2 アルジェ——(われわれの事務所は、アルジェの港から……)

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われわれの事務所は、アルジェの港からくねくねと蛇のように曲がりくねる急な坂を登りきったところにあった。地区の名はブザレア、所番地はドゥ・ピリエ二十一番地。訳すと二本柱ということになるが地名の由来はわからない。アルジェ郊外の住宅地と言っていいのかどうか。あれから四十年近くもの月日が経って、今はどうなっているのかまったく消息がないが、あの当時は起伏の多い土地にまばらにあちこち建物が見えるだけなので、隙間なくぎっしり住宅が建ち並ぶ日本の都市周辺の景観とはまったく異なっていた。

建物は陽の当たる斜面に建っていた。門から入って真正面にあるのが大家の玄関で、その脇の外階段を降りていくと事務所の入口がある。でも地下ではない。事務所のドアを開けて中に入ると、すぐ廊下になっていて、左手北側の突き当たりがトイレで、右手南側に歩いていくとオフィスになっている。それほど広くはないが南向きのフレンチウィンドウからたっぷり日差しが入ってくる。隣家の庭に生えているレモンの木からいい匂いが入ってきた。

事務所の日本人スタッフは三人。所長の坂口、所長代理あるいは補佐の高野、そして新米通訳の私。

坂口と高野は、一言でいうなら、ウマが合わなかった。

高野という人は、そもそも人を苛立たせるところがある。マイペースだし、口達者だし、ええかっこしだし。彼は高卒の叩き上げで、営業の最前線までのし上がった男だった。英語も現場で叩き上げた。信じがたいほどそら恐ろしいフランス語をしゃべるが、ちゃんと通じる。少なくとも正しい文法と発音を気にしておたおたしている仏文科出の通訳よりも通じた。目はぎょろりと丸く、鼻はやや上向き、いつもパリッとしたスーツを着て、ネクタイは赤っぽい色が多かった。背はそんなに低くないのだが、丸顔でなで肩、少し猫背だったので、男前とは言いがたく、そこははったりでカバーする。気後れというものを知らない人だった。

そこのところが、理工系一本槍で、語学が根っから苦手の坂口には気にくわない。水と油とはこのことだ。薩摩隼人――と本人が言っている――の坂口は無骨で不器用で一本気で融通がきかない。しかも権威主義。上にはぺこぺこ、下には威張り散らす。朝から晩まで本社に向けてテレックスばかり書いている。もちろん、坂口は英語なんて書けないから、ローマ字で書いている。

高野にとって坂口は天敵だった。なぜなら、高野はやんちゃ坊主のまま大きくなったような人だったが、江戸っ子風のデリカシーがあった。坂口にそのデリカシーは通じない。彼にとって高野は、高卒のくせに英語ができるシティボーイにすぎなかった。

「なにやってんだ、タカノー!」

これがほぼ毎日――いや、一週間に一回くらいだったか――繰り返される。どう考えてもミスキャストである。

事務所には、日本人三人のほかに現地雇いのアルジェリア人が二人いた。一人は老人で一日中なんとなく家の回りをうろうろしている。日本人が出払ったときの留守番役と、夜と週末の管理人の役目をしている――ひょっとすると大家さんだったのかもしれないが、もう確かめる術もない。もう一人は若い伊達男の秘書、ひょろりと背が高く、いつもスーツにネクタイ姿で、細面に口髭をたくわえている。秘書と言っても、ほとんどの時間、坂口がローマ字で書いた原稿をタイプしている。ローマ字だから、何が書いてあるのかわからないはずだが、ミスタイプはない。坂口は感心しているが、若い秘書のほうは早く帰りたいのに、いつまでもぐずぐずテレックス原稿を書いている事務所のボスに敬意を払っている様子はなかった。

この事務所に、毎朝、海浜のリゾート・ホテルから車で三十分ほどかけて通ってくるのである。運転は高野、坂口は後部座席でふんぞり返っている。通訳の私は助手席でその日の朝刊のからめぼしい記事を読み上げる。アルジェリア唯一のフランス語日刊紙『エル・ムジャヒド』(たしか解放の闘士という意味だったと思う)、政府の御用新聞なんて読んだってどうしようもないし、そもそもめぼしい記事を読めと言われても、何がめぼしいのかわからないし、即興で読み上げる――つまり日本語に翻訳する――には、圧倒的にボキャブラリーが不足している。だいいち悪路に揺られて走る車の中で新聞なんて読めない。坂口が社長気分を味わいたいだけなのだ。

 

それにしても、こんなに長い月日が経ってしまった今となってみれば、奇妙な夢のなかにいたとしか思えない。記憶と夢とは何がどう違うのか、そんなことを考えてみたりもする。

そもそも、なぜ、われわれはホテル暮らしを続けていたのだろう。なぜ、そんな贅沢なことをしていたのか、今もわからない。いや、今となってはなおわからない。宿舎として使うアパルトマンをアルジェ市内で探すのが面倒だったということもあるだろうし、仲がいいとはとても言えない男たちが小さな住まいで朝昼晩と顔を突き合わせて暮らすことに抵抗があったのかもしれない。それにしても、アルジェの連絡事務所に勤務するプロジェクトの専任スタッフが三人、一年間ずっとホテルに寝泊まりしていれば、どれだけ経費がかかるか。いくらここがアルジェリアで、物価が安いとはいえ、そしてエルビアールやオラシーのような最高級ホテルではないとはいえ、外国人のバカンス客――おもにヨーロッパ人、必ずしもフランス人は多くなかった。あの当時、旧宗主国と支配された側とでは微妙な関係があったのだろうと思う――を迎え入れるための、ちゃんとしたホテルなのだ。

ホテルの名は、マザフラン。

建物はほぼ真西に向いていた。対岸は――もちろん見えはしないが――、じつはスペインなのである。アルジェの中心部から海岸線に沿って数十キロ西に行ったところにシディ・フレージュという名の半島が海に突き出ていて、そこにリゾート施設が集まっている。その半島の西側に位置しているホテルだった。

長期逗留の客のための棟と短期の宿泊客の棟に分かれていた。むろん、われわれは長期逗留者用の棟に住んでいた。部屋は最上階の七階にあって、遠く沖合まで見渡せた。ベッドはツイン。その日の気分で、窓側のベッドに寝たり、バスルームに近いほうのベッドで寝た。家族でも泊まれるように、隣の部屋に通じるドアが室内についていた。

部屋の窓からも、ダイニングルームの窓からも、夕陽が地中海に落ちていくのが見えた。

ホテルに隣接してテニスコートもあったし、乗馬の施設もあった。少し離れたところには、マグレブ料理専門のレストランがあって、地下はディスコになっていた。プロの娼婦もいたし、プロなんだか、素人なんだかわからない女の子もいた。