するのはよそう。解説の任に堪えないというのが本音だけれど、理解することよりも考えることのほうが大切だろうから。ただ確信を持って言えることは、これは逆説でも文学的修辞でもない。小林秀雄という思想家の放った言葉の矢がここで的に当たっているのである。飛躍とはそういうことである。ただ最低限、マルクス自身の言葉をここに置いておこう。

 

自然は人間の非有機的身体である。〔なぜ非有機的かと言えば、〕自然そのものは人間の肉体ではないからである。人間が自然に依存して生きるということは、自然は人間の身体であり、人間は死なないためには、たえずそれと交流しつづけなければならないということである。人間の肉体的・精神的生活が自然と連関しているということは、自然がおのれ自身と連関しているという意味をもつにすぎない。というのも、人間は自然の一部だからである。

(カール・マルクス『経済学・哲学草稿』村岡晋一訳。〔 〕内は翻訳者の補足)

 

(つづく)

*47 矢は的に当たらない(承前)

今日は少し趣向を変えてというか、角度を変えて、ゼノンの矢についての話を続けてみましょう。

たとえば人類はどこまで100メートルを最速で走れるだろうか、という思考実験のようなものをやってみます。現在の100メートル世界記録は2009年の世界選手権でウサイン・ボルトが出した9秒58ですね。この驚異的な世界記録は永遠に破られないのではないかとも言われています。

はたしてそうか。あらゆる記録はいつか破られるとも言います。でも、人間が永遠に何かの記録を更新しつづけることはできません。かりにとてつもない肉体改造が行われたとしても、100メートルを0秒で走るなんてことはできない。走るのが肉体であるかぎり、0秒ということはありえない。光でさえ、約30万km/sという速度を持っているのだから(これは速度というべきなのか、単位というべきなのか、別の問題がありますが)。

では、どこかに人類最速の限界値があるとしたら、オリンピックや世界選手権はいずれ新記録を期待することはできず、ひたすら着順だけを競う競技ということになります。

その場合も、トレーニング方法、食生活や栄養の管理、筋力や睡眠にかんする分析やコントロール方法がどんどん開発、洗練されていくと、選手間の能力の差異はどんどん縮まっていって、記録も限界値のあたりでほとんど横並びになってしまう。そうすると競技者にとっても観戦者にとっても、競い合うおもしろみは徐々に失われていくことになる。

でも、ここで考えてみたいのが、計測方法と計測装置の精度の問題です。

かつて、といってもそんなに昔のことではなく、1960年代くらいまでは——われわれの世代だと10代前半くらいまでは——、速さを競うあらゆる競技は手動計時で行われていました。複数の計測員がストップウォッチを持って時間を計り、たしか平均値を出すのではなく、上と下をカットするのではなかったかと記憶していますが、正しいことは知りません。

いずれにせよ、手動計時では誤差が大きかったので、いつしか——80年代以降?——ほとんどすべての競技会場で電動計時のシステムが導入され、写真判定システムも加わって、可能なかぎり誤差や誤審が排除されるようになった。

細かい話はともかく、手動計時の時代には10分の1秒単位の計測だったように憶えています。それが電動計時、電子計時と移り、今では100分の1秒単位の計測になった。だからボルトの世界記録も9秒58と表示される。近い将来、1000分の1秒計時の時代がくるかもしれないともいわれています。

これほど精密なデジタル化が進んだ今、そんなに難しいことではないように思いますが、それはともかく、走るのは人間の肉体ですから、当然どこかに限界値がある。その限界値に向けて、計測器がどんどん細分化、精密化していくという事態を想像してみてください。

そう、これはゼノンの矢なのです。計測器が分割と分析の精密化をどんどん加速、更新していくと、ついに矢は的に当たらない。つまり、人間の走る速度は限界値に無限に近づいていくが、限界値には達しない。

でも、矢は存在するし、的も存在するし、矢は的に当たる。人間の肉体も存在するし、スタートラインも、ゴールラインも存在するし、人間の肉体はそのラインを通過するし、その限界値も存在する。計測器だけが無限を刻んでいるわけです。

