*36 理性(その1)

自分が訳したもののなかでもっとも愛着のある作品。ここに「理性」と題された短編が収録されている(今は亡き青土社の編集者津田新吾の装幀)

第一章

 

たがいに友情を誓いあった四人のスペイン人がいた。クローディウス・トゥリヌス(父)、アンナエウス・セネカ、L・ユニウス・ガリオ、そしてポルキウス・ラトロである。このうちローマに旅したのは後者三人だけである。人生の大半をローマで過ごしたのは後者二人だけである。そして、スペインの赤土にふたたび戻ろうとしなかったのは最後の一人だけだった。

マルクス・ポルキウス・ラトロは、ローマ暦六九六年(紀元前五七)、コルドバの騎士階級の家に生まれた。その生涯の終わりころ、彼はしばしば自分は四つのもの、あるいは三つのものを愛したと語った。その三つとは声と性交と森だった。ときにはこれに書物を加えることもあったが、ごく小数しか味わっていないと言っている。彼は九十七の論判演説{コントロウェルシア}〔帝政初期に流行した仮想の訴訟パフォーマンス〕を書いた。アンナエウス・セネカは、百十は書いたはずだと主張している。彼が仮想演説{ロマン}で評価したのは精力だった。望んだのは、声がみなぎり、筋立ては一気加勢に進み、作者がもはや統御できなくなるところまで達することだった。セネカはこう書いている。「彼の声は野太く不明瞭で、徹夜と不摂生のためにかすれていた。だが、語り始めの部分では力なく思えたその声は肺の力のおかげで徐々に高まり、いつしか独自の語り口のなかで声量を増していった。彼はけっして声の訓練をしようとしなかった。スペインの粗野で武骨な習慣を捨てることはできなかった。いつも成り行きまかせに生きていた。自分の声に対して特別なことはいっさいしなかったし、最低音から最高音へと段階を踏んで声を上げたり、その逆に最高音から同じようにゆっくりと下降させるという配慮もしなかった。マッサージで汗を流すこともしなかった。散歩という手段によって呼吸をよみがえらせるということもしなかった〔原註1〕。」働き盛りのとき、度重なる徹夜のせいで彼の右目は少しずつ視力を失っていった。書付板の近くに燭台を置いているせいで炎が板に塗ってある蝋に反射し、それに近いほうの右目が焼けたのだという。彼は鉄鏝でカールさせた髪を嫌っていた。いつも猛烈な勢いで書き、自分が書いたものについては、鹿や山猫が茂みを飛び越えて魂のなかに入ってくるようなものだと言うのだった。彼には、当時のローマのあらゆる弁士や仮想弁論家がうらやむような記憶力があった。だがじつは子供のころ、彼はいっさいの記憶を失ったことがあった。この記憶喪失はちょうど、カエサルがラヴェンナの城門を出るにあたって、ルビコン――ラテン語で「赤く染める」という意味――と呼ばれる小さな川の前で命がけの決断を下した時期に当たっている。ポルキウス九歳のときだった、雌牛の蹄が顔面にあたり、六日間にわたって気絶したのである。セネカが伝えるところによれば、この事故で記憶を失ったために、忘れ去られた一時期の生活の細部をあらためてそらで憶える必要に迫られたのだという。彼の顔には、耳の上から眉の上にまで達する傷痕が残った。雄牛や雌牛の鳴き声には生涯おびえさせられた。十五の歳を数えてなお、牛が草をはんでいる野原は避けて通ったという。

前四三年、彼はアンナエウス・セネカとともにローマに赴いた(この人は四十年後にスペインに戻り、ヘルウィアという女性と結婚して、三人の息子をもうけた。アカイア総督で聖パウロとも面識のあったセネカ、皇帝ネロと命運をともにした哲学者のセネカ、そして銀行家のセネカの三人である。この末弟の息子がルカヌス〔カエサルとポンペイウスの抗争を描いた『内乱賦』の著者〕である)。この二人のコルドバ出身の青年はマルルスに師事した。マルルスは命じた、素っ気ないこと、荒いこと、唐突であること、短いこと。彼が要求したのは、声においては素っ気ないほど明確に区切って発音されること、言葉遣いにおいては荒々しいほど的確であること、文の構成においては唐突なほど意表をつくこと、持続においてはぶつ切れでほとんど短すぎると思われるほどに迅速であることだった。耳を捕らえるための素っ気なさ。心に触れるための荒々しさ。注意を引き留め、心のリズムを乱すための唐突さ。退屈に流れるよりは飢えに留まらせるための短さ。

