4 – 2(一枚のレコードがある。オリヴィエ・メシアン作曲……)

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一枚のレコードがある。

ビニールのアナログ盤、オリヴィエ・メシアン作曲「世の終わりのための四重奏曲」。メシアンみずからピアノを弾いている。日本でのプレスの日付は一九七五年一月。この演奏がいつどこでおこなわれたのかはいっさい不明だと、ジャケットには書いてある。

レコードは段ボールに一箱遺されていた。そのなかからこの一枚を抜き取り、持ち帰った。シェーンベルクの「浄められた夜」もあった。そのほかにもガチガチのアグレシッブ・ジャズというか前衛ジャズのようなものもあったが、そっと箱の中に戻した。

精いっぱい背伸びしていたのだろう。若いときは、誰だって、いつだって、そうだ、たぶん。親元を離れたはいいけれど、離れた自分が何者かわからずに焦る。けれど死は、経験したらそれでおしまいだ。

彼の場合、音楽に関するかぎり、聴いているレコードが、知らない作曲家の知らない曲ばかりだった。メシアンもシェーベルクも、彼のアパートで初めて耳にした。おそらく眉間に皺を寄せて聴いていたのだろう。

「そんなに真剣になって、音楽を聴く人、初めて見たよ」と言われた。

それを真剣というのかどうかは知らないけれど、耳をそばだてていたことは確かだ。取り付く島がなかった。どうしてこれが音楽なのか? 古典主義とかロマン主義とか呼ばれる十九世紀の音楽に馴染んで育った耳にとっては衝撃以外の何ものでもなかった。

でも、音楽とはそういうものだろう。最初にベートーベンの交響曲を聴いたときのショックは今でも忘れない。ただ驚いた。途方もない数の楽器がいっせいに音を鳴らして前に進んでいく。歌があるわけでもなく、説明があるわけでもなく、いったいどこまで行くのか、こんな音の祭りみたいな、暴風雨みたいなものには終わりが来るのか、最後までこれを黙って聴いていなければならないのか、お尻がムズムズしてじっとしていられなかった。LPレコードの片面聴き通して何分になるのか、まだ知らなかった。中学の一年か二年、そのくらいだったと思う。

クラシックにかぎらず、ジャズだって、ロックだって、慣れないうちは騒音にしか聞こえない。違和感がまず先に立つ。言語だって同じことだ。

メシアンが敬虔なカトリックで、パリのサン=トリニテ教会の専属オルガニストを長年にわたってつとめ、神学者でもあり、鳥類学者でもあり、現代音楽に新しい局面を切り開いた音楽理論家であり、言うまでもなく傑出した作曲家であったとか、音楽事典に書いてあるようなことを知ったのは、ずっとあとになってからのことだ。

「世の終わりのための四重奏曲」は、開かずの扉ならぬ、聞かずの盤になった。

 

私は福島に向かっている。隣には、彼と同じアパートに住む同郷の友人が座っている。福島駅に着くと、タクシーに乗ってそのまま葬儀場に向かった。父親が喪主をつとめ、本葬と初七日と四十九日をその日のうちに短い休憩をはさんで続け様に執り行う異例の葬儀だった。品川沖で水死体が発見されたときには、すでに二ヶ月近い時間が経過していたからだ。お父さんは喪主の挨拶で声を張った。

「親に先立つ不孝というようなことを申しますが、私はそうは思いません」

私はなぜか最前列にいて、それは違うと思った。違うと思ったとたん、体の自由が効かなくなった。本葬から初七日の式へと移るあいだの短い幕間のような時間、参列者は席を外さなければならないのだが、私はスチールパイプの席に座ったまま、身動きできなかった。身動きしたくなかった。近づいてきた葬儀社の係員から席を立つようにと促されたが、立ち上がれなかった。

翌日、お父さんは福島市内を車で案内してくれたが、どこをどう巡ったのか、まったく何も憶えていない。

彼のアパートに遺された本は弟さんが引き取ることになった。弟さんも兄に似て、読書家らしかった。「レコードは、僕は聴かないので」というので、一枚選んで持って帰ることになった。

 

そのころ私は、新宿駅から歩いて三十分くらいのところに住んでいた。少し前まで都電が走っていた通りの近くで、弁財天を祀る小さな@社{やしろ}があった。そこから新宿方面に狭い坂道を下っていくと、左手に小さな古本屋があり、右手に質屋があって、その隣が銭湯、その隣が肉屋、その隣が米屋、その向かいが魚屋、魚屋の上は四畳半ばかりのアパートになっていて、私の部屋は階段を上がってすぐ右にあり、南向きの窓があって明るかった。

歩いて五分以内のところに風呂屋も質屋も肉屋も米屋も魚屋もあるなんて、こんなに便利なところはなかった。おまけに、坂を上がり、三十分ほどかけて標高四十八メートルの小さな山――箱根山という立派な名前がついている――を越えれば大学のキャンパスの裏手に出ることもできた。

しかし、不都合なところが一つあった。歌舞伎町とゴールデン街から近いので、水商売の人が多く住んでいて、店がはねてから客を引き連れて、朝までこの抜弁天界隈に軒を連ねる小さな居酒屋で飲んでいるのだ。だから、昼間は健全な下町風情の漂う界隈なのだが、深夜零時を過ぎ、丑満時を過ぎると、夜の女性と酔漢たちが騒ぎ出す。

