*25 『幸福はどこにある』再版に際して

 

翻訳業に手を染めるようになってから30年ほどの時間がたってしまいましたが、再版の声がかかる機会はそう多くありません。フランス文学にかぎっていえば、名著、名作の誉れは高いのに絶版になったままの翻訳書は星の数ほどあります。

そういう逆風(?)のなかで、今回この作品が再版されることになったのは快挙であります。この快挙を仕掛けたのは、ほかならぬ伽鹿舎を主宰する加地葉さんです。

そもそも熊本の地に、九州限定配本を旨とする伽鹿舎という出版社を立ち上げ、「片隅」という文芸誌の発刊にこぎつけたこと自体が、奇跡とまでは言わないものの、やはり快挙と申し上げるべきでしょう。

地方創成、地方の自立が叫ばれる昨今ですが、これが中央からの声に呼応しているだけなら、なんの意味もないどころか、本意に悖ることにもなります。もとより政治のムーブメントなど儚いものです。一介の翻訳者であるわたしに、もし誇りうるところがあるとすれば、信頼すべきものは個人の力であると頑なに信じ、どこにも属さず、ひとりで翻訳と向かい合ってきたところだけです。

その点、加地葉さんはさすが火の国の女、その突進力たるや、まさに天晴れ。ひとりで前に突き進もうとする若い女性がどんどん登場してくれば日本の未来は明るい!

こういう生きのいい出版社から刊行される最初の単行本として、拙訳書が選ばれたことは、翻訳者冥利につきます。

わたしはかねてから、書籍は編集者の作品であると思ってきました。書き手の作品は原稿用紙まで、せいぜい初校のゲラまで、あとは編集者におまかせする。だから、タイトルにも装幀にも口を出したことはありません。そして本はみごとなできばえとなりました。田中千智さんの作品を掲げた表紙も、本文のレイアウトもすばらしい。

今回、著者のフランソワ・ルロールさんは、再版への序文を寄せてくださいました。これもまた加地葉さんが仕掛けた「快挙」のひとつです。この序文を読めば、著者が本書にこめた思いがよくわかるでしょう。

幸福とは何か? それはフランス文学の主題そのものです。むしろ人生の主題そのものと言ったほうがいいかもしれない。モンテーニュ、デカルト、パスカル、スタンダール、ミシュレ、バシュラール、アラン、カミュ、メルロ=ポンティ、わたしの愛読してきた作家たちは例外なく、そして晩年になればなるほど、この「幸福」という謎に直面し、実人生と書くことの双方でそれを追い求めた人たちでした。翻訳家としてのわたしのライフワークとなったパスカル・キニャールもそうです。フランソワ・ルロールがこの系譜に連なる作家であることはまちがいありません。ただし、こんなに平易なフランス語で書いた人はいません。そして、平易なフランス語ほど翻訳はむずかしい。なぜなら、原文から立ちのぼる幸福の気配をとらえなければならないからです。

フランス語にはBon vivant(ボン・ヴィヴァン)という言葉があります。辞書を引けば、楽天家、享楽主義者、美食家などという訳語が並んでいます。でも、どれも少しずれている。要は人生を愛する人、人生を楽しむ人ということなのですが、みなさん、もうおわかりでしょう、これがじつにむずかしい。あとは本書をお読みください。

最後に北の果てなる凍土の国から火の国のみなさんへエールを送ります。

2015年師走

 

*熊本に本拠を置く出版社「伽鹿舎」から拙訳書が再刊されるにあたって、熊本市のカフェ「Cafe ファンタイム」で20115年12月27日に催される発売記念会に寄せて書いた挨拶文。

*24 ライオン

ライオンの夢を見たのである。
 筋のようなものは何もない。ただふつうに寝ていたら、ソファの上にライオンが寝ていたのである。
 私はいつも床に布団を敷いて寝ている。ベッドのかわりに小ぶりのソファが置いてあって、そこはいつも猫に占領されている。
 その猫がライオンになっていたのである。ライオンであるから、途方もなくでかい。ミニチュアのライオンでも、仔ライオンでもなく、あの百獣の王、鬣ふさふさの立派な雄ライオンがソファの上で寝ていたのである。
 こんなふうに書くと、首を傾げる人もいるだろう。あんなに大きな動物がソファに収まるはずないではないか? へたをすると寝室をふさいでしまうのでは、と。
 たしかに。しかし、巨大だった。巨大なまま、小さめのソファの上に居すわっていた。
 もちろん、どう考えたって遠近法が狂っているのだ。夢だから仕方がないじゃないか・・・・・・。それでは身も蓋もない。この拙文はここで終わってしまう。
 そもそもどうしてこんな夢を見てしまったのか?
 どこの猫もそうだろうが、夏であれば家のなかでいちばん涼しいところ、冬であればいちばん暖かいところに居すわって動こうとしないことがある。よくもそんなに寝ていられるものだと思うほど、ぐっすりひたすら、ときには半日ほどもずっと寝ていることさえある。こんなに安らかに眠られると、起こすのが忍びなくなる。そんなふうに遠慮しているうちに、主人の寝室のソファが飼い猫のベッドと化してしまったのだ。主人のほうが遠慮して端のほうにちょこんと腰かけ、テレビを見ている。猫を追い出し、堂々と足を投げ出して横になればいいじゃないかと不思議がる人は、猫を飼ったことのない人である。
 そういう遠慮が積もり積もって膨れあがり、ライオンになった、と考えてみたらどうだろう。つまり遠慮の塊がライオンの姿になったと考えるのである。少なくとも猫派の人なら賛同していただけるのではないだろうか。
 では次に遠近法の狂いについてはどうか? 夢のなかでは、なぜソファの上で横になっているライオンが原寸大に見えたのか? ここで重大な(?)問題が生じる。なぜならば、私は今現在、夢を見ているのではなく、一ヵ月ほど前に見た夢を思い出しているからである。こんなこと書いたって文章にならんのじゃないかと思って放置していたのだが、じつは内心ずっと気になっていたのだろう。ブログのアドレスを新しくした(keitakahashi-tr.com)記念に(?)何か書こうと気張ったところ、ライオンの夢を思い出したのである。
 さて、この夢の記憶は正しいか? そもそも記憶に正しいとか、正しくないとか、そういうことがありうるだろうか。たしかに記憶違いというのはある。林檎を五個もらったのに、三個だと記憶しているような場合。しかし、夢は自分の心のなか、あるいは頭のなか、あるいは意識のなかで視覚のかたちをとって体験する事柄である。その夢自体——人生と同じく、見るそばから消えていくのだから——検証不可能である以上、その記憶もまた検証不可能であると言わざるをえない。検証とは第三者を介在させることである。夢のなかにも、記憶のなかにも第三者は存在しない。
 とまあ、この問題を追及していくと、まるで観念論哲学の論証みたいになって延々と終わらない。
 でまあ、現象学の判断停止ではないけれど、とりあえずこの問題は棚上げにして(括弧でくくって)、ここでは一ヵ月前に見た夢が記憶のなかで正しく保存されていると仮定して、話を進めよう。
 まずは見た夢をできるだけ正確に再現してみる。それほど難しいことではない。こんなに単純な夢はないと言えるほど単純なのだから。
 私は床に布団を敷いて寝ていた。ふと目が覚めて、布団に平行しているソファを見上げると、なんとライオンの巨大な顔がそこにあるではないか。猫と同じく前足の上に下顎を乗せて寝ているのである。うわー、やばい、こんなものを起こしてしまったら、ひとたまりもない。さっさと目を覚まして、夢から逃げ出さないと食われて死んでしまうぞ! というわけで本当に目が覚めたのである。もちろん、目が覚めればライオンなどいない。わが家の猫が、常夜灯の薄暗い明かりのなか、同じポーズですやすや寝ているだけである。
 自分の寝室にライオンが出現することなどありえないから、夢を見ながら夢を見ていることを私は知っていた。よくあることだ。還暦を過ぎるまで生きてくれば、悪夢に襲われ、そこから逃れられずに足掻くなどということはまずない。悪夢は今でも見るけれど、怖くなったら目が覚める。目を覚ませと、自分で号令をかける。
 夢のなかのライオンが実物大として記憶されているのは、おそらく、夢のなかで見上げたライオンの顔があまりに巨大で、あまりにリアルで恐ろしかったからなのだろう。
 猫に対する遠慮の塊がライオンに変身した、という理屈づけは、それなりに説得力というか、面白みはあるが、本当はそれよりもっと切迫した何かがあって、それがライオンの姿になったのかもしれない。
 たとえば、先月の半ば、私が翻訳した『エディに別れを告げて』の作者エドゥアール・ルイが来日し、対談やらトークショーの司会をやらされるはめになった。こんなことはぶっつけ本番でできることではない。作家本人や対談相手に何度もメールを書いて、段取りする必要があった。慣れないことをやるストレスやらプレッシャーは、慣れていないゆえにどう対処していいかわからない。その大きなストレスがライオンの形になった、とか。
 ま、それにも一理あるだろう。
 でも、ひょっとして、わが家の猫がソファでライオンになった夢を見て、その脳波が私のレム睡眠の脳波と混線したと考えたらどうだろう。
 荒唐無稽か? でも、人の心のなかには荒唐無稽を愛する部分があって、そこではもったいぶった理路は排斥されてしまうのだ。
 そう、『荘子』に出てくる胡蝶の夢、これを思い出すと、いつもうっとりしてしまう。
 むかし、荘周、夢に胡蝶となる。楽しく飛び回る蝶となり、自分が荘周であるとは思わなかった。しかし、ふと目が覚めれば、まぎれもなく荘周その人がいるだけである。いったい荘周が蝶になった夢を見たのだろうか、それとも蝶が今、荘周になった夢を見ているのだろうか。

