*70 メランコリー(esq.04)

 先日、このブログの愛読者(?)から、猫さんって、高橋さんのことですか、読んでいると高橋さんの顔が思い浮かぶんですけど、そんな読み方をしてもいいんですか、と尋ねられた。帯広の人である。
 いささか動揺しつつ、いいんです、と答えた。読者がどんな読み方をしようと、書き手は文句を言えない。こんなふう、あんなふうに読んでほしいという希望もない。ひとつのテクストが読者の目に触れたら、その時点で読者のものである、というのがわたしの物書きとしての基本的な考え方である。
 もっと踏みこんで言うならば、読書はそれ自体で創造的な行為であると思っている。そんなふうに考えるようになったのは、たぶん翻訳という職業のせいだろう。読むという行為は、俗に言う「行間を読む」ことにほかならない。空白から何かを読み取っているのである。書かれている文字は、空白を読み取るための手掛かりにすぎない。翻訳家は、空白を読み取ったのちに、それを書かれた文字の流れと形(原文)に沿って訳文という形を整えていくのである。
 この点を掘り下げていくと、翻訳をしているこの私、あるいは原文の作者とは何か、それは誰なのか、という悩ましい問いの迷路に入り込んでいくことになるが、ややこしい書き方はやめよう。
 この小説の場合——まだタイトルさえ決まっていない骨組みにすぎないけれども——、書き手はこのブログの制作者と同じ名前を持つ人間であり、小説の主人公は、その書き手が命名した猫柳泉という人間である。そういうごく単純な構図がまずある。猫柳泉という人物を造形していくにあたって、無からは何も作り出せないので、素材を書き手の人生や経験から借りてくることになる。だから、その意味では主人公は書き手の分身である。だから、主人公はようするにおまえのことかと問われれば、はい、そうです、と答えて、ごちゃごちゃ言い訳しないというのが書き手の潔さであるとも考えている。
 しかし、書き手が自分の書くことのすべてをコントロールしているとはかぎらない。というよりも、そんなことは不可能である。自分が何を言っているか、本当のところ、人はけっしてわからないものだから。
 誰も私とは何かとか考えて生きてはいない。そんなことを考えながら生活を営むことはできない。しかし、この人生において、何かに躓いたとき、何かの事故に、何かの事件に遭遇し、巻きこまれ、二進も三進もいかなくなったとき、あるいは病に冒されたとき、あるいは恋に落ちたとき、何者かわかっていたつもりになっていた自分が崩落、崩壊するとき、人は初めて考える。
 この物語は、書き手の気まぐれによって命名された人物が、私とは何か、私はどこから来たのか、誰を愛しているのか、問いを重ねていく物語である。
*2
 猫さんはネコという名の猫の頭を撫でながら、最近ときどきふと、こいつが死んだらオレは天涯孤独になるなぁと思うのである。自分の生まれ育った町に戻ってきて五年、ようやく新しい生活にも慣れてきた。と言いたいところであるが、ことはそう単純なものではない。晩年——還暦を過ぎたのだから、こう言っても差し支えないだろう——になってから、生活の場所を変えるのは、たとえそこが自分の生まれ育った場所であっても、いやむしろ、いわゆる故郷と人の呼ぶ場所であるからこそ、得体の知れない齟齬のような、統合失調的な気分が終始つきまとうのである。
 猫さんの場合、故郷といっても、小学生までのことである。中学校から先はずっと東京暮らしだった。小学校時代のアルバムや文集の類を後生大事に保存していたわけでもなく、年賀状のやり取りを続けている同級生がいるわけでもなく、特段、懐かしいと思った記憶もない。
 なので、猫さんには、故郷は遠きにありて思うものというような感慨もなく、故郷の風に、おまえは何をしてきたのだと問われたこともない。
 ただし、沈むことは沈んだ。医者には、立派な鬱だ、とまで言われた。たぶん、鬱病チェックシートのなかの「ときどき死にたいと思うことがありますか?」という項目に丸をつけたからだろう、と本人は思っている。けれども、これは正直に答えたまでで、物心ついたころからずっと「ときどき死にたい」と思ってきたのである。さしたる原因もなく、ただ漠然と。生きているのがつらい、というのでもないし、生まれてすいません、というのでもない。トラウマになるようないじめを受けたこともない。暗雲垂れこめるという感じではなく、脳内薄曇りという感じである。あえて言葉にするなら、死んだら気持ちいいだろうな、という感じに近い。そう、だから漠然と、たとえば昼下がりの空いている地下鉄のなかでエアコンの風に吹かれて揺れている週刊誌の広告を見ながら、あるいはなんとなく立ち寄った居酒屋で一杯目のビールを飲み干し、夏なら酎ハイ、秋冬なら麦焼酎のお湯割りか燗酒が口から喉へと通り過ぎていくときに、このままあっちに行けたらなぁ、と憧れにも似た感覚がふと脳内をよぎっていくのである。