しかし、計測器も機械です。物質から成りたっているわけですから、分割の限界値もある。すなわち無限を刻むということはありえない。

無限を刻んでいるのは、あるいは無限を刻めると錯覚もしくは妄想できるのは人間の頭脳だけだということになります。

ベルクソンは、それ(科学的分析)にノーを突きつけた。直観(intuition)は分割しない、現実(le réel)を、持続(la durée)を生きるものである、空間を飛び越えるものである、飛躍(élan)するものである、それが哲学の領分であると。

今、ガストン・バシュラールの『近似的認識試論』(Essai sur la connaissance approchée)という著作を読み返しています。これは1927年にパリ大学ソルボンヌに提出された学位論文です(翻訳は国文社から昭和57年/1982年に、豊田彰・及川馥・片山洋之介訳で出ています)。

この論文を読み返していると、ベルクソンが生涯、ゼノンの背理と格闘したように、バシュラールはベルクソンの直感と持続という概念(concept)に生涯異を唱え——あるいは補正(rectification)を加え——つづけたようにも思えてきます。

バシュラールによれば、科学的認識とは先行する認識をたえず修正しながら、限りなく精密を極めていく、近似的な過程にほかならない。つまり、真理というターゲットには永遠に到達しない! 彼はこれを「不確実性の哲学」(une philosophie de l’inexact)と呼びます。この inexact は不正確という意味ではありません。「現実」とか「真理」と呼ばれる概念に、一挙に到達するのではなく、ひたすら接近(approcher=アプローチ)していく過程をさしている。

後年(1940)、バシュラールは La Philosophie du non という著作(邦訳『否定の哲学』中村雄二郎・遠山博雄訳、白水社、1978年)をあらわします。この non こそinexact なのです。たえず先行する思想(経験)にnonを突きつけ、「真理」という名の極点、もしくは限界点に接近していくこと。これがバシュラールにとっての「科学」もしくは「科学的認識」だった。

この non は、いわば「理性」(raison)の声です。ところがおもしろいことに、ベルクソンの場合、この 否定の声を発する主体が違う。あるいはその声が発せられる場面が違う。「形而上学的直観」から引用してみます。

 

この〔直観の〕イメージを特徴づけるもの、それはその内部に備わっている否定(négation)の力です。ちなみにここで、ソクラテスの神霊{ダイモン}がどんなふうな働きをしていたかを思い出してみてください。このダイモンは不意に現れて哲学者の意志を抑え、なすべきことを命じるというよりは、行動することを阻止するのです。私にとって直観とは、こと思弁に関するかぎり、現実生活におけるソクラテスのダイモンのような振る舞いをするものに思えます。〔中略〕つまり、直感は禁止するのです。世間一般に受け入れられてきた通念であるとか、明白と思われていた定説であるとか、それまでは科学的なものとして通ってきた主張であるとかを前にして、直観は哲学者の耳もとで「ありえない」(impossible)とささやくのです。

 

バシュラールの考えていることとベルクソンが考えていることは、ほんのわずかしか違わないようにも見えるし、まるで背を向け合っているようにも見える。違うとすれば何が違っているのか。前者はあくまでも理詰めで考え分析し、先行する認識に「補正」を加えることに科学的認識の本質ないしは進歩があると考えるのに対して、後者は直観的に全体をとらえ、理詰めの分析にある種の欺瞞を見出し、対象との合一に究極の認識を見ようとする、そういうことだろうか。

いや、そんな単純なものではないでしょう。バシュラールは『否定の哲学』のなかで、「科学的認識の哲学」とは「開かれた哲学」であり、「未知なるものに働きかけ、先行する認識と矛盾するものを現実の中に見出そうとすることで自らを立てる精神の自覚」であると定義しています。すなわち、哲学と科学が相反するものではなく、互いに補完し合うものでなければならないということなのです。そのうえで彼はこんなふうに言う。

 

とりわけ何よりも、新たな経験が古い経験に対して〈否 non〉を突きつけるということ、それなくしては、自明の理ではあるけれども、新しい経験たりえないという事実を自覚しなければならない。しかし、この否{ノン}はけっして決定的なものではない。みずからの様々な原理を弁証法的に照らし合わし、新たな数々の種類の確かな根拠を立ち上げ、自身の解釈体系を豊かにはするけれども、何もかもそれで説明できる自然な解釈体系に見えるようなものにはいかなる特権も与えない精神にとっては、決定的なものなどありえないから。(『否定の哲学』)

 