その日も彼は新宿のどこかで飲んでいたのだ。夜も更け、店で飲みつづける金も底をつき、ポケットをさぐると千円札が一枚。まだ飲み足りないか、終電が出てしまったか。そこで深夜も開いている酒屋で安いウィスキーを買って、一路この界隈を目指してやってくる。ようやく寝ついた頃に、ノックの音。こんな深夜に訪れてくる者があるとすれば、彼しかいなかった。話がしたくてやってくるのだ。ゴッホの話が彼の十八番だった。ボリナージュの炭鉱での常軌を逸した布教活動、身ごもった娼婦――彼はジインと呼んでいた――との絶望的な情交、そして最後の場面。

「だから、あれは自殺じゃないんだよ」

またその話かよと半畳を入れたりはしない。話の内容はどうでもよかった。彼とはなんとなく波長が合った。話のテンポがよかった。ぼそぼそとした声がよかった。お国なまりが抜けないところがよかった。

「死にたい奴は下っ腹なんか撃たないと思うんだよ」

そうだ、そうだ、と相槌を打つ。

「本当に死にたかったら、頭を撃ち抜くでしょ? あるいは心臓とか」

そうだ、そうだ――あれは胸を撃ったんじゃなかったかと思いつつ。

「だからさ、あれは自傷行為だった。頭が割れそうに痛むから、痛みを逸らすために腹を撃った、そう思うわけ」

ふーん、なるほどね。

「耳を切ったのと同じことだと思うんだよ」

こんな話がえんえんと続く。その日も彼はよくしゃべった。部屋の主人の本棚から、勝手に本を取り出して、朗読をはじめたかと思えば、今つきあっている彼女とどうもうまくいかないと愚痴ってみたり。心理的なことではなく、肉体的なこと、つまり、おれ、インポになってしまったんじゃないか、そういう話。その齢でインポになるなんて、聞いているほうはとても信じられなくて、むしろ感心してしまったり。そうこうしているうちに主人のほうは炬燵に足を突っ込んだまま、寝てしまった。

目が覚めると、白々と朝になっていて、彼の姿はなかった。しばらく音沙汰がないのはいつものことだから、なんの心配もしていなかった、二月ほどして、彼の住む国分寺のアパートの隣人から連絡があった。死の知らせだった。品川埠頭の沖合で発見されたのだという。知らせてきた隣人の話でも、このところずっと彼の姿を見たことがなかったという。まさか、あの夜、抜弁天坂下のアパートを出てから、彼の住む国分寺のアパートには戻らず、そのまま――歩いて、あるいは始発電車に乗って――品川埠頭に向かったということなのか。そこで彼は足を滑らせたのか、それとも身投げしたのか、目撃者がいない以上、誰にもわからない。

 

そこから少し話は飛ぶ。記憶は少しだけ現在に近くなる。

翻訳業に手を染めてまもないころ、ある出版社から翻訳依頼が舞い込んできた。フランスの老舗出版社から出ている文化、芸術、科学全般を扱う百科全書的な叢書の翻訳スタッフに加わらないかという誘いだった。その叢書のなかにゴッホの生涯をたどりながら彼の作品世界を紹介する入門書のような本が含まれていて、それを翻訳することになったのである。

ゴッホに関する資料なら、書簡集も含めて画集やら展覧会の図録やら、すでにある程度そろっていたから、嬉々として翻訳にのめり込んだ。ゴッホの手紙のすべてを読み直し、手持ちの画集の解説を読みながら、絵画作品をあらためてじっくりと見つめ直す日々が続いた。

ゴッホは、アルルで「耳切り事件」を起こして市立病院への入退院を繰り返し、アルル市内から追放されて近郊のサン=レミ精神病院に収監される。そして病状が小康状態を得ると、アルルを去り、パリの北西数十キロほどのところにあるオーヴェールという町にやってくる。そこには精神科医のガシェという医師が住んでいて、美術に造詣が深く、印象派の画家たちに対する理解もあるというので、ゴッホはその医師の近くに住むことになった。オーヴェールの隣町にあたるポントワーズには印象派の取りまとめ役のようなピサロも住んでいた。数年前にはセザンヌがこの地を訪れ、ピサロと同じ構図の風景画を描き、ガシェ医師の家を含めて、オーヴェールの風景をたくさん描いている。

ゴッホはここで、最晩年を代表するガシェ医師の肖像を描くと同時に、そのお嬢さんの肖像も描いている。画家が死ぬ一ヶ月ほど前にテオに宛てた手紙には、こんなふうに説明されている。

 

昨日と一昨日は、マドモワゼル・ガシェの肖像を描いたが、じきにきみにも見てもらえるだろう。服はピンク色で、緑色の背景の壁にはオレンジ色の水玉模様、赤い敷物には緑色の点々があり、ピアノは濃い紫色、縦一メートル、横幅五十センチのキャンバスに描いたものだ。喜んで描いた絵なのだが――それがむずかしい。娘にはまた今度、小さなオルガンの前でポーズを取らせようと彼は約束してくれたから、その一点はきみのために描くことにしよう。

 

画家はあくまでも前向きだが、この絵を初めて見たとき、ゴッホはすでに終わっていると思った。父親のガシェ医師の肖像画とは対照的に、醜悪さ以外、画面から伝わってくるものが何もない。ゴッホは猛烈なスピードで描いたから、乱暴な絵もたくさん残っている。出来不出来のことを言っているのではない。こんな画題はゴッホらしくない。