 それって日常生活におけるささやかな至福の瞬間じゃないの、と訝る人もいるかもしれない。そう言われれば、そうとも言える。しかし、ハッピーではない。どんよりと曇っている。昔からそうなのである。中学校でも高校でも、授業中に窓を通して、校庭の隅に立っている桜の木——花はとうに散ってあおあおと葉の茂っている桜——が目に入ったときとか、増水した川にかかっている橋を渡るときとか……。いや、おそらく風景や季節やシチュエーションとは関係ないのだと思う。ときどき、脳がそういう波長になる。でも、今回は明瞭に、鬱だ、と言われた。精神科医に。引っ越し疲れが今ごろ出てきたのではないかとも言われた。
 この偶然には念が入っていると猫さんは思う。というのは、故郷に帰ってきて出会った唯一の知り合いが、この精神科医だったからである。猫さんの小学校時代に成績を競い合った同級生がいた。成績の上ではライバルだったが、とても仲がよかった。いっしょに勉強し、遊んだ唯一の友だった。彼はその当時から医者になると言っていた。猫さんには、小学生のうちからそんなに明確な目標が持てること自体信じられなかった。いつも漠然としているのである。だから、鬱と平常の区別がつかない。どこまで行ってもグレーのグラデーションである。真っ白になることも真っ黒になることもない。
 それはともかく、二ヵ月に一回血圧降下剤をもらっている行きつけの内科・呼吸器科のお医者さんに、どうも睡眠が不安定でと嘆くと、O市で唯一の精神科専門病院を紹介してくれたのである。
 診察室のドアに取り付けられている担当医のプレートを見ると、北島晋一、と書いてある。一瞬、視野が狭くなり、軽い目眩のようなものが襲ってきた。名前に心当たりがあった。ひょっとしてと思ったが、同姓同名ということは珍しくない。恐る恐るドアを開けると、デスクの向こうの人物と、目と目が合った。記憶のなかに残っている顔貌と今目の前に見ている顔とが重なるのに、たぶん一秒か、二秒かかった。半世紀以上の歳月を遡るのにそれだけの時間がかかったのだろう。北島くんは頭頂部が禿げあがり、太っていた。猫さんの頭髪は限りなく真っ白に近いグレーで、ここ数年で五キロ以上痩せた。
 ——晋ちゃん?
 猫さんのほうから、声をかけてみた。
 ——猫か?
 そう、猫さんは子供のころからこんなふうに呼ばれていたのである。泉ちゃんだと女の子みたいだし、猫柳という苗字も変わっているし、長すぎる。しかし、猫という愛称も変わっているのだが、本人は気にしていないし、要は慣れの問題である。そんなことよりも、半世紀ぶりの再会である。話は尽きないけれども、待合室にはたくさんの患者さんがいる。身の上話は夜に一杯やりながらにしようということになった。以下は、北島医師と猫さんの一問一答。
 ——どうなの、体調は、全般的に?
 ——うん、まぁ……。
 ——まぁ、というのは芳しくない……?
 ——いや、まぁ、芳しくないというほどのことでもないんだけれど……。
 ——ま、しかし、本調子ではない?
 ——ま、そういうことかな。
 ——具体的には?
 ——睡眠がどうもね……。
 ——よく眠れない?
 ——まぁ、一言でいえば……。
 ——寝付きが悪い?
 ——いや、寝付きはいいんですよ。
 ——早く目が覚めてしまう?
 ——朝早くならいいんだけれど、四時でも五時でも。
 ——眠りが浅い?
 ——そういうことになるかな……。
 ——必ずしもそういうわけじゃない、と。
 ——布団に入ったとたん、眠りに落ちるんですよ。たぶん、かなり深く。
 ——布団に入るのは何時頃?
 ——だいたい十二時頃ですかね。朝気持ちよく起きたいと思って……。
 ——ところが途中で目が覚めてしまう。
 ——そう、そうなんだ。
 ——何時頃ですか?
 ——一時とか、二時とか。
 ——なるほど。
 ——そう、ぱっと寝付くんだけども、ぱっと目が覚める。時計を見ると一時だったり、二時だったり。
 ——そのあとは?
    ——もうだめ。なにしろ電灯のスイッチを入れたみたいに、ぱっちり目が覚めてしまうから。真夜中に、頭が白々と冴えてくるのはなんとも不気味というか、気持ち悪いというか。
 ——で、どうするんですか?
 ——不眠と根比べです。布団に入ったまままんじりともしないで、天井を見ている。するとね、どんどん絶望的な気分になってきます。
 ——で、そのまま朝を迎える?
 ——いや、さすがに四時、五時になるとうとうとしてきて。といっても、そのくらいの時間になると朝日が差しこんでくるから、もう観念してのそのそ起き出す……。