ここで言う「経験」(expérience)は、「体験」とも「実験」とも訳せますが、日常的にごく当たり前に使われるこの言葉にこそ、ベルクソンとバシュラールのあいだにある微妙ではあるけれども、決定的な、目も眩むような深淵があるように思えます。

しかし、ここではこの問題について深入りしないことにしましょう。深入りするだけの準備もないし、本題——ゼノンの矢の問題——から遠く逸れていってしまうでしょうから。

最初に、100メートル競走における人間の肉体の限界と計測器(ストップウォッチ、電子時計)の話をしました。

100メートルを10秒で走る場合、100分の1秒差を距離にあらわすと10センチです。この距離を「たった10センチの差」とみるか、「10センチもの差」とみるか、むしろこの受け止め方の差異のなかにこそ、大きな問題が潜んでいると思うのです。

100メートル競走の当事者——選手本人、トレーナー、あるいはスポーツジャーナリスト——にとっては、この10センチの差は相当大きいかもしれない。つい最近(2017年現在)、桐生祥秀くんが日本人スプリンターとして初めて10秒を切り、9秒98の記録を出しました。快挙です。でも、ボルトの9秒58とは、0.4秒もの差がある。距離にして4メートルです。これはもう絶望的な数字かもしれない。世界新記録を狙うとすればの話ですが。

しかし、日常生活においては、1秒以下の時間はほとんど無視できるような時間でしょう。100メートルをふつうに歩いた場合、4メートルの差は感じ取れないでしょう。ましてやセンチメートル単位の差なんか、ふつうの目視では違いがわからない。

でも、トップランナーや一流のアスリートの世界、あるいは超絶技巧の職人芸の世界においては、10分の1秒、10分の1ミリの違いが、とてつもない壁、許しがたい誤差として立ち現れてくる。

こういう微分的な世界をさらに超微分的に分割、あるいは拡大した世界こそが現代科学が見ている風景だということができるでしょう。そう、言うまでもなく、近代科学は顕微鏡、望遠鏡の発明と精緻化を抜きにして考えられない。しかも、ここで重要なことは、顕微鏡が分子構造を、原子の構造を発見したわけではないということです。顕微鏡の向こう側に現れた、われわれ人間の肉眼が知らなかった新たな微視的世界を前にして、新たに世界を書き直す必要に迫られたということなのです。バシュラールが『近似的認識試論』の冒頭で「認識とは再発見するために記述することである」と言い、ピアソンの『科学の文法』からの引用を通じて、「重力の法則とは、遊星の運動を定めている規則をニュートンが発見したということではなく、われわれが遊星の運動と呼ぶ諸印象の継起を簡潔に記述する方法をニュートンが案出したということを指す」と言っているのは、そういうことなのです。

分子の構造とか原子の構造とか呼ばれるものは、物質それ自体の構造であるよりは、人間が案出した関係式(記述)を視覚化したものと言い換えてもいいし、バシュラールは『科学的精神の形成』のなかでは、そもそも関係という抽象的な記述を目に見えるようなモデルに置き換えることを「認識論的障害物」とさえ呼んでいるのです。

けれども、顕微鏡や望遠鏡といった観測装置それ自体が精緻化され、オーダー(目盛り)そのものがどんどん微分化されていくと、分子のモデルも原子のモデルも形を失い、内実を失っていく。つまり、原子核のまわりを電子が周回しているといった「古典的な」図式は意味を失う。原子核は陽子と中性子から成り立つと教えられるそばから、中間子の存在が予言され、次から次へと「究極の粒子」(素粒子)が発見されていくと、われわれはついに「物質」の消滅といった事態に遭遇しているのか、と思えてきます。そこには形のないエネルギーの構造と流動だけしかないのか、と。

でも、同時にわれわれはふつうの生活を営んでいる。目に見える色と形があり、触れば固かったり柔らかかったり、持てば重かったり軽かったり、嗅げば心地よかったり不快だったり、舌に載せれば甘かったり苦かったり、そういう五感の世界に生きている。

そういう五感の立場からすれば、現代物理学の描き出す、非定形(不確定)の素粒子の世界は「ありえない」のです。

またベルクソンの直観の世界に戻ってきました。でも、ベルクソンとバシュラールを単純に同列に比較するのは公平ではない。

ベルクソン(1859〜1941)にポーランド系ユダヤ人を父に、イギリス人を母として、パリのど真ん中、ラマルチーヌ通りで生まれています。1881年に「意識に直接与えられたものについての試論」(『時間と自由』)をソルボンヌ大学に提出し、文学博士号を授与された。

