2 – 6(「アルジェの夏」――『結婚』の三番目の章……)

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「アルジェの夏」――『結婚』の三番目の章――の冒頭。

 

ひとつの街とわかち合う愛は、しばしば秘められた愛だ。パリやプラハ、そしてフィレンツェさえも、街はそれ自身のうちに閉ざされ、そうすることでそれぞれに固有の世界を画定している。しかしアルジェは、海に面した街に特有の環境に恵まれていて、口や傷のように空に向かってひらかれている。アルジェで愛されるものは、人の暮らしとともにある。どこの曲がり角からも見える海、陽光の重み、人種の美しさ、そういったものだ。

 

こんなふうに書かれると、ブザレアの事務所から港に向かって降りていくときは、車のフロントグラスをとおして遠くまで地中海を見渡し、逆に下町のベルクールあたりから事務所に向かって坂を登っていくときは、真っ青な空が広がっている映像がよみがえってくるような気がするが、それが本当の記憶なのかどうかは疑わしい。むしろ、生々しく思い出されるのは、アルジェの街路がたびたび渋滞して、ラムダニの運転する愛車プジョーが立ち往生してしまったことだ。急な坂道で渋滞につかまると、それが登り坂であっても下り坂であっても、運転手はずっとブレーキを踏んでいなければならなくなる。渋滞とはいえ、小刻みには流れていくから、サイドブレーキをかけるのもわずらわしい。渋滞が長引くと、ラムダニはときどきブレーキを一瞬緩めてから、またペダルを踏む動作を繰り返した。どうしてそんなことをするのかと尋ねると、ブレーキを踏んだままだと@効き{傍点}が悪くなるから、ときどき@圧{プレッション}を抜いてやるんだと説明した。プジョー五〇四のブレーキシステムがどうなっているのか正確には知らないけれど、これはたんなる運転手の癖なのではないかと思ったことを今でも憶えている。それと、一瞬でもブレーキを緩めると、車は登り坂だと後退し、下り坂だと前進する。アルジェのドライバーたちはみなせっかちで、渋滞するとすぐにクラクションを鳴らしはじめるくらいだから、後ろや前の車にぶつかったらどうするんだと肝を冷やしたことも憶えている。

冒頭のページをめくって次のページを開くと、こんなことが書かれている。

 

人々は、ここでは若い盛りをその美しさにふさわしく過ごす。そのあとは下降と忘却だ。彼らは肉体に賭けたわけだが、負けは覚悟のうえだ。アルジェでは、若くて元気な者にとって、すべては勝利をおさめるための逃げ場所であり言い訳なのだ。港も、太陽も、海に面したテラスを彩る赤と白のたわむれも、花々と競技場も、すずしげな脚をみせる娘たちも。だが、その若さを失った者にとっては、すがりつくものもなければ、憂鬱がおのずと解消されるような場所もなくなる。……ベルクールやバブ=エル=ウェドでは、カフェの奥に座った老人たちが、髪を油でてかてかに撫でつけた若者たちの自慢話に聞き入っている。

 

ここにも「肉体の真実」というテーマが鳴っている。この真実は、不死の神が背負っている永遠不滅の真実ではなく、若さの終焉とともに滅んでいく人間の、そして無慈悲な真実だ。

でも、ここで少しこだわってみたいのは、主題ではなく、カミュの言葉遣いだ。こうして日本語にしてしまうと、当たり前のような文章になってしまうが、冒頭のパラグラフといい、この箇所といい、腑に落ちないところがある。希少な語彙や屈折した構文が目立つということではない。もっと単純な、たとえばここに引用した文の第一行目の主語、とりあえず「人々」と訳してあるが、本当は、これでいいのかどうかわからない。

原文は Les hommes と書き出されている。「ここの人間は若い盛りを……」と訳したほうが、フランス語の少し冷たい感じが出てくるかもしれない。と同時に、カミュはもう少し親しげに Les gens(人々)と書き出すことはできなかったのだろうか、とも思う。著者としては自分が生まれ育った場所だからなおのこと、ベルクールやバブ=エル=ウェドに住む人々と距離を取ろうとしたのだとすれば、翻訳としては原文を少し裏切っていることになる。