 

*1) H・ボルネックが校訂したテクスト(H. Bornecque, Paris, Garnier, 1932)には異文がある。
《Vox robusta sed surda, lucubrationibus et neglegentia, non natura infuscata; beneficio tamen laterum extollebatur et quambis inter initia parum attulisse virium videretur ipsa actione acrescebat. Nullam umquam ili cura vocis execendae fuit; illum fortem et agrestem et Hispanae consuetudinis morem non poterat dedisceres: utcumque res tulerat, ita vivere; nihil vocis causa facere, non illam per gradus paulatim ab imo ad summum perducere, non rursus a summa contentione paribus intervallis descendere, non sudorem unctione discutere, non latus ambulatione reparare》.

*訳註――参考までにこのラテン語テクストに該当するアンリ・ボルネック自身の仏語訳をここに翻訳しておく(Seneque le Pere, Sentences, divisions et couleurs des orateurs et des rheteurs, Traduction du latin par Henri Borneque, Revue par Jacques-Henri Borneque, Preface de Pascal Quignard, Aubier, 1992)
「その野太い声は徹夜と不摂生のためにかすれていたが、生来不明瞭なわけではなかった。だが、ひとたび肺の力のおかげで声が高まると、当初力なく思えたその声が演説の途中から力強くなっていくのだった。彼はけっして声を鍛えようとはしなかった。スペインの粗野で無骨な習慣を捨てることはできなかった。成り行きまかせに生き、自分の声のために特別なことは何もせず、最低音から最高音まで段階を踏んで声を上げ、その逆に最高音から同じようにゆっくり下降させるなどということはしなかったし、マッサージで汗を流したり、散歩で肺を鍛えるようなこともしなかった。」

 

 

第二章

 

ポルキウスは齢を重ね、大いに書いた。前四三年十二月七日、キケロが輿の垂れ幕から頭を出したとき、アントニヌスの命を受けたポピリウスによってその頭を切り落とされた。若きラトロはギリシア人たちが「ロゴス」と呼び、古代ローマ人たちが「ラティオ」と名づけたものに食ってかかった。すなわち理性のことである。彼は次のような論法でパラドックスを展開した。「相手を議論でうち負かす者に無理があり、議論が下手なものに道理があることもありうる。」もっとも年長の部類に入る弁論家たちは、いちいち自分たちの弁論術に難癖をつけるこの挑発に苛立った。ラトロはあまりに熱っぽく喉の奥から声を放ってはならぬと言った。彼の声は不明瞭だったが、確信から生まれる精気があった。この精気はその隻眼にも読みとることができた。徹夜明けに起きて活動するのも厭わなかった。馬に乗って狩をするのが好きだった。彼は生{き}と素{す}の味わいを知っていた。彼の教えについた者たちの記憶には、次のような言葉がもっとも鮮烈に残った。「いつも不満をかかえている者にとっては、理屈の通った思想はフードのついたガリア人の外套である。」

