4 – 4(ガシェ先生のお嬢さんを描いた絵を……)

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ガシェ先生のお嬢さんを描いた絵を、自分ではどう思うかって?

あまりに唐突な質問だから、答えに窮するけれど、きみへの手紙にも書いたように、先生に頼まれていやいや描いたわけではなく、喜んで描かせてもらったものであることはまちがいない。でも、ピアノを弾くブルジョワのお嬢さんという画題は難しかった。ルノワールみたいには描けないからね。

あれを描いたときのことは、今でもありありと憶えているよ。舞台を整えるのがひと苦労だった。まずはあの濃い紫色のピアノを日当たりのよい窓際に移動しなければならなかった。むろんアップライトとはいえピアノは重いから、一家総出で手伝ってもらった。二日がかりで描いた制作過程の一部始終をガシェ医師はじっと見つめていた。

部屋の壁は白っぽく、床はナラ材の寄木張りだった。これをそのまま背景にしても絵にならないことは歴然としていた。紫色のピアノとうっすらとピンクがかった絹のブラウスとスカートのコントラストをさらに際立て、調和させるにはどうしたらいいか。

どうして黄緑色の地にオレンジの斑点を描き入れたのかと問われても、うまく答えられない。ヴァーミリオン色のカーペットに棒状のオリーブグリーンのアクセントをつけたことについても、画家の直感としか言いようがない。すべてはピアノを弾くお嬢さんを引き立てるため、そして画布全体が単調にならないためとしか答えられない。

じつはね、ガシェのお嬢さんはあんなにすらりとした体形ではなく、もっと小柄でずんぐりしていた。日本の浮世絵を真似て、八頭身に近くなるように縦に引き伸ばしたんだ。せっかく縦長の大きめの画布を選んだのだから。つまり、美人画に仕立てあげようとしたわけだ。病み上がりの僕を大歓迎してくれたガシェ家の人々に感謝してね。でも、むずかしかった。ブルジョワのお嬢さんを描くのは、庶民を描くよりずっとむずかしい。

でも、あのときはそういう絵も描いてみたかったのだと思う。たぶん新しくなりたかったのだろう。何度も発作を起こして、ついにはアルルを追われて、サン・レミの病院に閉じ込められてしまったのだから。自分の病気は南仏病なのではないかと思うこともあった。アルルでは、それこそかんかん照りの日も、凶暴なミストラルの吹き荒れる日も、頭の痛い日も、足の痛い日も、ひたすら毎日のように歩き、描きつづけてきた結果、あそこの苛烈な自然が僕の体と頭のなかに侵入して、病を植えつけていったのではないか。だから、オーヴェールの美しい景色に出会ったときには、ほんとうに心洗われる気分になった。アルルの強烈な太陽に比べれば、こちらは日差しも風も穏やかで、藁屋根の古い家も僕を優しく出迎えてくれるようだった。北仏の空は、同じ青でも涼しげで心を鎮めてくれるような気がしたものだよ。

オーヴェールは、アルルとは違って現代風の別荘やブルジョワの田舎家が目立つ。もちろん美しい、それは確かなことだ。それも社会の進歩の証だろうから、目くじらを立てるのはおかしい。オーヴェールのような肥沃な平原のなかで、古い社会のなかに新しい社会の兆しが溶け合っているのは、けっして目障りではなく新鮮な眺めだった。

画家として生きていこうと腹をくくった以上、どんなものでも受け入れていかなければ生きてはいけない。とにかくたくさん絵を描かなければならない。これまで支えてきてくれたきみの恩に報いるためにもね。そんなことを手紙に書いたら、水臭いことを言うな、画家の兄を支えることが画商の弟の生きがいなのだからときみは反論したけれどね。

でも、きみはすでにヨハンナと結婚し、坊やも生まれたばかりだった。僕はオーヴェールに来る前にパリに立ち寄ったとき、この目で見ているのだ。きみたちがパリでどれだけ苦労しているか。疲労の極限に達しているではないか。僕は売れる絵を描かなかればいけない。これからはきみたちの負担になるのではなく、僕がきみたちを支えなければならない。オーヴェールを新たな一歩を踏み出す場所にしなければいけない。僕は最後の命をここで燃やし尽くさなければいけない。ずっと前から、僕は自分が長生きできないことを知っていた。僕は二十代の終わりに、余命は十年くらいだろうと思っていた。そう書いた手紙を、きみだって憶えているだろう?

