*61 フランスの女・抄(その4)

 今、隣の寝室で鳴っているのは《ラズモフスキー第三番》。いつも音楽は隣の部屋から流れてくるようにしている。奇妙な習慣ではあるけれど。

なぜまたベートーヴェンの弦楽四重奏曲などターンテーブルの上で回しているかというと、「フランスの女・抄」の続きを書こうと思って、ノヴェライズ第二章を読んでいたら、章の最後にこの曲が大音量で響きわたる場面が出てきて、あっけにとられてしまったからである。

 

アンドレアスは、ラズモフスキー伯爵に捧げられた三つの弦楽四重奏曲をことのほか好んでいた。マチアスは弔いのためにこの曲をかけているのだった。老いれば老いるほど、アンドレアスはベートーヴェンの室内楽曲を偏愛するようになっていた。シンフォニーを聴いて昂揚することはなくなっていた。ナチスが宣伝に利用したワグナーなどもってのほかだった。無神経に肌にまとわりつくモーツァルトも聴きたくなかった。ハイドンかベートーヴェンのカルテット、そこにドイツ音楽の精髄があると、いつも息子のマチアスに語っていた。マチアスは一睡もしていなかった。胸の奥にぽっかりと穴があいていた。父が死んだ今、ドイツも死んだと思った。父がいつまでもドイツの夢を手放さないでいたことが、じつは自分の救いでもあったこと彼はようやく気がついた。誰にも共通する「ドイツ」など存在しない。人ひとりが胸のうちで信じているドイツなら存在する。マチアスにとって、父が口論の相手になってくれているときだけ、ドイツは存在していた。そして自分がドイツ人であり、ドイツ語を話す民族に属していることだけは否定しようがなかった。マチアスは父アンドレアスを責めたことを激しく悔いていた。悔いがつのってくると、電蓄の音量を増した。いつしか、屋敷全体に響きわたる音になっていた。

 

ビデオもDVDも手許にない今、映画のこの場面で本当にラズモフスキーがかかっていたのか、確かめるすべがない。通信販売で取り寄せればいいだろうと言われればそれまでだが、正直言って、原作の映画と自分の文章を見比べ、読み比べることが怖いのである。

たとえばこの場面、もし映画に流れている曲がラズモフスキーでなかったとしたら、ノヴェライズの作者としては原作の改竄とまでは言わないにしても、踏み込みすぎだということになる。もし、本当にラズモフスキーであったとしても、それはそれで恐ろしい。今、寝室で鳴っている《ラズモフスキー第三番》は学生時代に買い求めた思い出深いレコードの一枚だから。
 のみならず、自分のライフワークだと信じて翻訳しつづけたパスカル・キニャールに最初に手紙を書いたとき、よせばいいのに自分はベートーヴェンの後期のカルテットが好きですと記したことは、今もはっきりと憶えている。そして、キニャールからの返書には、よくわかります、私はハイドンのトリオが好きですからと書かれてあったことも。さらにはこのノヴェライズはこの手紙のやり取りのあとで頼まれた仕事であることもはっきりしている。
 そんな忘れがたい曲が映画の大事な場面で使われていたとしたら、そのこと自体忘れるわけがないではないか。いや、忘れてはいけない。
 いったいこの記憶はどうなっているのか、自分はこのノヴェライズに何を込めようとしたのか? 何かが過剰であることだけは確かだ。でも、先を急ぎすぎている。第一章から第二章にかけて、物語はどのように展開していくのか、それをまず説明しなければならないだろう。

 

第一章の終わりで、読者はジャンヌが妊娠したことを知る。だが、それはアンリの子なのか、ルイの子なのか? ルイはジャンヌを許し、ふたたびともに生きようとするが、この決断は家族の祝福を受けない。戦地で夫が戦っているあいだ、娼婦まがいの暮らしをしていたジャンヌは、夫のルイを裏切っただけでなく、家の名誉を汚した女でもあるから。

そして、一九四五年のクリスマスイヴの日、ジャンヌは急に産気づき、出産する。皮肉にもそれは双子だった。男子と女子の二卵性双生児、しかも予定日より二ヵ月も早く・・・・・・。ルイの顔に初めて子を得た父親の喜びはなかった。

「あなたの子よ、ルイ! 女にはわかるのよ」とジャンヌは叫び、一筋の涙が頬を伝う。ルイはその涙に口づけして、決意を語る。この街を出ていこう。ここじゃ息が詰まる。誰もが自分たちに白い目を向けるから・・・・・・。

こうして、ルイは連合軍の共同統治下にあるベルリン駐留をみずから志願し、ジャンヌと生まれたばかりの双子の家族はベルリンで新たな生活を送ることになる。

二人の住んだ家は、ベルリン北部のフランス占領区のはずれにあって、爆撃の被害を受けなかった老優の屋敷だった。その老優の名はアンドレアス・ベレンス、ドイツ演劇界を代表する名優で、連合軍の空襲のさなかにも、ナチス・ドイツへの密かな抵抗の意志として、彼の主宰する劇団は毎日上演を続けたが、ある晩、一つの爆弾が激情の真上に落ちて、大勢の観客が死んで大惨事になった。それ以来、彼は舞台には立たなくなった。

