*65 フランスの女・抄(その7)

そして砂漠。この町はいつも背後から砂漠の脅威にさらされているように思えた。砂漠は人に自分と向き合うことを強いる。あるいは、内なる生命そのものと向き合うことを強いる。砂漠と向き合うと、生命というものがどれだけはかない条件と偶然の産物であるかを知らされて、生命自身が戦慄する。夕暮れに、砂漠の上で太陽と月が出会うとき、極度に乾燥した大気を透かして見る星々は、ほとんど宙に浮かんだ岩石のように見える。手を伸ばせば、クレーターのざらつきを皮膚で感じることができるように思えてくる。重力の糸が見える。地球は太陽の糸に引かれ、月は地球の糸に引かれ、三角形の糸の張りが無音の音楽を奏でる。死に絶えた砂漠に死の星が浮かんでいる。主役は星たちであり、人間ではない、生命ではない。砂漠は美しい。だが、その美は生の美の極北にある。死の美しさは様式の美しさであり、放埒な生の美しさではない。ジャンヌはどんなときでも、死の美に見せられたことはなかった。

 

これはジャンヌが見た風景ではない。映画に映し出された光景でもない。実際にこの目で見た風景だ。ジャンヌとルイが見たシリアの砂漠ではなく、サハラ砂漠の光景ではあるけれど。

先を急ぎすぎている。ジャンヌとルイの、そしてマチアスの物語に戻ろう。

ナンシーで激しい化学反応のような交わりを経験したジャンヌとマチアスは、駆け落ちの覚悟を固める。

しかし、この駆け落ちは無言で決行すべきだった。良くも悪くも正直で、嘘のつけないジャンヌは、家族の前で自分はマチアスとベルリンに行くと宣言してしまうのである。マチアスなどという名前は、家族の誰も知らない。例によって、姉のエレーヌが激昂する。「あなた、ベルリンでもおかしなことしてたのね!」

自宅に戻ったジャンヌはマチアスの泊まっているホテルに電報を打つ。「明朝五時に迎えに来てください」。まんじりともしないで朝を迎えたジャンヌは四時には子供たちを起こし、着替えをさせ、五時十分前には階下に降りた。そして、戸締まりを確認するために、子供たちを玄関先に残して、また家の中に入り、各部屋の窓、ドアに鍵がかかっていることを確かめた。車のエンジン音が聞こえた。窓から真下を見ると、エレーヌが子供たちを車に乗せようとしている。階段を駆け上がってくる足音が聞こえた。マチアスの足音ではない。マルクだった。階下に降りようとするジャンヌをマルクが阻止した。「何を考えているんだ! こんなこと許されると思っているのか、双子もアントワーヌもルイの子だ、あんたのものじゃない! さあ、男と一緒にどこへでも行くがいい!」

マチアスが五時に迎えに来ることなど、マルクは知る由もなかった。ただ、ジャンヌがベルリンに行こうとしていることを知ったマルクは、ただそれを阻止したいだけだった。五時という時間が運命の分かれ目となった。マルクとエレーヌと三人の子供たちを乗せた車が家の前から立ち去ったあと、マチアスの車がやってきた。五時五分前。たった五分差でマチアスとジャンヌは、またもや引き裂かれた。それが彼らの宿命となる。

シリアは今、内乱の果てに見るも無惨な姿をさらしている。もちろん現地に足を踏み入れたことはない。テレビの映像を通じてそれを知るだけだ。荒れ果てた町、破壊された遺跡、絶句するほかない。

ダマスコ(ダマスカスは英語読み)は、パウロが回心をした場所として有名な町である。言うまでもなく二千年ほど前の話である。当時パウロはサウロと呼ばれ、頑固一徹のパリサイ派のメンバーとして、産声をあげたばかりのキリスト教徒たちを迫害する側に立っていた。ある日のこと、サウロが馬に乗ってダマスコに近づいたとき、天からの光が彼の周囲を照らした。彼は目が眩んで、馬から落ちる。

——サウル、サウル、なぜわたしを迫害するのか。

——あなたはどなたですか。

——わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすればあなたのなすべきことが知らされる。

サウロは起き上がって目を開けたが、何も見えなくなっていた。三日間、目が見えないまま、飲み食いすることもできなかった。

イエスはダマスコにいるアナニアという名の弟子に、臥せっているサウロのところに行けと命じる。アナニアは出かけていって、サウロに手をかざして言った。

——兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れた主イエスの言葉に従ってやってきました。主はあなたの目が元どおり見えるようになり、聖霊で満たされることを望んでおられます。

するとサウロの目から、たちまち鱗のようなものが落ち、また目が見えるようになった。

鱗のようなものが落ちる、使徒行伝にはこの通りに書かれている。

 

 

