4 アルル——(ある日のこと、いつものように晩ご飯の……)

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ある日のこと、いつものように晩ご飯の支度をしていると、電話が鳴った。

鳴った電話は、仕事部屋にある電話の子機だったので、どうせ出版社か学校からだろうと思った。ところが、受話器の向こうから聞こえてきたのは、フランス語だった。

用件はすぐにわかった。前夜、メールをもらっていたからだ。南仏のアルルに「文芸翻訳カレッジ」なる学校、あるいは文化施設があって、そこで仏日、日仏の翻訳者を養成するワークショップを企画している。その講師を務めてくれないかというのである。あまりに突然の、得体の知れない依頼なので、よく調べるなり、よく考えるなりしてから返事を書こうと思っていた。

ところが翌日、「文芸翻訳カレッジ」のディレクターと名乗る男から畳みかけるように電話がきたのである。いずれにせよ、そのときは鍋から手が離せない状態だったので、昨夜、メールはいただいています、今、夕食の準備中なので、メールをよく読んで、ちゃんと返事を書きますので、と答えて電話を切った。

まさに狐につままれたような話だった。メールアドレスにせよ、電話番号にせよ、いったい誰が、遠いアルルの学校まで知らせたのだろう。出版社経由、版権エージェント経由、いろいろな可能性が考えられる。

でも、そんなことはどうでもよかった。

なぜ、アルルからなのか?

なぜ、この期に及んで――生まれ育った場所に帰って、細々と余生を過ごそうかと思っているこのときに――南仏からお呼びがかかるのか? あれから何十年もの歳月を経て、向こうのほうからお呼びがかかるなんて、どういう風の吹き回しか。

地中海が呼んでいる?

ゴッホが呼んでいる?

まさか。

  †

ゴッホは二十歳を越えたばかりのころに、ロンドンからカロリーンという女性――ハーグで知り合ったハーネベルク夫人のこと――に宛てて、こんなことを書いている。

 

ここでは「何もほしいと思わず、しかもすべてを所有している」といったすばらしい生活を送っていて、徐々に自分が本物のコスモポリタンになりつつあると思うこともあります。つまり、オランダ人でもない、イギリス人でもない、ましてフランス人でもない、ただたんに@人間{傍点}になりつつあるというわけです! そして、この世界に比べれば祖国とはいったいなんでしょう? われわれはたまたま放り込まれた小さな一点にすぎません。われわれはまだそういう段階には至っていませんが、ぼくはきっとそこにたどり着けると信じて、それを追い求めているのです。

 

眠れる森の美女のごとくに書棚の奥で眠っていたゴッホ書簡全集の奥付を見ると、一九八四年改版第一刷発行と記されている。裏表紙の内側の上隅には古本屋のシールが貼られている。二度目のアルジェリア滞在――ジジェルという地中海沿いの町に冷凍倉庫を建設するプロジェクト――から帰ってきて、たまたま駅前の古本屋で日本語訳の六巻セットが目に入ったので、すぐに買い求めたことを思い出す。出稼ぎから帰ってきたばかりで、懐があたたかかったのだろう。家に帰ってパラパラとページをめくっていたら、向こうのほうからこんな箇所が目に飛び込んできたのである。

一度目の滞在はおっかなびっくりで緊張の連続だったが、二度目ともなるとすでにベテラン気分で、東京に帰ってきた当初は自分がひと回りもふた回りも大きくなって、フランス語でも英語でもドイツ語でも、矢でも鉄砲でも持ってこいみたいな、ほとんど誇大妄想的精神状態だったから、「自分が本物のコスモポリタンになりつつある」という言葉に共感したのだろう。

この手紙を書いたとき、ゴッホは青春の絶頂にあった。世間的な基準からすれば、人生の絶頂にあったとも言える。なぜなら彼はこの直後に初恋を経験し、失恋し、幸福な家庭生活の夢から転落し、コスモポリタンというよりは流浪の人生を歩むことになるから。

流浪の果てに、ゴッホはアルルにたどり着く。そこで彼は才能を爆発的に開花させる。すでに三十五歳になっていた。世の天才たちに比べれば遅咲きとも言えるだろう。でも、その遅咲きの花は咲いたとたんに散ってしまう。

