2 – 4(たしかに私はアルジェの連絡事務所の通訳として……)

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たしかに私はアルジェの連絡事務所の通訳として雇われた——どの会社の現地事務所も「リエゾン・オフィス」という名で通っていたのは、軍事用語の名残なのか、それを踏襲した商社の習慣なのか、今でもはっきりしたことはわからない。いずれにせよ、「通訳」の実態は雑用係であり、雑用を遂行する主体は事務所の所長代理たる高野であり、その雑用のすべてにフランス語がかかわってくるので、高野のアシスタントとして二人三脚で動いていたのである。

高野はよく飲み、よく食べた。それにつられて、こっちもよく食べ、よく飲んだ。たくさん話もした。でも、ほとんど忘れた。でも、食べたものは憶えている。
その筆頭に挙げるべきは、やはり鴨のパテだろう。われわれ——おもに高野と私——は、その店を鴨屋と呼んでいた。ときにはレストラン・カナールと呼ぶこともあったが、それはたんに高野が覚えたてのフランス語を使いたくて命名したものであって、別の正式名称があったはずだが、記憶からはこぼれ落ちている。所番地も憶えていない。店のカードなんてものもなかった。

ただ、店内の雰囲気はうっすらと記憶に残っている。こじんまりとした店で、壁は板張り。真ん中の通路を挟んで、左右に五卓ほどのテーブルが壁に押し付けられるようにして並んでいる。どれも四人掛け。奥にカウンターがあって、その向こうが厨房になっている。そこで、白いコック服姿の、セレストみたいに腹の突き出た@大将{シェフ}が黙々と鴨料理を作っている。

「ピエ・ノワールだよ」と高野が小声でささやく。まるで前科者を指さして言うかのごとくに。アルベール・カミュと同じく、アルジェリア現地で生まれ育ったフランス人。どうして黒い足なんて呼び名がついたのか、辞書を引いても、フランス人にきいても、いまだによくわからない。アルジェリアの独立戦争で敗れたフランス人のほとんどが本国に引き揚げたと言われているから、この鴨屋の大将は、どういう事情があったのかはともかく、居残った少数のフランス人のひとりだということになる。
この店のパテはとにかくでかかった。申し訳程度にサラダ菜が添えてあるだけ。二百グラムのステーキくらいの大きさと厚みがあったような気がする。肉片を噛むと濃厚だけれど爽やかな脂肪が口全体に広がり、痺れるような香辛料の刺激が鼻を抜けていった。じつはこのとき、パテなるものを初めて食べたのである。鴨のパテという限定ではなく、生まれて初めてパテという食べ物を口に入れたのである。こんな贅沢をしていいものだろうかとさえ思った。感動のあまり、よけいに大きく見えたのかもしれないし、記憶のなかで肥大してしまったのかもしれない。これを、当地でもっとも高級な〈キュヴェ・デュ・プレジダン〉、すなわち「大統領の酒蔵」という、タンニンの強いフルボディの赤で口の中をリフレッシュしながら食する。

「合鴨ではなくて、野生の鴨なんだよ。本物のジビエ」

本当かどうかはわからない。ジビエという言葉は、このとき初めて知ったのではなかったろうか。高野も覚えたてだったにちがいない。知ったかぶりするのが、彼の欠点で、それが坂口の癇に障るところなのだが、右も左もわからない従順な通訳には気にならなかった。高野の食欲も好奇心も際限がなかった。そこのところでウマがあったのだろう。ありがたいことにアルジェのうまい店を軒並み連れ回してくれた。高野自身が半年前にすでにアルジェリア入りをしていたし、日本の大手商社のほとんどがアルジェに事務所を構えていて、おいしい店、洒落た店、評判の店に行くと、必ずといっていいほど、そこに日本人がいた。

次に思い出すのは、魚料理専門の店。われわれは魚屋と呼んでいたが、ここも正式名称はわからない。港に近いところにあって、なおかつオーベルジュ風の洒落た建物の前には手入れされた庭があり、背の低い薄暗い照明の灯された石畳の通路を抜けていったところに入口があった。かなり高級な店だったから、一度か二度しか行っていないが、鮮明に憶えているものがひとつだけある。スープ・ド・ポワソン、読んで字の如し、魚のスープという意味だが、これも鴨のパテと同じく、生まれて初めて口にした。そして、感動した——全身に沁みたと言ってもいい。

