*66 フランスの女・抄(その8)

これを最終回にしようと思う。そもそも八回も連載するとは想定していなかった。三回か四回、長くても五回くらいに考えていた。さすがにくたびれてきた。前口上を長々と書いている場合ではない。さっそく本題に入ろう。

 

ジャンヌはどうなったか? ジャンヌとルイは? ジャンヌとマチアスは?

ジャンヌもルイも、シリアに居残れるわけがない。現地の駐在武官の妻が不倫をしただけでなく、三角関係の果てに夫に重傷を負わせたとなれば、ただのスキャンダルではすまされない。

ジャンヌは三人の子供を連れて、パリの将校クラブの施設に入る。マチアスはベルリンからたびたびパリにやってきては、ジャンヌとの逢瀬を重ねるが、ルイが入院しているときにベルリンに彼女を連れて行く決心はつかない。

そして二ヵ月後、退院したルイがパリにやってくる。またインドシナの前線に戻るという。危険な戦地に志願していくわけだから、軍人としての俸給も上がる。養育費としては十分だろうという。離婚という言葉はついにその口から出てこない。

ジャンヌは、これはルイの復讐なのだと思う。だが、ルイの心の動きはそう単純に割り切れるものではなかった。ダマスカスの病院に入っているあいだ、彼の考えは千々に乱れた。

 

当然、離婚すべきだった。しかし、ルイはなおも迷った。心のどこかで、ジャンヌの愛を信じていた。今なお妻の愛を信じている自分と、裏切られたという明白な事実の間の距離を埋めるものがなかった。しかも、ジャンヌの愛を信じることと、自分がジャンヌを愛していると信じることの間にも距離があった。ジャンヌを憎みきれないということと愛しているということは微妙に違っていた。その証拠に彼女に会いたいとは思わなかった。もしかすると自分は記憶のなかのジャンヌを愛しているのかもしれない。世間から隔離された入院生活で、冷たく分析する心ばかりがまさった。分析は心を傷つける。生きる意欲を削いでいく。自分の背中を襲ったあの瓦礫がいっそのこと脳天を打ち割り、アパメアの遺跡で死んだほうがよかったとさえ思う。ジャンヌのためにシリアに来たのに、それが徒になった。むしろインドシナに行ったほうがよかった。そうすれば、ジャンヌがマチアスと関係を持っていたとしても知らずにすんだのではないか・・・・・・。退院間近になって、ルイは見舞いに来たアルヌーに、またインドシナに行く意志を告げた。アルヌーは何も答えず、本国へその旨打電した。

 

ジャンヌの心も千々に乱れている。三人の子供の手を引いて毎日教会に通う。パリの街の華やかさと自分の内部に押し殺した孤独、目を昂然と上げようとすればするほど、その落差にジャンヌは憔悴する。教会の静けさと暗さは救いだった。

ルイから離婚の承諾を得るために、ジャンヌは何度も手紙を書こうとする。だが、激戦のインドシナにいる夫にそんな手紙を書くことはできない。ルイとジャンヌの夫婦の結びつきは、端から見るより、そして当人たちが意識している以上に強かった。男女の愛はかならずしも情熱や性愛のかたちを取るとはかぎらない。夫婦の絆はこの世でもっとも不可思議なものかもしれない。

マチアスもそれに気づく。度々パリにやってきて、ジャンヌの真意を確かめようとしても果たせず、肌を重ねても、不安を忘れるためだけの性愛には心の疎通がない。怪しく、暗く、隠微な感情を残したまま朝を迎えるしかなかった。それがルイの意図せぬ復讐だった。

マチアスもそれに気づいた。しかし、彼は辛抱強く待った。ジャンヌが荒れ放題の生活から立ち直り、意を決してベルリンに来る日を待った。しかし、その日が訪れる気配はなかった。そして、自分が意を決するしかないと覚悟した。

——もうひとりきりはいやだ。ぼくは待った、ただひたすら待ちつづけた、ひたすら希望を抱いてきた。きみの子供がほしかった・・・・・・。愛しているよ、ジャンヌ。でも、今日ぼくはわかった。きみはけっしてぼくのところへはやってこない。

二人の男に立ち去られて、ジャンヌにも覚悟のようなものが訪れる。それは単純な真実だった。人生においては、誰も助けてはくれない、誰も救ってはくれない。自分を救うのは自分だけだという真実。マチアスは去った。ルイはいつ帰ってくるかわからない。ここはナンシーではない。母のソランジュも姉のエレーヌもいない。覚悟するしかなかった。希望から覚悟は生まれない。

