*90 エラム、ニネベ、バビロン……。

かつてメソポタミアの地に興亡した王国や都市の名を初めて気に留めたのは、高校の歴史の時間だったろう。

日本史にせよ、世界史にせよ、いわゆる暗記科目というのが、大の苦手だった。たぶん暗記能力に欠陥があるのだろう。棒暗記、丸暗記というのが、拷問のようにしか思えなかった。

それなのに、ある日、突然、歴史がおもしろくなった。「ある日、突然」というのは日付を憶えていないからだが、きっかけは憶えている。友人に教えられたか、本屋で見つけたかは忘れたが、薄っぺらい横長の「世界歴史地図」という参考書を手にしたときからである。

横書きの本と同じく、左側のページを右に繰ってゆく造りになっていて、原始、先史と呼ばれる時代から始まって、四大文明、古代ギリシア・ローマ、古代中国王朝の興亡というように順繰りとページは続いていく。

横に長いページの左三分の二が四色刷りの地図になっていて、右三分の一が縦に年号が並ぶ年表になっている。

本というよりは冊子に近いこの参考書を開いた途端、魅せられた。

見えないはずの時間を俯瞰している気分に満たされた。

その歴史地図は薄いけれども、情報がぎっしり詰まっていた。学校で使う教科書では小さく隅のほうに追いやられた国の名や都市の名が、ほとんど大国と同じ扱いで記載されている。

エラム、ニネベ、バビロンのような地名を口に出してみると、何か秘事めいた気分になった。突厥、ウィグル、渤海、契丹、遼……、西域に明滅する国々の名をうっとりと見つめていた。

死んでしまった国があり、死んでしまった言語がある。史書に記録がなければ、あったのかなかったのか、それさえわからない国もあるだろう。そこで暮らしていた民族もあっただろう。そこで使われていた言語もあったにちがいない。

名もなき国、名もなき民、名もなき人々、名もなき草花とは、書き記されなかっただけのことで、存在しなかったわけではない。存在しないわけではない。

といっても——繰り返すけれど——記録も遺跡もなければ、かつて存在したことさえわからない。でも、その見えない彼らは少数派ではない。黙しているが圧倒的多数を占めている。その無言には、意味こそないけれど、たしかな重さがあって、われわれの生存の根底を支えている。齢を重ねるにつれ、そんなことを思うようになった。

高校を出て大学に入り、東京でひとり暮らすようになってからポール・ヴァレリーという詩人・思想家の本を夢中になって読んだ一時期がある。普仏戦争とパリ・コミューンというフランス近代史における衝撃的な事件の勃発した一八七一年に生まれ、第二次世界大戦終結の一九四五年にこの世を去り、国葬にふされた大作家だ。

 

エラム、ニネヴェ、バビロンは漠として美しい名であり、それらの世界が完全な廃墟になったことも、それらがかつて存在したこと同様、われわれにとってはさほど切実なことではありませんでした。しかし、フランス、イギリス、ロシア、それらもまた美しい名になろうとしているのかもしれません。

 

こんなふうに書き出されている「精神の危機」というエッセイは、一九一九年にイギリスの雑誌の求めに応じて発表された。今から百年前のことだ。フランス、イギリス、ロシアは、それぞれ戦争と革命の前世紀をくぐり抜け、いまだ大国として健在であると言えるかどうかはともかく、たんなる美しい名になりはてたわけでもない。

アルジェ、アルジェリアもまた、美しい名だと思う。もちろん、死んだ都市でも、死んだ国でもない。漠ともしていない。国の人口は四千万以上、首都のアルジェには三五〇万人ほどの人が住んでいる。アフリカ大陸の北側にあって、地中海に面している。アトラス山脈の背後にサハラ砂漠を抱える大きな国だ。

かつて私はその国で二十代最後の年を過ごした。三十年以上前のことだ。個人的な記憶のなかでは、その地の時間はそこで止まっている。ニネベやエラム、バビロンと同じように。そこで濃密な時間をともに過ごした友人や同僚、知己とも、とうに音信は絶えている。あえて記憶を掘り起こすこともなかった。

アルジェ、アルジェリア。

それはまるで青春時代の終わりに読んで、本棚の隅にしまい込まれたままになった一冊の本のようだ。そのページを繰るのには、やはり勇気がいる。そこに紛れもなく愚かな自分がいるというだけでなく、得体も由来も知れない罪障感のようなものも潜んでいるから。

*89 ゴルトベルク変奏曲

思うところあって、扉の写真だけでなく、ブログの本文も更新再開することにしました。といっても、そんなに深い考えがあるわけでなく、小説の試みを連載形式で更新していくのはさすがに無理ということは痛いほどよくわかったので、元のスタイルに戻そうということにすぎません。前口上はこのくらいにして、さっそく……。

バッハの「ゴルトベルク変奏曲」(変則的な英語読みだとゴールドベルグ)というと、ほとんどの人がグレン・グールドの演奏を思い出すのではないだろうか。正確を期すれば、この曲名を知っている人のほとんどは、と言うべきかもしれない。

そう言う自分も、この曲を初めて聞いたのは、グールドの演奏だった。

今は、アナログ・レコードで聴いている(1955年のモノラルではなく、1981年のステレオ盤)。

仕事に煮詰まったときは、BGMとしてのストリーミングでは意味がなく、CDも物足らず、もったいぶってターンテーブルにビニールのレコードを載せて、おもむろに針を落とすという儀式めいた動作が気分転換にはもってこいなのだが、さて何を聴くか選ぶ段になって、あれこれ迷ったあげく、ま、いいかと、グールドのゴルトベルクを選ぶことが最近多くなった。

グールドのゴルトベルク。J・S・バッハの、ではないのである。ほかの演奏家では、だめなのである。うちにはユゲット・ドレフュスによるクラブサン(=チェンバロ、ハープシコード)演奏もあるし、ギター・デュオ用に編曲された演奏もあるし、高橋悠治の途方もなく速い演奏もある。

でも、癒してくれるというか、落ち着かせてくれるのは、グールドなのである。

どうしてなのかは、よくわからない。

彼の演奏は、語りかけてくるような気がする。歌いながら弾くのは彼独特のスタイルではあるけれど、必ずしもそのせいではないと思う。分析するのはよそう。どこにもたどり着けないから。

グレン・グールドというピアニストの名を知ったのは、じつは村上春樹の処女作『風の歌を聴け』を読んだときだった。

この小説はすでに手もとにないし(たぶん、二人の娘のどちらかの本棚にある)、遠い昔(三十数年ほど前)に読んだきりなので、記憶が不確かであることをご容赦いただきたいのだが、そのなかに主人公の「僕」がレコード店でベートーヴェンのピアノ・ソナタを買い求める場面がある。全三十二曲のうち何番だったかは忘れてしまったけれど、たしかガールフレンドのためのクリスマスのプレゼントだったような気がする。応対に出たレコード店の若い女性店員に「バックハウス、それともグレン・グールド?」と尋ねられると、「僕」は即座に「グレン・グールド」と答える。

この作品を読んだのは、三十歳を越えたばかりの頃、場所はアルジェリアのジジェルという地中海沿岸の小さな町だった。町外れに冷凍倉庫を建設する現場があって、そのプロジェクトに通訳として雇われたのである。

そこで初めて、飯場暮らしというものを経験した。鉄骨とベニアのプレハブ住宅で半年寝起きをした。部屋は四畳半、スチールのベッドがひとつ、小さな机と椅子が用意されていた。数十人ほど収容できる食堂と十畳ほどの娯楽室(ビデオを見るためのテレビがあるだけ)、それにコンクリート剥き出しの床にバスタブを置いただけの風呂があった。トイレは住居の外にあった。建設現場によくある仮設トイレを思い出してもらえばいい。

土曜日の午後と日曜日が休日だった。

暇だったわけではないが、よく本を読んだ。いちおうフランス語の通訳なので、原書など持っていったが(ファーブルの昆虫記)、ほとんどページを開くこともなく、現場の同僚が日本から持ってきたエンターテインメント系の小説(冒険小説、アクション小説、サスペンス、ミステリーのたぐい)を、まるで砂が水を吸い込むように読み漁った。

そんなときに村上春樹の本が三冊、日本から届いたのである。アルジェリアの片田舎の、野なかの建設現場に! 郵便局もポストも見たこともないし、郵便局員がいるのかどうかもわからない!(でも、いたのだろう、ちゃんと小包が届いたのだから)。

送り主はミドリさんという。妻の独身時代からの友だちで、娘たちのことを親身になって世話をしてくれたし、我が家でよく一緒に食卓を囲んだ人である。

『風の歌を聴け』と『一九七三年のピンボール』はすでに文庫版になっていて、三冊目の『羊をめぐる冒険』は出たばかりだった。

唖然とした。自分自身にである。

『風の歌を聴け』という作品も、村上春樹という新人作家の名前も知っていた。大学を出て教科書関連の出版社に勤めることになった年、彼は講談社の文芸誌「群像」の新人賞をとったのである。駅ビルの小さな本屋で、たまたまこの新人賞受賞作品が掲載されている最新号をぱらぱらとめくっていると、手書きのTシャツの挿絵が目に飛び込んできた。こんな作品が文芸誌の新人賞を受賞する時代になったのかと思って、平積み台の上に投げ捨てるように雑誌を戻した記憶がある。

それなのに、アルジェリアの片田舎でこの作品を読むことになるとは想像だにしなかった。むしろ虚を突かれたというべきか。

感動してしまったのである。

ああ、そうか、と合点がいった。

アルジェでの一年を経て、またアルジェリアに舞い戻ってきて、しかも、ジジェルという片田舎を吹き渡る風と、真上から照りつける地中海の太陽に焼かれて、観念だとか思想だとか、ようするに難しい言葉ばかりギシギシに詰まった脳味噌が音を立てて崩れていく、ちょうどそのときに日本から『風』が送られてきたのである。

もう、どうでもよくなった。

どうにでもなれと思った。

帰国すると、すぐにグールドのレコードをさがした。

『風の歌』の主人公が、バックハウスの演奏をあっさり切り捨てるかのようにグールドを選ぶ場面に、ただならぬものを感じたからである。

母が自宅でピアノを教えていたので、子供の頃から安物のアップライトの音を聞いて育った。たいていはバイエル止まり、ツェルニーとかソナチネを弾けるようになる生徒はわずかだった。家でまともなソナタが鳴り響くのを耳にしたことはなかった。

偉そうなことを言っているが、幼稚園の頃、無理やりにピアノを習わされて、二、三ヶ月くらいでやめてしまった。基礎練習に辟易してしまったのである。三つ子の魂百までとはよく言ったもので、強制的に何かさせられるのが、心底いやなのである。受験勉強も拷問のように思えたし、大学に入って触れたフランス語も、なんでいまさら、アー・ベー・セーとかアン・ドゥ・トロワとか繰り返さなければならないのか、嫌で嫌で仕方がなかった。なのに翻訳者になっている。人生、よくわからない。

それはともかく、帯広の我が家にはバックハウスのベートーヴェン・ピアノ・ソナタ全集があって、何度も何度も飽きるほど聴いていたのである。初めて一番から三十二番まで全曲聴き通したのは、大学時代に夏休みか何かで帰ってきたときだったと記憶している。それから四十年経って、帯広に戻ってきて、年代物のステレオ装置を修理に出して、また聴き通した。

バックハウスを聴いていると、ピアノという、たぶん人類が発明した最高傑作ともいえる楽器が過不足なく鳴っているという感じがする。バックハウスにはぎらぎらしたところが何もない。歌ってはいないが、無味乾燥ではない。レコーディングも、残響の少ないデッドなスタジオ録音であるのがいい。

さて、そのバックハウスが危ない。グールドって何者だ?

