*9 パスカル・キニャール国際シンポジウムでの挨拶

tokyo  ©  B Gorrillot 314

参加者のみなさん、

このようなアカデミックな場所に招かれて、多少場違いな思いをしております。というのも私はたんなる翻訳家であって、大学人でも文学研究者でもないからです。翻訳者は著者にとても近い位置で仕事をしますので、著者に対して距離を置き、客観的に語ることがむずかしい立場にあります。そこで私は自分が日本語に翻訳したテクストをこの場で読み上げることにしました。日本語になった自分の作品がどんな響きを持っているのか、著者にその耳で確かめていただければという思いもあります。選んだ作品は『理性』と題された短い小説です。朗読に入る前に、なぜこの作品を選んだのか、少し説明させていただきます。そのごく単純な理由は、パスカル・キニャール全作品のなかで、この小説がいちばん好きだからということになりますが、同時に、個人的に、この作品は「パスカル・キニャールによる(第五の)福音書」と呼んでいいのではないかと思っているからです。その根拠は、この本の第九章に求めることができますが、今日その箇所は読みません。その代わり、ある思い出をお話ししたいと思います。

著者とパリのアパルトマンでお会いしたときのことです。お会いするのはそれが二回目で、もう十五年も前のことです。そのとき私は『音楽への憎しみ』という本を訳しており、山ほどの質問を抱えて彼の自宅を訪れたのでした。たまたま話題が聖書のことに及びました。私の記憶が確かなら、そのとき私は「ある意味では、新約聖書よりもヤコブス・デ・ヴォラギネの『黄金伝説』のほうが豊かなのではないですか?」と著者に問いかけたのです。すると彼は即座に「ある意味ではそうだ。しかし、私は聖書を世界でもっとも美しい書物だと思っている」と答えたのです。私は絶句しました。自分の軽率を恥じたということもありますが、彼の発言にまったく同感だったからです。今もその思いは変わりません。私には、聖書を「世界でもっとも美しい本」と言うことはできません。しかし「私の運命を変えた本」と言うことはできます。私はキリスト教徒ではありません。しかし、十代の終わりに聖書の世界に引き入れてくれたひとりの友と出会わなければ、今の私も、翻訳という職業もなく、この著者の作品をかくも多く翻訳することもなかったであろうと思われます。

パスカル・キニャールという作家の名前を初めて目にしたのは、日本版では「知の再発見叢書」と題された叢書に含まれている『文字の歴史』という巻を翻訳したときでした。その本のなかで「身をかがめて文字を書くイエス」というテクストを私は文字どおり発見したのです。ご存じのように、このテクストは『プチ・トレテ』という全八巻の大作のなかに含まれている一篇で、ヨハネ福音書の第八章に描かれている、あの有名な場面に新たな光を当てるエッセイです。あの有名な場面というのは、すなわち、姦淫の罪を犯した女を引き連れてきたパリサイ派の人々や律法学者に向かって、イエス・キリストが「あなたがたのうち罪を犯したことのない者が最初にこの女に石を投げつけるがいい」と言い放つ場面です。パスカル・キニャールは神学者のようにはイエスの言葉を解釈しようとはしません。そうではなく、語り終えたあとに、また身をかがめて文字を書くイエスの行為について語るのです。

「ここでは、書くことは周囲の世界から孤立した行為として描かれている。それはあたかも話し言葉の世界の亀裂であり、くぼみのようである。心理学的に言うなら、どこか傲慢でわざとらしい拒絶の姿勢でもある。ものを書く人は黙っている。この沈黙はあきらかに無関心を示す。極端な場合には否認と軽蔑のしるしでもある」。

この部分を読むと、読むことと書くことの世界に引きこもり、現代の隠者となった著者自身の姿を彷彿とさせるだけでなく、ヨハネ福音書の、他の三つの共感福音書とは由来の異なる特徴をイエスの身振りを強調するだけで言い当てているように思えます。私はこの文章を読んで深く心揺り動かされましたが、この時点ではまさかこういう知的で文学的な作家の作品を多数翻訳することになるだろうとは思いもしなかったのです。

もうこれ以上申し上げることはありません。『理性』の朗読を始めます。

(2013年11月17日に日仏会館で催された国際シンポジウムでの挨拶。このあと、著者はフランス語原文、翻訳者は日本語訳で交互に『理性』の朗読をおこなった)

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