*11 パスカル・キニャールとマニエリスム(1)

 

『ヴュルテンベルクのサロン』をめぐって

 

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図1.ボージャンのゴーフレット

図1にあげたのは、『世界のすべての朝』(註1)に登場するボージャンの〈ゴーフレット〉である。ボージャンという画家については、この小説の主人公のガンバ奏者サント・コロンブと同じように、17世紀中葉に活躍した画家ということ以外、伝記的詳細がつかめず、A・ボージャンとL・ボージャンという二人の画家がいたのか、それともこの二人が同一人物だったのかもはっきりしていない。パスカル・キニャールはこの小説のなかで、伝記的事実のはっきりしないこの画家に「私としては、あの神秘の炎にまでたどりつく道を探しているのだがね」と語らせている。キニャールはこの小説の刊行と同じ年にジョルジュ・ド・ラ・トゥールについてのエッセイ(註2)も書いているから、ほぼ同時代を生きたこの二人の画家のイメージを小説の肉付けのために重ね合わせたものと思われる。

ラ・トゥールの〈マグダラのマリア〉(図2)は、この世の「はかなさ(ウァニタス)」を寓意とするフランス初期バロックの代表作と言われているが、ボージャンの〈ゴーフレット〉もまた、ウァニタスを寓意として描いた同時代の典型的な作品であり、双方ともその静寂の奥に潜む異様な緊迫感によって観る者を画布の前に釘付けにしてしまう作品である。

触れただけで壊れてしまいそうな華著なグラスと、それに注がれているいかにも糖度の高そうな茶色がかった赤ワイン。冷たく鈍い光をはなつ錫の盆と、その上に載せられた鋭利な剃刀のようなゴーフレット。死の底のイメージを喚起する青いテープルクロス。こもかぶりのどっしりとしたワインの瓶。ここには安定と不安定、日常と非日常、自然さと不自然的さが同居し、いかにも単純な遠近法で画面が構成されているかのように見えて、細部をよく注視すると遠近法がわずかに歪んでいて(たとえばグラス、錫の盆)、鑑賞者に軽い目眩を感じさせる。この緊張感はバロック絵画に特有の性質なのだろうか。それともマニエリスムから受け継がれた特徴なのだろうか。あるいは優れた作品に普遍的に内在する特徴と言うべきなのだろうか。

 

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図2 ラ・トゥール「マグダラのマリア」

アーノルド・ハウザーの『マニエリスム』(註3)を読むと、これまで私が漠然と「バロック的」と考えてきた要素・性質の大半が「マニエリスム的」なものに取り込まれているので、正直言って、頭が混乱してくる。とりわけマニエリスムの概念を文学にも応用し、モンテーニュもパスカルもシェークスピアもマニエリスムであるとなると、ほとんどついていけない。だが、ハウザーのきわめて拡張されたマニエリスムの概念は一方で魅力的であることも事実である。彼は、バロックの本質的性格を「主観主義、過剰と豊饒」にのみ求めることは片手落ちであり、「より広範な階層の公衆に訴えるための感情的に決定された一つの芸術傾向」であるという根本的要因を見落としてはならないと説く。これに対してマニエリスムは「本質的にある排他的な知的及び社会的基盤の上に成立つ精神的運動」であると言い、「バロックが比較的自発的で簡素であるのに対して」、マニエリスムは「より文化的な伝統に首までつかった、晦渋な、内省的な、分裂をきたした様式」であると述べている。

かりにハウザーの見解に従うとするならば、ここでその魅力の一端を紹介しようとするパスカル・キニャールの『ヴュルテンベルクのサロン』(註4)は完全にマニエリスティックな作品だと言える。この小説が「文化的な伝統に首までつかった、晦渋な、内省的な、分裂をきたした」作品であることは歴然としているからである。彼がこれほどマニエリスティックな傾向を突出させたのはこの小説だけである。89年に上梓された『シャンボールの階段』(註5)はがらりと傾向を変えて軽快な文体を用いているし、他の多くの作品——たとえば『世界のすべての朝』や『理性』(註6)——においては「自発的で簡素」な美しさにあふれているからである。ハウザーが言うように、バロックとマニエリスムがある局面で対立するものであるならば、本質的にバロッキストである作家——彼自身が『ジョルジュ・ド・ラ・トゥール』のなかで使っている表現を借りれば、ジャンセニスト的バロックの作家——がなぜマニエリスティックな作品を書いたのかという疑問が当然起こってくる。キニャールはあるインタヴューで次のように語っている。


(『ヴュルテンベルクのサロン』を書いたひとつの理由には)ガリマール社の出版選考委員の仕事もかなり関係あると思います。私を信頼して作品を託してくれた作家たちの作品を読み、彼らに、もう構造主義だとか何だとか、そういう理論の時代は終わった、登場人物のない小説とか、何がない小説とか、制約をつけてものを書かなければならない時代は終わった[中略]、そう70年代は終わった。社会を縛っていた規範は消えた。だから、やりたいことをやらなくてはいけない。そういうアドバイスを与えていて、自分自身から実行に移さなくては、と感じていたのかもしれません(註7)。

 

ここで「登場人物のない小説とか、何がない小説」と言われているのはおそらく、かつてヌーヴォー・ロマンとかアンチ・ロマンなどと呼ばれた一群の作品、あるいはその亜流の作品のことだろう。なぜ70年代全般を通じてフランスの小説は痩せてしまったのか? この問いに対する答えのひとつとして、いわゆる東西の冷戦対立の構造が行きつくところまで行ったにもかかわらず、あいかわらずその遺制が作家の感受性を支配していたということがあげられるだろう。それは言うまでもなく全世界的なものだった。ベトナム戦争の泥沼化、68年のプラハの事件、パリにおける5月危機、そして東京では「全共闘」の騒乱と三島由紀夫の自決。アメリカ的な資本主義が理想だとは誰も思えず、既成の社会主義には絶望し、かといって単純なナショナリズムに回帰することもできない。もちろん作家たちはイデオロギーに依拠して作品をつくるわけではない。だが作家の感受性と政治的イデオロギーの関係はもつれた糸のようにどこかでつながっているし、少なくとも時代感情を反映していることはたしかだろう。そこで作家たちは、言葉の技法(マニエラ)とスタイルの洗練というきわめて知的に統御された作品を構築し、やがてその繰り返しは痩せ細っていく……。ヴァルター・フリートレンダーは『マニエリスムとバロックの成立』(註8)のなかで次のように言っている。

 

(本来的なマニエリスムの)精神主義は、原始主義(プリミティヴィズム)と空間的形体的抽象を通して、内容を深めることを求めていた。それは単なる文学上の、理論上の反対運動ではなかった。客観性の手段による、単純に実際的作品による反抗であった。このやり方は、もっともよく芸術的感情の変換を示すものだ。しかし、本当の敵はすでに述べたような習慣的手法に陥ったマニエリスムだった。その精神面にさえ及ぶ浅薄さに対して、1580年頃の変革の鋒先が向けられたのである。その新しい運動の攻撃目標は、形体の堕落を救い、同様に精神的なものが、単なる遊びやアレゴリーに堕落しているものを救うことにあった。(強調筆者)

 

この一節から、きわめてマニエリスティックな『ヴュルテンベルク』の真の敵がじつはヌーヴォー・ロマン風の無意識的なマニエリスムにあったことを指摘するのはいささか無理があるが、引用の目的はむしろ、マニエリスムという様式がルネサンスとバロックの狭間にあって、一筋縄ではとらえきれないものであることをここで再確認することにある。すなわち、この一節は美術史においてマニエリスムという概念を初めて侮蔑的な呼称の枠から解放し、バロックという概念からも自立させる契機をつくった記念碑的宣言なのだろうが、それと同時に、「精神主義的なマニエリスム」と「習慣的手法に陥ったマニエリスム(=マンネリズム)」を対立させることによって、反マニエリスム的な画家が真のマニエリストであるという同語反復的な矛盾をきたしているように思えるからである。事実、その同語反復的な矛盾は前述のハウザーにも受け継がれている。すなわち、バロックという概念の濫用を諫めるために、みずからマニエリスムという概念を濫用しているという矛盾である。ようするにバロックという概念がそうであるように、マニエリスムという概念もまた、それを使う人の数と同じだけの定義があるのかもしれない。(つづく

 


(1)Tous les matins du monde, Galimard, 1991 (邦題『めぐり逢う朝」、拙訳、早川書房)
(2)Georges de LaTour, Flohic, 1991
(3)アーノルド・ハウザー『マニエリスム』(若桑みどり訳、岩崎美術社)
(4)Le salon du Wurtemberg, Galimard,1986 (拙訳、早川書房)
(5)Les escaliers de Chambord, Galimard,1989 (拙訳、早川書房)
(6)Le Raison, Le Promeneur/Quai Voltaire,1990 (拙訳、青土社『アプロネニア・アウィティアの柘植の板』に所収)
(7)『中央公論文芸特集』1994年春季号(インタビュー・訳/浅野素女)
(8)ヴァルター・フリートレンダー『マニエリスムとバロックの成立』 (斎藤稔訳、岩崎美術社)

*8 ムルソーの食卓

カミュの『異邦人』を久しぶりに読み返しているうちに、主人公にして語り手のムルソーがどんなものを食べていたのか、みょうに気になってきた。最初にムルソーが食べる場面は早くも二ページ目に出てくる。

 

二時のバスに乗った。とても暑かった。いつものように食事はセレストの店ですませた。みんな、ひどく同情してくれて、セレストは「母親はかけがえがない」と言った。店を出るときには、みんなで見送ってくれた。僕はいささかあわてていた。エマニュエルのところに行って黒のネクタイと喪章を借りなければならなかったのだ。彼は数ヵ月前に叔父を亡くしていた。

 

何を注文し、何を食べたかについては、何も触れられていない。母親の葬式の前日に、主人公が何を食べたかなんて、どうでもいいことだろうと言われればそれまでだが。

こうしてムルソーは、アルジェから八十キロ離れたマランゴの養老院まで行く。そして、死体置き場の小部屋で、門衛といっしょにカフェオレを飲み、煙草をふかし、母親を弔う通夜の晩をすごす。この行為は、のちの裁判シーンでは、検察官がムルソーの「無感動」な態度を告発するときの格好の材料になるが、ここでは、飲み食いする場面としてことさら取り上げるほどでもない。

