*48 小林秀雄とベルクソン


塾生のみなさんに、次回(1月9日)は小林秀雄とベルクソンの話をしようかと思ってますなどと予告したのはいいけれど、さて困った。何をどう話せばいいのか、どこから話せばいいのか、見当がつかない。

十年ほど前に——正確には平成十七年(二〇〇五年)——新潮社の新装版全集に「感想」と題された長編エッセイが収められたので、勇んで買い込み読んだときの記憶から書こうかと思って、ここ数日読み返しているのだが、どんどん泥沼にはまっていくような重苦しい気分が鬱積していく。

そもそもこのエッセイ自体、文字どおり伝説と化した作品なのである。手許にある本の帯には「雑誌連載五年を経て中断、ついに刊行も禁じたベルクソン論・・・・・・」とある。

雑誌とは『新潮』のこと、連載開始は昭和三十三年の五月、中断は三十八年の六月、その後著者は連載を再開することもなく、単行本として刊行することもなかっただけでなく、死後出版も禁じた曰く付きの書物なのである。それが禁を破って(?)日の目を見た。だから「勇んで」買い込んだわけである。

わたしが大学に入ったのは昭和四十八年のこと、小林秀雄が連載を中断してから、すでに十年の歳月が流れていた。そのころはまだ、文学部の学生といえば、同人誌を出したり、読書会を開いたりすることが特別なことでも、珍しいことでもなかった時代である。

そんな文学サークルのなかに、『新潮』に連載された小林秀雄のベルクソン論を全部コピーして(当時コピーは高かった!)回し読みしているところがあるという噂が流れてきたりもした。サークル間でけっこうお互いを意識したり、ライバル心を抱いていたりしたのである。

わたしは偏屈なところがあって、著者が失敗作だと思って刊行を禁じたものを、わざわざコピーして回し読みするなんて、おぞましいというか、卑しいというか、そういうサークルには惹かれるよりも反発を感じていた。しかも、有名な批評家を招いて、ご意見拝聴と来た日には、なんだか志が低いと思ったりもした。

それはともかく、当時の学生にとって小林秀雄は仰ぎ見る巨星のようなものだった。批評の神様とも呼ばれた。文芸評論の新たな世界を切り拓き、これを独立した文学ジャンルとして確立したという評価もあった。一介の文芸評論家が哲学を論ずるなんてこと自体が前代未聞だっただけでなく、書きつづけられなくなれば、みずからこれを失敗と断じ、封印してしまう。骨董屋で買った良寛の「地震後作」と題された書を得意げに自宅の床の間にかけていたら、専門家の吉野秀雄に越後地震の後の良寛はこんな字は書かないと言われて、その場にあった一文字助光で一刀両断にしてしまう。あるいは中原中也の恋人だった長谷川泰子を奪ったあげくに、これを捨てて奈良に逃亡するという若き日のエピソード・・・・・・。田舎からぽっと出てきたばかりの世間知らずの若い文学青年は、ただもう唖然とするか、あこがれるか、尊敬するか、あるいは敬して遠ざけるかしかなかった。当時のことを思い出すと、顔が赤らんでくる。

それだけでなかった。学生時代に深い親交を持った友人が二人いたが、そのどちらも小林秀雄に深く傾倒していたのである。

ひとりは大阪の男で、今わたしの書棚にある古い新潮社版全集は、彼のアパートで初めて見た。良寛の書のエピソードを語り聞かせてくれたのも彼だった。もうひとりは福島の男で、会って飲めば必ずドストエフスキーの話になり、ゴッホの話になり、小林秀雄の話になった。

そしてどちらも若死にした。二人のことは何度かブログに書いたのでここでは繰り返さない(* 1* 5*42)。

小林秀雄がいかに偉大とはいえ、われわれの世代にとっては過去の人だった。ベルクソン論を封印したのち、みずから入るべき墓としての本居宣長論に籠もった時点で、過去の人となっていた。だが、小林秀雄の偉大さは残した作品のなかだけにあるのではない。彼が独力で切り拓いた文学評論の沃野から、じつに多くの批評家、思想家が生まれ育った。吉本隆明、江藤淳、秋山駿、柄谷行人・・・・・・列挙するのはよそう、切りがないから。わたしたちの世代は、思想と評論の時代を生きた最後の世代だろう。

