*21 資本論

東京では午前中は自宅で仕事をし、午後からはファミレスで本読みをして、夕方に帰ってくるという習慣が根付いていた。
『365日のベッドタイムストーリー』という本が十万部を突破してくれたので、仕事に余裕が出てきた。ふつうは午後にファミレスに行っても仕事がらみの本を読むことが多かったのだが、この機会だから、時間を忘れて没頭できるような本、読むのに時間がかかる本を読んでみようと、途中まで読んで本棚でそのまま眠っていた『資本論』に挑戦してみることにした。

学生時代に戻ったような感じで、毎日うきうきとファミレスに出かけていった。ものを考えさせてくれる本というのは、気分がいい。小説を読むよりおもしろい。そこに自分の地金があるような、ある新鮮な自己発見があった。

それが遅すぎるかどうかは別にして、『資本論』はとにかくおもしろい。けれども、マルクス先生みずから「なにごとも最初がむずかしい」と言っているように、第一章の商品分析の部分がとりわけむずかしい。

それでもなんとか、この本を読み解くための「へそ」のようなものは見つけた。すべてのすぐれた書物がそうであるように、それは第一行目にある。

 

資本制生産様式が君臨する社会では、社会の富は「巨大な商品の集合体」の姿をとって現われ、ひとつひとつの商品はその富の要素形態として現われる。したがってわれわれの研究は商品の分析からはじまる。」(資本論第1巻、筑摩書房「マルクス・コレクション」)

 

この文の発端はすでに『経済学批判』の冒頭に記されている。

 

一見するところブルジョワ的富は、ひとつの巨大な商品集積としてあらわれ、個々の商品はその富の原基的定在としてあらわれる。しかもおのおのの商品は、使用価値と交換価値という二重の視点のもとに自己をあらわしている。」(岩波文庫『経済学批判』)

 

マルクスは、一個の商品が「使用価値」と「交換価値」という二重の要素の組み合わせによって、プラスとマイナスのイオンの結合形態のようなものとして成り立っていることを発見した。

その発見の根はアリストテレスにある。

 

なぜなら、どの物にも二通りの用途があるからである。ひとつは物としての物に固有の用途であり、もうひとつはそうではない。たとえばサンダルは履物として役立ち、同時に交換可能でもある。どちらもサンダルの使用価値である。なぜなら、自分にはないもの、たとえば食物とひきかえにサンダルを交換する人は、自分自身でもサンダルをサンダルとして使用するからである。しかしそれ〔交換〕はサンダルの自然な使い方ではない。なぜならサンダルは交換のために存在するのではないからである」(アリストテレス『政治学』第一巻、第九章——前掲「マルクス・コレクション」から引用)

 

アリストテレスは「〔交換は〕サンダルの自然な使い方ではない。なぜならサンダルは交換のために存在するのではないからである」という。

これを人間に当てはめたらどうなるか。

どの人にも二通りの価値がある。ひとつは人としての人に固有の価値であり、もうひとつはそうではない。他の誰とも交換可能な労働力としての価値である。しかしそれは人の自然な使い方ではない。なぜなら人は交換のために存在するのではないからである・・・・・・。
『資本論』を読んでいると、ホモサピエンスという種の特徴は、意識だとか、言語だとかにあるのではなく——それなら他の動物にも意識や言語はあるだろう——、交換を目的とした「商品」にあるのではないか、とさえ思えてくる。

人間社会の富の要素である「商品」は、社会を循環・流通する品物であるだけでなく、その内部にすでに社会を宿している。人間の今に至るまでの時間が宿っている。あたかも原子の構造のなかに宇宙の構造が宿っているかのように。

そのことが見えてくると、めまいのようなものを覚える。
『資本論』に夢中になったことと、今回自分の生まれた場所に帰ろうと決断したことのあいだには関係があるのか、ないのか。そのことはこれから少しずつ見えてくるのだろう。いずれまた『資本論』を読み直すこともあるだろう。そのときにどんな感想を持つか、自分でも楽しみにしている。

(2009年5月に書いた旧ブログの記事を改稿)

*20 診察室

どうですか、調子は?

ええ、まぁ・・・・・・。

まぁ、というのは、芳しくない・・・・・・?

いや、まぁ、その、芳しくないというほどのことでもないんですが・・・・・・。

ま、しかし、本調子ではない、と?

ま、そういうことになりますかね。

具体的には?

