5 サント=ヴィクトワール——(日曜の朝一番、バスに乗ってエクスに向かった)

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日曜の朝一番、バスに乗ってエクスに向かった。

〈エスパス・ヴァン・ゴッホ〉の正門に面した通りを南に五分ほど歩くと、ジョルジュ・クレマンソーという名の街道に出る。この街道は長距離バスの発着所が集まるターミナルになっている。ローヌ川のほうに少し歩くと、エクス行きのバス停がある。

エクスに向かう長距離バスはがらがらだった。入口のステップを踏み、行き先を告げて料金を払い、奥に行こうとすると、やたらに愛想のよさそうな赤ら顔の運転手が一番前の席を指差して、そこに座れと言う。一瞬、どういうことかとまどったけれど、その理由はバスが走り出すとすぐにわかった。退屈だからお喋りに付き合えということなのだ。

バスは出発すると、ローヌ川岸手前のインターチェンジに入る。そのあとはノンストップで延々と高速道路をエクスに向かって走りつづけるのである。客がいなければ高速を降りるまでの時間、ただ無言で運転することになる。ここは南仏のど真ん中である。どこかの国のように何時間も無言でハンドルを握りつづけることのできるストイックというか自虐的というか、そんなドライバーはいないのだろう。ほかに客はいなかった。つまり、私は飛んで火に入る夏の虫みたいなものだった。

こちらとしては、先日はその下を這って抜け出した高速道路を、今度はその上を通って長距離バスの車窓からプロヴァンスの眺めを満喫してやろうと思っていたから、正直迷惑な申し出ではあったけれど、好々爺を絵に描いたような色黒のおやじさんから、おーい、そこに座って、おしゃべりして行こうぜと言われて、断れる人がいたらお目にかかりたい。断ったら日本人がすたるというか、日本人のイメージが一人のバス運転手から崩れていくだろう。となれば、アルルを訪れる多くの日本人観光客に迷惑がかかる、とまでは言わないけれど。

そもそも脈絡のない世間話なので、一部始終を憶えているわけがないのだが、なんでも息子さんが糖尿病でインスリン注射が不可欠だし、定期検診も必要なので、医療費が馬鹿にならないとか話し出した。もちろん――というのはおかしいけれど――糖尿病などという単語が頭に入っているわけがないので、diabète (糖尿病)ってなに? とか途中で聞き返したりしながら、話は進んでいったのだろうが、糖尿病が話題になっていることがわかったとしても、そんなに年配にも見えない運転手の息子が糖尿病とはどういうわけなのか疑問に思って尋ねてみると、遺伝から来る若年性の糖尿病があるとかで、にわかに医療に関係した言葉が増えていった。そのうち話題は親族全体に広がり、おじおば、祖父母の話と系統樹が大きく生い茂ってくるとついていけなくなった。さいわい、三、四十分走って高速道路を降りると、スポーツクラブか何かのジャージ姿の若い人がどやどや乗ってきて、これでやっと解放されるかと思いきや、次のバス停まで距離があるらしく、運転手の話はなおも続いたのだった。

バスの運転手さんと長話をするのは初めてだったが、バスの中で話しかけられることはときどきある。ゴッホが美しい釣り舟の絵を残したサント=マリー=ド=ラ=メールに行ったときも、ハンガリーから移り住んできて、こちらで農業をしているという女性に話しかけられた。どうしてハンガリーから移り住んできたのかと尋ねると、自分はユダヤ人なので居辛くなったのだという。それ以上根掘り葉掘り聞くことは憚られたが、なんという開けっぴろげな人だろうと思った。タクシーに乗っても、長い距離のときはよくおしゃべりする。タクシードライバーとなんとなく気が合うのかもしれない。昔は、助手席に犬を乗せている白人系の、おそらく代々パリに住むフランス人が運転するタクシーに乗ったりすると、ああパリに来たんだと浮き浮きしたものだが、いままはそんなタクシーにはめったに出会わない。ブラックアフリカ系かアジア系か、あるいはマグレブ系の人が運転するタクシーのほうがずっと多く、車種もドイツ系の占める割合が増え、日本車もけっこう走っている。パリのタクシーに乗るだけでも、フランスは変わったと思う。

こういった移民系の運転手とおしゃべりして気が安まるのは、これはもう、アルジェで一年一緒に仕事をしたラムダニのせいとしか考えられない。アルルの長距離バスの運転手にも、そういうこちらの気分が伝わったのかもしれない。

 

エクスに行く目的は、あのサント=ヴィクトワール山に登るためだ。といっても、徒歩で登ろうというのではない。山頂まで連れていってくれるバスがエクスの駅裏のターミナルから出ているのである。そんなことを初めから知っていたわけではないし、アルルに来ることが決まったときに、エクスまで足を伸ばしてみようと計画を立てていたわけでもない。

