1 – 4(食事の話を続けよう……)

 

食事の話を続けよう。

ムルソーは何事もなかったかのように、仕事に精を出す。彼の仕事は通関代行業、港のなかにある海運事務所で働いている。

さて、昼時。ムルソーは発送係のエマニュエル——黒のネクタイを借りた相手だ——といっしょに外に出る。港に浮かぶ貨物船が真昼の光にまぶしく照り映えている。そこにトラックがやってくる。ムルソーとエマニュエルはけたたましいエンジン音を響かせて通りすぎるトラックを追って駆けだし、荷台に跳び乗る。トラックは巻き上がる埃と太陽の光のなかを疾走し、不揃いな波止場の敷石の上ではね、エマニュエルは大声で笑いこける。

 

汗だくでセレストの店に着いた。太鼓腹と前掛けと白い口ひげという、いつもの出で立ちでセレストが迎えてくれた。「どうにかやってるかい」ときくので、うん、と答え、腹がへってるんだと言った。そそくさと食って、コーヒーを飲んだ。それから部屋に戻って、少し眠った。ワインを飲みすぎたせいだろう。目が覚めると、煙草が吸いたくなった。遅くなったので、走って電車に飛び乗った。午後はずっと働いた。事務所の中はとても暑く、夕方外に出て、波止場をゆっくりと歩いて帰るのは気持ちがよかった。空が碧くて、満たされた気分になった。でも、ゆでたジャガイモの料理が作りたかったので、まっすぐ部屋に帰った。

 

セレストの店では何を頼んだのか、あいかわらずわからないが、会話を避けるかのように「そそくさと」食べ、コーヒーを飲んで帰ってしまう。そのあと、ワインを飲みすぎたせいで眠くなったというから、料理を食べるのと同じ勢いで、立てつづけに何杯か飲んだのだろう。おもしろいのは、夕暮れどきのムルソーの気分の揺れ方だ。鬱陶しい事務所を出て、気持ちのいい潮風の吹く波止場を歩き、「空が碧くて、満たされた気分」になっているのだから、どこかのカフェに立ち寄って、ビールとか、あるいは——アルジェリアのビールは当時も今もまずいだろうから——、地中海沿岸では夏定番のパスティスの水割りなんかを引っかければいいものを、そうはしないで、まっすぐ家に帰って自分で夕食を作ろうとする。芋をゆでて、どうするのかはわからないけれど。

料理をするムルソーというイメージは好もしい。美食家ではないが、生活の手触りというのか、かたちというのか、そういうのは大切にする。とはいえ、それを強調するために、食事のシーン、食べ物についての場面をことさら詳しくは書こうとしていない。絵にたとえるなら、わざと白地を残している。
ものを食う場面ばかりではない。たとえばムルソーに兄弟・姉妹はあったのか。養老院の院長は、母親の通夜と葬儀のためにやってきたムルソーに向かって、こう語りかける。

 

「マダム・ムルソーがここに入られたのは、三年前のことです。あなたはたったひとりの扶養者だった」何かとがめられているような気がして、弁解しようとした。だが、院長がさえぎった。

 

「たったひとりの扶養者」という言葉から、ムルソーが一人っ子だったと結論することはできない。兄弟姉妹がいても、遠くに住んでいるとか、この小説の書かれた時代からすれば戦死してしまったという可能性もある。そもそも、ムルソーの弁解自体が封じられている。

父親のこともまったく書かれていない。いや、正確に言えば、たった一箇所で言及されている。それは、小説の第二部第五章に記されている。裁判で死刑が確定し、ムルソーは独房へと引き戻される。そして三たび、御用司祭の面会を拒否し、もうじき自分の首を刎ねるであろうギロチンのことをひたすら考える。

 

そんなとき、ふと母から聞いた父に関する話を思い出した。僕は父を知らずに育った。この人について正確に知っていることといえば、このときママが話してくれたことだけだろう。彼はある殺人犯が処刑されるところを見に行ったというのだ。刑場に行くと考えただけで具合が悪くなった。それなのに刑場に行き、帰ってきて、朝食べたものの一部を吐いた。それを聞いて、自分の父が少し嫌になった。

 

奇妙な記憶だ。というか、よりにもよって、こんなことを息子に詳しく語る母親も母親だ。ムルソーの父と母は離婚したのだろうか。それとも死別したのだろうか。これもわからない。著者カミュも父を知らずに、母の手で育てられた。彼の父は一歳のアルベールと四歳上の長男を残して、第一次大戦で戦死している。しかし、著者は著者、小説の主人公ではない。

これは小説を読むうえでの原則であり、礼儀であるだろうと思う。しかし、(かつての)批評の多くが——べつに『異邦人』の場合にかぎらず——、著者の生い立ちを詳しく調べ上げ、作品に書かれた場面や状況に当てはめては、探偵小説みたいに創作の謎を解こうとした。

あるいは精神分析医のように、主人公の(あるいは作者の)心の病を解析するものもある。これは完璧な「父殺し」「母殺し」の心理構造を持つ作品であり、オイディプス・コンプレックスの象徴的物語であると。

なるほど。

でも、今はもう、こういった解読や解析にはあまり心動かされなくなった。