*31 熊本へ

熊本市の電気館でトークショーをおこなったのが、3月の19日。

帰ってきてから考えあぐんで書いた「魏志倭人伝」をここにアップしたのが4月の4日。

これではお世話になった熊本のみなさんには申し訳ない、と思って書いたのが「熊本の感興」、アップしたのは4月の12日。

翌々日の14日、少しほっとしてテレビで夜のニュースを見ていたら、画面が揺れている。震度6強(のちに震度7に訂正)。

ありえない。すぐに伽鹿舎の加地さんにメールを打った。今のところそれほどの被害は出ていないという返事。だが、地震は誰の予想をも裏切った。14日の最初の地震は前震、翌々日16日の震度7が本震であると。

 

熊本城の石垣が崩れ落ちる映像を見て、5年前の東北大震災の津波の映像を思い出した。上空のヘリからの映像。沖合いから巨大な波が沿岸を襲う。川を遡り、田畑を押し流し、家と樹木を、町全体を根こそぎ掠っていく。

その町の名は閖上(ゆりあげ)、川の名は名取川、亡き妻が生まれ育った土地だった。その地を訪れるたびに、実家の人々は総出で歓待してくれた。お義父さんは鮟鱇の肝和えを作ってもてなしてくれた。お義母さんはバケツ一杯赤貝を港から仕入れてきてくれた。塩鰈(一夜干し)がおいしいというと、お義兄さんは次から次へと焼いてくれて、結局7枚も食べる羽目になった。

お義父さん、お義母さんはすでに他界していたが、この震災と津波でお義兄さんが帰らぬ人となった。町はまだ復興の目途が立たず、ただ漠とした土地が海に面しているだけである。震災からしばらくして現地を訪れ、この光景を目の当たりにしたとき、妻を二度失った気がした。

 

妻がこの世を去ったのは12年前の秋のことである。乳癌だった。摘出手術をしたのち、放射線やら抗癌剤やらでだましだまし、けれど比較的元気に十数年暮らしてきたのだが、死の前年に肝臓に転移してから、急速に悪化の一途をたどった。打つ手がなくなり、本人の希望もあって家に戻った。寝たきりであったけれども、幸せそうな顔をしていた。娘たちはまだ学校に通っていた。男の作る粗末な料理に少しだけ箸をつけ、笑った。そういう生活がどれくらい続いたのだったか。ある日、それまで健気に痛みに耐えていた妻が、もうだめ、と言った。深夜、救急車を呼び、一緒に乗り込んだ。娘たちは家の車でそのあとを追った。数日は泊まり込むことになるだろうと思っていたので、その夜はとりあえず娘たちを家に帰した。

妻の運ばれた病室は一般の病室ではなかった。もう回復の見込みがない患者のための部屋。だが、そのときは気づかなかった(行動は冷静でも、頭のなかが動転している。あるいは視野が狭くなっている)。

寝袋を床に敷いて、寝ようとすると、必死に話しかけてくる。牛肉が冷蔵庫のなかに残っているから、早く食べてね・・・。もう電気を消してもいいわよ(すでに消してあった)。あ、おしっこがしたくなっちゃった(おむつを当てられていた)。当直の看護婦を呼ぶと、おむつを替えてくれた。
「ああ、気持ちいい、気持ちいい」

それが最後の言葉だった。おい、ちょっと待て、聞こえるか、ちょっと待て。そんなことを口走ったような気がする。娘たちに電話すると、すぐにかけつけた。母の死に目に会えなかったことを口惜しがった。
「お母さん、お父さんと二人きりになりたかったんだ。ぜったいそうだよ」

妻は死んだと思っていないような気がする。深い眠りに落ちて、目が覚めないだけ。そこで時間が止まっている。

だが最近、妙なことを考えるようになった。

そこで止まってしまったのは、こちらの時間ではないのか。

 

また、熊本へゆく。行かねばならないと思う。その理由はうまく説明できない。だからこんな文章を書いている。文というものは他者に向かって説明したり、言い訳したり、説得したりするために存在しているのではない、という思いが強まってきている。話し言葉はそうかもしれないが、書き言葉は違う。他者とは死者のことである。死者に言い訳は通用しない。そもそも自分の行動や感情を自分で理解できると思っていること自体が卑しい。自分のことは自分が一番よく知っている、と嘯く人はまず信用できない。人間は自分のことを知らない。だから戦争を起こすのだ。あの最悪・最低の両大戦を引き起こしてしまった人類に偉そうなことが言えるか? 政治家が悪い、軍人が悪い? 冗談じゃない、俺たちが悪いんだよ。

阪神、新潟、東北、九州。なぜなのか?

収拾がつかなくなってきた。続きはしばらく時間をおいてからにしよう。

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