怖いのは死ではなかった。いつまた発作が襲ってくるか、その不安から逃れることができないんだよ。発作のあいだのことは、ほとんど何も憶えていない。きみが言うように絵具や石油を飲んだりしたのだろう。終わってしまえば、嵐が過ぎ去ったかのように平静になる。そして何事もなかったかのように絵の制作に向かう。でも、狂気はたしかにこの胸に、頭に棲息している。それが不安を掻き立てるのだ。

たしかにサン・レミは退院した。けれど、二、三か月もすれば、きっとまたやってくると思っていた。だから、ポントワーズに立ち寄ったとき、ふと銃砲店が目について覗いてみた。いろいろな銃を見ているうちに、自分でも一丁持っていれば、勇気が与えられるような気がした。発作と闘う勇気だよ。

ガシェ嬢の肖像画のことに戻るとね、あの縦一メートル、幅五〇センチという、僕の絵にしては大きめで、極端に縦長のキャンバスに描いてみたのも、新しい試みのひとつだった。それで、描いてみて思ったことは、同じ大きさのキャンバスを横長にして使った麦畑の絵とうまい具合に対をなしているということだった。縦長のほうの色合いはお嬢さんの薄いピンク色のドレスが基調になっているし、横長の麦畑は淡い緑と黄色が基調になっている。言ってみれば補色の関係にある。つまり引き立てあっているわけだ。

最初から意識してそうしたわけではなかったが、自分で気づいて、それをきみ宛ての手紙に書いてみると、われながら大発見のような気がしてきた。世界はアルルで発見したものだけで成り立っているわけではないということ、人間は自然とだけ直面しているわけではないということ、あたたかい家、家庭、家族はたいせつなものだ、そういう釣り合いのなかで人は生きている、そんなことを思いながら、心配ばかりかけた母を思い出して、手紙を書いたりもした。

絵としては父親のガシェが頬杖をついている絵のほうが上出来であることはまちがいない。そんなに難しいとも感じなかった。ガシェ本人の肖像を描いたのは、彼に頼まれたからだ。サン・レミを発つときに描いたスーツも背景も青い自画像を、彼がとても気に入ってくれたから、それに近い感じのものを描いてみたわけだ。あれはほとんど自画像だ。

彼は精神科医として、たえず患者と向き合ってきた。それも気鬱を病む人だとか、自分との折り合いがつかない人だとか、そういう患者さんばかりだ。そういう人たちと向き合っていると自分も病んでくるのかもしれない。僕が画家として行き詰まりを感じているように、彼もまた田舎の開業医であることに嫌気がさしている。だから骨董を買い漁り、ここを訪れた画家の絵を買い上げたりしている。仕事を交換しましょうかと冗談を言ってみたけれど、冗談にはならなかった。でも、この先生の場合、奥さんを亡くしたことが一番大きいのだろう。それはわかるんだが。

彼の家にはピサロの雪景色もあったし、セザンヌの花束の絵もあった。しかし、全体としては黒っぽい陰気な骨董が目立つ。昼食や夕食に招かれたときも、いささか閉口した。四皿も五皿も出てくるのだ。僕は粗食に慣れているから、こういう贅沢にはなじめない。

お嬢さんの肖像画を描くことは、すでに最初の食事のときに話題に出ていた。僕はもちろん喜んで描かせてもらいますよと答えた。その食事の席には彼女も同席していて、立派なブルジョワ家庭で何不自由なく育てられたお嬢さんであることはすぐにわかった。

パリのきみのアパルトマンでヨハンナと初めて会って意気投合したときの印象と重なるものがあった。教養があって、芸術に理解を示す人だった。ようするにそういう家庭環境のなかで育ったということだろう。ヨハンナともすぐに打ち解けて友だちになるだろうとも思った。

きみがパリでヨハンナという女性と出会い、結婚し、坊やもできた。その知らせは掛け値なしに嬉しかった。と同時に、僕がきみたちの幸福の邪魔になってはいけないと強く思った。でも、それだけではなかった。

テオよ、きみは僕に仕送りを続けることによって、僕の絵を、僕の人生をずっと支えてきてくれた。でも、それだけではない。きみは僕が歩んだかもしれない人生を歩んでいるんだよ。