 というような押し問答みたいな問診のあと、北島医師は、簡単なチェックをしてみましょうかね、と言って、いわゆる「鬱病チェックシート」を取り出したのである。幼なじみが半世紀の時間を経て、医師と患者として対面し、会話を交わすというのはいかにもくすぐったく、距離の取りづらいものである。
 そして、いくつもチェック項目の並んでいる質問表のなかに「ときどき死にたいと思うことがありますか?」という問いがあったのである。もちろん、猫さんの鉛筆を握る手は止まった。鬱病に関する専門的な知識がなくても、これにチェック・マークを入れれば、はい、私は鬱病です、と言っているようなものではないかと思ったのである。でも、チェックせざるを得なかった。それが猫さんの常態だからなおさらだった。
 チェックシートを受け取った北島医師は、シートを見ながらしばらく無言だった。そして、わずかな躊躇の気配とともに口を開いた。
 ——これはメランコリーだなぁ。
 最初は鬱病とは言わなかった。少し間が空いた。癌とは言わずに、悪性の腫瘍と言うようなものかと猫さんは思った。そんなに深刻なものでもないだろうとも思った。すると北島医師は、猫さんの無言の中身を察したかのように、
 ——鬱だよ、立派な鬱病だよ、と言ったのである。かつて歯に衣着せずに何でも言い合った幼なじみの間柄を取り戻そうとかのように。
 猫さんは苦笑した。
 ——鬱に立派も何もないだろう。
 ——いやいや、診断書を書いてやると、翌日から鬱病休暇と称してハワイに行っちゃうのもいるからね。
 ——ようするに仮病か。
 二人は声を上げて笑った。その笑顔のまま、晋ちゃんは続けた。
 ——とりあえず、睡眠導入剤的なのを出してみようか。
 ——でも、睡眠薬って癖になるんでしょう?
 ——うん、たしかに。正しく服用しないと依存性がある。
 ——そういうのは嫌だな。そもそも薬はあんまり飲みたくない。血圧の薬だって、ほんとうは飲みたくない。
 ——でも、まだいいほうだよ。心臓病に、糖尿病、病気のデパートみたいな人だっているんだから。
 ——依存性のあまりない眠剤というはないんですか?
 ——いや、あるよ。正確には眠剤ではなく、抗鬱剤の部類に入るけどね。
 ——え、抗鬱剤? そんなもの飲んで眠れるの? かえって興奮して眠れなくなるんじゃないの?
 ——いやいや、抗鬱剤って興奮剤じゃないから。まぁ、わかりやすく言うと、薬の力を借りて、くよくよしないようにするわけ。すると寝付きがよくなる。
 ——で、その抗鬱剤に依存性はない?
 ——うん、基本的には。
 ——ということは依存してしまう人もいる?
 ——何ごとにつけ、依存性の強いタイプの人もいるからね。
 ——なるほど。おれはどっちのタイプなのかな・・・・・・。
 ——ま、そんなに心配することはないよ。ためしに飲んでみたらいいじゃないか。効かないようならまた別の方法考えればいいわけだから。
 ——効き過ぎるとどうなんだろう?
 そこで、晋ちゃんは笑った。
 ——あいかわらずだな。
 ——あいかわらず?
 ——心配性ってことだよ。昔から石橋を叩いても渡らなかった。
 と言って、彼は何かを思い出したようだった。何を笑っていると問い詰めると、
 ——憶えているかな、小学校のグラウンドの隅に枝振りのいい柏の木があったろう。ドングリがなると、みんな登って取りにいったじゃないか。で、木ってのは登りは勢いで登っていくけど、降りるのがけっこうむずかしい。それでみんな降りきれなくなると、枝にぶらさがったりして飛び降りた。でも、おまえはぜったい飛び降りなかった。地面を見つめたまま、じっと枝にまたがっていた。そのうち、用務員さんか担任の先生がやってきて、梯子をかけてやるとようやくのそのそ降りてきた。
 そう言われて、猫さん、必死で思い出そうとするのだが、憶えていない。相手が作り話をするわけがないから、たんに記憶に残っていないだけなのだろうが、虚をつかれたように感じた。自分がそんなに臆病だとは思ったことがなかった。猫さんの無言をまた察するように、北島医師は軽い調子で話を続けた。
 ——ま、悪いようにはしないからさ。信用しろよ、こっちは専門家なんだから。ためしに毎日寝る前に一錠、一ヵ月分出しておこうか。
 猫さん、神妙に頷く。
 ——それが効くようだったらしばらく続けてみよう。効かないようだったら二錠にするか、別の薬を処方するか、一ヵ月後にまた考えてみよう。ときに寝酒はやるの?
 ——ほぼ、毎日。
 ——あ、できればそれやめて。薬といっしょにアルコールを摂取すると効果が出ないから。
 ——え、酒飲めなくなるのか。
 ——適度な晩酌はいいよ。寝酒はやめてと言ってるの。
 ——なんか絶望的だなぁ。
 ——真夜中の絶望とどっちがいいんだよ。
 いつのまにか、二人は五十年前の小学生に戻ったような気分になった。そのうち一杯やろう、というような言葉を交わして、猫さんは精神科の病院を出た。
(つづく)