塩漬けにしてかちんかちんに干した鱈を水で戻し——それも何度も数日かけてゆっくりと——、それを各種の魚のアラ——甲殻類の殻を入れるとなおよい——でとったスープとともに煮込み、かりかりに乾燥したフランスパンの輪切りを浮かべ、ルイユとかライユとか呼ばれるニンニクのきいた橙色のマヨネーズソース(カタルーニャのアイオリと同じ系統のソースだろう)みたいなものをのせて食べる——じつはこのレシピ、マルセイユの作家ジャン=クロード・イゾの小説のなかに書いてある。アルジェの人にマルセイユのことを聞くと、C’est la même chose. こことおんなじだよ、という答えが返ってきたことを思い出す。フランス人からは、マルセイユはアルジェリア人の植民地になったなんてことを聞いた。でも、四十年前のそのときは、よし、帰りはマルセイユに寄って、本場のスープ・ド・ポワソンとやらを試してやろうじゃないかと思ったものだ。

もう一店、どうしても挙げておかなければならない店がある。レストラン・サイゴン、アルジェで唯一のベトナム料理店だ——そう書いて、にわかに自信がなくなる。アルジェで唯一というのは間違いない。アジア系のレストランということで言えば、当時は日本料理店はもちろん、中華料理店だって一軒もなかったのだから——あれば絶対に行っている。問題は、ここでも店の名前だ。レストラン・サイゴン、いかにも海外で営業しているベトナム料理屋らしい店名だが、むしろそこが怪しい。これもひょっとしたら高野による命名だったかもしれない。あるいは現地に駐在する日本人の誰かがふと洒落で口に出してみたのがきっかけで、広まったというのが真相だったかもしれない。

ここはもう日本人御用達の店といってよかった。献立表には、だれが書いたか、アルファベットの料理名の上に漢字やカタカナの「翻訳」がついていただけでなく、その日本語で注文しても、ちゃんと通じた。小柄で痩せっぽちの、みるからに東南アジア系の顔立ちのおばさんが店を切り盛りしていた。料理をしていたのは、たぶん息子だったと思うのだが、記憶のなかの息子は背が高く、面長で、母親とはまるで似ていない。父親似だったのかもしれない。しかし、四十年前のことだ。何を根拠に親子だと思っているのか。

この店には、十回、二十回、それこそ数え切れないほど通ったから、ちょっと記憶の端に触れると、いろんなもの、いろんなことがぞろぞろ出てくる。断片的ではあるけれど。

場所はたしか、港を背にしてディドゥシュムラド通り(ミシュレ通り)をずっと上がっていって右に折れ、路地のような暗い道に入ったところだったような気がする。崖っぷちというか土手っぷちというか、斜面をくり抜いたようなところにあって、とにかく店内は狭く、天井の低い店で、客同士肩を寄せ合うようにして食事をした光景がよみがえってくる。

レストラン・サイゴン——ということにしておこう——の人気メニューは生春巻とフォーだった。正確には、日本人の客が必ず注文する料理というべきだろう。もうひとつ正確を期して訂正するならば、われわれ日本人はフォーとは言っていなかった。そもそもフォーなんて言葉は、当時誰も知らなかった。むろんメニューにはちゃんとフォー(Pho)——あるいはフーティウ(Hu Thieu)だったかもしれない——と書いてあったのだろう。でも、その上にラーメンと仮名が振ってあるのだ。そして、ラーメンと日本語で発音すれば、痩せっぽちの小柄な@女将{マダム}が満面の笑みを浮かべて、ウィと答えてくれたのだ。どうして、発音もわからない言葉を口に出す必要があるだろう——よせばいいのに、ヌードル・ヴェトナミエンヌなんて、わざわざいんちきなフランス語で頼むやつはいたけれど。

生春巻きにしたって、今の日本ではスーパーの惣菜コーナーでさえ当たり前のように置いてあるが、そのとき初めて食べたのである。パクチー、あるいは@香菜{シャンツァイ}も初めて食べた——もちろん、コリアンドル(コリアンダー)という名で。

もちろん、おいしかった。でも、おいしいまずいではなく、胃腸に癒しを与えるというか、この店に来るとほっとするのである。たっぷりの野菜と米粉の優しい味がありがたかった。

なにしろ定宿にしているホテルで毎日食べているものは、お世辞にもおいしいとは言えなかった。コート・ダニョー——仔羊のあばら肉——は鼻がひん曲がるほど臭かったし、仔牛のエスカロップを揚げているオリーブ油は何度使いまわしているのかと思うほど胃に重たかったから。バゲットはまるで中世の修道院の食糧庫で千年の眠りから覚めたごとくに硬く、味気なかった。

でも、われわれはミシュランの隠密調査員ではない。サハラに電力を供給するためにやってきたのだ。