5 – 2(セザンヌにはアンリ・ガスケという幼友達がいた……)

  †

セザンヌには、晩年になっても親交の続いたアンリ・ガスケという幼友達がいた。その息子のジョワシャンはセザンヌの芸術に深く傾倒し、セザンヌ語録のようなものを残し、画家の仕事ぶりを詳細に伝えている。たとえば父アンリの肖像を描いているときの様子はこんなふうに記録されている。

 

その間、セザンヌは筆とパレットを手にしているにもかかわらず、ただじっと私の父の顔を見つめ、じっくり観察している。描かないのである。ときどきあちこちに、震える手で一筆おいたり、細いタッチを押しつけたり、表情を縁取る鮮やかな青い線を添えたりしながら、とらえがたい性格の一面を浮かび上がらせ、明確にしていく……。翌日になって初めて私は、前日成し遂げられた洞察作業の成果を画布の上に見出すのだった。

 

べつにセザンヌの教えを後生大事に守ってきたというわけでも模倣したわけでもなく――当たり前の話だが――、いつのまにか私は本をゆっくりと読むようになってきた。その理由は自分ではよくわからないけれども、翻訳という仕事を生業として長く続けてきたことが、その最大の理由かもしれない。べつに大袈裟なことではなく、原書を読むのには時間がかかる、それだけことだ。かりに同じページ数、同じ程度の内容の本だとすれば、私の場合、フランス語で書かれた本を読むには日本語で書かれた本を読むより、二倍、三倍の時間がかかる。それ以上の速度で読もうとすると、内容がつかみきれなくなる。こんなにゆっくり読むのは、おそらく翻訳を依頼してきた編集者にその本の梗概を書かなければならないという理由もあるだろう。

そんな仕事を長年続けていると、日本語の本を読むにしても、一語一語ピンセットで摘むような読み方をするようになる。一方には読み出したら止まらなくなって、一気に読み通すという読書の醍醐味があるのはよく知っている。若いときには、よくそんな読み方をしたものだ。

だんだんそういう読み方ができなくなってきた。漫画も読めなくなった。必ずしも年齢のせいではないと自分では思っている。次はどうなるのだろうと思ってわくわくしながらページを繰る快楽の一方に、先を急がずにゆっくりと、ときどき立ち止まりながら、精神を集中させて何事かを考え、あるいは想像をめぐらせる、そういう快楽もあるのではないか。それもまた忘我のひとときである。夏の晴れた日であれば表に椅子を出して、太陽と風にさらされながらゆっくりと活字を追う。冬であれば、少し暖房を落とし、少し厚着をして、少し低めの椅子に腰掛け、膝の上に大きめの本を置いて、静かにページを翻していくのが理想である。

セザンヌはガスケにこんなふうに語っている。

 

いいかね、私はとてもゆっくりと仕事を進める。自然はとても複雑な様相を呈しているから、こちらのなすべき進歩も絶え間ない。ルーブルは参照すべきとても優れた書物だし、私もそういう勉強を欠かしたことはないけれども、やはりそれは間接的なものに留めておくべきだ。取り組むべき本当のとてつもない探究は、自然という@画布{タブロー}の多様性なのだ。私はつねにそこに立ち戻ってくる。画家は自然の探究に身も心も捧げ、なにかの教えになるような作品をつくりあげることに努めるべきだと。

 

ゴッホとセザンヌは、およそ対照的な画家だった。二人とも自分のスタイルを発見し、確立するまでに試行錯誤を繰り返していることだけは共通しているが、少なくともアルルに来てからのゴッホは何かに取り憑かれたように絵を描きつづけた。アルルに滞在したほぼ十五カ月のあいだに二百点もの作品を生み出した。二、三日で一点という計算になる。まるで即興演奏のようだ。おそらくゴッホは、その一瞬の、自然との交感にこそ真実があると考えたのだろう。

