*60 フランスの女・抄(その3)

さて、こまった。

というのも、自分で書いたものなのに、時間が遠く隔たってしまったために、どうやってこんなものを書いたのか、わからなくなってしまったのである。

文庫版で二百六十ページの小説。そんなに長いとはいえないけれども、短くもない。二百二十ページほどの最初のノヴェライズ(『愛を弾く女』)よりも気合いが入ったことはおぼえているけれど、どのくらいの期間で書き上げたかはもう記憶にない。たぶん二、三ヵ月くらいだったと思う。翻訳にせよ、この手のもの(?)にせよ、当時は一冊につき、これくらいの期間を目途に仕事をしていたから。年間最低四冊は出さなければ食っていけなかったのである。

それはともかく、十ページほどの導入部のあとに第一章が来るのだが(当然、映画に章立てはない)、導入部とはうってかわって、ここはのっけから戦争の記述で始まる。

 

九月一日、ドイツがポーランドに侵攻すると、翌々日、フランスはようやく重い腰を上げて、ドイツに宣戦布告した。だが、宣戦布告はしたものの、腰はあいかわらず重いままだった。歩兵隊中尉のルイ・ミュレールは、ポーランドの抵抗を支援する攻撃部隊の一員としてザール地方に派遣された。だが、またたくまにポーランド軍を撃破したドイツ軍は、二十七日にソ連とポーランド分割協定を結び、実質的にポーランドを支配した。連合軍はポーランドの援軍を送ることもなく、ザール駐留のフランス軍には意味がなくなり、早々に撤退した。その後八ヵ月、フランス軍はドイツ軍に対して積極的な行動をとることもなく、ただ事態の推移を見守るだけだった。

 

映画そのものにこんな味気ない戦況説明があるわけがない。たぶん資料をしこたま読んで書いたのだろう。あとがきには、戦争に関する参考資料としては『フランス史3』(山川出版社)と『フランス解放戦争史』(原書房)の二冊しかあがっていない。

手許にはビデオもない。配給会社が特別に録画してくれたビデオ(もちろん要返却)を何度見返したことか。今ではDVDが出ているらしいけれど、映画をもう一度観てみたいとは思わない。この仕事はノヴェライズをした時点で終わった仕事なので。自分の仕事を読み返すことは、ふつうはほとんどしない。

それならどうして、このブログで過去をほじくっているのか。その答えはこのブログの記事のなかにある。

フランス六〇年代を代表する名画にクロード・ルルーシュ監督の『男と女』がある。この映画もまた、ひとりの男とひとりの女の情念と行動の交錯を描いている。時代背景も男と女の役回りもまったく異なることは言うまでもない。一九三七年生まれのルルーシュ監督が〈戦後〉という新たな時代の男と女——自動車レーサーと映画の制作進行を記録・管理するスクリプト・ガール——の姿を描いているとすれば、一九四八年生まれのヴァルニエ監督は戦前、戦中、戦争直後の苛烈な時代を生き延びた奔放な母と軍人の父の姿を描いている。

誤解を恐れず単純化して言えば、『男と女』からは新たな時代を手探りで生きる男女のためらいとかすかな希望が伝わってくるのに対して、『フランスの女』からはひとつの時代の完璧な終焉と、それを突き抜けた先にある諦念のような——つまり、それでも人は生きるといったような——何かが伝わってくる。

先走るようだけれど、ジャンヌの死を描いたラストシーンは、まるでフランスという国家の死を描いているように思えた。ルイはフランスのための闘い、傷つき、しかし死ぬことはなく——いや、死ぬことができないまま——、再会と別れを繰り返してきた妻ジャンヌに先立たれる。冬のナンシーの街をひとり歩くダニエル・オートゥイユの姿は圧巻である。

そして観客は理解する。ルイの愛したものとジャンヌが愛したものは同じであることを。そして男と女は愛しているがゆえに永遠にすれ違うということを。

だから映画も小説も、戦争の場面と愛の交わりの場面は交互にやってくる。男の場面は女の場面の比喩となり、女の場面は男の場面の比喩となる。そして、それはときに交錯する。

たとえば、マジノ線。一九三九年九月三日、英仏はドイツに宣戦布告した。しかしフランスはスイス国境からベルギー国境沿いのアルデンヌ地方にかけて築かれた長大な防衛線の裏に隠れて動こうとしない。「マジノ線」と呼ばれるこの防衛線は、しかし第二次大戦勃発の時点では「古い砦」と化していた。パラシュート部隊や戦闘機による攻撃に対抗する構造も対戦車砲の装備もなかったのである。その砦に隠れてフランス軍は動かない。宣戦布告しているのに、戦争は始まらない。ゆえにそれは「奇妙な戦争」と呼ばれる。そして、ルイス・ヴァルニエ監督の『フランスの女』もまたジャンヌとルイの「奇妙な愛」を描いている。

この「奇妙な戦争」は一九四〇年五月に終止符を打つ。圧倒的な武力によってドイツ軍がベルギー・オランダ・ルクセンブルクに電撃攻撃を仕掛けてくると、マジノ線など何の役にも立たず、アルデンヌ地方のフランス部隊はあっけなく蹴散らされてしまう。ザールから撤退してアルデンヌに配属されていたルイ中尉も捕虜となり、ベルリン郊外の収容所に送られてしまう。

ドイツ軍の破竹の勢いは止まらない。六月にはパリ入城をはたし、戦闘開始からわずか一ヵ月で第三共和政のフランスは崩壊した。第一次大戦の英雄にして対独協力派のペタン元帥が内閣を組織し、戦争続行派を排除して休戦協定を受け入れる準備を始める。戦争続行と自由フランスの旗を振るド・ゴール将軍はロンドンに亡命政府を立ち上げ、徹底抗戦と市民によるレジスタンスを訴える。

捕虜となり、ベルリン郊外の収容所からのルイの手紙がジャンヌのもとに届くのは四二年の暮れ、三年ぶりの手紙だった。何十通となくジャンヌ宛の手紙を書いているというのに、戦争の混乱のなかで届かなかったのだ。

 

ぼくはただ生きて帰りたい、きみに会いたい。捕虜生活が長くなると、中尉と一兵卒との違いなどなくなります。ぼくは今、ただの男です。毎晩、きみの夢をみます。結婚式のときの写真はもうぼろぼろです。白いウェディングドレスもすっかり茶色になってしまいました。ぼくと同室の友人にアンリという男がいます。彼にきみの写真を見せたら、深いため息をついて、今晩貸してくれないか頼まれました。もちろん断りました。冗談じゃない。きみを夢のなかでも他の男に渡してなるものか。ただし、ぼくは誇らしかった。他人が羨むような女性が自分の妻であることに、いささか優越感を感じない男がいるだろうか。・・・もし、この手紙がきみのもとに届いたら、ぜひ新しい写真を送ってほしい。ぼくはきみのために帰る。その新年を支えてくれるのもきみなのです。よいクリスマスとよい新年を! 百万回のキスを送ります。

 

こんな手紙が映画のなかにそのまま「引用」されていたかどうか、もう覚えがない。ただし、内容は映画の物語展開に沿っているはずだ。この手紙を受け取ったジャンヌは、その場にへなへなとしゃがみこんでしまう。「手紙はもういい! 生きているなら、今すぐ帰ってきて! 今すぐ抱いて!」

 

心の均衡が崩れ、激情が全身にあふれたとき、ジャンヌは初めて喜びを実感した。さっそく衣装箪笥に駆け寄り、とびきり派手な赤いドレスを選んだ。そして、コートを引っかけ、冬の寒風をついて走った。コートがひるがえり、赤いドレスがひるがえった。通行人は目を丸くして振り返り、駆け抜けるジャンヌを見送った。行き先は写真館だった。真っ赤なドレスに上気した頬と首筋、そして寒風に潤んだ青い瞳。彼女はその写真にたった一言〈Je t’aime.〉と書き添えて、ルイのもとに送った。

 

一週間後、ルイはベルリンの収容所でこの写真を受け取る。そして、一目散にトイレに駆け込む。

 

ズボンを降ろすのももどかしく、すでに張り詰めているペニスに手を添えると、たちまち精液は弾丸のようにトイレの壁に飛び散った。尿道が痺れるように痛んだ。そしてふたたび、ゆっくりとペニスをしごき、長く長く射精した。彼もその晩、さっそく返事を書いた。「ぼくはけっして戦争では死なない。けれど、きみの魅惑には殺されてしまうかもしれない」

 

ジャンヌはこれでルイとの愛が確認できたと思う。しかし、この愛は思い込みなのである。なぜなら、映画はそのように展開しないから。赤いドレスをまとって街路を走り抜けたときの昂揚こそが愛の確認だったのである。やがてジャンヌはそれを思い知らされる。

ジャンヌは、夫の帰りを待てずに、ルイの手紙にその名が挙がっている収容所の友人アンリと同棲してしまうのである。

枢軸国の優勢は一九四二年を境に陰りを見せはじめる。日本軍はミッドウェーの海戦で敗北を喫する。翌年一月、スターリングラード攻防戦でドイツ軍が敗退する。二月ガダルカナル島の日本軍も撤退を余儀なくされる。連合軍は枢軸国を追い詰めていく。フランス国内では、五月に全国抵抗評議会が設立され、国内のレジスタンス組織が統一される。六月にはド・ゴールがアルジェに国民解放委員会を設置し、「この委員会はフランスの中央政府である」という声明を発表する。七月、連合軍がシチリア島を占領し、ムッソリーニが失脚する。十月には枢軸軍が撤退する。窮地に追い詰められていったナチス・ドイツはユダヤ人に対する迫害を強め、フランスのドイツへの強制労働に拍車をかける。十一月、イギリスはベルリン大空襲を開始する。十二月にはアメリカのアイゼンハワーが連合軍最高司令官に就任した。ノルマンディ上陸作戦の準備は着々と進められていく。

ジャンヌとエレーヌ姉妹はナンシー駅の帰還兵収容センターで働いている。フランス人労働者をドイツでの強制労働に送る見返りに、ドイツで捕虜になった兵士が続々と帰ってくる。ナンシー駅は帰還兵を迎え入れる玄関口になっていたのである。

そこにアンリが現れる。

「ジャンヌ・ミューレルさんですね。ご主人と同じ収容所にいました」

アンリはすでにジャンヌの手を握っている。あわててその手を振りほどくが、男が何を求めているのか、すぐに察した。ジャンヌは医務室に向かう。アンリもそのあとを追う。

「あなたから手紙が届くと、ルイはいつもぼくに同封してあるあなたの写真を見せてくれた。そのうち、ぼくまであなたの手紙を心待ちにするようになった。ぼくはただあなたことばかり思ってきた。あなたに恋してしまった。怒らないでください」

 

アンリの目から涙があふれた。そして、ジャンヌの手を握ると、そこに濡れた顔を埋めた。これほど自分を求めている男が自分の目の前にいる。それだけで、ジャンヌは耐乏生活のつらさが消えていくような気がした。内部の川が氾濫し、堤防があっというまに決壊した。アンリはジャンヌの腿に手を伸ばした。男の手。ルイと別れてから、五年ぶりに肌に触れる男の手。夢のなかで何度も求めた男の手。干天の慈雨。雪融け。長雨のあとの太陽。ジャンヌにとって、この男の手はたんなる手ではなかった。大自然にまっすぐにつながっていく小さな戸口。ジャンヌは否応なく、そこに導かれていく。もう拒むものはなかった。この男からは将校の肩書きもアンリという名前も失せていた。女の肉体を求める欲望があるだけだった。ジャンヌもまた、自分の名前を忘れ、人妻だということも忘れ、人の言葉さえ忘れ、ただの欲望と化していた。その一瞬にジャンヌは自由のときめきを感じた。

 

そこにノックの音が響く。二人は慌てて立ち上がる。だが、誰も入ってこない。興奮は冷めたが、熾のようなほとぼりが芯に残った。アンリは医務室を出て、収容センターへと去っていく。ノックしたのは姉のエレーヌだった。「ほんとにいやらしいひとね。前にも別の男といちゃついていたくせに。あなたは根っから淫乱なのよ!」

一九四四年二月二十日、連合軍は対独戦略爆撃を開始する。三月にはフランス国内のレジスタンス武装勢力が統一され、六月二日、解放委員会は共和国臨時政府を名乗る。そして、六月六日、「Dの日」、すなわちノルマンディ上陸の日がやってくる。

ジャンヌはホテルでアンリとの密会を重ねている。男は捕虜生活に疲れ果て、ジャンヌという女の肉体を知ったことで、故郷に帰る気など失せていた。当然、家族はジャンヌの行動に気づく。エレーヌだけでなく、物静かな長女のマチルドも、妹に罵りの言葉を浴びせかける。エレーヌの夫マルクも、もうルイを愛していないのか、別れるつもりなのかと問い質す。だが、ジャンヌには答えられない。肉体には言葉がないから。

そしてエレーヌが妊娠する。一家はエレーヌとその胎内の子供を中心に動きはじめる。ジャンヌは家族の罵声よりもむしろ、しだいに大きくなっていくエレーヌの腹を見ていることに耐えられなくなった。この家には自分の身の置き場がない、家を出よう、そう決心する。