*69 猫の登場(esq.03)

猫を登場させようかと思う。

といっても本物の猫ではなく、猫という愛称の人間、通称、猫さん。猫さんというくらいだから、本名は猫田とか猫村とか、それくらいしか猫のつく苗字は思いつかない。あとは猫柳とか。でも、こういう人名があるかどうか、調べがつかない。人名辞典のようなものを引けば出てくるかもしれないが、そこまでする必要もないだろう。

どうして、こんなことを思いついたかというと、*67*68と書いてきて、前口上ばかり書いていたんでは、いつまでたっても埒があかないと思ったのである。無駄なことを書いたとは思わないが、何かびびっている。それでは一歩前に踏み出すことはできない。そこで無理やり、まず登場人物に名前を与えて、とにかく歩かせてみること、そういう潔さみたいなものこそが、小説には必要だろうと思った次第である。

これは猫さんが恋をする物語である。

*1

猫柳泉、通称猫さんの生まれ育った場所は、北海道のO市である。といっても、中学校に入るときに東京に移ったので、そのあとはずっと東京である。しかし、還暦を迎え、出版社を定年退職したのち、一念発起して、生まれ育った町に帰ることにしたのである。

一念発起というよりは、四十代から五十代にかけて、想定外のことが立てつづけに起こり、その度に生まれ故郷の引力が強くなっていったというべきかもしれない。いずれにせよ、決断をするには何かを一気に切り捨てる膂力のようなものが必要なので、何となくそうしてみたというのとは違う。とりわけ生活する場所を変えるのは気力も勇気も必要になる。猫さんは、七十歳になってしまったら、もう動けないだろうと判断したのである。だったら早めに動いたほうがいい。