*23 鳴かない猫

どこのうちの猫も、飼い主が声をかければ返事をするのだろうか。ミャーとかニャーとか。そんなことを疑問に思うのは、たぶんうちの猫が、最初のうちは鳴かなかったからだろうと思う。

うちの猫は捨て猫だった。近所に篤志家の女性がいて––今時、篤志家などという言葉を使う人はいないかもしれないが、ボランティアという言葉が嫌いなのである––、捨てられた子猫を拾ってきては、その子が元気になるまで、あるいは病気が治るまで自分の家で育てたのち、里親を探すというまことに奇特なことを続けていた(過去形で書くのは、その頃は東京に住んでいたから)。

死んだ女房がその篤志家と親しかったので、子猫をもらうことになった。二匹の子猫が小さな段ボールの中に入っていた。兄弟で捨てられたのだという。二匹まとめて引き取るか、兄か弟、どちらかを選ぶか、選択を迫られた。妻にしろ私にしろ、それまで猫を飼ったことがなかったので、いっぺんに二匹を飼うのは少し負担だった。では、兄と弟、どちらを選ぶか。兄は活発で、健康そうだった。弟のほうは痩せていて、元気がなかった。兄はパンダのような白黒模様で、弟は背中が部分的に縞になっている。兄は活発だが、面構えといい、斑の模様といい、どうもガサツな感じがする。弟のほうはやせ細って神経質そうだが、顔立ちが引き締まっていて、気品があった。洋猫(シャム系)との混血らしい。

そっちのほうをもらってきた。いかにも華奢で弱々しいので、妻がせっせと面倒をみた。その甲斐あってか、見る見る元気になっていった。

数日して(あるいは一か月ほど経っていたかもしれない)、妻が「この子、声が出ないんじゃないかしら?」と言い出した。

確かに。家族の誰もが、猫の鳴き声を聞いたことがなかった。で、近くの動物病院へ行って、きいてみた。「鳴けない猫っていますか?」

鳴き声を出すのが遅い猫はいるという。うちの猫の場合は、生後間もなく捨てられたせいで、母親に乳をねだる機会がなかったのではないかと獣医師は推測した。なるほど。

それなりに納得したものの、では、いつ鳴くか、それが家族の気がかりになった。
しかし、いつ鳴いたのか、正確には思い出せない。最初の鳴き声を確認した「第一発見者」が誰だったのかも、今となっては不明である。

当時行き付けの動物病院から渡された「健康手帳」––まだ手元に残っている––には、「H15.7.4 1.3kg ワクチン」と記されている。これが最初の検診だろう。そう、今から12年前の夏、やせっぽちの子猫はわが家に引き取られ、シマと名付けられた。それから1年後の秋、妻は他界した。

鳴かなかった子猫は、今ではよく鳴く。時には自分の生命力を誇示するかのように、あるいは遠くにいる誰かを呼んでいるかのように、家じゅうに響き渡る朗々とした声で鳴くこともある。

さっき、ベランダに続くガラス戸を開けてやったら、ひとしきり黄色い落ち葉と戯れてから室内に戻り、ごろりと床に横たわった。いかにも満足そうだったので、「そうか、気持ちよかったか?」と声をかけたら、

ニャー、と答えた。

*22 川田絢音詩集

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(青土社1986年初版)

この人の詩集が思潮社の〈現代詩文庫〉に入ったことはけっこう前から知っていた(と思う)。

気になる詩人のひとりで、少なくとも『朝のカフェ』という詩集は新刊で買った。奥付には1986年発行(青土社)とある。

80年代の終わりころまでは、よく詩集を買っていた。目立つところでは『ウンガレッティ全詩集』(河島英昭訳、筑摩書房、1988年)、『カヴァフィス全詩集』(中井久夫訳、みすず書房、1988年)、二つとも本棚の特権的なところで眠っている。

人と待ち合わせるのに、神田神保町の東京堂で時間を潰していたら、〈現代詩文庫〉版の川田絢音詩集が目に飛び込んできて、迷わず買った。

こういう気分になるときとならないときがある。こういう気分になるときは、たぶん何かがよい方に向かっているときだと勝手に思っている。

この十年は、あまりに人が死にすぎた。

詩集は忌むべきもののひとつだった。

川田絢音の詩集を読んでいて、不思議に思うことがでてきた。

私はなぜ、この詩人がイタリアに住んでいることを知っているのか?

私が所有している唯一の詩集『朝のカフェ』には、そんな情報はいっさい記されていない。

詩集は忌むべきもの、とはいえ、本屋に行っても詩集の棚には近づかなかったというわけではないから、今は机の上に置いてある思潮社〈現代詩文庫〉の『川田絢音詩集』(1994年初刷)をどこかの本屋で立ち読みしてそれを知り、買わずに棚に戻したのだろうか?

いや、そのずっと前から、そのことを知っていたような気がする。
『朝のカフェ』をどうして買う気になったのか? 彼女がイタリアに住んでいることを知ったから? でも、この詩集にはそれを証拠立てる記述はない。詩のなかにイタリアの地名くらいは出てくるが、そんなもの、作者がそこに住んでいる証拠にはならない。

それは、ま、いいか。

ウンガレッティ、カヴァフィス、川田絢音には共通していることがある。南欧の光と影。

そして、今になってはたと気づかされるのだ。これらの詩人の詩のなかに、きっと自分はアルジェで初めて体験した地中海の光と影を無意識のうちに(便利な言葉だ)追い求めていたのだろうと。僕が二度目のアルジェリア滞在から帰ってきたのは、1984年のことだから。

東京堂で川田絢音の詩集を買ったのは——確定申告のために取ってあるレシートによれば——(2010年)6月7日の14:09pm。そして、青山ブックセンターで須賀敦子の『イタリアの詩人たち』を買ったのは、同日18:34pm(お、なんだか松本清張みたいになってきたぞ)。東京堂で時間を潰している時点では、その日のうちに青山ブックセンターにまで足を伸ばすつもりはなかったのだ。

久しぶりに川田絢音の詩を読んで、唖然としている。

須賀敦子の紡ぎ出す、20世紀イタリア詩の世界となんと共通していることか。

当たり前だと人は言うか?