連合軍のノルマンディ上陸を機に、戦局は一気に逆転する。フランス国内で軍隊や地下組織が蜂起する。ナンシーではまだまだドイツ軍の力は強かった。四四年八月十九日、パリ蜂起軍が警視庁や市庁舎などを占拠した。二十四日にはルクレール将軍の機甲師団がパリに到着し、その翌日、ようやくパリを支配していたドイツ軍は降服した。二十六日、ド・ゴールはシャンゼリゼ大通りを行進し、全世界にパリ解放を宣言する。そして、九月十五日、パットン将軍率いる戦車部隊がナンシーに到着し、ロレーヌの古都はナチスドイツの頚木を解かれる。

年が明けた四五年一月、ソ連軍がポーランドを攻撃し、ドイツ戦線を突破する。一月十七日ワルシャワは解放される。二月四日、ルーズベルト、チャーチル、スターリンがヤルタで会談する。連合軍はライン地方を攻撃し、四月二十五日、米ソ両軍がエルベ河畔で邂逅する。その五日後、ヒトラーは自殺し、五月二日にはソ連軍がベルリンを占領した。収容所の捕虜たちもようやく自由の身となった。ルイがナンシーに帰ってきたのは、その一週間後のことだった。

その日、長女マチルドの家族は母親のアパルトマンを出ようとしていた。引っ越しの作業が進んでいた。戦争も終わったし、四月に出産したばかりのエレーヌを気遣い、マチルド夫婦が部屋を明け渡そうとしていた。そこにルイが帰ってくる。誰もがルイに気づかう。しかし、真っ先に出迎えてくれるはずのジャンヌがいない。

「ジャンヌはどこにいるんです?」

義母のソランジュは動揺の色を隠し、つとめて明るく答える。

「ここには住んでいないのよ。もちろん、出ていったのはそんなに前じゃないのよ。レオポルド広場の裏手に小さな家具付きのアパルトマンを借りたの。こうやって窮屈な生活をしていたから息抜きがしたかったんでしょ・・・・・・」

ジャンヌが小さなアパルトマンでアンリと暮らすようになってから半年が経っていた。アンリはただジャンヌの体を求めるだけで働こうとしない。ジャンヌは夜のバーで働くようになった。彼女の美貌はすぐに客をつかんだ。アンリとの暮らしにはうんざりしていたから、バーの客と夜を共にすることもあった。戦争と占領に疲れた男たちは、ジャンヌが裸になるとむしゃぶりついてきた。まるでおっぱいを欲しがる子供のように。アンリと同じように涙を流す客さえいた。自分はとうとう娼婦になったと彼女は思った。

 

ジャンヌはルイとのたった二ヵ月の新婚生活がどんなに幸福だったか、それを痛切に感じた。ルイを愛している。それを疑ったことは一度もなかった。ルイとの結婚を後悔したこともなかった。それなのにどうしてこんなことになってしまうのか。戦争が悪い。そう思いたかった。けれどもそれが言い訳に過ぎないことはすぐにわかった。淫乱。エレーヌの罵声を何度も思い出した。淫乱、そうかもしれない。でもちがう、なにかがちがう。ときめく一瞬の興奮。してはいけない、そう感じたとたんに燃え上がる何か。迷いや罪の意識がふと頭をかすめても、すでに一歩前に踏み出しているこの足、相手に差し伸べているこの手、肌に浮かぶさざ波。一瞬真っ白になって、体から重みが抜けていく、その浮揚感。それが淫乱なのだと言われれば、ジャンヌには返す言葉がなかった。

 

ルイはレオポルド広場に向かう。マルクがその腕をつかむ。「行っちゃいけない」。ルイはマルクからジャンヌが収容所で一緒だったアンリと暮らしていることを知る。ルイの絶望を気づかってマルクはルイを抱きしめる。だが、ルイの目には何も映ってはいない。

ルイが帰ってきたという噂はジャンヌの耳にも届いた。バーのカウンターに腰かけた軍人の話を小耳に挟んだのだ。ルイという名前が耳に入ると、ジャンヌは金縛りになったように身動きができなくなった。ジャンヌは客の誘いを振り切ってバーを飛び出し、夜の街をさまよい歩いた。もう、アンリのいるアパルトマンには戻れない。

ルイは駅の裏手の安酒場で安物のアルマニャックを飲んでいる。完璧に打ちのめされていた。戦場でのどんな痛苦、どんな敗北よりもこたえた。捕虜生活のほうがましだった。どんな極限生活にも希望はある。人は死ぬ寸前まで希望を抱いているものだ。希望は生の媚薬だ。ジャンヌこそ、その媚薬だった。だが今は、費えた媚薬のかわりに酒を飲んでいる。ルイは思う。

 

たかが一人の女ではないか。たかが一人の女を失っただけではないか。どうして世界のすべてを失ったかのように絶望するのだ? ジャンヌに何があるというのか。彼女は美しい。それだけじゃないか。それだけ? それがすべてだ。それがアンリを惹きつけた。すべての男を惹きつけた。自分も惹きつけられた。それを今、失った。自分には彼女を惹きつけておく力がなかった。噂ではジャンヌは娼婦まがいのことをやっているという。なぜそんなに男が必要なのか。なぜ、このおれだけでは不満なのか。なぜ、結婚した・・・・・・。

 

そして、ルイとジャンヌは再会する。駅の裏手の、ルイが酒を飲んでいる暗いバーで。ジャンヌはルイの姿を目に留めると、迷わず店の中に入っていく。二人は見つめ合い、ジャンヌはへなへなとルイの前の椅子に座りこむ。歩き疲れていた。サックスがブルースを流している。ルイはアルマニャックをあおる。

「アンリのことを聞いたよ。苦しかった・・・・・・。今は苦しくさえない。老いぼれて擦り切れてしまったみたいだ。ぼくは帰ってきた。でも、きみに言うべきことは、きみは自由だ、ぼくはきみに値しない、それだけだ・・・・・・」

サックスが鳴り止む。駅で汽笛が鳴る。ジャンヌはただ黙って聞いている。

「ぼくは勝者として帰ってくるはずだった。きみはそれを待っているはずだった。どちらも道を誤ったようだ。ぼくらは英雄じゃない。負け犬と売女だ・・・・・・」

ルイの耳に自分の発した「売女」という言葉が響く。別人が話しているようだった。禁句を口にしたことで、ルイの心がわずかに開かれた。ジャンヌがようやく口を開く。

「ときどき、あなたが帰ってこないのじゃないかと思うことがあったわ。そういう日には、男の人の視線を感じるの。わたしのことをきれいだと思ってくれて、わたしを必要だと思ってくれているような気がしたの・・・・・・」

ジャンヌの目から涙がこぼれはじめる。

「それが生きがいだったの・・・・・・」

ルイは黙って聞いていた。ぼくにとってはきみが生きがいだった・・・・・・。理不尽だという思いが胸にこみ上げてくるが、ジャンヌが正直に話していることに、彼はいつのまにか感動していた。いつのまにかジャンヌの青い瞳に吸い寄せられていた。ジャンヌの顔が激しい感情の揺れに歪む。

「わたしをそばに置いてちょうだい。けっして離さないで。わたしはどこにでも付いていくから。私を置き去りにしないで。あなたを死ぬほど愛しているの、ルイ」

 

その夜、二人はホテルに泊まった。五年ぶりに互いの肌と肌を確かめ合った。性を交わしているあいだだけ、五年の歳月を越えて、かつて疑いを知らずに愛し合った日々と今がつながった。ルイにもジャンヌにも激情はなかった。それは予期していたより、ずっと穏やかな愛だった。ルイはジャンヌの上でゆっくりと泳ぎ、ゆっくりと沈んでいった。ルイの体の動きはどの男とも違っていた。その動きには言葉があった。ジャンヌの中に入って、ひとつひとつ何かを確かめるように静かに優しく語りかけてきた。ジャンヌはそのひとつひとつの動きに応えるように、細かい肉の言葉を送り返した。ジャンヌはその語らいに快楽よりも幸福を、安堵を感じた。自分はルイの妻なのだ、これが夫婦なのだと思った。だが、性の絆は、たとえ見知らぬ男女でも、一瞬のうちに結ばれるが、夫婦の絆は長い年月をかけて結ばれるものだ。ましてや、一度切れ、もつれた感情の糸をつむぎ直すのはむずかしい。ひとたび二人の体が離れると、それぞれの体にそれぞれの影が尾を引いた。とくにルイは、二人がふたたび夫婦として結ばれることが正しいことなのかどうか、ジャンヌの横で深い思いに沈んだ。

(つづく)

*59 フランスの女・抄(その2)

じつは前回引用した『フランスの女』の冒頭部分は、原作の映画にはないのである。二十数年も経った今では、当時何を考えていたのか、はっきりと思い出すことはできない。ただし自分で書いた文章なので、その根拠を推測したり想像したりすることはできる。映画の冒頭場面は、前回引用した文のあと、アステリスク(*)を挟んで、次のように文章化されている(自分で書いたのに他人事のようですが)。

 

老人がジャンヌの膝に頭をあずけて、静かに眠ろうとしていた。
「マドモワゼル、ちょっと父を看ていてもらえますか、お願いします」
 軍服をきっちり着こんだルイはそう言うと、広場に面した凱旋門をくぐり抜け、コルドリエ教会に向かって走っていった。ジャンヌの姉のエレーヌとルイの弟マルクの結婚式が始まろうとしていた。支度に手間取ったジャンヌがようやくスタニスラス広場までやってきたとき、偶然ルイと父のシャルルに出会った。ルイとジャンヌが顔を合わせるのはその日が初めてだった。そして、三人が広場を渡ろうとして中央の記念碑まで来たとき、シャルルが急に胸苦しさを訴えた。ルイは万が一のことを考えて、結婚式に参列している家族を呼びに行ったのだった。

 

 

そう、映画はこの場面から始まるのである。主人公ジャンヌとその夫になるルイの出会いの場面は美しい。なぜならば、スタニスラス広場が美しく、そこに聳える凱旋門が美しく、ロレーヌの古都、ナンシーが美しい街だからである。そして、エマニュエル・ベアールが美しく、ルイを演じるダニエル・オートゥイユの凛々しい軍服姿が美しいからだ。言葉はそれを美しいとしか書くことができない。それ以上の言葉は過剰になるか、同義語との置き換えになるか、説明に堕するか、いずれかにしかならない。文学は、芸術であるために決死の覚悟で言葉によって言葉に切り込む。

だから逆に、この映画の美しい冒頭の場面を言葉に書き起こすにあたっては、むしろできるだけ描写しないようにした。しかし、この場面を小説の冒頭に置くことはできないと考えた。映画は、ジャンヌの少女期をいっさい描いていない。回想シーンもない。だから、小説ではそれを書くべきだと考えた。ジャンヌの少女期がどんなものであったか、それを想像し、言葉の世界に定着させるためのヒントなり情報なりは、映画の冒頭場面にあるはずだと考えた。映画の冒頭は次のように展開する(つまり小説は次のように続いているということです)。

 

昼時のせいで、スタニスラス広場は閑散としていた。広場の中央に建っているルイ十五世の彫像を戴く記念碑の石段は、ジャンヌがその日身につけた地味な紺色のワンピースの生地を通じて、ひやりと冷たかった。老人は、興奮してしまったようだな、とぽつりと言った。
「よくあることじゃないかね?」
 老人は笑みを浮かべ、静かなかすれ声で続けた。ジャンヌは老人の白髪を撫でてやった。心臓発作かもしれなかった。ジャンヌは死の気配を感じていた。だが、それでいて安堵のような、不思議な幸福感につつまれていた。久しぶりに接する老人の肌と声に、幼いころに祖父の膝の上で過ごした穏やかな時間がよみがえってきた。老人もまた、初対面なのにごく自然に自分をいたわってくれるこの女性に懐かしさのようなものを感じて、こう尋ねた。
「あなたの名前は?」
「ジャンヌです」
 彼女は老人に名前を尋ねられたことが、なぜかうれしかった。

 

 

映画配給会社の試写室でこの冒頭場面を初めて見たとき、圧倒されてしまったことを憶えている。ルイ十五世の彫像の建つ広場で、なぜ老人は美女の膝枕で横たわっているのか。なぜ映画監督はこの場面を冒頭に選んだのか?おそらく——と私は考えた——これは事実なのだ。この映画は、ルイス・ヴァルニエ監督が奔放な生涯を送った自分の母親をモデルに構想した映画であると聞いていた。おそらく、ヴァルニエ監督の両親はこのようにして出会ったのだと想像した。

だとするなら——と想像はさらに飛躍する——、初対面でこんなにも老人を安堵させてしまうジャンヌの幼年期には、老人(祖父)とのあいだに流れた親密な時間の記憶が眠っているはずだと考えたのである。そして、ジャンヌのエロスの根拠もそこにあると。映画は——小説は——さらにこんなふうに続く(少しはしょりますが)。

 

結局、この日の式は取りやめになった。ルイの父シャルルは、このときの発作から立ち直ることはなかった。シャルルは病床でときおりジャンヌの名前を呼んだ。そのたびにルイはジャンヌを呼びにいった。父親の白髪をやさしく撫でるジャンヌの姿に、ルイはたちまち恋に落ちた。生涯の伴侶はこの人しかいないと思い込んだ。彼はすでに三十歳になっていた。それまで彼は恋らしい恋をしたことがなかった。真面目いっぽうの軍人だった。

 

映画では、老人(ルイの父)はこの冒頭場面にしか出てこない。しかし、ルイとジャンヌをつなぐ重要な役割を果たしているのである。この老人はもう映画には登場しないけれども、観客の頭のなかには、冒頭の美しい場面とともに刷り込まれてしまっている。いわば記憶の通奏低音として流れ続けている。この無音の背景音楽を小説世界で再現するにはどうしたらいいか。