次にムルソーが食事をする場面は、二日後の日曜日にとぶ。ちなみに、その前日の土曜日——つまり葬儀の翌日——は海に泳ぎに行き、そこでかつて同じ事務所で働いていたマリー・カルドナという女性と再会し、映画を見てからそのまま夜をともにしている。「夜、マリーはすべてを忘れ」、ムルソーが目覚めたときには「いなくなっていた」と書かれている。

彼は、今日が自分の嫌いな日曜日であることを思い出し、マリーの髪の毛が残した潮の香りに埋もれるようにして、また十時まで眠り、目が覚めても昼までベッドのなかで煙草を吸っている。

 

いつものようにセレストの店で食事をする気にはなれなかった。行けばきっとあれこれ質問されるだろうし、そういうのは苦手だから。卵をいくつか焼いて、皿からそのまま食べた。パンはもうなくなっていたけれど、わざわざ買いに行くのがおっくうだった。

 

「卵をいくつか焼いて、皿からそのまま食べた」というところ、小首を傾げた人もいるだろう。でも、ここは原文そのものが少し舌足らずなのだから仕方がない。ちなみに、定番の翻訳と言える窪田啓作訳(新潮文庫)では「卵をいくつも焼いて、鍋からじかに食べた」となっている。でも、原文には皿(le plat) という言葉はあっても、鍋とかフライパンに該当する言葉はない。たぶん、訳者は状況を想像して訳したのだろう。鍋からじかに食べるというのはあっても、皿からじかに食べるというのは妙だから(ただし、小皿に取り分けないで、大皿からじかに取って食べるという意味では使われる。しかし、ここでは一人で食べているのだから、やっぱりおかしい)。とにかく、字義どおり訳すると、拙訳のようになる。いや、この一文は、いわゆる字義どおりには訳せない。なぜなら「焼く」と訳した動詞(cuire) は「煮る」場合にも使われるから。そうなると、これは目玉焼きではなく、ゆで卵になる。あるいは何個も溶き合わせて(卵が複数形だから)、オムレツを作ったのかもしれない。とまあ、重箱の隅をつつくような話ではあるけれど、翻訳家泣かせの一文にはちがいない。

それはともかく、いかにも、日曜日の昼まで寝ていた独身男の食事らしい。目玉焼き——だと仮定して——も、ちゃんと作ろうとすればデリケートな料理らしいが、ムルソーがどのくらいまめに調理しているのかは、この部分からはわからない。なにしろ、塩をふるところさえ書かれていないのだから。

このあとムルソーは、自分の住む下町のアパルトマン——今どきの日本語で言えばマンションだが、日本のフランス文学業界ではこう呼ぶことが慣わしになっている——から、ひたすら往来を見下ろして午後を過ごす。晴れていた空が陰り、雨がぱらぱらと降り、ムルソーはまた煙草をふかしたり、チョコレートをかじったりしながら、下町の賑わいを見つめている。やがて日は傾き、夕闇が降りてくる。

 

すると突然、街灯に明かりがともり、すでに夜空に上がっていた最初の星たちの輝きがうすれた。歩道の上の人々と光を見ているうちに、目が疲れてくるのを感じた。街灯がぬれた舗石を照らし、規則的に行き交う路面電車の明かりが、つややかな髪や笑顔や銀のブレスレットに反射した。やがて電車があまり通らなくなり、樹木や街灯の上ではすでに宵闇が濃さをまし、いつのまにか街から人影が消え、ふたたび閑散とした通りを最初の猫がゆっくりと通りを渡っていった。そこでようやく、夕食をとらなければと思った。椅子の背に長いこと顔をあずけていたせいで、少し首が痛んだ。外に出てパンとパスタを買ってくると、自分で料理を作り、立ったままで食べた。また窓辺で煙草を吸いたくなったが、夜風が冷たく、寒気がした。窓を閉めて引き返そうとしたとき、窓ガラスに映ったテーブルと、その上に置いてあるアルコールランプとパン切れが目に入った。なんの変哲もない、あいかわらずの日曜日だった。ママはもう埋葬されたし、明日からはまた仕事、結局なにひとつ変わりはしないのだ、と思った。

 

数ページにわたって続く、街路の描写はとても美しい。この景色は、著者カミュが少年時代に住んだアルジェの下町、ベルクール地区の中心をなすリヨン通りだ。じつに細かく、ときに遠近法を無視して描写されている。いや、ムルソーが語っているというべきか。でも、何を食べたかはわからない。パンとパスタを買ってきたのだから、スパゲティか、マカロニかペンネの料理でも作ったのだろう。トマトも買ったと書いてあれば、赤いソースのからんだ白いパスタが目に浮かぶが、パンとパスタだけじゃ、何もわからない。この物語の冒頭でムルソーが受け取る電報と同じだ。

 

今日、ママが死んだ。もしかすると昨日かもしれないが、よくわからない。養老院から来た電報には、「ハハウエシス。マイソウアス。アイトウノイヲヒョウス」とある。これじゃまるで要領を得ない。まあ、昨日だったのだろう。

 

ムルソーの語りには、わからない、知らない、どうでもいい、などの言葉が頻出する。カミュの最初の構想では「無関心な男」というタイトルだったそうな。やがてカミュは『幸福な死』という長編小説を書くが、結局この小説は未発表のままに終わった。だが、この作品を踏み台にして、『異邦人』という、おそらく文学史に永遠に残る傑作が生まれた。でも、この種の事柄は文庫版の解説にも書いてあることだから、知りたければそれを読むといい。

食事の話を続けよう。

ムルソーは何事もなかったかのように、仕事に精を出す。彼の仕事は通関代行業、港のなかにある海運事務所で働いている。

さて、昼時。ムルソーはエマニュエルという発送係といっしょに外に出る。港に浮かぶ貨物船が真昼の光にまぶしく照り映えている。そこにトラックがやってくる。ムルソーとエマニュエルはけたたましいエンジン音を響かせて通りすぎるトラックを追って駆けだし、荷台に跳び乗る。トラックは巻き上がる埃と太陽の光のなかを疾走し、不揃いな波止場の敷石の上ではね、エマニュエルは大声で笑いこける。

 

汗だくでセレストの店に着いた。太鼓腹と前掛けと白い口ひげという、いつもの出で立ちでセレストが迎えてくれた。「なんとかやってたかい」ときくので、うん、と答え、腹がへってるんだと言った。そそくさと食って、コーヒーを飲んだ。それから部屋に戻って、少し眠った。ワインを飲みすぎたせいだろう。目が覚めると、煙草が吸いたくなった。遅くなったので、走って電車に飛び乗った。午後はずっと働いた。事務所の中はとても暑く、夕方外に出て、波止場をゆっくりと歩いて帰るのは気持ちがよかった。空が碧くて、満たされた気分になった。でも、ゆでたジャガイモの料理が作りたかったので、まっすぐ部屋に帰った。

 

セレストの店では何を頼んだのか、あいかわらずわからないが、会話を避けるかのように「そそくさと」食べ、コーヒーを飲んで帰ってしまう。そのあと、ワインを飲みすぎたせいで眠くなったというから、料理を食べるのと同じ勢いで、立てつづけに何杯か飲んだのだろう。おもしろいのは、夕暮れどきのムルソーの気分の揺れ方だ。鬱陶しい事務所を出て、気持ちのいい潮風の吹く波止場を歩き、「空が碧くて、満たされた気分」になっているのだから、どこかのカフェに立ち寄って、ビールとか、あるいは、南仏やアルジェリアでは夏定番のパスティス(ウイキョウのリキュール)の水割りなんかを引っかければいいものを、そうはしないで、まっすぐ家に帰って自分で夕食を作ろうとする。芋をゆでて、どうするのかはわからないけれど。

料理をするムルソーというイメージは好もしい。美食家ではないが、生活の手触りというのか、かたちというのか、そういうのは大切にする。とはいえ、それを強調するために、食事のシーン、食べ物についての場面をことさら詳しくは書こうとしていない。絵にたとえるなら、わざと白地を残している。

この空白というか、穴のようなものが、読者の想像力と好奇心を吸い寄せる。

ものを食う場面ばかりではない。たとえばムルソーに兄弟・姉妹はあったのか。養老院の院長は、母親の通夜と葬儀のためにやってきたムルソーに向かって、こう語りかける。

 

「マダム・ムルソーがここに入られたのは、三年前のことです。あなたはたったひとりの扶養者だった」。僕は何かとがめられているような気がして、弁解しようとした。だが、院長がさえぎった。

 

「たったひとりの扶養者」という言葉から、ムルソーが一人っ子だったと結論することはできない。兄弟姉妹がいても、遠くに住んでいるとか、この小説の書かれた時代からすれば戦死してしまったという可能性もある。そもそも、ムルソーの弁解自体が封じられている。

父親のこともまったく書かれていない。いや、正確に言えば、たった一箇所で言及されている。それは、小説の第二部第五章に記されている。裁判で死刑が確定し、ムルソーは独房へと引き戻される。そして三たび、御用司祭の面会を拒否し、もうじき自分の首を刎ねるであろうギロチンのことをひたすら考える。

 

そんなとき、ふと母から聞いた父に関する話を思い出した。僕は父を知らずに育った。この人について正確に知っていることといえば、このときママが話してくれたことだけだろう。彼はある殺人犯が処刑されるところを見に行ったというのだ。刑場に行くと考えただけで具合が悪くなった。それなのに刑場に行き、帰ってきて、朝食べたものの一部を吐いた。それを聞いて、自分の父が少し嫌になった。

 

奇妙な記憶だ。というか、よりにもよって、こんなことを息子に詳しく語る母親も母親だ。ムルソーの父と母は離婚したのだろうか。それとも死別したのだろうか。これもわからない。著者カミュも父を知らずに、母の手で育てられた。彼の父は一歳のアルベールと四歳上の長男を残して、第一次大戦で戦死している。しかし、著者は著者、小説の主人公ではない。

これは小説を読むうえでの原則であり、礼儀であるだろうと思う。しかし、(かつての)批評の多くが(べつに『異邦人』の場合にかぎらず)、著者の生い立ちを詳しく調べ上げ、作品に書かれた場面や状況に当てはめては、探偵小説みたいに創作の謎を解こうとした。