セザンヌとゴッホは一度だけ、パリのタンギーの店で会っている。セザンヌはゴッホに面と向かって、こう言い放ったと伝えられている。「あなたは狂人のような絵を描くんですね」

セザンヌはピサロとの出会いによって、印象派の明るい華やかな色の世界に目を開かれていく。ピサロの誘いでオーヴェールで一年暮らし、ガシェ医師と親交を持った。ガシェの目の前で、三年前にマネの「オランピア」に刺激されて描いた「新たなオランピア」をさらに明るい色で描き直し、「首吊りの家」と題した風景画も描いた。そこが画家セザンヌの新たな出発点となった。一八八二年のことである。それから八年の歳月がたち、サン・レミの精神病院を出たばかりのゴッホがオーヴェールのガシェ医師のもとにやってくる。そこが画家ゴッホの終焉の地となった。

セザンヌは続けて、こんなことも言っている。

 

私はね、地学を知る必要があるんだ、サント=ヴィクトワールがどのように根付いているか、土壌の地質学的な色彩、そういったことのすべてが私の心を動かし、私を高めてくれるのだ。いいかね、ただ漫然と絵を描くのではなく、腰を据えてたゆまず描いていけば、かならずや透視状態がもたらされる。それは人生においてしっかりと自分を導いていくうえでとても有益なものだよ。すべては絡み合っているんだ。どうかわかってもらいたい、自分の絵が、私の心を動かし、私を高めてくれるあの茫漠とした宇宙の宗教性に満ちあふれているとすれば、ひいては他の人をも、ひょっとすると本人も知らない感受性のある一点で心震わせることになるだろう。

 

「透視状態」とか「宇宙の宗教性」とか、そういう大掛かりな言葉はセザンヌには似合わないような気もするが、本人がそう語っているのだからしかたがないし、若いガスケを相手に即興的に語った言葉が文字に置き換えられてしまうと、何かが損なわれてしまうのかもしれない。それはともかく、セザンヌはさらにこんなふうに続ける。

 

影は凹みだろうか? と自分に問いかけたことがある。ほら、あそこの円錐形のものはなんだろう? ひかり? 私には、サント=ヴィクトワールのあの影が盛り上がっているように見えた。きみにもそう見えるだろう。信じられないことだよ。でも、そうなっているんだ……。私はそのとき大きく身震いした。もしかりに、私の絵のなかの色彩の神秘的な力をつうじて、この戦慄を他の人と分かち合えるなら、押し付けがましい感じにはなるかもしれないが、それまでよりずっと豊かで味わい深い宇宙観を持つようになるのではないだろうか。

 

「宇宙観」はさておき、やはり注目すべきは「影」と「ひかり」だろう。私が毎日読むのは、画家の言う「自然のタブロー」ではなく、書物と呼ばれるタブローであるから、どうしても本に当てはめてみたくなる。書物は多色刷りの図録や写真集でないかぎり、基本的には白黒の世界である。それは白地の紙に黒い文字が刻印されている。そこで問うてみる。白地はたんなる背景だろうか、と。

昔から、行間を読むという言い方がある。しかし、行間には白地しかない。白地に意味はない。白地に意味がないのだとすれば、句読点にも意味はない。それはたんなる記号にすぎない。読みやすくするための、あるいは息継ぎしやすくするための記号、だろうか? 句読点の多い作家と少ない作家がいるのはどうしてだろうか?