その苦肉の策として、小説の冒頭に、祖父が孫にキュベレー神話を語り聞かせるという場面を持ってきたのである。盲目の祖父、これはホメロスなのである。引用を続ける。

 

病床の父を仲立ちにした二人の恋は家族に祝福された。軍人との結婚に当初反対だった母親のソランジュも二人は幸福になるだろうと信じた。そもそも彼女は三女のジャンヌを早く結婚させたほうがいいと思っていた。ジャンヌの奔放な性格を誰よりもよく知っていたのは母親だった。長女のマチルドと次女のエレーヌについては心配していなかった。自分を延長して考えれば、だいたいの行動の予測はついた。だが三女については、しばしばこれが自分の娘だろうかとさえ思った。その男好きのする容貌としぐさはいったいどこから生まれてきたのか。父親の姿を見ることなく育ったせいだろうかとも考えた。いや、ひょっとすると祖父の影響かもしれないとも思った。ソランジュの母方の家系は代々軍人だった。だから、彼女も軍人と結婚した。だが、父方の家系はライン川を上り下りする川の民の末裔だった。ラインの川の民はどの国家にも属していなかった。川のジプシーとも呼ばれていた。船を住み処として、独自の言語を持ち、独自の生活習慣を持っていた。ソランジュの父、すなわちジャンヌをかわいがった祖父にはこの川の民の気質が色濃く残っていた。変わり者だった。普仏戦争で目を失って以来、まともな職業には一度もついたことがなく、軍人の家に嫁いだ娘に無心して暮らしていた。ソランジュの夫が戦死すると、その家に住みついた。長女や次女はこの祖父を疎んじたが、ジャンヌだけはなぜか懐いた。ジャンヌには川の民の血が流れている、母親はそう思うしかなかった。

 

川の民。映画には、この単語はおろか、それを匂わせる場面さえない。ジャンヌの奔放なエロスの根拠を強引に川に惹き寄せてみたかったのである。

現在、ヨーロッパと呼び習わされている地域は古代ローマが最大限領土を拡大した時代の版図と重なるということを教えられたのは高校時代だったか、大学時代だったか。古代ローマと言えば道である。石畳の舗装路である。すべての道はローマに通ずと言われる。なるほど、とてもわかりやすい。しかし、大量輸送路としての川、大河についてはあまり語られない。中国であれば、初期の文明の段階から黄河と揚子江が引き合いに出されるのに、ヨーロッパに関しては、経済の動脈路としての川が引き合いに出されることはあまりない。それは私たち日本人が近代化の模範としてのヨーロッパから学ぶことに忙しかったからだ。

フランスに限定していえば、セーヌ川も、ローヌ川も、ロワール川もかつては内陸を横断する大量輸送路としてはほとんど絶対的な存在だった。とりわけライン川はスイス・アルプスを源流として北海に向かう、ドイツとフランスの国境そのものだ。ストラスブール(ドイツ語読みすればストラスブルク)を越えたあたりでドイツ国内を流れ、オランダ国内に入って二股にわかれ、ロッテルダムのあたりで北海に注ぐ。

だが、産業革命の進行にともなって、陸路と鉄路が整備されていくにつれて経済路としての川は二番手三番手の地位に後退していく。それだけではない。民族国家としてのまとまりと締め付けが強まるにつれて、川の民もどの国家に帰属するのか意思を鮮明にし、戸籍の登録先を選ぶことを余儀なくされ、子供たちには国民教育を受けることが義務化される。そして国語が彼らの意識を占拠するようになる。

 

ジャンヌはルイの求愛に、最初ためらいをおぼえた。彼が軍人だったからだ。彼女の父も軍人だった。父はジャンヌが母親の胎内にいたとき、西部戦線で戦死した。一九一八年十一月十日、ドイツとの休戦協定が結ばれる前日のことだった。母は絶望と不安のなかでジャンヌを出産した。ジャンヌは軍人の妻であることの不安をすでに胎内で感じていた。

 

こんな場面も映画にはない。ジャンヌの父に関する情報はいっさいなかったと思う。エロスと死は男女の恋のなかにだけあるわけではない。国家の盲目の意志のなかにも、人間を戦争に駆り立てる情熱のなかにも、それは潜んでいる。三島由紀夫が生涯にわたって追い続けたテーマを、この映画の小説化を通じて、自分なりに変奏してみたかったのかもしれない。

次は第一章に引き継がれる導入部の締めくくりの一節である。

 

父シャルルの喪が明けた翌年の七月、ルイとジャンヌ、マルクとエレーヌの二組の結婚式が同時にとりおこなわれた。ジャンヌの白いウェディングドレスは、上気した彼女の肌にひときわ鮮やかに映えた。七月のナンシーのさわやかな風が吹き抜けると、その絹のドレスは風をたっぷりはらみ、ジャンヌは軽やかに笑みを振りまいた。ルイはこれほど美しい女が自分のものになるとは信じられなかった。ジャンヌと並んでカメラの前に立ったルイは彼女の耳もとにこうささやいた。
「ぼくの妻だとは思えないくらいきれいだよ」

(つづく)

 

*58 フランスの女・抄(1)

今回から、このブログで新たな展開を試みようと思います。

何回続くか見当がつきませんが、一冊の本のハイライトシーンを選んで、このブログで紹介しようという試みです。

本のタイトルは書影のとおり、『フランスの女』(早川文庫、一九九五年)。

表紙にはレジス・ヴァルニエ著、高橋啓訳と記されているけれども、この本は通常の翻訳作品とはちがうので、少し説明します。

レジス・ヴァルニエという著者については、映画ファンなら心当たりがあるでしょう。一九八六年にジェーン・バーキン主演の『悲しみのヴァイオリン』で映画監督としてデビューし、カトリーヌ・ドヌーヴ主演の『インドシナ』で一九九三年のアカデミー賞外国語映画賞、セザール賞では主要五部門を総なめにするという快挙を成し遂げたフランスを代表する映画監督のひとりです。

『フランスの女』はこのレジス・ヴァルニエの第四作目で、フランスで一九九五年に公開され、同じ年に日本でも公開されました。主演はエマニュエル・ベアール。ハリウッド女優にはない、なにか妖しさと危うさを秘めた、少し翳のあるブリジット・バルドー——若い人は知らないでしょうが——のような女優でした。

じつはわたしは、このベアール主演の映画作品を二度にわたって「翻訳」しているのです。一作目は『愛を弾く女』(早川文庫、一九九三年)、二作目がこの『フランスの女です』。わたしが原作を翻訳したという体裁で本は刊行されていますが、出版業界ではノヴェライゼーション(映画の小説化)と呼び習わされているジャンルの仕事です。

 

 

この仕事のための素材として訳者に与えられたのは、映画作品そのものとシナリオ、そしてプレス資料だけでした。その意味ではこのテクストは翻訳というより、いわゆるノヴェライゼーションと呼ぶべき作品ですが、映像とそれによって喚起された情動を言葉に書き写す作業という意味では、わたしは翻訳の延長だと考えております。(『フランスの女』訳者あとがき)

 

 

これを書いてから二十四年、ほぼ四半世紀の歳月が流れたのかと思うと、気の遠くなるような目眩にも似た気分に襲われます。当時わたしは四十歳を超えたばかり、東京で所帯を持ち、子供たちはまだ小学生か中学生、とにかく物を書く仕事で、金になることであれば何でもやった。戯曲の翻訳もやったし、大手ゼネコン会長さんの発明自叙伝のゴーストライターまで頼まれたことがあった。

翻訳であれ、ノヴェライズであれ、ゴーストライターであれ、世を忍ぶ仮の姿とはいわないまでも、その仕事に価値があるかないか、それが本業であるかないか、そんなことはお構いなしに、でも怖いので、目をつぶって清水の舞台から飛び降りる(?)ようなつもりで、与えられた仕事にぶつかっていった。後は野となれ山となれ、です。

野となったのか、山となったのかはわからないけれども、今は、こうして生まれ育った町に帰ってきて、老いた母と二人で暮らしています。

過去を振り返っている余裕はない。でも自分の立ち位置を確認する作業は、フリーランスという職業につきまとう業のようなものかもしれません。

自作の解説は野暮でしょう。まずは冒頭の数ページをお読みいただきたい。

幼いころ、ジャンヌは祖父に愛された。

ジャンヌはいつも祖父の膝の上にいた。祖父が庭に面したテラスに背の低い籐椅子を出して日向ぼっこをはじめると、どこからともなくジャンヌがやってきて、その膝の上にちょこんと座った。祖父は盲目だったが、話はことのほか上手だった。ラ・フォンテーヌの寓話やペローの童話をじつに巧みに脚色して、孫に語り聞かせた。ジャンヌは、その話の筋よりは耳もとで響く老人のかすれた柔らかい声が好きだった。その声は庭を流れる風の音や梢で鳴く鳥の声とまじって、ジャンヌの産毛におおわれた耳をそっとかすめていった。

ジャンヌはよく男の子にいじめられた。いじめられると祖父の膝に乗った。性的魅力{コケットリー}とはおそらく天賦のもの、美しさとはまた別の、天から降った才能なのだろう。ジャンヌの前に出ると、少年たちは不思議な魅力のようなものを感じるのだが、彼らにはそれが自分たちのうちに眠っている性が刺激されているとは思わないから、むしろ自分たちの野性を縛ってしまうその魔力に軽い苛立ちをおぼえる。そのつもりもないのにジャンヌをいじめ、仲間はずれにしてしまう結果になる。ジャンヌもまた、自分が無意識のうちに少年たちを惹きつけようとしているとは思っていないから、少年たちの邪険な態度に傷つく。だが、彼女の肉体が成熟のきざしを見せはじめ、彼らの肉体にも変化が訪れると、関係は一変した。彼らは彼女が自分たちの性を刺激していることを意識しはじめる。彼女も自分の身ぶりのひとつひとつに少年たちを動かす力のようなものがあることを意識しはじめる。するとジャンヌは少女たちから疎まれた。彼女にとって性とは自分のかけがえのない才能、あるいは自分の存在をあかしてくれる証拠のようなものだったが、いやおうなく自分を孤独にしてしまう宿命のようなものでもあった。

ジャンヌの祖父はじつに様々な物語を孫に語り聞かせた。そのなかでも幼いジャンヌの胸に深く刻み込まれたのは、ギリシア悲劇の大地母神キュベレーの物語だった。いつもなら、祖父の声はそよ風のようにジャンヌの耳を素通りしてしまうはずなのに、フランス語で〈シ・ベル〉(とても美しい)と発音するこの女神の話に、少女は異様な胸騒ぎをおぼえるのだった。祖父の声も心なしか上ずっているように聞こえた。

ゼウスが天空で眠っているとき、あやしげな夢をみて精をもらした。それが大地に落ちて、キュベレーが生まれた。キュベレーは両性を備えていたが、神々に男根を切り落とされ、女性にされた。男根は土深く埋められたが、そこからアーモンドの木が生え、やがて白い花を咲かせ、実を結ぶようになった。たまたま、川の神の娘がその近くを通りかかり、アーモンドの実を懐に入れた。娘は身重になり、アッティスという男の子を産み落とした。だが、この出生に不吉なものを感じて、山に捨てた。アッティスは雌山羊に育てられ、世にも稀な美少年になった。アッティスはキュベレーに見初められ、キュベレーは深くこの少年を愛した。少年もキュベレーの愛を裏切るまいと誓い、キュベレーはアッティスが永遠に少年に留まるように祈る。だが、この美少年に言い寄るものは数知れず、いつしか樹木のニンフと恋仲になってしまう。この恋に嫉妬したキュベレーはニンフの宿る木を切り倒して殺す。アッティスは悲しみに狂乱する。刃物や石で自分の体を傷つけ、ついにはみずからの男根を切り落として果てた。

ジャンヌの祖父は孫を膝の上に抱いて死んだ。ジャンヌは祖父が絶命していることに気づかなかった。眠ったのだと思った。いつも祖父はいくつかの物語を話し終えると、静かな寝息をたてた。その寝息がジャンヌの首筋に触れると、彼女は静かに祖父の膝から降り、膝掛けをかけてやってから家の中に入った。その日は寝息が首筋に当たらなかった。でも、寝たのだと思った。そして母親のソランジュに「おじいちゃん、寝てしまったよ」と言った。母親はいつものことだと思い、マカロンの生地を練る手を休めなかった。だが、その日にかぎって娘は執拗だった。「おじいちゃん、寝てしまったよ」と、母親が手を止めるまで繰り返した。ジャンヌが十歳のときのことだった。

 

 

(続く)

*57 ベートーヴェン、初期のカルテット

僕は今でもビニールのレコードを聴いています。

翻訳がはかどらなくなると、書く手を止めて、レコードを引っぱり出して、ターンテーブルの上に置き、軽くクリーナーをかけて埃を取り、アルコールを含んだ小さな刷毛で針先を拭い、おもむろにレコードに針を落とします。この儀式をしているうちに気分が落ち着いてくるのですね。

使っているプリメインアンプは四十年以上前に買ったラックスマンのL–309Vという機種で、ターンテーブルはやはり同じときに買ったヴィクターのQL-7、ダイレクトドライブです。

十年前に帯広に帰ったときには、どちらも半分死にかけていたので修理に出しました。ラックスマンの修理担当の技術者は、パーツがすべて製造中止になっているので部品交換はできませんが、接点だけ磨いておきましたというメモ書きを添えて送り返してきてくれました。使っても使わなくても、スイッチやノブはできるだけ動かすようにしてくださいとも記されていました。感動ものです。

