3 – 2(ラムダニの運転するプジョー五〇四は……)

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ラムダニの運転するプジョー五〇四は、砂漠の一本道を快走した。

時速百キロくらいのスビードは出ていたはずだ。ときどき助手席からスピードメーターを覗くと、ラムダニの大きな顔と目が笑った。ヨーロッパの自動車専用道路であれば百キロで走っている車など一台もないだろうし、日本の高速道路だって百キロは遅すぎる――たぶん。

しかし、当時、サハラの道はほとんどが簡易舗装のような道であり、ところどころ陥没していたり、砂のかぶった箇所があったりするから、やたらには飛ばせないのである。とくにタクシードライバーのラムダニはつねに安全運転だったし、大切なお客さんを乗せているから、そんなにスピードは出せない。

それでも百キロである。遠くに砂丘が見えるほかは、視界を遮るものの何もない砂漠では、言うまでもなく距離感も速度感も麻痺してしまう。

アルジェの公認タクシーは、車種はまちまちだが、色はすべて統一されている。屋根とボンネットは緑、両サイドは黄色。運転席と助手席のドアには大きな黒字で番号が振られている。

ラムダニのタクシーは@九六{カトルヴァン・セーズ}。登録番号は当時、四桁まで見た記憶がある。二桁はベテランのタクシードライバーであることの証しだった。それが彼には、親指に残された独立戦争の傷跡と同じように誇りなのである。

この往年の名車、プジョー五〇四をラムダニがいつ購入したのか、正確にはわからない。でも、十年乗りつづけているということを彼の口から聞いたことがあったから、七〇年前後にはすでに乗っていたことになる。世界の名車を集めた図鑑などを見ると、プジョー五〇四の生産開始は一九六八年だから、発売後間もなく手に入れたのだろう。

「これは戦車だね」なんてことを高野は言っていた。とにかく鉄板が厚い。手のひらでボンネットを叩いてみると、大きな和太鼓のような音がする。これでサハラの悪路を走り抜けるわけだから、頑丈でなければならないし、サスペンション(四輪独立懸架)がしなやかでなければならないし、エンジンとトランスミッションの機密性が優れていなければならない。

ちなみにプロジェクトの専用車として、日本製のオフロード車を現地に持ち込んでいたが、一年もたたないうちに使い物にならなくなった。砂嵐に遭遇して、エンジンに微細な砂が入り込んでしまったのである。とうの昔に生産中止になっているから、ここでわざわざメーカー名を出す必要もないだろう。

砂漠の砂はパウダーのように細かい。正確に言えば、年がら年中、風と太陽にさらされているサハラの奥に行けば行くほど細かくなる。そして色も変わる。

耐久性こそ、プジョー五〇四が北アフリカで愛された理由だった。

ラムダニのタクシーが前を走るのは、言うまでもなく彼がサハラの道を知悉しているからだった。もちろん、アルジェ市内を流すタクシーがしょっちゅうサハラの奥地までお客さんを届けるようなことはない。しかし、タクシードライバー同士のネットワークから得られる情報は貴重である。道の状態、気象状況、砂嵐の発生など、スマートフォンを通じて手軽にさまざまな情報が入手できる現在とちがって、携帯電話はおろか、サハラのオアシスとの電話による交信だってままならなかった時代、タクシードライバーにかぎらず、仕事で車を運転する人たちが唯一頼りにしているのが、口コミ、口伝えによる情報だった。

ラムダニは用意周到な人だから、今回の視察旅行で立ち寄るオアシスと、オアシスをつなぐ道の情報を独自のルートで入手していたに違いない。彼は政府公認のタクシードライバーではあったけれど、あくまでも個人タクシーだから無線は装備されていなかった。少なくともラムダニのプジョーに無線機は備え付けられてはいなかった。だから、砂嵐に巻き込まれて遭難などという事態はなんとしてでも避けなければならなかった。その責任をラムダニは負っていたのである。

タクシーだから、もちろんメーターはついている。でも、賃走の表示は消えたままだった。おそらく月極で契約していたのだと思うが、高野がその報酬をラムダニに渡しているところを見たことがなかった。夏を過ぎて、高野が帰国して、事務所の経費の管理を任された時点でも、その報酬を通訳が渡したこともなかった。精算はどうしていたのだろう。そんなことが今になって、気になるのである。おそらく、このサハラの旅では特別報酬が支払われていたはずだが、それも知らない。所詮は一年契約の派遣通訳に過ぎなかったということだろう。

でも、ラムダニにとっては定期収入を保障されるありがたい雇用主であったはずだ。だから、まだ駆け出しの若輩者の通訳に対しても、それなりの敬意というか、礼儀というか、そういうものをけっして崩さない人だった。

ラムダニは寡黙だった。こちらから話しかければ、誠実に答えてくれたが、こちらが黙っていたり――通訳がうまくいかずにしょんぼりして――、物思いにふけっていたりするときに話しかけてくることはほとんどなかった。民族の違い、宗教の違い、世代の違い、人は様々であるけれど、人格とか人徳というものは、生まれ育ちとも、教育とか教養とかそういうものとも関係なく、それ自体でごく普通に当たり前のようにそこにあるものではないだろうか。ごく稀ではあるけれど。ラムダニは、そういうごく稀な人の一人だった。いや、そんなに難しいことではない。彼の運転するプジョーの助手席に座っているだけで癒された日々の記憶が、今も胸をあたたかくし、懐かしさで満たされるのだから。サハラの思い出は、ラムダニの思い出とともにある。