イタリアに住んでいるからといって、イタリア人みたいな詩が書けると言うのか?

須賀敦子は言う。

 

おおよそ死ほど、イタリアの芸術で重要な位置を占めるテーマは他にないだろう。この土地において、死は、単なる観念的な生の終点でもなければ、痩せ細った生の衰弱などではさらにない。生の歓喜に満ち溢れれば溢れるほど、イタリア人は、自分たちの足につけられた重い枷——死——を深く意識する。(『イタリアの詩人たち』)

川田絢音はこう記す。

 

青い空が素速いので

鏡ににじむ生あたたかい血を舐めなければならない。(詩集『空の時間』)

 

だが、これはあくまでもイタリアへ旅立つ前の詩の断片だ。

イタリアへ行くとどうなるか?

 

隣に住む老人の咳がきこえる
 男は眠っていて
 外を 重いトラックが何台も通る
 夜明け前に
 男が工場へ行く
 オートバイの音が消えて
 わたしは街の方へ歩いていく
 ピサ通りは くらい
 じぶんのような塊りがころがっているのではないか
 と 振りかえる。(「ピサ通り」(詩集『ピサ通り』1976年)

 

観念的な青空は姿を消す。だが、しっかりとした距離感のある——地に足をつけた——夜の街が息づいている。これはもうパヴェーゼだ。カミュの『異邦人』のにおいだってする。

ウンベルト・サバの一節を引いてみようか。

 

一日で、いちばんいいのは

宵の時間じゃないか? いいのに

それほどは愛されてない時間。聖なる

休息の、ほんの少し前に来る時間だ。

仕事はまだ熱気にあふれ、

通りには人の波がうなっている。

四角い家並みのうえには、

うっすらと月が、穏やかな

空に、やっと見えるか、見えないか。(「われわれの時間」——『ウンベルト・サバ詩集』須賀敦子訳、みすず書房、 1998年)

 

連想を急ぎすぎているかもしれない。

でも、たしかなことは、川田絢音がイタリアに旅立ったのは1969年のこと、須賀敦子がイタリアから日本に帰ってきたのは、1971年だということ。

この二人の詩人——須賀敦子を詩人と呼んでなんの不都合があるか——はなんという時代の裂け目にすれ違っていることだろう。

川田絢音はいまもイタリアに住んでいるのだろうか。彼女は1940年生まれ(旧満州のチチハル)だから、もう70歳を迎えるか、なっているかだ。でも、『朝のカフェ』の帯の小さな写真でも、現代詩文庫の裏表紙の写真でも、彼女は永遠に少女のままだ。

作家にとって、作品のなかで成熟したり老いたりするということはどういうことなのか、ふと考えてみたりした。

(2010年6月14日に公開した文章に少し手を入れた)

*20 診察室

どうですか、調子は?

ええ、まぁ・・・・・・。

まぁ、というのは、芳しくない・・・・・・?

いや、まぁ、その、芳しくないというほどのことでもないんですが・・・・・・。

ま、しかし、本調子ではない、と?

ま、そういうことになりますかね。

具体的には?

そうすね、なんというか、睡眠がどうも・・・・・・。

よく眠れない?

ええ、ま、一言でいえば・・・・・・。

寝付きが悪い?

いや、寝付きはいいんですよ。

早く目が覚めてしまう?

朝早くならいいんですけどね、4時でも5時でも。

眠りが浅い?

そういうことになりますかね・・・・・・。

必ずしもそういうわけじゃない、と。

布団に入ったとたん、眠りに落ちるんですよ。たぶん、かなり深く。

布団に入るのは何時頃です?

だいたい12時頃ですかね。朝気持ちよく起きたいと思って・・・・・・。

ところが途中で目が覚めてしまう。

そう、そうなんです。

何時頃ですか?

1時とか、2時とか。

それはまた。

そうなんですよ。ぱっと寝付くんだけども、ぱっと目が覚める。時計を見ると1時だったり、2時だったり。これってけっこう絶望的なんですよ。寝付きはいいのに1時間や2時間で目が覚めてしまうのなら、なんのために12時に床に入るようにしているのか。

そのあとはどうですか?

簡単には眠れません。なにしろ電灯のスイッチを入れたみたいに、ぱっちり目が覚めてしまうんですから。真夜中に、頭が白々と冴えてくるのはなんとも不気味というか、気持ち悪いというか。こんなに早くから仕事を始めるわけにはいかないし。

で、どうするんですか?

不眠と根比べです。布団に入ったまままんじりともしないで、天井を見ている。するとね、あ〜あ、おれの人生はろくでもない人生だったなぁとか思えてきて、そのうち腹が立ってきて、いっそのこと・・・・・・。

そりゃまずいですね。

そう、まずいです。絶望的です。

で、そのまま朝を迎えるわけですか?

いや、さすがに4時、5時になるとうとうとしてきて。といっても、どんどん日の出が早くなっているから、朝日が差しこんでくる。で、のそのそ起き出す。

眠剤を出しましょうかね。

でも、あれは癖になるんでしょう?

ええ、たしかに。上手に服用しないと依存性がある。

そういうのは嫌だな。そもそも薬はあんまり飲みたくない。血圧の薬だって、ほんとは飲みたくない。

でも、まだいいほうですよ。心臓病に、糖尿病、病気のデパートみたいな人だっていますから。

そういうのは遺伝ですか。

そういう場合もあるし、本人の不摂生ということもある。

依存性のあまりない眠剤というはないんですか?

いや、あるんですよ。正確には眠剤ではなく、抗鬱剤の部類に入りますが。

え、抗鬱剤?

ええ。

そんなもの飲んで眠れるんですか? かえって興奮して眠れなくなるんじゃないですか?

僕はそっちのほうの専門ではないんですが、心療内科みたいな分野には精神科の知識というか経験も必要になるもんだから、定期的に交換学習会みたいなものをやってるんですよ。

ほう。で?

まぁ、有り体にというか、わかりやすく言うと、薬の力を借りて、くよくよしないようにするわけです。すると寝付きがよくなる。

でも、わたしの場合、寝付きはいいんですよ。

不眠にもいろんなタイプがありますからね。途中覚醒で悩んでいるひともけっこういる。

わたしもその部類ですか?

そういうことになりますね。

で、その抗鬱剤には依存性はない?

ええ、基本的には。

ということは依存してしまう人もいる?

何ごとにつけ、依存性の強いタイプの人もいますから。

なるほど。おれはどっちのタイプなのかな・・・・・・。

ま、そんなに心配することはないですよ。依存性がないというのは、薬の化学的成分からして、ということですから。服用者の性格の問題じゃないんですよ。

う〜ん、なるほど。

ま、ためしに飲んでみたらいいじゃないですか。効かないようならまた別の方法考えればいいわけだから。

いや、効き過ぎるとどうなんだろう、と。

基本的に依存性はないわけだから、眠りのリズムが戻ってきたと思ったらやめればいいんですよ。

ああ、なるほどね。

ためしに1錠出しておきましょうか。

ええ、はい。

ただ、1錠だとあんまり効かないことが多いんですけどね。すると服用する期間が長くなる。

そういうのはいやだな。2錠にしようかな。

では、そうしましょう。寝る直前に飲んで下さい。ときに寝酒は飲みますか?

ほぼ、毎日。

あ、できればそれやめてください。薬といっしょにアルコールを摂取すると効果が出ませんから。

え〜え、酒飲めなくなるのか。

適度な晩酌はいいですよ。寝酒はやめてと言ってるんです。

なんか絶望的だなぁ。

真夜中の絶望とどっちがいいですか?

