*50 持ち重りのする言葉


学生時代に夢中になって読んだ本のひとつに、ポール・ヴァレリーの『レオナルド・ダ・ヴィンチの方法への序説』という本がある。

この本を開いたとたん、文字どおり、目を奪われた記憶がある。奇妙な二段組みになっていたからだ。「奇妙な」というのは、ページの中央で均等に分かれている二段組みではなく、一対三くらいの割合の二段組みなのである。よく見ると、ただの二段組みではなかった。本文があって、上三分の一(原著の場合は横組みなので、左ページは左三分の一、右ページは右三分の一)がその本文にたいする自註なのだった。自註のほうが活字も少し小さい。

最初からそんな版面の本だったわけではない。本文は一八九五年に『新評論』(La Nouvelle Revue)に発表された。著者、若干二十四歳のときのことだ。単行本になったのは、それから二十四年が経過した一九一九年、この時点では自註はなく、当然、ふつうの版組だった。

欄外自註は一九二九年から三〇年のあいだに書かれ、一九三一年に刊行された Sagitaire 版と呼ばれる複写版の刊本で初めて読者の目に触れることになったという(筑摩書房版ヴァレリー全集、一九七三年新装版第五巻の書誌より)。

夢中になって読んだと冒頭に書いたけれど、よく理解できなかったので悪戦苦闘したというべきかもしれない。悪戦苦闘のまま卒論にまとめて出したら、論文主査の室淳介先生に「おれにはこれしかわからんよということがよくわかる」と言われて、変に感動した記憶がある。「あ、ちゃんと読んでくれたんだ」

室先生はサント=ブーヴが専門で、レヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』を本邦初訳した人でもある。といっても、当時はサント=ブーヴにもレヴィ=ストロースにも興味がなかった。

「きみ、うちに遊びにおいでよ」と言われて、のこのこ国立のお宅にお邪魔したことが一度あった。「駅から歩いていくと、大きな欅の木が見えるからすぐわかるよ」。浮世離れした先生だった。授業中に黙りこくってしまう。一分や二分ではない。五分くらい。教室がざわめく。お会いしたとき、「先生、あの沈黙はとても不安です」と言ったら、「いや、授業中に考え事するのは気持ちがよくてね」だと。

世が世なら、大学院に残って、この先生の指導を受けていたかもしれない。

この本の欄外自註に、こんな文章がある。

 

思考における、とりわけ現実的なものとは、感覚でとらえられる現実の素朴な似姿{イマージュ}ではないもの、とでも言おうか。ところが、われわれの内部で生じるものを観察すると、そもそもこの観察自体が不確かで、往々にして疑わしいものなのだが、ついわれわれは、この〔思考と感覚の〕二つの世界は比較可能なものと信じてしまう。その結果、いわゆる心的世界を感性的世界の隠喩、とりわけ身体的に実行可能な行為や操作から借りた隠喩でおおまか{グロッソ・モード}に表現することになる。
 たとえば、思考[pensée]と計量[pesée]、把握[saisir]、理解[comprendre]、仮説[hypothèse]、総合[synthèse]、など。

 

最後の一段落を補足すると、フランス語における「考える」という動詞penser はラテン語の pensare に由来し、元来は重さを量るという意味だった。peser という動詞も、諸説あるが、同語源らしい。saisir はもともと「握る」という意味。comprendre は、com という接頭辞とprendre という動詞に分解できる。すなわち「まとめて掴む」という意味。hypothèse (仮説)は「下に置く」という意味。synthèse(総合)は「一緒に置く」という意味。

ちなみに日本語の「考える」はカムカフ、すなわち二つのものを向き合わせるという意味(岩波古語辞典、補訂版一九九〇年、古くてスイマセン)。加えて、オモヒ(思ひ)とオモシ(重し)はどこか似ているが、語源は違うらしい。

言語が、われわれ人間が外部世界と触れるときの感覚に依拠していることは、それはもう言語の宿命というほかないだろう。だが、認識——とりわけ科学的認識——は、素朴な感覚的イメージから身を切り離すところにその本質がある、あるいはそのとき初めて精神はおのれにふさわしい固有の現実性を獲得すると、ヴァレリーはここで言っている。

これはガストン・バシュラールが『科学的精神の形成』(La formation de l’esprit scientifique, 1938)で展開している「認識論的障害物」に関する主張とほぼ同じことを言っているように思える。

 

科学的精神は〈自然〉に抗して形成されなければならないのである。われわれの内部においても、われわれの外部においても存在する〈自然〉からの衝迫や教唆に抗して、自然の牽引力に抗して、彩色された多様な事象に抗して形成されなければならない。科学的精神は、おのれを作り直すことを通じて形づくられていくものなのである。