そういう決断を促した想定外の出来事というのは、椿事とか事故とか事件とは違う。家族のメンバーが、何となく思っていたよりも早く死んだということに尽きる。猫さんが四十五歳のときに父親が七十歳で亡くなり、五十歳のときに母親が七十二歳で亡くなり、五十五歳のときに同い年の妻が亡くなった。部位こそ違え、死因はみな癌だった。猫さんだけが残された。夫婦に子供はいなかった。

正確に言うと、猫さんと猫だけが残った。猫さんの奥さんが死ぬ二年前、猫を飼うと言い出したのだ。それまで猫さん夫婦は犬も猫も、小鳥も金魚も飼ったことがなかった。理由は様々あるだろうが、猫さんの母親が動物嫌いだったというのが一番大きかったかもしれない。動物は死ぬから嫌だというのである。いっしょに暮らしていたわけではないが、嫁と姑、奇妙に仲がよく、しょっちゅう行き来していたから、嫁は姑に遠慮していたということだろう。ところが猫を飼った二年後に本人が死んでしまったのだから、むしろ自分の命を猫に預けようとしたのではないかと、猫さんは奥さんが死んだあと、ふと思ったりした。余命わずかと気づいていたのかもしれない。四十歳のときに乳癌の手術をして、放射線治療やら抗癌剤治療などを続けてきたが、五十歳を超えた時点で肝臓への転移が見つかった。

残された猫の名前はネコ、少しややこしいが、奥さんがもらってきた子猫に特別な名前を付けようとせず、ただネコちゃん、ネコちゃんと呼んでいたので、妻が死んだからといって、新たに名前を付けるのも憚られて、猫さんもネコちゃんと呼んだり、あるいはたんにネコと呼び捨てにしたりしている。もちろん、北海道に移るときに、この猫も連れてきた。

呼び名のことでいえば、猫さんは家でも猫さんと呼ばれていたわけではない。親は泉と呼んだし、妻は泉さん、もしくはあなたと呼んでいた。猫さんと呼ぶのは職場の同僚であったり、懇意にしている作家や大学の先生である。新入社員も、最初のうちは猫柳さんと呼ぶのであるが、そのうちいつのまにか、先輩につられて、猫さんと呼ぶようになる。猫さんも、猫さんと呼ばれるのがまんざらでもなかったようで、相手が新入社員であっても自然に対応していた。

この辺のことを過去形で書いているのは、猫さんがもう会社を辞めてしまったからである。先ほど少し触れたように、猫さんの勤め先は出版社だった。出版社に勤務している人たちは、定年を迎えても、それまで勤めていた出版社の嘱託になったり、フリーランスの編集者になったり、いずれにせよ同じ仕事を続ける人が多いのだが、猫さんはきっぱり辞めてしまった。もちろん北海道の人口十数万の地方都市に移り住もうというのだから、嘱託もフリーランスもありえないという事情もあるが、それよりも猫さん自身が仕事を続けたくなかったのである。

猫さんが編集の仕事や出版業に愛想を尽かしたというのではないから、事情は多少やっかいである。本人にも説明がつかないところがあるので、書いている側が登場人物の考えていることを忖度するのも気が引けることである。

ただし、言えることは一つだけある。繰り返すけれども、猫さんはなんとなく生まれ育った町に帰ってきたわけではないということである。自分の出自に関すること、あるいは自分がなぜ生まれ育った場所を去らねばならなかったのか、そういった幼年期の記憶にかんすることで、腑に落ちないというか、どうも釈然としない、冥い部分があって、それを死ぬまでに納得したかったのである。

(つづく)

*68 名前の発明(esq.02)

アルジェリアから帰ってきて一時期勤めた翻訳会社を辞め、狭いアパートの一室にワープロとファクスを備え付け、「よろず翻訳引き受けます」的な構えでフリーランスの翻訳者として独り立ちし、数年が経ったある日、荻窪の駅ビルに入っている本屋で、ある新刊書を見つけた。見つけたというより、向こうから目に飛び込んできたと言ったほうがいい。

ポール・オースターの『幽霊たち』。翻訳は言わずと知れた柴田元幸。その冒頭。

 