かたやバシュラール(1884〜1962)はシャンパーニュ地方の小さな村で生まれています。地元の中学を出て復習教師(現在の助教師)を務めたのち、パリに出て郵便局に勤め、電信技師の資格を取ろうとするも失敗、第一次大戦に兵役として徴兵される。復員ののち復学して、数学や哲学の学士号を取得し、1927年に「近似的認識試論」をソルボンヌ大学に提出し、博士号を取得したときには40歳を越えていた。

生年を比べても25歳の年齢差があり、最初の学位論文の提出日を比べると半世紀もの開きがあるのです。この間世界は大きく変わった。

1870年、普仏戦争勃発。翌年、モルトケ元帥率いるプロシア軍がフランス軍に勝利。この戦争を題材にポール・ヴァレリーは「ドイツの制覇」(1987年)——のちに「方法的制覇」と改題——を書き、戦争と産業と思考法が劇的に変わったことを指摘します。ニーチェ「悲劇の誕生」発表。

1905年、アインシュタインが「特殊相対性理論」(原題:動いている物体の電気力学)を発表。セザンヌ、最後の大作「水浴図」を未完のまま残して、1906年に死去。

1914年、第一次大戦に勃発。戦闘機、戦車の登場。足かけ5年にわたって、900万以上の兵士が戦死したとされる。バシュラール、1915年に兵役で出兵し、戦争終結まで従軍。

1917年、ロシア革命(10月革命)勃発、ソビエト権力成立。

1933年、ヒトラーにたいする全権委任法の国会承認によるナチス・ドイツの誕生。

1941年、ベルクソン死去。ポール・ヴァレリーは「アンリ・ベルクソンは大哲学者、大文筆家であるとともに、偉大な人間の友であった」と弔意を表した。

この時代はよく「戦争と革命の世紀」と呼ばれますが、このことはよくよく考えてみる必要があります。たんなる過ぎ去った「前世紀」ですますことはできない。われわれは今も、科学技術{テクノロジー}の「暴発」、「大衆の勃興」、民主主義の「暴走」の時代を生きている。

ベルクソンとバシュラールの思想の差異を、個性や個人差に帰することはできないでしょう。かといって時代や世代の違いに帰することもできない。そこには何か、人間という得体の知れない種——自然の一部でありながら、自然から遊離し、自由になろうとする生物種——に起因する謎というのか、矛盾というのか、背理というのか、そういう問題が潜んでいるように思います。

それほどゼノンの矢の問題は深く、永遠の謎めいたところがあるわけですが、せっかくベルクソンの思想を読み解くヒントをバシュラールの思索の方法から探ろうとしたのですから、ここでひとつの解(solution)を——数学にならって——提出しておきましょう。

ゼノンの矢の背理(矛盾)は、古来から二分法と呼ばれるその分析法にあるのではなく、「それゆえ、矢は的に当たらない」(矢は動かない、アキレスは亀に追いつけない)と結論したことにある。分割を際限なく続けているのだから、終わりが永遠に来ないのは当たり前ではないか。だからこの問題は、矢が当たるか当たらないかの問題ではなく、人間にとって「無限」(際限がない)とは何かという問題なのである。以上、証明終わり。

*46 塾で話したこと

われながら奇妙なことを始めたものだと思うが、それはさておき、

先日、塾でこんな話をした。

ゼノンの矢の話である。

この話というか、この詭弁(背理、逆説とも呼ばれるけれど)の話をはじめて聞いたのは、たしか中学生のころだった。

東京の大学に入った四歳年上のいとこが、夏休みに意気揚々として帰郷し、年下のいとこ(わたしと、わたしより一学年上のいとこ)に語り聞かせてくれたのである。どういう流れで、詭弁についての話になったのか、それは憶えていない。たぶん、こんな感じだったのではないかと思う。

「おい、おまえたち、詭弁というなら、こういう話を知っているか。むかし、古代ギリシアにゼノンというソフィストがいた。ソフィストというのは詭弁を操る者という意味だ。もともとは知を愛する者という意味だったらしいが、そのうち空理空論をもてあそぶようになったということだ。で、ゼノンはこういう説を立てた。矢は的に当たらない。どういうことだかわかるか?」