 

だから、現代の科学は数式の体系と表現を必要とする。言語はそれ自体のうちに認識論的障害物を含むから。科学的精神が〈自然〉に抗して形づくられるべきものならば、それはある意味で〈非人間的〉なものでもある。

言い換えるなら、ガストン・バシュラールのいう「科学的認識」とは、身体的イメージに依存する呪術的な実体論{レアリスム}を思考から切り離そうとする不断の努力をさす。しかし、彼はその一方で呪術的イメージにあふれる文学論を展開したのである。『蝋燭の炎』『水と夢』『空と夢』・・・・・・、いずれもタルコフスキーの映像世界を言葉と論理に置き換えたような著作ばかりだ。ベクトルが真逆を向いている科学認識に関する論文と文学論の二つを併せ読まないと、バシュラールを読んだことにはならない。

先日の塾の例会で、「持ち重りのする言葉」という表現を使った。もしかりに、自分が頭のなかで行っている翻訳作業を、ヴァレリーの言うように「身体的に実行可能な行為や操作から借りた隠喩でおおまか{グロッソ・モード}に表現する」ならば、両腕を左右に開き、それぞれの手のひらを天に向け、左にフランス語の単語を、右に日本語の単語を置いて、あたかも自分の身体を天秤にするがごとくに、いつも左右の重さを量り比べているような感覚に近い。もちろん、左右の天秤皿に載っているのは単語ばかりではなく、複数の単語からなる熟語の場合もあるし、文全体のこともあるし、段落丸ごと載せることもある。

こうして翻訳全体が一冊の本となってできあがったとき、左に載せたフランス語の原本と翻訳本が釣り合っていれば、それは完璧な仕事ということになる。

が、そんなことはありえない。単語でさえ、釣り合うことはない。まったく違う言語なのだから。できることは、できるだけその誤差を小さくすることだけ、というわけだ。

翻訳は、基本的には意味(signifié)しか置き換えることができない。そのような限定——あるいは断念——のもとでは、意味さえ釣り合っていればよいということになる。しかし、言語(langue)は意味だけで成り立っているわけではない。言語は音韻の体系でもある。日本語と印欧語の場合、文法と統辞以上にこの音韻体系がまったく違う。これは翻訳不可能である。詩が翻訳不可能と言われる所以もここにある。

しかし、詩の翻訳はある。元の詩が豊かな詩情を湛えていればいるほど、そしてその詩が書かれている言語にたいする理解が進めば進むほど、それを母語に置き換えてみたいという意欲なり野心なりは抑えがたいものになる。なぜか、とは問わない。むしろ、翻訳の本質と困難は、詩の翻訳に象徴されていて、人はその対象が困難であればあるほど、それを乗り越えたいという衝動を刺激されるものだと言うに留めておこう。アルチュール・ランボーの詩に「母音」と題された有名な作品がある。中原中也の訳で引用してみよう。

 

Aは黒、Eは白、Iは赤、Uは緑、Oは青、母音たち、
 おまへたちの隠密な誕生をいつの日か私は語ろう。

 

ランボーはこう語り出して、A、E、I、U、Oの五つの母音それぞれのイメージを二行ずつに分けて、いかにも象徴詩{サンボリスム}風に歌い上げている。さすがの中也もここでは律儀に一語ずつ丁寧に拾い上げて、どちらかと言えば「直訳」っぽく訳している。それはたぶん、この詩が他国語の理解を拒んでいるからだ(たとえば英語、ドイツ語、イタリア語を母語にする人にとってはどうかわからないけれど)。

むしろ、フランス語を母語にする読者にとっても、ただちに共感できるというようなものではないと言ったほうがいいだろう。「アー」と発音する母音から、

 

A、眩ゆいやうな蝿たちの毛むくぢゃらの黒い胸衣{むなぎ}は
 むごたらしい悪臭の周囲を飛びまはる、暗い入江。

 

というようなイメージをそのままのかたちで共有できる人はほとんどいないだろう。いるとしたら、その人は特異体質か何かだ。事実、この詩を精神病理学の一症例として読み解く論文をどこかで読んだ記憶がある(どの本だったか、どうしても思い出せない)。

それはともかく、母音に色があるというのなら、言葉(単語)には、重さがあると言ってみたらどうか。もちろん、匂いのようなものもあれば、手触りのようなものもあると言ってみてもいいのだけれども、いちばん肝心なのは、重さ、重みではないか。