余白自体に意味はない。でも、黒いインクで刻印された文字の一個一個に深さがあり、単語の一つ一つに重さがあり、句読点やら空白やらの断絶があって意味の影を形成する。そもそも、そこに一つの単語があるとき、その背後には選ばれなかった無数の単語の影が折り重なっている。そして、そういったすべての要素が絡み合って文となり、段落という塊になり、ページがいっぱいになれば次のページにまたがり、一冊の本になる。

本の重さはたんなる紙の重さではない。本になるまでに経過した時間がそこには凝縮されいる。

時間には重さがある。サント=ヴィクトワールはそう語りかける。椅子に腰掛け、足を組んでいる庭師も、麦わら帽を目深にかぶっているので顔は見えないが、そう語っている。台所の林檎たちも、そう語りかけてくる。

彼はゆっくりと時間をかけてモデルたちと会話する。林檎のモデルたちは色あせてくると、ごめんなさい、ちゃんとお付き合いできなくてと謝ってくる――画家自身がそう言っている。ありとあらゆる香りを運んできては、後にしてきた故郷のことを話したり、自分たちを養ってくれた雨や待ち焦がれた夜明けの話をしてくれる。

ある日のこと、彼はいつものように頭陀袋のなかに絵具とパレットと杭と紐を入れ、イーゼルを背負って、@写生{モチーフ}に出かけた。風の強い日には、ゴッホがそうしたように、地面に杭を打ち込んでイーゼルをつなぎ止めたり、袋に土を詰め込んで重しとしてイーゼルからぶら下げたりするのである。その日、画家はいつになく気合いが入っていて、サント=ヴィクトワールが放つ磁力を受け止められるような気がした。自分は今、自然と一体になっている。今日はうまく描けている。そう思った瞬間、ひときわ強烈なミストラルが襲ってきて、イーゼルは風にさらわれ、草むらの上を転がり岩に衝突し、キャンバスは無残に破壊された。木枠が折れて、塗ったばかりの絵具に土や草が張り付いているそのキャンバスを追いかけていって、何度も何度も踏みつける。怒りがこみ上げ、涙がこみ上げてくる。絵など所詮こんなものなのだ。一陣の風で吹き飛ばされ、引き裂かれ、泥まみれ、草まみれになってしまうのだ。自然と一体になるとは、こういうことなのだ。俺の人生など、所詮はこの絵と同じことだ。

ガスケはその現場を目撃している。彼は画家のこんな言葉も伝えている。

 

言葉にも、色にも意味がある。画家がその文法を知り、その文章を壊さない程度に極限にまで練り上げ、自分の目に映るものを写し取っていけば、本人が望むと望むまいと、その時代のもっとも見識ある頭脳が構想したもの、構想しつつあるものを画布の上に翻訳することになるのだ。ジオットはダンテに対応するし、ティントレットはシェークスピアに、プッサンはデカルトに対応し、ドラクロワは、さて誰に対応するだろうか?

 

では、セザンヌは誰に対応するだろう? ベルンの特許事務所に勤めていたアインシュタインが「動いている物体の電気力学」をドイツの『物理学年報』に発表するのは一九〇五年のことだ。その年、ドビュシーはパリで「海・三つの交響楽的素描」の楽譜を出版し、演奏会もおこなわれたが、彼を待ち受けたのは無理解と酷評の嵐だった。

セザンヌは絵を描きながら死にたいと繰り返し語った。

人生は恐ろしいところだ、とも語った。

一九〇六年、画家はますます悪化する糖尿病と闘いながら、サント=ヴィクトワール山と向かい合い、最後の大水浴図に手を入れ、幼い頃ゾラと遊んだアルク川で写生を続け、献身的に看病してくれた庭師ヴァリエの肖像画に着手する。

十月十五日、アトリエから数百メートル離れたところにあるジュールダンの小屋を写生しに出かけたときに激しい驟雨に打たれ、昏倒した。その場を通りかかった洗濯屋の馬車に助けられ、自宅の寝室に運び込まれた。翌十六日、朝早くからアトリエの庭に出て、菩提樹の木陰で腰掛けているヴァリエとまた向かい合った。家に戻ってきたときには、息も絶え絶えの状態だった。それでも翌十七日、画家は画材屋に宛てて、督促の手紙を書いた。

 

一週間前にバーント・レイク(laques brulées)の七番を十本注文しましたが、まだなんの返事もない。いったいどうなっているのですか?

早急にご返事いただけますよう。