この家をときどき訪れる息子のマチアスは連合軍が滞在するのに必要な物資を調達する任務を一手に引き受け、それでかなりの収入を得ていた。ドイツの一般庶民には嫌われる仕事だったが、ナチスに支配された暗いドイツはこりごりだったし、これからはドイツ民族という価値観にしがみついていても幸福を手に入れることはできないと割り切り、割り切ろうとして懸命に働いている青年だ。ワイマール共和国の理想と理念を今も信じる老人と、過去から断ち切れて、この今を生きようとしている「アプレゲール」の青年はことあるごとにすれ違う。

このマチアスは父の家を訪れるたびに、二階に住まうフランス人将校一家のためになにかと世話を焼いた。暖炉にくべる薪を運んでやったり、特別のルートから仕入れた高級な嗜好品をフランス人夫婦にお裾分けしたり。ルイとジャンヌもこの青年に好意を抱いた。もちろんマチアスはジャンヌの美しさに惹かれてはいたが、ジャンヌのほうは日々の贅沢な暮らしに満足して、マチアスに特別な感情を抱くことはなかった。少なくとも、この時点では。

そう、このとき、ルイとジャンヌは夫婦として生涯でたった一度、束の間の幸福を味わうのである。ジャンヌはあくまでも美しく、占領軍の将校の妻として、生活には何の不自由もない。ルイはただ妻の美貌と魅力に溺れればよかった。たとえば、あるパーティのためにジャンヌが鮮やかな藍色のドレスをまとった日のこと。彼女は新調したドレスの丈を確かめるために、暖炉の上の鏡に全身を映そうとして、サロンの丸テーブルの上に乗っている。そこにルイが帰ってきて、ドレスの丈を直す手伝いをする場面。

 

ルイはジャンヌがかすかに匂いたっているように感じた。それは匂いなのか、それともジャンヌの欲望が言葉や仕草を介さずに直接ルイの欲望に触れてくるためなのか、判然としなかった。針を動かす手を止めて、視線を上げると、ちょうど目の前にジャンヌの腰があった。ゆったりとしたドレープを作る藍色のスカートのなかに小動物がいて、それが静かに呼吸しているように思えた。ルイはその動物の存在を鼻先でたしかめようとした。ジャンヌはすでに欲望の波がせり上がってくる予感をおぼえていた。彼女にとって何より幸福な瞬間は、欲望の兆しを感じたそのときに、欲望の動きのままに自分が運ばれていくことだった。長たらしい前奏や手続きなしに、一瞬に自分が欲望そのものと化すことだった。そして何よりも、男がその気配を感じて、それに応じてくれることだった。あるいは男がにわかに欲情して、自分を求めてくるときの焦点の合わない、どこか獣じみた熱っぽいまなざしに出会う瞬間・・・・・・。ジャンヌがベルリンに来て幸せだと思うのは、ルイがしばしば欲情を抑えられなくなり、そして、抑えようともしないことだった。

 

こんな場面は、映像がなければ、絶対に書けない。藍色のドレスをまとい、丸テーブルの上に乗ったエマニュエル・ベアールの姿はこの世のものとは思えないほど美しかった。その映像は、今も脳裡に焼きついている。というか、この箇所を描写(?)した自分の文章を読み返し、書き写していると、まざまざとその美しさに陶然とした感情体験がよみがえってくるのである。

この美しさを言葉でそのままなぞることはできない。美は無言でその場にすっくと立っている。この無言、この空白を埋めようとして、言葉は蛆虫のように湧き上がってくる。その無数の蛆虫のうち、適切なもの、的を射ているものだけを選んで、順序よく並べる。文を書くとはそういうことか・・・・・・。

それはともかく、無言の美を再現するために想像力を行使することと、ありもしない音楽を挿入することとは違う。だから、流れてもいないラズモフスキーを流したのだとすれば、それはやってはいけないこと、反則行為だということになる。

では、映画にはない場面を冒頭に持ってくるのは正しいことなのか。映像に喚起されて湧き上がってきた自分の情動を書くことは許されることなのか。

残念ながら、はっきりとした規範はないというべきだろう。たぶんそれは歴史小説にも、時代小説にも、ノンフィクションにも、あるいはノンフィクション小説と呼ばれるものにも。そして、翻訳においても、たぶんそれは当てはまる。字義どおりの翻訳などというものはありえない。だからといって、何をやってもいいということにはならない。

たぶんノヴェライズというやったことのない仕事の機会を与えられて、怖じ気づいてはいけない、やるなら大胆にやれと自分に号令でもかけたのかもしれない。性格がそのようにできているということか・・・・・・。

(つづく)

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