ターンテーブルは地元のオーディオ専門店に持っていきました。ここでも丁寧に修理してくれて、小さなトランジスタをたくさん取り替えて、ちゃんと正確に回転するようにしてくれました。

こうしてここ十年、何の問題もなく、旧式のオーディオセットを鳴らしつづけてきたのでした。

ところが先月、突然、ターンテーブルの調子が悪くなって、三十三回転を維持できないどころか、加速度的に暴走するようになってしまった。またオーディオ専門店に持っていきました。うちは修理屋じゃないんで、今度は新しいの買ってくださいよ、ラックスマンもマッキントッシュもアキュフェーズも扱ってますから、とかぶつぶつ言いながらも、ちゃんと直してくれました。

今の機械はほとんどプリント配線になっていますから、部品交換をして直すというようなことはできません。下手すると基盤をそっくり取り替えなければならなず、それなら新品を買おうということになります。

無駄の多い世の中になりましたね。

ところで、話の本筋は機械のことではありません。

ターンテーブルが修理から帰ってきたので、配線のすべてを一度電源から外し、ジャックも全部抜いて接点を磨き、プリメインアンプのトーンコントロールも取り扱い説明書やネットの記事を読みながら、最初から調節し直してみたのです——高音、低音それぞれに三段階の周波数湾曲点切替スイッチとレベルコントールがついていてなかなか面倒なのですが、記事に書いてあるとおりにしてみると、これまで聴いていたのはなんだったのかと思うほど、音の響きが透明になった。音量を増しても耳障りな感じがしないのです。すっかり嬉しくなって、お気に入りのレコードを次から次へとかけていった。

僕の学生時代は七十年代でしたから、日本コロムビアのDENONレーベルから〈PCM〉録音の盤が続々と出始めたころでした。わが家にもこの〈PCM〉のレコードが何枚かあります。

スメタナ・カルテットが演奏するベートーベンの初期弦楽四重奏曲集もそのなかの一枚です(Beethoven; The Early String Quartets, Op.18/No.2 In G major/ No.4 In C minor)。

録音は一九七六年ですから、学生時代に買い求めたのでしょう。でも、いつどこで、どういうわけでこのレコードを買ったのか、もうわかりません。たぶん、なんとなく買ったのだと思います。というのも、このレコードを何度も聞き返したという記憶がそもそもないからです。

繰り返し聴いたのは、モーツァルトなら〈ハイドン・セット〉、ベートーベンなら九番の〈ラズモフスキー〉、十一番の〈セリオーソ〉、十五番とか、どちらかといえば後期に属するものばかりでした。まあ、一所懸命背伸びしていたのでしょう。

ところが、久しぶりにベートーヴェンの初期のカルテットに針を落としてみて、息を呑みました。こんなに美しい曲だったのか。軽快で溌剌として、希望に満ちたといっていいほどの瑞々しさ。

そう、若さそのものを突きつけられて唖然としてしまったのです。

聴く方が歳をとった、そう思うと胸に染みるものがあります。

僕が二十歳代に出始めの〈PCM〉録音のレコードを夢中になって聴いていたころには、まさか自分が翻訳という仕事に手を染め、日本コロムビア洋楽部の編集室に出入りするようになるとは思いもしなかった。

そこで学校を卒業したばかりの初々しい女性編集者と出会ったわけです。CDのライナーノーツの翻訳をどれくらいしましたかね。余ったレコードやCDの見本盤を何枚も頂戴しましたね。

懐かしいというより、前世の記憶のようですが、続きはこの次お会いしたときにでも。

お元気でお過ごしください。

*56 福音書に書かれていないこと(その2)

前の記事の最後に(つづく)と書いて、ただ日にちだけが過ぎ去っていく。たぶん何かを間違えたのだろう。書き出しの方向が違うとか、展開の仕方を間違えたとか、そういう技術的なことではないような気がする。

人としての、個人としてのイエス——いわゆる「史的イエス」——を追っていっても、数多あるイエス伝の、階上屋を重ねる類のことくらいしかできないに決まっている。たとえ努力して、夥しい時間を費やして、玄人はだしにもならない背伸びみたいな、はったりみたいなことをやってのけたとして、それがいったい何になるだろう。誰のためになるだろう。

書き方を変えなければならない。認識というものが、自分の外側にあってそれをなぞるものではなく、自分の内側にあって、それを掘り起こすものだとすれば、おのれの身の丈にあった形式の発見こそが、本当の認識の端緒になると信じよう。

 


 

「おい、いったい、あいつは何者だい?」

「知らないな。このへんのもんじゃないだろ?」

「なんでもナザレの出らしいよ」

「そんなやつが、どうしてこんなところで布教なんかしてるんだ」

「ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けたらしい」

「へぇ、ヨハネの弟子ってことか」

「だけどよ、ヨハネから洗礼を受けたやつはごまんといるだろ」

「なんでもそのあと四十日間断食したらしい」

「ふーん、どこで?」

「詳しくは知らないけど、人里離れたところらしいよ」

 

人々は最初は半信半疑である。そのうち、いろいろな噂が飛び交ってくる。

 

「おいおい、あいつ、病気を治すらしいぞ」

「病気って、どんな?」

「らい、とか」

「うそだろ、触れたらうつってしまうじゃないか」

「でも、みんなそう言ってる」

「悪魔払いもできるらしい」

「ほんとか?」

「うん、サタンよ、去れって言っただけで、悪魔が離れていく」

「おまえ、見たのか?」

「いや、だから噂だって」

「この目で見てみたいもんだね」

 

あるいは、

 

「見たわよ、見たわよ」

「え、なにを?」

「なにじゃなくて、ひとだよ、あのひとだよ」

「あのひとって?」

「いやだね、このひと、あのひとのことも知らないのかい。イエスさんのことだよ」

「え、あのイエスさん? 病気を治すイエスさん?」

「そうだよ!」

「どんなだった?」

「どんなもこんなも、ものすごい人だかりでさ。見えないんだよ」

「なんだ、見てないんだ」

 

というようなこともあっただろう。なにしろ福音書には、多いときには数千の人が集まってきたと書かれているから。噂は噂を呼び、どんどん広がっていく。

 

しかし、実際に見た人、声を聞いた人、話を聞いた人、触った人、触られた人もいただろう。たとえ少数であったとしても。最初のパン種。良い土地に落ちた何粒かの麦。

 

(つづく)

*55 福音書に書かれていないこと(その1)

福音書を読んでいて、どうにも気になるのが、イエスが生まれて成長する過程のことだ。つまり、どうして彼はヨルダン川のヨハネのところに行って洗礼を受け、みずからも「神の国」への道をのべ伝えようと思い立ったのか、それについては四つの福音書は、すべて口をつぐんでいる。もっとも、どの福音書も、洗礼者ヨハネが先に登場し、わたしのあとからわたしよりも優れた人がやってきて精霊で洗礼を授ける、わたしはその方の履き物の紐を解く値打ちもない、と口をそろえる。ヨハネは自分の伝道を受け継ぐかたちでイエスが登場してくることを知っていた。神のお告げということだろう。でも、なぜイエスがヨルダン川のヨハネのところに行って洗礼を受ける決心をしたのか、その動機については何も書かれていない。ヨハネが呼んだとも書かれていない。神の御心がそうさせた、ということなのか。

その一方で、イエスが生まれた過程についてはやたらに詳しく書かれている。とくにマタイとルカが詳しい。逆にマルコとヨハネではまったく何も記されていない。マルコでは「ナザレのイエス」とのみ記されている。これをふつうに読めば、「ナザレで生まれ育ったイエス」と受け取る。でも、マタイもルカも、それが気に入らなかったらしい。われわれの神が、どこの馬の骨かもわからない、では困ると言わんばかりに。

マタイは長たらしい系図から、その福音書を書きはじめる。「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」それがマタイによる福音書の冒頭の一行だ。そしてえんえんと、アブラハムからダビデへ、ダビデからマリア、イエスへと人の名を連ねている。この系図が何に基づいているのか、それについての言及はないけれども。

ルカにも系図は出てくるが、同じひとの系図とは思えないほどマタイとは異なっているうえに、イエスがヨハネから洗礼を受ける場面のあとに置かれている。その前にイエス誕生の経緯が語られるのだが、それはどの福音書よりも詳細に、念入りに記されている。まずは洗礼者ヨハネの誕生が予告される。大天使ガブリエルが老祭司ザカリアの前に立ち、生涯不妊だったエリザベトが男の子を産むと告げ、その子をヨハネと名づけよと命じる。はたしてエリザベトは身ごもり、五ヵ月間身を隠した。六ヵ月目に大天使ガブリエルは、ガリラヤのナザレに赴き、ダビデ家のヨセフの許嫁マリアのもとを訪れた。「おまえは身ごもって男の子を産む。その子をイエスと名づけよ」。まだ結婚していないので、驚くマリアに告げる。「驚くことはない。おまえの親類のエリザベトも老いて身ごもり、すでに六ヵ月になっている。神にできないことはない」。マリアはこのお告げを確かめるべく、ユダの町のザカリアの家に行き、エリザベトに挨拶をした。するとザカリアの胎内の子が踊ったので、彼女は精霊に満たされてマリアに応えた。「あなたは祝福された方、胎内の子も祝福されている」。こうしてエリザベトはのちに洗礼者ヨハネとなる男の子を産んだ。

さて、イエスそのひとの誕生の過程はもっと込み入っている。ローマ皇帝アウグストゥスが全領土の住民に向けて住民登録のお触れを出した。ガリラヤの地もローマの支配下にあったので、人々はみな登録のために自分の祖先の町へと旅立つことになった。ヨセフはダビデの血を引く家の出だったので、身ごもっていたマリアも一緒に連れて、ガリラヤの町ナザレから、ダビデの町であるユダヤのベツレヘムへと向かった。ところがベツレヘムに入ると、マリアが産気づいた。宿には彼らの泊まる場所がなかったので、厩で出産し、産まれた子を布にくるんで飼い葉桶のなかに寝せた。乳飲み子の清めの期間が過ぎるとエルサレムに上って、律法の定めどおり祭壇に捧げて神の祝福を授かり、ようやく親子はガリラヤのナザレに戻ってきたのだった。

妊婦を連れ、あるいは乳飲み子を連れての、この旅路はさぞたいへんだったろうと想像されるけれども、この行程に不自然なところはない。系図を後回しにして、ここではさりげなく、マリアの夫のヨセフがダビデの家系に属していると記しているところも自然に読める。

マタイには住民登録の記述はない。ストレートに「イエスはヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムに生まれた」と書いてある。ただし、そのあとが複雑である。占星術師が救世主がベツレヘムに生まれると予言するのを聞いたヘロデ王は、そうなればローマ皇帝の傀儡に過ぎないユダヤの王という自分の地位が危ないと感じ、ベツレヘムとその周辺一帯の二歳以下の子を皆殺しにしてしまったのである。むろんヨセフとマリアのもとには天使が現れ、ヘロデがその子を探し出して殺そうとしている、エジプトに逃げよと告げたので、その夜のうちにベツレヘムを去っていた。そしてヘロデが死ぬまでエジプトに留まっていた。ヘロデが死んだので、親子はイスラエルの地に戻ろうとしたが、その子アルケラオが王位を継いでいると聞いて、ベツレヘムに帰るのは躊躇した。そのときガリラヤのナザレに行けというお告げがあった。こうしてイエスは「ナザレのイエス」と呼ばれることになったというのである。

どことなく不自然である。エジプトまで逃げたのかという驚き、そして帰ってきたのはいいけれど、夢のお告げがあって、故郷のベツレヘムではなく、ガリラヤという辺境(と言っていいのかどうかわからないけれど)の小さな町ナザレに住みついたというのが、なんとなく取って付けたような感じがする。

そんなことを言い出せば、老いてから懐妊したザカリアの妻エリザベトにしても、まだ許嫁だった時期に「精霊」によって懐妊したマリアのくだりにしても、不自然というより超自然の現象に属することを記している福音書そのものを疑うことになる。

二千年も昔に書かれた宗教書を現代の眼で疑ってみても意味はない。合理主義の眼でもなく、信仰の眼でもなく、まっすぐに読んでみると、そこには書かれたもの(テクスト)と書いた人(福音書記者)の影だけが浮かび上がってくる。

影と書いたのは、四人の福音書記者たちは名前こそ残っているものの、彼らが何者なのかほどんどわかっていないからだ。調べてみても、初期の、まだ教団の形も教義も流動的だった時代の、ある特定のグループ(派閥)に属していたのではないか、その程度のことしか想像できない。

しかし、テクストは語ってくれる。読めば読むほど、この四つの福音書は個性的に書かれていると感じられてくる。共通した部分があればあるほど、差異が際立ってくる。

四福音書のうち、最初に書かれたと言われているマルコ福音書はこのなかでは一番短いけれど、切れ味のするどい匕首のようだと思うようになったのは最近のことだ。

最初に聖書を手にして読んだのは十代の終わりだった。もちろん新約聖書を開いたときに最初に出てくる「マタイによる福音書」から読んだ。ただもう圧倒された。手に汗を握って読んだ。どんな本、どんな小説、どんな哲学書よりも、迫力があった。けれど信仰に向かおうとしたことは一度もない。