そのころは東京の荻窪に住んでいたので、すぐに駅の近くのレコード店に飛び込んだ。ない。

「ビデオならありますよ」

レコードがなくて、どうしてビデオがあるんだ? VHS版で、ピアノ協奏曲第五番「皇帝」を収めたもの。違う、違う、ピアノ・ソナタが欲しいんだ。

まだ、CDが出回っていなかった時代のことだ。

その足で、銀座の山野楽器まで行った——なぜ、もっと近い新宿のタワーレコードでなかったのか、はっきり憶えてないが、たぶんそのころのタワレコは今ほど店舗が広くなくて、ごちゃごちゃしていたからだろうと思う。銀座まで来れば、さすがにあるだろうと思ったのだが、ない。

あったのは、リストがピアノ用に編曲した交響曲第五番「運命」、これをグールドが弾いている。なんで、こんな変態みたいなのしかないのか! でも、買うしかなかった。だって、ほかにないんだから!

いや、じっくりさがせばあったにちがいない。でも、なぜか焦っていた。いち早くグールドのピアノが聴きたかった。

メゾネット式の狭ぜましいアパートに戻ると、リビングのターンテーブルにレコードを置いて、そっと針を落とした。

それは今までにない音楽体験だった。

部屋には妻も子供たちもいなかった。

ターンテーブルが回り、ピアノの音だけが響く。

闇のなかに楽譜が浮いている。

楽譜自体が生き物のように呼吸している。

その楽譜はベートヴェンの生きた時代に属しているわけでもなく、もちろんその前のバッハの時代でもなく、二十世紀でもなく、ただ白い五線譜に書かれた黒い音符たちが踊っている。

これがグレン・グールドとの最初の出会いだった。

一九八二年に五十歳でこの世を去ったグレン・グールドという不世出のピアニストとその演奏については、おびただしい文言が費やされた。今さら、屋上屋を架すようなことはしたくないし、そのためにこの記事を書いているのでもない。

ジジェルの現場に、村上春樹初期の三部作を送ってくれたミドリさんは、その後しばらく我が家に足繁く通ってきたけれど、どちらの人生もそのまま何の変化もなくずっとまっすぐということはありえないので、やがて彼女が我が家を訪れる回数は減り、いつしか音信も絶えた。

ただし思い出は残る。彼女が遠いアルジェリアまで送ってくれた三冊の本は、そのままの形で娘たちの本棚で眠っている。

そして、今もどこかで、村上春樹の若い頃の作品を読んでいる人はいるだろうし、グレン・グールドというピアニストを親愛している音楽ファンもたくさんいるだろう。過去と現在はそのようにして繋がり、そして、目には見えないけれども信頼のおける確かな世界をかたちづくっているということを信じたい。

*88 最後の閑話(esq.21)

タイトルを見て、驚いた人もいるかもしれません。

ほぼ半年にわたって、ほぼ一週間に一回更新してきた〈小説のためのエスキス〉と題した試みは中断させていただきます。

「させていただきます」などという珍妙な丁寧語を使うのは、書いてきたのは本人だとしても、読む人と書く人の関係は表裏一体というか、持ちつ持たれつの関係であるということが今回の試みで痛いほどよくわかったので、一方的に中断してしまうのは申し訳ないという気持ちが先立つからです。

単純明快な理由から申し上げると、一週間に一回更新するのがしんどくなってきたということがあります。ならば隔週とか、一ヵ月に一回とか、いくらでもやり方はあるだろうと言われそうですが、この試みは規則的に連載するからこそ意味があり、続けられてきたように思います。

どだい、はじめて小説というものを試みるにあたって、専業の小説家でさえ、体力と精神力を削られるという連載形式(これは日刊紙の連載について、多くの作家たちが言っていることです)を採用したこと自体、身の程知らずであったのでしょう。

正確を期すれば、創作ノートの公開という形式そのものが破天荒でもあり、不遜でもあったわけですが、それにしても、こんなにしんどいものだとは思ってもみませんでした。年寄りの冷や水と言うべきかもしれません。

物語の軸となる人物の名を「猫さん」と呼ぶことで、この小説の試みはスタートしたわけですが、途中から、一人称と三人称の関係が不分明になってきて、小説というものは難しいものだなぁとしばしば考え込むようになった。

それに加えて、構想がどんどん膨らみ、変化していったということがあります(とりわけ*84のあたりから)。

どんなふうに構想が膨らんでいったかというと、そろそろ猫柳泉の父親の亮氏(*73で名前まで考案した)がO市を離れなければならなくなった事情を書かなければならないのですが、下手をするとそれだけでも一篇の小説になりそうな気配になってきたのです。

彼は同じ高等学校に勤めていた若い女性教師と親密な関係になり(つまり不倫関係)、それがために妻(=猫さんの母)は精神を病み、若い女性教師は自殺を図るという、まさにどろどろの三角関係に陥る。この構想——現時点ではむしろ妄想と言うべきもの——が肥大してきて、われながら、これを書き抜くだけの力が自分にあるか、心許なくなった。

これじゃまるで島尾敏雄の『死の棘』じゃないか……。

戦中派の猫柳亮氏は、独学でデカルトに関する学位論文を書いて東京の大学に送り、学位を取得している。不倫相手の女性が自殺を図るに至って、O市にはいられなくなり、妻と子を引き連れて東京に転居するという、まあ、途方もない構図です。

息子の泉は、狂乱する母の姿を直視できずに、同級生の幼なじみである多子(さわこ)さんの家に入り浸り、彼女の優しさに癒される。多子さんは猫さんの初恋の人であると同時に、狂乱し〈不在〉となった実の母親の代わりをつとめていたということになります。その絆が東京に引っ越すことで絶たれてしまう。そして、還暦を過ぎて生まれ育った町に帰ってきた猫さんは、精神科の医師になった同級生の北島晋一宅に招かれ、その妻、多子(さわこ)さんと再会する。そして凍結されていた忌まわしい記憶が一気に溶け出し、猫さんもまた錯乱に陥る。

さて、猫さんは多子さんを奪い取って、O市を終の棲家とするのか。それとも宿痾(?)の記憶喪失から立ち直って、結局は東京に帰っていくのか。

もう、おわかりでしょう。

休まないと体も頭も持たない。妄想はとてつもないエネルギーを消費する。小説家が尊敬される所以でもあり、身を滅ぼす原因でもあるのだろうなと思うに至ったしだいです。

早い話が、この種の長編小説を書く準備はまだ自分にはできていないということです。

 

今抱えている五百ページの翻訳がようやく三分の二あたりまで来たところです。

まずはこれを仕上げなければなりません。

さて、仕上げたのち、膨れあがりすぎた妄想を小説という器に盛る作業に再度立ち向かう気力が戻ってくるかどうか。

ここにネタバレのような、これからの物語の展開を記したのは、ただたんに中絶してしまうのではあまりにも芸がないし、読者の方々に失礼でもあるだろうと思うと同時に、もしこの小説の試みに何か必然性のような、定めのようなものがあるとすれば、きっとまたここに戻ってくるだろうとも思っているからです。そういうものがなければ、ここで途絶えてしまっても仕方がない。

よみがえってくる場所が、このブログになるのか、あるいはすでに本になっているのか、それは書いている自分にもわからない。

いずれにせよ、半年間続いたこの〈小説のためのエスキス〉は書いている本人にとっては、計り知れない収穫がありました。小説とは何かと上から目線で論じることはさほど難しいことではありません。みずから書いてみて、初めて気づくことがたくさんありました。

ですから、ここまでお付き合いいただいた方々には感謝しかないのです。物申したいという読者の方がいれば、コメント欄にどしどしお書きください。コメント欄に公表されるのは抵抗があるという方で、私のメールアドレスをご存じの方は、そちらに一筆お願いします。

ただし、扉の写真だけは頑張って更新します。こっちのほうは週に一度の更新がすっかり習慣になり、楽しくもなってきました。ブログ本文の更新はたまにしかできなくなるでしょうが、せめて写真で一息ついていただけば幸いです。

*87 美術展(esq.20)

*14

 

泉さんは庸子さんを美術展に誘った。もう、三十年前のことだ。

——今度の日曜に砧公園に行かないか。

——公園って、散歩?

——うん、それもあるけど、公園の隅に新しくできた美術館でワイエス展やってるんだよ。

——あら、そうだっけ。美術担当としては迂闊だったわね。ワイエス、好きなの?

——好きというより、ちょっと気になることがあって。名前を知っているだけで、絵は一枚も見たことがない。

——「クリスティーナの世界」も?

——うん。

——わたしは、あの絵、どうも好きになれないのよ。まるで演劇の舞台の一場面みたいで。

——どんな絵なの。

——女の人が枯れた草の上を這い上がっていくの。

——え……。

——ね、え、でしょ。画布の上のほうに地平線があって、いかにも開拓時代のアメリカで建てられたって感じのがっしりした木造の家が二、三軒があって、どうやらその女の人はその家に向かって這っていこうとしているようなの。

——どんな感じの女の人? 若いの、年取ってるの?

——背中から描かれているから顔はわからないけど、若いわね。髪が長くて、ワンピースを着ている。色は覚えてないけど、白っぽくて少し薄汚れている感じ……。

庸子さんは、そう言って、左手で右肘をつかんだ。

——たしか、下半身が麻痺してる人をモデルにしたってことはその絵の解説に書いてあったと思うけど。

——やめておくかい。

——いや、そうは言ってない。実物を見てみないとね。あんがい好きになるかも。よけいに嫌いになるってこともあるけど。

庸子さんは目を少し伏せて笑った。

——でも、あなたのほうから、美術展に誘うなんて、むしろそっちのほうが気になるけど。ワイエスの展覧会のことはどこで知ったの?

——昨日、駅ビルの本屋で雑誌を立ち読みしてたら、「三代続くアメリカの現代画家」というタイトルの美術展紹介記事が目に入ったんだ。画家って二代続くのも珍しいのに、三代って、どういう親子関係だったんだろうと思ってね。とくに現代絵画の世界は破天荒な伝説が多いだろ。アル中だとか、精神病だとか、親子の葛藤とか軋轢とかさ。代々受け継がれていく職人技術ならともかく、芸術なんだから、親子が真っ向からぶつかっても不思議ではない。その辺がどう受け継がれていったのか。

——ふーん、おもしろいじゃない。行こう、行こう。

 

絵から圧倒的な衝撃を受けたのは、誘った猫さんよりも、むしろ庸子さんのほうだった。

〈アメリカン・ヴィジョン〉と銘打たれたその企画展は、まずは、初代のN・C・ワイエスから二代目のアンドリュー、そして三代目のジェイムズへと仕事と画風がどのように変遷していったかを写真と作品とテキストのパネルで説明するイントロダクションの部分、それからN・Cの作品を展示するコーナー、アンドリューのコーナー、そして一番若く同時代的なジェームズのコーナーで締めくくられる、かなり大がかりな構成になっていた。

庸子さんの軽快な足取りは徐々に重くなり、アンドリューのコーナーに入ったときには貧血に見えるほど顔色が青ざめ、作品の前でいちいち立ち尽くす時間が増えていった。

声をかけられる雰囲気ではなかったので、猫さんは同じ展示を三回見て、ミュージーアム・ショップで図録を買うと、庸子さんが出てくるのが目に入る位置にある腰かけに座り、買ったばかりの図録のページを繰った。

どれくらい時間が経過したのか、肩を軽く叩かれて、われに返った。

——待たせちゃってごめん。

——いや、時間を忘れてた。

——図録買ったのね。

——うん。すごい。図録見て、再確認した。

庸子さんは、どこか遠くを見ているようにぼんやりとしていた。

——レストランで何か食べようか。

——何か食べるって気分じゃないかも。公園散歩しない?

広い芝生を取り囲む大きな桜の木のほとんどが花びらを散らし、柔らかい緑の若葉が光を集めていた。花見の時期が終わったばかりで、おそれるほどの人出ではなかったものの、晴れ上がった春の空に誘われて、たくさんの家族連れが公園内を賑わしていた。

歩きはじめて、しばらくしてから庸子さんが口を開いた。

——ねぇ、会社辞めていい?