重さというのは、端的に言って、時間の重みをさす。

その単語に降り積もった時間の重さ。語源的に古ければ重いということではなく、太古の昔から今の今まで使いつづけられてきた言葉。

とくに動詞。なぜなら、どんなに時代と文明が変転しようと、人間の肉体はそれほど変化していないから。少なくとも、人間が言語を得て、文字を得てからの数千年単位ではほとんど変化していないだろう。たとえば「見る voir」「聞く entendre」「触る toucher」など、五感に関係する動詞、あるいは「立つ se lever」「歩く marcher」「走る courir」などの基本的動作にかかわる動詞など。その土地に自生する植物のような言葉、そういう言葉を「持ち重りのする言葉」と呼びたいのである。

こういう動詞が出てきたときに、漢熟語は当てたくない。漢字そのものも、できるだけ開きたくなる。漢字は見た目は重そうに見えるが、日本人の感覚にとっては音であるよりもほとんど視覚的概念なので——だから、やたらに同音異義語が多い——、じつは軽い。日本人にとっては、漢語よりも和語のほうが重い。漢字の多用は、見た目を煩雑にし、思考に負担をかけるので重く感じられるが、じつはその反対なのだ。天秤は左に傾く。

翻訳家は天秤が傾くことを嫌う。

話の角度を変えてみよう。聖書から引用する。

 

太初{はじめ}に言{ことば}あり、言は神と偕{とも}にあり、言は神なりき。

 

これは新約聖書中四番目に置かれている「ヨハネ福音書」冒頭の文語訳である。岩波文庫の一冊として復刊された『改訳 新約聖書』(米国聖書会社、一九一七年)からの引用である。たぶん、誰もが一度は耳にしたことがあるだろう。口語訳ではどうなっているか、新共同訳(日本聖書教会、一九八七年)から引用してみる。

 

初めに言{ことば}があった。言は神と共にあった。言は神であった。

 

この二つの訳を比べたとき、日本人ならば誰もが、文語訳のほうが格調が高く、重々しいと感じるのではないか。ここに引用した新共同訳(カトリックとプロテスタント双方の聖書学者、神学者の共同作業による翻訳という意味)は一九五四年に成立した初めての口語訳聖書を母胎にしていて、このヨハネ福音書の冒頭訳は、この戦後初の口語訳聖書をそのまま踏襲している。この口語訳の評価は、とりわけ文語訳に馴染んだキリスト教信仰者、あるいは作家たちには、必ずしも高いものではなかった。聖なる書物の言葉らしからぬ、と。

しかしここには、聖書の翻訳のみならず、翻訳一般にとっての重大な問題が潜んでいる。新約聖書の原典はギリシア語で書かれている。もちろん、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四福音書もギリシア語で書かれている。なぜか。

福音書の主人公であるナザレ生まれのイエスはユダヤ人である。使徒と呼ばれる最初の弟子たちもユダヤ人である。イエスが論争した相手の律法学者たちも、もちろんユダヤ人である。ユダヤ人である以上は、当時のユダヤ人の日常語であるアラム語を話していた。ならば、なぜアラム語で書かなかったのか。なぜ文語のヘブライ語で書かなかったのか。

ギリシア語で書かれていると言ったが、正確にはコイネーのギリシア語といって、ギリシア本土のアッチカを中心にして語られていたギリシア語とは区別されている。専門的なことはよくわからないし、ここで深く立ち入る必要もないので、イギリス本土で語られている本来の意味での英語と、国際標準語と化した感のある米語の違い程度におさえておけば、ここでは足りるだろう。

四つの福音書のうち、最初に書かれた福音書の作者マルコは原始キリスト教団のなかで、ヘレニストと呼ばれるグループに属していたと推定されている。ギリシア語を話す人という意味である。イエスの教えは、彼が十字架の上で処刑されたのち、瞬く間に地中海沿岸各地に住む、いわゆる離散ユダヤ人のあいだに広まっていった。迫害されて離散していったのではなく、商人として各地に根付いていった人々である。彼らは商人である以上、当時の地中海世界の共通語であるギリシア語を話す人々であった。ユダヤ人であっても割礼の習慣を失った人もいた(パウロの手紙参照)。

マルコは、そういう人々に向けて、ギリシア語で風変わりなイエスの伝記を書いたのである。ふたたび、なぜか。イエス亡きあと、最初期のキリスト教団は、当然のごとく「十二使徒」と呼ばれる人々によって立ち上げられた。ペテロ(今はペトロと呼ぶのが主流)を初めとするイエスの召命を受けた最初の使徒たちは「ヘレニスト」ではない。イエスもまた、ギリシア語を語った形跡は、少なくとも福音書のなかには見いだせない。あろうことか、最初期の教団の中心には、この使徒たちだけではなく、イエスの母と兄弟のも含まれていた。