あるいは精神分析医のように、主人公の(あるいは作者の)心の病を解析するものもある。これは完璧な「父殺し」「母殺し」の心理構造を持つ作品であり、オイディプス・コンプレックスの象徴的物語であると。

その種の批評、論考を読むと、それなりに説得はされる。しかし、それがこの小説の魅力だろうかと、一読者として考えたときには、はたしてどうかと思う。

 

 

それはともかく、食事の話を続けよう。

ジャガイモ料理をしようとまっすぐ帰宅したムルソーは、アパルトマンの暗い階段を登りながら、同じ階に住むサラマノ老人と鉢合わせになる。この老人は、自分と同じように老い、なおかつ重い皮膚病にかかっているスパニエル犬と暮らしている。

 

狭い部屋に犬とふたりで暮らしているせいで、サラマノ老人はついに犬に似てきた。老人は顔に赤みがかったかさぶたがあり、黄色い毛がまばらに生えている。犬のほうも飼い主の猫背がうつったのか、首を伸ばし、鼻面を前に突き出して歩く。似たもの同士だが、憎み合っている。

 

細かい描写だ——食事の場面とはうって変わって。一日に二回、決まって朝の十一時と夕方の六時に、老人は犬を散歩に連れ出す(つまり、物語の現在時刻は六時だということだ)。妻を失って以来八年、散歩の経路はかわらない。犬が老人を引っ張り、ときどき老人はつまずく。すると老人は犬を打ち、ののしる。犬はおじけて、はいつくばり、今度は逆にずるずると引きずられる。ときには歩道に立ちつくし、たがいの顔を見つめあう。

階段の途中で老人は「こんちくちょう! くたばりぞこないめ!」とどなり、犬はうなり声をあげている。ムルソーが、こんにちは、と声をかけても、老人は振り向きもせず、「こいつ、まだ生きてやがるんで」と言い残して通りに出ていく。

ムルソーはさらにもうひとりの隣人と出会う。女を食い物にしている女衒だと近所では評判の悪い男が「部屋にブーダンとワインがあるんだが、いっしょにやらないか?」と声をかけてくる。ムルソーは自分で夕飯を作らなくてもすむと考え、誘いにのる。

ブーダンとは、豚の血と脂身で作る腸詰めのことだが、独特の臭みがあって、フランス人でも敬遠する人がいる。まあ、庶民の食べ物といっていいだろう。

話が遠回しになったが、結局この夜、ムルソーはジャガイモ料理を作ろうとまっすぐ家に帰ってきたのに、隣に住む女衒の誘いで、しこたま酒を飲むはめになる。このレイモンという男、「小柄で肩幅が広く、ボクサーのように鼻がつぶれていて」、台所付きの一部屋に住み、「ベッドの上のほうにはスポーツ選手の写真やら、女のヌード写真が二、三枚貼ってある」という、典型的な街のチンピラとして描かれている。

レイモンは四方山話をするために、ムルソーを部屋に誘ったわけではない。金ばかり浪費して働こうとしない女を懲らしめてやりたいのだが、「あいにくまだ、あいつのからだに未練を感じている」。そこで、その未練を断ち切り、女にさんざん痛い思いをさせてから捨て去るために、ムルソーに手紙を書いてほしいというのだ。嘘八百の甘い手紙を書いて、女を呼び寄せ、まんまとこの部屋にまたやってきたら、ベッドの上でたっぷりいい思いをさせてやってから、「最後の最後というときになって」女の面に唾を吐きかけてやりたいという。ムルソーは「レイモンを満足させない理由はない」という奇妙な理由で、手紙の代筆を引き受ける。

サラマノ老人と犬のエピソードが、みじめで哀れな話なら、こちらのレイモンと娼婦のエピソードは自堕落な男と女の、ふつうなら犬も食わない情痴話だ。男は、偽の手紙でまんまと呼び寄せた女を「血を見るほど」ひっぱたき、女は血を見て喚き、やがて警察がやってくる。

貧しい下町における、貧しい集合住宅の、貧しい隣人たちの話がえんえんと続くが、なぜか卑しくはない。

もう少し食事の話を続けよう。

次にムルソーが食事をする場面は、かなり奇異な印象を与える。彼は「いつものように」セレストの店にやってくるのだが、そこで奇妙な女性客に遭遇する。

 

すでに食事を始めていたとき、妙な感じのする小柄な女が店に入ってきて、同じテーブルに座ってもいいか、ときいてきた。もちろん、かまわない。しぐさがひどくぎくしゃくしていて、小さなリンゴみたいな顔のなかで二つの目がきらきら輝いている。ジャケットを脱いで腰かけると、夢中になってメニュをのぞきこんだ。そしてセレストを呼びつけ、間髪置かず明瞭だがせわしない声で、選んだ料理をいっぺんに注文した。前菜が出てくるまでのあいだ、バッグから小さな四角い紙と鉛筆を取り出し、前もって代金の総額を計算し、それにチップを加えた額を財布から抜き出して、自分の目の前に置いた。そのとき前菜が運ばれてきたので、それをまたたくまに平らげた。次の料理が出てくるまで、またもやハンドバッグから青鉛筆と週のラジオ番組表が載っている雑誌を取り出した。そして、ひどく入念に、ほとんどすべての番組にひとつずつ印をつけていった。

 

女は食事のあいだじゅう、ずっとこの作業を続け、食べ終わると、ジャケットをはおってすぐに出ていってしまうのだが、奇妙なのはこの女の行動だけでなく、ムルソーもおかしいのである。先に食べ終わっているというのに、彼もまた何かに憑かれたように女の一挙手一投足をじっと見つめ——それが上の引用に該当する——、おまけに女が店を出てからも、そのあとを追いかける。

これはいったいどうしたことか?

たしかに女の行動は少し偏執的かもしれないが、異常とまではいえない。都会ではよくある光景だ。ムルソーはこの女の何に引っかかったのか。その説明はない。

しかし、この小説を読みとおしたことのある人はおわかりだろうが、この女はムルソーを裁く公判の傍聴席にも顔を出すのである。セレストの隣に座っているという説明はあるが、どういう関係かはわからない。そして、今度は女のほうが被告席のムルソーをじっと見つめる。

おそらく、この女が『異邦人』という作品のなかでは、もっとも謎めいた人物として描かれている。その行動と態度が謎めいているというよりは、あまりに説明がないために。なぜ作者はこんな女を作中に登場させたのか、そのこと自体が謎めいている。

この女についても、おもしろい解釈があるが、ここでは謎は謎のままにしておこう。

さて、最後の食事の場面に移ろう。なぜなら、ムルソーはこの日、人を殺し、収監されてしまうから。拘置所でも食事は出るだろうが、ムルソーはそれについて感想を述べることもなければ、食べ物の思い出を語ることもなくなる。生活はこの日で途切れてしまう。

ムルソーとマリーは、レイモンといっしょに海に遊びに出かける。レイモンの友人が浜のはずれに小さな別荘を持っているのだ。家は岩場を背にして建っていて、前のほうを支える基礎杭は水に浸っている。持ち主の名はマソン、大柄でがっしりした体躯、女房のほうは小柄でぽっちゃりした体つきで、愛嬌があり、パリなまりでしゃべる。週末と休日だけ、夫婦でここにやってくる。「女房とはウマが合ってね」とマソンは言い添える。彼の妻とマリーは、女同士、声をそろえて笑う。そのときムルソーは、本気で結婚しようかと思う。

マリーが最初に海に入る。少し遅れて、ムルソーとマソンが続く。ムルソーは、泳ぎの遅いマソンを置いて、すでに沖合いで泳いでいるマリーを目ざす。

 

水は冷たく、泳いでいて気持ちがよかった。マリーといっしょに岸から遠ざかっていくうちに、たがいの手足の動きや、全身に満ちる充足感のなかで、二人の思いがひとつになるような気がした。沖に出て、われわれは浮き身をした。顔を空に向けていると、なおも口もとに押しよせてくる薄い波のヴェールを太陽の光が払いのけてくれた。

 

たぶん、ここにムルソーの短い人生の絶頂がある。何事もなければ、ムルソーとマリーは結婚するだろう。読者はしぜんとそう思う。しかし、最後の食事のときがやってくる。もちろん、本人も含めて、だれも最後だとは思っていない。

 

海からあがると、すでにマソンが呼んでいた。すごく腹がへっていると応じると、彼は女房に向かって、この人が気に入ったよ、と言った。パンがおいしく、取り分けてくれた魚のフライはたちまち平らげた。次には肉料理も出てきたし、フライドポテトも出てきた。みんな、ものも言わずに食べた。マソンはよく酒を飲み、こっちにもひっきりなしに注いでくれた。コーヒーが出てきたときには、少し頭がふらついて、やたらに煙草を吸った。

 

こうして男たち三人は腹ごなしの散歩に出ていく。

真昼の太陽が浜辺に垂直に降りそそいでいる。やがて、向こうから二人のアラブ人がやってくる。偶然ではない。レイモンが痛めつけてお払い箱にした情婦の兄弟が、復讐のためにあとをつけてきたのだ。殴り合いの喧嘩が始まる。レイモンが相手のナイフで傷つけられ、喧嘩の決着はついたかにみえる。しかし、傷の手当てを終えたレイモンの腹はおさまらない。仕返しのために、また浜辺に出ていく。今度は拳銃を持って。来るなというレイモンの言葉を無視して、ムルソーはあとを追う。撃ち気にはやるレイモンをなだめて、銃を取り上げるムルソー。なんとかレイモンの逆上はおさまり、二人はマソンの別荘に戻ってくる。しかし、ムルソーは家のなかには入らない。何かに憑かれたように、また浜辺へと出ていく。銃を持ったまま。