あまりに唐突だったので、猫さんは自分の左側を歩いている庸子さんの横顔に視線を向けることしかできなかった。二人は結婚したのちも、それまでと同じように教科書会社に勤めつづけた。おしどり夫婦と冷やかされることもあったが、気にはならなかった。

——また絵が描きたくなっちゃった。こんなの初めて。

たしかに、二人はこれまでいくつもの美術展に足を運んだけれど、庸子さんがこんなことを言い出すのは初めてのことだった。

——わたしね、色のついた絵を見て、こんなに感動したの初めてなの。本物のテンペラ画を見るのもじつは初めてなの。テンペラ画ってこんなにすごいものなのね。たぶんアンドリューが研究に研究を重ねた結果の色遣いなんでしょうけど。

また、庸子さんの独演がはじまった。ふだんは無口なのに、一年に一度か二度、たまっていたものを吐き出すように、えんえんとしゃべり出すのだ。

色が向こうから迫ってくるのではなく、自分が色のなかに吸い込まれていくような気がしたというのだ。色のなかにたしかな空気感があって、それに包まれる。まるでこの公園にいて、緑の芝生があって、桜が大きく枝を張り、鳥が鳴き、虫が飛んでいる、そんな感じ。正確に風景を模写したというのじゃなく、風景を画布のなかに取り込んで、そこを空気が自在に行き来している感じ。ヨーロッパの写実主義にも日本画にもない、リアルな感じ。画家が何かを表現しているのではなく、人も動物も生物も風景も、そこにそっと佇んでいる。

庸子さんのいつ終わるともしれない独り言を耳にしながら、猫さんも、作品の印象を反芻していた。いや、反芻ではなく、忘れていた記憶が揺り戻ってくる感じがあった。三代にわたるワイエス家の画家たちが描き出す風景、風物は、彼が育った北海道の空、風、雪、川そのものだった。N・Cの描くインディアン——ネイティブ・アメリカンというのが正しい呼称かもしれないが、それではイメージと肉体が伴わないので——は、猫さんが小学生だった当時、どのクラスにも一人や二人いたアイヌの少年少女を思い出させた。しかし、N・Cの作品にある生命の率直な躍動感のようなものが息子のアンドリューの代になると、なぜか息を潜めて、どの作品にも沈降する死というのか、質量感とでもいえばいいのか、そういうものが画面の奥へ奥へと引きこもっていくように見えるのは、どうしたことなのだろう。舟や納屋や牛舎の内部に湛えられた静けさ、無時間の感覚はただ事ではない。

庸子さんも同じことを考えていた。アンドリューの裸婦は——背景こそ窓の開いた室内であったり、奥深い森のように見えるものであったりするが——、きわめてがっしりとした骨盤を持つ肉厚の女性たちばかりだ。テンペラ画に描かれた彼女たちの肉体は、中学生のときに美術室で初めて出会った石膏像の手触りそのもの、あのミロのビーナスの堂々たる腰回りを思い出させる。

——わたし、また絵を描く。アンドリューの水彩を見て、絵が呼んでる、色が呼んでるって思ったの。

公園内の散歩はえんえんと続いた。公園の縁は起伏のある林になっていて、その向こう側には住宅街を抜ける道路が走っていた。公園の南側の空を高速道路がかすめていた。

二人はもう子供をつくることは断念していた。築地の病院では、人工授精とか、最新の生殖補助医療も紹介してくれた。しかし、すべて手を尽くして、目的がかなえられなかったらどうするのか。今よりもずっと絶望するように思えた。むしろ、子を断念することで開ける人生もあるのではないか。温厚で包容力のある婦人科の看護師さんは、「それは賢明な選択だと思います。わたしもそのような人生を選びましたから」と言った。

庸子さんは出版社を辞めて、来る日も来る日も鉛筆のデッサンに取り組んだ。そして、ある日、そのデッサンに水で溶いた薄い色をのせた。満足できるものに仕上がると、額に入れて寝室に飾った。

川辺に咲いていたマーガレットの一輪とか、気に入って買ってきたグラスやお茶碗とか、読みかけの本とか。窓のレースを通して入ってくる陽射しとか、風をはらんだカーテンとか、日常のあらゆるものが、画用紙のなかに取り込まれた。

猫さんは趣味にしておくのはもったいないと思い、会社に持っていくと、本の挿絵や装幀に採用されるようになった。その評判が口コミで広がり、ほかの出版社からも声がかかるようになった。

こうして庸子さんは少しずつ忙しくなっていった。

自分の胸にしこりがあるのに気づいたのは、ワイエス展から数えて五年後のことだった。

*86 泉さんの回想(esq.19)

*13

 

庸子さんの物語を猫さんが知ったのは、彼女が住む洗足のアパートで初めて二人が結ばれた日のことだった。

庸子さんは堰を切ったように朝まで語りつづけた。その間、猫さんは隣でうとうとしたり目覚めたりを繰り返しながら、話をずっと聞いていた。聞いていたというよりも、耳に入っていたというべきかもしれない。庸子さんの声は、メゾソプラノかアルトか、ちょうどそのあいだくらいの柔らかい声だった。それに加えて、少し滑舌の悪いところがあって——正確に言うと、ときどき興奮して声が高くなると、ファルセットのように声が裏返る——、言葉が乱れるたびに、猫さんは沈みかけた眠りから釣り上げられる。

彼女がしゃべり疲れて眠りに落ちたとき、彼もまた聞き疲れて眠りに落ちた。

白々とした光のなかで目が覚めたとき、彼女はすでにゆったりした生成りのブラウスにジーンズをはき、足を組んでインスタントコーヒーを飲んでいた。

——飲む?

猫さんは無言でうなずくと、服を着て、トイレに入り、顔を洗って出てくると、丸テーブルの上にはコーヒーが用意してあった。ソーサーの上には角砂糖とスプーンがが置いてあり、その隣に瓶の牛乳が立っていた。

庸子さんは語ることはもう何も残っていないと思ったか、もう何もしゃべるまいと心に決めたか、唇は一文字に結んだままだったが、化粧を落とした素顔は晴れやかだった。

猫さんのほうも満ち足りてはいたけれど、人の話を聞くだけ聞いて、自分のことは話さなくてもいいのかという思いが残っていた。でも、庸子さんが何も言わず、何も訊いてこないので、自分のほうからあえて打ち明けるという気分にはなれなかった。コーヒーに角砂糖を一つ落とし、牛乳の蓋——厚紙の押し蓋——を開け、コーヒーと牛乳を交互に飲んでいるうちに、また軽く勃起してきた。自然と腰が上がり、彼女の額に唇をつけた。

 

猫さんと庸子さんの夫婦は二十五年続いた。あるいは二十五年で途切れた。その間に夫は妻にどれだけのことを語り、妻は夫にどれだけのことを語ったか。自分の学生時代のことを、どのくらい語っただろうか。何も語らなかったわけではない、もちろん、二十五年も一緒に暮らしていたのだから。おまけに子供のいない夫婦であったから。よく話した夫婦だったのではないかと猫さんは思うのであるが、こればかりは他の夫婦と比較ができないので、なんとも言えない。

でも、自分の学生時代の、あの失恋、あの理不尽な別れと、その後の失意と絶望の一年については、築地の病院の看護師さんに話したこと以上のことは、結局何も話さなかったのではないかと思い、そのことがなぜか、猫さんの悔いになっているのである。

庸子はあれだけ自分の失恋、あるいは破綻した恋について語っておきながら、なぜ夫の過去を問い質すことをしなかったのか。気遣ったのか。知る必要を感じなかったのか。

それが今となっては——今さらのように——、猫さんの心残りになっているのである。

猫さんが彼女——もちろんこの彼女は庸子さんのことではないし、庸子さんの場合と同じように、相手の固有名詞もあえて特定しないけれど——と知り合ったのは、彼が大学に入った年の夏のことだった。

夏休みは金を貯めると決めていた。入学したばかりで勝手がわからず、前期はたいしたアルバイトもできず、なけなしの貯金——心配した親から渡された小遣い——はほとんど底をついていた。

求人案内をいろいろ調べた結果、昼はデパートのお中元の仕分けと発送、夜は同じデパートの屋上で夏場だけ営業するビアガーデンの求人に応募するという強攻策に打って出た。時給の単価もさることながら、肉体労働とはいえ銀座のデパートで働くというのも魅力のひとつだった。そのビアガーデンで二人は出会ったのである。ジョッキをテーブルに配り歩く仕事はまさに重労働だった。一リットル入りのジョッキを左右の手に三つずつ持って、ひっきりなしに場内を歩き回る。腕も脚もまさに棒になった。彼女は厨房で食器洗いを担当していた。昼は歯科衛生士の学校に通っているとあとで聞いた。

仕事は過酷だったが、爽快だった。本とノートと筆記用具から解放されることがこんなにも心躍ることなのかと思った。

デパートのビアガーデンは九時がラストオーダー、十時には店じまいとなる。ホール担当はテーブルの上を布巾できれいに二度拭きし、コンクリートの床にデッキブラシをかけ、モップで水分を吸い取って業務終了となる。厨房の食器洗いもそのころ同時に終わる。

アルバイト学生がいっせいに乗り込む帰りの業務用エレベーターのなかで、たまたま二人の視線が合った。その日は勤めて初めての金曜日だった。土曜日の夜のビアガーデンは休業で——週休二日制にはなっていなかったけれど、土曜日は午前だけ、当時はまだ「半ドン」という言葉が残っていた——、アルバイト料は日給だが、週末の金曜日に支払われることになっていた。

夜の銀座は、ここは日本かと思うほどネオンが美しく、街路は整然として、夜風に揺れる並木は涼しげだった。当時は新宿も渋谷も池袋もまだ雑然として騒がしく、戦後のまま時間の止まっている場所がいたるところに残っていた。銀座だけ、時代を超越しているかのようにとり澄ましている。

デパートの裏口から銀座の裏通りに出たとき、解放感のあまり、猫さんは思わず大きな声を出した。深呼吸したつもりだった。そのとき背後で、クッと笑う声がした。よほどタイミングがよかったのだろう、自分のほうから女性に声をかけたことなど一度もない猫さんが「ぼくらもビール飲みに行きませんか」と誘ったのである。

二人は表通りに出て、ビール会社の経営するビアホールに入った。二人とも給料をもらったばかりで、自然に笑みがこぼれた。彼女は小柄で丸顔で、髪は短かった。ほとんどすべてが庸子さんとは正反対だったと、今になってあらてめて猫さんは思い返すのである。

その夜から二人の付き合いは始まった。若かったし、疲れていたし、まだろくに飲み方も知らないビールが全身に回ってしまえば、もうとめどなかった。彼は初めて女の身体を知った。嘘だろうと思った。なぜか。夢精のときの、あのもどかしくも吸い込まれるような快感が、そっくりそのままそこにあったから。自分は蝶になった夢を見ているのか、蝶の夢にまぎれこんでしまったのか。

彼女は豹変した。陸の生物から海の生物へと姿を変えた。汗ばむ肌は潮の香りを含み、全身が溶けて、ペニスは標的を失った。やがて風は怒気を増して海面を逆立て、彼はたちまちなぎ倒されて、海に沈んだ。

彼には何が起こったのか理解できなかった。暴風雨に襲われたようでもあり、気の遠くなるような進化の時間を一瞬にして経験したようでもあり、そんな快感を最初に知ってしまったことは、けっして幸福な記憶とはならず、かえって苦い思い出となった。相手は天然の娼婦というべき女性だったかもしれないし、そうだとすれば、なぜそんな女が彼を選んだのかもわからないし、ただ濃密なだけのこの奇妙な性的関係が、なぜ一年も続いたのかもわからない。

次の年の夏がめぐってきて、いつものように仕事の帰りに——彼は家庭教師の口を見つけ、もう肉体労働はしていなかった——、彼女のアパートに寄ったとき、思いがけない言葉が彼女の口から出てきた。「できちゃったみたい。ちゃんと計算していたのにね」

頭の芯が痺れて、すぐには返事ができなかった。彼女は若いのに、毎朝自分の体温を記録し、避妊具も用意していた。「だいじょうぶ。あなたに迷惑かけないから」と言った。

目の前が真っ白になったか、真っ暗になったか、そのとき自分がどんなに情けない顔をしていたか、もちろん本人にわかるわけがないし、そもそも相手の言っていることの意味がわからなかった。迷惑をかけない?

迷惑ってなんだ?