まずはじめにブルーがいる。次にホワイトがいて、それからブラックがいて、そもそものはじまりの前にはブラウンがいる。

 

一九八九年の夏のことだ。記憶に自信はないが、奥付に記された発行日に間違いはないだろう。七月二十日とある。

目が釘付けになった。ため息をついたか、アッという小さな悲鳴が出たか、顔が崩れたか、もう忘れた。忘れたというより、誰かがそばにいて写真でも撮っていてくれないかぎり、そのときの自分の行動や表情を憶えているわけがない。

それから二年が経って、『孤独の発明』が出た。柴田さんの解説を読めば、この作品がポール・オースターのデビュー作だという。それはそうだろう。人が作家になるには社会から離脱しなければならない。孤独を発明しなければならない。社会が彼を作家と認める以前に、彼の内部に作家が誕生するのである。

まずは父方と母方、二人の祖父の思い出から記すことにしよう。二人とも明治生まれで、私が二十代のころに亡くなった。

父方の祖父は農家の長男として宮城県に生まれた。北海道開拓のいわば第二世代に当たる人で、北海道で一旗上げたら故郷に戻って実家を継ぐはずだったらしいが、結局この地で骨を埋めることになった。彼の考えていた「一旗」がどんなものだったのか、どんな思いで老後を迎えたのか、今となっては誰にもわからない。

母方の祖父は、弟子屈という温泉町の大地主の家に婿入りした人だった。戦前は天皇の所有地である御用林を管理する役人だった。彼の生まれた実家は弘前の資産家だったようだ。兄弟が何人いたのかは知らないが、長男は東京帝国大学を首席で出て、満州国ではかなり上位の官僚だったらしい。でも、それが徒——私の母親の言葉——になって、シベリアから帰ってこられなくなったという。

父方の祖父は、私の学生時代の最後の年に死んだ。死の床で小さな盃一杯の酒で唇をぬらしてこの世を去った。私は死に目には会えなかったが、葬儀には出た。告別式には出たが、火葬場で骨を拾うことができなかった。二十歳をとうに越えているのに、祖父の死を受け入れることができなかった。死とはこんなにあっけないものなのか、と思うと同時に、あとに何も残さない完璧な死だとも思った。

母方の祖父は、私がアルジェリアに出稼ぎに行っているときに、この世を去った。まさか祖父の葬儀のために帰国するわけにもゆかず、妻が幼い娘二人の手を引いて参列した。この年、妻の父が亡くなり、私たちの仲人をつとめていただいた方までが亡くなった。自分は何か間違ったことをしているのか、地中海に沈む夕陽を見ながら、漠然とした罪悪感が頭をかすめていったことを憶えている。

父方の祖父は農学校を出ていたので、開拓農民の子供を教える小さな小学校の教師として郡部を転々とした。当時の大方の入植者と同じように、畑を耕し、馬、豚、羊、鶏を飼い、半ば自給自足の生活を送った。定年退職で教員を辞め、帯広に出てからも悠々自適の隠居生活からはほど遠く、朝は牛乳配達員として近所に瓶詰めの牛乳を自転車に満載して配り歩き、午後からは運送会社の運転手たちにパンと牛乳を売りに出かけるのが、彼の日常だった。市内に家を建て、もちろんそこには寝室があるのに、わざわざ裏庭の物置の一角にベッドをしつらえ、そこで寝起きしていた。子供のころ、私は祖父といっしょにその粗末なベッドに寝るのが好きだった。その色あせた緑のごわごわとした麻のシーツと凍りついた硝子窓を、今でもよく憶えている。

母方の祖父は、戦後、営林署の職員となったが、婿入りした弟子屈の家はアメリカの占領政策によって資産の大半を失った。相続権を持つ祖母は、最後に残った土地屋敷を売り払い、家は札幌に移った。当時はまだ空き地の目立つ宮の森という郊外の土地に家を建てた。すでに嫁いでいる長女の母を除いて、男四人、女三人のきょうだいと両親二人の大家族が住む家であったから、居間や食堂を含め、全部で十室くらいはあったろうか。その南側には家の敷地と同じくらいの面積の庭があった。営林署勤めの祖父は、木材の手配はもちろんのこと、家の設計まですべて彼自身がやった。あまりに完璧な図面だったので、大工の棟梁が手の入れようがないと嘆いたほどだったという。私は物心ついてから、中学に入るころまで、毎年一回は必ず札幌の母の実家に遊びに行っていた。札幌は路面電車が走り、テレビ塔がそびえ、デパートが幾つも建ち並ぶ大都市だったし、神社と動物園まで歩いて二十、三十分で行けるその家は子供の好奇心を満たして飽きさせないところだった。