*19 高倉健

夢はどこから始まっているのかよくわからない。終わりもはっきりしないが、たいていは目が覚めたときだろう。

とにかく、高倉健が夢のなかに侵入してきたのである。気がつくと高倉健が目の前にいた。もちろん同姓同名の知人なんかではない。今年他界した映画俳優の高倉健、その人が夢に登場してきたのである。寒いところがよく似合う俳優と言われた人だから、その縁かもしれないが、夢には北海道らしい風景などどこにも見当たらず、場面はひたすら室内で終始する。四畳半か六畳くらいの狭い、板張りの部屋である。窓もない。

筋らしい筋もない。物語の片鱗もない。ひたすら健さんがしゃべっているのである。あの無口な健さんが、である。奇妙なことに子供がひとりいる。小学校の低学年ほどの子。私とその子は座卓の向こう側にいる健さんの話を黙って聞いている。話の内容は、まったくもって取り留めがない。だからここに書き留めることもできない。

健さん、じつは酔っぱらっているのである。あの飲めない健さんが、コーヒーしか飲まない健さんが、である。聞こし召している。だから呂律がよく回らない。気の毒である。断っておくが私が彼を夢に呼んだわけではないし、無理やり酒を飲ませたわけでもない。

で、よせばいいのに「今日はずいぶん調子がいいんですね」とか口をはさんでしまった。

すると健さん、はたとわれに返ったのか、すねたようにして、部屋の隅の別のテーブルに移ってしまった。

私は小声で子供に耳打ちする。「健さんって、ほんとはああいう人なんだね。映画やテレビで見るときとはぜんぜん違うね」

子供はうなずく。健さん、落ち着かなさそうである。もじもじしている。するといたたまれなくなったのか、また、こちらのテーブルに寄ってきて、しきりにしゃべりかけてくる。

今度はもっと呂律が回らない。何を言っているのかまったくわからない。よく見ると、どこで食べたのか饅頭のような餃子のようなものが口いっぱいに詰まっている。これじゃまともに声を出せるわけがない。

「健さん、口にものを入れたまましゃべるもんじゃないですよ」と私が言うと、健さん、気色ばんで言い返す。

「おまえ、どうしてそんな堅苦しいことを言うんだ」

夢はそのあたりで切れた。場面はなおも続くようであったが、覚めてしまった夢の続きを見るわけにはいかない(そういうことができると豪語する人もいるけれど)。

釈然としない。何もかも。どうしてこんな夢を見てしまったのか。どうして高倉健なのか。どうして子供がいるのか。どうして窓のない部屋なのか。夢だから仕方ないだろうと言われれば、それまでだが。

夢を合理的に判断することには嘘くささがつきまとう。フロイトの『夢判断』は何度手に取っても読み通すことができなかった。

夢は一回性のものである(繰り返しのパターンはあるかもしれないが)。人生と同じように。

私たちは生まれた場所と生まれた時間、時代を選べるわけではない。人との出会いも選べるわけではない。雨のような偶然がひらすら降りつづいている。

偶然というのも人の言葉である。必然というのも人の言葉である。

高倉健が死んで、テレビでは彼の仕事や人柄を偲ぶ回想番組がしばらく続いた。そのなかで印象に残った場面がある。小学生が高倉健に質問するのである。

「どうしたら健さんみたいにカッコよくなれるんですか?」

すると高倉健は二、三秒真顔で考え、言葉をひとつひとつ選ぶようにしてこう答えた。

「きみはこれからたくさんの人に出会う。人との出会いを大切にしなさい。人との出会いがきみをつくってくれるのだから」

これほどのインテリジェンスにはめったにお目にかかれない。インテリと称する人種にはほとんど皆無である。

*18 贈与

なにか異様なものが喉につかえていて、ほとんど苦しい感じになっている。

机の端にはM・モースの『贈与論』とB・マリノフスキの『西太平洋の遠洋航海者』が置いてある。

思い出すのは妻の葬儀にまつわることである。葬儀は自宅で、と言い残して妻はこの世を去った。しかし、自宅といっても集合住宅である。いくら限られた親戚知人だけの小さな葬儀といってもかなり無理がある。棺の出し入れさえ難儀した。

九月はじめのその日、天気は大荒れだった。雷雲から稲光が落ち、神鳴りが轟いた。棺を持つ人はずぶ濡れになった。

葬式など、出したくなかった。誰も家に呼びたくなかった。しばらくひとりでいたかった。先に逝った女房と向き合っていたかった。しかし、遺体を腐らせるわけにはいかない。考え得るかぎり小さな葬儀を出すことにした。それが妻の願いでもあったから。

それでもなすべきことはたくさんあった。まずは葬儀屋に電話した。営業がやってきた。高い。葬式ってこんなに金がかかるものなのか。あきれ果てて、別の葬儀屋を呼んだ。まあまあ妥当な見積もりだったので、そこに頼むことにした。

葬儀の段取りから、その後の法要のすべてを通じて動いていたのは金だった。通帳の預金残高を確認し、香典の総額を計算し、香典返しを何にするか娘と相談し・・・・・・。

そもそも、香典とは何のためにあるのか。悲しみに沈み、喪に服する者への慰めのためなら、なぜそれにお返しなど存在するのか。いつから始まった習慣なのか。儒教的なもの? それならば西欧にはない習慣なのか?

そもそも、なぜ自分はしたくもないことをしているのか。そう、問いつめていくとき、わたしは「社会」という大きな岩盤に突き当たっているのを感じる。

人はなぜしたくもない「戦争」をするのか? 先の戦争で、軍人も政治家も知識人も市民も庶民も含めて、「戦争」がしたくて賛成し、関与した人ははたしていたか。あれだけの軍備を持っていれば、軍人はむずむずしていただろう、「戦争」をしたくてしたくてたまらなかっただろう、とは想像できる。しかし、大義名分はそうはならない。「戦争」をしたいからする、では通らない。日本にはない資源を大陸に求めることは死活問題である。アジアを列強の歯牙から解放しなければならない。日本がアジアの盟主になることが世界の恒久平和を開く道である。八紘一宇。大東亜共栄圏。

したくもない葬式をあげることと、したくもない「戦争」をすることには通じるものがある。頭のなかで短絡させてみると火花が散る。

どちらも大きな金がいっぺんに動く。個人の資金と国家の資金のレベルの差こそあれ。

人がいちばんしたくないことは、命を失うことである。しかし、「戦争」では自分より大きなものに人は自分の命を捧げる。「自分より大きなもの」を神と呼ぶか、国家と呼ぶかはともかく、これは割の合う「交換」であるか? 民俗学者あるいは文化人類学者、経済学者や社会学者たちは「互酬」という言葉を使う。互酬のなかの一部として「等価交換」もあるという説明をする。

ここに「犠牲」という言葉を持ってきほうが、たぶん、わかりやすくなる。社会は個々人の奉仕、犠牲のうえに成り立っている。そこに「相互的報酬」があると社会学者は説明するだろう。

しかし、そもそも、社会とは理不尽なもの、なのではないか? 人間を是として考え、その人間が共同で営む社会を是と考える。いわゆる性善説と呼ばれるもの。しかし、人間の欲望を野放しにすると地球が危ないと人間みずから考えざるをえなくなった、この「現代」という時代にあって、そんな単純な「性善説」に与することのできる人がいたらお目にかかりたい。しかし、それと同じ程度に単純な「性悪説」によっては出口が見つからないことも、現代人は痛いほどよく知っている。

結論は出ない。しかし、考えることこそもっとも大切なことであると、わたしは考える。少なくとも、進歩だの進化だのをたやすく信じ、自惚れないために。長くなるが引用する。

 