なぜ「あろうことか」、なのか。マルコ福音書の第三章には、次のような記述がある。

 

イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。大勢の人がイエスの周りに座っていた。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」(新共同訳)

 

つまり、肉親、血縁の延長上に信仰はないと明言しているのである。それなのに現実には、イエスによって否定された肉親たちが初期の教団の中枢にいて、ヘレニストたちを抑圧とは言わないまでも、ないがしろに扱う(「使徒言行録」参照)。これはイエスの教えに背くのではないか。

そう、マルコはのちに「福音書」(Evangile)と呼ばれるイエスの伝記を書くことで、当時の教団のあり方にノーを突きつけたのだ(田川健三)。

さて、これが前提である。そして、問題はマルコが書いたギリシア語による福音書はどんなものであるか、ということだ。

ひとつの言語の歴史を背負う文語ではなく、当時の地中海世界で日常的に流通していた口語なのである。しかも、マルコのギリシア語は、マタイ、ルカ、ヨハネと比べて、下手だったというのである。イエスが肉親を否定するこの場面、格調高い日本の文語ではどのように訳されているか。

 

爰{ここ}にイエスの母と兄弟と来りて外に立ち、人を遣わしてイエスを呼ばしむ。群衆イエスを環{めぐ}りて坐したりしが、或者いふ『視よ、なんぢの母と兄弟・姉妹と外にありて汝を尋ぬ』イエス答へて言ひ給ふ『わが母、わが兄弟とは誰{たれ}ぞ』斯{かく}て周囲{まはり}に坐する人々を見回して言ひたまふ『視よ、これは我が母、わが兄弟なり。誰にても神の御心を行ふ者は、是わが兄弟、わが姉妹、わが母なり』(仮名遣いは原文のママ。総ルビだが一部だけ残した)

 

たしかに格調高い日本語である。だが、「格調高い」と感じるのは、そもそも文語だからではないのか。そして、原文が口語で書かれているとき、文語でなされた翻訳は正しいのか。

そもそもの問題は、ギリシア語で書かれた新約聖書をヒエロニムスがラテン語に訳した時点にさかのぼる。そもそもこのラテン語訳聖書(ウルガタ聖書と呼ばれる)が文語であり、信仰の主体である一般信徒には読めないものだった。だから、ラテン語の読める神父さんが教会で嚙んで含めるように信者に伝えていった。やがて教会組織の肥大化と中央集権化にともなって堕落と腐敗が進行し、あの血気盛んなマルチン・ルターの登場となるわけだが、それはまた別の話だ。

要は、ここにギリシア語原文を引用して、解説できるだけの教養と語学力があればいいのだが、無い物ねだりをしてもはじまらない。苦肉の策として、フランス語訳をここに挙げてみよう。フランス語訳ならなんでもいいというわけにはいかない。ここに引用するのは、フランスのカトリック、プロテスタント双方の共同作業による「共同訳」(Traduction Oecuménique de la Bible. 1995. 略してTOB——トープと発音するらしい)である。最新の聖書学の知見をもとに、ギリシア語原文にできるだけ「忠実な」翻訳を試みたといわれる労作である。

 

Arrivent sa mère et ses frères. Restant dehors, ils le firent appeler.

La foule était assise autour de lui. On lui dit : “Voici que ta mère et tes frères sont dehors ; ils te cherchent.” Il leur répond : “Qui sont ma mère et mes frères ?” Et parcourant du regard ceux qui étaient assis autour du lui, il dit : “Voici ma mère et mes frères. Quiconque fait la volonté de Dieu, voilà mon frère, ma soeur, ma mère”.

 

その母と兄弟がやってくる。外に立ち、彼を呼んできてくれとたのむ。
 群衆が彼を取り巻いて座っていた。「あなたの母親と兄弟が外に来ている。あなたを迎えに来たのです」と言われて、「わたしの兄弟、わたしの母とは誰のことか」と彼は答える。そして、自分の周囲に座っている人々を見回し、こう言った。「ここにいるのがわたしの母とわたしの兄弟である。神の意志をおこなうものこそ、わたしの兄弟、わたしの姉妹、わたしの母なのである」(高橋訳)

解説はしない(できない?)