しかし、折に触れて、この本のせいで人生を間違えたのだろうなと思うことはある。そんなことを思ったところで時すでに遅し、人生をやり直すことはできない。

マルコの福音書は、文字どおり単刀直入である。

イエス・キリストの福音の初め。

この第一行からいきなり本題に入る。イザヤの預言どおり、荒れ野にヨハネが現れて、ヨルダン川で人々に洗礼を授けている場面から始まる。ヨハネは毛皮の衣をまとい、腰には革の帯を締めている。食べ物はいなごと野の蜜。まるで原始の生活にもどったかのようだ。そこに忽然とイエスと名乗る男が現れる。そして、ヨハネから洗礼を受ける。それが順序であるかのように。そしてイエスも荒れ野に出る。四十日間荒れ野にとどまり、試練を受け、悪魔からの誘いをはねつける。

ヨハネが捕らえられ、時は満ちたと感じたイエスは、自分の生まれ育ったガリラヤへと向かう。

若いときにこの冒頭を読んだときには、もの足らないと感じた。とりわけマタイを読んだあとでは、すかすかで、何か粗っぽい感じ、場合によっては幼い感じさえした。

マルコのギリシア語は拙いのかもしれない。翻訳で読むかぎり、そのあたりのことはわからない。わからなくともいい。何度も読んでいるうちに、何かが伝わってくる。読書百遍、意おのずから通ずという。言霊のようなもの。著者の思いのエッセンスのようなもの。

とはいえ、この福音書を読むという行為には、永遠に違和感が伴う。いきなりヨハネの洗礼シーンがあり、そこに颯爽と(?)イエスが登場する。それはいい。マルコは余計なことを書かない。マタイやルカのように、イエスの生い立ちについては何も触れていない。イエスが布教するようになったとき、人々に説いた「福音」(よい知らせ)とはどういうものだったのか。彼はそれをどのように伝えたのか。生い立ちなどどうでもいい。イエスは生い立ちを捨てたのだから。マルコは全篇を通じて、そう語りかけてくる。

けれども、何がきっかけで、何が動機で、彼は生い立ちを捨て、家族を捨て、ヨハネのいるヨルダン川の岸辺に向かったのか。ヨハネに洗礼を受ける前に、彼は決断している。覚悟している。ルビコン川を渡ったカエサルのように。

そして、四十日間の断食を経て、ヨハネが捕らえられ、時は満ちたと感じる。そしてガリラヤという自分の生まれた風景のなかで、彼は「福音」を伝えはじめる。その「福音」はどこから来たのか。ヨハネによる洗礼のなかからなのか。荒れ野の四十日間のなかからなのか。それとも、それよりもはるか以前に彼の心に芽生えた何かなのか。

マルコは空白に満ちている。

あるいは、唐突というべきなのかもしれない。

真新しい世界が次から次へと開かれていく。しかも、唐突に。

彼はガリラヤ湖のほとりで、宣教を開始する。湖で網を打っている漁師を見て、いきなり声をかける。「人間をとる漁師にしてやろう」。彼はこの四人の漁師になんらかの資質を見たのではない。網を打つ漁師の姿が眼に入った。次の瞬間にはもう声をかけていた。おそらく考えたり、躊躇したり、迷ったりはしていない。

そう、誰でもよかったのだ。自分の弟子に相応しい聡明そうな青年を選んだわけではないのだ。湖のほとりを歩いているところだったから、漁師だったにすぎない。そのとき麦畑のそばを歩いていたのなら、農夫だったろう。彼は選ばない。愛されたひとではあったかもしれないが、選ばれたひとではなかった。

だから彼はいたるところで、ぎくしゃくする。ノッキングのような、奇妙な反応を示す。よせばいいのに、生まれ育ったナザレにまで足を伸ばし、会堂で教えはじめる。すると地元の人々はいぶかる。「この男はいったいどこからこんな知恵を仕入れてきたのだろう。そもそもこいつは大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹はここの住人ではないか」。そこでイエスは「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族のあいだだけである」と答える。ナザレでは実際、ごくわずかな数の病人に触れて癒しただけで、特段奇蹟のようなことは起こせなかったとマルコは記す。

このくだりを読む読者は誰もが思うだろう。わかっているのなら、なぜナザレに足を踏み入れた、敬遠すればよかったじゃないか。魔が差したか。心のゆるみか。それともやはり生まれ育った町を一目見ておきたかったか。いずれエルサレムの都に上り、天に召されることを知っていたから?

いやいや、こういう箇所では、イエスの思考や感情を追わないほうがいい。それは神学に至る道であっても、読書のたどる道ではないから。マルコがこう書いているということのほうがずっと大事なのだ。なぜならば、ルカはこのようには書いていないから。彼は会堂で預言者イザヤの巻物を広げ、読みあげる。人々はイエスを褒め、その口から出る恵み深い言葉に感銘を受けたが、驚きもした。なぜならば、目の前にいる人物がヨセフの子であることは誰もが知っていることであったから。それを察したイエスは「預言者は故郷では容れられない。預言者は故郷に災いが起こっても何もできない」とうそぶく。すると人々は総立ちになって憤慨し、イエスを町の外に追い出し崖から突き落とそうとした。イエスはそれをかわして立ち去った。

ルカはそう書いた。ルカはイエスにイザヤ書を開けさせ、イザヤ書の預言が成就したことを強調し、イエスのことを「ヨセフの子」と書いて、大工だとも兄弟姉妹がここに住んでいるとも書いていない。マルコは「マリアの息子」と書いた。ヨセフの名はない。これではマリアの私生児だと言っているのと同じではないか。

憤慨したのはルカであったかもしれない。こんなふうに神の出自を書くとは冒瀆であると。そうとは思わずマルコは書いたのか。いや、そうではないだろう。マルコはイエスという男が何者であったか、はっきりと知っていた。生業は大工であった。マリアという母と、兄弟姉妹がいた。マルコはこんな場面も描いている。

大勢の人々がイエスを取り巻いて座っている。たとえ話を持ち出して、神の国のなんたるかを説明しようとしていたのかもしれないし、あるいはわずかな食べ物を囲んで宴をひらいていたのかもしれない。そういったことは記されていないのだが、とにかくそこに「母と兄弟」が迎えにやってきた。そのことを知らされたイエスはこう答える。「わたしの兄弟、わたしの母とは誰のことか」そして周囲に座っている人々を見回して言う。「ここにいるのがわたしの母、わたしの兄弟である。神の意志をおこなうものこそ、わたしの兄弟、わたしの母なのだ」。

明らかに彼は家族を拒否している。ナザレでひどい目に遭っているから、その腹いせか。それとも彼は「出家」の思想を語っているのか。それともよく見かける光景というべきか。「思想」にかぶれ、「宗教」にかぶれた息子を呼び戻そうとする母の映像を何度見せられたことか。

それは置いておこう。元大工でマリアという母の子であった男が、いつどこで奇蹟を起こす術を身につけ、その言葉で人々を魅了することができるようになったのか。ここにも空白がある。

ルカはそのことに気づいていた。ヨセフとマリアとイエスの三人の親子が、ユダヤのベツレヘムからガリラヤのナザレに帰ってきたという記述のあと、洗礼者ヨハネ登場の場面のあいだに、彼はほかの三福音書にはない場面を挿入している。ほかならぬイエスの幼年期のエピソードである。

イエスの両親は、毎年過越の祭にはエルサレムに上った。イエスが十二歳のとき、祭が終わって帰路についたとき、旅の一行のなかに自分の息子がいないことに気づいた。捜しながらエルサレムに引き返すと、神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、熱心に話を聞き質問しているわが子の姿を見つけた。マリアが、どうして一緒に行動せずに、ここに残ったのか、みな心配して捜し回ったではないかと咎めると、少年イエスは、自分は父の家にいたのだから、心配することはなかったのにと答えた。両親にはその言葉の意味がわからなかったが、イエスはおとなしくナザレに帰り、その後は両親に仕えて暮らした。イエスは成長し、神と人々に愛されて暮らしたが、母のマリアはこの一件を忘れることはなかった。

物語の淀みない進行と、流暢な語り口を大切にするルカにしては珍しく取って付けたような唐突感がある。ルカの作り話だとは言わないし、言う資格もないし、証明のしようもないが、人間イエスの姿を描こうとすれば、どうしても出自について、その成長過程を再現してみたくなるのは人情というものだ。じつはイエスの幼年期を描いたテクストはけっこう残されている。たとえば「外典」とか「偽典」とか呼ばれる書物の一群のなかに、「トマスによるイエスの幼児物語」と題されたテクストがある。

これを初めて目にしたとき、ほとんど驚嘆に近い気持ちを抱いたことを今でも憶えている。こんな文書が残されていたのかという驚き。「@正典{カノン}」と呼ばれる、どこか敷居が高く、よそよそしい構えの「聖書」とは違って、親しみのある、われわれにとっては漫画のような、あるいは手を替え品を替え、語り継がれ語り直されてきた孫悟空の伝説のような、そんな印象を覚えたのである。たしかにこれでは「正典」のなかには含められないだろうな、とは思いつつ。驚きはもう一つ、今紹介したルカに描かれているエピソードが、そっくりそのまま引かれているのだ、しかも最後の章に。一瞬、ルカはここからあのエピソードを取ったのかと早合点した。しかし、そんなことがあるはずがない。解説を読めば、書かれたのはおそらく二世紀の終わりと記されている。ルカは一世紀の終わりころと推定されているから、百年の開きがある。でも、たった百年なのだ!

この本もまた何の前提もなく、いきなり佳境に入ってしまう。たとえばこうだ。

イエスが五歳のときのこと、雨が降って濁った川の流れを穴に集め、言葉で命じただけで、即座に清くしてしまった。また粘土をこねて十二羽の雀を作った。なぜ安息日にしてはならないことをするのかと父親に叱られたので、粘土の雀に向かって飛んでいけと命じた。すると雀たちは羽を広げ、いっせいに飛び立っていった。

なぜ、こんな荒唐無稽な物語に夢中になったのか。むろん、荒唐無稽だからである。荒唐無稽は意識して書けるものではないし、ふざけて書けるものでもないことは、お笑い天国に住むわれわれには説明のいらないことである。そして、この荒唐無稽は何よりも福音書に通じる。必ずしも悪魔払いや死者をよみがえらせるシーンのことを言っているのではない。むしろ、たとえば次のような場面。

ベタニアからエルサレムに向かおうとして、イエスは空腹を覚える。いちじくの木に実がついていないか確かめようとして近づいていくが、生い茂る葉のほかには何も見えない。いちじくが実をつける季節ではなかったのだ。すると、イエスはその木に向かって言った。「こののちいつまでも、おまえから実を食べるものはいないだろう」

そのとおりになったかどうかは書かれていない。ただ、その場にいた弟子たちはたしかにその言葉を聞いていた、とわざわざ念を押すように締めくくられている。

たぶん、弟子たちはあきれたのだ。読んでいるわたしたちもあきれる。いちじくの木に八つ当たりしているとしか読めないからだ。「トマスによるイエスの幼児物語」には、こんな場面が描かれている。

イエスが道を歩いていると、子供が走ってきて肩に突き当たった。イエスは怒って「おまえはもう道を進めなくなる」と言った。すると子供はその場に倒れて死んでしまった。

こんなものは奇蹟でも何でもない。いわば超能力の無駄遣いだ。トマスはただいたずらに、思いつくままにこんなでたらめを書いたのだろうか。こんなでたらめを書いて喜んでいる大人がいるとしたら、それは変態か、精神に異常を来しているか、どちらかだ。おそらく、こういう根も葉もない伝説も残っていたのだろう。トマスはこの伝説に興味を覚えて書き記した。そう思ったほうが納得する。

福音書に描かれているのは、民衆に愛されたイエスの姿だ。民衆の信じたイエスの姿、民衆が語り継いだイエスの姿が文字になって残っている。史実かどうか問うことは意味をなさない。史的イエスの姿は確かめる術もない。福音書から始まって、福音書に還ってくる。福音書は閉ざされている。信仰は閉ざされている。

読書もまた閉ざされている。目の前の本を読むには、まずその本を信じなければならない。

(つづく)

*54 異様なものとしての文字

前回のブログ(*53)で、「文字というものは、神聖なものである前に、異様なものだという自覚が欲しい」と書いた。

どういう意図で書いたのか、補足しておく必要があるだろう。

 

 

最近はどうも固有名詞がなかなか思い出せなくて苦労する。年のせいだよと言われればそれまでだが、どうもそれだけではないような気もする。ま、それはそれとして、

たしか、保坂和志の言葉だったと記憶するのだが、どの作品に書かれてあったのか、どうしても思い出せない。思い出せないということは、それ自体で不快だし、おもしろくないし、元気がなくなる。本棚にある十冊ほどの彼の作品をぱらぱらとめくってみたのだが、あきらめた。

こんなことが書かれてあったはずだ(勝手に読み替えていたらごめんなさい)、

文字による描写というものは、そもそも不自然なものである。画家が二次元の画布に三次元の空間を再現しようとするのに似ている、と。そう、文字は抽象的な記号に過ぎない。その組み合わせによって、われわれの脳内に三次元の空間を再現しようとするのが描写である。風景であれ、人の表情であれ。

でも、文学に描写が出現するのはつい最近のことだ。すくなくとも意識して何かを描写し、あるいは描写することを目的として文字を書くという試みが出現したのは。つまり、近代文学の誕生。あるいは小説の誕生。