真昼の太陽がなおも激しくムルソーに襲いかかる。涼しい場所に惹かれて、浜辺から少し奥の、泉が湧き出している場所へとふらふらと歩いていく。

はたして——と言うべきか——、そこにさっきのアラブ人がいる。今度はひとりで。男はムルソーを見つけ、ポケットに手を突っこんでナイフを握る。ムルソーもポケットに手を突っこんで、レイモンの拳銃を握る。二人の距離は十メートルほど。ここで回れ右をして帰れば、何事もなく終わる、とムルソーは考える。しかし、「ママを埋葬した日と同じ」太陽の光が背後から彼を押す。距離が縮まる。アラブ人はナイフを構える。その刃に反射した光が長い刀のようにまっすぐに伸びてくる。眉毛にたまっていた汗のしずくが一気に流れて、ムルソーは盲る。

 

海から重苦しい吐息が運ばれてきた。あたかも空の全域が開かれ、火の雨を降らすかと思えた。全身が張りつめ、ピストルを握る手が引きつった。引き金が抵抗を失い、指先がつややかな銃床に届いた。そのとき、乾いた、耳を聾する轟音とともに、すべてが始まった。そして、その日の均衡と、そのなかで味わっていた浜辺のまたとない幸福を、自分の手で壊してしまったことを僕はさとった。それから、ぐったりと倒れている体になおも四発の弾丸を撃ちこんだ。弾は深くめり込んだはずだが、そんなふうにも見えなかった。それはまるで不幸の扉を打つ、四つの短いノックの音のようでもあった。

 

これで、われわれとムルソーとの食事は終わりになる。

第二部で展開される裁判については、なにも言うことがない。独房でのムルソーの、いつになく雄弁なモノローグについては、あまり関心がない。関心があるのは、あくまでも〈娑婆〉にいるムルソーだから。

それにしても妙なものを書いている、とわれながら思う。ムルソーの食事の場面を引用し、前後関係を説明し、筋立てを追うだけ。なんの論評もない。感想文にすらなっていない。

この作品の翻訳は版を重ねて、すでに文庫版は百刷りを超えている。たしかに版は重ねているが、意外と読まれていないような気もする。あるいは、強く惹かれる人と、反発する人と、二つに割れるようにも思う。主人公ムルソーが少数の人には好かれるが、「世間一般」の人には嫌われるように。そういう主人公が語っている小説が万人に受け入れられるとは思えない。

それはともかく、最初に読んだのはいつだったか? これがまた悩ましい。手持ちの文庫本の奥付には、昭和二十九年九月三十日発行、昭和四十六年十二月三十日四十一刷、とある。奥付によって本を買った日を特定することはできないけれど、少なくとも昭和四十六年(筆者高校二年)以降であることはまちがいない。でも、高校時代に読んだ記憶はない。では、大学在籍中のいつ読んだか? それも憶えていない。

ただ、異様な感じを受けて、最初はなじめなかったという記憶がある。ようするに、よくわからなかった。

この「異様な感じ」(あるいは「奇妙な感じ」、「ふしぎな感じ」)は、だれもが受ける印象なのだそうだ——フランス語を母語とする読者でさえも。だからこそ、この『異邦人』という作品をめぐって、おびただしい論評と研究の努力がつぎこまれた。

では、最初に原書を読んだのはいつだったか? やはり手持ちの原書の奥付を見ると、一九七七年(昭和五十二年)三月二十八日に刷られた版であることがわかる。購入したのがいつであったか、その記憶はないけれど、本気になって読んだ時期については、はっきりと憶えている。アルジェリアに出稼ぎにいく直前のことだ。著者のカミュ本人が録音した朗読テープを、新宿西口にあるフランス文学の専門書店でたまたま見つけ、原書を読みながら、毎日ヘッドフォンを通じて聴いていた。そう、あのなつかしい初代ウォークマン、何度も巻き戻しと早送りを繰り返したせいで、一年ともたなかった。さすがのソニーも、そんなユーザーを想定してはいなかっただろう。

アルジェに滞在していたとき、街の中心部にはほとんど毎日のように通った。施主のSONELGAZ(アルジェリア電気ガス公団)での打ち合わせのために——広大なサハラ砂漠に何カ所かディーゼル発電所を建設するというプロジェクトだった——、あるいはサハラの現場からの依頼で、部品やら工具やらを街の金物屋で手に入れるために。アルジェの街は、海岸から急勾配に立ち上がる地盤に建設された都市だから、郊外の住宅地にあった事務所から都心部に出るには、つづら折りの坂路をくねくね曲がりながら降りていくことになる。カミュ一家の住んだリヨン通り——独立後はモハメド・ベルイズダード通り——にはよく工具や金具を買いに行ったし、カミュお気に入りのミシュレ通り——同じくディドゥシュ・ムラド通り——から狭い路地に入ったところにあるベトナム料理屋は、ほとんど日本人御用達の店だった。映画『望郷』(ペペルモコ)で有名な港の鉄門をくぐって港内に入り、日本の貨物船に乗せてもらって、すき焼きなんぞ、ご馳走になったこともある。ムルソーの職業である通関代行業者を、業界では今でも乙仲(おつなか——乙種海運仲立業の略。戦前の海運組合法の用語)と呼んでいることも、この時期に知った。もう三十年も前の話だ。

アルジェリアから帰ってきて、翻訳業を始めてまもなく、珍しい経歴の編集者に出会った。高知の出身で、大学を卒業すると、遠洋漁業のマグロ船に乗ったという。自分の翻訳がはじめて本になったときの担当編集者だったから、水道橋にあった事務所によく遊びに行ったものだ。いろんな話を聞かせてもらった。作業中にウィンチで小指を落とした乗組員がいて、あわてて指を拾って、オイル漬けにしたというような話——次の寄港先で、手術の可能性があることを期待したのだと言うが、笑えばいいのか、同情すればいいのか、わからない話だ。

『どくとるマンボウ航海記』みたいの書いたらいいじゃないですか、とけしかけると、いや、話すのはともかく、書くのはちょっと・・・・・・「一種の戦争体験なんですよ」と。

それはわかるような気がした。戦争はかならずしも銃を担いでするものではない。あちらでは、何度もそれを実感させられた。現地の商社マンも、メーカーの出張社員も、派遣労働者も、戦地に送られた兵士なのだ、と。

アルジェリアには二度渡った。この国の東部にジジェルという県があり、同名の県庁所在地がある。首都アルジェの次は、地中海に面したこの町の郊外に冷凍倉庫を建てるプロジェクトの通訳として滞在することになった。

ここで生まれて初めて、飯場暮らしというものを経験した。鉄柱の骨組みにベニヤ張りという、いたって簡単な住居。そういう建物が二棟あって、一方の棟の一階には、共同の食堂と娯楽室と風呂があり、その二階には建設会社のスタッフと通訳が、それぞれ四畳半の個室を与えられて過ごしている。もう一方の棟には、様々な職種の職人さんたちが暮らしている。総勢三十名ほどだったろうか。

建設現場の周囲はなんの手入れもされていない野原だった。初夏には真っ赤なヒナゲシが咲き乱れ、野原を横断する電信柱のてっぺんには、巨大なコウノトリが巣を作っていた。掘り返された地面には、黒光りする鎧を背負ったフンコロガシがそこかしこでせっせと働いていた。

海岸を通る国道から現場に通じる道はでこぼこの砂利道だったが、どういうわけか片側だけユーカリの並木があって、車が通ると、並木全体がざわざわと騒ぎ立った。枝葉の音ではなく、そこに巣くう大勢の雀たちの羽ばたきの音だった。

ほつれたセーターを着た少年が山羊を追い、ロバが情けない声を振り絞っていた。

ファーブルの驚異的な忍耐力も、セザンヌの強靱な色の力も、こういう風土から生まれたのだろうと思った。地中海の向こう側の話ではあるけれど。

現場では毎日のようにトラブルが起こる。とりわけ事故が怖い。けが人が出ると病院に運びこむのは通訳の仕事だ。現地雇いの労働者にせよ、日本から派遣されてきた労働者にせよ、通訳が病院側とけが人のあいだに入らなければならない。言葉を訳していればすむという仕事ではない。

現場にはもう一人通訳がいた。小さな現場になぜ二人も通訳がいたのか、今も——というか、今となっては、よくわからない。

彼は勉強家だった。いつも部屋にこもって本を読んでいた。あるとき読んでいたのはジェームズ・ケインの本——タイトルはたしか『セレナーデ』、原語の英語ではなく、フランス語訳だった。このときの話の展開や経緯はもう思い出せない。なにしろ、彼の名前さえ忘れてしまっているのだから。なぜそんなものを読んでいるのか、ふしぎに思って、こちらから尋ねたのだろう。彼は答えた。

「カミュの『異邦人』はケインの影響を受けているという説もあるんだよ」

カミュとアメリカのハードボイルドの関係について話を聞いたのは、これが初めてだった。

『郵便配達は二度ベルを鳴らす』は日本に帰ってからすぐに読んだ。ジャック・ニコルソンとジェシカ・ラング出演の映画(一九八一年公開)は、ずいぶんあとになってからテレビで見た。これをきっかけに、チャンドラーの作品にもはまった。

しかし、アルベール・カミュとアメリカ文学——とくにハードボイルドと呼ばれる作品群——との影響関係を証明することは、思ったよりはるかに面倒な手続きを要する。

『異邦人』は、第二次大戦中の一九四二年に刊行され、占領下のフランスで売れつづけ、増刷された。サルトルが『異邦人』の文体とヘミングウェイの文体の類似を指摘し、フォークナーやスタインベックからの影響を問う文芸誌のインタビューには、カミュみずからその手法を使ったことを正直に認めている。

ヘミングウェイの初期の代表作(たとえば『日はまた昇る』『武器よさらば』などの長編、あるいは短編集『われらの時代』)はどれも一九二〇年代に発表されている。ハメットの『マルタの鷹』は一九三〇年、ケインの『郵便配達は二度ベルを鳴らす』は一九三四年の刊行だ。『異邦人』のあの有名な「今日、ママが死んだ。ひょっとしたら昨日かもしれないが、よくわからない」という書き出しは、すでに一九三八年の『手帳』にそっくりそのまま記されている。そして、四〇年の五月には、『異邦人』書き終える、と記されている(草稿に記された最終的な「完成」を示す日付は一九四一年の二月だそうだ)。

カミュがアメリカの同時代文学をどこまで読んでいたか、あるいはそのフランス語訳がいつごろ出版されたか、そういうことを確かめるには、研究者の緻密な考証を必要とする。だが、ここでは、カミュが他言語で書かれた同時代の文学をどの程度摂取していたかということよりも、彼がまさにその「同時代」を生きていたということをあらためて確認してみれば用は足りる。