そんなことを言い出せば、最初の文章に出てくる「人種の美しさ」というのもおかしい。むしろ、異様と言ったほうがいい。なぜなら、この「人種」は、la race と定冠詞付きの単数形で書かれているから。いったい、どの人種を指しているんだ? まだ植民地下にあった当時のアルジェリアには、支配者としてのフランス人、被支配者としてのアラブ人、そして、この土地の先住民族のベルベル系、それから内陸のほうからやってきたトァレグ族、黒人系の人もいたはずだ。

アルジェリアは多様な人種で構成されている。なのに単数で書かれている。

ここに描かれているカフェの、その奥に座って若者たちの自慢話に耳を傾け、自分の若かりし頃に抱いた夢の数々を反芻している老人たち、彼らは何人なのだろう。彼らこそ、フランス人でもアラブ人でもなく、アルジェリアで生まれ育ったピエ・ノワールと呼ばれる人々なのだろうか。それをカミュは「人種」と呼んだのか。どうもよくわからない。

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ラムダニは、独立記念碑――あるいは殉教者記念塔――のそびえる高い丘の上の集合住宅に住んでいた。アルジェの港はおろか、地中海全体が見渡せるのではないかと思えるほどの絶景が窓から広がっていた。

本場のクスクス、本当のクスクス、家庭のクスクスを御馳走してあげようと、自宅に招かれたのである。

あんなにも青い海が見渡せたのだから、快晴の日だったことは確かだ。でも、それが五月だったか、六月だったか、七月だったか、それは思い出せない。五月であれば街路樹のマロニエがまだ真っ白な花を咲かせていたはずだが、そのころは街角の景色に見惚れている余裕はなかった。今日こそ、知らない名詞や動詞の流れ弾に当たって即死するのではないかと、文字どおり戦々恐々としていたから。

あ、食後のフルーツとしてスイカが出てきたから、あれは六月の終わりか、七月の初めだったのだろう。

いや、順番に思い出していこう。

ラムダニの車で丘の上まで登り、その平坦な高台にいくつもの集合住宅が立ち並んでいるのに、まずは驚いた。ブサレアやエルビアールで慣れていた住宅街の景観とはまるで違っていた。そして、ラムダニは独立記念碑を指さした。うろ覚えの記憶のなかでは、戦う兵士の像ではなかったかと思うのだが、自信はない。

それで仕方なくインターネットで検索をしてみて、唖然としてしまった。そんなこじんまりとした記念碑はどこにもない。そのかわり、途方もなく壮大な――九十二メートルもの高さの――記念塔がそびえている。

そんな記念塔は記憶のどこをほじくり返しても出てこない。記事をよく読むと、アルジェリア独立二十周年を記念して、一九八二年に竣工したとある。われわれがラムダニの自宅を訪れたのも八二年のことである。どうしてこんな巨大な建造物の記憶が欠落しているのか。ラムダニが指さしたものはなんだったのか。今となっては、もう確かめようもない。

ラムダニのあとから、われわれ――坂口も高野も一緒だった――は集合住宅の階段を、最上階まで昇っていた。エレベーターはなかった。主人のラムダニが鋼鉄製のドアを開けると、思ったよりも広い玄関ホールがあって、奥さんと長男と娘さん三人――だったと思う――が出迎えてくれた。もちろん女性は全員ヒジャブをかぶっている。われわれが深々と頭を下げると、彼らも頭を下げた。東洋人を家に迎えるのは初めてとみえて、女性はみなやや恥じらい気味のように見受けられた。長男が前に進み出て、サロンのほうへ――リビングと言ったほうがいいのか、居間と言うのがふさわしいのか、当時も今もわからない――客を案内すると、女性陣はふたたび頭を下げて、奥の部屋に退去した。

通された部屋は、とくにイスラム風とかマグレブ風というような感じではなくて、むしろ平均的なフランスのアパルトマンのリビング・ダイニングという印象だった。テーブルの上にはチェック柄のビニール・クロスが敷いてあった。

窓は北――あるいは北西――を向いていた。その窓からアルジェの港と、その向こうに広がる地中海が一望できた。その窓辺にテーブルは置いてあった。私は窓際に座った。真向かいにラムダニが座った。隣に坂口、その隣に高野。