結婚して、籍を入れて、ちゃんと産んで育てようと言った。

彼女は伏し目がちになり、さびしそうな、相手を見下したような、かすかな笑みを浮かべた。同い年のはずなのに、一回りも二回りも年上に見えた。「うん、ありがとう」と彼女は答えた。

帰り道、大学をやめなくてはならない、と猫さんは思い詰めた。去年の夏の、あの解放感を思い出していた。学者の家に育ち、厳格な父の影響圏から逃れようとして一人暮らしを始めたのだ。学校をやめ、一人の労働者として所帯を持ち、父親になり、子を育てることはまっとうな人生の道を歩むことではないかと、健気に考えた。

そう思うと、あの学内でラウドスピーカーでがなり立てている学生たちに対する憤りのような、敵愾心のようなものが、ふつふつと自分の内部に沸きあがってくるのを感じた。自分自身が学生であり、大学に所属しているのに、大学解体を叫ぶ。学費はいったい誰が払っているのか。大学を解体して、自分たちで新たな、自由な大学を創るなんてことが可能だと本当に信じているのか。あらゆる政治制度に対する、あのすべての抗議と主張を、きみたちは本当に信じているのか。

すべてはパラノイアの妄想ではないか。自分を何様だと思っているのか。

おれはそういうものをすべて捨てよう。たったひとりのふつうの人間になって、ふつうの生活者になって、誰にも知られず、何ひとつ主義主張を語ることなく、妻を愛し、子を愛し、黙々と働き、生きていこう。宮澤賢治のような言葉が浮かんでくると、顔が火照って、何も恐れることはないという声が聞こえてくる。

この期に及んで、猫さんは正しい人でありたかったのだ。

主義主張がなんであれ、人は正しいことをしようとして、正しい言葉でみずから納得しようとするとき、じつは何も見えなくなっている。女に溺れることと、主義主張、政治思想に溺れることは同じことなのだという考えは、若い人にはふさわしくない。同時代を生きる青年の表と裏に過ぎないということも、どちらが表で裏なのかも、その時代を生きている人間にはとうてい知り得ないということなど、わかるはずもない。

それにしても——と、還暦を過ぎた猫さんは思うのだ——なんと口惜しい青春か。

次の週の家庭教師の帰りに、彼女のアパートに立ち寄ると、鍵がかかっていた。いつもなら、その曜日のその時間帯には彼を待っているはずだった。それが一年間続いた習慣だった。

食料でも買いに出たのかもしれないと思い、部屋の前の吹きさらしの通路でしばらく待った。隣の住人が出てきた。顔見知りになっていたので、向こうから声をかけてきた。たぶん、今夜は帰ってこないのではないか、昨日、救急車が来て運ばれていったから、と言う。

病気なのか、怪我をしたのか、事故か、事件か、どこの病院に運ばれたのかと畳みかけてみても、そのとき部屋にいなかったからわからないという答えしか返ってこない。彼女が帰ってくるのを待つしかなかった。当時は、若くて部屋に電話を備えている人は少数だった。携帯電話など夢のまた夢、いや夢を見る人さえいなかった。彼女のほうから彼の部屋にやってくることはなかった。

毎日のように彼女の部屋を訪れても、鍵はかかったままだった。

一ヵ月がたったある日、訪れてみると部屋のドアが開いていた。覗いてみると、部屋は空になっていて、大家がいた。どこに行ったのかと尋ねてみると、越した先は聞いてないけど、実家にでも帰ったんじゃないの。若くして流産したんじゃ、辛いだろうし、養生もしなくちゃならないだろうし、という。

流産? 妊娠を告げられたときよりもなお深い穴に突き落とされたような気がした。しかも、なんの相談もなく姿を消した。何もかもわからなくなった。

子供というものは、母親のものなのか。胎のなかの児はひとりで身ごもったものなのか。おれはいったい何者なのか。彼女にとって、自分はなんだったのか。彼女はなぜおれを選んだのか。何が目的だったのか。

明晰に考えられることなど何ひとつなかった。

ただ自分は取り残され、どこかに流れていった胎児のように捨てられたという感情だけが潰瘍のように腹部を蝕んだ。

まるで夢のようだという思いは、すべて嘘だったのかという思いに変わった。彼女が歯科衛生士の学校に通っているということも、郷里は四国の松山で、家は観光客相手のお土産屋で、兄が一人いるという話も、すべて彼女の作り話のように思えた。

かりに作り話ではないにしても、意味を失う。彼女とはもう接点がないのだから。

おれは他人の記憶のごみ箱ではない。

おれは同じことを繰り返している。

生まれ育った土地を捨て——いや、捨てさせられたのだ——、東京に出てきたときも、ただ呆然として、新たな環境に馴染むことができなかった。教室のなかで一人取り残された感じ。世界から見捨てられている感じ。

なぜこんなことが繰り返されるのか。

このおれの、いったい何が問題なのか。

こうして猫さんは大学を休学した。朝夕は新聞配達をして、家庭教師の仕事は続けた。残った時間はひたすら本を読んだ。

結局その一年間で得たものは、ただ、時間はたしかに慰謝を与えてくれるという手応えだけだったが、そのおかげで猫さんは、あの荒れ果てた大学に戻るしかないと腹をくくることができたのだった。

遠い記憶のなかで彼女の顔も声もかすんでしまっている。あれほど激しかった快楽の記憶も、もう何万年も前の化石のようでしかない。しかし、かすかな記憶のなかで、ひょっとして彼女は本当にこの自分を愛していたのかもしれないと思うとき、人が過去を美化するのではなく、過去のほうで人間に余計な思いをさせないようにしてくれているのだという作家の言葉を、猫さんはあらためて噛みしめるのである。上手に思い出せる人は幸せだ。

*85 庸子さんの回想(esq.18)

*12

 

二人は故意に会話を避けようとしていたわけでも、話すべきことがなくなったわけでもなかった。むしろその逆に、結婚して以来、これほど会話の必要、欲求を感じたことはなかったのである。しかし、お互いにどう切り出せばいいのかわからなかった。言葉はそれぞれの心のなかでわだかまり、出口を見失っていた。

夫婦のどちらにしても器質的な問題なり異常は見当たらず、婦人科の看護師さんの指導に従って規則的な性生活を営んできたにもかかわらず、妊娠の徴候がない。

原因が見つからないということ自体が不安を招く。不安は現在と未来に属するものであるにも関わらず、人は過去との因果のなかにその由来を求めようとする。そして、どういうわけか、事態を悪いほう、悪いほうへと追いこんでいく。

 

——何もかも失ってしまった。

わたしはまた同じ言葉を繰り返している、と庸子さんは思う。あそこに断絶点があって、そこで自分は途切れている。一年間の生理の途絶えは、けっして女性の肉体の失調ではない。わたし自身が、そこで途切れ、それまでの自分は死んでしまったのだ、と思う。事実、死のうとさえしたのだから。

幼いころから優等生だった。女の子にしては背も高かったし、運動神経もよくて、ピアノの上達も早かった。父は銀行員で、母は専業主婦、小さいころからたくさんの習い事をさせられた。長女の庸子さんは、父にも母にも従順だった。素直に教えを守り、勉強をした。だから成績はよかった。

絵を描くことに目覚めたのは、中学校に入ってからだった。美術の時間に初めて石膏デッサンに触れて、夢中になってしまったのだ。先生に褒められたことは大きかった。だが、それよりも、ふだん文字と記号を書くために使っている鉛筆に、こんなに豊かな造形力が潜んでいるとは思ってもみなかった。石膏の——少し煤けて肌理の粗い——白い肌にうっとりした。でも、あの石膏たちは、元はといえば、どれも古代ギリシア・ローマの遺跡から象られたものなのだ。世界中の美術教室に散らばった二千年前の大理石像の複製。それを遠いアジアの果ての島国の、小さな中学校の、小さな美術教室で、十歳を超えたばかりの少年少女たちが息を詰めて、描き写している。

もちろん、そのとき中学生だった庸子さんが、そんなふうに考えたわけではない。失われてしまった自分の少女時代の、もっとも美しい思い出が石膏デッサンに目覚めた瞬間にあると、傷ついて大人になった今の——二十代なかばを過ぎた——庸子さんが思うのである。

彼女は、山の手の住宅街にこぢんまりと佇む、戦前に建てられた和洋折衷の居心地のいい家で育った。でも、そのころの東京は高度成長期に入って、どこもかしこも建設工事現場だらけ、電車は満員、道路は渋滞、あちこちでデモ隊が警官隊と衝突していた。

騒がしいのは苦手だった。大きな音を耳にするだけで、足がすくんだ。

美術教室は静かだった。そこでは時間が止まっていた——二千年以上前から。アジアでもヨーロッパでもない、世界のどこにもない場所、その密やかな空間の中で、2Bの鉛筆の音だけがさらさらと響く。画用紙に最初に薄く十文字の線を引く。そこに全体の輪郭を埋める。カールした髪の細部、眉、鼻梁、顎の線を引き、影をつけていく。

たしかにそれは目の前の石膏像——メディチでもいいし、マルスでもいいし、アリアスでもいい——を描き写しているのだけれど、白い紙の@なか{傍点}——けっして紙の上ではなく——に、一つの像が立ち現れていく時間は、まぎれもない造化の時間であって、世界のどこにも属していない、その真っ白な時間にわたしは魅せられていたのだと、今の彼女は思う。

そして、庸子さんは地元の——まだ大学区制にはなっていなかったころの——高校に入学し、美術部に入った。そこで鉛筆は木炭に代わり、画用紙は木炭紙に変わった。それは初めて毛筆を握ったときのとまどいにも似た衝撃を彼女に与えた。腕と手が宙に浮いていて、肩から上腕、二の腕から手首、指先までの筋肉の微細な連携が木炭にそのまま乗り移っていく。描いた線を消すときには消しゴムではなく、食パンを使うのも新鮮だった。彼女はますます粗描の世界へのめり込んでいった。

そこまではよかった。造形の世界がデッサンから水彩画、油彩画へと広がっていったとき、彼女は小さな躓きを経験する。高校の美術部では——おそらく美術の世界全般においても——、木炭のデッサンはあくまでも水彩や油彩、あるいは彫刻作品へといたる前段階のレッスンとしかみなされていなかった。

色って、何? 形はつかまえられる。でも、色はつかまえられない。逃げていく、彼女にはそう感じられる。鉛筆や木炭で把握した精緻な物の形が、色を塗ったとたんに溶けていく。一所懸命に目の前の色をつかまえて、画布に定着させようとするのだが、色と自分の目のあいだ、色と自分の手のあいだに隙間があるのを感じてしまう。

もちろん、彼女は小学校でも中学校でも、絵の具を使って風景や花を写生をしたり、自画像を描いた経験はあった。でも、彼女が強くひかれたのは、あくまでも石膏像のデッサンだった。色彩の世界にひかれたことは一度もなかった。油絵の具には触れたことさえなかった。

庸子さんの色覚に異常があるわけではなかった。しかし、彼女の内部には、色彩に対する頑なな抵抗が潜んでいた。あるいは、色がうるさいと感じられる。とりわけ暖色系の、赤、紅、緋、茜、臙脂と呼ばれる色彩群は、大きく口を開けて叫んでいる口腔内の赤い色を思い出させる。あるいは月に一度の血の色。オレンジ色に染まる夕暮れも秋の紅葉も庸子さんには刺激が強すぎた。

せいぜい心洗われるのは新緑の季節、澄みきった冬の空。色は淡ければ淡いほど、心に染みた。色がはみ出ないように、騒がないようにと神経を使い、その結果、絵は静かになるが、色は画布の奥に引っ込んでしまう。

石に象られた二千年前の胸像を紙の上に描き写したときには、命が通う感動と興奮を得ることができるのに、自然界の物を描き写すと、どうして死んでしまうのか。

でも、庸子さんは努力家だから、あきらめなかった。デッサンは得意だったし、勉強もできたから、美術大学に入ることはそんなに難しいことではなかった。両親も、娘がまさか画家を志しているとは思わなかったから——本人にもそこまでの野心はなかった——、反対はしなかった。

しかし、そこで予想外の挫折が待っていた。色がなんであるか、ますますわからなくなってしまったのである。庸子さんにとって、物の本質は形態にある。色はその装いにすぎなかった。一個の石に赤い絵の具を塗れば赤くなり、青を塗れば青くなる。そういうものと思っていた。だから印象派の画家たち——前期にせよ、後期にせよ——の色彩の冒険は、まったく縁遠いものだったのである。