彼女はまず、朝の習慣から変えることにした。早起きして、午前中に家事のすべてを片づける。夕食の下準備も午前中にすませる。昼食のあとに仮眠を取る。そして買い物に出かける。夕食はかならず七時に親子四人で取るようにして、九時には子供を寝かしつける。それからが彼女の時間となる。パリは不夜城だ。気晴らしの手段なら何でもある。カフェに行けば男が話しかけてくる。男はジャンヌをものにしたくてバーに誘う。いい男であれば、誘いに乗る。波長が合えばホテルにも行く。だが、三時にはかならず帰宅する。朝までずるずる男と過ごすことはない。そして六時になればかならず起きた。するべきことはする、しかし、禁止は設けない。それがジャンヌの生活の規則となった。

 

ジャンヌは禁欲的な快楽主義者に変貌した。彼女は自分のスタイルを見つけた。それは彼女の弱さを抑えることではなく、磨くことだった。青い瞳は硬度を増した。肌は内部から輝いた。赤い唇から漏れるアルトの声には芯が入った。ルイから手紙が来ると丁寧に返事を書いた。たとえ前夜、街の男と寝たとしても。サン=ジェルマン=デ=プレ界隈の夜のカフェで、しだいにジャンヌは人気者になった。当時この界隈のカフェは文学者たちの溜まり場だった。ジャンヌには教養こそなかったが、肉体に宿る率直な知性のようなものがあった。知らないものは知らないと言った。言葉にまで化粧する必要はない。ジャンヌのそういう率直さと美貌に惹かれて、自著を片手に言い寄ってくる小説家もいた。だが、彼女はそういう手合いには見向きもしなかった。知性が男の魅力だとは思えなかった。目の前に置かれた本はただの紙の束にすぎなかった。彼女が愛したのは、金のある実業家か、自分の若さと肉体をもてあましている青年だった。彼女がほしかったのは、生きるための直接的な力だった。

 

これがジャンヌの人生の絶頂である。

この箇所を書き写していて、もういいだろう、と思う。映画にも小説にも終わりはやって来るし、もちろん人生にも終わりはやって来る。しかし、ジャンヌには絶頂のまま、そこで時間を止めてやりたいとさえ思う。

とはいえ、このブログを読んでいるひとがみな本やビデオを持っているわけではないので、簡単に結末を粗描しておこう。本だと、残りわずか十ページほど。

一九五四年五月、ベトミン軍の総攻撃によって、ディエン・ビエン・フーは陥落する。トンキン湾に面したハイフォンにいたルイは、フランスがアジア最大の植民地拠点を失うと同時に、戦闘から解放される。

パリに戻り、ジャンヌのアパルトマンを訪れたルイは、部屋がこぎれいに片づいているのを見て驚く。ジャンヌのなかで何かが変わったことを直感する。ルイはすっかり成長した息子たちにも満足し、彼らとの会話に終始する。ジャンヌとのあいだに言葉は無用だった。留守中のことを穿鑿する欲求はいっさい感じなかった。マチアスのことは彼のなかで終わったことだった。今なおジャンヌと関係が続いていたとしても、どうでもよいことだった。この今があればそれでよかった。

ルイは束の間の休暇を南仏で家族と一緒に過ごしたあとは、地中海の向こう側のアルジェリアに行くことに決めていた。ルイの最後の戦争。この戦争は一九五四年十一月の「革命委員会」による武装蜂起に始まって、一九六二年に休戦協定が締結されるまで八年間続いた。五十三万の兵員が投入され、二万五千人の戦死者を出して、フランスはアルジェリアから撤退した。結局、インドシナに続いてアルジェリアも失った。ルイは負け戦を運命づけられた軍人であることを知る。

ジャンヌが呼吸困難に陥って、パリの自宅で倒れたのは一九六八年のクリスマスのことだった。その日の朝、なかなか起きてこない母を心配して、アントワーヌが寝室を覗いてみると、ベッドの上に広げた新聞にうつぶせになっている母親を発見した。その新聞には「実業家マチアス・ベレンス氏死去」という見出しの下に彼の顔写真が掲載されていた。いくらか老けたとはいえ、別れたときのままの顔がそこにあった。マチアスはジャンヌと別れてから、ひたすらビジネスに奔走した。いつしか独仏経済の架け橋と呼ばれる実業家になっていた。ジャンヌはマチアスの活躍が何よりうれしかった。彼の活躍は、ジャンヌの際どく緊張した生活の支えでもあった。彼女はマチアスの訃報を知る前から人生に疲れを感じはじめていた。