長男――アハメドだったモハメドだったか、いやモハメドは親父のほうだ――がテーブルに食器を並べていく。料理は女たちが作る。でも、客の前には出ない。給仕はあくまでも男がおこなう。ラムダニ家の場合は長男がいるから、長男がすべてを仕切る。主人のラムダニはテーブルに着いてからは一歩も動かなかった。

イスラムの礼儀作法に従って、われわれを賓客としてもてなしてくれたのだ。あるいはイスラムの風習の一端を日本人に知ってほしいと思ったのかもしれない。

ラムダニも息子さんも、きわめて温厚で礼儀正しかった。節度。この世から失われつつあるもの、それがラムダニ家にはあった。父親が忙しいときには、息子さんが代わりに運転手としてやってきた。

ラムダニは、けっして流暢とはいえないフランス語で、クスクスについて説明した。それを新米通訳が一生懸命日本語に翻訳した。クスクスは家庭で作り、家庭で食べるものが一番である。家庭によって流儀は違うが、粗挽きの小麦粉を二度蒸しするのが大事なポイントである、云々――もっと微に入り細に入り説明してくれたのだが、四十年の歳月を経た今、憶えているのはかろうじてこの程度のことだ。

そこに息子さんが大きな熱々のスープの入った鍋とすでに蒸し上がっているクスクスを盛った大皿を持ってくる。スープ皿をひとりひとりの前に置き、クスクスを大きなスプーンで掬って、皿の半分ほどの面積に盛り付ける。それから羊肉と芋、人参、玉ねぎ、ズッキーニ、蕪――とにかくたくさんの野菜が入っていた――をバランスよく配分し、そこにたっぷりのオレンジ色のスープをかける。それぞれ適当にスープとクスクスを混ぜ合わせて食べてくださいと息子さんは言う。

もちろん、クスクスを食べるのはそのときが初めてだった。クスクスはアラブ料理なんですかと問いかけると、息子さんは、一瞬の間を置いてから、いや、マグレブ料理ですと答えた。

直径一ミリほどの小麦の粒がスープを吸って膨れ上がり、それが口のなかに広がっていく。日本人の感覚だと雑炊にもっとも近いけれど、まったく違う。たぶん昨日の晩から煮込んだのだろう、羊の肉は口に入れるとほろほろと崩れた。芋はしっかり形が残っていて、小ぶりの人参はそのままの形できれいに洗われ、橙色がまぶしかった。

その後、パリで、東京で、何度もクスクスを食べたが、これほどおいしいクスクスは食べたことがない。ラムダニが、家庭のクスクスが一番美味しいのだと自慢していたのがうなずける。

一皿目はあっという間に平らげた。あとは好きに盛って食べてくれというので、また同じくらいの量を皿に盛り付けて食べた。さすがに二杯も食べるとお腹いっぱいである――カレーライスをお代わりしたと考えてもらえばいい。

でも、ラムダニはもっと食べろと言う。いや、さすがにそんなには食べられないというと、遠慮していると思ってか、

「シ、シ、シ!」を十回くらい繰り返したような気がする(いや、いや、もっと、もっと!)

そして、三杯目を食べて降参した。ラムダニは満足そうに笑っていた。

デザートにスイカが出てきた。目の前に真っ赤な半月形のスイカがどんと置かれて、皿もスプーンもない。さて、どうやって食べたらいいものやらと思っていると、ラムダニは大きな口を開けてがぶがぶ食べはじめ、種を威勢よくビニールクロスの上に吐き出した。われわれ日本人三人は唖然として、あるいはむしろギョッとして見つめ合った。

ラムダニのほうは平然と、われわれはこうして食べるんだといわんばかりにペッペと種を吐き出しつづけた。郷に入っては郷に従え。われわれ日本人もスイカにかぶりつき、種をクロスの上に吐き出そうとするが、そういう習慣がないから、口もとからちょぼちょぼこぼれたり、勢いよく吐き出しすぎて、テーブルの外に飛んでいってしまったり。その度に会食者一同は大笑いした。これはこれでコツというか慣れというか、そういうものが必要なのだった。