  †

アルルの翻訳学校は、市の中心をなす市庁舎前広場に面した商店街を少し西のほうに進んでいったところにあった。

その商店街を左手に折れると、細い通りの右側に香水店があり、セレクトショップのような店があり、革製品やナイフを売っている店があり、隣には豚肉惣菜店がある。通りの左側にはアルルを本拠を置く音楽レーベル「ハルモニア・ムンディ」の店舗があって、その真向かいの少し奥まったところに〈エスパス・ヴァン・ゴッホ〉と名付けられた施設はあった。

古い門をくぐると、中央に水盤のある四角い中庭がすぐに目に入ってくる。その庭をぐるりと囲んでいる三階建ての建物には、白い漆喰壁に芥子色の縁取りの回廊が通じている。真ん中の水盤からは放射状に通路が伸び、その四隅ではプラタナスの木が大きく枝を広げている。この矩形の建物には、表通りに面しているところに土産物や地図やカードを売る店、レストランなどが並び、奥に行くと図書館やギャラリーが入っている。

四角い庭を取り囲む回廊を進んでいくと、門からちょうど対角線上の奥に翻訳カレッジに通じる青い鉄のドアがある。パスコードを押すと鍵の外れる音がして、ドアを押し開けて中に入ると石造りの螺旋階段になっている。階段をぐるりと回るとベージュ色の鉄扉が見える。そこでもパスコードを押して、今度はドアを引き開けると天井の高い広い空間に出る。

ここがこの「翻訳カレッジ」の共用スペースで、中央には大きなドーナツ状のテーブルが置いてある。出入り口のドアのちょうど反対側にガラス張りのドアがあって、そこは事務所である。その上がディレクターの執務室で、そこに通じる室内階段が事務所のドアの脇についている。

高い窓が西に向いている。天井を見上げると、年季の入った何本もの剥き出しの太い梁が並行に走っている。

窓の反対側の、共用スペースの奥には書架がいくつも並び、さらにその奥にはパーティションに区切られた翻訳作業用のデスクが並んでいる。天井の太い梁はその上にも続いている。

建物の外観と内部を事細かく説明しているのにはわけがある。

ここはかつて病院だったのである。何本もの太い梁が剥き出しになっているこの共用スペースは患者用の大部屋だったところである。ゴッホはこの部屋を描いている。もちろん、白い漆喰壁と芥子色の縁取りのある回廊に囲まれた四角い中庭も。今、それらの絵はこの門の隣のお土産店で絵葉書として売られている。

門の上には、黒くかすんだ文字で、Hôtel-Dieuと記されている。「神の館」、もともとは司教座のある都市に置かれた病院のことである。ゴッホ関連の大方の本では市立病院と訳されている。

キリスト教といえば教会、大聖堂、修道院、そして聖書といったものを思い出すだろう。聖書といえば神学、神学といえば西洋哲学の礎といった連想が続いて、病院は二の次とは言わないまでも、教会に付属する慈善活動の一環といった印象を持つ人が多いかもしれない。いや、自分がそうだったということにすぎない。ところが齢経るにつれて、それはむしろ逆ではないかと思うようになった。最初に病院があった。誇張でも逆説でもない。福音書を読めば、それは一目瞭然の事実なのだから。イエスは何よりもまず癒す人であり、治療する人だった――治癒神と呼ぶ人もいる。病院ではないかもしれない。けれども、イエスその人が病んでいる人のもとにみずから赴いた。病んでいる人は彼のもとに駆け寄ってきた。こうして、中風の男は立って歩き、長血の女の血は止まり、みみしいの娘に「エッパタ!」と言えば、耳は開き、舌のもつれも解けた。悪霊に憑かれた男たちはその呪いを解かれた。「少女よ、起きよ」と言えば、少女は起き上がりよみがえった。彼は言った。あなたがたの信仰があなたがたを救った。それが福音であり、神の世だった。

ゴッホは、この「神の館」に入ったのである。

かつてはボリナージュの坑夫たちに神の道を説き、性病を病み身ごもっている売春婦に献身的に尽くし、しかし結局はそこを追い出され、あるいは逃げ出して南仏にたどり着き、ようやく真の才能に目覚めたはずの男が、今度はもう一人の画家との共同生活に破綻して耳たぶを切り落とし、入院・監禁されたのである。もちろん、この施設の名称が〈エスパス・ヴァン・ゴッホ〉である以上、画家のゴッホと関係していることくらい来る前から知っていた。でも、あの病院、あの絵で見た病院そのものが改装されて、文化施設になっているなんて、想像できるわけがない。建物自体は老朽化が進んでいるが、外壁も中庭もゴッホの絵に描かれたままに修復されて、観光施設、文化施設としての役割を果たしているのである。