ジャンヌにとって生まれ育ったナンシーは鬼門だった。彼女は一家の恥さらしだった。誰もが白い目で彼女を見た。ナンシーは針の筵だった。

ジャンヌはシリア大使に任命されたばかりのいとこのアルヌーに助けを求めた。ナンシーから出られるのなら、ダマスカスでもどこにでも行く。ちょうど大使館付の武官のポストが空いていた。一時休暇を得て、インドシナから帰ってきたルイにその話を向けてみる。だが、前線で戦っているルイにとって、シリア大使館の武官のポストに応じることは敵前逃亡に等しかった。自分だけ生き延びようとするのは、軍人として恥ずべき行為であると突っぱねた。だが、それを望んでいるのはジャンヌなのだと聞かされて、憤慨は当惑に変わった。ナンシーでまた何かあったのか・・・・・・。マチアスとの駆け落ち未遂については、誰も口を閉ざして語らなかった。「あなたと離ればなれに暮らしていくのはもういや」というジャンヌの一言がルイの心を動かす。

そして二人はシリアの首都ダマスカスにやってくる。

 

しかし、この町にジャンヌは魅力を感じなかった。ジャンヌは過ぎ去った時代や歴史に郷愁を感じる女ではなかった。彼女にはそもそも歴史感覚がなかった。つねに現在の一瞬に燃え上がる何かを求めている女だった。過去はすべて死んだものでしかなかった。ベルリンは廃墟と化していた。しかし、そこには再興しようとする都市の息吹のようなものが感じられた。ジャンヌにとって、ダマスカスは死の町だった。中心部の賑やかさも死の仮面のように思えた。モスクから流れる読経の声、ヴェールで顔を隠す女たち、そのヴェールの間からジャンヌを見つめる黒曜石のような瞳、大理石を敷きつめた床の冷たさ、街路に流れる屠られた羊の血、どれもがジャンヌに戦慄を強いた。

 

この次に、冒頭の段落が続く。つまり、ジャンヌの視線に書き手の視線を接ぎ木したのである。全篇がそのように構成されていると言ってもいいけれど。

ここはわたしの来るべき町ではなかった・・・・・・。ジャンヌは早くも後悔している。パリから政治家や実業家たちがやってくると、まるで観光ガイドのように遺跡巡りに駆り出される生活にうんざりしている。とりわけジャンヌは上流階級のご婦人たちが嫌いだった。自分の生まれを鼻にかけ、薄っぺらな教養を香水のように振りまく。ジャンヌがもっとも苦手とする人種だった。

ルイもまた、こんなところで観光ガイドの真似事をしているくらいなら、インドシナの前線に戻ったほうがましだと考えている。二人の欲求不満は、夫婦関係にも影を落とす。ルイは贅沢な外食よりも、自宅でゆったり妻の手料理に舌鼓を打ちたいほうだった。ジャンヌは料理が苦手だった。

ジャンヌにふたたび不眠の夜が訪れる。そして、ある夜、ついに堪えきれずに手紙を書く。「マチアス、助けてください。わたしを救いに来てください」

マチアスは喜び勇んで、ダマスカスに飛ぶ。二人の絆は切れたわけではなかった。今度こそ彼女をベルリンに連れ戻す。ミューレル氏と正式に話し合い、離婚してもらおう。

ダマスカスに到着すると、市内の小さなホテルに投宿し、そこからまた電報を打った。ホテルの名前とルームナンバーだけの、暗号のような電報。ジャンヌはすぐにホテルに駆けつけ、マチアスの胸で滝のような涙を流す。二人とも無言で、不思議と性欲の津波は押し寄せてこない。マチアスは自分の腕のなかにジャンヌがいるということだけで満足し、ジャンヌはとめどなく涙を流すことに快感をおぼえていた。

マチアスと二人でベルリンに行く。子供たちは母のソランジュと姉のエレーヌに託そう。そのほうがあの子たちも幸せになるだろう。自分は母親として失格だ、そう思うと、涙がなお溢れ、ジャンヌは声を出して、幼児のように泣いた。悲しみの涙と喜びの涙に区別はない。子供を喪失する悲しみと、母親であることから解放される喜び・・・・・・。

だが、ジャンヌは自分の決意をルイに告げることができない。マチアスと別れ、自分の住まいに戻ると迷いを振り切ることができない。逆にルイから、今度外務次官がシリアにやってくるが、夫人がぜひアパメアの遺跡を見学したいと言っているから、その見学旅行に付き合ってくれと告げられる。ジャンヌは、アパメアが紀元前三百年頃に隆盛を誇ったシリア王国の都の名であることさえ知らない。ただ、ダマスカスから二百キロ北上したところにその遺跡はあると聞かされて、青ざめる。またマチアスから引き離されてしまう!