ランボーの詩に戻ろう。同じ「母音」の第一連。でも、鈴木信太郎訳である。

 

A{アー}は黒、E{ウー}白、I赤、U緑、O{オー}は藍色、
 母音よ、汝が潜在の誕生をいつか、我は語らむ。
 A{アー}、無慙なる悪臭の周囲に唸りを立てて飛ぶ
 燦めく蠅の 毳斑{けまだら}の 黒き胸當{コルセエ}、

(人文書院版『ランボー全集』第一巻、一九七六年)

 

いかにも古いという印象を与える翻訳だ。まるでラテン語から訳したような感じさえする。学生のころは、こんなのが名訳としてもてはやされる時代は終わったと思っていた。何が気にくわなかったか。やたらに画数の多い、強迫(脅迫?)めいた漢字の使い方。文学といえば漢文学をさし、詩といえば漢詩をさしていた時代の残滓のようなものを感じたのである。

でも、最近は考え方が変わってきた。ランボーの原詩のなかにすでに衒学趣味が潜んでいると思うようになった。中原中也はそれを vanité、すなわち虚栄と呼んでいる。

アルチュール少年はことばの天才だった。中学生ですでにラテン語の詩を書いていた。すげぇな、と若いころは思ったが、よく考えてみれば、多少早熟であれば、日本人だって中学生で平安朝風の短歌を詠む子はいるだろう。優れた作品になるかならないかは別として。

言語{ラング}は規範{コード}であるから、それなりの才覚とセンスさえあれば、たちまちのうちにこれを習得することはそんなに難しいことではない——と凡才の自分が断言するのも憚れるけれど。

そういうことよりも、最近は時代と個人が交錯するときの、宿命とか運命とか呼ばれるもののほうに関心が向くようになってきた。年をとってきたというべきなのか、それなりに成熟してきたというべきなのかは、自分ではもちろんわからない。

ランボーの詩的世界のまばゆさは、電流がショートしたときの火花に似ている。ランボーという一個の肉体の現在時が、ひとつの言語のなかに蓄えられた幾重にもかさなる時間と時代の層を突き破っていくときの快感をまざまざと見せつけてくれる。

でも、こんなたとえでは、ランボーの詩的秘密を暴いたことにはならない。詩そのものがそういう芸術かもしれないし、音楽もまたそうであるかもしれないのだから。

ランボーは一八五四年に北仏のシャルルヴィルという町に生まれた。そして、パリに出て詩人たちと交わり、アフリカに渡って武器商人となり、骨肉腫を得てフランスに舞い戻り、一八九一年に三十七歳の若さで死んだ。十九世紀のど真ん中を疾走したわけだ。生まれたのは第二共和制が崩壊して、ルイ・ナポレオンが帝位に就いた一八五二年の直後、そして彼の青春は普仏戦争の勃発、そしてフランスの敗北、そしてパリコミューンの成立と崩壊という時代の激流に翻弄されている。この間、フランスは未曾有の政治的混乱を経験しているが、その一方で産業革命は、イギリスに遅れを取っているとはいえ、着実に進み、その象徴は鉄道敷設の全国展開だろう。シャルルヴィルとパリのあいだに鉄道が敷かれていなければ、アルチュール少年が何度も家出を繰り返すこともなかったし、一九七一年のパリ・コミューンのときにパリにいることもなかった。

おそらくランボーの詩は、この激動の時代の叫びなのだ。激動の時代とは、時間の流れがどんどん加速していって、古いものが振り切られ、新しいものには手が届きそうで届かない、そんな時代のことだ。

だからランボーの詩には古いものと新しいものが同居している。いや、同居しているのではなく、葛藤し、衝突し、あるいは爆発している。あるいは太平洋プレートがユーラシアプレートの下に潜りこもうとしているというべきか。

もうランボーの詩について書くのはよそう。それが本意ではないから。何が本意か。つまり、翻訳とは何かということ。

一つの文学作品は時代とともにある。あるいは天才的な文学作品は時代の声そのものであって、天才と呼ばれる芸術家、思想家、あるいはリーダーたちは、この時代の要請に応えようとして、ときに神のように崇められ、ときに犠牲{いけにえ}として天に召されるのだ。あるいは、この声の要請に応えられたものだけが、天才の名をほしいままにするというべきか。

もし、翻訳がこの声をよみがえらせることを使命とするものであるならば、翻訳はそもそも可能な行為なのか。なぜならば、言葉はいつも時代に拘束されているから・・・・・・。

さあ、こういったことを踏まえたうえで、あなたならランボーの詩をどう翻訳するか。「母音」冒頭のスタンザの原文を最後に挙げて、この稿を締めくくることにしよう(べつに宿題ではありませんので、誤解なきよう!)