では、その前には何があったのか。歌と語り、とふつうは答えるだろう。そして、文字の出現はそのずっと後である、と続けるだろう、たぶん。しかし、そこでちょっと待て、と半畳を入れるのが「哲学」の役割だ、とベルクソンなら言うだろう。

最初に話し言葉があって、その話し言葉をなぞるために文字が生まれた、となんとなく、われわれは信じこんでいる。しかし、言葉(language)と文字(écriture)は出自も起源も成り立ちも違うものだと考えてみたらどうなるか。言葉のほうは比較的簡単だ。動物たちも言葉を持っているからだ。たとえプリミティブで分節化があまり進んでいないにしても、彼らもまた意思疎通の道具としての言語を持っている。おそらくは、花を咲かせ、種を飛ばす植物さえも。

しかし、文字となると、これははっきりと言える。動物は文字を持たない。もちろん植物も。

人間は言葉を書き写すために文字を発明したのか? そうではないだろう。こんなことを考えるようになったのは——はっきりと憶えている——『文字の歴史』(L’écriture, mémoire des hommes; col. Découvertes Gallimard, 1987)を翻訳していたときだった。後半部の「資料篇」のなかに、ロラン・バルトの『記号の帝国』(l’Empire des signes)からの引用があった。

 

日本の文房具屋では、表意文字そのものが商売の対象となっている。この表意文字はわれわれの目には絵画からの派生物に見えるのだが、じつはごく単純に言って絵画の根本をなすものである(芸術の起源は刻むことにあるので、表現することにはないということは大事なことである)。〔元の訳が不十分なので、新たに訳し直した〕

 

ロラン・バルトらしい炯眼だと、そのとき直感的に思った。が、その時点ではそれ以上深く考えることをしなかった。この「刻む」という行為は、しかし、何のために行われるのか? バルトなら、それは快楽(plaisir)だと答えるだろう。それもあるだろう。ただ、それを言うなら、手を動かす行為はすべて快楽に結びつくことになる。

そうではなく、祈りと結びついていると思えてならないのだ(快楽と祈りもまた同根かもしれないけれど)。

人によっては、円空を思い出すかもしれない。

無心になって彫る。自分の心が手と化す。

学生時代に棟方志功の回顧展を見たとき——「十大弟子」の迫力に圧倒されて——、これは二次元の彫刻だと思ったことがある。

あるいはミケランジェロの、二つの〈ピエタ〉。

あるいは護国寺の山門で仁王像を刻んでいる運慶を描いた漱石(『夢十夜』のなかの「第六夜」)。

われわれはすでに近代の教育に毒されているから、どれも「芸術作品」だと思って見てしまう。

けれど、彫刻と墓石とどこが違うかと考えてみることはしない。版木と卒塔婆とどう違うかと考えたりはしない。

人は石に何かを刻み、木に何かを刻んでいるときに、死者と語らっているのではないか。だから、

言葉(language)は、他者と意思を取り交わし、空間を飛び越えて、遠くに何かを伝えるための声であり、文字(écriture)は死者に語りかけ、その魂を鎮め、時間を越えるための印ではないのか。

 

 

だから、もちろん、ある意味では、やはり文字は神聖なものなのだ。でも、初めから神聖なものとしてそこにあったわけではないだろう。

死者を埋めたところに石を置く。あるいは木を立てる。

目印のために。でも、

石の、木の数が多くなると、区別がつかなくなる。

だから、記号が必要になってくる。

そして、人は区別というものを知るようになる。区別が向こう側にあるのではなく、自分の内側にあるということを知るようになる。

そして、最初は単純だった記号が複雑になり、精緻になり、やがて似姿を描けるようになり、ひとつの体系を形づくるようになる。言葉(language)が複雑な分節化の経路をへて、言語(langue)という規範になっていくように。

そして、その過程のどこかの時点で、記号は言葉を写せることに気づき、言葉は記号となって時間を超えられることに気づくのだ。

それが幸福な結婚であったかどうかは、人間の歴史が証明している。

人間の歴史は戦争の歴史だ。ある体系とある体系のどちらが強いか、食うか食われるか。われわれは死滅した言語を数えることはできない。なぜなら、それは死滅してしまったからだ。

 

 

もうひとつ考えなければならないことがある。人間の文明にとって、定着とは何かということ。そして、遊牧と移動から生まれた文化と信仰とは何かという問題。それと言語との関わり、文字との関わり。

でも、それは永遠の宿題のような問題だ。少しずつ考えていくことにしよう。

*53 福音

塾で聖書を取り上げることにした。

新約聖書に収められている四福音書のうち、もっとも早い時期に書かれたと言われている「マルコによる福音書」。

それをフランス語訳で読み、翻訳する余裕のある人は試訳を提出してもらい、フランス語と日本語を付き合わせてみようという試みである。

なぜそんなことをするのかと問われると、少し困る。どこから説明すればいいのか・・・・・・。

 

 

少し遠回しになるが、直訳と意訳という言葉から考えていってみよう。この二つの言葉は単純な反意語のように見えるが、じつは翻訳という作業にまつわる一筋縄ではいかない複雑な内容を含んでいる。

たとえば、bonjour という言葉がある。ふつう、おはよう、こんにちは、などと訳される。フランス語の場合、午前と午後の挨拶に区別はない。夜に bonjour と言ったとしても、そんなに違和感はない。挨拶の言葉として、bonjour は幅広く使われるからだ。

初対面のとき、日本語で言う「初めまして」に当たる言葉として、「アンシャンテ」[enchanté (e) ]という言葉があるが、これはちょっとかしこまった感じのする挨拶である。もっとくだけた場面では「ボンジュール」を使う。お店やレストランのドアを開ければ、「ボンジュール」と声をかけられる。これを「こんにちは」と訳したのでは、その場の雰囲気が正しく伝わらないだろう。日本なら「いらっしゃいませ」と言うのが一般的だから。

つまり、bonjour に一対一で対応する日本語はないということだ。状況に合わせて、訳語を選定しているということになる。言い換えれば、bonjour を「直訳」する言葉はない。

これは基本的にはすべての単語に当てはまる。すなわち直訳は存在しないという結論になる。

しかし、そんなに簡単に結論していいものか。翻訳はつまるところ意訳なのだから、その場の雰囲気さえ伝わればどう訳してもよいということになるだろうか?

これはじつは、翻訳とは何かという根本的な問題なのである。翻訳は厳密に言えば意味しか伝えられない。音は伝えられない(カタカナによる音写は、ふつう翻訳とは言わない)。相手の言語が持つ特有のリズム、音楽性は伝えることができない。それはこちら側のまったく異なる言語の音楽とリズムに置き換えるしかない。それこそが翻訳であり、あるいは翻訳の不可能性であり、あるいはだからこそ翻訳の醍醐味なのだと言い換えてもいい。

ここで直訳と意訳に関する定義を見直してみよう。直訳とは、原文に記された音とその背景にある状況(コンテクスト)をそのまま他言語に置き換えることであり、意訳とは原文の意味を汲み取り、解釈するものであると。前者は、原文が短ければ訳文も短くなり、原文が美文であれば、訳文も美文調になり、原文が拙ければ、訳文も拙くなる。後者は、原文の意図するところ(書き手が書きたかったこと)を解釈し、想像し、原文の長さ、調子にとらわれずに、意味だけを十全に読者に伝えることを目的とする。

前者は理想的であり、後者は便宜的だということになる。もちろん100%の前者もないし、100%の後者もない。その都度、テクストの様態によって前者に傾いたり、後者に傾いたりする。統辞も文法もまったく異なる言語同士の交渉であり、取引なのだから、そうならざるを得ない。

それが聖書とどういう関係があるのか。それが問題である。

 

 

しばらく前にこのブログに掲載した記事(*50 持ち重りのする言葉)のなかで、福音書がギリシア語で書かれた時代的背景について少し触れた。

 

福音書の主人公であるナザレ生まれのイエスはユダヤ人である。使徒と呼ばれる最初の弟子たちもユダヤ人である。イエスが論争した相手の律法学者たちも、もちろんユダヤ人である。ユダヤ人である以上は、当時のユダヤ人の日常語であるアラム語を話していた。ならば、なぜアラム語で書かなかったのか。なぜ文語のヘブライ語で書かなかったのか。

 

こう書けば、そして、これを読めば、なるほど、そうなのか、と思うかもしれない。しかし、ふつうは——信者でもなく研究者でもなく、ごく一般の読者という意味——聖書が何語で書かれたのかということ自体に興味を持つ人は少ない。日本語訳を読む人すら少ないののだから、大元が何語で書かれているのかについて関心を持つきっかけさえないというのが実情だろう。

これは大きな問題である。聖書を読む人が少ないのが問題なのではない。キリスト教関係者でもないのに、そんなことを問題視するわけがない。

信仰にとって、書かれたものは本当に必要なのだろうか、という問題である。

ごく最近まで——近代の国民教育が始まるまで——、どの国、どの民族であっても、文字を読める人は少数だった。一部の聖職者、知識人が書物の富を独占していたと言ってもいい。

「聖書に帰れ」とマルティン・ルターは主張し、みずから新約聖書も旧約聖書も、それぞれギリシア語、ヘブライ語から、当時の俗語であるドイツ語に翻訳したが、そもそも当時の民衆の大半は文字を識らなかったはずである。聖書の内容は聖職者の言葉と教会を飾る絵画や彫像によって、間接的に親しむほかなかった。

しかし、そのことが彼らの信仰の基盤を疑うということにはならない。教会の階層としては、神がいて、聖職者がいて、一般信徒がいるということになるだろうが、ルターはそうは考えなかった。一般信徒が聖書を読めるようになれば、聖職者は不要になる。神と信者は一体化できる。聖職者の腐敗など起こりようもなくなると。

政治的理想論からすれば、これは正しい見解かもしれない。

けれども、こういう考え方もあるのではないか。マルティン・ルターは徹頭徹尾知識人であった。最初から最後まで、文字そのものを「聖なるもの」と見なしていた。

だが、文字はそもそも神聖なものであるか?

信仰にとって文字は必要なものであるか?

イエスはなぜにあれほどまで、古代パレスティナの知識人であり法学者であった律法学者たちに食ってかかったのか?

なぜ、無知な子供を抱き上げ、手を置いて祝福したのか?

そもそも荒野での四十日間の試練から帰ってくると、なぜにいきなり、あるいはまるで手当たりしだいに、ガリラヤの湖で網を打っていた四人の漁師——どう考えても文字を識る人々ではなかった——を弟子にしてしまうのか?

そもそもイエスは文字を読むことができたのか? 文字を書くシーンはヨハネの福音書にしか出てこない。

この問題はキリスト教にかぎったものではない。

親鸞聖人はなぜ、(たとえ意味はわからなくとも)念仏を唱えさえすれば極楽浄土に行けると説いたのか?

 

 

福音書を虚心に読むこと。そう、虚心に、そしてまず読むこと。翻訳はその次にやってくる。書かれたとおりに読んでみること。もちろん、われわれはギリシア語で読むのではない。しかし、そんなことはどうでもいい。原語のギリシア語で厳密に読む作業は専門家に任せておけばいい。そして、ときどき参考にさせてもらえばいい。

ギリシア語でもなく、日本語でもなく、フランス語で読むことに意味はあるか? たいして意味はない。語学そのものの勉強になるわけでもない。

ただ、日本語で読むと、なんとなく読めてしまう。あるいは字面をさっとかすめてしまう。外国語の抵抗感がほしい。ほんらい読むということは、そういうことなのだ。小学校から、高校・大学まで、あるいは日常生活においても、われわれは日本語という母語を空気のように吸って生きている。なんとなく、それが当たり前のように。しかし、文字というものは、神聖なものである前に、異様なものだという自覚が欲しい。

文字の発明とその使用は、ひょっとすると言語の使用よりも人間を変えてしまったかもしれない。それについてはここでは論じない(おそらく書き出せば収拾がつかなくなるだろうから)。

だが、これだけは意識しておきたい。イエスは文字を書けたか書けなかったか、それを証明することはできない。しかし、福音書を書いたのは、マルコ、マタイ、ルカ、ヨハネの四人だ。彼らがイエスを直接知る人ではなかった、つまり弟子(使徒)ではなかったことは、聖書学の常識となっている。

ソクラテスもみずから書いたものを残さなかった。弟子のプラトンが書いた。しかも、書く行為に頼りすぎることをたしなめているソクラテス像まで書いている(どの作品だったか、今は思い出せない)。

論語も孔子が書いたものではない。

数ある仏典も、ブッダが書き残したものではない。ブッダは悟りをひらいたとき、これを他者に伝えることは不可能だろうと思った。つまり、自分の体験を言語化することを断念しようとしたと伝えられている。

これはどういうことなのか?

福音書を虚心に読むということは、解釈から無限に遠ざかることを意味する。それは神学を拒絶することでもある。ありのままにフラットに読むこと。読むことのうちにすでに解釈は含まれている。われわれは読むときに、すでに「意訳」している。この無意識の「意訳」を意識して剥ぎ取り、「直訳」のような状態に還元すること。

その果てに何が見えてくるか。見えてくるかどうかはわからない。ついに見えてこないかもしれない。

それでもいいから、やってみること。そう思い立ったのである。

*52 母音


 

黒いA{あ}、白いE{う}、赤いI{い}、緑のU{ゆ}、青いO{お}、母音たちよ、

いつの日か語ろう、おまえたちの隠された生い立ちを。

A、毛ぶかい黒の胸当て、無惨な腐臭をめぐり

ぶんぶん飛びまわる燦めく蠅たちの。

 

陰の入江、E、湯気と天幕の無垢、

気高き氷河の切っ先、白き列王、傘形の花のふるえ。

I、緋の衣、吐血、美しきくちびるの嗤い

怒りに、悔悛に酔いしれながら。

 

U、緑青の海の、聖なる回帰と揺らぎ、

家畜らの点在する牧場の安らぎ、錬金の

奥義を求める碩学の額に刻まれた皺の安らぎ。

 

O、至高の喇叭、奇怪な甲高き叫び声に充ち、

数しれぬ世と天界の経てきた沈黙。

——おお、終末{オメガ}よ、紫の光を放つ、その両の眼よ!

