*54 異様なものとしての文字

前回のブログ(*53)で、「文字というものは、神聖なものである前に、異様なものだという自覚が欲しい」と書いた。

どういう意図で書いたのか、補足しておく必要があるだろう。

 

 

最近はどうも固有名詞がなかなか思い出せなくて苦労する。年のせいだよと言われればそれまでだが、どうもそれだけではないような気もする。ま、それはそれとして、

たしか、保坂和志の言葉だったと記憶するのだが、どの作品に書かれてあったのか、どうしても思い出せない。思い出せないということは、それ自体で不快だし、おもしろくないし、元気がなくなる。本棚にある十冊ほどの彼の作品をぱらぱらとめくってみたのだが、あきらめた。

こんなことが書かれてあったはずだ(勝手に読み替えていたらごめんなさい)、

文字による描写というものは、そもそも不自然なものである。画家が二次元の画布に三次元の空間を再現しようとするのに似ている、と。そう、文字は抽象的な記号に過ぎない。その組み合わせによって、われわれの脳内に三次元の空間を再現しようとするのが描写である。風景であれ、人の表情であれ。

でも、文学に描写が出現するのはつい最近のことだ。すくなくとも意識して何かを描写し、あるいは描写することを目的として文字を書くという試みが出現したのは。つまり、近代文学の誕生。あるいは小説の誕生。

では、その前には何があったのか。歌と語り、とふつうは答えるだろう。そして、文字の出現はそのずっと後である、と続けるだろう、たぶん。しかし、そこでちょっと待て、と半畳を入れるのが「哲学」の役割だ、とベルクソンなら言うだろう。

最初に話し言葉があって、その話し言葉をなぞるために文字が生まれた、となんとなく、われわれは信じこんでいる。しかし、言葉(language)と文字(écriture)は出自も起源も成り立ちも違うものだと考えてみたらどうなるか。言葉のほうは比較的簡単だ。動物たちも言葉を持っているからだ。たとえプリミティブで分節化があまり進んでいないにしても、彼らもまた意思疎通の道具としての言語を持っている。おそらくは、花を咲かせ、種を飛ばす植物さえも。

しかし、文字となると、これははっきりと言える。動物は文字を持たない。もちろん植物も。

人間は言葉を書き写すために文字を発明したのか? そうではないだろう。こんなことを考えるようになったのは——はっきりと憶えている——『文字の歴史』(L’écriture, mémoire des hommes; col. Découvertes Gallimard, 1987)を翻訳していたときだった。後半部の「資料篇」のなかに、ロラン・バルトの『記号の帝国』(l’Empire des signes)からの引用があった。

 

日本の文房具屋では、表意文字そのものが商売の対象となっている。この表意文字はわれわれの目には絵画からの派生物に見えるのだが、じつはごく単純に言って絵画の根本をなすものである(芸術の起源は刻むことにあるので、表現することにはないということは大事なことである)。〔元の訳が不十分なので、新たに訳し直した〕

 

ロラン・バルトらしい炯眼だと、そのとき直感的に思った。が、その時点ではそれ以上深く考えることをしなかった。この「刻む」という行為は、しかし、何のために行われるのか? バルトなら、それは快楽(plaisir)だと答えるだろう。それもあるだろう。ただ、それを言うなら、手を動かす行為はすべて快楽に結びつくことになる。

そうではなく、祈りと結びついていると思えてならないのだ(快楽と祈りもまた同根かもしれないけれど)。

人によっては、円空を思い出すかもしれない。

無心になって彫る。自分の心が手と化す。

学生時代に棟方志功の回顧展を見たとき——「十大弟子」の迫力に圧倒されて——、これは二次元の彫刻だと思ったことがある。

あるいはミケランジェロの、二つの〈ピエタ〉。

あるいは護国寺の山門で仁王像を刻んでいる運慶を描いた漱石(『夢十夜』のなかの「第六夜」)。

われわれはすでに近代の教育に毒されているから、どれも「芸術作品」だと思って見てしまう。

けれど、彫刻と墓石とどこが違うかと考えてみることはしない。版木と卒塔婆とどう違うかと考えたりはしない。

人は石に何かを刻み、木に何かを刻んでいるときに、死者と語らっているのではないか。だから、

言葉(language)は、他者と意思を取り交わし、空間を飛び越えて、遠くに何かを伝えるための声であり、文字(écriture)は死者に語りかけ、その魂を鎮め、時間を越えるための印ではないのか。

 

 

だから、もちろん、ある意味では、やはり文字は神聖なものなのだ。でも、初めから神聖なものとしてそこにあったわけではないだろう。

死者を埋めたところに石を置く。あるいは木を立てる。

目印のために。でも、

石の、木の数が多くなると、区別がつかなくなる。

だから、記号が必要になってくる。

そして、人は区別というものを知るようになる。区別が向こう側にあるのではなく、自分の内側にあるということを知るようになる。

そして、最初は単純だった記号が複雑になり、精緻になり、やがて似姿を描けるようになり、ひとつの体系を形づくるようになる。言葉(language)が複雑な分節化の経路をへて、言語(langue)という規範になっていくように。

そして、その過程のどこかの時点で、記号は言葉を写せることに気づき、言葉は記号となって時間を超えられることに気づくのだ。

それが幸福な結婚であったかどうかは、人間の歴史が証明している。

人間の歴史は戦争の歴史だ。ある体系とある体系のどちらが強いか、食うか食われるか。われわれは死滅した言語を数えることはできない。なぜなら、それは死滅してしまったからだ。

 

 

もうひとつ考えなければならないことがある。人間の文明にとって、定着とは何かということ。そして、遊牧と移動から生まれた文化と信仰とは何かという問題。それと言語との関わり、文字との関わり。

でも、それは永遠の宿題のような問題だ。少しずつ考えていくことにしよう。