父方の祖父は即興の人だった。ある日のこと、どこからかもらってきた古い材木を雨風から守るための物置を作りはじめた。家の前の空き地の四隅にまずは、樹皮を向いただけの節だらけの丸太材を支柱として地面に埋める。その支柱の上に同じ丸太材を梁として載せ、太い針金で結わえ付ける。直方体の枠ができると、屋根を薄い板で葺き、側面に正目、板目、様々な板を張りつけていって壁となす。子供の目の前で、あれよあれよというまに一個の建物ができあがる。にわか造りとはいえ、これを二、三日で立ち上げてしまうのである。この祖父は、ふだん孫に対しては笑みを絶やさない、文字どおりの好々爺であったが、一念発起して何か事に当たるときには圧倒的な集中力を発揮する人だった。

母方の祖父は緻密の人だった。宮の森の家は南に大きく開かれていた。広々とした庭は一面青々とした芝に覆われ、季節ごとに色とりどりの花が咲く煉瓦の花壇に囲まれていた。庭の南端の、居間から見て正面に位置するところに葡萄棚があり、その下でジンギスカン鍋を囲むこともあった。その手前に直径一メートルほどのコンクリート製の丸い水盤が埋め込まれていて、金魚が何匹か泳いでいた。葡萄棚のさらに南側の空き地には大きな胡桃の木が立っていて、庭と祖父母の家を見下ろしていた。庭の南西の角には梨の木が二本植えられていた。梨が白い花をつけ、花びらが散り、実が育っていくころになると、祖父は新聞紙で虫除けの袋を何枚も作った。梨の木は二本合わせて数十個くらいは実をつけたから、その数だけ袋が必要になる。祖父は居間に新聞紙を広げ、定規で正確に袋の展開図を画き、鋏で切り取っていく。いったん袋の形に折り曲げてから、澱粉を溶かした糊を小さな刷毛で糊代に塗り、ぴったりと貼りつける。出来上がった袋はどれも寸分の狂いなく、梨の実が最大限に育っても破れないように計算されていた。

父方の祖父はときおり孫の私を街に連れ出した。牛乳配達に使う大きくて頑丈な運搬用の自転車の荷台に私を乗せ、駅近くにあった運送会社のトラック運転手の溜まり場にパンと牛乳を売りに行ったり、あるいは映画館にチャンバラ映画を観に行くのである。あるとき運送会社に連れられて行ったとき、ひとりの若い運転手が青カビの少し生えた餡パンを差し出し、「おい、おやじ、昨日のパンにカビが生えてたぞ」と言った。すると祖父は、突き出されたパンを握ると、「なに、これくらい」とぼそりと答え、青カビの部分にかぶりついた。青年は唖然として立ち去った。映画館は最悪だった。私がすぐに泣き出してしまうのである。幼稚園のころだったか、小学生になったばかりのころだったか。赤胴鈴之助が洞窟に閉じ込められてしまうだけで、この世の終わりが来たかのように、全身の力を振り絞り、映画館の暗い空間を絶叫で埋めつくすのである。こうなれば映画館を出ざるを得ない。祖父は無言である。蕎麦屋に入っても無言である。申し訳ないと思っていても、言葉が出ない。ただ蕎麦をすするしかなかった。

母方の祖父は家にいる人だった。外出するところも、外出先から帰ってきたところも見たことがない。ずっと家にいて、庭いじりをしているか、部屋を片づけているか、手先を器用に動かしているか、そういう姿しか記憶にない。街に連れ出すのは、そのころまだ十代後半から二十代前半にかけての、娘盛りの叔母たちだった。あるとき私はデパートで迷子になった。叔母たちの姿を完全に見失った。そのあとのことは憶えていないのだが、つい最近、母の二番目の妹に当たる叔母から聞いたところによると、デパートの外に出て、タクシーを拾って一人で帰ったというのである。住所は宮の森以外知らないはずだから、運転手に道案内をしたのだろう。料金はどうしたか? 家についてから、留守番をしていた祖母に払ってもらったという。あきれた話である。