ある首長の個人的な威信やその首長のクラン〔氏族〕の威信が、消費することに、そして自分が受け取った贈り物以上の物をきちんとお返しすることに、これほど結びついているところはほかにない。自分が受け取った以上の物をお返しすることによって、自分に返礼の義務を負わせた当の相手が、今度は逆に自分に対する返礼の義務を負うようになる。ここにあっては、消費と破壊は本当に際限がない。ある種のポトラッチ〔北米大陸北西部先住民の使うチヌーク語で「贈り物」を意味する〕の場合には、人はみずからがもてる物をすべて消費しなければならず、何も残しておいてはいけない。みんなが競い合ってもっとも富裕になろうとし、同時にまたもっとも激烈な消費家であろうとするのだ。すべての根底にあるのは敵対と競合の原理である。個人が儀礼結社やクランのなかで占める政治的な地位や、あらゆる類の位階は「財の戦争」によって獲得される。それは、地位や位階が実際の戦争や偶然や相続や姻戚関係・婚姻関係によって獲得されるのと同じことである。だが、あたかもそれが「富の合戦」であるかのように、すべてのことが構想されているのだ。子供たちの結婚相手にせよ、儀礼結社による席次にせよ、ポトラッチを取り交わし、ポトラッチでお返しをする、そうしたポトラッチのさなかで獲得されるのである。そしてまたそれらは、ポトラッチにおいて失われもする。それは、それらが実際の戦争や賭け事やレース競技や格闘競技において失われるのと同じである。いくつかの場合においては、与えること、お返しすることはもはやどうでもよく、破壊することが大事となる。お返しがもらえるのを期待していると思われたくないがために、である。ユーラカン(ロウソクウオ)の脂肪やクジラの脂肪を入れた箱を丸ごと全部燃やしたり、家屋を燃やしたり、何千枚にも登る毛布を燃やしたりするのである。一番大切にしている銅製品を破壊し、水に投げ捨てるのであるが、それも自分の競合相手を打ち負かし、競合相手を「ぺしゃんこにする」ためなのだ。(『贈与論』マルセル・モース著、森山工訳)

*17 UFOについて

2月の初めに叔父が亡くなった。

母と同年齢で享年86歳。めまいがするというので、世話をしていた娘——つまり、わが従妹——が念のために入院させたところ、食事をうまく嚥下できずに咳き込み、それが原因で亡くなったという。死因は肺炎ということになるが、病の苦しみはなかったらしいから、一昔前なら老衰で済んだだろう。わたしの父のきょうだいは7人いて、父は上から3番目の長男、そのすぐ下の妹が叔父のもとに嫁いだわけだが、すでに数年前に病を得て他界している。

身内だけの小さな通夜の席にいたのは、故人の実弟、長女と次女、その従兄弟(わたしを含めて3人)だけ。4つ年上の従兄はわが親族の菩提寺の住職なのだが、体調が思わしくなく、実質的に住職を務めている息子が読経した。

通夜振る舞いの寿司を食べたあと、従兄弟同士で飲みに出た。思い出話に花を咲かせるためには、年上の従兄が欠かせないのだが、その代わりに読経をつとめた息子が酒席にも同行することになった。自分がまだ生まれていないころの昔話はためになるという。殊勝なことだ。

この叔父叔母に、わたしたち従兄弟はとても可愛がってもらった。家に男の子がいなかったせいもあるだろう。昭和30年代の北海道、十勝は、市内ですら未舗装の道路がほとんどだった。そんな時代に、この叔父は自家用車(ライトバン)とオートバイを所有し、ライフルで狩りをし、豪快に海釣りを楽しんだりしていた。つまり、男子の憧れるものすべてを持っている人だった。

わたしたちが幼かったころ、叔父の一家は十勝平野の奥まったところにある集落に住んでいた。人口は数百といったところではなかったか。この集落の名は糠内(ぬかない)、もちろんアイヌ名に無理やり漢字を当てた地名だ。ここで従兄は空気銃を撃ったり、バイクを乗り回して遊んでいた。彼が撃ち落とした山鳥の剥製が今もわが家に飾ってある(お寺に動物の剥製を置くのはさすがにまずかったのだろう)。

わたしが泳ぎを覚えたのは、叔父の家の裏手を流れる浅い川だった。流れの淀んだところがあって、夏に裸になって水遊びをしているうちに自然に泳げるようになったのだ。石灰岩が剥き出しになっているからか、住民はそのあたりの岸辺を「磨き粉」と呼んでいた。畑を荒らす害獣である野兎を「駆除」すると称する「鉄砲撃ち」に連れて行ってもらったこともあった。ずっしりとした錘ついた釣り糸を遠くまで投げ込むと、浜にどっかりと座りこんで あたり を待つ叔父の傍らで戯れているうちに波に攫われそうになったこともあった。

そんなことを思いつくままに話しているうちに夜も更け、酔いも回ってきた。幼いころの思い出話を肴に酒を飲んでいれば、誰もが自然に少年時代に回帰していく。

同い年で学年はひとつ上の従兄がUFOの話をしだした。ああ、また始まったと思った。この人は酔うと必ずUFOだとか、魂の不滅だとか、そういう話をするのだ。多感な少年時代には、彼と会えば夢中になってそういう話題に興じたものだ。

だが、哲学だの思想だのに深入りしていくうちに、そういう主題からどんどん興味が失せていった。星空に向けられた人類の自意識の投影。それで打ち止めになってしまった。

おもしろいことに、われわれよりもはるかに若い——といっても40代にはなっているのだが——菩提寺の住職は徹底的な現実主義者なのだった。肉体は死んでも魂は生き残る、必ず生まれ変わるのだと主張する従兄に対して、「その生まれ変わった自分とはいつの時点での自分なのですか?」と鋭く反論すると、従兄はややうろたえつつ「死んだ時点での自分かなぁ」と答える。

「それじゃつまらないな。よぼよぼの爺さんがそのまま生まれ変わったって、何にもできないもの」

同感したついでに、わたしも口をはさむ。

「ところでUFOがはるか遠くの惑星からやってきた高度な知的生命体のものだとして、なんの目的があって地球にやってくるんだろう?それだけの知性と科学技術を持っているのなら、さっさと征服してしまえばいいじゃないか」

「いや、彼らは征服することが目的なんじゃない。ただ観察しに来ているんだよ」

「え、観察?」

「うん、おれたち人間も、たとえばさ、蟻の生態を観察したりするじゃない。見ているだけでもおもしろいわけだよ。蟻なんか征服したって仕方ないだろ」

それを聞いて、カウンターに並んだバーの客がどっと笑った。女性バーテンダーも笑った。話が受けたので、従兄はご満悦だった。わたしは何も反論しなかった。そもそもこの種の話題には、基本的には口を出さないと決めているから。

宗教の話をすると友を失うという格言がある。政治の話もダメ、スポーツの話もダメ。巨人が勝っておもしろくない阪神ファンが試合終了と同時にチャンネルを変えようとして流血騒ぎになった居酒屋の話を聞いたことがある。

じつは心密かに、この広い——あるいは無限の——宇宙に生命の宿った星は、この地球だけと思っているのだ。信念というべきか、信条というべきか。UFO信者たちは確率論を持ち出してきて、これだけの星雲、これだけの銀河系があれば、当然のごとく、この太陽系とほぼ同じ条件の恒星とその周囲を回る惑星があるはずだ。そのなかにはとてつもなく高度な文明を持つ生命体が住む惑星があって、かれらの宇宙船は軽々と宇宙の磁場と空間の歪みを超えて、自在に飛び回っているのだ、云々。