そして、美大に進学したのは間違いだったのではないかと深刻に悩みを深めていった三年目の時期に、出会ったのである。まさに色彩の野獣のような男に。

友人と好奇心から覗きにいった油絵科のアトリエに、その男はいた。ちなみに庸子さんは、油絵にひかれることはなく、色彩には苦手意識はあったものの、静かで芯の強い岩絵の具には憧れるところがあったので、日本画科を選んだのである。

その第一印象は、汚い、であった。男も絵も、何もかも。何日も洗っていないにちがいないシャツとジーンズ、髪はもじゃもじゃの長髪。百号のキャンバスに何やら絵の具を叩きつけているが、何を描いているのかはわからない。いわゆる抽象画と呼ばれているものくらいのことはわかっても、それ以上の距離は縮まらない。それどころか見ていて吐き気がしてきた——ほんとうに。鼓膜が痛くなってきた——ほんとうに。

庸子さんの苦手な赤系統の色、茶色、焦げ茶、ダークグレー、黒、重苦しい色たちが、これでもか、これでもかという具合に、画布に盛り上げられている。足もとにはペンキの缶、砂や泥を入れたバケツもあった。

彼が何を描いているかではなく、彼が何をしているのかがわからなかった。激しい嘔吐感に襲われて、すぐに立ち去ろうとしたとき、呼び止められた。

——おい、失礼だろ。

庸子さんはハンカチで口もとを抑えながら、立ち止まり、振り返り、頭を下げた。そして、そのままトイレのほうに足早に歩いていこうとした。声はなおも追ってきた。

——おい、どこへ行くんだよ。トイレか? だったら用がすんだら戻ってこいよ。挨拶するくらいは礼儀だろ。

庸子さんは吐き気と恥ずかしさで泣きたくなった。トイレに入ると、不思議と吐き気は収まった。あの共同アトリエには戻りたくなかった。また吐き気がぶり返してきたらどうしよう。でも、お嬢さん育ちの庸子さんは、礼儀知らずと言われたまま立ち去るわけにはいかなかった。

友人と二人で恐る恐るアトリエに戻ると、男は後片づけをしているところだった。二人が戻ってきたことに気づくと、愛嬌のある笑みを浮かべた。

——へぇ、戻ってきたんだ。見所あるじゃん。

三人は学食の売店——まだ自動販売機は学内にはなかった——で瓶のコカコーラ——缶もまだ普及していなかった——を三本買うと、木陰のベンチに座った。新学期が始まったばかりで、キャンパスを歩く学生の数多く、楓の若葉を揺らす風が気持ちよかった。

——オレの絵を見て、ほんとに吐き気を催すなんて、見所あるじゃん。

彼は——固有名詞を思い出したくない庸子さんのために名前は出さない——「見所」という言葉を二度使った。

——評論家なんて、頭の悪い不感症女みたいなもんだから、吐き気さえ感じないんだよ。そんなんがこの学校で先生やってんだから、退屈しちゃうよね。

だったら、やめればいいのにと庸子さんは思った。

最初は吐き気、次には反発、そのあとのことは成り行き、詳しく書いたところでさほどおもしろくもなく、美しくもないので——庸子さんにとっても、読者にとっても、また筆者(書いているこの私のこと)にとっても——、要所だけかいつまんでお伝えしよう。

とにかく、その日から彼と庸子さんの付き合いは始まったわけだが、どちらかと言えば潔癖症に近い庸子さんが、身なりにも清潔にも無頓着な男に引き寄せられたのは、ひとえに色彩についての彼の考えなり信念によるものだった。庸子さんは健気にも、自分の色彩に対する弱点を克服しようとしていたのである。

色は光の属性ではない、というのが彼の持論だった。

——いいかい、色は物それ自体の属性なんだ。林檎は深夜、闇の色に染まるかい? 光が当たるから赤く見えるのかい? 違うよね。青い林檎は昼でも夜でも青いよね。夜に食べても朝に食べても、酸っぱい林檎は酸っぱいよね。ニュートンはさ、林檎が落ちるのを見て、あれは落ちてるんじゃなく、地球が引っ張ってるんだと考えた。そして、地球が引っ張っているだけじゃなく、林檎もまた地球を引っ張っている。ほんのわずか、地球は林檎のほうに引き寄せられている。色もそれと同じなんだ。生き物であれ、無生物であれ、物には力がみなぎっている。物がそういう形をしているのは、そこに力の臨界線のようなものがあって、かろうじて均衡が保たれているからなんだ。そして、この均衡はたえず、そして永遠に揺らいでいる。石を風の通り道に置いておけば、百年かそこらで風化してしまうだろう。百年なんて、あっという間さ。そう、だからさ、色彩はね、その物が内部に貯めこんでいるエネルギーが表面ににじみ出て、光に照らされて、おぎゃーって声を上げているんだよ。色は命なんだ、生命なんだ、命の色は赤いんだよ。空は死の色だよ。赤い命が通わなくなった死の世界なんだ。でも、美しい? いや、だから美しいのかもしれないね。だったら、オレはさ、美しいものは描きたくないのさ、どろどろした生まれたての、血みどろの胎児みたいなものを描きたいのさ。

庸子さんが愛したのは、彼の絵でも、肉体でもなく、言葉だった。その言葉に彼女は自分の身を捧げた。いや、そんな受動的なことではなく、むしろ、刺し違えたのである。

庸子さんは表向きはおとなしく清楚だったが、情熱の人であり、果断の人でもあった。

庸子さんは彼の言葉を愛した。しかし、自分の肉体や生活を疎かにすることには違和感を覚えた。身なりも身体も清潔にしていてほしいと思った。部屋は小ぎれいに片づけ、小まめに掃除してほしいと思った。ちゃんとしたものを食べてほしいと思った。

けれど庸子さんは、彼の生活に手を伸ばそうとは思わなかった。たとえ、彼の散らかった部屋で、風呂にも入っていない肉体に抱かれようと。

そして、ある日、彼が誰か知らない女の人と駅前を歩いているのを見たとき、彼女は終わったと思った。

それは嫉妬ではなかった——いや、それが嫉妬なのかもしれないけれど。彼女には見えたのである。その誰か知らない女の人は、きっと彼の部屋を片づけ、掃除をして、洗濯してやり、お料理もしてあげているのだろうと。

そして、彼が画家になることもないだろうと思った。

わたしも絵をやめよう、そのとき、彼女は思ったのである。

それからの庸子さんは、大学では粗描だけに没頭した。卒業制作を仕上げるのは辛かったけれど、できるだけ色のない、白い牡丹の絵を描いた。

*84 夫婦(esq.17)

*11

 

深く愛し合っていて、深く信頼し合っていて、性の営みにも深い悦びがあり、二人とも切に子ができることを願っているのに、願いの叶わない夫婦がある。産婦人科学会の統計資料によると、ごくふつうの性生活を営んでいれば、一年間で約九〇%の夫婦が妊娠する。千組の夫婦がいれば、九百組の夫婦に子が授かる。残る百組は一般不妊治療を受け、基礎体温表に基づいて排卵日を予測して、受精の確率を高める方法を試したり、男性の精子に問題がある場合には薬物治療を受けたりすれば、五十組が妊娠に至り、残る五十組も体外受精や顕微授精などの生殖補助医療を受ければ四十組が妊娠する。しかし、それでも妊娠に至らず、治療を断念する夫婦が十組は残る。

 

猫柳泉と庸子さん夫婦が不妊に関する相談を受けるために、築地にある総合病院の産婦人科を訪れたのは、正式に結婚してから一年後のことだった。それまで三年近く、互いのアパートを行き来していた期間があったから、同い年の二人はすでに三十歳を目前にしていた。今からだと三十年以上前のことである。

電話で予約した日の朝に産婦人科の病棟を訪れると、相談室というプレートのかかった部屋に案内された。室内には、豪華でもなく、粗末でもない、黒い合成皮革の応接セットが置かれていた。壁を背にした長いほうのソファに腰を降ろし、数分待つと、白衣を着た年配の看護師さん——当時は看護婦という呼称が一般的だったけれど——が現れた。二人はまだ若かったから、落ち着き払った看護婦さんの物腰に安心はしたものの、緊張感が和らぐことはなかった。

——不妊のご相談と伺っていますが、それでよろしいですか?

二人はまず無言でうなずき、その直後に「ええ」という声がほぼ同時に出た。

——そうしますと、まず前提条件からご説明しますね。今の産婦人科の基準では、二年間妊娠の徴候が現れない場合に不妊症と認定するということです。

庸子さんがうなずいた。いろいろ本を調べて、そのことは知っていた。

——そこで、まずはいろいろ質問させてください。立ち入ったことも伺いますけど、治療の一環だと思って、照れずにリラックスして、正直に答えてください。

そう言うと、看護師さんは膝の上のファイルを開いた。

——ご結婚なさって一年ということですが、婚前交渉はありましたか?

二人は同時にうなずいた。

——同棲なさっていたということでしょうか?

二人は視線を交わし、なんとなく庸子さんが答えることになった。

——いいえ、同棲はしていませんが、お互いのアパートをよく行き来していました。

——どのくらいの期間ですか?

——三年ほどです。

——どのくらいの頻度で行き来なさっていましたか?

——週末はいつもどちらかのアパートで過ごしました。

——今はご結婚なさって、一緒に暮らしているのですね?

——はい。

二人はなんとなく見つめ合った。

——基礎体温表のようなものは付けていますか?

庸子さんは「はい」と答えて、大きめのハンドバッグのなかから、仕事に使う手帳を取り出した。そこに毎朝の体温が記されている。

——見せていただいてもいいですか?

庸子さんはうなずいて、手帳を差し出す。

——基本的にはこれでけっこうですが、これからはグラフにして体温の変化を見やすくしたほうがいいかもしれませんね。基礎体温の正しい計り方については、あとで説明書をお渡ししますので。

看護師さんは手帳を戻すと、開いたファイルに目を落とし、そのなかの問診票のようなものに何か書きつけている。

——まずは奥さんのほうからお尋ねしますね。月経は規則正しいほうですか?

——早めに来たり、遅くなったり、規則正しいとは言えないかもしれませんが、必ず来ます。今は……。

——今は? というと、止まっていた時期があるということですか?

——はい。

——それはいつごろですか?

——学生時代の終わりから、働くようになってからも、しばらく続きました。

——どれくらいの期間ですか。

——三年くらいは続きました。

——再開したのは?

——四年ほど前です。

——つまり、ご主人とお付き合いするようになってからということですか?

——ええ、だいたいそういうことになります。

——月経が止まってしまった理由に心当たりがありますか?

——ええ、たぶん、当時付き合っていた人と別れたせいだと思います。

——そのとき、流産とか、あるいは堕胎とか、経験しましたか?

庸子さんは無言で顔を横に振った。看護師さんはさっきから顔を上げて、相手の目を見て質問している。庸子さんは隣にいる夫のほうに視線を向けた。失恋の経緯について、だいたいのことは知っていたから、猫さんは動じなかった。看護師は淀みなく続けた。

——セックスの回数を教えていただけますか。毎日とか、週に何回とか……。

猫さんと庸子さんは顔を見合わせた。どちらが答えるか、互いにさぐっている。結局、庸子さんが答える。

——その週によって変わりますけど、だいたい一回か二回くらいですね。最近は、排卵日がやってくる週には毎日するようにしているんですけど……。

——それでも妊娠しないのですね。でも、まあ、焦る必要はありませんよ。お二人ともまだお若いんですから。

そういうと、看護師さんは視線を猫さんのほうに移した。

——言うまでもなく、不妊には女性側に原因がある場合と男性側に原因がある場合があります。その両方というケースもあります。お二人は信頼し合っているご夫婦だとお見受けしましたので、あえてお尋ねしますが、もちろん、答えたくない場合には答えなくてもかまいません。ここは警察の取り調べではありませんから、黙秘権とか、そんな大げさなことではなく、しゃべりたくなければ、それはそれでなんの問題もありませんので。

と言って、看護師さんはそれまで以上に顔を崩して笑みを作った。

——はい、答えられる範囲で答えます。

猫さんとしては精一杯ユーモアを交えたつもりだった。

——奥さんが妊娠しないことについて、ご主人の側から思い当たることはありませんか?