では、おまえにとっての小林秀雄とは何なのか、いちばん最初に挙げるべき作品は何かと問われるならならば、躊躇なく「近代絵画」と答えるだろう。この本(上に挙げた全集の第十一巻)を手にしたときの、喜びというか、驚愕というか、湧き上がる心の高揚は今も忘れることができない。のちにメルロ=ポンティの思索の世界——とりわけセザンヌを論じた「眼と精神」*6——にとっぷりと浸ることになるけれども、その下地はこの「近代絵画」の読書体験によってもたらされたものだ。

モネ、セザンヌ、ゴッホ、ゴーガン、ルノアール、ドガ、ピカソ、扱われた画家は七人、どの論も珠玉の名作であり、小林秀雄の代表作だと信じて疑わない。

この本によって、たんに絵の見方を教わったというだけでなく、ものの考え方、ないしは考えることそのものについて、教わったような気がする。

ところでこの絵画論には序文がついていて、「ボードレール」という章題がつけられている。短いけれども凡百のボードレール論よりもはるかに密度が濃く、大学の文学史で習う無味乾燥なボードレールについての解説など蹴ちらかしてしまうような迫力があった。文学と絵画と音楽をひとつの時代が見せるさまざまな顔のようなものとして論じることで、近代という時代と芸術の本質とを同時に教えてくれるものだった。小林秀雄はわたしの学校だった。ところで、「モネ」と題された章には、こんな分析的な文章がある。

 

要するに色とは壊れた光である。〔・・・・・・〕大洋の波は砂漠や岩に当たって砕け、飛沫をあげているが、もっと大きな太陽の光は地球に衝突して、砕け散り、地球全体を麗しく彩色している。太陽の光は、地上に達する前に無論、空気に衝突するから壊れる。空中に色素も顔料もあるわけではないが、空は澄めば澄ほど深い青になる。丁度、波の大きなうねりは、小さな岩を呑んで進むが、小さな波は小さな岩にも衝突して砕けるように、光のうちでも波長の短い青の波が、空気分子にぶつかって散乱しているからだ。紺碧の海も、水の分子に関する同じ理由から紺碧に見える。日の出や落日が真紅に染まって見えるのも、その場合、太陽光線は、空気の中を、特に、空気分子より粒の大きい塵埃や水蒸気を含む下層の空気の中を長い間通らねばならず、その為に、小さい波の散乱現象が強くなり、割合から言えば大きな波のほうが沢山眼に這入って来ることになるから、太陽は地平線に近づくにつれて、黄から、橙から、赤と染まって行く、という風に普通説明される。

 

長い引用だが、小林秀雄節の特徴が典型的に表れているところなので、注意して読んでほしい。ここには二つの問題が潜んでいる。ひとつは揚げ足取りとも重箱の隅をつつくとも思われかねない、小さな問題——でも、じつは大きな問題だと思っているので——、まずはそれから取り上げる。

光は壊れて色になるのか? 文学的比喩だからいいじゃないか、と言う人もいるだろう。けれど小林秀雄という人は本来そういう曖昧な表現を嫌う人であったはずだ。でも、彼はときどき自分で設けた規矩を踏み外す。

空が「澄めば澄むほど深い青になる」のは「光のうちでも波長の短い青の波が、空気分子にぶつかって散乱しているからだ」というのは科学的説明としてはおかしい。嚙んで砕いて消化しやすいようにした表現としてもおかしい。というのは、この引用した文のなかでさえ、自家撞着しているからだ。一方で、空が青いのは、光の波長のなかの青の波が空気分子に衝突して散乱しているからだと説明しておいて、後半の夕焼けの赤を説明するところでも、「小さい波(=青)の散乱現象が強くなり」、その結果「長い波」(=赤)が眼に這入ってくる割合が大きくなるからだ、と説明している。空が青く見える論拠に基づくならば、後半の理屈は逆にならなければならない。つまり、夕日が赤いのは青の散乱現象が抑えられるからだ、とならなければならない。