父方の祖父は酒に目がなかった。早朝の牛乳配達が終わると、湯沸かし器が連結されたルンペンストーブの前に胡座をかき、ストーブの上で乾き物を焼いたり、近所からいただいた兎や鹿の肉をフライパンでジュウジュウ焼きながら、熱燗をちびちび呑む。徳利は針金を首に巻きつけた一合瓶である。それを寸胴鍋を大きくしたような湯沸かし器の縁に引っかけておく、燗がついたころに引き上げて、新しい一合瓶をまた湯のなかにどぼんと入れる。どのくらい呑んでいたのかわからない。ただ、しばらくすると必ず台所のほうから飛んでくる「いいかげんにしなさい」という祖母の声だけははっきりとこの耳に残っている。すると祖父はにやにや笑いながら、必ず「いやいや、今やめようと思っていたんだよ」と答えるのだった。

母方の祖父も酒が好きだった。好きなだけでなく、強かった。どれだけ呑んでも崩れないというのが祖母と母の弁であるが、子供の私の記憶に残っているのは、晩酌の儀式である。備前のようなものではなかったと思うが、ちょうど一合入るくらいの黒っぽい徳利にお揃いのお猪口、というよりは小さめのぐい呑みで、正しく二本。それ以上は飲まない。きわめて礼儀正しい酒呑みであった。酒肴は塩辛とか納豆とか、ごくありきたりのものだった。あるとき発泡スチロールに入った一人分の納豆を箸でかき混ぜながら、「これはすこぶる便利なものだね」と言った。量が一人前でちょうどいいだということが言いたかったのか、それとも容器がコンパクトで捨てやすいということが言いたかったのか、今ではもう確かめる術もないが、子供の私に印象的だったのは「すこぶる」という、少し古風な副詞の使い方だった。でも、今思い出して気がついたが、発泡スチロールの容器に入った納豆が出回るようになったのはずっと後のことだから、たぶん私はもう子供ではなく、高校生か大学生になっていただろう。

この二人の祖父が一緒に酒を酌み交わしているところを一度見たことがある。場所は父方の祖父母の家の居間である。両雄、ルンペンストーブと湯沸かし器を挟んで対座している。というのはやや大げさだが、子供心にもこの二人の祖父はかけ離れた存在だったので、二人が同じ空間にいるということだけで少し緊張したのである。でも、その場の雰囲気はなごやなかものだった。父方の祖父は終始ころころと笑い声をあげていた。母方の祖父も終始にこやかに笑みを浮かべていた。話の内容もわからない子供がずっとその場にいるわけもない。たぶん、二人の対面を見届けると、どこかに遊びに行ったのだろう。だから後日談しか知らない。母方の祖父は、あのひとはいい酒呑みだ、と言っていた。母方の祖母は、あんな酒呑みなら何杯でも飲ましてやりたいね、と言っていた。父方の祖父と祖母からは何も聞いていない。もしかすると母方の祖父が帰っていったあと、父方の祖父は細君である祖母に小言くらい言われたのかもしれない。あんなに飲んで、酔っぱらって恥ずかしいとか……。でも、これは現時点での私の想像でしかない。

思い出は尽きない。ただ、新しく名前をつけるとしたら、父から受け継いだ今の苗字と母方の家の苗字から一字ずつ取ろうと思っている、その理由を自分で納得するために、思いつくままに記憶の断片を並べてみたまでである。その名がペンネームになるのか、主人公の名前になるのか、それともその両方になるのか、今のところわからない。わからないので、今この頭のなかにあるその名前は伏せておく。

やがてこの試みがネット空間から外に出て、書籍として市場に出回るようになり、たまたまこのブログの読者が書店でその本を手に取り、最初は首をひねり、やがて、ひょっとしたら、これがあの連載記事の完成形かと気づく。そんな光景を夢みているのである。