たまたま今回のワークショップに、エクスで育ち、今もエクスに住んでいる受講生がいて、その人がサント=ヴィクトワールまでの交通の便を詳しく教えてくれたのである。

彼女はエク=サン=プロヴァンス大学の翻訳科で日本語を勉強した子だった――子供扱いするようだが、しかたない、自分の娘よりも若いのだから。金城一紀の小説『Go』を翻訳し、それによって翻訳家としてデビューしようとしていた。私はそれまで金城一紀の作品を読んだことがなく、彼女のフランス語訳を通じて初めて彼の作品世界に触れた。読んだ感想を問われて、

「とてもチャーミングなフランス語だ」と答えると、彼女は大きな黒い目を輝かせて喜んだ。

フランス語が母語ではないけれど、そのくらいのことはわかる。少なくとも金城一紀のぽんぽんリズミカルにジャブを打ち出す軽快なボクサーのような文体がすでにチャーミングなのだ。この翻訳は、そのリズムを受け止められるかどうかにかかっている。細かいことはどうだっていいのだ。彼女には素質があった。

親しくなると、いろいろな話を聞かせてくれた。加山雄三の大ファンだと言って、自分のノート型パソコンの蓋を開けて、「君といつまでも」を聞かせてくれた。これには絶句した。正直に話すべきかどうか迷ったくらいだ。

あのね、この曲、僕が中学生だったころ、初めて自分の小遣いで買ったレコードなんだよ。四十五回転の小さなディスク、知ってるよね?」(フランス語でしゃべったことを自分で日本語にするのは、とても具合が悪い)

深く、深く、混乱した。

その混乱は今も――たぶん最初から――続いている。

自分の生まれ育った時代環境のなかで自然に身につけたことと――たとえばテレビ、たとえば漫画、たとえば歌謡曲――、学校で、あるいは本を読むことを通じて学び知ったことのあいだに、深刻なひび割れがあるのだ。その亀裂は、晩年になってから生まれ育ったところに戻ったことによって埋まるどころか、かえって広く、深くなる。

彼女はエクスのブティックでアルバイトをしながら修士のコースを終えた――いちばんで卒業したことを、小さな、誇らしげな声で打ち明けてくれた。彼女は努力しているが、背伸びはしていない。差別と貧しさと暴力のなかで育ち、もがきながら自分の立ち位置をつかみ取ってきた若い日本の小説家に自分を重ね合わせている。彼女にとっての日本は――かつてのジャポニスムとは違って――チャンスなのだ。

なにも彼女が特殊なわけではない。事実、パリの比較的規模の大きな書店を巡ってみれば、日本のマンガ・コーナーの占める床面積の割合に驚くだろう。そして、若い客たちが立ち読みしたり、腰を床にぺたりと落としたり、あるいは――日本ではありえないことだが――寝転がり、夢中になってマンガを読み耽っている光景を目の当たりにするだろう。

かつては書店の奥のほうに慎ましく並んでいるだけだった日本文学――川端、谷崎、三島、そういったところ――にしても、ベストセラーはもちろんのこと、まだデビューしたばかりの若手作家も含めて、堂々と平積み台の上に並べられているし、誰が読むのか吉川英治の『宮本武蔵』全巻セットまで置いてある。

私がペアを組んだフランス人翻訳家にしても、ある意味では事情は同じだった。彼女はおそらく私よりも一回りほど年下で――もちろん年齢はきいていない――、日本に数年滞在したのち、ネパールに渡り、それからパリに舞い戻り翻訳家としてデビューした。村上龍、村上春樹の最初のフランス語訳を手掛け、翻訳した日本の作家、作品は文字どおり枚挙にいとまがない。

では、彼女と十九世紀から二十世紀にかけてのフランス文学――そう、スタンダール、バルザック、フローベール、プルースト、ランボー、マラルメ、ヴァレリー、そういった「大作家」、「大詩人」――の話をして盛り上がるかといえば、盛り上がらない。たぶん、ほとんど読んでいない。

でも、そんなことはまったく問題にならない。こういう「大作家」たちは大学と文芸ジャーナリズムのなかでしか生き残っていないのだから。そもそも「文学」とか「芸術」とか称するものは、かならずしも生活と溶け合うものではない。

日本語の習得が彼女に翻訳家という人生を与えたのだ。すばらしく滑らかで読みやすくリズミカルな――そう、美しい――フランス語を書く。でも、人に教える仕事には向いていない。自分のフランス語、自分の語感が絶対だから、それをうまく相手に伝えられない。