そもそも、空気が澄んでいるときに空がよけいに青く見えるのは、光のスペクトルのうち、人間の眼に青と感じられる波長をもつスペクトルが大気層に含まれている塵や水蒸気にあまり邪魔されず、たっぷりと地上まで到達するからだ。空気分子のひとつひとつに衝突して散乱しているわけではない。

わたしは心密かに、小林秀雄がベルクソンについての論考を投げ出したのは、彼の思考のなかにバシュラールのいう「認識論的障害物」が色濃く残っていたためではないかと思っている。あるいは奇妙に啓蒙的に振る舞おうとするとき、彼の舌はもつれると言うべきか。

「色とは壊れた光である」とか「太陽の光は地球に衝突して、砕け散り、地球全体を彩色している」とか書かれているのを読んだときには、文字どおり、ほとんど目が眩みそうになった記憶がある。その一方で、おや?と首をひねった記憶もある。事実、わたしの持っている本の、この引用箇所に出てくる「小さい波の散乱現象が強くなり」のところには、鉛筆の薄い線が引かれている。

久しぶりでこのページを開き、この鉛筆書きを発見したときには、一瞬たじろいだ。変だと思った記憶の証拠がここにあると思ったからだ。

それはともかく、もうひとつの問題に移ろう。こちらのほうが大問題なのだ。

モネは光の画家と呼ばれる。モネは光について近代科学の分析的知識を得たから、あんなすばらしい絵を残せたのだろうか? そんなことはない。小林秀雄自身がこう書いている。

 

芸術は時代の子であるから、印象派の運動も、その時代の光や色に関する分析的な学問の進歩というものに照応しているわけだが、科学が直接に芸術家の眼を開くという様な事はない。

 

では、ある特定の時代における、科学と芸術の照応関係をどう考えればいいのだろうか。次のような箇所は、美しいだけでなく、まことに明晰で、説得力に富む、小林秀雄でなければ書けない一文だと思う。

 

色彩派{コロリスト}が外光派{リュミニスト}に転じたのは、理論によったのではなかった。屋外に溢れる光の美しさが、画家達を招き、アトリエでの仕事を放棄させたからだ。コローからラ・フォンテーヌを除き、ミレーから聖書を剥ぎ取り、もっと直接に風景を掴みたい、光を満身に浴びて、モネの言葉を借りれば鳥が歌う様に仕事をしたい、そういう画家の自然への愛情の新しい形式の目覚めが根本の事だったのである。

 

モネはこの光を画布の上に再現しようとした。たんに外光を浴びて仕事をするだけでなく、絵の具その物にも光を求めた。絵の具は混ぜれば混ぜるほど、彩度も明度も失う。その結果、色価{ヴァルール}も下がる。そこで彼は点描法と格闘することになる。つまり、基本色を直接画布の上に併置することによって、自然の持つ色の光を再現しようとしたのである。けれども「モネは、生涯、この分析的な手法のために苦しんだ」。その理由は、「理論は殆ど役に立たなかったからである」と。けれども、理論が役に立たなかったから、モネは苦しんだ、ということにはならないだろう。そんなことくらい、小林秀雄は先刻ご承知だ。もう少し我慢して、彼の論のあとを追ってみる。

 

芸術の形式が、時代の感覚と応和しなくなると、嘗ては生き生きとしていた形式も、重苦しい因襲と感じられ、芸術家は、これを脱ぎ捨てて、裸になって自然に還りたいという欲望を抱く。印象主義の運動も、画家達の、自然に還れという甲高い叫びだったのであるが、そういう場合、いつも同じことが起こる。自然は人間の鏡である。自然に還ろうという欲望は繰り返されるが、還るのは同じ自然へではない。人工の拘束から自由になって、画家は無私な眼で自然を見たいと考えるが、自然が黙々として映し出すものは、当の絵かきが、自ら無私と信じている心の形にほかならない。