 


第十七回目(二月二十日)の例会で、アルチュール・ランボーの「母音」の翻訳を取り上げてみた。もちろん、ランボーにかぎらず、詩の翻訳はむずかしい。不可能と言いたくなるほどに。でも、不可能ではない。もし、詩の翻訳が不可能だというのなら、翻訳そのものが不可能な行為であると言わなければならない。それが、三十年あまり、翻訳という仕事を生業として生きてきた人間の思想である。

そこに鳴り響く音を置き換えることはできないか。そこで休止し、読点を打ち、句点を打った著者の息づかいを、自分の使う母語のなかに取り入れることはできないか。言葉をそこに書き入れることよりも、黙して行を改え、飛躍を選んだ著者の心意気をどうすれば伝えることができるか。

詩の翻訳も散文の翻訳も本質的に変わるところは何もない。ただ、詩は言葉で成り立っているというよりも、句読点と改行から成り立っていると言ったほうがいいほど、それは一般の通念に反して、沈黙の芸術なのである。

今回、あらためて——たぶん四十年ぶりくらいに——ランボーの詩を読み直し、翻訳を試みて、この沈黙を痛感させられることになった。

詩の翻訳——そして翻訳一般——は、言葉と言葉の連想ゲームではない。沈黙に耳を澄ますこと。森のなかに分け入って、梢で鳴く鳥の声に心奪われ、山頂に辿り着いて耳をかすめる風の音に同化し、打ち寄せる波を前にして、対岸の波打ち際に心運ばれ、流れる川の弾ける水の分子の昂揚に共振すること。

しかし、ランボーの詩を日本語に置き換えてみると、そんなことだけではすまされないことも見えてくる。

たとえば、第二連目の「白き列王」という訳語は、rois blancs に当てたものである。「列王」は耳慣れない日本語かもしれないが、旧約聖書の「列王記」から取った。「列王記」はフランス語では、Les livres des Rois という。古代イスラエルの歴代の王たちの書、くらいの意味だろう。

「列王」という言葉を採用した理由は、この連の最初の行にある。

湯気と天幕の無垢(candeurs des vapeurs et des tentes)。砂漠をわたる遊牧民の生活を彷彿とさせる行との対応を意識したのである。砂漠のイメージから極地の氷河へ飛躍し、そこに旧訳の文書を思わせる言葉をかぶせる。ランボーの目には、せめぎ合う氷河の切っ先の連なる光景が、居並ぶ歴代王の石像か何かに見えたのかもしれない。

そのような説明をすると、イタリア語のMさんが、最後の連も黙示録風ですしね、と指摘した。言われてみて、そう、そう、と膝を打った。甲高い喇叭の音にしても、この世の終末を告げる神の目から放たれる紫色の光線にしても。

そこまで話が進むと、ランボー詩の全体がいかに聖書の––旧約も新約も含めて––イメージと言葉に彩られていることが実感されてくる。

 

俺は『教会』の長女、フランスの歴史を想い起す。俺は賤民なりに聖地の旅をしたのかも知れない。俺の頭には、スワビヤの野を横切る諸街道、ビザンスの四方の眺めもジェルサレムの館もある。聖母への信心と救世主への感激とは、俗界百千の魔境を交えて、この身に目覚める。——太陽に蝕まれた石垣の下に、破れた壺、いらくさの上に、俺は癩を病み座っている。——降っては中世紀、騎卒となって、ドイツの夜々を、野営に明かしたかも知れない。(「地獄の季節」小林秀雄訳)

 

アルチュール少年は信心深い——あるいは、ほとんど狂信的と言っていいほどの——母親に育てられた。聖書の文言はすでに幼年期からこの異様な詩才に恵まれた脳髄に刻まれていた。彼は母の厳しい宗教的躾と聖書の文言の虜囚としての少年期を送った。彼の詩才はこの虜囚の身からの脱出を叶えてくれるものであると同時に、永遠に言葉の虜囚とならざるをえない宿命を担わされることになった。

だから、天才ランボーは二十歳にして詩を捨て、砂漠の地に冒険の旅に出たなどというロマンチックな伝説はほとんど意味をなさない。なぜならば、この種の伝説は詩の生まれ出る所以に目を向けないまま文芸を、芸術をあがめようとしているにすぎないから。

ランボーは詩に食われた。端的にそう言うべきである。

数年前に、パスカル・キニャールとパリの自宅でお会いしたとき、思い切ってこんな質問をぶつけてみた。

——詩は、捨てることができると思いますか?

——そうは思わない。

——ランボーは詩を捨てたと言われますが、あれは結局のところ、詩を捨てようとして詩に取り憑かれ、肉体で詩を演じるはめになって、最後には悲劇を演じることになったように思うんですけど。

——いや、あれは悲劇だとは思わないよ。たんに才能が去っていっただけだ。

身も蓋もないことを言う人である。そして、こんなふうに話を続けた。

——些細な個人的経験だけどね、文学を捨てようとして、精神分析を受けたことがあるんだ・・・・・・。

ふつうは文学を捨てることと精神分析は結びつかないはずだが、この人の場合はそうではないのだろう。話はやたらに厄介な方向に進んでいったので、半分も理解することができなかったけれど、衝撃的ではあった。

まずは、今やフランスを代表する作家のひとりとなったこの人も、文学を捨てようとしたことがあったのかという驚き。精神分析によって、心の奥が明るみに出れば文学を捨てられると思ったらしい。人はまず自分の心に嘘をつくから。というか、自分にとってもっとも大切なことは言葉にしたくないものである。自分にとっていちばん大切なことを言葉にするのが文学だと思っている人がいるかもしれないが、そうではない。もっとも大切なことは言葉にできない。言葉にすると嘘になる。パスカル・キニャールの翻訳を長いことやってきて、ほとんど座右の銘のように大切にしている言葉がある。

On ne sait pas ce qu’on fait, ce qu’on dit.
(人は自分のしていることがわからない、自分の言っていることがわからない)

だから、告白というものは容易には信じられない。

——言語的才能というものはどこから来るものなんでしょうね?

——・・・・・・。

——母から受け継がれるものでしょうか?

——・・・・・・。

かすかなほほ笑みを浮かべて、口をつぐんだこの沈黙を、わたしは生涯大切にするだろう。

アルチュール・ランボーは、過度に敬虔なカトリック信者の母親に育てられた。パスカル・キニャールの母親はパリ大学(ソルボンヌ)に籍を置く言語学者だった。その父親(パスカルの祖父)もまた著名な言語学の教授だった。

自分は母の愛情を受けることなく育ったと、彼は随所に書いている。幼年期に母親代わりをつとめたのはドイツ語を話す乳母だった。彼は大学を去ると、ロワール河のほとりにあるアンスニという小さな村の教会のオルガン弾きになろうとした。父方の家系は代々教会のオルガニストをつとめており、パスカルの姉が務めていたアンスニ教会の専属オルガニストのあとを継ごうとしたのだった。

しかし、人生は思いどおりには運ばない。アンスニでオルガンの練習のかたわらに書いた論文をガリマール社に送りつけたところ、当時この出版社で原稿審査委員をつとめていたルイ=ルネ・デ・フォレの目に留まり、彼はパリに呼び戻される。こうして彼は一九九四年までガリマール社で、デ・フォレと同じように原稿審査委員の職に就くことになる。

この間の経緯は『世界のすべての朝は』と題した翻訳(伽鹿舎刊)のあとがきに詳しく記したので、そちらを参照してほしい(このブログでは *40 に転載)。

父と子の葛藤と同様、母と子のあいだの葛藤もまた大きな文学の主題と言っていいだろう。ある意味では、母子の葛藤のほうが根が深いとも言える。われわれはみな母の胎内から生まれ出るのだから。

少年アルチュールの母にとって、キリスト教はすべての価値の源だった。生活習慣の上でも、文化の上でも。それを息子に有無を言わせず叩きこんだ。

われわれは誰しも、まずは言語を母から学ぶ。母の胎内において、授乳の胸のなかで、日常のすべての局面で。時間の速度が緩やかな時代であれば、それでさほどの問題はないだろう。しかし、アルチュールが生まれた時代は産業革命が加速度的に進み、政治体制は共和政、王政復古、帝政と目まぐるしく変わり、短い期間ではあったがパリ・コミューンが誕生し、プロシアが破竹の勢いでフランスを脅かしているときだった。

彼は中学校でイザンバールという若く野心的な、そして文学的素養の豊かな教師と出会い、爆発的に才能を開花させる。それは母の価値観との衝突を生み、何度も家出を繰り返すことになる。

だが、彼の言語の根底にあるのは、つねに聖書の言葉であり、つねに母の言葉だった。そう、それが文字どおり彼の母語だった。彼はどこまでいっても「教会の長女」の息子だった。その軋轢から逃れようとするエネルギーが彼の詩作品には横溢し、われわれの目を眩ませることになる。

病弱な幼年期を送ったパスカル・キニャールにとって必要だったのは、何よりも母の胸の温もりだっただろう。その温もりを与えてくれたのは、しかしながら、実の母ではなく、ドイツ人の乳母だった。

父方の音楽と母方の知性。彼の「母語」もまた異様な軋轢と葛藤のなかにある。

あるときわたしは、あまりにも乱暴で不躾な質問を繰り出した。

——あなたにとって、ポール・ヴァレリーとは何なんですか?

パスカル・キニャールはこの質問に苛立つこともなく、むしろ、わずかに目を輝かせて、「ちょっと待て」と言い、隣の部屋に姿を消し、薄い本を手にして戻ってきた。『パスカル・キニャール、ル・アーヴルの幼年期』と題された本。その名のとおり、パスカル・キニャールの幼年期の足跡を追う、ほとんど写真集に近いアルバムだった。彼はあるページを開いて、わたしに差し出した。(Pascal Quignard, une enfance havraise : Editions l’écho des vagues, 2015)

そのページには、新聞の切り抜きの写真複製が掲載されていた。ル・アーヴルの高校の先生をしていたパスカルの父ジュリアンが企画したポール・ヴァレリーの長編詩「若きパルク」に関する展覧会と講演会の記事だった。絶句した。

——あなたのお父さんはヴァレリーの専門家だったのですか?

そう尋ね返すだけで精一杯だった。彼はその大きな目に笑みを湛えて、うなずいた。

——朝早く起きて、本を読み、ノートをつけるのも、ヴァレリーに感化されたのかもしれないな。

そして彼はわたしに、マラルメとヴァレリーの美しい師弟愛について語ってくれた。マラルメに愛されたヴァレリーと、師を誰よりも敬愛し、だが師のあとは継がなかったヴァレリー。それはおそらく、パスカル・キニャールの師エマニュエル・レヴィナスとの関係を暗示するものだったにちがいない。それに気づいたのはずっとあとになってからのことだったけれど。

彼はその日、エマニュエル・レヴィナス全集の一巻をプレゼントしてくれた。(Emanuel Levinas : Oeuvres 2, Parole et Silence; Bernard Grasset / Imec, 2011)

さて、いったいこのわたしは彼にどんな恩返しをしたらいいのだろう。

*51 思索するということ

 


――それでそのポール・ヴァレリーという人は、朝早く起きて、ノートを前にして何を追究していたんですかね?

