1 – 5(さらに食事の話を続けよう……)

  †

 

それはともかく、さらに食事の話を続けよう。

ジャガイモ料理をしようとまっすぐ帰宅したムルソーは、アパルトマンの暗い階段を登りながら、同じ階に住むサラマノ老人と鉢合わせになる。この老人は、自分と同じように老い、なおかつ重い皮膚病にかかっているスパニエル犬と暮らしている。

 

狭い部屋に犬とふたりで暮らしているせいで、サラマノ老人はついに犬に似てきた。老人は顔に赤みがかったかさぶたがあり、黄色い毛がまばらに生えている。犬のほうも飼い主の猫背がうつったのか、首を伸ばし、鼻面を前に突き出して歩く。似たもの同士だが、憎み合っている。

 

細かい描写だ——食事の場面とはうってかわって。一日に二回、決まって朝の十一時と夕方の六時に、老人は犬を散歩に連れ出す(つまり、物語の現在時刻は六時ということだ)。妻を失って以来八年、散歩の経路はかわらない。犬が老人を引っ張り、ときどき老人はつまずく。すると老人は犬を打ち、ののしる。犬はおじけて、はいつくばり、今度は逆にずるずると引きずられる。ときには歩道に立ちつくし、たがいの顔を見つめあう。

階段の途中で老人は「こんちくちょう! くたばりぞこないめ!」とどなり、犬はうなり声をあげている。ムルソーが、こんにちは、と声をかけても、老人は振り向きもせず、「こいつ、まだ生きてやがるんで」と言い残して通りに出ていく。
ムルソーはさらにもうひとりの隣人と出会う。女を食い物にしている女衒だと近所では評判の悪い男が「部屋にブーダンとワインがあるんだが、いっしょにやらないか?」と声をかけてくる。ムルソーは自分で夕飯を作らなくてもすむと考え、誘いにのる。

ブーダンとは、豚の血と脂身で作る腸詰めのことだが、独特の臭みがあって、フランス人でも敬遠する人がいる。まあ、庶民の食べ物といっていいだろう。

話が遠回しになったが、結局この夜、ムルソーはジャガイモ料理を作ろうとまっすぐ家に帰ってきたのに、隣に住む女衒の誘いで、しこたま酒を飲むはめになる。このレイモンという男、「小柄で肩幅が広く、ボクサーのように鼻がつぶれていて」、台所付きの一部屋に住み、「ベッドの上のほうにはスポーツ選手の写真やら、女のヌード写真が二、三枚貼ってある」という、典型的な街のチンピラとして描かれている。
レイモンは四方山話をするために、ムルソーを部屋に誘ったわけではない。金ばかり浪費して働こうとしない女を懲らしめてやりたいのだが、「あいにくまだ、あいつの@からだ{傍点}に未練を感じている」。そこで、その未練を断ち切り、女にさんざん痛い思いをさせてから捨て去るために、ムルソーに手紙を書いてほしいというのだ。嘘八百の甘い手紙を書いて、女を呼び寄せ、まんまとこの部屋にまたやってきたら、ベッドの上でたっぷりいい思いをさせてやってから、「最後の最後というときになって」女の面に唾を吐きかけてやりたいという。ムルソーは「レイモンを満足させない理由はない」という奇妙な理由で、手紙の代筆を引き受ける。

サラマノ老人と犬のエピソードが、みじめで哀れな話なら、こちらのレイモンと娼婦のエピソードは自堕落な男と女の、ふつうなら犬も食わない情痴話だ。男は、偽の手紙でまんまと呼び寄せた女を「血を見るほど」ひっぱたき、女は血を見て喚き、やがて警察がやってくる。

貧しい下町における、貧しい集合住宅の、貧しい隣人たちの話がえんえんと続くが、なぜか卑しくはない。

もう少し食事の話を続けよう。

次にムルソーが食事をする場面は、かなり奇異な印象を与える。彼は「いつものように」セレストの店にやってくるのだが、そこで奇妙な女性客に遭遇する。

 

すでに食事を始めていたとき、妙な感じのする小柄な女が店に入ってきて、同じテーブルに座ってもいいか、ときいてきた。もちろん、かまわない。しぐさがひどくぎくしゃくしていて、小さなリンゴみたいな顔のなかで二つの目がきらきら輝いている。ジャケットを脱いで腰かけると、夢中になってメニュをのぞきこんだ。そしてセレストを呼びつけ、間髪置かず明瞭だがせわしない声で、選んだ料理をいっぺんに注文した。前菜が出てくるまでのあいだ、バッグから小さな四角い紙と鉛筆を取り出し、前もって代金の総額を計算し、それにチップを加えた額を財布から抜き出して、自分の目の前に置いた。そのとき前菜が運ばれてきたので、それをまたたくまに平らげた。次の料理が出てくるまで、またもやハンドバッグから青鉛筆と週のラジオ番組表が載っている雑誌を取り出した。そして、ひどく入念に、ほとんどすべての番組にひとつずつ印をつけていった。

 

女は食事のあいだじゅう、ずっとこの作業を続け、食べ終わると、ジャケットをはおってすぐに出ていってしまうのだが、奇妙なのはこの女の行動だけでなく、ムルソーもおかしいのである。先に食べ終わっているというのに、彼もまた何かに憑かれたように女の一挙手一投足をじっと見つめ——それが上の引用に該当する——、おまけに女が店を出てからも、そのあとを追いかける。

これはいったいどうしたことか?