 

ここに小林秀雄独自の弁証法がある。その独自さは「無私」という言葉のなかに込められている。「自然に還れという甲高い叫び」とはロマン主義のことを指している。もっと端的には、ジャン=ジャック・ルソー(1712〜1778)の思想を集約している。大雑把に言うと、ルソーは印象派の画家たちが活躍する一世紀前の人である。フランス革命の思想的背景となった人ではあるけれど、その前の人である。フランス革命は大事件である。だが、大事件に過ぎない。小林秀雄の眼は、もっと本質的な、人間の生活の根本を変える内部の革命が進行していたことを見逃さない。

マルクス(あるいはエンゲルス?)の自然弁証法は「人間が自然を人間化すればするほど、人間は自然化する」という言葉に集約される。

この言葉は、長いこと、わたしにとっては謎だった。今も謎だと言ってもいい。マルクスの著作そのものを読んでも、すっきりしない。けれども今、二十代に読んで感銘受けた「近代絵画」を読み直しているうちに、靄が晴れてくるのを感じる。

今、試みにこの言葉を「人間が自然を人工化すればするほど、人間は自然に還ろうとする」というふうに少し通俗化してみる。十九世紀に端を発した産業革命は、革命と戦争に明け暮れた前世紀を経て、新たな次元に突入したと言われている。産業資本主義の時代から金融資本主義、あるいは高度資本主義への時代への移行とか言われる。情報と交通と経済のグローバリゼーションというような言葉も常識と化した。地球は確実に狭くなった。

道という道はアスファルトに覆われ、われわれの生活と生産活動から排出される二酸化炭素が太陽熱を吸収し、地球全体が温室と化し、北極の氷も南極の氷も溶け出し・・・・・・。

確実に自然の人間化が進み、たくさんの科学者が警鐘を鳴らしている。それを一言でいうなら、「自然に還れ」「自然を取り戻せ」ということになる。

われわれ自身も、ふだんは車に乗って二酸化炭素を振りまき、大量の「燃えないゴミ」「燃やせないゴミ」(大地に還すことのできないゴミ)を出す一方で、毎朝のジョギング、ウォーキングを欠かさず、週末になれば山に登り、川に釣りに出かけ、カメラで写真を撮ったり、絵筆と画布を持って写生したりしているではないか。

なぜわれわれは、わざわざ美術館に行って、美術作品を見ようとするのか。なぜわれわれは、わざわざコンサートホールに出かけて、音楽を鑑賞するのか?

小林秀雄に戻ろう。彼はモネについて、もっと謎めいた言葉を残している。

 

印象派の出現とともに強固な自然は光の中に動揺しはじめた。自然は、画家に模倣を求める自信を失って了った様な様子を見せはじめた。自然は画家のあまり細かく分析的になった不安な視覚を模倣するに至ったのである。画家は、そんな風にして、とどのつまりは、己れを語る様に誘われていく。自然に還ろうとして自己に還っていく。

 

この言葉を解説するのはよそう。解説の任に堪えないというのが本音だけれど、理解することよりも考えることのほうが大切だろうから。ただ確信を持って言えることは、これは逆説でも文学的修辞でもない。小林秀雄という思想家の放った言葉の矢がここで的に当たっているのである。飛躍とはそういうことである。ただ最低限、マルクス自身の言葉をここに置いておこう。

 

自然は人間の非有機的身体である。〔なぜ非有機的かと言えば、〕自然そのものは人間の肉体ではないからである。人間が自然に依存して生きるということは、自然は人間の身体であり、人間は死なないためには、たえずそれと交流しつづけなければならないということである。人間の肉体的・精神的生活が自然と連関しているということは、自然がおのれ自身と連関しているという意味をもつにすぎない。というのも、人間は自然の一部だからである。

(カール・マルクス『経済学・哲学草稿』村岡晋一訳。〔 〕内は翻訳者の補足)

 

(つづく)

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