しかし、一九一九年生まれの彼女は、この時点でまだ四十九歳なのである。マチアスの交通事故死を告げる記事を読んだとき、彼女の内部で何かがぷつりと切れた。記事には、西独のアウトバーンを走り、独仏国境を越えたあたりで、長距離輸送のトラックと衝突したと書かれていた。彼女はあの日のナンシーのことを思い出す。あの日もまた、彼は車を走らせて会いにやって来た。ジャンヌのなかで時間の流れが交錯して、今回もまた彼は自分に会いに来ようとしてトラックにぶつかったのではないかと思った。

 

そのときジャンヌは底知れぬ罪深さのようなものを感じた。それはルイの背中を傷つけたときの激しい後悔、罪悪感とは違う種類の感情だった。生きていること自体に伴う違反のような感情。キリスト教が傲慢の罪と呼んでいるもの、もっと簡単に言えば、生まれてこなかったほうがよかったという嫌悪の感情。ジャンヌはこれまでそういう感情から逃れようとして、ひたすら快楽を追い求めてきたように思えた。ベルリンの寒い冬の夜、車のなかで握り交わした熱い手。その手から手へ伝えられた思いが何であったか、ジャンヌにはもうわからなかった。そして、ナンシーの朝、溶け合った二人の肉体を貫いた激情も他人の経験のようだった。

 

 ジャンヌはパリ市内のネケール病院に運ばれ、心臓が衰弱しているので長期の入院が必要だと診断された。ジャンヌは入院しなければならないのなら、ナンシーに帰してくれと頼んだ。

ジャンヌの入院生活は緩慢な自殺のようなものだった。一種の拒食症に陥っていた。医師たちはその原因を突き止めることができなかった。ナンシーに帰ってきたこと自体が人生の終わりの選択だった。ソランジュはもちろんエレーヌもマチルドも見舞いにやってきた。ひとりひとりに笑顔で感謝の気持ちを伝えた。そのときルイはマダガスカルの部隊を視察に行っていて、すぐに帰国することはできなかった。まさか四十九歳になったばかりのジャンヌが死に至る病にかかっているとは知る由もなかった。

 

ルイがナンシーに到着したとき、ジャンヌはすでに事切れていた。看護婦から渡されたジャンヌのハンドバッグのなかには、折り畳まれた新聞が入っていた。マチアスの訃報が載っていた。すべての夢がついえた。ルイは退役をひかえていた。退役したら、ジャンヌが好きだった南仏で余生を送ろうと思っていた。長い長い別離の夫婦生活だった。二人して老い、ようやく夫婦らしい暮らしができると思っていた。すべての戦争に負け、そして最愛の女の愛も失った。ジャンヌがマチアスを死の直前まで愛していたという事実に驚きさえしなかった。嫉妬さえ感じなかった。ただ、自分の人生もジャンヌの死とともに終わったことが明らかになっただけだった。

 

ルイはコートの襟を立て、裸の冬木立が続くナンシーの街路をとぼとぼと歩く。スタニスラス広場にやってくると、ルイ十五世の彫像が目に入った。あの日、この公園で心臓発作を起こし、ジャンヌの膝の上に頭を乗せて眠った父の姿が脳裡によみがえる。父ほど幸せな男はいなかったとルイは思う。

(了)

 

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この八回にわたる連載を終えて、気づいたことがある。この小説はレジス・ヴァルニエ監督の『フランスの女』を下敷きにしているだけでなく、パスカル・キニャールの初めての長編小説『ヴュルテンベルクのサロン』(拙訳、早川書房、一九九三年刊)を流れる主題の変奏曲でもあるということだ。

パスカル・キニャールはこの小説を書くことによって、小説への恐れを払拭できたと述べているが、私にとっては、翻訳とは何かということを徹底的に教えられた作品だったということを言い添えておこう。

そして、もうひとつ大事なこと。盲目の祖父の膝に抱かれて過ごしたジャンヌの幼年期の原形は、私の死んだ妻が語った思い出話のなかにある。