——というと?

——不妊因子が自分のほうにあるのではないかと思ったことはありませんか?

——つまり、僕の精子に問題があるということですか?

——それは検査してみないとわかりませんが、その前に本人に思い当たる節はないかということです。さきほど奥さんが、失恋によって月経が止まったということをおっしゃってましたが、それに類することです。

猫さんは庸子さんのほうを見た。庸子さんの目は少し潤んでいるように見えた。何を言ってもかまわないと促しているようにも見えた。

——僕も彼女とほぼ同時期に失恋したというか、ある女性との関係が終わってしまいました。彼女は妊娠したのですが、流産してしまったのです。でも、でもその事実を知る前に僕らの関係は終わってしまったのです。流産の原因がなんだったのかもわかりません。

看護師は笑みを絶やさずに、猫さんの言葉を聞いていた。庸子さんはその看護師さんの笑顔をじっと見つめていた。

——ああ、そうでしたか。辛いことをお尋ねしてしまいましたね。でも、お二人とも率直に、正直に話してくれて、とても感謝しています。問診だけでは、今のところ何も申し上げられないのですが、ただし不妊治療というのはたいへんデリケートな治療です。技術的なことを申し上げているのではありません。夫婦間の精神的な事柄、愛情に属することを申し上げているのです。わたしたち医療の現場にいる第三者が、夫婦という本来なら閉ざされた世界に介入することで、破局を迎えてしまうケースもあるのです。

そこで看護師は一呼吸置いた。

——あなたがたが正直に話してくれたので、それにほだされるわけでもないのですが、とても大事なことなので、わたしの身の上話も少しさせてくださいね。わたしはこの病院の婦人科の看護婦として、おもに不妊症の患者さんのカウンセリングと治療にあたっているのですが、じつはわたし自身が不妊症なのです。つまり結婚はしていますが、子供はいないのです。若いころはそれで死にたいほど悩みました。この世代ですから、女が@石女{うまずめ}と呼ばれることは死にも等しい屈辱であり、差別だったのです。幸い、私の夫も産婦人科の医師で、私の状態を理解してくれましたので、私はこの仕事を続け、不妊に関する専門の看護婦になることができました。子はかすがいって、江戸の昔から言われていますが、おそらく江戸の昔から、子はなくても愛情と信頼の深い夫婦はいたでしょうし、今でもいるのです。この病院で不妊治療を受けて、結局は治療を断念したご夫婦と今でもお付き合いがあったりするのですよ。あなたたちのような若い夫婦が不妊の相談に見えると、まるでわが子のように思えるのです。あ、でも、心配なく。あなたがたの場合、まだ不妊症と決まったわけではありませんからね。それは最初に申し上げたとおりです。

 

こうして二人は、親身に相談に乗ってくれる看護師さんの助言と指導に従って、一年間にわたって基礎体温表に基づいた規則的な性行為を重ねる一方、庸子さんは卵管や子宮の検査、猫さんは精液検査を受けたが、どちらにも器質的な欠陥は見られなかった。次に進むべき治療法としては人工授精、体外受精があることは、二人とも知っていたが、このころから夫婦の会話は少なくなり、無言の時間が長くなっていった。

*83 閑話、その4(esq.16)

「小説のためのエスキス」と題した記事(*67)をアップしてから四ヵ月になる。ほぼ毎週に更新してきたので、今回で16回目。第1回目(esq.1)には、次のような威勢のいいことを書いた。

 

だから、これから書こうとしているのは小説ですらない。文学でもない。そんなものには収まりきらない何か、なのである。

 

しかし、いま実感しているのは、「小説」という器はじつに吸引力の強い、それでいて、ちょっとやそっとでは動かない、なにか岩か城のような手強い存在だということである。

この第1回目の記事には、小説の試みを始める理由として、「直近のきっかけ」と「古い怨恨」のような理由をあげた。前者は、隔週火曜に自宅で催している「私塾」で「無知の知」に至る認識というようなテーマで話をしたことに起因している。話した当人が、こんなことを澄ました顔(?)で解説したところで、なんの説得力も持たないだろう。そこで何か具体的な行動か、作品によって範を示すことはできないか。それがこの小説の試みの背景にあると、言い訳めいたことを書いた。

問題は、小説を書く試みの基盤となっている「古い怨恨」のほうである。それについては、こんなふうに書いた。

 

ごくごく単純化して言えば、小説を書きたいという欲望が、おそらく幼いころからずっと意識の底に潜んでいるからだろう。欲望という言葉が正しいかどうかわからない。むしろ書くことはすでに小学校の低学年くらいから手に馴染んだ行為、作業だったので、翻訳というものを書く仕事を始めたとき(三十代の前半)、これは自分の天職であるとはっきりと自覚した。この仕事を失えば、おそらく自分の人生はないとも思った。

 

いま読み返すと、幼いころから「小説を書きたいという欲望」が意識の底に潜んでいたというのは、書いた本人も自覚しているようだけれど、少し不正確なのである。幼いころ(小学生のころ)に、小説を書くことや小説家になることを意識したことはなかった。漠然とした憧れはあったかもしれないが、それは小学生が将来なりたいものと訊かれて、バスの運転手とか消防士とか、あるいはお医者さんと答えるのと大差なかったと思う。

しかし、「書くことはすでに小学校の低学年くらいから手に馴染んだ行為」だったということには訂正の必要を感じない。文章を書くことは好きだった。正確を期すれば、読書感想文のたぐいは苦手だったし、国語の評価もいつも5だったわけではなかったような気がする。中学校に上がっても、高校に進学しても、教科としての国語の成績にはむらがあったと記憶している。もっとはっきり言えば、国語の教科書にもテストにもずっと違和感を抱きつづけていた。国語に正解なんてあるのか?

好きだったのは、いわゆる自由作文の類である。大人のジャンルに当てはめれば、エッセイとか随筆になるのだろう。おそらくこれは、われわれの育ってきた時代と大きく関係している。

日本が戦争に負けて、仮名遣いは「新仮名遣い」に改められ、ほとんど無限ともいえる漢字の世界に箍をかけるようにして「当用漢字」が制定され、「話すように書く」こと、平易に身近なことを書き綴ること、無着成恭の「綴り方運動」に代表されるような「民主教育」の一環として作文教育が、たぶん全国津々浦々に広がっていったのだろう。

原稿用紙に文字を書き、それをガリ版の上に置いたパラフィン紙に鉄筆で書き写し、謄写版と言われる印刷機にかける。ほとんど江戸の瓦版のような、その原始的な印刷物に、私は子供のころから魅せられていた。

それが「文学」にのめり込んでいくにつれて、ものを書く喜びは変質し、濁っていく。

高校の終わりころから、いわゆる世界文学全集や日本文学全集に収まっている作品を濫読するようになってからは、もう何がなんだかわからなくなってしまった。書くことよりも読むことのほうがおもしろくなった。そして、理屈っぽくなり、評論家っぽくなっていった。そういう素質もあったのだろう。

けれどいつも意識の底では、「書くこと」を、「書くことの喜び」を、裏切っているという思いがうずいていた。「小説を書きたいという欲望」とは、正確に言えば、そういうことなのだろうと思う。

翻訳を生業とするようになり、書く道具は鉛筆や万年筆からワープロ、パソコンへと移り変わっていくにつれて、書く喜びと仕事との乖離はますます広がっていった。ワープロ専用機を使いはじめた当初、漢字変換の機能にとまどって、いつもキーボードの右隣に大きめのメモ用紙を置いていたことを思い出す。漢字で書くのかひらかなにするのか、送りがなはこれでいいのか、手で書いて確かめないと落ち着かなかったのである。

書く当てもないのに、原稿用紙だけは用意してあった——いまもクローゼットのなかで眠っている。

時代はあまりにも目まぐるしく通り過ぎていった。心のなかには時代に取り残された部分が息づいている——眠っているのか起きているのかはわからないが。

先日、次女から電話があった。スマートフォンはまさに年々進歩・進化しつづけて、ついに片手に端末を持ってテレビ電話ができるようになった。生まれたときに電話もテレビもなかった世代に属する人間にとっては、それはもう唖然とする出来事のはずだが、いつのまにかごく自然に生活のなかに溶けこんでいる。東京圏に住んでいる長女とも次女とも、月に一度か二度はこのテレビ電話をしているんじゃないだろうか。
「オトーさん、小説書きはじめたの?」

いきなりである。娘が親父のブログなど見るわけがないと思っていたら、「ときどき」覗いているのだそうな。虚を衝かれるのは気まずいものである。とはいえ、本来なら表に出さない創作過程をブログというかたちで公開しているわけだから、どこで誰が読んでいるかわからない。そこに娘が含まれていたとしても驚くほどのことはなく、想定していなかったこと自体が迂闊だというほかない。

次女はフリーランスの編集者として、父親と同じく出版業界に棲息している。二人の子を持つ母親でもあるので、父親のブログをまめにフォーローするほどの暇も必要もないし、ときどき覗いても、「フランス文学関係のめんどくさいこと」が書いてあるので、すぐ閉じるんだという。健全な親子関係である。

それがどういうわけだか、久しぶりにブログを覗いてみたら「小説」が連載されているのを発見した。おもしろい、と言ってくれるのだが、どうもこそばゆい。

それはともかく、ブログを覗いた娘から、主人公の名前を変えたのかと尋ねられた。え? 最初は「泉」さんだったのが、途中から「香」さんになっているという。これはこれは、まことに迂闊でした。さすがに、駆け出しとはいえ編集者を名乗っているだけのことはある。というか、たくさんの人が気づいていることで、知らないのは本人だけだとしたら、穴に入りたい気分である。さっそく直しました。

お詫びのしるしに(?)、なぜ「泉」という名前にしたかというと、そのとき館野泉のピアノを聴いていたからである。いずみ、っていい響きだな、と思ったのである。男性にも女性にも使うことのできる名にしたかったということもある。それがどうしてか、途中から香になってしまった。字形が似ていて、音も三つだから? 頭が混線したとしか思えない。

冒頭のほうで、小説は岩か城のように手強い存在だと書いたけれども、手強いというより、何か恐怖心のようなもの誘発すると言ったほうがいいのかもしれない。

子供のころには、当たり前のことだが、この種の恐怖心は感じたことがなかった。いまも、「閑話」と題した日常の延長線上にあるエッセイ風の記事を書く分には恐怖は感じない。

恐怖は、登場人物に名前を与え、それを動かすとき——あるいは、それが動いていくときである。小説とは所詮妄想だと、少し前のブログ(*79)に書いた。妄想にリアリティを与える作業は、まさしく力仕事だということを、いま痛感している。たとえばミラン・クンデラは、こんなふうに書いている。

 

私の計算では、毎秒この世で二ないし三人の虚構の人物が洗礼を受ける勘定になる。だから私は、そんな無数の洗礼者ヨハネの群れに加わることに、いつもためらいを覚えるのだ。しかし、どうしようもない。どうしても私は、人物たちに名前を与えなければならないのである。この場合、ヒロインがたしかに私のヒロインであり、(私が他のだれよりも彼女に愛着を覚えるのだから)私にしか所属していないことをはっきりと示すため、これまでどんな女性にも与えられたことのないタミナという名前で彼女を呼ぼう。(『笑いと忘却の書』西永良成訳)

 

著者自ら、こんなふうに告白してくれなければ、タミナという名前がチェコでは平凡な名前なのか、珍しい名前なのかさえ、読者にはわからなかっただろう——すくなくともチェコの読者以外は。

おそらく小説の登場人物の名前——とくに主人公(すなわちヒーロー、ヒロイン)の場合——を決めるという段階は、ただたんに気恥ずかしいだけでなく、小説全体を決定するものだから——あとから変えることは、作品全体のトーンを変えてしまうことになる——、やはり勇気がいることなのだろう。ミラン・クンデラのような天性の語り部でさえも。いや、だからこそ、というべきか。

ミラン・クンデラは、どこからタミナという名前を思いついたのか、そこのところは書いていない。天から降ってきたのかもしれないし、読者にそう思わせようとしているのかもしれない。

