*56 福音書に書かれていないこと(その2)

前の記事の最後に(つづく)と書いて、ただ日にちだけが過ぎ去っていく。たぶん何かを間違えたのだろう。書き出しの方向が違うとか、展開の仕方を間違えたとか、そういう技術的なことではないような気がする。

人としての、個人としてのイエス——いわゆる「史的イエス」——を追っていっても、数多あるイエス伝の、階上屋を重ねる類のことくらいしかできないに決まっている。たとえ努力して、夥しい時間を費やして、玄人はだしにもならない背伸びみたいな、はったりみたいなことをやってのけたとして、それがいったい何になるだろう。誰のためになるだろう。

書き方を変えなければならない。認識というものが、自分の外側にあってそれをなぞるものではなく、自分の内側にあって、それを掘り起こすものだとすれば、おのれの身の丈にあった形式の発見こそが、本当の認識の端緒になると信じよう。

 


 

「おい、いったい、あいつは何者だい?」

「知らないな。このへんのもんじゃないだろ?」

「なんでもナザレの出らしいよ」

「そんなやつが、どうしてこんなところで布教なんかしてるんだ」

「ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けたらしい」

「へぇ、ヨハネの弟子ってことか」

「だけどよ、ヨハネから洗礼を受けたやつはごまんといるだろ」

「なんでもそのあと四十日間断食したらしい」

「ふーん、どこで?」

「詳しくは知らないけど、人里離れたところらしいよ」

 

人々は最初は半信半疑である。そのうち、いろいろな噂が飛び交ってくる。

 

「おいおい、あいつ、病気を治すらしいぞ」

「病気って、どんな?」

「らい、とか」

「うそだろ、触れたらうつってしまうじゃないか」

「でも、みんなそう言ってる」

「悪魔払いもできるらしい」

「ほんとか?」

「うん、サタンよ、去れって言っただけで、悪魔が離れていく」

「おまえ、見たのか?」

「いや、だから噂だって」

「この目で見てみたいもんだね」

 

あるいは、

 

「見たわよ、見たわよ」

「え、なにを?」

「なにじゃなくて、ひとだよ、あのひとだよ」

「あのひとって?」

「いやだね、このひと、あのひとのことも知らないのかい。イエスさんのことだよ」

「え、あのイエスさん? 病気を治すイエスさん?」

「そうだよ!」

「どんなだった?」

「どんなもこんなも、ものすごい人だかりでさ。見えないんだよ」

「なんだ、見てないんだ」

 

というようなこともあっただろう。なにしろ福音書には、多いときには数千の人が集まってきたと書かれているから。噂は噂を呼び、どんどん広がっていく。

 

しかし、実際に見た人、声を聞いた人、話を聞いた人、触った人、触られた人もいただろう。たとえ少数であったとしても。最初のパン種。良い土地に落ちた何粒かの麦。

 

(つづく)