寝泊りする場所は、教室と図書室を兼ねた大部屋を出て、また螺旋階段を昇った三階にあった。鉄扉を開けるとダイニングルームとサロンを兼ねたスペースが広がっていて、キッチンの向こうが寝室の区画で、廊下の両側にそれぞれ五室の寝室が並んでいた。部屋には小さなクローゼットとシャワー室があり、窓際にテーブルと椅子が置かれ、梯子段を昇ってロフトに上がれば、ダブルサイズのベッドが待っていた。

この「文芸翻訳カレッジ」は、おそらく最初から学校ではなかった。もともとは各国語からフランス語に、フランス語から各国語に訳す翻訳家が、ここで無料で寝泊りし、仕事をする道具――コンピュータや辞書、参考図書など――も借りて、一定の期間静かな環境で翻訳に集中するための施設として開設されたのだろうと思う――おそらくは市の観光事業プロジェクトの一環として。そこに日本の日仏関連の財団も関与するようになった。そんなところだろうと、今は思っている。詳しいことをディレクターに問いただしたわけでもないし、彼の秘書と夕飯を食べながら世間話のついでに尋ねたこともあったが、奥歯に物が挟まったような説明しか聞けなかった――あるいはこちらの出来の悪い耳のせいかもしれない。

ありがたい施設である。フランス人を初めとして、各国から――事実、滞在期間中、ロシア人、ポーランド人、リトアニア人、スペイン人、ブラジル人、韓国人、様々な国籍の人と出会った――翻訳家が訪れるようになり、ならば生徒も募集して翻訳講座を開設しようということになったのだろう。

この翻訳教室はコンセプトしてはとてもユニークである。翻訳家志望の少数の生徒を相手に、プロの翻訳家が個人レッスンをするというものだ。しかも、生徒はペアを組む。講師もペアを組む。つまり、日仏、仏日の翻訳であれば、フランス人と日本人が生徒側も講師側もペアを組むのである。こうしてお互いの原文理解と翻訳を助け合う。

理想的な翻訳レッスンである。少なくとも企画者のディレクターはそう考えたのだろう。でも、ディレクター自身は翻訳家ではない。北欧から移り住んできた家族の二代目か、三代目だ。

教える側にとっても、教えられる側にとってもわくわくするような体験を享受できる機会であることはまちがいない。

でも、私はこの翻訳ワークショップは絵に描いた餅のようになりかねないと思っていた。学校や教育指導の延長線上に職業としての翻訳は存在しないという経験的確信があったから。もっと明確に言えば、語学の延長線上に翻訳という仕事は成立しない。読むという行為が底知れない深さを持っているからだ。たった独りの穴倉に落ち込んでテキストと、あるいはそれを書いた人と無言の会話を続けることでしか、文章の奥深さに触れることはできない。そこから書き手との共感が生まれる。この共感なしに翻訳というものは成立しない。そしてこの共感は二人きりの時空のなかでしか生まれない。男女の秘事のように。

もちろん、こんなことはおくびにも出さなかった。生徒も講師もまたとないこの機会を楽しめばいい。そして、才能がありそうな生徒がいれば、日本の出版社に紹介するのが自分の役割だと思っていた。翻訳に関して、教えることは何もない。あなたは本が好きですか。読むことが好きですか。書くことが好きですか。好きなら、きっかけさえつかんで経験を積めば自然に伸びていくだろう。自分がそうやって生きてきたから、それ以上のことは言えない。

今回のワークショップでは、日本人三人、フランス人三人の翻訳家志望の生徒が選ばれ、プロの翻訳家側もまた日本人三人とフランス人三人が選ばれた。なぜ自分のような教師失格の、ごりごりの経験主義者が選ばれたのか、今もってわからない。

でも、そんなことはどうでもよかった。

ゴッホに会いにきたとは言わない。でも、よりにもよって彼が二度にわたって収容された病院に寝泊りすることになるとは思ってもみなかった。