猫柳についても、そういうことにしておこうか。泉については、ばらしてしまったけれど。ついでにばらしてしまうなら、波多野庸子の姓は、メゾソプラノ歌手の波多野睦美さんから拝借した。声楽についてはよく知らないのだが、あまりにも美しい声なので、彼女の歌が入っているCDは三枚持っている。あとはストリーミングで聴き惚れている。庸子については、ヨウコという発音が好きで、庸の字がなんとなく好きだから、ということにしておこう。

今回も「閑話」ということで、本筋から逸れているわけだが、さっきからくどくど恐怖とか不安とか言い訳しているとおり、書き出せないでいるのだ。

波多野庸子は猫柳泉と結婚して、猫柳庸子となるわけだが、*69(esq.3)ですでに書いたように、この夫婦には子供がいない。この時点では、そんなに深くは考えずにそう書いた。この試みはあくまでも創作ノートのようなものであるから、とにかく書き出してみること、辻褄が合わなくなれば変更すればいい、それくらいの考えだった。

それに猫さんは書いている自分の分身であり、庸子さんが、五十代のなかばでこの世を去った私の妻の分身——モデルというのは多少憚れる——であることは、このブログをときどき覗いてくださっている方なら、程度の差こそあれ、気づいていることだろうと思う。

すでに書いたように、私たちには二人の娘がいる。現実の要素をそのまま小説に持ち込むと、小説としては書きづらくなる。よほどの自覚があるか、自虐精神に富んだ人でないかぎり、今どき私小説は書かないだろう。

私小説を書くつもりはなくても、「私」とか「僕」とか、一人称で書きはじめると、どうしても自分の延長線上のものになってしまう。自分の経てきた人生についての打ち明け話がしたいわけではない。

哲学は文学という世界のなかで王様のように君臨している。あるいは、哲学は自分が文学の世界に含まれることさえ認めたがらないかもしれない。哲学が死んだとは思っていないが、西洋文明(文化)が営々として積み重ねてきた無数の概念の構築物は、やはり閉ざされていると思う。大学で専門的に研究している人か、少数の知識人にしか読めない。ようするに難しい。だが、重要なことは難しいのは内容ではなく、言葉だということだ。ふだんは使わないような言葉ばかりが出てくる。

中原中也は、身の回りのものだけで無限を夢みると語り、独特の柔らかな音と言葉の世界を築き上げた。それを柔らかい認識と呼んでみたらどうだろう。詩とはそうしたものではないか。わかりやすい詩ばかりとはかぎらないけれど。

小説でその先鞭をつけたのは、やはり太宰治だったし、太宰は今でも読まれている。太宰に傾倒している又吉くんが『火花』で芥川賞をとったのも慶賀すべきことだ。

妙な言い方に聞こえるかもしれないが、太宰は終生「文学」と格闘した人だった。若いころに共産主義に傾倒したのもそうだし、晩年に志賀直哉に噛みついたのも、彼の「思想」の現れだった。「フローベールはおぼっちゃん、モーパッサンは苦労人」と言ったのも太宰治だ。

趣はだいぶ違うけれど、谷川俊太郎の詩も平易な言葉だけできている。みなさんご存じのように、御尊父は哲学者の谷川徹三だが、息子の俊太郎は親の反対を押して大学には進まず、詩人として食べていく道を選んだ。

このなかに村上春樹の名を加えておくと、何を言おうとしているのか、さらに明確になるだろう。最近、「文藝春秋」(六月号)に父との葛藤を綴ったエッセイが発表されたが、読んで驚いた。谷川俊太郎も村上春樹も一人っ子だが、それだけでなく父親がどちらも京都帝国大学を出た秀才なのだ。ちなみに猫柳泉もその生みの親の私も一人っ子ですが、うちの父は旧制中学どまりです。

われ万巻の書を読めり、と詠った詩人をまねるわけではないけれど、むずかしい哲学の本はもういい、と思う。

半世紀近い昔のことになるが、大学の文学部に入ったその年からずっと大学には違和感を感じてきた。大学をやめて、新聞配達でもしようかと思ったことさえあった。でも、その勇気も根性もなかった。とくにフランス文学は遠かった。だったらなぜフランス語なんか選んだんだと当然問われるだろうが、なんとなくである。みんなその程度だ。ただ問題は、この私だけ、えんえんとその違和感にこだわりつづけて、半世紀が経ってしまったということだ。そして、落ち着いた先が、この違和感は日本人だから発生するものではなくて、フランスの作家たち、詩人たちが一様に抱えている違和感だということ。古代ギリシア・ローマ文化の正当なる嫡子にして、カトリックの長女フランス、ああ、そんなものは幻想なのだ。そして作家たちや芸術家たちは、この幻想と闘ってきたのだ。

話題はさらに遠くに逸れてしまった。もとい。

猫さんと庸子さんのことだ。なぜ彼らには子供がいないのか? できなかったのか、それとも、子をつくろうとしなかったのか?

それ、おかしいだろう、とみなさん思うだろう。なぜなら、そういう設定にしたのは、書き手の私なのだから。勝手にしてよ、と言われてもしかたがない。

この設定は思いつきにすぎないけれど、それを突き詰めていけば、ある「認識」に至るのではないかと思っているのだ。あるいは、たんなる思いつきだと思っていることが、もしかすると根の深い問題だったと気づくこともあるかもしれない。

それが本当の哲学なのではないか。誰かが書いた難しいテクストを解読することが哲学ではないだろう。それは訓詁学だ。

現段階では、つくろうとしなかったのではなく、できなかったという設定のほうが自然ではないかと思っている。その根拠はない。ないというよりも、やはり自分がそうだったから。結婚した以上は、それが自然の流れだと思っていた。あえて妊娠を拒む理由はなかった。

だとすれば不妊の理由を考えなければならない。そしてこの問題については、庸子さんの視点に立って書くべきだとも思っている。もちろん、男性の側が不妊因子を抱えていることもあるわけだが、重要なことは女性の側に立って書くということ、そのこと自体にある。

男が男中心の考え方から脱却できなければ、それは本当の「認識」にはならないだろう。人間が人間中心主義の考え方から脱却できなければ、あらゆる科学はむなしいだろう。地球はぼろぼろになっていくだろう。われわれ人類はそういう段階——たぶん最後の段階——に突入したのだと思う。

今度は話が大きくなりすぎた。そうならないために「小説」——君子の説く「大説」ではなく、小人が小さな声で説くもの——を書こうとしているのに。

去年から看護専門学校で講師を務めているので、不妊と不妊治療に関して、専門家の先生にいろいろ教えを請うているところである。

そして、驚いたことがある。古い資料でも最新の資料でも、男女ともに原因を特定することのできない不妊が10%あるということ。その事実に驚き、書き出せないでいる。

勇気をもって書き出すべきだが、もうこの段階に入ると、とりあえず書いてみましたではすまされなくなる。妄想とはいえ、子をなすかなさないかは、軽々しくは書けないものだから。

多くの小説の読者は、そこに描かれたドラマの展開と行方を追って読むだろう。もちろん、それが小説を読む醍醐味であることに半畳は入れない。でも、その小説が何百ページあろうと、それはたったひとつの、作者にとってはかけがえのない、実人生における生死の交換にも近い「認識」の暗喩であるということも、頭の片隅に置いてほしい。

さらには、その「暗喩」は——あえて言葉に置き換えるならば——、私の愛した人、愛している人たちすべてが幸せでありますようにという祈りであることも、どうか信じてほしい。

*82 記憶の在処(esq.15)

*10

 

自分が小学校の終わりに書いた作文を読み終えた猫柳泉さんは、目をつぶり、ソファの背に首をあずけて、じっとしている。

膝に重みを感じて目を開けると、こちらを見上げているネコと目が合った。ネコはニャーと鳴き、猫さんの膝の上で二、三度足の位置を変え、落ち着く場所を見つけると、そのままうずくまった。ネコの体温が腿の内側に浸透していくにつれて、眠りが忍び寄ってきた。

目ざめたときには、膝の上の重みはどこかに消えていた。西向きの窓のレースが橙色に染まり、テラスに通じる大きな硝子戸には夕暮れの長い影が落ちていた。どれくらい寝ていたのか、時間の感覚がなかった。時計はソファの後ろの壁にかかっている。

急に視界が曇って、猫さんの目から大粒の涙がぼろぼろとこぼれた。こんこんと湧き出す地下水のように、いつまでも止まらなかった。苦くも、甘くもなく、しょっぱくもなく、ただ、こんな量の涙がどこに潜んでいたかと思うほど、とめどなく溢れだす。

こんなにもおれは疲れていたのか、と思う。

十年間に三回も葬式の喪主をつとめた男は、おれくらいしかいないんじゃないか。内心そう自嘲してみるが、涙が止まらないので、笑みは浮かんでこない。

ネコが戻ってきて、またニャーと鳴く。低いテーブルの上に置いてあるティッシュペーパーの箱から紙を一枚取り出し、眼鏡を外して涙を拭くと、ようやく気が晴れてきた。まるで射精のあとのようだと思い、ようやく笑うことができた。

もう四時か、と猫さんは背後の時計を見ることもなく、つぶやいた。ネコが催促がましい鳴き声を出すのは、夜が明ける前の四時頃か、陽が沈む前の四時ころと決まっているからだ。

振り返ると、果たして時計の短針は四時をさし、長針は五分をさしている。

立ち上がって、キッチンへ足を運ぶと、ネコの鳴き声は長めの低いニャーから、短めのニャ、ニャ、ニャと高めのトーンに変わる。サイドボードから猫用のドライフードを取り出し、大きめのプラスチックのスプーンですり切り一杯、ネコ用の食器に入れてやると、鳴き声はおさまり、部屋にはただドライフードを噛み砕く音だけが響く。

テーブルの上にはガリ版刷りの卒業文集が置いてある。二百ページほどの文集だが、わら半紙に刷って袋綴じの製本になっているので、かなりの厚みがある。

これを読んだことは正しかったのか? 正しいも正しくないもない。もう読んでしまったのだから。

感動したのでも感心したのでもなかった。あきれて呆然とした。そして、意識を失うように眠りに落ちた。

あきれたのは、まずその長さだった。四百字詰めの原稿用紙で十二、三枚はある。ほかの生徒が長くて四、五枚なのに、その倍以上ある。猫さんは編集者の習い性で、活字になった文章——この場合、ガリ版刷りではあるけれど——を見ると、すぐに原稿用紙の枚数に換算してしまう。

この長さはなんだろう?

自分が生まれ育った場所を去らなければならないことを知った小学生が、何か必死で——そう、必死で——忘れてはならないことを刻みつけようとしている。その忘れてはならないことが、なぜ兎狩りでなければならなかったのか?

長さだけではなく、その細かさ。むろん細かく書くから長くなっているのだけれど、小学生にしては尋常ではない。

そして、自分が半世紀以上も前に書いて、しかも書いたことを忘れている文章を読んで、猫さんは深く混乱しているのである。

これは誰の記憶か?

猫柳泉の記憶だ。

しかし、それは記憶の所有者の名前を特定したにすぎないではないか。

小学生だった猫柳泉と還暦をすぎた猫柳泉は同一人物か?

そもそも、記憶に所有者はいるのか?

記憶は海馬に刻まれる。だがその海馬は、はたして誰のものか?