 

A noir, E blanc, I rouge, U vert, O bleu : voyelles,
 Je dirai quelque jour vos naissances latentes :
 A, noir corset velu des mouches éclatantes
 Qui bombinent autour des puanteurs cruelles,

*49 モーツァルト、弦楽五重奏曲ニ長調


表紙(*77)の写真に添えた文はこの曲(K. 593)で終わっている。

昔からこの曲を親愛してきたわけでもないし、そもそもモーツァルトを素直に聴くようになったのは、ここ数年のことだ。

初めてモーツァルトのレコードを買ったのは、大学に入ったばかりのころだったと思う。手許に残っているレコードは「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」(セレナード十三番ト長調、K. 525)、演奏しているのはスロヴァキア室内合奏団。

どうしてこの曲を選んだのか、どうしてこの合奏団の演奏するレコードを選んだのか、もう思い出すことができない。でも、わが家にあったコンソールタイプの古いステレオのターンテーブルにこのレコードを置いて、そっと針を落としたときの感動は忘れることができない。

感動と書いたけれど、じつは驚愕とか、茫然とか、そっちに近かったように思う。アレグロの冒頭が鳴り響くのを聞いているうちに、星が降ってくるような気配に襲われた。

夏の夜、窓は開け放たれていた。星を見ていたわけではない。窓を背にして、視線はステレオのほうに向いていた。でも、音は背後からやってきた。窓から星の光が飛びこんでくる・・・・・・。

こんな経験は書けば書くほど嘘っぽくなる。

いずれにせよ、これを機にモーツァルトにはまるということはなかった。むしろ敬遠するようになった。大学に入ったばかりのころといえば、まだ若かったマウリッツォ・ポリーニがショパンの練習曲全曲をアルバムに収めて、世界をあっと驚かせたころだった。ポリーニを初めて聴いたときも度肝を抜かれた。ショパンってこんなに男性的だったのか。

このショパンも敬遠するようになった。

時代のせいだろう。貴族世界の寵児だったモーツァルト、パリのサロン、社交界の華だったショパン、そんなもの、おれと関係ないじゃないか。

ねぇ、ぼく、美しいでしょ、ねぇ、聴いて聴いて、と言っているみたいで、吐き気がしてきた。

大学の終わりころにはもう音楽は聴かなくなっていたと思う。クラシックもジャズもフォークもみんな鬱陶しかった。もちろん、鬱陶しかったのは自分自身だった。

小林秀雄の「モオツァルト」も読まなかった。ページを繰っても入っていけなかった。

大学を出てからしばらくして、高橋悠治の本を読んだ。たまたま彼の弾くサティを聴く機会があったからだ。サティという音楽家もユニークだが、高橋悠治という音楽家のほうがよっぽど刺激的、衝撃的だった。彼の演奏については語る資格がない。文章がすごかった。『音楽の教え』(晶文社、一九七六年初版、手許にあるのは八六年10刷)というエッセイ集のなかに〈小林秀雄「モオツァルト」読書ノート〉と題された文が収められている。

衝撃を受けたなんてものではなかった。小林秀雄がここで木っ端微塵に打ち砕かれていると思った。爽快だった。もう忘れていいのだと思った。

敬遠して、そのまま遠くに置き去りにしてしまうものもある。逆に、もう半世紀近くも経つのに、ぶり返してくる記憶、思い出、体験もある。

数年前に、小林秀雄の伝説と化した「感想」を読んだ。ああ、そうだったのか。感慨深いものがあった。この人は骨の髄まで翻訳者なのだと思った。なぜそう思ったのか、ここではくどくど書かない。どうせうまく書けないだろうから。この作品は、とてもシンプルな一文から始まっている。

 

終戦の翌年、母が死んだ。母の死は、非常に私の心にこたえた。

 

なぜ「非常に」こたえたのか。実の母が死んだのだから、当たり前だろうと人は言うかもしれない。たしかに。でも、当たり前のことを書くのと、書かないのでは雲泥の差がある。これもまた当たり前の話ではあるけれど。

周知のように、というか、この「感想」の初段にも書かれているように、戦後最初に小林秀雄が発表した「モオツァルト」には、「母上の霊に捧ぐ」という献辞が添えられている。そしてこのエッセイには、こんなことが書かれている。あまりに有名な一節だから、引用するのも憚られるのだけれど。

 

もう二十年も昔のことを、どういう風に思い出したらよいかわからないのであるが、僕の乱脈な放浪時代の或る冬の夜、大阪の道頓堀をうろついていた時、突然、このト短調シンフォニイの有名なテエマが頭の中で鳴ったのである。

 

「もう二十年も昔のこと」というのは、漠然とした過去ではなく、著者自身の痛切な、痛恨の一事を指している。一九二五年(大正十四年)、小林秀雄は京都から上京してきた中原中也と出会う。中也は長谷川泰子という愛人を伴っていた。

 