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ところがいかんせん、その肝心なサハラの思い出が飛び飛びで、断片的なのである。それは長い時間が経過して、記憶が色あせたということではなく、サハラがあまりにも広大過ぎて、しかも、単調な景色がえんえんと続くだけ、細部がないと記憶はまとまらないのではないかと思う。ラムダニは黙々と運転し、私のほうは半分くらい寝ていたような気がする。

アトラス山脈を越えると、しばらくは土漠と呼ばれる地帯を通っていく。土漠は砂漠化する前の土地だから、ブッシュのような茂みもあるし、林もある。アルジェから四百キロほど離れたところにあるラグアットあたりまでは、そんな地帯が続く。アグアットは近くにアフリカ最大のガス田があることもあって、サハラ有数のオアシス都市だが――人口は十万人程度だと聞いた――、通り過ぎただけなので語るべき何ものもない。

ただ、ラグアットからさらに二百キロほど走ったところにあるガルダイアというオアシスに入る手前の、もうすでに土漠から砂漠へ土地の色も様相も変わってしまったあたりで、検問に捕まったことを憶えている。交通安全とか交通規制とか、その種のものではなく、軍隊による検問だった。

自動小銃を脇にはさんで、銃口をこちらに向けた兵士が近づいてきて、運転手のラムダニにアラビア語で何ごとか尋ねている。ラムダニが免許証を差し出し、やはり何ごとか答えているが、アラビア語だからわからない。ただ、助手席に乗っているのは日本人で、これからエルゴレア、チミムン、アドラールに建設中の発電所を視察に行くのだというようなことを答えているらしいことは推察できた。そうこうするうちにあとからやってきた専務さんを乗せたライトバンも停車を命じられ、そこでもラムダニが同じようなことを説明して、数分ほどで解放された。

検問を通り過ぎてから、あれはなんの検問なのか、何か事故か事件でもあったのかとラムダニに尋ねてみたけれど、さあ、はっきりしたことはわからないと言葉を濁した。

あとでエルビアールの独身寮で同世代の商社マンのひとりにきいたら、こともなげに反政府組織が軍の武器トラックをまるごと強奪したんだよと答えた。もちろん、こんな軍も政府も面子丸潰れの物騒な情報は御用新聞には載らないし、若い商社マンの情報が正しいという保証もない。その反政府組織がどういう種類の、どういう主義思想で動いている組織なのかもわからなかったし、イスラム原理主義などという言葉も世間一般にまだ通用していなかった。しかし、アルジェリア国内では、たぶん表沙汰にならないだけで、こういう事件は日常茶飯とは言わないまでも、ときどき起こっていたのだろう。ラムダニが言葉を濁したのも、彼一流の節度だったのだと思う。敬虔なイスラム教徒である彼の胸中はそんなに単純ではなかったはずだ。

そのとき、四月にブザレアの事務所に赴任してくるのとほぼ同時に五百ディナール札が廃止になって、アルジェの事務所もサハラの現場も大騒ぎになったことを思い出した。あれはやはり反政府組織の資金源を断つのが目的だったのか。

それだけでなく、個人的にも思い当たることがあった。プロジェクトの施主であるソネルガスに出向いていくと、様々な場面、様々な局面で通訳の任務をこなさなければならない。その経験を通じてわかったことは、地位が上に行けば行くほど、フランス語が流暢に、インテリ風になるということ。わがプロジェクトの施主側のトップと挨拶を交わしたこともあったし、通訳を命じられたこともある。相手のあまりに隙のない、完璧なフランス語に気後れしてしまったことを思い出す。どう考えても、この人はフランスのどこかの理工系大学を出た人だと思った。

だとしたら、アルジェリアの宗主国フランスからの独立は何だったのか? もちろん、通りの名はフランス語からアラビア語に変わり、学校でもアラビア語教育が主体になり、世代が下がれば下がるほどフランス語が下手になっているとも言われていた。商社Mに勤める現地雇いの若いアラブ人の女性秘書――肌は浅黒く、髪は短く縮れ毛、小柄で小太りだが筋骨がしっかりしているという印象がなぜか鮮やかに残っている――は、これからは英語の時代だから英語を勉強したいと言っていた。

でも、その当時は第二公用語としてのフランス語の地位は揺るぎないものがあったし、とりわけ外国から重工業の生産プラントを輸入しようとすればフランス語の語彙を借りなければ、商談も技術的な打ち合わせもできなかったのだ。

二〇一〇年に、隣国のチュニジアで広まった「ジャスミン革命」と呼ばれる反政府デモがアルジェリアにも飛び火したときにも、すぐにサハラ視察のドライブで政府軍の検問に引っかかったときのことを思い出した。あのときの反政府組織による政府軍の武器強奪事件と「ジャスミン革命」はまっすぐにつながるものではないかもしれない。しかし世界は、新聞紙上で報じられ、テレビの画面に映し出される姿とは、およそ違った姿をしているのではないか。そして今、世界の街角の隅々にまでカメラが入り込んでいるけれど、世界全体の姿――その行方も由来も――ますます見えにくくなっているのではないか。