われわれ年下のいとこ同士は目を丸くし、きょとんとして聞いている。年上のいとこが何を言おうとしているのか、まったく見当がつかない。彼は続けた。

「つまり、こういうことだ。矢と的のあいだの距離が10メートルだとする。放たれた矢はまずこの距離の半分にあたる5メートルの点を通り過ぎる。次には残り5メートルの半分にあたる2.5メートルの点を通過する。さらにはその半分の1.25メートルのところを通過する。こうして、さらに半分、さらに半分の距離を通過していくわけだが、どんなに分割してもゼロにはならない。ということは、矢は的に当たらない、ということになる。どうだ?」

一学年上のいとこが叫び出す。

「それヘンだよ。だって現実にはぜったい矢は的に当たるんだからさ。射損じたとしても、どこかには当たるはずだよね」

「だから詭弁というのさ。じゃあ、逆にきくけれども、この論法のどこがおかしいか、説明できるか?」

中学生の目は、こんどは点になった。矢は必ず当たる。けれど届かない。現実と頭のなかが完全に食い違ってしまって、茫然としているのである。

わたしの記憶が定かならば、それは一九六九年のことだった。わたしが中学の三年、一個年上のいとこが高校一年、四つ年上のいとこが大学一年、そして六九年といえば、それはもう唖然とするほどすごい年だった。

今、「戦後昭和史」と題されたウェブページを見ている。

一月十八日、東大に機動隊八五〇〇人導入、安田講堂など占拠の学生と攻防戦。神田駿河台付近で東大闘争支援学生が解放区闘争。十九日、安田講堂封鎖解除。

大学生になったばかりのいとこは、この大学紛争の洗礼を浴びていたのである(東大生ではなかったけれど)。だから、話題は古代ギリシアの話ばかりではなかった。政治の話、文学の話、音楽の話、次から次へと話題が湯水のように湧いてきて、われわれ年下のいとこは、なにか冒険譚でも聞くような、夢物語の世界にでもいるような感じで、うっとりと耳を傾けていたのである。

「戦後昭和史」六九年のページをもう少し追ってみよう。

二月、毎土曜日、新宿西口広場のべ平連の集まりに反戦フォーク演奏会。

四月七日、四三年に東京・京都・函館、名古屋で四人を射殺した永山則夫、東京で逮捕。

六月十日、国民総生産(GNP)、世界第二位に。

七月二十日、アメリカの宇宙船「アポロ11号」、人類初の月面着陸に成功。

十一月十六日、反安保全国実行委・沖縄連共催首相訪米抗議集会、全国一二〇カ所で七十二万人参加。

十一月十七日、佐藤首相訪米。佐藤・ニクソン共同声明で四七年沖縄返還を表明。

そして、翌七〇年十一月二十五日には、三島由紀夫が東京市ヶ谷の自衛隊東部方面総監部に、縦の会のメンバーとともに乱入し、切腹してみずから果てた。

高校一年生になっていたわたしは、学校の帰り道、行きつけの本屋に立ち寄り、発売されたばかりの「毎日グラフ」を手にして、総監室の床の上に置かれた三島の首を見た記憶がある。

世界は東京を中心にして回っていた。

東京に行きたいと思った。ごく自然に。まるで当然のことのように。東京に行くということは東京の大学(どこでもいいから)に行くことを意味した。東京の大学を受験すると言ったら、父から問い返された。なぜ北海道の大学ではだめなのか? 北海道の大学で学ぶことなどないと答えた。なぜか父は納得したようだった。

だったらちゃんと勉強しろよという話だが、ギターをかき鳴らして歌ってみたり、女の子に夢中になって、ラブレターかなんか書きまくったりしていて受かるわけがない。案の定(本人は想定外)、受験に失敗して一年間浪人することになる。

翌年、晴れて東京の大学に合格し、文学部に入学するわけだが、ここから本題に戻る。父にはなぜ北海道の大学ではだめなのかと問い質されたが、今のわたしは、自分に向かって、なぜ文学部を選んだのか、と問うてみたいのである。

そんなに文学が好きだったわけでもないだろう。読書家だったわけでもないじゃないか。なぜ文学部を選んだ? 漠然とはしているが、何かものを書くことが好きだったから。なるほど。で、将来はどうするつもりだったのか? これもまた漠然としているが、新聞記者とか編集者とか、やっぱり文字を書く仕事に関係した職業につければいいと思っていた。

それがいつのまにか翻訳者、翻訳家になっていた?