アルベール・カミュが生まれたのは、一九一三年のことだ。

翌年、第一次世界大戦が勃発し、父リュシアンは従軍してまもなく戦死する。

一九一七年にロシア革命が起こり、翌年ドイツと連合軍は休戦状態に入り、翌一九一九年にヴェルサイユ条約が締結される。

フランス共産党が創立されるのは一九二〇年(カミュが入党し、劇団「労働座」を創設するのは三五年のこと)。

大学に入学するのは一九三二年、翌年ドイツではヒトラーが政権を握る。

(ちなみにノーベル賞受賞は一九五七年、交通事故で死亡するのは一九六〇年、アルジェリアがフランスから独立するのは六二年のことだ)

こうしてみると、カミュの文学活動が本格化していく過程と、ヨーロッパの国々が二度の世界大戦で国力を消耗し、それに代わって、新しく誕生したソビエト連邦とアメリカ合衆国が力を増していく過程とは、みごとに重なっていることがわかる。

『異邦人』という作品は、まさにそういう時代の、ど真ん中に生まれた。

ムルソーは母の葬儀で涙を流さなかったがゆえに社会の憎しみを買い、殺人を犯したのは「太陽のせいだ」と法廷で発言して、ひんしゅくを買う。

かつて『異邦人』は「不条理」の小説と呼ばれた。「不条理」は「実存主義」と並んで、一時期の学生の流行語だった。今はもう、どちらも日常の言葉としては死語だろう。

しかし、世界が七〇年代から八〇年代へと移り、個人的にも二十代から三十代に跨ぎこす端境の時期に見た、あの太陽と、青い空と、青い海は、今も目に焼きついている。

アルジェでの夏は、週末になると一日中海で過ごした。ムルソーとマリーがそうしたように、沖合いに出て、いつまでも浮き身をしていた。ときに波が顔を洗っても、真上で輝く太陽がすぐに乾かしてくれた。その瞬間だけは、仕事のことも、人生のことも、日本に残してきた妻や子供たちのことも忘れた。

(2012/10/19)

*参考文献

・『伝記 アルベール・カミュ』H・R・ロットマン著、大久保俊彦・石崎晴己訳(清水弘文堂、一九八二年)

・『カミュ「異邦人」を読む』三野博司著(増補改訂版、彩流社、二〇一一年)

*地元の同人誌「不羈」vol.38に掲載。

*7 La montagne Sainte-Victoire

Le 2 mai 2013, par une après-midi ensoleillée, à mi-chemin de sa cime, j’ai admiré le blanc sommet éblouissant de la Sainte-Victoire qui se découpait dans le ciel azur. Saillance rocheuse. Comme un biceps. Comme la colère. Ecrasante blanche montagne aride.

Il semblerait qu’on la surnomme la montagne sacrée. Mais elle n’est pas aussi ambigüe. Divine serait le terme plus adéquat. Comme un géant qui, le genou posé à terre, est sur le point de se relever, comme les sculptures de Rodin ; quand j’essaie de la décrire, peu importe les mots que j’utilise, ils tombent dans l’exagération et la banalité. La Sainte-Victoire que j’ai vue de mes yeux, celle que j’ai ressentie dans ma chair s’éloigne alors.

La montagne Sainte-Victoire dont le Pic des Mouches, son sommet le plus haut, culmine à mille onze mètres, s’étend sur dix-huit kilomètres de long et sur cinq kilomètres de large. Elle n’est pas en réalité tellement gigantesque.

Mais la prestance d’une montagne ne dépend pas vraiment de sa hauteur ou de son envergure exprimées en chiffre. Du moins, c’est ce que l’on pense face à elle.

On ne peut pas vraiment l’apercevoir depuis le centre ville d’Aix-en-Provence. J’avais entendu dire qu’un petit bus qui se dirigeait vers son sommet partait d’un arrêt proche de la gare. J’ai pris ce bus, et après avoir roulé pendant un petit moment dans des quartiers résidentiels, nous avons pénétré dans un bois. La montagne était comme toujours invisible. Or, soudain, j’ai pu apercevoir sa surface crayeuse entre les troncs des arbres. Je me suis tordu le cou tant que j’ai pu et quand j’ai levé les yeux, j’ai pu voir depuis la vitre du bus la cime de la montagne étinceler sous les rayons du soleil. Nous étions déjà dans le bois situé à son pied.

Je suis descendu à mi-chemin de son sommet et le petit bus a continué son ascension. Il y avait près de l’arrêt des étendues d’herbe, des fourrés d’arbustes, un restaurant aux airs de refuge mais aussi des maisons. Un vieil homme jardinait avec application. La Sainte-Victoire, aride montagne rocheuse, dominait du regard cette comédie humaine.

Moi, je restais figé sur place, les yeux levés vers elle. Je m’assurais que ce que je ressentais distinctement dans tout mon être différait du sentiment d’excentrisme ou d’exotisme que peut ressentir un touriste coupé de la vie quotidienne. C’était plus proche du choc.

 

*

 

Je n’aurais jamais imaginé pouvoir me rendre dans le sud de la France l’année de mes soixante ans.

J’y ai été convié par le CITL, le Collège International des Traducteurs Littéraires, qui se situe à Arles. Mais ce collège ne ressemble ni à une école, ni à une université. Un lieu de vie est réservé aux traducteurs du français de tous les pays du monde qui désirent y résider pour des séjours de longue durée. A côté de cela, chaque année est organisé un atelier pratique pour former des traducteurs professionnels. Cette fois, trois japonais et trois français ayant pour objectif de devenir traducteur ont été sélectionnés. Trois japonais et trois français ont également été recrutés en tant que tuteurs. C’est un programme ambitieux et unique, au cours duquel les jeunes participants et les traducteurs expérimentés se retrouvent principalement en tête-à-tête. Les participants posent des questions concrètes aux tuteurs qui leur transmettent leurs compétences acquises au fil des années en matière de traduction.

Cet atelier fini, je peux en parler d’une manière sereine mais au tout début, lorsque j’ai reçu ce courriel en provenance d’Arles, j’ai pensé qu’il devait sûrement y avoir une erreur. Bien que cela fasse près de trente ans que je suis dans la traduction en tant que professionnel, je n’avais pas confiance en mes capacités à l’enseigner. J’ai conscience que la traduction est fondamentalement un métier de l’artisanat : c’est au fil des jours qui s’accumulent que l’on peut à peine entrevoir les contours de ce métier. Je pensais que c’est quelque chose que l’on doit saisir par soi-même, quelque chose que l’on ne peut ni enseigner, ni étudier.

Dans ce cas, pourquoi avoir accepté ce rôle de tuteur ? La raison est simple : je voulais voir le sud de la France. Je m’étais déjà rendu plusieurs fois à Paris pour raisons professionnelles. Mais le sud était trop loin. A la fois si proche et si loin.

Un peu avant mes trente ans, j’ai passé une année de l’autre côté de la mer Méditerranée, en Algérie. Dans Alger, la capitale, depuis le restaurant d’un hôtel de la côte, comme tous les jours, je regardais la mer teintée du coucher de soleil – une mer couleur de vin, comme l’évoque Homère – et je me disais qu’une fois ce travail fini, je prendrai un de ces ferry qui traverse la Méditerranée pour me rendre à Marseille, à Aix et même à Sète où repose Paul Valéry.

Mais l’été s’est achevé, l’automne est passé et avec l’hiver, le ciel et la mer se sont teintés de gris, un vent glacial s’est mis à souffler. A la fin de mon contrat d’un an, j’étais littéralement épuisé. Je désirais être libéré de ce travail le plus vite possible pour me rendre à Paris et rentrer à Tôkyô.

J’ai finalement traversé la Méditerranée et le Midi non pas en ferry mais en avion. Une fois le sud survolé, j’ai eu la sensation de m’éloigner interminablement. Même l’Algérie a fini par devenir un pays peu sûr. Seuls sont restés les regrets. Si j’avais pris le ferry à ce moment là…

Ainsi, exactement comme si j’allais au-devant du grand amour ou comme si je m’en allais retrouver l’être aimé, je suis arrivé à Arles en étant si romantique que je ne pouvais confier mes pensées à personne.

A Arles se confondent les époques, la diversité des peuples, les vieilles rues, les vestiges et la nature. La Provence même, miniature de la France et de l’Europe, c’est aussi là-bas que Van Gogh, peintre excentrique né en Hollande, atteignit l’apogée de sa carrière d’artiste comme les coquelicots qui fleurissent à l’unisson au début de l’été. Je suis infiniment reconnaissant à cette ville et à toute l’équipe du CITL de m’y avoir invité.

J’avais envie de découvrir toutes ces choses que j’avais autrefois souhaitées voir lorsque j’étais à Alger. J’ai consacré deux de mes week-ends à visiter les environs de la ville. Parfois seul, parfois accompagné d’un ou deux participants à l’atelier. Je me suis rendu aux Saintes-Maries-de-la-Mer, ville sacrée pour les Gitans où se déroule chaque année une fête, à Avignon la cité des papes et au cimetière marin de Sète. J’étais obsédé par l’envie de boire un pastis et de humer le fumet de la soupe de poisson chaude, je suis donc allé visiter le Vieux-Port de Marseille baigné par l’or du soleil couchant.

Mais il est désormais temps de parler de la Sainte-Victoire et de Cézanne.