あのガシェのお嬢さんの肖像で僕が描こうとしたのは、目の前でピアノを弾いている人ではなかったのかもしれない。

きみがグーピル商会のブリュッセル支店に勤めることが決まったという知らせを父から受け取ったときの喜びを、僕は昨日のことのように憶えている。僕は十九歳で、きみはまだ十五歳だった。フロート・ズンデルト村の貧しい牧師だった父には六人もの子供を養う経済力はなかったから、長男の僕も次男のきみも早々と勤めに出されることになった。さいわいセント伯父の口利きで僕はグーピル商会のハーグ支店で勤めることになり、それから四年遅れて、きみはブリュッセル支店に勤めることになった。

僕もきみと同じ歳に田舎の親元を離れ、大都市で働いてきたから、一人暮らしの寂しさも気楽さも、仕事の楽しさも厳しさもすでに知っていた。きみがブリュッセルに出てきたばかりのときに、気が滅入ったときにはパイプ煙草を喫うことをすすめたこともあったね。

寂しさを忘れるために、僕は一生懸命仕事に励んだ。すると仕事ぶりが認められて、給料も上がったし、ハーグからロンドン支店への栄転の話が持ち上がった。きみがブリュッセルにやってきた年のことだ。なんだかきみが僕に幸運を運んできたように思ったものだよ。

二十一歳になったばかり春、僕は世界の大都市ロンドンに移った。見るもの聞くもの口にするもの、すべてが真新しくまぶしかった。何よりも絵に囲まれた画商の仕事にたずさわれることが最大の喜びだった。画家たちの名は夜空を彩るまばゆい星のように思えた。仕事そのものも大好きだった。どの絵がどんな人の手に渡るのか、絵の値段がどんなふうに付けられるのか、伝票をつけたり、お金の計算をしたりすることも、何もかも初めての体験で興奮した。僕は学校よりも、人が実際に生きている現実社会のほうがずっと性に合っているということを発見した。世界は自分のために開かれていると思った。僕は当時若いだけで何も持っていなかったけれど、世界を所有しているという気分になれた。

僕らはずっと手紙のやり取りをしてきたし、支店こそ違え、同じ画廊、同じ仕事に携わってきたわけだから、きみは僕のことならなんでも知っている。

僕は翌年、恋をした。生まれて初めて、ひとを好きになった。

きみは草の束と樫の葉で編んだ冠を僕の下宿に送ってくれたことを憶えているだろう。僕はそれを持って、大家さんの家族といっしょにクリスマスを祝った。彼女も彼女のお母さんも、そしてあの二羽の鸚鵡も僕を迎え入れてくれたと思った。

母には何も言わなかった。そのかわり下宿の部屋や街路の様子をスケッチして送った。母が喜ぶと思って。絵を描くのが好きなのは母親譲りだから。

僕は子供のころから絵を描くのが好きだった。いつでもどんなときでも、絵を描くことが慰めだった。

夢はさらに膨らんだ。僕は画家になり、彼女と結婚し、たくさんの子に恵まれた楽しく賑やかな家庭が目に浮かんだ。

僕にはそれがとても自然なことのように思えた。

そして、僕は夢を失った。世界を失った。

この穴は深かった。無限に深かった。その穴を埋めるために、何かに復讐でもするように僕は猛勉強をした。父と同じように牧師になろうとした。でも、穴は埋められなかった。その後も僕は何度も同じことを繰り返した。夢を見ては夢を失い、いつも絵のところに戻ってきた。でも、画家になるしかないと決心したのはずいぶんあとになってからのことだ。それはいつもきみが僕を信じていてくれたからだ。

僕は自分の人生を後悔したことはない。それどころか、三十八歳まで生きられたことさえ僥倖だと思っている。もちろん、きみには感謝している。もちろんヨハンナにも。あれほど思慮深く、ひとの痛みを察することのできる聡明な女性はめったにいるものじゃない。

そして、僕は思う。きみは僕の代わりに、僕の歩むべき人生を歩んでくれたからこそ、僕はあの深い絶望ののちも生きてこられた。きみが真っ当な人生を歩んでいてくれれば、それで満足だった。僕はきみのために描いた。僕の絵が売れて、きみたちの人生が潤うことを夢見て描いた。

僕はパウロの言葉を今も信じている。

 

われわれが苦難のなかにあるとすれば、それはあなたがたへの慰めと救いのためである。われわれが慰められるとすれば、あなたがたへの慰めには、われわれが耐えているのと同じ苦しみにあなたがたも耐えられるようにする働きがあるからである。