そういう話は死ぬほどつまらない。中学生や高校生じゃあるまいし、還暦を過ぎてそういう話を持ち出されると、そんなに人生辛かったのですか、と言いたくなる。

この世にひとりで生まれて、ひとりきりで死んでいく。地球もこの広大な宇宙のなかで孤独に誕生し、孤独に死んでいく。それでいいじゃないかと思う。

朝日に向かって立ち上がり腹をさらすミーアキャット。じっと空を見上げるモアイ像。天空からの眼がなければ見えないナスカの地上絵。それらは言葉がないから美しい。

叔父の住んでいた糠内は今でも真冬には氷点下30度を下ることがある。

そのむかし、帯広でも真冬には氷点下20度以下の朝が1週間以上続いた。−30度も珍しくなかった。

むかし、人に飼われていた猫たちは、死期が近づくとこっそり人目につかないところで死んだ。

死期が近づいたら——そしてまだかろうじて足腰が立つならば——ピート臭のきついウィスキーのボトルなんか片手に凍てついた川岸まで歩いていって、満天の星を見ながら死ねたらいいとは、ときどき思うけれど。

まず彼は、円盤が目に見えていたあいだの数秒間に、彼の心を満たしていた至福の感じを反芻した。それはまぎれもなく、ばらばらな世界が瞬時にして医やされて、透明な諧和と統一感に達したと感じることの至福であった。天の糊がたちまちにして砕かれた断片をつなぎ合わせ、世界はふたたび水晶の円球のような無疵の平和に身を休めていた。人々の心は通じ合い、争いは熄み、すべてがあの瀕死の息づかいから、整ったやすらかな呼吸に戻った。

重一郎の目が、こんな世界をもう一度見ることができようとは! たしかにずっと以前、彼はこのような世界をわが目で見ており、そののちそれを失ったのだ。どこでそれを見たことがあるのだろうか? 彼は夏草の露に寝間着をしとどに濡らして座ったまま、自分の記憶の底深く下りていこうと努めた。さまざまな幼年時代の記憶があらわれた。市場の色々の旗、兵隊たちの行進、動物園の犀、苺ジャムの壺の中につっこんだ手、天井の木目のなかに現れる奇怪な顔、それらは古い陳列品のように記憶の廊下の両側に、所窄し飾られてはいたけれど、廊下の果ては中空へ向かっていて、つきあたりのドアを左右にひらくと、そこは満天の星のほかには何もなかった。(三島由紀夫『美しい星』)

*16 コーランを読もうと思って、

コーランを読もうと思って、日本語訳を買い込んだものの、本棚のなかでずっと眠ったままになっていた。

買ったのはいつだったか。東京で買ったのだったか、帯広に来てからだったか。アルカイダがニューヨークのツインタワーに突っこんだあたりから気になっていたのだったか。

いや、それよりずっと前から気になっていたことは、ローマによるエルサレム神殿の破壊(後70年)ののちユダヤ人のほとんどが離散し、新興のキリスト教が西へ西へと(ローマへ、そしてヨーロッパ全域へと)向かっていくなか、パレスチナの地に、あるいは旧約聖書の大いなる舞台であるチグリス・ユーフラテスの流域に残されたものは何であったか、ということだった。

しかし、こういう考え方は「歴史」のお勉強に毒された考え方だ。文明の主役が「オリエント」から「ローマ」へ移っていったとしても、人の生活は続いていくだろう。たとえ王家の血筋が途絶え、「神」が死んだとしても、人の生活は続く。ただ黙々と、羊を追い、麦を育て、オリーブの実を摘み、乳を搾り、酸っぱいビールを醸造していただろう。

悠久の暮らしが続く。

そこにムハンマドという男が現れる。彼は商人だった。25歳で、大富豪の女商人と結婚し、2男4女をもうけるが、男子は二人とも夭折した。彼はヒラー山にこもり、瞑想の日々をおくる。そこに大天使ガブリエルの啓示が下る。遊牧と隊商の行き交うその大地に眠る、偉大な聖典の伝統に彼は目覚めたのだ(西暦610年)。

・・・・・・しかし、いきなりコーランは重い。そこで同じときに買った『イスラーム文化』(井筒俊彦、岩波文庫)から読むことにした。

つい1週間ほど前に読み終えたのだが、衝撃を受けた。

その衝撃を書き残しておこうと思うのだが、どう書けばいいのかわからない。1週間悶々としていたのだが、とにかく書いてみないと、書き出してみないと、どう書けばいいのかさえわからないだろう。というわけで書き出してみたのだ。こういうときは、まっすぐ本題に入っていくのがよろしい。衝撃を受けたのはこの箇所だ。

 

イスラーム教徒が聖典『コーラン』を読み、それをさまざまに理解し、解釈する。その解釈が文化形態として具体化していく。これはイスラーム文化史一般にあてはまる原則でありますが、シーア派はとくに 意識的 に解釈学的です。意識的に解釈学的にならざるをえない事情があるのです。と申しますのは、シーア派では『コーラン』を読む場合に、顕教としてのイスラームを代表する正統派〔=スンニー派〕のウラマーたち、つまり「外面への道」を行く人たちのように、『コーラン』のテクストをふつうのアラビア語の文章や語句として、アラビア語の語義や文法が指示し許容する範囲で、その意味を解釈するだけにとどめておきませんで、必ずそのもう一段奥に「内的意味」を探ろうとするからであります。しかしここで内的意味といいますのは「秘密の意味」、つまり秘教的(エソテリック)な意味のことでありまして、こういう解釈をほどこされますと、『コーラン』のテクストが、しばしば、通常のアラビア語の知識ではとても考えることのできないような異常な意味をもってきます。無論、顕教のウラマーたちにしましても『コーラン』をただ文字どおり外面的、表面的意味に理解して満足しているわけではない。彼らも聖典をできるだけ 深く 理解しようとはします。つまり彼らにも彼らなりの内面的解釈がある。しかしその内面的解釈はシーア派が問題とするような「秘密の意味」にまでは至らないのであります。

 

井筒氏の講演(昭和56年春、国際文化教育交流財団の主催する「石坂記念講演シリーズ第4回目)は、このあたりから締めくくりに向けて異様な密度、深度を伴って熱を帯びていく。引用を続ける。

 

暗号はもちろん解読されなければなりません。この暗号解読、つまり外面的意味から内面的意味に移る解釈学的操作を、シーア派の独特の述語で ta’wil(タアウィール)と申します。というのは、一般的にアラビア語では「原初に引き戻す」こと、つまり一番はじめの状態に還帰させるということです。ですから、シーア派の解釈学的述語としてましては、ふつうの人間の言葉で表現され、外面化された神の意志を、もとの神の意志そのもの、いわば啓示の原点に引き戻すということでありまして、要するに顕教的に解釈されたコーランの言葉の意味を、もう一度密教的、エソテリックな意味に解釈し直して、表面的意味を内面化しつつ、それを原初のイデーにまで引き戻すということであります。例えば『コーラン』にはその当時、預言者ムハンマドのまわりに起こったいろいろな事件が具体的に記述されております。戦争とか、和解とか、ムハンマドの家庭に起こった私的事件とか。そういう外的事柄を空間的、時間的に次元を移して、内的空間、内的時間での事柄として解釈する。そしてこのような内的解釈の結果、そこに立ち現れてくる根源的イメージの世界、それこそが神の世界、純粋に精神的な聖なる世界の姿であると考えるのであります。

 

なぜこの箇所に衝撃を受けたか。それは私が翻訳者であるからだ。翻訳者は原文を読み、解釈し、解読するからだ。しかし、読むこと、解釈すること、解読すること、いずれをとっても一筋縄ではいかない。この職業を長年やってきて、場数と時間をかければかけるほど、読むことは何か、解釈すること、解読することとは何か、わからなくなってくる。

翻訳者はまず原文を読む。初めて読むときには、基本的には辞書を引かない、メモも取らない(付箋を貼ったり、アンダーラインを引くくらいのことは、ときにはするけれど)。それなりにわかったつもりでいる。そうでなければ、編集者の要望(梗概を書き、感想を記す)に応えられない。