たしかに女の行動は少し偏執的かもしれないが、異常とまではいえない。都会ではよくある光景だ。ムルソーはこの女の何に引っかかったのか。その説明はない。
しかし、この小説を読みとおしたことのある人はおわかりだろうが、この女はムルソーを裁く公判の傍聴席にも顔を出すのである。セレストの隣に座っているという説明はあるが、どういう関係かはわからない。そして、今度は女のほうが被告席のムルソーをじっと見つめる。

おそらく、この女が『異邦人』という作品のなかでは、もっとも謎めいた人物として描かれている。その行動と態度が謎めいているというよりは、あまりに説明がないために。なぜ作者はこんな女を作中に登場させたのか、そのこと自体が謎めいている。

この女についても、おもしろい解釈があるが、ここでは謎は謎のままにしておこう。

  †

 

さて、最後の食事の場面だ。なぜなら、ムルソーはこの日、人を殺し、収監されてしまうから。拘置所でも食事は出るだろうが、ムルソーはそれについて感想を述べることもなければ、食べ物の思い出を語ることもなくなる。生活はこの日で途切れてしまう。

ムルソーとマリーは、レイモンといっしょに海に遊びに出かける。レイモンの友人が浜のはずれに小さな別荘を持っているのだ。家は岩場を背にして建っていて、前のほうを支える基礎杭は水に浸っている。持ち主の名はマソン、大柄でがっしりした体躯、女房のほうは小柄でぽっちゃりした体つきで、愛嬌があり、パリなまりでしゃべる。週末と休日だけ、夫婦でここにやってくる。「女房とはウマが合ってね」とマソンは言い添える。彼の妻とマリーは、女同士、声をそろえて笑う。そのときムルソーは、本気で結婚しようかと思う。

マリーが最初に海に入る。少し遅れて、ムルソーとマソンが続く。ムルソーは、泳ぎの遅いマソンを置いて、すでに沖合いで泳いでいるマリーを目ざす。

 

水は冷たく、泳いでいて気持ちがよかった。マリーといっしょに岸から遠ざかっていくうちに、たがいの手足の動きや、全身に満ちる充足感のなかで、二人の思いがひとつになるような気がした。沖に出て、われわれは浮き身をした。顔を空に向けていると、なおも口もとに押しよせてくる薄い波のヴェールを太陽の光が払いのけてくれた。

 

たぶん、ここにムルソーの短い人生の絶頂がある。何事もなければ、ムルソーとマリーは結婚するだろう。読者は自然とそう思う。しかし、最後の食事のときがやってくる。もちろん、本人も含めて、だれも最後だとは思っていない。

 

海からあがると、すでにマソンが呼んでいた。すごく腹がへっていると応じると、彼は女房に向かって、この人が気に入ったよ、と言った。パンがおいしく、取り分けてくれた魚のフライはたちまち平らげた。次には肉料理も出てきたし、フライドポテトも出てきた。みんな、ものも言わずに食べた。マソンはよく酒を飲み、こっちにもひっきりなしに注いでくれた。コーヒーが出てきたときには、少し頭がふらついて、やたらに煙草を吸った。

 

こうして男たち三人は腹ごなしの散歩に出ていく。

真昼の太陽が浜辺に垂直に降りそそいでいる。やがて、向こうから二人のアラブ人がやってくる。偶然ではない。レイモンが痛めつけてお払い箱にした情婦の兄弟が、復讐のためにあとをつけてきたのだ。殴り合いの喧嘩が始まる。レイモンが相手のナイフで傷つけられ、喧嘩の決着はついたかにみえる。しかし、傷の手当てを終えたレイモンの腹はおさまらない。仕返しのために、また浜辺に出ていく。今度は拳銃を持って。来るなというレイモンの言葉を無視して、ムルソーはあとを追う。撃ち気にはやるレイモンをなだめて、銃を取り上げるムルソー。なんとかレイモンの逆上はおさまり、二人はマソンの別荘に戻ってくる。しかし、ムルソーは家の中には入らない。何かに憑かれたように、また浜辺へと出ていく。銃を持ったまま。

真昼の太陽がなおも激しくムルソーに襲いかかる。涼しい場所に惹かれて、浜辺から少し奥の、泉が湧き出している場所へとふらふらと歩いていく。

はたして——と言うべきか——、そこにさっきのアラブ人がいる。今度はひとりで。男はムルソーを見つけ、ポケットに手を突っこんでナイフを握る。ムルソーもポケットに手を突っこんで、レイモンの拳銃を握る。二人の距離は十メートルほど。ここで回れ右をして帰れば、何事もなく終わる、とムルソーは考える。しかし、「ママを埋葬した日と同じ」太陽の光が背後から彼を押す。距離が縮まる。アラブ人はナイフを構える。その刃に反射した光が長い刀のようにまっすぐに伸びてくる。眉毛にたまっていた汗のしずくが一気に流れて、ムルソーは盲る。

 

海から重苦しい吐息が運ばれてきた。あたかも空の全域が開かれ、火の雨を降らすかと思えた。全身が張りつめ、ピストルを握る手が引きつった。引き金が抵抗を失い、指先がつややかな銃床に届いた。そのとき、乾いていながら耳をつんざく轟音とともに、すべてが始まった。

 

ムルソーは汗をぬぐい、目をこするが、それまで保たれてきた心の均衡も、平穏な浜辺の静寂も、もはや失われてしまったことを知る。それから、彼はぐったりと倒れている体になおも四発の弾丸を撃ちこんだ。