4 – 3(町にはいたるところにゴッホの足跡が……)

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町にはいたるところにゴッホの足跡が残っていた。

観光客のためのゴッホ関連のプレートが町中にあふれているのである。町外れの小さな駅の近くには、彼が部屋を借りた「黄色い家」のプレートがあるし――ただし、家そのものは第二次大戦の空襲で破壊されて跡形もない――、駅からローヌ川の頑丈な護岸壁に出ると「星月夜」を鉄板に複写したプレートが出ているし、市庁舎の裏手の中世の街並みがそのまま残っている狭い路地を抜けて、飲食店の立ち並ぶ界隈に出れば、「夜のカフェテラス」が往時の色合いと照明のままで営業している。あるいは街の南を走る街道のほうに足を向けて、アリスカンと呼ばれる古代ローマの遺跡に行っても、彼が写生したポプラの並木道にやはり作品を複写したプレートが立っている。

ゴッホの足跡を丹念にすべて辿ったわけではない。なんとなく街なかを散歩していると、そこらじゅうでゴッホのプレートに出会うのだ。当然かもしれない。アルルに住んだたった一年余の期間に、彼はなんと二百点もの作品を制作したのだから。

アルルには、このアリスカンのような遺跡がたくさん残っている。アルル市街の一番高いところに建っている円形闘技場もそうだし、そのすぐ横の古代劇場もそうだ。

でも、ゴッホはそういう文化の形跡にはまったく興味を示さなかった。少なくとも絵にはしなかった。アリスカンにしても、並木道の左右に点在する古代ローマの墓棺やその奥にある廃墟となった中世の聖堂を描くのが目的ではなく、黄色に染まったポプラの木立と真ん中を通る小径に降り積もった黄色の落ち葉に惹かれているのだ。闘技場の絵も一点残っているが、そこに描かれているのは闘牛に興奮する観衆の姿だ。

〈エスパス・ヴァン・ゴッホ〉という名の施設となった旧市立病院の門を抜け、細い通りを、最初に来たときとは逆方向の南へ降りていくと、遠距離バスが発着する街道脇のターミナルに出る。その街道をローヌ川のほうに向かって歩き、ローヌ川に注ぐ運河とそれに並行して走っている高速道路を跨ぎ越す橋を渡って十分ほど歩くと、古代ローマの遺跡や遺構からの発掘品を豊富に収蔵する県立アルル博物館に出る。ゴッホが絶賛している由緒正しい博物館だから何度か足を運んだけれど、二回目か三回目に同じ道を歩いて行ったとき、運河を渡る橋を越えたところに「ラングロワの橋はこちら」という立札が立っているのに気づいた。

立札の指示どおりに坂道を降りていくと、土の道が運河に沿ってずっと続いていた。道端にはところどころ背の高い糸杉が立っていた。その糸杉から数あるゴッホの糸杉の絵を思い浮かべることはできなかった。運河には川船が何艘も舫ってあった。洗濯物が干してあるところもあって、もしかするとそこで生活しているのではないかと思わせる船もあった。初夏の日差しはまぶしく、その日の風はとても優しかった。

そうやって、てくてく、どれくらいの時間歩いただろうか。一時間か二時間、写真を撮りながら歩いたので、そのくらいはかかった。この道は、ほんとうにあの跳ね橋に通じているのだろうかと心配になったこともあった。でも、心配になると不思議に立札が道端にあらわれた。こうしてようやく橋のたもとにたどり着いた。

およそゴッホの描いた跳ね橋とは異なっていた。まず色が違う。ゴッホの絵では、跳ね橋の色もそれを支える石積みの土台も鮮やかな暖色系の色で統一されているのに、目の前にある跳ね橋は真っ黒だった。ゴッホの絵は実物より黄色のトーンを強調しているのかもしれない。それにしても、目の前の「実物」は黒すぎる。これは防腐用のペンキの色ではないのか。ここにも「ラングロワの跳ね橋」と題された絵を転写したプレートが立てられていて、この橋は第二次大戦中に空襲で破壊され、戦後復元されたと書かれていた。

戦争とはいえ、こんな郊外の運河にかかった小さな橋まで破壊する意味がわからないが、いずれにせよ、跳ね橋の構造と機構はそのまま復元されていても、実際に使われている形跡はなかった。その証拠に跳ね橋の数十メートル先には、運河の対岸に住む人のための小さな石橋がかけられていた。

だからといって、似ても似つかぬ跳ね橋にがっかりしたわけではない。感激するほどのことはなかったけれど、感慨深いものはあった。ゴッホはアルルに到着する早々、毎日のように郊外の風景を求めて歩き回っている。この跳ね橋にしても、町の中心部から三キロか四キロはある。あの麦畑や果樹園を描いた場所がどこだったのか、特定することはできないものの、やはり数キロから十キロ近く離れたところまで歩き回っていたのだろう。