でも、そんなことを言い出したら、この肉体は誰のものか、ということになる。

人間はこの地球を自分のものだと思っているが、ほんとうは人間は地球環境に属し、依存する一つの種にすぎない……。

猫柳泉は、自分が小学校のときに書いた作文を突きつけられて、混乱の極みに達したのである。

いやいや、話が大きすぎる、と猫さんは思い直す。

自分はこの作文を小学校の終わりに書いたことを憶えていなかった。だが、蓮見の叔父と兎狩りに行ったことは憶えている。この作文に書かれているほど鮮明ではないにしても。

しかし、この作文を読んでしまった今、もう自分の思い出はこの作文が描写するひとつひとつの場面、風景、そこに登場する人物、物、道具の映像によってかき消されてしまった。

もうどれが自分の頭に刻まれた記憶なのか、この作文に保存された記憶なのかわからない……。

おい、待て。そこのところ、考え方がおかしいではないか。さっきまで脳内——の海馬と呼ばれる部分——に保たれていた記憶は、小学校のときにすでに刻まれた記憶が年齢とともに薄められ、ぼやかされたものなのではないか。それがその当時に書かれた作文によって鮮明によみがえってきたと考えるべきなのではないか。

文章は記憶ではない。備忘録ではあったとしても。

たしかに。

そうだ、そんな難しいことではないだろう。自分の記憶からは失われていたはずのこの作文が、母親によって保存され、それが妻に受け渡されていた、しかも、捨てろと命じたのに捨てなかった、ただそれだけのことではないのか。

庸子を恨むのはお門違いだ、と猫さんは思い直す。捨てるべきものなら、自分で捨てるべきだった。彼女は捨てるに忍びなかった、それだけのことだ。

だったら、それでいいじゃないか。

あらためて、自分の手で始末するがいい、目の前にある段ボール箱を、文集も何もかも詰めこんだまま。

すると自分の心のどこかから、苦しげな声が反論する。

よくもそんな、酷いことが言えるな。

人は二度死ねないし、二度記憶を捨てることもできない。

あの中学校最初の一年の暗い、喪のような時間がそう言っている。

何かわけがあって、それ以前の失われた記憶が——穴だらけの断片的な記憶が——よみがえろうとしているとしか思えなかった。

 

釣瓶落としの秋の夕暮れ。

あたりはすっかり暗くなっていた。

猫さんは、テラスに通じるガラスの引き戸にも、西側の窓にもカーテンを引いた。

空腹を覚えたので、冷蔵庫の中を開けてみた。めぼしいものといえば、トマトとレタスと卵しかなかった。週末に庸子さんと買いだめする習慣が失われて、冷蔵庫には空きが目立つようになった。冷凍庫を開けると、六枚切りの食パンが二枚残っていた。

大きめの皿を取り出し、レタスを洗ってから、一口大にちぎり、皿に敷きつめる。小さな鍋を火にかけ、トマトの皮に浅く十文字の切れ目を入れる。一かけのバターをレンジでほんのちょっとだけ温めてから、パンに塗り、溶けるチーズを上からパラパラと落とす。卵を二個ボールに割り入れて、よく攪拌する。塩胡椒を少々、牛乳もちょっぴり。沸いたお湯の中にトマトを入れ、皮がむけてきたらすぐに取り出して、冷水に浸し、皮をむき、八分割にしてからさらに乱切りにする——猫さんの包丁は切れる。オーブントースターにパンを二枚入れて、五分にセット。その間に大きめのフライパンにオリーブ油とバターを入れて、火を強くして薄く引き延ばし、細かい泡が見えてきたら、卵もトマトもいっしょに投入する。適度にかき混ぜながら、水分を飛ばす。オーブントースターがチンと鳴ったら、パンを取り出して中皿に重ね置く。フライパンのトマト入りのかき卵をどかっとレタスの上に載せる。安物のチリワインをグラスに注ぐ。

猫さんの、一人だけの晩餐である。バジルの葉っぱがあればよかったのに、と思いながら。

卵とトマトをスプーンですくって口に入れ、パンの角をかじり、赤ワインを一口流しこみ、帰ろうと思う。

自分の生まれ育った場所に、記憶の眠る場所に。

*81 惜しみなく奪え(esq.14)

今から半世紀近くにもなんなんとする年の夏休み、東京から帰省した学生の私は、今年の夏こそ、プルーストの『失われた時を求めて』全巻を読破しようと、図書館通いを続けた。

例年にない猛暑の夏だった。今ではしゃれたデザインの建物となって駅前に移った図書館も、当時は繁華街から少し外れた市役所の隣にあって、なんの愛想もないただの箱のような、古ぼけた鉄筋コンクリート二階建ての建物だった。もちろん空調システムなどあるわけがなく、扇風機すら付いていなかったように記憶している。

午後になると、自転車をこいで、この図書館に行き、ほとんど誰もいない二階の閲覧室で、プルーストのページを文字どおり黙々と繰った。

読点はところどころあるものの、句点はまばらにしか打たれていないページがえんえんと続く、著者自身の意図的な「悪文」を、しかも途方もない誤訳に満ちた翻訳で毎日読みつづける作業は苦行であり、拷問ですらあった。

フランス文学専攻の学生なのだから、プルーストくらい読んでおかないと恥ずかしいと思ったか、義務だと思ったか、理解できようとできまいと、とにかく読み進めた。

開け放たれた閲覧室の窓から、ときおり熱風が吹きこんできた。こめかみからも首筋からも汗が噴き出し、滴り落ちた。暑いのだからしかたがない。でも、本人は暑いと思わず、どうしてこんなに汗が出るのだろう、夏風邪でもひいたかと思っていた。それほど読書に集中していたというよりも、あまりの悪文、難文なので、少しでも意識がそれると読みつづけられないのだ。

毎日、二、三時間、一週間か二週間かかけて読み通した結果、この作品のページを開くことはもう二度とあるまいという断念なのか失望なのか怒りなのか、よくわからない印象だけが残った。そして、新潮社版の箱入り全巻セットは、親しい友人に進呈してしまった。

でも、こんな本、読まなきゃよかったとか、時間の浪費だったとか、そういうことは思わなかった。むしろ、これは失われた時を求めて、それを見出す物語ではなく、失われた時を追い求めて、ついに時間に食いつぶされる男の話ではないかと思い、その徒労にも似た著者の、語り手の「私」の情熱に感銘さえ覚えた。今かりに、フランス語の原書を頼りに、若い人の新訳を読み進めれば——あるいはその逆——、別の印象を持つかもしれない。でも、第一印象がかき消されるほどの感動がやってくるとも思えない。

私にとっての『失われた時を求めて』は、あの夏の暑さと、失われた旧図書館の思い出とともにある。

われらが「猫さん」も、失われた時を求める。だが、失われた時を見出して、そこで満足し、追跡の円環が閉じるわけではない(プルーストの作品がそうだという意味ではない)。

彼は「見出された時」を奪還しようとするのだ。芸術や文学の表現手段を介することなく、まさしく実力行使によって、直接、好きなもの、ほしいものを強奪しようとする。

作品のタイトルのことなど、まったく念頭になく書きはじめたスケッチ=エスキスだが、二、三週間前に、どういうわけだか、有島武郎の『惜しみなく愛は奪う』を思い出して、あらためてページを繰ってみた。

読み出してはみたが、読み通そうという気力は湧いてこなかった(有島先生、すいません)。本は持っているものの、たぶん若いときから、この手の思い詰めたような、やたらに生真面目で自意識過剰の文学が嫌いだったことを思い出した。

でも、タイトルはかっこいい。意味はよくわからないけれど、わからないのがいい。かっこよさのなかには、わからなさも含まれているのだろう。

言うまでもなく、有島武郎の場合、惜しみなく奪うのは愛であり、愛が主語である。

でも、猫さんの場合、違う。惜しみなく、愛を奪うのである。愛は目的語である。

記憶を取り戻したとき、彼の脳、彼の意識、彼の肉体のなかに嵐のようなものが吹き荒れ、いったん死んで、よみがえる。

そして、自分に命ずる、惜しみなく奪え、自分の人生を奪還せよ、と。

*9

猫さん自身は、小学校の卒業文集に「鉄砲撃ちの思い出」という題の作文を書いたことを憶えていなかった。蓮見の叔父さんに連れられて行った兎狩りそのものは憶えている。忘れられない思い出として、記憶にしっかり保存されている。しかし、そのことを作文に書いたことは忘れている。忘れているのか、消されているのか、そのへんのところが不分明なのである。

猫さんがこの文集の存在を知ったのは、奥さんが亡くなったあとのことだった。遺品のなかに猫さんの母親から彼女が譲り受けたものがいくつかあって、そのうちの一つが、猫さんの小学生時代の思い出の品が詰まった段ボール箱だった。通信簿だとか賞状だとか、あるいは作文、写生、習字のたぐい——本人にとっては「記憶の遺品」とでも呼ぶべきもの——が整理されて中に収められていた。

もっとも、こういう段ボールがあること自体は、猫さんの母親が亡くなったとき、遺品を整理していた奥さんから聞かされて知っていたのである。

——ねぇ、あなた。

猫さんの奥さん——庸子さん——は、自分の夫を呼ぶとき二とおりの呼称を使い分けていた。「いずみさん」と「あなた」。「いずみさん」と呼ぶときは、話題が比較的軽く、明るいときである。声も必然的に高くなり、語尾のイントネーションも上がり気味になる。「あなた」と呼ぶときは、どちらかと言えば大切な——ときには深刻な——用件を伝えるときである。声も低くなり、イントネーションも語尾がいくぶん下がる。

——ねぇ、ちょっと、こっちに来てくれる?

開けっぱなしになっている寝室の戸口からリビングのほうに顔を出した庸子さんにそう言われて、猫さんは軽く緊張した。中に入っていくと、庸子さんは小ぶりの段ボール箱を指さした。

——これ、知ってる?

見ると、黒のフェルトペンで「泉・小学校」と書いてある。

——いや、知らない。母親の持ち物については何も知らない。

——あなたの小学校時代の成績だとか文集だとか、ぎっしり入ってるのよ。

虚を衝かれて、猫さんの顔が強ばった。

——どうする?

——どうするって?

——見る?

——冗談じゃない。

——じゃ、どうするの?

——捨ててくれ。

猫さんは迷いなく答えた。それ以来、この段ボール箱ことが二人の話題に持ち出されることはなかった。猫さんは捨ててくれたものと思っていた。なんの未練もなかった。

ところが庸子さんは捨てていなかったのである。

亡き妻の遺品を整理していたとき、猫さんはこの段ボール箱をふたたび目にしたのである。

思い切り遠くに投げてどこか遠くに飛んでいってしまったはずのブーメランが、忘れたころに戻ってきて後頭部を直撃したような感じだった。

そのまま捨てようか、それとも開けてみようか。彼は迷った。

猫さんは迷うことが生理的に嫌いな人だった。気質的にそうだというよりは、小学校と中学校の時期のあいだにある深い亀裂——人はそれをトラウマと言ったりする——のなせるわざだろうというのが本人の自覚である。

あまりにも突然、生活と学校の環境が激変したために、猫さんは中学校の一年目を棒に振ってしまったのである。登校拒否などという言葉がまだ存在しない時代だった。

その暗い穴のような一年を乗り切るために、彼は別人になる必要があった。別人になるためには大切なものを捨てる必要があった。大切なものとは思い出であり、記憶であった。なぜならば、東京に移り住んだ彼の周囲には、生まれ育った土地の風景も親しかった人々の顔も声も存在しないのに、記憶だけは、むしろ鮮明に残っている。

もう存在しないのに、記憶だけは残っている。でも、記憶は映像でもないし、言葉でもない。匂いでもないし、触ることもできない。にもかかわらず、こんなに生々しいのはどうしたことなのか。

猫さんは十二歳にして、そうとは知らずに深い哲学的難問に直面していたのである。

それに加えて、いじめもあった。@いじめ{傍点}などという概念も当時は存在していなかった。転校生がいじめられるのは当たり前のことだった。発する言葉の訛りをからかわれた。何よりも、小学校時代の優等生が平均以下の生徒になってしまった。教師に当てられると答えられなかった。緊張のあまり失禁した。教室内でも、家でもほとんど失語症のような状態になった。どのように手を動かせばいいのか、足を動かせばいいのかさえわからなくなった。学校に行くことができずに、自分の部屋に引きこもった。

そして、彼は自分の幼年期の、もっとも幸福を感じたときの記憶を抹消しようと努力した。なぜなら、その記憶が残っているかぎり、自分は永遠に不幸のままだという結論に達したから。

猫さんの頭に迷いが生じると、そのときの不安、緊張がぶりかえしてくる。その気配を感じると、彼は目をつぶって一歩踏み出す。経験の分析から何かを引き出すのではなく、瞬時の本能的判断を信じるようになったのである。とまどうこと、躊躇することは、彼にとって死を意味した。

結局、彼は段ボールを開けてみることにした。そして、「光が丘小学校卒業文集」に出会ったのである。