ま、そういうわけだ。人生不可解とでもいうべきか。

いや、しかし、文字を書く仕事というのなら、翻訳こそひたすら文字を書く仕事ではないか。

たしかに。いや、きみの質問は逸れているぞ。誘導尋問だ。わたしがなるべくして翻訳家になったと誘導している。

いや、質問が逸れているわけではないだろう。こちらの頭が混乱しているのだ。問題を整理しよう。

はじめてゼノンの話を聞いたのは一九六九年だった。そこに話を戻そう。その話題を運んできたのは、当時東京の大学に入ったばかりの、四歳年上のいとこだった。そう、ゼノンの背理は六〇年代の終わりを迎え、混乱と崩壊と絶望と希望の入り混じる東京からやってきた。

そのころ中学生だったわたしは、北海道の片田舎でどんな暮らしをしていたのか。どんなことに関心を持ち、どんなことに若いエネルギーを注ぎこんでいたか。

夏はテニスをしていた。冬はアイスホッケーに明け暮れていた。本は?

ほとんど読まなかった。

当時読んだ本で記憶に残っている本はたった二冊。エドガー・アラン・ポーの「黄金虫」と太宰治の「人間失格」だけ。あまりに対照的。一方は十九世紀のアメリカ文学で、探偵小説の祖と呼ばれる作品。もう一方は、説明する必要もないだろう。

エドガー・アラン・ポーの短編集は、一歳年上のいとこから借りた。夢中になって読んだ。ただただうっとりしていた。「モルグ街の殺人」も「黒猫」も、もちろん強烈な印象を与えたが、一等好きなのは、やっぱり「黄金虫」だった。

暗号解読。それだけで短編小説ができあがっている! こんなに知的な、こんなに優雅な小説がほかにあるだろうか。今もそう思っている。これは世界文学史の奇蹟なのだ。

もう忘れてしまったが、ポーはどこかでこんなことを言っている。小説は二、三十分で読み切ることのできるものがよい、と。つまり、短編小説こそが小説という芸術の醍醐味なのだと。これを読んだときは、もう大学生になっていたと思うが——そう、ポーはずっと好きで、大学に入るとすぐに全集を買ったくらいだ——、その一文に触れて、そうか、シンフォニーもだいたいそのくらいだよな、LPレコード一枚聞くくらいの時間で読み切れるもの、それは人間の頭脳、あるいは感覚の集中が生理的に途切れない時間なのではあるまいか、と思ったことを今も憶えている。(*1)

さて、もう一方の太宰治。これは早熟だった同級生が読んでいるのを見て、刺激されて読んでみたのだ。「人間失格」、そもそもタイトルがおどろおどろしい。読んでみると気味が悪かった。誰もがそう思うらしいが、ここには自分のことが書かれている、自意識の芽生えた思春期真っ盛りの中学生には衝撃的だった。写真のなかの自分、笑みを浮かべているが、手もとを見ると拳を握りしめている。その手は自分のペニスを握る手でもあるだろう。

でも、その勢いで読み漁るというということはしなかった。テニスとアイスホッケーでくたくただった。

それにしてもポーと太宰治じゃ違いすぎるだろう、と思う人が多いかもしれない。べつにそのことに抗弁するつもりもないし、その必要もないだろうが、中学生なんて、そんなものじゃないだろうか。何もかも芽生えたばかり、趣味も思想も好き嫌いもポリシーもない。手当たりしだい。なにもかも偶然にさらされている。

しかし、この「偶然」と呼ばれるものの不思議、奥深さ、この年になると、そのことをしみじみと感じるのである。偶然にさらされているのは思春期だけではあるまい。全人生が偶然にさらされている。偶然はいつも雨のように、あるいは紫外線のように、われわれに降りそそいでいる。

わたしがこの日本列島の、北端に位置する島の、人口十万を超える程度の小都市に、二度目の世界戦争が終わった直後の一九五〇年代の前半に生まれたこと、これは偶然以外の何ものでもない。