 

*

 

Maurice Merleau-Ponty a écrit :

 

L’« instant du monde » que Cézanne voulait peindre et qui est depuis longtemps passé, ses toiles continuent de nous le jeter, et sa montagne Sainte-Victoire se fait et se refait d’un bout a l’autre du monde, autrement, mais non moins énergiquement que dans la roche dure au-dessus d’Aix. Essence et existence, imaginaire et réel, visible et invisible, la peinture brouille toutes nos catégories en déployant son univers onirique d’essences charnelles, de ressemblances efficaces de significations muettes. (L’Œil et l’Esprit, Gallimard 1964, reproduction 1983)

 

Ce sont ces mots qui me viennent à l’esprit chaque fois que j’admire une œuvre de Cézanne. Dans  L’Œil et l’Esprit, essai relativement court, Merleau-Ponty aborde la quête de Descartes – celle de l’essence de la vision dans le toucher – ou encore la recherche de la « profondeur » que Cézanne n’a eu de cesse de poursuivre toute sa vie, et finit par écrire cette magnifique description :

 

Quand je vois à travers l’épaisseur de l’eau le carrelage au fond de la piscine, je ne le vois pas malgré l’eau, les reflets, je le vois justement à travers eux, par eux. S’il n’y avait pas ces distorsions, ces zébrures de soleil, si je voyais sans cette chair la géométrie du carrelage, c’est alors que je cesserais de le voir comme il est, où il est, à savoir : plus loin que tout lieu identique. L’eau elle-même, la puissance aqueuse, l’élément sirupeux et miroitant, je ne peux pas dire qu’elle soit dans l’espace : elle n’est pas ailleurs, mais elle n’est pas dans la piscine. Elle l’habite, elle s’y matérialise, elle n’y est pas contenue, et si je lève les yeux vers l’écran des cyprès où joue le réseau des reflets, je ne puis contester que l’eau le visite aussi, ou du moins y envoie son essence active et vivante. (ibid)

 

Mais qu’est-ce-que « l’eau » évoquée par Merleau-Ponty ?

Nous tous, ne vivons pas entouré de vide. Nous vivons constamment enrobés par quelque chose. Cela peut être par exemple l’air, la lumière, ou l’eau (la vapeur ou encore l’humidité). Ils comblent le « lieu identique » et, l’état du paysage, l’apparence des êtres, l’aspect des choses changent selon la composition de ces éléments. Nous ne vivons pas dans un lieu qui serait abstrait comme les coordonnées cartésiennes. Les peintres essaient non seulement d’en saisir les couleurs et les formes mais aussi de saisir le lieu propre à leurs existences.

Mais est-ce vraiment limité à cela ?

A l’intérieur de cette citation, je me suis plus particulière-ment penché sur l’expression « puissance aqueuse ».

Quand j’attendais le bus du retour en provenance du sommet de la Sainte-Victoire, ce que j’ai vu, était ce simplement un rocher immaculé transperçant le ciel azur comme une pointe de flèche? Je n’ai vu ni le ciel, ni ce rocher, ni les couleurs, ni senti le vent – non j’ai certainement vu et senti tout cela – mais je pense avoir éprouvé autre chose en même temps.

A cet endroit précis, la « puissance montagneuse » était mise à nue. Quelque chose comme, si j’ose dire, la puissance d’un lieu, un champ de gravitation, un champ magnétique. D’abord, dans ce que l’on nomme traditionnellement les cinq sens – dont nous devons l’origine à Aristote – n’en manque-t-il pas un de très important?

On dit que la vue, l’ouïe, le gout, l’odorat et le toucher sont les cinq sens mais par exemple, le sentiment de résistance que l’on ressent dans les muscles quand on porte un objet, la sensation de douleur quand on ne sent plus ses jambes d’avoir trop marché ou encore la fatigue, on ne peut sûrement pas les classer dans le toucher.

Si on nommait ce sixième sens le « sens du poids », ce sens là, pour nous êtres humains qui vivons dans ce monde – qui existons sur cette Terre – est le plus fondamental des sens. Ce « poids » n’est-il pas la preuve certaine de l’existence que les Hommes peuvent saisir par leur propre sensation?

Ce que Cézanne a tenté de peindre n’était-ce pas justement ce « poids » ?

« Poids » d’il-y-a d’une pomme, « poids » d’il-y-a d’une personne, « poids » d’il-y-a de la chose, de l’être, de la montagne , Cézanne en a fait la quête de sa vie.

C’est une quête dont on doit s’émerveiller. Car mener cette recherche à travers la peinture – l’art de la vue – ou pouvoir sentir le poids des choses sans les porter, revient en quelque sorte à mesurer le poids avec les yeux.

Si on considère que l’espace de la toile est une extension de la vie quotidienne, la pomme posée sur la table paraît prête à dégringoler. Mais la pomme, la cruche ou la table peintes sur la toile sont infiniment plus stables, pèsent plus lourds que la pomme ou la cruche présentes dans l’espace de notre quotidien. La couleur rouge de la pomme n’est ni son attribut, ni sa qualification. Mais elle est peinte comme l’essence même de la pomme.

L’artiste peint de cette même manière la pomme, la femme ou la montagne.

Les choses de ce monde supportent le poids – la gravité, la pesanteur –, et s’attirent réciproquement. « Une éthique qui peut être exprimée seulement par l’art  », ce je-ne-sais-quoi que je ne saurais dire autrement, Cézanne en a supporté le lourd poids.

Durant cette heure face à la Sainte-Victoire, j’ai pensé que cette montagne était le portrait vivant de Cézanne, son autoportrait pour l’éternité.

 

*

 

Il y a trente ans de cela, j’ai passé une nuit à El Goléa, une oasis du Sahara.

Dans le ciel blanc du désert au coucher de soleil imminent flottaient le soleil et la lune. J’avais l’impression qu’en tendant la main, je pourrais toucher les cratères de la lune. Le soleil ne dégageait plus aucune chaleur.

Le soleil, la lune, la terre, tout trois étaient de gris rochers. Tous trois s’attiraient. J’ai vu ce fil invisible dans les cieux.

A mon retour du midi, je me suis enfin rendu compte que ce que j’as eu la chance d’admirer à la Sainte-Victoire, c’est exactement la même chose que j’avais vu au Sahara.

 

Kei Takahashi

Traduction par Déborah Pierret

*6 サント=ヴィクトワール山

二〇一三年六月二日、快晴の午後、わたしはサント=ヴィクトワール山の中腹に立ち、蒼穹に屹立する白くまばゆい山巓を見上げていた。岩石の隆起。上腕筋の力こぶのような、怒りでもあるような、圧倒的な白い禿げ山。

神秘の山という人もいるらしい。だが、そんな曖昧なものではなかった。神々しいというのならわかる。今立ち上がろうとして片膝をついている巨人のようでもあり、ロダンの彫刻のようでもあり、言葉で形容しようとすると、いずれも大仰で陳腐なものになって、この目で見て、この肉体で感じた実際の山は逃げていく。

サント=ヴィクトワール山は、もっとも高いムシュ峰で一〇一一メートル、全体の規模としても縦一八キロ、幅五キロほど。それほど大きくはない。

しかし、山は高ければ高いほど、大きければ大きいほど存在感が増すというようなものではないのだろう。少なくともサント=ヴィクトワールと対面すれば、そう思えてくる。

エクスの町の中心部からは、この山はよく見えない。駅近くのバスターミナルから山頂に向かうバスが出ていると聞いた。小さなバスに乗り、しばらく住宅街を走ったあと林のなかに入った。山は依然として見えてこない。ところが突如として、木立の隙間から、白い石灰質の山肌が目に飛びこんできた。首をねじって、車窓からむりやり見上げると、陽光に燦然と輝く岩の頂が見えた。すでに麓の林のなかを走っていたのだ。

中腹で降りると、小さなバスはさらに頂上を目ざして登っていった。バス停の周囲には草地もあり、灌木の茂みもあり、山小屋風のレストランもあり、人家もあった。老人がせっせと庭の手入れをしていた。

その人間の風景を、サント=ヴィクトワールの裸の岩山は見下ろしていた。

わたしはその場に立ちつくし、その頂を見上げていた。日常から離れた観光客の感じるエキセントリックな、エキゾチックな感動とは明らかに違う、衝撃に近い、はっきりとした身体感覚を確かめながら。

 

 

還暦の年に、まさか南仏に行けるとは思ってもみなかった。

招いてくれたのは、アルルにある CITL(Collège International des Traducteurs Littéraires)という機関。あえて訳せば、文学翻訳者国際カレッジとなるが、学校や大学のようなものとは違う。世界各国のフランス語翻訳者が長期滞在できる宿泊施設が常備されていて、その傍らで、毎年プロの翻訳家を養成するための実践的プログラムが用意されている。今回は翻訳家を目指す受講生として、日本人三名、フランス人三名が選ばれ、また講師のほうも、日本人三名、フランス人三名が選ばれた。若い受講生とベテラン翻訳家がほとんどマンツーマンのような形で対峙し、受講生は個々具体的な質問を講師にぶつけ、講師は長年培ってきた翻訳スキルを伝授するというユニークで野心的なプログラムである。

終わってしまったから、こんな澄ました書き方をしているけれども、最初、アルルから電子メールが飛びこんできたときには、なにかの間違いではないかと思った。三十年近く翻訳を仕事として、職業としてやってきたとはいえ、人に教える自信はなかった。翻訳とは基本的に職人仕事であり、日々の積み重ねの果てに、その仕事の輪郭がうっすらと見えてくるもの、という自覚はあるものの、それは自分でつかみ取るものであって、教えるものでも教わるものでもないだろうと思っていた。

それならば、なぜ講師を引き受けたのか。理由は簡単、南仏をひと目見たかったからだ。仕事柄、パリには何度も足を運んだ。でも南仏は遠かった。近くて遠かった。

二十代の終わりに地中海の向こう側、アルジェリアで一年を過ごしたことがあった。首都アルジェの、海沿いのホテルのダイニングルームから、毎日のように夕焼けに染まる海——まさにホメロスのいう「葡萄酒色の海」——を見ながら、この仕事が終わったら地中海を渡るフェリーに乗って、マルセイユに行こう、エクス(アン=プロヴァンス)に行こう、ヴァレリーが眠るセートにも行こうと思っていた。

でも、夏が過ぎ、秋が過ぎ、冬がやってきて、海も空も鈍色に沈み、冷たい風が吹き、一年の契約も終わるころには、すっかりくたびれていた。一刻も早く、この仕事から解放され、パリに渡り、東京に帰りたいと願うようになっていた。

その結果、フェリーではなく、飛行機で地中海と南仏を跨ぎこしてしまった。一度素通りすると、なぜか果てしなく遠ざかってしまったような気がした。アルジェリアもすっかり物騒な国になってしまった。後悔だけが残った。あのときフェリーに乗っていれば・・・・・・。