ゴッホがアルルに来たのは一八八八年の二月、六十センチも積もった雪が彼を出迎えた。彼はさっそく「アルルを背景にした雪の風景」と題された油絵を描いている。アルル市内から見た雪原の景色ではない。題名そのままに、アルル市街が背景になっているのだ。手前には背の高い藁で囲まれた荷車らしきものがあって、一面雪の積もった畑の向こう、かなり遠景にアルルの町がかすむように描かれている。ということは、彼は到着早々、六十センチも積もった雪のなかを――いくらか溶け、踏み固められてはいただろうけれども――郊外の畑の向こうまで歩いているのだ。翌月の三月には、この跳ね橋を発見している。弟のテオにはこんなふうに書いている。

 

仕事のことだが、今日は十五号の絵を描いてきた。跳ね橋の上を馬車が通っていて、青い空を背景にその馬車がくっきり浮かび上がっている――川も同様に青く、緑の草が生えているオレンジ色の土手、色とりどりのキャラコに縁なし帽をかぶった一群の洗濯女を配した絵だ。

 

ゴッホはこの跳ね橋と花咲く果樹園の景色がよほど気に入ったらしく、アルルに来る早々――三月から四月にかけて――同じモチーフに基づいて何枚もの作品を残している。桃やアーモンドや杏や梨などの果樹の開花に触発されて花開いたのは、まさに画家の才能だったというわけだが、同時に、たくさんの計画、構想、夢想もまた花開いた。南フランスの各地を巡る長旅の計画、あるいはパリで知り合った貧乏画家仲間を受け入れる「隠れ家」の構想、あるいはロンドンとパリとマルセイユに印象派の常設展を開くとか。ロンドンはテルステーフ――ゴッホが十六歳でハーグの画廊に販売員として雇われたときの支店長――、パリはテオ、そしてマルセイユはフィンセント本人が取り仕切る。彼の計画――というより妄想――はそこまで具体化している。そして、テオへの手紙は次のように続く。

 

そうなればなおのこと、芸術家組合は発展していくことだろう。なぜって、われわれが芸術家の利益を重んじ、何よりも作品の原価を上げたいと願うことにテルステーフが反対するわけがないから。早い話、ただでは売れないんだからね。

 

まるで画廊の販売員だったころの自分を思い出しているかのような書きっぷりだ。そして、画家と画商の兄弟は知恵を出し合って、テルステーフへの印象派の作品の売り込みを画策する。

はたしてテルステーフからは印象派の作品を送ってくるようにとの返事が届く。ただし、テオが最良のものと判断する作品に限ると条件をつけて。もちろんテオはそこに兄の作品も入れたいわけだが、自分はモネやルノワールやドガのような@表通り{グラン・ブールヴァール}の作家ではなく、ゴーガンやロートレックのような@裏通り{プチ・ブールヴァール}の作家だと自認している兄は、弟に迷惑がかかってはいけないと考え、テルステーフのコレクションに入れる作品としては、つい最近仕上げたばかりの「跳ね橋」が適当だろうと提案する。さらには、この絵には枠にロイヤルブルーと金を塗った特注の額縁が必要だとか、ここで制作しているものは、去年〔パリの〕アニエールの野原で描いたものよりずっといいと自信を持って言えるとまで書き添えている。ようするに、ゴッホはこの作品なら、どこに出しても通用するという自信を持っているのだ。それから数日後の手紙には、こんなことも書いている。

 

天気はけっしていいわけではなく、一日風がおさまったかと思うと、三日間吹きつづけたりしているが、花咲く果樹園のモチーフのほうはうまくいっている。風のせいで絵を描くのは大変だけど、それでも地面に打ち込んだ杭にイーゼルを縛りつけて仕事をしている、あまりに美しくてね。

 

イーゼルを外に持ち出して仕事をするのは、なにもゴッホの専売特許ではないけれど、あの時速何十キロもの速さで狭い街路を駆け抜け、麦畑をなぎ倒していくミストラルを経験したことのある人ならば、このゴッホの行動がいかに異常であるかがわかるだろう。イーゼルは飛んでいかなくても、キャンバスを震わせないようにすることは、@絶対に{傍点}不可能である。でも、ひとつだけわかることがある。ただ美しいからそうしたのではなく、その強風のなかで彼は描きたかったのだ。光だけが自然ではなく、風もまた自然だから。彼はそれとひとつになりたかった。

アルルは、ゴッホにとって、十六歳で親元を離れてオランダのハーグで画商勤めを始めてから、ロンドン、パリ、アムステルダム、ブリュッセル、アントワープ、そしてまたパリと、彷徨に次ぐ彷徨の果てに、ようやくたどり着いた場所だった。とりわけ、ここに来て早々発見したこの跳ね橋と、それに続く果樹園こそ、本当の意味で自分のスタイルに目を開かせてくれた場所だった。ここでゴッホは「ゴッホ」を発見する。その発見の喜びが手紙を通じてこちらにも伝わってくる。