中原と会って間もなく、私は彼の情人に惚れ、三人の協力の下に(人間は憎しみ合う事によっても協力する)、奇怪な三角関係が出来上がり、やがて彼女と私は同棲した。この忌まわしい出来事が、私と中原との間を目茶々々にした。言うまでもなく、中原に関する思い出は、この処を中心としなければならないのだが、悔恨の穴は、あんまり深くて暗いので、私は告白という才能も思い出という創作も信ずる気になれない。(「中原中也の思い出」昭和二十四年発表)

 

こんな「奇怪な三角関係」が長続きするわけがない。三年後、小林と泰子との同棲は破綻し、小林は大阪へと逃げる。そして、道頓堀で突如、「ト短調シンフォニイ」の主題が頭のなかで鳴り響くのである。

小林秀雄が悔いているのは、じつは中也との三角関係と泰子との同棲の無残な破綻だけではない。同棲生活から逃げて大阪に出奔したとき、それまで彼が支えてきた病弱の母も東京に置き去りにした。だから、小林秀雄の「モオツァルト」は二重の悔恨に苛まれている。そこを高橋悠治は痛烈に突く。

 

「ある冬の夜、大阪の道頓堀をうろついていた時、突然、このト短調シンフォニイの有名なテエマが頭の中で鳴ったのである」。この一行は、以後の音楽批評のパラディグマになった。だれもが音楽との「出会い」を書くことで、音楽論に替えようとする。そのとき、自分をできるだけあわれっぽく売りこむこともわすれない。(「小林秀雄「モオツァルト」読書ノート」)

 

この一節を読んだとき、おお、と声を上げたか、思わず膝を打ったか、そんなことは忘れてしまったけれど、今これを読み返してみると、自分が以前よりは小林秀雄寄りの位置に立っていることがわかる。

彼の悔恨は深い。青春の得体の知れない情念に引きずられて母を置いて逃げ出したことへの悔恨ばかりではなく、批評家という道を選んだことにたいする悔恨、というよりは、罪悪感のような、負い目のような、ある種の心的外傷のようなもの。

彼は大阪から奈良へと移り、志賀直哉の家に足繁く出入りしたのち、東京に帰ってくる。そして翌年、「様々なる意匠」を書き、「改造」の懸賞評論に応募する。これが第二席に入り(第一席は宮本顕治の「敗北の文学」)、批評家としての出世作となる。彼は青春の深い傷と引き換えに、文芸評論家になった。

彼がどこかの対談だか座談会だかで発言した「僕は演奏家でいいんです」という言葉。そういう「名言」が一人歩きする。批評家は演奏家ではない。翻訳家こそが演奏家であり、小林秀雄の批評の本質は翻訳にある、と今は強く思う。

翻訳とは何か。それは分析でも解釈でも、置き換えでもない。共感と感情移入を、どのようにして原文のスタイルを維持・保存しながら表現するか。小林秀雄のドストエフスキー論もゴッホ論もベルクソン論も、彼だけの持つ特異な感情移入の力に貫かれている。

 

この前、「モオツァルト」について書いた時も、全く同じ窮境に立った。動機は、やはり言うに言われぬ感動が教えた一種の独断にあったのである。あれを書く四年前のある五月の朝、僕は友人の家で、独りでレコードをかけ、D調クインテット(K.593)を聞いていた。夜来の豪雨は上がっていたが、空には黒い雲が走り、灰色の海は一面に三角波を作って波立っていた。新緑に覆われた半島は、昨夜の雨滴を満載し、大きく呼吸している様に見え、海の方から間断なくやってくる白い雲の断片に肌を撫でられ、海に向かって徐々に動く様に見えた。僕は、その時、モオツァルトの精巧明晳な形式で一杯になった精神で、この殆ど無定形な自然を見詰めていたに相違ない。突然、感動が来た。もはや音楽はレコードからやって来るのではなかった。海の方から、山の方からやって来た。(「ゴッホの手紙」序。昭和二十三年発表)

 

圧倒的な文だと思う。モーツァルトの音楽に素手で触れていると思わせるような筆致だ。ならば「モオツァルト」は、ここから単刀直入に切り込めばよかったではないか。なぜエッカーマンの「ゲーテとの対話」の引用から始めるというまだるっこしい迂路をたどったのか。いや、それはそれでいい。高橋悠治が徹底的にやっつけていることを、ここで蒸し返す必要はない。このモーツァルト論のハイライト・シーンはずいぶんあとに出てくる。ト短調クインテット(K. 516)の主題を楽譜そのままの形で引用したのち、こう続けているところだ

 

ゲオンがこれを tristesse allante と呼んでいるのを、読んだ時、僕は自分の感じを一と言で言われた様に思い驚いた(Henri Ghéon; Promenades avec Mozart.)。確かに、モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない。涙の裡に玩弄するには美しすぎる。空の青さや海の匂いの様に、万葉の歌人が、その使用法をよく知っている「かなし」という言葉の様にかなしい。(第9段)