だから、今回の南仏行きは、まだ見ぬ恋人に会いに行くような、かつて激しく焦がれたひとと再会するような、あまりにロマンチックすぎて人には言えない思いを抱いてアルルに入ったのである。

ありとあらゆる時代、多様な人種と古い街並みと遺跡と自然が入り混じるアルル、プロヴァンスそのもの、フランスの、ヨーロッパの縮図のような町、ゴッホというオランダ生まれの奇矯な画家が、初夏にいっせいに花を咲かせるコクリコのように、短い画業の頂点をなした町アルル。よくぞ招いてくれたと、何度この町と CITL のスタッフに感謝したことか。

かつてアルジェで願ったものすべてを見たいと思った。二度めぐってきた週末はすべて近隣の町を訪れることに費やした。ときには受講生と連れ立って、ときにはひとりで。年に一度のお祭りが開かれているロマ(ジプシー)の聖地サント=マリー=ド=ラ=メールにも行った、教皇庁の町アヴィニョンにも、「海辺の墓地」のセートにも行った。ただパスティスを飲み、熱々のスープ・ド・ポワソンの香りをかぎたい一心で、黄金の夕日にけむるマルセイユの旧港も訪れた。

だが、今はサント=ヴィクトワール山とセザンヌについて語るときだ。

 

 

モーリス・メルロー=ポンティはこう言っている。

 

セザンヌが描きたかった「世界の瞬間」、それは久しい以前に過ぎ去ってしまったものだが、彼の作品はなおもわれわれにその瞬間を投げかけ、彼の描いたサント=ヴィクトワール山は、もちろん、エクスを見下ろす堅固な岩山とは別のものだが、それに劣らず力強く、世界の至るところに姿を現し、再現するだろう。本質と実存、想像と現実、見えるものと見えないもの、絵画はわれわれの設けるカテゴリーのすべてを攪拌し、肉をともなう本質、無言の意味のもつ確かな類似性からなる夢の世界を繰り広げるのだ。(L’Oeil et l’Esprit, Gallimard 1964, reproduction 1983)

 

セザンヌの絵を見るたびに思い出すのは、この言葉だ。『眼と精神』という比較的短いエッセイのなかで、メルロー=ポンティは、デカルトは視覚の本質を触覚に求めていたこと、セザンヌは生涯「奥行き」を追究していたということ、そういった論拠を積み重ねながら、次のような美しい描写にたどり着く。

 

水の厚みを通して、プールの底のタイルを見るとき、そこに水や反射があるにもかかわらずタイルを見るのではなく、まさに水や反射を通して、それによって私はタイルを見ているのだ。かりにこれらの歪みがなく、陽光の縞模様もなく、これらの肉付けなしにタイルの幾何学模様を見ているのだとしたら、そのときはそこにある、あるがままのタイルを見ているのではなく、つまり、特定の場など無視したところにあるものを見ていることになるだろう。水そのもの、水の力、とろりとしてまばゆい水という自然の要素、それが空間のなかにあるとは、わたしには言えない。どこか別のところにあるわけではないが、プールのなかにあるわけでもない。水はそこに住みつき、具体的な物となっているが、そこに含まれているわけではない。目を上げて、糸杉のスクリーンのうえで反射光が網の目をなして戯れているのを見るとき、そこにも水が訪れていることを、わたしは疑うことができない。(ibid)

 

メルロー=ポンティの言う「水」とは何か。

わたしたちは真空のなかに生きているわけではない。つねに何かに包まれて生きている。たとえばそれは空気であったり、光であったり、あるいは水(水蒸気、湿気)であったりする。それが「特定の場」を満たし、その配分——空気と光と水の——によって、風景の様相も、人の風貌も、物のたたずまいも変化する。わたしたちはデカルト座標軸のような抽象的な場に生きているわけではない。画家はそこにあるものの色と形をとらえるだけではなく、それが存在する固有の場をとらえようとするのだろう。

だが、それだけだろうか?

この引用のなかでは、とりわけ「水の力」という言葉が気になる。

帰りのバスがサント=ヴィクトワールの山頂から降りてくるのを待っているあいだ、わたしが見ていたものは、真っ青な空に突き刺さる真っ白な岩のやじりのようなもの、だけだったろうか。わたしは空を見ていたのでも、岩を見ていたのでも、色を見ていたのでも、風を感じていたのでもなかった——いや、たしかに見ていたし、感じていたのだけれど、それと同時に、それとは別の何かも感じていたように思う。

「山の力」、あそこでは、それがむき出しになっていた。あえて言葉で言うなら、場所の力、重力場、磁場のようなもの。

そもそも伝統的に「五感」と呼ばれているもの——由来はアリストテレスにあるらしいが——には何かとても大切なものが欠けているのではないか?

視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚を五感と言うが、たとえば、物を持ったときに重いと感じる筋肉の抵抗感、あるいは一日中歩き通して足が棒になったと感じる鈍い痛覚、疲労感、そういうものをまさか触覚のなかに含めるわけにはいかないだろう。

この六番目の感覚を、かりに「重覚」とでも名づけるならば、この感覚こそが、われわれ人間がこの世に生きるうえでの——地球に存在するうえでの——もっとも根底的な感覚であり、「重さ」こそが、人間の感じる実在の確かな証しなのではないか。

セザンヌが描こうとしたのは、まさにこの「重さ」ではなかったか。

林檎がそこにあることの「重み」、人がそこにあることの「重み」、物が、人が、山がたしかにそこに存在することの「重み」、セザンヌは終生それを追い求めた。

これは驚嘆すべき探求だった。なぜなら、それを絵画によって、視覚芸術によって追究するということは、物を持たずして重さを感じるということ、つまりは目で重さを量ることだったから。

テーブルのうえに載っている林檎は、画布のなかの空間を日常の延長として見るかぎり、今にも転げ落ちそうに見える。けれども画布に描かれた林檎や水差しやテーブルは、むしろ日常の空間に存在する林檎や水差しよりもはるかに安定し、どっしりと存在している。林檎の赤い色は林檎の属性でも形容でもない。その本質として描かれている。

画家は、林檎も女も山もそのように描いた。なべてこの世にあるものは、重みに——地球の引力に、重力に——耐え、互いに引き合っている。セザンヌとは、「芸術だけが表現しうる倫理」としか言いようのないものの重圧に耐え抜いた画家だった、とわたしには思える。

サント=ヴィクトワール山と一時間あまり対峙して思ったことは、この山はセザンヌの生ける自画像、永遠の自画像だということだった。

 

 

三十年前、エルゴレアというサハラのオアシスで一泊した。

日の暮れはじめた砂漠の白い空に、太陽と月が浮かんでいた。月のクレーターは手を伸ばせば触れるような気がした。太陽には熱がなかった。

太陽も、月も、地球も、みな灰色の岩石だった。それが引き合っていた。その見えない糸が天空に見えた。

エクスのサント=ヴィクトワールに見たものも、それと同じだったと、帰ってきてから気がついた。

 

(2013/10/23) *地元の同人誌「不羈」vol.39に掲載。

*4 Comment j’ai traduit Albucius

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*Institut françaisのウェブ・マガジン”IFverso”に寄稿(2013/12/10)。翻訳はそのうちいつか・・・。

Comment j’ai traduit Albucius de Pascal Quignard en japonais

On me demande de temps en temps : « Comment avez-vous traduit ces livres quignardiens ? » Je sais très bien que c’est surtout de ma traduction d’Albucius, des Tablettes de buis d’Apronenia Avitia ou de La Raison dont on me parle. Je leur réponds les yeux baissés, gardant le sourire : « Ne me le demandez pas, je vous en prie. » Cela pour éviter toute excuse, mais intérieurement je me demande s’ils ont vraiment lu ces miraculeux romans à la fois romains et contemporains.
On parle souvent de l’érudition ou la pédanterie de Pascal Quignard. C’est vrai qu’il y a de nombreuses citations latines, grecques, ou d’autres langues anciennes partout dans ses ouvrages. Mais il faudrait plutôt remarquer que l’auteur accompagne, chaque fois qu’il cite, sa propre traduction sous une forme quelconque.
Je ne connais pas les langues classiques, mais j’aime bien lire les dictionnaires classiques, par exemple le Gaffio ou le Bailly. C’est mon grand plaisir, à l’aide de ces dictionnaires, de voir – plutôt d’essayer de voir – comment l’auteur a traduit les anciennes langues en français moderne.

*

Pascal Quignard dit dans la préface rédigée pour la nouvelle édition du livre stupéfiant : « Sentences, divisions et couleurs des orateurs et des rhéteurs » de Sénèque le Père (traduction du latin par Henri Bornecque, revue par Jacques-Henry Bornecque, chez Aubier, 1992) :

J’ai déjà tenté dans deux livres de faire revivre deux de ces déclamateurs. Alors j’ai pillé Sénèque le Vieux. J’aime m’endetter de dettes infinies. Ce livre de Sénèque le Père fut pour moi un Plutarque, mêlé de Montaigne, et mêlé de Tshouang-tseu. Il est vrai que c’est plutôt l’art des déclamateurs qui a abouti à Plutarque lui-même. Qui a abouti aux vies de saints. Qui a abouti aux romans.

Ces « deux livres » correspondent à Albucius et La Raison dans lesquels l’auteur a brillament réussi à faire revivre les deux Déclamateurs romains, Albucius Silus et Porcius Latron, à partir de ce grand recueil des controversiae composées par les grands déclamateurs ou orateurs, et gardées miraculeusement dans la mémoire stupéfiante de Sénèque le Père. La préface de Pascal Quignard elle-même est à mes yeux aussi stupéfiante que magnifique. Lisons la phrase qui suit la citation précédente :

La vierge arrachant le voile de son front pour couvrir la nudité de son fils sur la croix, les disciples recueillant son sang dans le vase qu’il avait utilisé lors de la cène : les évangiles apocryphes font penser aux controversiae, par exemple à la mort de Cicéron, ou encore à la légende de Parrhasios. Ils amplifient des scènes connues et systématisent dans l’imaginaire : ce sont des romans qui se font. (…) Bientôt on ne distingua plus les declamationes et les fabulae : c’étaient devenu des histoires. Soixante ans plus tard, le roman de Pétrone s’ouvre sur une declamatio, la rejette et lui préfère une satura. En philosophie, la suasoria se transforma en consolatio.