ジャンヌはあろうことか、マチアスにこっそり後ろからついてきてくれと頼む。なんと無謀な、さすがのマチアスも尻込みするが、結局ジャンヌの涙ながらの嘆願に負けてしまう。それが悲劇の発端になる。

ジャンヌはうんざりだった。コリント式の列柱路も、砂漠に降りそそぐ初夏の日差しも、青空も、外務次官夫人の軽薄なおしゃべりも、新しく降ろしたハイヒールの靴擦れも、何もかもうんざりだった。ジャンヌは徐々に集団から後れていく。振り返れば、マチアスが遺跡の陰に隠れながらついてきてくれているのがわかる。

ルイは背後のジャンヌの苦しげな様子に気づき、列から離れて近づいていく。

——どうした、くじいたのかい?

——もうだめ、ルイ、もうどうすることもできない・・・・・・。

——いったいどうしたんだ、具合でも悪いのか?

——わたし、帰る。あなたと別れる。もう、おしまい・・・・・・。
 ——おい、いったい何を言ってるんだ。

ルイはまったく解せない。こんなところでいったい何を言い出すのか。ジャンヌのなかで狂気の歯車が回り出す。

——わたし、別な人を愛しているの・・・・・・。ここに来れば、その人と別れられると思った。でも、むりだった・・・・・・。

そのとき、列柱の背後からマチアスが現れる。ルイにはそれが誰だかわからない。彼にとっては記憶から消えた人間だった。

——彼がここに来てから一週間になるわ。わたしが呼んだの。この一週間ずっと、話そうと思ってた。でも、あなたと面と向かうと話せなかった。わたし、彼と一緒にベルリンに行く。

ルイのなかであらゆる疑念が氷解する。ソランジュやマルクの隠しごとの正体はこれだったのか。ジャンヌはマチアスのほうに向かって歩き出す。ルイの全身に広がった怒りが一瞬にして槍の切っ先のように結晶した。あまりにも理不尽だった。

——行かせてたまるか! おれの話も聞け!

ルイはジャンヌの腕を激しく引っ張る。マチアスが割って入ろうとする。真っ白い太陽の光に照らされた大理石の遺跡のなかで、一人の女を奪い合う二人の男の格闘がはじまる。ルイの怒りは無尽蔵だった。つねに生死のあいだを渡り歩いてきた軍人の腕力は圧倒的だった。マチアスはたちまち組み伏せられ、顔面を殴られ、失神してしまう。それでもルイは殴り続ける。

——いつからなんだ!

ジャンヌは叫ぶ。
 ——やめて、もうやめて、ルイ!

ルイはそれでもやめない。
 ——やめて、ルイ、死んじゃう、殺してしまうわ!

ジャンヌは無意識のうちに瓦礫を手にしている。その瓦礫で、マチアスを組み伏せているルイの背中を打った。二度、三度、打った。ルイはマチアスに覆いかぶさるように倒れた。夏用の白い軍服の背中にぱっくりと裂け目ができて、そこから血が噴き出した。

ジャンヌは二人の男を茫然と見下ろしていた。コリント式の列柱が見下ろしていた。初夏の太陽が見下ろしていた。広大なシリア砂漠から熱い風が吹いてきた。

一九二八年、春のこと。シリア北西の、地中海に面したラタキアという港町の近くの村で、それまで知られていなかった楔形文字で記された粘土板文書が続々と発見された。前十四世紀から十三世紀にかけて全盛期を迎えたウガリット王国の神殿書庫の記録だった。そこには旧約聖書やホメロスの作品の原形とも思われる神話が書き記されていた。豊穣の神バアルの物語もその一つである。

はるか遠い神々の時代、天上の父神イルウは、自分の息子たちのうちから次に地上を治める者を決めるために神々の集いを開いた。〈雲に乗る者〉と呼ばれるバアルは、我こそはと父神の傍らに座る。だが〈裁きの川〉と呼ばれる洪水の龍神ヤムも黙ってはいない。その神々の集いに使者を遣わして、万物のもとは水だから、自分こそ、この地を治める者だと譲らない。こういして二人の兄弟のあいだに壮絶な戦いが繰り広げられる。

バアルはコシャルとハシスという匠の神に二本の棍棒を作らせる。コシャルとハシスは叫ぶ。

わが棍棒よ、ヤムを追い出せ!
〈川〉を王権の座から追い落とせ。
バアルの手から離れて、襲いかかれ。
バアルの指先から鷲のように飛び立ち、
ヤムの肩を打て。
〈裁きの川〉の背中を打て!

 だが、ヤムも強い。その力は衰えず、倒れない。コシャルとハシスはまた叫ぶ。

わが棍棒よ、ヤムを追い出せ!
〈川〉を王権の座から追い落とせ。
バアルの手から離れて、襲いかかれ。
バアルの指先から鷲のように飛び立ち、
ヤムの眉間を打て。
〈裁きの川〉の脳天を打て!

眉間を打たれたヤムはついに倒れる。その力は衰え。ついに地に伏した。バアルはヤムを投げ捨て、散らし、ついに〈裁きの川〉を滅ぼす。

——筑摩世界文学大系『古代オリエント集』より

(つづく)

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