だとしたら、必然とは何か。宿命とは何か。あるいは運命とは何か。意志とは何か。

わたしはそういうことを考えてみたいのである。

この塾で、このブログで。

それは哲学ということですか、と問われるなら、その言葉は嫌いだと答えておこう。文学という言葉も嫌いである。学問という言葉も、学校という言葉も好きになれない。

哲学は躓く。学問は躓く。

ゼノンの背理はそれを如実に物語っている。その背理は、じつは人間の、自然にたいする背理ではないのか。その問題をベルクソンは生涯考えつづけた。でも、矢は的に当たらない。人間の言葉で考えるかぎり。

でも、矢は的に当たる。

それが詩だ。少なくとも、喩が矢であるかぎり。それは飛躍する。分割しない。

ポーが長編を書かなかったのは、彼が詩人だったからだろう。言葉の力を飛躍に求めたからだろう。

これを書きながら、さっきから必死で思い出そうとしていることがある。太宰治の短編に数学者ガウスの名前が出てくる作品がある。それがどの短編集に収められていたか、本棚をさがし、太宰の短編集のいくつかをぱらぱらめくってみたのだけれど、肝心のタイトルが思い出せない。(*2)

そのうち、思い出すだろう。

太宰治の短編は高校時代によく読んだ。「富岳百景」が好きである。「走れメロス」が好きである。「駆け込み訴え」が好きである。「御伽草子」が好きである。短編なら、どれもこれも好きである。

二、三十分で読めるもの。

ほら、ポーとのつながりが見えてきた。

これを「必然」と呼ぶか、たんなる好き嫌いと見るか、なかなか奥深い「哲学」的問題なのである。

 

〔追記〕

*1)なにしろ40年以上前に読んだ本の記憶なので、たぶん印象と思い込みだけが残ってしまったのだろう。ポーはもっと違う書き方をしている。

「最初に考えたのは長さのことだった。どんな文学作品でも、長すぎて一気に読みきれないなら、印象の統一ということから結果する極めて重要な効果を、無にすることを余儀なくされる。なぜなら、中休みを要するとなると俗事が介入してきて、およそ作品の総体というようなものは即座にぶち毀しになってしまうからである」(「構成の原理」篠田一士訳)

ポーはあくまでも詩について語っているのである。彼の考えからすると、ミルトンの『失楽園』のような長編詩は、その半分は本質的に散文だということになる。そして、こんなふうに結論づけている。

「かくして明らかなように、すべての文学作品には長さの点で明確な限度、一気に読みきれるという限度があり、また或る種の散文作品、例えば『ロビンソン・クルーソー』のような、統一を必要としない作品では、こうした限界を超えた方が有利かも知れないが、詩作品においては限界を越えることは断じて正しいことではない」(同上)

 

*2)すぐに思い出せないというのは、明らかに加齢(老化)のせいだ。数学者のガウスが登場するのは「愛と美について」という短編である(新潮文庫『新樹の言葉』所収)。あるところに五人のロマンス好きの兄弟姉妹がいて、「退屈したときには、みなで物語の連作をはじめるのが、この家のならわしである」。長男がまず「きょうは、ちょっと風変わりの主人公を出してみたいのだが」と切り出す。次女が、それなら「老人がいいな。」と応じる。「人間のうちで、一ばんロマンチックな種族は老人である」というのがその根拠である。すると末弟が「ぼくはそのおじいさんは、きっと大数学者じゃないか、と思うのです」とアイディアを出したのはいいのだが、「ことし一高の、理科甲類に入学したばかり」なので、物語の展開など考えもせずに、授業で習ったことを滔々と語り出す。

「数学の歴史も振りかえって見れば、いろいろ時代と共に変遷して来たことは確かです。(・・・・・・)十九世紀に移るあたりに、矢張りかかる段階があります。すなわち、この時も急激に変わった時代です。一人の代表者を選ぶならば、例えば Gausse. G、a、u、ssです」

こんなふうにスペルを強調するあたり、ガウスは太宰治のお気に入りの数学者だったのだろう。どこか微笑ましい。太宰治は戦後矢継ぎ早に発表した「人間失格」「斜陽」などの長編小説のせいで、破滅型の私小説作家の典型と思われているかもしれないが、このひとは本質的に天才的短編作家であると思っている。そして、軽妙を装う文体とは裏腹に、古典を読み抜く小説家としての直感と洞察力は、芥川龍之介などより深いというのが、わたしの個人的見解である。