では、おまえはどうなんだと問われれば、自分も教える仕事には向いていない。語感だのニュアンスだの、そんなものは論議の対象にならないし、文脈によって千変万化する語のニュアンスのつかみ方をどうやって教えられるというのか。一冊本を与えられたら、息を止めて潜水し、百メートルを一気に泳ぎ切らなければならない。失敗と勘違いを繰り返し、そのたびに赤面し、青ざめ、そうして仕事を身につけていく。机上の空論ではない。言葉を通じて理解したことなど、いずれ剥げ落ちるとか、昔気質の職人のようなことしか言えない。

自分自身の経験のひび割れに加えて、伝統と呼ばれる踏み固められた文化概念と、この今この一瞬を生きて変容しつづける文化との、あまりにかけ離れた実態に呆然として、なおかつそのことで苛立ち、口ごもり、黙りを決め込んでしまう。

ただ、歩くだけがなぐさめだった。日曜日になると、ただひたすらアルルの街とその周辺をほっつき歩いていた。

 

長距離バスの運転手に別れを告げて、さてこれからサント=ヴィクトワール行きのバスに乗り換えなければならないのだが、口頭で教えられたバス停が見つからない。観光案内所の裏だというのだが、バス停らしきものはない。それで案内所の中に入って訊いてみても、見目麗しい案内係の若い女性が心のない完璧な笑みを浮かべて、ええ、この裏ですよという。今、見てきたばかりだけど、バス停らしきものはなかったと言い返しても、あります、あります、もう少し先に行けばとか気のない返事をするばかりで、詳しく道案内してくれる気配はない。

そこで言われたとおりに先まで歩いていくことにした。数分、いや十分くらいは歩いたはずだ。すると幅の広い幹線道路に突き当たり、そこがバスターミナルになっていた。これだけの距離を「裏」と表現するのだろうか。表の通りを南に数分歩いたところにありますと言ってくれれば、それですむのに。

サント=ヴィクトワール山行きのバスは、小さなマイクロバスだった。マイクロバスは小さいに決まっているが、それにしても小さい。十人くらいしか乗れない。すでに五人くらい乗っていて、何分かすると三人の観光客が乗り込んできて、それでほぼ満席。ドアが閉まり、バスは出発した。

なんの根拠もなく、バスの車窓から、あの岩肌の山の威容を遠くに眺めながら、徐々に山巓が近くに見えてくるのを期待していたが、バスはずっと住宅街のなかを通っていくので、山の威容どころか、山の端さえ見えない。そのうち、バスは緑の枝葉におおわれた林道に入り、徐々に傾斜のきつい道を登っていく。窓から少し顔を出して下を見ると、タイヤはほとんど路肩ぎりぎりのところを通っている。たしかにこんな細い道はミニバスでなければ通れない。そうこうするうちに、急に視界が開けた。なんと、山の岩肌がすぐ目の前に見えた。いつのまにかバスはサント=ヴィクトワール山の中腹に達していたのである。

数人の客が降りたので、それにつられて降りることにした。バスはさらに山道をあがっていった。たぶんこの上に登山道の入口があるのだろう。あるいは頂上付近まで登っていくのか。いずれにせよ、残りの乗客を終点で下ろすと、またここに戻ってくるのだろう。それまで三十分、一時間? まあ、ゆっくり待とう。時間はたっぷりある。

何の下調べもしないで、ただ言われるがままにバスに乗ってきたので、そこが山のどのあたりで、どういう地名なのかもわからない。山頂を見上げると、たしかにセザンヌが描いたあの少し斜めに傾いだ峰が見えた。石灰岩の剥き出しになった隆起は、まるで重量挙げ選手の上腕二頭筋のようにたくましい。日本の山々は、三千メートル級の頂が続く日本アルプスのような山脈を除けば、木々に覆われ、比較的なだらかな曲線を描いている山が多いから、こんな剥き出しの、荒々しく、でも、石灰岩の白さと空の青のコントラストが際立っている山肌を間近に見ると、やはり何というか、率直に感動する。この種の山は、パリからこちらに来る途中、TGVの車窓からほかのところでも見えた。南仏独特の山なのだろう。

バスが行き来する山道から枝分かれするさらに細い山道を下っていくと、山荘のような施設があったが、人影は見えなかった。さらに下っていくと細い谷川があって、小さな橋がかかっていた。さらに降ると人家があった。門のところに郵便受けがあって、その奥に住宅らしき建物が見える。こんなところに住んでいるのかと驚いた。別荘かもしれない。庭には赤い花が咲き乱れていた。道はどこまでも下っていて、どこに続いているのかもわからなかったから、引き返すことにした。

バスの通る道に戻り、短い草のしげっている道端に腰を降ろして、また山巓を見上げた。とても気持ちのいい天気だった。風はほとんどなく、空は青く、白っぽい山の岩肌に反射してきらめく光もまぶしいほどではなかった。そのまま道端の草の上に横になって、目を閉じた。