この言葉を発したとき、彼はすでに四十の歳を数え、すっかり奇矯の人となっていた。たしかにこの言葉にはあまり関連性のない二つのイメージが結び合わされている。このような抽象的な言葉と外套のフードとの衝突を賞賛したのはマルルスの教えだった。彼は、論判{コントロウェルシア}などと言わず、申し立て{カウザ}と言うべきだと主張した。また、雄弁{スコラスティカ}とか弁論{デクラマティオ}などという言葉は使わず、発言{ディクティオ}と言うべきだとも主張した。彼が仮想演説{ロマン}を読むと、その朗読を聞こうとしていつも聴衆が押し寄せてきた。アンナエウス・セネカはこう書いている。「これから発表しようとする演説を暗記するにあたって、彼は原稿を読み返すことはしなかった。書いて憶えた。この現象は注目するに値する。というのも、そもそも彼が原稿を書くとき、ひとつひとつの言葉を選び、数十もの方法で文章を絞りあげながらゆっくりと書くようなことはせず、いわば彼が話すときと同じ猛烈な勢いで書き飛ばしたからである。いったん暇が与えられると、彼はありとあらゆる遊びに、ありとあらゆる気晴らしに没頭した。いったん森や山のなかに入ると、その疲労に耐える力といい、狩の巧みさといい、山で育ち、森で育った農民にもひけをとらなかった。幼年期の教育によって培われた天分は彼にたぐいまれな記憶力を与えた。それに加えて彼は忘れてはならないことを頭におさめ、とどめておく比類ない技術も獲得した。そのため、彼の記憶のなかにはそれまでに発表したすべての演説がしまいこまれていた。こうして備忘録は彼にとって不要のものとなった。彼は心に直接書き付けるのだと言っていた」(父セネカ『論判演説集』第一巻十七節 Controversiarum liber primus, XVII)〔原註2〕

 

*2)ここはエルネスト・マレシャル(Ernest Marechal)の翻訳に従っている。(Histoire romaine depuis la fondation de Rome jusqu’a l’invasion des Barbares redigee conformement aux programmes officiels, Paris, Delalain, 1881, p. 414)

 

 

第三章

 

ポルキウス・ラトロは森と山と渓流、牛の匂いと温かみ、さかりのついた雄鹿の鳴き声を好んだ。彼は理性が@合理的{ラシオネル}であることを疑う一方で、それが@理性的{レゾナブル}であることにさえ異議を申し立てた。セネカは次のような対話の断片を残している。

――知性はどこから出てくると思うかね?

――知性は闘争への欲望から出てくるものだ。

――その場合、知性が他人を打ち負かす手段を与えてくれるものであるならば、その目的は真理ではなく、勝利であるわけだ。

――いや、論争が目指すのは勝利ではなく、勝鬨なのだ。さてこの勝鬨だが、これは勝利において満たされるわけでも、相手を死に至らしめたときに満たされるわけでもない。その要件とは、民衆の叫びであり、行進であり、祭典であり、流された血の光景であり、赦しの可能性なのだ。

――叫び、それはわかる。血、それも見える。だが赦しとは?

――赦すということは、「命を助けてやる」ということだが、「自分は死を宣することも、とりやめることもできるほどに強い」ということでもあるのだ。

ポルキウス・ラトロのこの身も蓋もない思想は、他の誰よりも――ルクレチウスよりもタキトゥスよりも――ローマの現実を物語っている。

一九一四年と一九四〇年の戦争は文明と非文明の区別を説得力のないものにしてしまったといえるだろう。いずれにせよ、この二つの戦争は合理性を殺戮の無秩序に対峙させることができるかどうかが問われた戦いだった。理性と文明がじつは野蛮な力からそれほど遠いものではなく、むしろ理性と文明はその仮面の役目をはたすことで増長してゆくものだということを認める思想は歴史にほとんど見られない。人受けのする多くの思想の面目を失わせるこの不愉快な思想を愛するまでに至った文明もほとんどない。古代中国があり、古代ローマがあり、そのローマにおいてはキンナ、カエサル、そしてラトロがいた。彼は古代ローマにふさわしいごくまれな思想のひとつを打ち立て――それはアテネやアレクサンドリアで生まれたギリシア的理論の著作に対してローマの特徴を際だたせるものでもあった――、しかもその思想をこのうえなく不快な結論にまで導いていったのだった。近代の大学教授たちは、古代都市の雄弁術教師のように、誰もがギリシア的教養で育まれているから、みずから好んでこのような思想を引き立てようとはしなかった。だがラトロの思想は、たしかに酔狂で、晩年に彼を襲った錯乱のあとがいくらか見られるものの、学校でまともに批判されたこともなかった。彼は、ローマ追放後も含めて、民衆から愛され続けた。(続く)

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