L’auteur met en valeur le rapprochement entre les controversiae et les évangiles apocryphes, entre les declamationes et les fabulae, qui, ensemble ont abouti aux romans modernes, et fait attention à la transformation de la suasoria en consolatio dans le domaine philosophique. Je pense personnellement que c’est très rare, très originale, une telle manière de traiter de l’énorme question d’un énigmatique changement culturel produit dans la civilisation romaine. Il développe ses propres réflexions deux ans plus tard dans Le sexe et l’effroi comme suit :

Je cherche à comprendre quelque chose d’incompréhensible : le transport de l’érotisme des Grecs dans la Rome impériale. Cette mutation n’a pas été pensée jusqu’ici pour une raison que j’ignore mais par une crainte que je conçois. Durant les cinquante-six ans du règne d’Auguste, qui réaménagea le monde romain sous la forme de l’empire, eut lieu la métamorphose de l’érotism joyeux et précis des Grecs en mélancolie effrayée. Cette mutation n’a mis qu’une trentaine d’années à se mettre en place (de –18 avant l’ère à 14 après l’ère) et néanmoins elle nous enveloppe encore et domine nos passions. De cette métamorphose, le christianisme ne fut qu’une conséquence, reprenant cet érotisme pour ainsi dire dans l’état où l’avaient reformulé les fonctionnaires romains que le principat d’Octavius Augustus suscita et que l’Empire durant quatre siècles qui suivrent fut conduit à multiplier dans l’obséquiosité. (Le sexe et l’effroi ; l’édition originale chez Gallimard en 1994, la réédition Folio en 1996)

Toutfois, Pascal Quignad n’est pas un historian, un chercheur, ou encore un critique aimant discuter en pur spectateur, mais un romancier, un écrivain. Il revient toujours aux destins individuels. Que sont alors devenus Albucius et Latron ? Je cite une fois encore une belle phrase de la préface pour l’œuvre de Sénèque le Père :

Latron redescend. Albucius redescend. Latron se suicida. Albucius se suicida.

Latron était le meilleur ami d’Albucius. C’était à la fin de l’hiver en – 4 avant Jésus-Christ, l’année où Jésus de Nazareth naquit, Latron mourut disant : « Quid me intempestivae proditis lacrimae ? » (Pourquoi me trahissez-vous, larmes inopportunes ? )

Il avait le sexe humide encore et point tout à fait rabougri. Il se regarda dans le miroir de cuivre. Il vit son œil qui éclatait de bonheur. Il se trancha la gorge d’un coup sec. Le sang gicla avec un bruit de gargouillis. La fille osque s’enfuit avec son chval et on ne la retrouva pas. (le dernier chapitre de La Raison, éd. Le Promeneur/Quai Voltaire, 1990)

L’auteur décrit la mort d’Albucius qui se suicida vers 10 comme cela :

( … ) il ordonna qu’on éloignât sa fille, qu’on la fît asseoir sur un pliant et qu’on fit appeler la nourrice. Il lui demanda d’ajouter un peu de lait à la préparation. Elle défit le haut de la tunique. Il but. La salle oû il était couché était comble. Au premier rang, sur un pliant, il y avait sa fille Polia. Tous ses élèves étaient présents. Au second rang, il y avait les esclaves les plus petits. Il demanda à la nourrice d’approcher de nouveau et pria de le laisser prendre sa main. On entendait des reniflements. Il se tourna et il dit :
– Quid fletis, pueris ? (Pourquoi pleurez-vous, mes enfants ?)
Il mourut en tenant serrée entre ses mains la main de la nourrice qu’il payait pour son lait. Chaque matin elle trayait sa mamelle au-dessus d’un bol. Il buvait tiède. (le dernier chapitre d’Albucius, P.O.L, 1990)

Deux mille ans plus tard, l’écrivain assistera à une pareille situation :

Le mouvement de mai fut balayé en quelques heures. Le général de Gaule, après avoir pris conseil auprès du général Massu, fit élire l’Assemblée la plus réactionnaire depuis le maréchal Pétain. Marcelin était à la Police. Messmer à la Guerre. Les bombes atomiques françaises explosaient à Mururoa.
Nos dieux se mirent brusquement à mourir.
Celan se suicida : ce fut Sarah qui me l’apprit postée dans l’encadrement de la porte de l’appartement d’André du Bouchet.
Rothko se suicida : ce fut Raquel qui me l’apprit dans l’atelier de Malakof. Je me souviens qu’elle se tenait assise devant la presse d’Orange Export Ltd. Elle ne dissimulait pas ses larmes. Elle caressait la tête de son chien effrayant. (d’après « Prière d’insérer » insérée dans Ecrits de l’éphémère, éd. Galilée, 2005)

*

Un jour que je traduisais La haine de la musique – ça fait déjà une quinzaine d’années –, j’ai rencontré cette scène ;

Trimalchio rapporte qu’il se rendit à Cumes quand il était enfant. Il vit les restes desséchés de l’immortelle Sibylle conservés dans l’urne, cette dernière suspendue dans l’angle de pierre du temple d’Apollon. Rituellement, les enfants progressait dans l’ombre du temple. Ils crient soudain au-dessous de l’ampoule : « Sybille, que désires-tu ? » Une voix caverneuse sortait de l’urne, sous la forme d’un écho issu de l’angle de la roche, répondant invariablement : « Je désire mourir. »

C’est le chant. Apothanein thelô.

 

Je comprends aisément maintenant que « Apothanein thelô » en grec correspond à « Je désire mourir. » en français. Mais je pensais alors désespérement que le traducteur se doit de verifier, en trouver la preuve. J’ai donc commençé à lire Saturicon dès la première ligne à la recherche de la scène à laquelle l’auteur se réfère. Et je la vis. Mon visage était tout rouge d’enthousiasme, j’imagine.
C’est ainsi que je me suis habitué à lire ou relire des classiques, non seulement greco-latins, mais aussi sino-japonais, par exemple Confucius, Tshouang-tseu ou Lao-tseu, Sei Shônagon, Yoshida Kenkô ou Saïkaku, etc… tout en traduisant un écrivain français !

Moi aussi, je dois dire que je « m’endette de dettes infinies » envers Pascal Quignard, le grand rhéteur de notre temps.

Kei Takahashi

*3 四冊の本——東京創元社と私

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(「ミステリーズ66号2014年8月号所収。東京創元社創立60周年記念)

東京創元社の本には長いことお世話になってきたけれど、特別思い入れのある本に限定するなら、次の四点をあげるだろう。

1.『ポオ全集』(全三巻)編集委員・佐伯彰一、福永武彦、吉田建一、一九七五年(昭和五十年)、新装版八版

2.『精神と情熱に関する八十一章』アラン、小林秀雄訳、一九七八年(昭和五十三年)初版

3.『アビシニアのランボー』アラン・ボレル、川那部保明訳、一九八八年(昭和六十三年)初版

4.『薔薇の名前』ウンベルト・エーコ、河島英昭訳、一九九〇年(平成二年)初版

最初の二点は学生時代に購入したもの。ポーも小林秀雄も、当時の私にとっては神のごとき存在だった。3は数あるランボー論のなかで、ゆいいつ我が意を得たりと唸った本。ぜひとも復刊してほしい。4は、ちゃんと初版を買っているところがえらい。これらの本を読んでいるときには、東京創元社から訳書を出すことになろうとは想像だにしなかった。きっと導くものがあったのだろう。

*2 文字どおり、机の話です

(2014年5月4日付の産経新聞に発表。「翻訳机」という連載コラム)

 

文字どおり、机の話です。

ありとあらゆる雑多な翻訳を引き受けていたころ、住まいが狭く、すでに子供も二人いたので、仕事机など入る余地もなく、食卓の上で仕事をしていました。仕事が増えてきて、さすがに手狭になったので駅前に独立した仕事部屋を借りました。そのときも新しくデスクを購入することはせず、そのまま同じ食卓を使うことにしました。広さと高さがちょうどよかったのです。テーブルと同じくらいの面積のデスクを買うとなると、懐がさびしかったということもあります。

それからずっと同じテーブルを使いつづけました。

今は四十年暮らした首都を離れ、生まれ故郷で老いた母親と二人暮らしをしています。

テーブルはどうしたか?娘が使っています。やはり仕事机として。東京を離れるとき、いろいろなものを二人の娘に残していきましたが、次女には愛用のテーブルを譲りました。どういうわけだか、この娘もフリーの編集者として仕事をしているのです。このテーブルが使いやすいと言っています。

じつは長女にもテーブルを譲ったのです。こちらは、わたしが駅前のワンルームで仕事をしていたとき来客用に使っていた丸テーブルです。拡張できる仕組みになっているので、重宝しているようです。長女もまたどういうわけだかフリーで仕事をしています。こちらは写真家ですが。

父親も二人の娘もフリーなので、話が合います。三者とも本や雑誌にかかわる仕事が多いので、なおのこと共通した話題が多くなります。ネット回線を使えば無料で——しかも映像つきで!——電話がかけられるご時世ですから、毎日のように話をしています。遠く離れて住んでいる気がしません。

十年ほど前に妻を亡くしました。娘たちは結婚し、独立した所帯を持つようになりました。家族四人で暮らした住まいは、男ひとりで暮らすには広すぎました。父はとうに他界して、ひとり暮らしの母が八十をこえたので、生まれ故郷に戻ることにしたのです。

テーブルの思い出話を書いていると、家族の団らんが自然と脳裡に浮かんできます。料理の好きな妻でした。母の背中を見て育ったせいか、二人の娘も料理好きです。わたしも毎日のように何か作っています。そして、それをタブレットで撮影し、娘たちに電波で送ります。娘たちもその日に作った料理を撮影して送ってきます。

翻訳の中身の話ではなく、たんなる机の話に終始してしまいました。今年は「ツィッター文学賞」と「本屋大賞」の翻訳部門で賞などいただいたのですが、いつまでたっても場違いなところで仕事をしているという気分が抜けません。でも最近は、思いがけず賞を頂戴したり、娘たちが父親と同じようにフリーの職業についているのを見て、人生はふしぎなところだという感慨がわきあがってくることがあります。

本屋大賞ー6