3 – 3(ラムダニのプジョーはさらにサハラを……)

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ラムダニのプジョーはさらにサハラを南下する。

ガルダイアからエルゴレアへ、二百五十キロほどの距離だ。土漠は砂漠になり、砂の色は徐々にグレーから赤みを帯びていく。しかし、記憶の色はグラデーションになっているわけでも、鮮明な輪郭を描いているわけでもない。そもそも砂漠の景色は、沖合の海のように単調で、ところどころ砂丘や小さなオアシスに生えるナツメヤシの木立が見えたりするだけなのだから。そして、記憶もまた飛び飛びになる。

エルゴレアには夜着いた。アルジェから八百キロ以上もの距離を走れば、当然夜になる。途中検問もあったし、どこかのオアシスでガソリンの補給もした。アルジェを発ったのが早朝、五時か六時くらいだったから、エルゴレア到着は陽がとっぷり暮れてからだった。さすがに疲れ果てて、到着時の記憶は何もない。

でも、朝の記憶はある。疲れているくせに興奮しているので、早くに目が覚めた。朝食までの時間に、あたりを散歩しようとホテルの玄関を出て、息を呑んだ。目の前にオレンジ色の砂丘が聳えていて、そこに朝日があたり、稜線がダイヤモンドのカットのように鋭利に輝いていた。日の出前にうっすらと降りたかすかな霜が石英の小さな粒の反射と入り組んで、眩しく怪しく、蒸気のような光を放っている。

あの稜線を駆け登ってみたいという衝動にかられたけれど、いかんせん遠すぎるし――巨大な砂丘だったから近くに見えたが、数百メートルは離れていたかもしれない――、アスファルトの路肩から一歩砂のなかに足を踏み入れると、めり込む感じがある。これじゃどんなに足を動かしても、砂が崩れるだけだろうと思った記憶がある。そこで足元の砂を持ち帰ることにした。ポケットにビニール袋を忍ばせていたか、ホテルに戻ってフロントで封筒か何かを借りてきたか、それともハンカチに包んだか、そういう細かい記憶は失われている。

でも、その砂は今、たしかに目の前の小さな薬瓶のなかで眠っている。エルゴレアの砂は石英が多く、砂時計のように粒子は細かい。この瓶を揺すれば、この記憶も目覚めてくれるかと思うが、そうはいかない。ただ、オレンジ色の砂丘を前に、言葉を失って立ち尽くしている自分の姿が見えるだけだ。

あと一つ思い出すことがある。

最初の停泊地――休憩地――に、ここエルゴレアが選ばれたのは、これ以上一気にサハラ砂漠を縦断することができないという理由もあるが、広大なサハラに点在する発電所の建設現場のほぼ中間点に位置していたからだ。つまり、このホテルに各現場の責任者が集合して、東京本社の専務取締役の前にして、工事の進捗状況とか、不足しているもの、直面している困難などについて直接報告するという大事な会議が開かれる場所でもあったのだ。

エルゴレアのオアシスは水が豊かなせいか、ホテルは立派なナツメヤシの林で囲まれ、小さなプールも備えられていた。初秋のサハラは、朝は霜が降りるほど冷え込むが、日中は容赦ない直射日光に襲われ、ときとして微粒子の砂混じりの風が吹きつけてくる。砂漠の真ん中での水浴には抗しがたい誘惑がある。

昨日、ライトバンをずっと運転しつづけた高野は一夜の睡眠では興奮も疲労も去っていかなかったか、持ち前の好奇心がうずいたか、陽が高くなって気温も上がると、ホテルのプールに泳ぎに行ったのである。そしてプールサイドのデッキチェアでそのまま眠りこけ、会議をすっぽかしてしまった。

あいつは何のために視察にやってきたのだ。オアシスのプールで泳ぐためか。それからというもの、この大失態のために、彼は全プロジェクトの信用を失っただけでなく、ただでさえぎくしゃくしている坂口との関係も破綻して、胃潰瘍を患い、ほどなくして東京に帰っていった。

 

砂の入った薬瓶は三つある。

二番目の薬瓶のなかには、アドラールのオアシスで採取した砂が入っている。色はエルゴレアの砂より薄く――ベージュといえばいいのか生成りといえばいいのか――、粒子はさらに細かくパウダーのようでもあり、乳鉢で丁寧にすり潰した岩絵の具のようでもある。

アドラールは、エルゴレアからさらに五百キロほどサハラの奥に南下したところにある小さなオアシスだ。マリと国境を接するアドラール県の中心地だが、エルゴレアほど立派なホテルやナツメヤシの林があるわけではない。遠い記憶を探ってみても、砂まみれのちっぽけなオアシスといった印象しか残っていない。ただし、ここで初めて、ディーゼル発電パッケージの中を覗くことができた。現場責任者が、これがディーゼルエンジン、これがタービンといろいろ説明してくれたのだが、記憶に残っているのは、あの電話機だけである。ドアの横の壁に取り付けてあった。ああ、おれはこの電話を慣らすために、アルジェからどれだけの回数ダイヤルを回し、どれだけの時間受話器を握りつづけたことか。そして、無線電波は二千キロものサハラの上空を旅するのだから、通じないのも仕方ないよなと思うと、愛おしさのようなものまで込み上げてきた。そして、コンテナの近くの砂を掬ってポケットにしまった――たぶん紙袋か封筒のようなものに入れて。