いざ翻訳をはじめると、徹底的に辞書を引く。何種類もの辞書を引く。いや、辞書を引くというより、辞書を読むといったほうが正しい。なぜならば正解を求めて辞書を引くのではないから。辞書を「読む」ことによって、その単語がもつ「原初の姿」を見ようとする、「原初の音」を聴こうとする、そういう作業だから。

辞書を読む作業を通じて、原文を解釈する。それが読むことにほかならない。人の表情を読み、人の心を読むように。人が表に出さないようにしているものを読み取ること。つまり暗号解読。

徹底的に解釈、解読することによって、原文はどろどろのマグマのようなものと化す。冷えて固まった表面的な外皮(地殻)が融けて、熱い内部が露出するのだ。

けれども翻訳者はスーフィーの隠者とは違う。どろどろに融けたものを、また冷やして固めるのだ。著者が考え、表現した形にできるだけ近く、言葉の形を整えていくのだ。このときの作業がもっとも悩ましい。なぜならば、言語が違う。文法が違う。単語のひとつひとつが違う形をしているから。音韻のひとつひとつの響きが違うから。だから、翻訳は基本的に不可能だというのは正しい。

詩の翻訳は不可能だとよくいわれる。『コーラン』の翻訳も不可能だという。そのとおりだろう。しかし、翻訳は必要だ。なぜなら、われわれは意味の世界に生きているから。意味の世界は、そもそも「外面的」であるほかないのだ。その意味では「内面的意味」「秘密の意味」などありえない。自家撞着するほかない。なぜなら、意味として取り出せば、つまり言葉として取り出せば、それは内面的でも秘密でもなくなるから。

著者はおそらくこう考えて、このような文を書いたのだろうと想像し、推理し、納得し、こちらの言語に移し換える。もちろん、想像するだけでは話にならない。推理するのもだめ。手前勝手に納得するのもだめ。理詰めで原文を分析した果てに、一体感のようなものが得られる。それが心の、頭の奥底から湧き上がってくるのを待つこと。もっと単純な比喩を使うなら、手動のカメラのピントがぴたっと一分の隙もなく合い、対象の輪郭がくっきりと浮かび上がってくるのを待つ。

意味の解釈のことを言っているのではない、形態(文の形、リズム、流れ)のことを言っているのだ。それが鮮明に見えてきたとき、日本語で書くべき文の形も鮮明に見えてくる。そのとき大切なのは、名詞や動詞や形容詞など意味を担っている単語ではなく、「てにをは」のような機能語、あるいは句読点のような、意味の剥奪された、かぎりなく記号に近いもの(これを国語学者の時枝誠記は「辞」と呼んで「詞」と区別した)。

翻訳家の快楽とは、あくまでも理詰めで、しかし、体感としては「啓示」のような「法悦」のような快感なのだ。ワタシハ作家自身ヨリ作家ノ心ガ見エテイル・・・・・・。

ムハンマドは瞑想の果てに、心の、無意識の奥底から、熱いマグマのようなものが噴出してくるのを感じたことだろう。しかし、その前には「読む」という行為があったはずだ。離散(ディアスポラ)から取り残された少数のユダヤ教徒たち、原始キリスト教の信者たちが大切に守ってきた聖典を読み、衝撃を受けたはずだ。かつてはこの地はこんなに肥沃な文化と文明の咲き誇る土地だったのに・・・・・・。

この「啓示」と呼ばれる転身、転回、転向は、ブラックボックスのような、ブラックホールのような、時間の凝縮した闇のなかで、一瞬の爆発として感知されるのだろう。

その闇はわれわれには見えない。ナザレのイエスは40日間荒野に留まり、サタンの誘惑を受け、野獣とともに過ごし、天使たちに見守られていた(マルコ福音書)。シャカ族の王子はなにゆえ家を出たのか、たくさんの伝説が残っているが、真実はもう確かめようもない。いや、そもそもきらびやかな栄華を捨て、「出家」の道を選んだ心の闇は、深ければ深いほど、われわれの目には隠されているといったほうがいいだろう。

魯の国の人、孔丘は孤児であった。父母の名も知られず、母はおそらく巫女。その人生の大半は亡命の旅に明け暮れた。『論語』に穿たれた闇も深い。

翻訳をやってきてよかったと思えるときは、この闇が見えたと感じるときだ。もちろん、その奥は見えない。正しくは、そこに闇があると感じられるとき、と言ったほうがいいだろう。

イスラム学の井筒俊彦、原始キリスト教の田川健三、原始仏教の中村元、古代中国の白川静。こういう恐るべき専門家の著作に導かれるようにして、古典中の古典をひもといていると、太古の闇が近しく感じられてくる。

この闇は解析すべき闇ではない。エネルギーの源としての闇だ。そして、宗教や思想の誕生する場所はその闇であり、もとより闇は反社会的なものである。なぜならば、人間の社会(文明)は闇を恐れることから出発しているから。

*15 音楽建築家、チェリビダッケ

このところチャイコフスキーを立てつづけに聴いた。といっても、シンフォニーの5番と6番だけ。指揮者は全部で5人。カラヤン、ベーム、ザンデルリンク、オフチニコフ、チェリビダッケ。

チャイコフスキーは長いこと素直に聴けなかった。高校時代にブラスバンド部員の友人が二人いて、一緒になれば必ずクラシック談義になった。部長をやっていたほうは、いつもいっぱしのことを言った。若いときは誰もがいっぱしのことを言いたがるものだ。チャイコフスキーって、自分の情念に溺れちゃうんだよね、とかなんとか。

それ以来、チャイコフスキーにのめり込むのが恥ずかしくなったのかもしれない。そもそも、評論家たちが口を揃えて、ロシア的情念だの、苦悩だの、絶望だのという「用語」を使いたがるし、標題音楽だかなんだか知らないけれど、音楽の題名に「悲愴」ってことはないだろうと・・・・・・。そんなことを言えば、英雄、運命、田園ってなんだってことになるけれど。

というわけで、この音楽家を少し敬遠しておりました。

ところが、つい最近、ひょんなことから(きっかけは忘れてしまった)ヴィヤチェスラフ・オフチニコフという人が指揮する「悲愴」を聴いて、おおっ!と声を上げてしまったのだ。ええっ?でもいいかもしれない。

演奏はモスクワ放送交響楽団、録音は1982年。うちにあったレコードで、今まで針を乗せたことがなかった。ジャケットの帯には錚々たる賛辞が並んでいる。

「暗いスラブの憂うつと情熱にみち、楽曲の内部に秘められた表題性や悲劇性を鋭く追求したスケールの大きい演奏」(音楽評論家・小石忠男)

「汚れなき天使の純粋さと悪魔の笑い。・・・・・・彼こそ天才だ」(ヴァイオリニスト・佐藤陽子)

「オフチニコフの才能と実力は大変なもので、この「悲愴」も実にすばらしい演奏である」(音楽評論家・志鳥栄八郎)

「作曲家でもある彼の音楽的発想を、豊かな想像力をもって展開した「新しい悲愴」」(音楽評論家・藤田由之)

作曲家でもあり、指揮者でもあるこのオフチニコフという人が、その後どういう活躍をしているのか、文字どおり寡聞にして知らない。

なぜ、この演奏と指揮を聴いて、おおっ!(あるいは、ええっ?)となるのか自分でもわからない。帯のコメントがそれを言い当てているとも思えない。

スピード? テンポ?