Mさんにそう尋ねられた。とても大事な質問である。とても、とても。だからふつうは、というか、生半可な文学通は、この種の質問を回避する。つまり知った振りをする。答えるほうは、お茶を濁す。

一瞬、虚をつかれたけれども、逃げたり、ごまかしたりするのだけはやめようと思い——その@ノート{カイエ}とは一種の思索日記のようなものです、と答えればそれで済んだのかもしれないが——、ヴァレリーが「レオナルド・ダ・ヴィンチの方法への序説」で何を書こうとしたか、そして、その延長上のことを生涯かけて追究したのだというような返事をした。

Mさんはいちおう頷いたものの、おそらく、その答えに満足しなかっただろうと思う。

Mさんは整体を生業としておられる。正確にはオステオパシー(Osteopathy)、骨法療法などと訳されることもあるらしいが、この訳語だとオステオパシーという医療哲学体系のほんの一部にしか対応しないので、日本語としては廃れてしまったらしい。アメリカで生まれた整体法であるが、フランスで独自の発達を遂げたという。Mさんは後者の免状を取得して、帯広で開業している。この療法を極めるためには、人間の肉体と心に関する認識を深めていく必要がある。それでこの塾に関心を持ったらしい。

フランス文学とはまったく関係のない専門を持った人がこの塾に参加してくれるのは大歓迎で、語学や文学だけを対象とする幅の狭い会にはしたくないのである。

ということは、どんな初歩的な質問にも答えなければならないということである。アスリートたちがよく言うように、もっとも大事なことは、つねに初歩、基本に戻ることなのである。野球であればキャッチボール、サッカーであればインサイドキックのように。

話は横道に逸れるが、猿から人間への進化の過程で、猿と人間を決定的に別つもののひとつに肩の関節の使い方があるという話を聞いたことがある。人間が槍や球を投擲するとき、腕全体を一度後ろに引いて(take back)、それから振りかぶって投げる(overhand pitch)ことができる。こういう動作ができるのは人間だけだという。おそらくサッカーのインサイドキックも同じだろう。猿もボールを蹴ることはできる。しかし、両足をハの字に開いて、足の内側で蹴るという動作はできないだろう。

つまり、人間のするスポーツにとって、基本となる運動は往々にして「不自然」なのである。だからいつも意識して練習していないと、「形」が崩れてしまう。そして、不自然な動きを過度に続けると、形が壊れるだけでなく、身体そのものも壊れてしまう。

思索とは、何か目標があって、それを追究するものではない、とおそらくヴァレリーなら答えたかもしれない。それは人間社会にとっては、異様な、不自然な、孤立した行為なのである。日々の鍛錬を怠れば、思索の形は崩れ、たちまち群に回収されてしまうような何かなのである。そして、過剰な知性の行使は発狂を招く。

それをヴァレリーは生涯にわたって継続した。夜明け前から起き出し、窓から徐々に差しこむ朝日がノートの白いページに差しこむのを目の当たりにしながら。

「文学とは何か?」という問いに話題を転じてみよう。個人的な答えなら、すぐに出すことができる。文学とは人間学である。人間とは何かを追究する技芸(arts)の一つである、と。

ヴァレリーは、哲学も文学の一形式であるというようなことを言った。言葉で表現する以上、哲学も特別なものではないと言いたかったのだろう。あるいは哲学が文学の上に君臨しているような自惚れを認めようとしなかった。

ヴァレリーはつねに自由であろうとした。それが彼にとっての思索の条件でもあった。だから若き日のヴァレリーにとって、おのれの思索の格好の対象であり、モデルであり、偶像であったのは、レオナルド・ダ・ヴィンチであった。

このルネッサンスの芸術家は「万能の天才」と呼ばれる。しかし、この呼称が、たんに「何でも器用にやりこなす才人」という意味なら、ただの軽薄才子にすぎない。ヴァレリーはそこに首尾一貫した「方法」があると見たのである。あるいは見ようとしたというべきか。

レオナルド・ダ・ヴィンチの方法は、言葉に還元することはできない。なるほどレオナルドは「手記」を残した。しかし、それはあくまでも手記であって、書物や出版を意識したものではなかった。たんなるメモや備忘録でもなかった。視覚型の天才であったレオナルドにしても、言葉を、あるいは書くこと(écriture)を必要としたのである。

しかしながら、ヴァレリーのレオナルドを主題にした論考においては、この手記の占める重要性は限りなく小さいと言わなければならない。なぜならば、ヴァレリーにとって、考えること(思索)の究極の姿は、言葉から解放されることだったからである。

人間と動物を別つものとして、意識と言語というようなことがよく言われる。でも、よく考えてみると、これはとてもおかしい。動物にも意識はあるだろうし――生命体である以上は――、言語もあるだろう――彼らなりのコミュニケーションがある以上は。

だから厳密に言えば、この意識は自意識と言い直さなければならないし――私とは何か、人間とは何かと自らを問い詰める、という意味で――、この言語は厳密には langage(言語機能)ではなく、制度・規範としてのlangue(言語)のことだと考えなければならない。

問題は、この langue なのである。これは人間にとって、たんに意識を拘束する規範や制度であるだけでなく、第二の自然のように作用する。つまり、雨を降らせ、風を吹かせる存在だということである。

われわれは言語を介して雨乞いする。人間にしか属さない言語{ラング}が、あたかも天に届くかのように。これが詩の発生の第一歩である。

しかし、これは「認識」にとってはまことに都合が悪い。少なくとも対象を「客観的に」「科学的に」認識しようとするときには。なぜならば、第一の自然――本当の自然――は人間の都合のいいようにはできていないからだ。というか、人間は自然の一部であって、自然に君臨することはできない。人間は自然に君臨していると自惚れれば自惚れるほど、人間は自然に支配されている。言い換えれば、自然に復讐されるのだ。

これが自然弁証法であり、二十世紀を跨ぎ越した今、人間が直面している現実なのだ。

ヴァレリーは「哲学」の自惚れのなかには住まいたくなかった。もともと、「哲学」から生まれてきた人ではなかった。哲学は文学の一部門に過ぎないという言い方を少し変えるならば、哲学は近代という時代の神学に過ぎない。そのことをヴァレリーは早い時期から知っていた。

ヴァレリーは詩人マラルメにもっとも愛された弟子だった。そして、この愛弟子は師にもっとも愛された弟子であるがゆえに、師のたどり着いた場所を知っていた。詩の終焉。象徴主義(サンボリスム)最後の詩人。アルチュール・ランボーが詩と心中してからは――大方の意見に反して、ランボーは詩を捨てたのではなく心中したのだとわたしは思っている――、その後の詩人にできることは、言語との心中、もしくは言語の破壊以外に道はなかった。この道をさらに歩みつづけることはできない。ヴァレリーは深い精神的危機に見舞われる。

その体験は「ジェノバの一夜」という名の伝説として残っている。

この伝説の内実に分け入ることはよそう。それだけの知識と能力が自分に欠けているだけではなく、不毛な努力だと思うから。それよりもヴァレリー自身が残した言葉を再録しておくことが、この不世出の詩人・思索家への最大の敬意となることを信じよう。

 

・・・・・・当時の私は、文学を為すことと、一定の厳密さをもって、誠心誠意思索に打ち込むことのあいだには、一種対照的なものがあるのではないかと思っていたのである。問題はこのうえなく微妙である。これをマラルメに知らしめるべきだろうか。私は彼を愛し、誰よりも上位に置いていたが、彼が終生こよなく愛し、そのためにすべてを捧げたものを、私はすでに放棄していたのである。そんなことを彼に聞かせる気にはとてもなれなかった。

――「最後のマラルメ訪問」(一九二三年)

 

これはマラルメが死ぬ一八九八年にヴァルヴァンで最後に師と昼食をとったときの思い出を綴ったものである。弟子のヴァレリーはすでに六年前の一八九二年に詩を放棄するきっかけとなった〈ジェノバの一夜〉を経験していたし、一八九四年には「悟性神話上の怪物」たるテスト氏の物語を書きはじめると同時に、生涯にわたって思索の伴侶となる「カイエ(ノート)」をつけはじめた。そして九五年には、満を持して「レオナルド・ダ・ヴィンチの方法への序説」を発表している。

一八九八年のこの日、ヴァレリーはマラルメの最後の詩集となる『骰子一擲』の校正刷りを見せられ、師がどれほどこの長編詩の推敲とレイアウトに苦しんだかを目の当たりにしたが、弟子の心はすでにそこになく、師がその年の秋に突然この世を去ってしまうという予感もなかった。

おそらくはこのこと自体がヴァレリーにとっては〈ジェノバの一夜〉以上に痛恨の一事であったろうし、晩年になって詩作に多くの時間を割くようになったのは、この師マラルメへの敬意と悔いと、詩にたいする贖罪の入り混じった感情があったからにちがいない。

だが、若きヴァレリーを襲い、彼を〈ヴァレリー神話〉のなかに沈め、長い沈黙を強いることになった、おそらくは人生最大の危機がもうひとつあったのである。

それは〈ロンドンの一夜〉とでも称されるべき、正真正銘の精神の危機であった。その危機は、一八九六年、四月のある夜、襲ってきた。

当時二十六歳のヴァレリーは、ロンドンのグレンヴィル通りに寝泊まりし、近くのオフィスに通って機密文書の翻訳を任せられていた。誰ともまったく言葉を交わすこともなく、異国の街で孤立した生活を送っていた青年は夜ごと芯まで体が冷え込むような精神状態に追いこまれ、ついに自殺を思い立つ。

 

私は首吊りをすることにきめていた。ぶらさがるつもりだった押し入れ〔クローゼット〕のなかにすでに入りこみ、いよいよ首をかけるつもりで紐に輪をこさえにかかった。そのとき、踏み台にするつもりで積み上げていた本のほうに、ふと目を落とした。上には、表紙の黄色っぽい、仮綴じの本が開いていた。なぜその本が開いていたのか。またその本に、なぜ目が向いたのか。虚脱状態のまま、私はいよいよさいごの行為にとりかかろうとしていたのに、やっぱり私の目は知らぬ間にその本の数行を読んでいた。急に、じつに狂気じみた、じつにけたたましい笑いが、勝手にこみ上げてきたのだ。ああ、いまもあのときの笑い声は耳に残っている。そして不意に解放され、救出され、悪夢からさめた思いがした。呪いは解けていた。目のまえの首くくりの道具一式がまったくあほらしくなり、私は部屋を飛び出した。ころがるように階段をかけ降りた。気がつくと、表の歩道のガス燈の下に突っ立っていたが、あのけたたましい笑い、私を救ってくれた笑いは、まだとまらなかった。

 

この引用は、筑摩書房版のヴァレリー全集(新装版一九七三年)の月報2に収録されている杉本秀太郎氏の文からそのまま引いたものである。原書の著者はアンリ・マシス、本のタイトルはずばり『ポール・ヴァレリーの自殺』(一九六〇年)。本文わずか三ページ、五十一部限定の稀少本だという。たった三ページの本がこの世に存在するとは、この目で見てみないとにわかには信じられないような本である。杉本氏は、この薄っぺらな本を「ヴァレリー論のうちで最もすぐれた一冊に数えていた」というが、まったく同感だ。

アンリ・マシスなる人がどういう人物なのか、杉本氏の文章を読んでもわからないし、どういう経緯でこの人がヴァレリーにインタビューし、どうしてこの人にヴァレリーがこんな際どい打ち明け話をしたのか、そして、どうしてたったこれだけの分量のインタビューが活字になり、本の体裁をとることができたのか、何もわからない。

ただ、学生時代に邦訳のヴァレリー全集を購入し、大切な宝石箱の蓋でも開けるように全巻箱から取りだし、パラパラとページをめくり、さて、どの巻から読んでいこうかと思案しているとき、この月報の記事がふと目に留まったのだ。

そして、この本を発見した杉本氏と同じように、ポール・ヴァレリーの大切な秘密を垣間見たような気がした。

人は死を恐れない。恐ろしいのは群から逸脱することだ。人は死を賭して戦地へと向かう。死ぬことよりも、世間に背を向けることが恐ろしいからだ。というよりも、死への恐れは、肉体的な痛みへの恐れではなく(首を吊る痛み、ナイフを刺すときの痛み、毒を喫するときの苦しみよりも痛く苦しい思いなら、人生にいくらでもある)、ひとりこの世から去っていくときの不安に起因するのだ。

むかし東京で、冬の澄みきった空を旋回する百舌の大群を見上げたことがある。ああいう群を見ると戦争を連想するんだとつぶやくと、隣に立っていた長女は、わかるような気がすると言い、次女は、考え過ぎじゃないのと言った。

動物学者、あるいは鳥類学者は、あの群にもリーダーがいると言うかもしれないが、僕には群全体が命を形成しているように見える。そして、個体は死を回避するための本能を持っているが、群はときとして、みずから意味もなく死地へと赴くことがある。それを死の本能と呼ぶべきかどうかはわからないけれど。

話が逸れた。

ヴァレリーを死から救ったものが、狂気じみた笑いであったことはとても興味深い。ベルクソンは笑いをとても底意地の悪いものととらえたが、ロンドンで途方に暮れた青年が経験した一夜にかぎっては、死に傾く心の弱りを一蹴してくれた。

 

Le vent se lève!… il faut tenter de vivre!
(風立ちぬ、いざ生きめやも。)

 

ロンドンでの自殺未遂の記事を読んで以来、「海辺の墓地」の最終連の冒頭に記されたこの詩句を、堀辰雄が訳したような叙情的な息づかいのものとしてはとても受け止められなくなってしまった。

ヴァレリーはこのロンドンの一室で死んでいたかもしれない。彼に自殺を思いとどまらせたのは、一八八〇年頃に大衆紙で当たりをとっていたオレリアン・ショルというユーモア作家の一文だった。その一文がどういうタイトルで、どういう内容のものであったか、ヴァレリー本人も憶えていない。オレリアン・ショルという作家もおそらく歴史の闇に埋もれてしまっているだろう。

若きヴァレリーがどれほど思い詰めていたかは、本人でさえわからないことに属する。事実は、彼が死のうとしたこと、死ぬ寸前にショルという作家の滑稽話を読んで、首を吊るのをやめたということだけだ。

けれども、このほとんど忘れられたようなエピソードのほうが、〈ジェノバの一夜〉と命名された、いかにも大げさな、もったいぶった伝説よりも、はるかに現実味を帯びていると感じられるのは、おそらく自分が六十余年も生きて、すれっからしになってしまったからだろう。

さて、とりあえずはもうこの稿を閉じたほうがよさそうだ。ベルクソンとゼノンの矢の話から始まった、この一連のエッセイの試みを締めくくる詩句として、「海辺の墓地」の二十一連目を挙げておこう。

 

ゼノン、酷薄なゼノン、エレアのゼノンよ、

おれはおまえに射貫かれた、

唸り、飛び、そして飛ばない翼ある矢よ。

その音がおれを産み、その矢がおれを殺す。

ああ、太陽よ・・・・・・ 魂にとっていかなるものか、

亀の影、大股で疾ける不動のアキレスとは。