現場をあずかる日本人技術者は、ドアと開口部の周囲に貼り付けてあるパッキンのようなものをさすりながら、「どんなに隙間をふさいでも、砂が入り込んでくるんだよ」と言った。それを聞いて、その砂を掃き出すのが、あの「ジャポネ・シルブプレ」だけで通じ合ったトゥアレグのおばさん――おねえさんかもしれないが――なんだよな、と思った。

でもじつは、このベージュ色の岩絵具のような砂を見ていて、鮮烈によみがえってくるのは、アドラールのオアシスに来る前に遭遇した光景なのだ。サハラがいかに広大でも、太平洋や大西洋の沖合のように、視界三百六十度視界を遮るもののいっさいない、文字どおりの絶景にはそう出会うことはない。

ところが忽然と出現したのだ。場所はエルゴレアからティミムンのオアシスに向かう途上、どれくらいの距離、どれくらいの時間を走った地点だったか、正確なことは思い出せない。

思い出せるのは、砂の色がオレンジ色の輝きを失って、徐々に白っぽくなってきたあたりに、見渡すかぎり砂丘の影もナツメヤシの林も見えない、いわば真円の地平線が出現したことだ。

プジョーの助手席に座っていて、フロントガラスの向こうに遮るものが何もないことに気づいた。右手を見ても何もない。左側で運転するラムダニの向こうを見ても何もない。振り返っても何もない。思わず、

「止まってくれ」とラムダニに言うと、彼は怪訝な顔をしつつ、百キロ近いスピードの出ていた車を徐々に減速させ、簡易舗装の路肩から右側のタイヤが少しはみ出るくらいの位置に停車させた。

「ほんのちょっとのあいだ、砂漠のど真ん中を歩いてみたいんだ」

助手席のドアを開けると、果てしなく続く一本道の右手、無限としか言いようのない風景の彼方に向かって歩き出した。そのうちじれったくなって走り出した。百メートルか二百メートル走っただろうか。そこで仰向けに倒れ、雲ひとつない空を見上げた。遠くで叫ぶラムダニの声が聞こえた。

「おーい、@さそり{スコルピオン}に気をつけろ!」

そう、砂漠で気をつけなければならない二種の動物、蠍と双頭の蛇、どちらも猛毒を持っていて、刺されたり嚙まれたりしたら、血清を特定するために、できれば刺した相手を殺して持参せよと、研修のときに言われた。そんなことできるはずがないだろう! そもそも砂漠のど真ん中で蠍に刺されたら、病院に到着するまでに毒が全身に回って死んでしまう。

死んでもいいとは思わなかったけれど、それよりも興奮が勝った。

おそらく一生に一度しか見ることのない風景に抱かれてみたい。生からもっとも遠くにある光景。もしそれが死の光景であるならば、人はなぜ死に惹きつけられるのか。

ついにここまで来たと思い、自分を取り囲んでいるこの(何もない)空間に、人間の言葉で名指しできるものがいくつあるか、数えてみた。空、青空、太陽、光、風、砂、地平線、真円、もしかするとこの砂のなかに潜んでいる蠍。道、道端に停まっているプジョー、そしてラムダニ……。言葉はすぐに行き詰まった。

たぶん、砂の上に寝ていた時間は、一分かそこらだったと思う。本当に何もないところでは十秒くらいで不安が忍び寄ってくる。心拍が自然と速まってくる。蠍が怖いせいではない。立ち上がって砂を払い、振り返ると、巨漢のラムダニがボンネットに片手をついて、こちらを見ていた。ずっとそこに立って、おかしな行動をする日本人を心配して見つめていたのだろう。

しかし、この薬瓶のなかの砂から浮かび上がってきた記憶の風景は、よく考えるとおかしい。四十年も昔のことだから仕方ないといえば仕方ないのだが、この記憶の映像のなかには、ラムダニと、彼のタクシー、地平線めがけて駆け出した自分の姿しか見えないのだ。

そんなことはあるはずがない。通訳とタクシーの運転手だけでサハラのオアシスからオアシスへ移動することなどあるはずがないし、先導車が勝手に停車することは許されない。でも、記憶の映像のなかには、坂口もいなければ、本社の専務もいない。高野もいない。いくらヘマをやらかしたからといって、その場で即刻日本に帰されたわけではないのだから。

アドラールまで行ったことは憶えている。その先のインサラー、タマンラセットまで行けなくて残念に思ったことも憶えている。しかし、アドラールからはどうやってアルジェに帰ってきたのか。もちろん、ラムダニのタクシーで帰ってきたのだ。それ以外に考えられないから。では、ライトバンに乗った三人はどこに消えたのだ? そこで完全に記憶が途切れている。

記憶違いだとすれば、私は幻影を見ていることになる。

瓶のなかのベージュの砂をいくら凝視しても、何も答えてはくれない。

三つ目の瓶には、エルウェドの砂が入っている。ここの砂は、三地点の砂のうち、いちばん粒子が粗く、色もグレーで、日本で見かける砂のイメージにもっとも近い。でも、湿り気はまったくなく、室内の湿気を吸うこともない。瓶を揺すれば、砂時計の砂のように揺れる。

エルウェドは二回目の現場視察に同行したときに立ち寄ったオアシスで、チュニジアとの国境に近いところにある。地下水の豊富な大きなオアシス都市だ。でも、ここの砂が語ってくれるのは、「千のドームの街」とも呼ばれる、まるで千夜一夜物語に出てくる迷宮都市のことでも、周辺の暗い色をした砂漠のことでもない。

太陽と月と地球のことだ。

でも、その話は後回しにしよう。