というわけで、わが家にある数少ないチャイコフスキーのレコード、CDをかき集めて聴き比べてみたのである。音楽、あるいは演奏を言葉で再現することは不可能なので(少なくとも、わが貧寒な筆力では)、数値に表しうるデータだけ並べてみる(第6番のみ)。

1.ヴィヤチェスラフ・オフチニコフ指揮、モスクワ放送交響楽団

(1982年、モスクワ)

第1楽章:アダージョ〜アレグロ・ノン・トロッポ(20:29)

第2楽章:アレグロ・コン・グラチア(7:24)

第3楽章:アレグロ・モルト・ヴィヴァーチェ(9:04)

第4楽章:フィナーレ、アダージョ・ラメントーソ(11:18)
2.カール・ベーム指揮、ロンドン交響楽団

(1978年、ロンドン、ウォルサムストウ・タウンホール)

第1楽章:(19:06)

第2楽章:(9:02)

第3楽章:(9:16)

第4楽章:(10:02)
3.ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

(1964年、ベルリン、イエス・キリスト教会)

第1楽章:(18:45)

第2楽章:(7:53)

第3楽章:(8:35)

第4楽章:(9:55)
4.セルジュ・チェリビダッケ指揮、ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団

(1992年、ミュンヘン、ガスタイク)

第1楽章:(25:12)

第2楽章:(8:38)

第3楽章:(10:39)

第4楽章:(13:10)

一目瞭然だろう。とくにカラヤンとチェリビダッケを比べてみると同じ曲かと思うほど、演奏時間に開きがある。もちろん聴いた印象もまるで違う。このなかで、チェリビダッケの「遅さ」にもっとも近いのがオフチニコフだということもよくわかる。
生前、自分の演奏をレコードにすることを拒みつづけたチェリビダッケは、その理由を問われて、こんなふうに答えている(どの本、どの雑誌、どこの解説で読んだのだったか忘れてしまったので、筆者の個人的記憶に過ぎない)。

自分はコンサートホールの音響状態に合わせてオーケストラを指揮している。たとえば残響の長いところでは速めに、残響の短いところでは遅めに。なぜなら、残響の長いところで遅めに演奏すると、音が重なって濁ってしまうからだ。楽器の響きは季節によっても違う。そんなふうにして、きわめてデリケートにホールの状態を考慮しながら一回一回の演奏をつくりあげているのに、レコードにしてしまうと、録音技術者のレベル、録音装置のレベル、再生装置のレベルと再生環境しだいで、その都度、もとの演奏の微細な響きが勝手に変更されてしまう。そんなことは耐えがたい・・・・・・。

このチェリビダッケの述懐を考慮に入れて、演奏時間のデータを比べてみると、また違うことが見えてくる。スタジオ録音に並々ならぬ意欲を示したと言われるカラヤンの演奏が、このレコードで「異様に」速く棒を振っているのは、ひょっとしたら、演奏・録音された場所がベルリンのイエス・キリスト教会だったからかもしれないと。この教会は残響が長いので有名な建築で、ここで録音された演奏で忘れられないのが、カール・ベーム指揮、ベートーヴェン交響曲第7番(ベルリン・フィル、1958年)だ。このレコードは何度ターンテーブルの上に乗せたことか。この演奏もめっぽう速い(ベームにしては)。

それはともかく、このレコードで聴くかぎり、カラヤンの「悲愴」は速くて軽い。まさに「疾走する悲しみ tristesse allante」、モーツァルトみたいに一目散に駆け抜けていって、あっというまに後ろ姿も見えなくなる(べつにモーツァルトの悪口を言っているわけではありません)。華やかではあるだろう。久しぶりにカラヤンの指揮を聴くと、オーケストラという楽器を美事に鳴らす名ソリストという感じがする。

しかし、チェリビダッケが鳴らしているのはオーケストラではない。ホールそのものだ。この人の演奏は、パイプオルガンによる教会音楽の伝統なしには考えられない。

数年前、僕はパリのサン=シュルピス教会の大聖堂に鳴り響くオルガンを聴いたことがある(たしか荘厳ミサか何かの特別な催しだったように思う)。圧倒された。これはもはや音楽ではない、地響きだと思った。事実、サン=シュルピスのオルガンはあまりに古く、音が濁っているらしい。そのため、改修派と存続派のあいだで議論が対立しているとも聞いた。

この種の経験はこれにかぎらない。フルトベングラーが一九四三年(だったと思う)に指揮したという伝説の名盤——もちろんベートーヴェンの第5番だ——を聴いたときもそう思ったのだ。こんなふうに演奏されたら、猫だって感動するだろうと。

この名盤を聴かせてくれたのは、大樹という町で曹洞宗の寺の住職をやっている従兄だった。坊主、医者の例に漏れず、彼もオーディオマニアで、そのころ使っていたのは——僕が学生だったころだから、四〇年くらい前——、巨大なタンノイのスピーカーだった。じつはチェリビダッケという指揮者の存在を教えてくれたのも、この従兄なのだ。かれこれ二〇年くらい前のことだろうか。彼のオーディオルームで、チェリビダッケの演奏を記録したビデオを見せてもらった(そのころは、遺産相続人の息子が認めた正規版のCDがまだ出ていなかった)。曲はラヴェルの「ボレロ」。一発でKOされた。後にも先にもこんなすばらしいボレロを聴いたことはない。

地響きと言えば、もうひとつ思い出がある。ワーグナーの「リング」。これはうちにあるレコード。サー・ゲオルグ・ショルティー指揮、ウィーン・フィルハーモニー、「ニーベルングの指輪」。細かい録音データは省く。なぜなら、全曲聴いたことは一度もないから。というか、冒頭の「地響き」のところで大笑いして、聴くのをやめてしまったのだ。バイロイトで聴くのならともかく、録音された「リング」を自宅で聴くなんて、正気の沙汰とは思えない(買ったのはたぶん母親。地元の楽器店——当時はレコードも売っていた——で嘱託のような仕事をしていたから、店長にそそのかされたのだろう)。

話が逸れてしまった。

とにかく、オフチニコフの「悲愴」に驚いたせいで、あらためてチャイコフスキーを聴き直し、チェリビダッケの指揮法、演奏法についても考えさせられることになったわけだ。

わが家の慎ましいライブラリには、チェリビダッケのCDが2箱ある(つまり24枚)。でも、このうちチャイコフスキーの5番と6番は一度も聴いたことがなかった。そう、敬遠していたのだ。今回、初めて聴いてみて、チャイコフスキーがチェリビダッケの大切なレパートリーであることを確認できたのはよかった。

チャイコフスキーがすばらしい作曲家であるということを素直に感じられたこともよかった。

さっきカラヤンのことを、オーケストラという楽器を鳴らすソリストだと言ったが、それに平衡させるなら、チェリビダッケはホールという建物を鳴らす建築家だと言えるだろう。

パイドロスはある建築家について、こんなふうに回想している。

 

彼は光のために無類の装置をつくりあげたのでした。光に明瞭な形と、ほとんど音楽的ともいえる特性を与えて、それを死すべき人間たちの動き回る空間へとまき散らしたのです。ソクラテスよ、あなたが先ほど念頭に置いて語っていた雄弁家や詩人たちと同じように、彼は微妙な抑揚のもたらす神秘的な効果に通暁していました。一見すると簡素で軽やかに仕上げられた建築を前にして、じつは無数のかすかな屈曲と、建築家がそこに目立たぬように忍ばせた整合と不整合の深い組み合わせによって、いつしか幸福のようなものに導かれているとは誰ひとり気づかないのでした。その結果、建築を見る人は不可視の存在の意のままになるがごとく、前に進み出ては引き返し、また近づいていくといった動きを繰り返し、建築作品それ自体に突き動かされ、ただ賛嘆の虜となるがごとくに光の場をさまようにつれて、幻影(ヴィジョン)から幻影へ、大いなる沈黙から喜悦のささやきへと移っていくのでした。そう、このメガラの男はこう言っていたのです。「わが寺院は、愛する対象がそうするように人を動かさなければならない」と。

 

もちろん、このパイドロスはプラトンの対話篇には出てこない。ポール・ヴァレリーの「エウパリノス、すなわち建築家」と題された対話篇のなかで、ソクラテスと語り合うパイドロスであり、メガラの人エウパリノスは、じつは建築家というより技師であったと覚書には記されているが、すべての芸術家は何よりもまず職人であり、技師であるだろう。