そして彼は歩いた。次から次へとモチーフを求めて、歩いて歩いて歩き倒した。太陽の直射を受け、ミストラルに吹き飛ばされそうになりながらも歩いた。

日が傾いて、跳ね橋の斜めに突き出た梃子のような支柱の影が水面に長く伸びてきた。そろそろ退け時だった。でも、来たときの運河沿いの道をそのまま引き返すのではおもしろくない。対岸の土手道に出てみようと思った。跳ね橋の代わりに架けられた小さな石橋を渡れば対岸に出る。同じ運河に沿った道を歩けば、元の場所に戻れるだろう。ところが、少し歩いてわかったことは、この運河は二本並行して走っていて、対岸の土手道はもう一本の運河に挟まれているのだった。つまり、左手には来たときの道に並行して流れていた運河、右手にはどこに行き着くのかわからない細い運河が伸びていたのだ。細いほうの運河には小舟の影さえ見えず、水も淀んでいて岸辺にはびっしり水草がはびこっていた。たぶん、畑の灌漑に使う用水路なのだろう。

写真に残しておきたいと思うような場所はどこにもなかった。右手には淀んだ用水路、その向こうにも土手があり、さらにその向こうには畑が広がっているのだろうが、ぼうぼうの草むらが見えるだけ。左手には木立が続いている。その木立の隙間から船が通れる太いほうの運河が見える。

それでも、目的もなく、仕事からも人間からも解放されて歩くのは気持ちがよかった。空は「跳ね橋」に描かれた空と同じように青かった。

しばらくすると、土手道の脇に小さなテントが見えた。その傍らでサングラスをかけた女の人が折りたたみの寝椅子を出して、仰向けになって日差しを浴びていた。こんな人っ子ひとりいないところで、どうして日向ぼっこなどしているのだろう、いったいどこからやってきたのだろうと思っていると、突然、テントの中から黒い犬が飛び出してきて吠えはじめた。やばいと思って立ちすくむと、女の人もあわてて起き上がり、犬を押さえつけてテントに押し込めてくれた。

その前を通り過ぎるとき、軽く会釈をしてお詫びとお礼の言葉をかけた。相手はサングラスの向こうから笑みを送ってきたけれど、内心どうしてこんな誰も通らない土手道をアジア人みたいな顔の男が歩いてきたのだろうと思っているにちがいなかった。しばらく、そのまま歩いているうちに、はたと、ああ、そうか、彼女は左側の運河に舫っている船の持ち主なんだろうと思いあたった。

高速道路が近くに迫ってきた。左側の太い運河は大きく左に外れ、高速道路に沿ってローヌ川のほうに伸びていた。この運河の岸辺に沿って行けば、最初に見た「ラングロワの跳ね橋」の立札がある場所にたどり着くはずだった。ところが、高速道路を避けるように運河が曲がりはじめるあたりで、急に雑草が高く生い茂り、とても岸辺には近づけない。この雑草をかき分け、高速道路沿いに歩いて行けばそのうち歩道橋があるかもしれないと遠くを見やっても、そんなものあるはずもない。高速道路は高い橋脚の上を走っているのではなく、地べたを這うように敷設されている。細いほうの用水路は低い高速道路の下を潜り、これまで歩いてきた土手道は雑草に覆われている。

一瞬、青ざめた。これって、行き止まりということか。船が舫ってあるあたりまで戻って、船の上を通させてもらうしか、運河の反対側に出ることはできないのか。テントが張ってあったところまで戻るにしても、優に一キロはある。急に疲労が襲ってきた。しかし、こんなところで立ち往生するわけにはいかない。陽はすでに大きく傾いていた。

はびこる雑草のなかにかろうじて細く伸びている土手道を進み、用水路が高速道路の下を潜っているところまで出た。腰をかがめて、道路を渡すコンクリートの橋桁の下を覗いてみると、暗がりの向こうに光が見えた。這っていけばかろうじて潜り抜けられるくらいの隙間があった。

ここを行くしかないのか。光の見える橋桁の向こうまで幅数十メートルはある片側二車線の立派な高速道路だ。途中が狭まっていて、前にも後ろにも進めなくなったらどうしよう。そのときはそのときだ。用水路に降りて歩くか。

こうして、最初は前屈みで、そのうち徐々に姿勢はさらに低くなり、真ん中のあたりではさながら野戦兵のような匍匐前進となった。暗がりをくぐり抜けて、明るいところに出たときにはほっとして、そのうち惨めになった。おまえはバカか、いい齢をしてどこを歩いているのだ。

〈エスパス・ヴァン・ゴッホ〉にたどり着いたときには、日は暮れていた。そのあと何をしたか、どこで何を食べたか、何も憶えていない。たぶん、疲れ果ててそのままロフトのベッドに倒れ込んでしまったのだろう。