 

これはほとんど「実朝」の変奏のようだ。長くなるが引用する。

 

(箱根の山をうち出でて見れば浪のよる小島あり、供の者に此うらの名は知るやと尋ねしかば、伊豆の海となむ申すと答え侍りしを聞きて)

 

箱根路をわれ越えくれば伊豆の海や沖の小島に波の寄るみゆ

 

この所謂万葉調と言われる彼の有名な歌を、僕は大変悲しい歌と読む。実朝研究家達は、この歌が二所詣の途次、詠まれたものと推定している。恐らく推定は正しいであろう。彼が箱根権現に何を祈ってきた帰りなのか。僕には詞書にさえ、彼の孤独が感じられる。悲しい心には、歌は悲しい調べを伝えるのだろうか。それにしても、歌には歌の独立した姿というものがある筈だ。この歌の姿は明るくも、大きくも、強くもない。〔中略〕「沖の小島に浪の寄るみゆ」という微妙な詞の動きには、芭蕉の所謂ほそみとはまでは言わなくても、何かそういう感じの含みがあり、耳に聞えぬ白波の砕ける音を、遥かに眼で追い心に聞くと言う様な感じが現れている様に思う、はっきりと澄んだ姿に、何とは言われぬ哀感がある。耳を病んだ音楽家は、こんな風な姿で音楽を聞くかも知れぬ。(「実朝」昭和十八年発表)

 

実朝という短命の権力者の孤独をここまで適確にとらえた表現はほかにあるだろうか。おのれの儚い宿命の予感がこの歌に宿っているというのである。モーツァルトのように。だが、これ以上の解説は僕のような無学の者には堪えられない。

「モオツァルト」と「実朝」が並んで収められている古い新潮社版全集の第八巻には「翻訳」と題されたエッセイも収録されている。著者の学生時代「一枚十五銭から二十五銭位で、ずい分沢山の代訳をしたものだ」と書かれている。この代訳とフランス語の家庭教師で得た、おそらくはささやかな収入で、彼は一家を支えていた。父の豊三が死去した大正十年(一九二一)に秀雄は第一高等学校文科に入学したが「母の喀血、自分の神経衰弱、家の物質的不如意」などのために休学している(新潮日本文学辞典)。豊三は御木本真珠店に勤務したのち、日本ダイヤモンド株式会社を設立して専務取締役に就任していた人である。そして、大正十二年(一九二三)には関東大震災が起こっている。翌年、灰燼に帰した東京で二高生だった富永太郎と出会い、ボードレール、ランボーを知り、この富永太郎を介して中原中也との交際も始まるのである。

この間、小林秀雄は「蛸の自殺」「一つの脳髄」「ポンキンの笑い」(後に「女とポンキン」と改題)などの小説を書いている。これらまるで自分の「神経衰弱」から生まれたような小説を、今読む人は——研究者を除けば——ほとんどいないだろう。でも、文学史にタイトルだけは残る。初期の段階では、彼が小説を書いていたという事実も残る。でも、彼が生活のために書いていた翻訳は残らない。本人が「私の劣悪な翻訳が、誰の名前でどこで出たか今以て知らない」と書いているくらいだから。しかし、彼は翻訳という作業の魅力、魔力を知り抜いている人だ。

彼は「ゴッホの手紙」を書くにあたって、マイエル・グレエフェの「ゴッホ評伝」を英訳で読んでいる。表紙には翻訳者の名前も書いていないが、序文を読むと翻訳の苦労がよくわかる。そこにはこんなことが書かれていたというのである。

 

原著者の真意は、その独特のスタイルの為に、普通の翻訳のやり方では英国の読者には伝え難い。そこで〔・・・〕、頭に原文が這入るまで幾度となく原著を読み、講義をする積りになってみて英語でノオトを作った。ノオトが完成すると、原著を閉じて、ただノオトを頼りに、大胆な自由訳をする心算で書いてみた。ところが、後で原著と照らし合わせて読んでみると、われ乍ら忠実に訳している事に驚いた〔・・・〕(「翻訳」昭和二十四年発表)

 

この短いエッセイは、「この本〔=ゴッホ評伝〕には、日本訳もある様である。読まないから知らないが、日本の訳者はそこまで苦心はしていまい」という皮肉で結ばれている。

まさか、こんな翻訳ノートは作らない。でも、頭のなかではいつもこの英訳者がやっているのと同じようなことを毎日繰り返している。もし機会があったら、小林秀雄の墓前でそう伝えたいと思う。