そうすね、なんというか、睡眠がどうも・・・・・・。

よく眠れない?

ええ、ま、一言でいえば・・・・・・。

寝付きが悪い?

いや、寝付きはいいんですよ。

早く目が覚めてしまう?

朝早くならいいんですけどね、4時でも5時でも。

眠りが浅い?

そういうことになりますかね・・・・・・。

必ずしもそういうわけじゃない、と。

布団に入ったとたん、眠りに落ちるんですよ。たぶん、かなり深く。

布団に入るのは何時頃です?

だいたい12時頃ですかね。朝気持ちよく起きたいと思って・・・・・・。

ところが途中で目が覚めてしまう。

そう、そうなんです。

何時頃ですか?

1時とか、2時とか。

それはまた。

そうなんですよ。ぱっと寝付くんだけども、ぱっと目が覚める。時計を見ると1時だったり、2時だったり。これってけっこう絶望的なんですよ。寝付きはいいのに1時間や2時間で目が覚めてしまうのなら、なんのために12時に床に入るようにしているのか。

そのあとはどうですか?

簡単には眠れません。なにしろ電灯のスイッチを入れたみたいに、ぱっちり目が覚めてしまうんですから。真夜中に、頭が白々と冴えてくるのはなんとも不気味というか、気持ち悪いというか。こんなに早くから仕事を始めるわけにはいかないし。

で、どうするんですか?

不眠と根比べです。布団に入ったまままんじりともしないで、天井を見ている。するとね、あ〜あ、おれの人生はろくでもない人生だったなぁとか思えてきて、そのうち腹が立ってきて、いっそのこと・・・・・・。

そりゃまずいですね。

そう、まずいです。絶望的です。

で、そのまま朝を迎えるわけですか?

いや、さすがに4時、5時になるとうとうとしてきて。といっても、どんどん日の出が早くなっているから、朝日が差しこんでくる。で、のそのそ起き出す。

眠剤を出しましょうかね。

でも、あれは癖になるんでしょう?

ええ、たしかに。上手に服用しないと依存性がある。

そういうのは嫌だな。そもそも薬はあんまり飲みたくない。血圧の薬だって、ほんとは飲みたくない。

でも、まだいいほうですよ。心臓病に、糖尿病、病気のデパートみたいな人だっていますから。

そういうのは遺伝ですか。

そういう場合もあるし、本人の不摂生ということもある。

依存性のあまりない眠剤というはないんですか?

いや、あるんですよ。正確には眠剤ではなく、抗鬱剤の部類に入りますが。

え、抗鬱剤?

ええ。

そんなもの飲んで眠れるんですか? かえって興奮して眠れなくなるんじゃないですか?

僕はそっちのほうの専門ではないんですが、心療内科みたいな分野には精神科の知識というか経験も必要になるもんだから、定期的に交換学習会みたいなものをやってるんですよ。

ほう。で?

まぁ、有り体にというか、わかりやすく言うと、薬の力を借りて、くよくよしないようにするわけです。すると寝付きがよくなる。

でも、わたしの場合、寝付きはいいんですよ。

不眠にもいろんなタイプがありますからね。途中覚醒で悩んでいるひともけっこういる。

わたしもその部類ですか?

そういうことになりますね。

で、その抗鬱剤には依存性はない?

ええ、基本的には。

ということは依存してしまう人もいる?

何ごとにつけ、依存性の強いタイプの人もいますから。

なるほど。おれはどっちのタイプなのかな・・・・・・。

ま、そんなに心配することはないですよ。依存性がないというのは、薬の化学的成分からして、ということですから。服用者の性格の問題じゃないんですよ。

う〜ん、なるほど。

ま、ためしに飲んでみたらいいじゃないですか。効かないようならまた別の方法考えればいいわけだから。

いや、効き過ぎるとどうなんだろう、と。

基本的に依存性はないわけだから、眠りのリズムが戻ってきたと思ったらやめればいいんですよ。

ああ、なるほどね。

ためしに1錠出しておきましょうか。

ええ、はい。

ただ、1錠だとあんまり効かないことが多いんですけどね。すると服用する期間が長くなる。

そういうのはいやだな。2錠にしようかな。

では、そうしましょう。寝る直前に飲んで下さい。ときに寝酒は飲みますか?

ほぼ、毎日。

あ、できればそれやめてください。薬といっしょにアルコールを摂取すると効果が出ませんから。

え〜え、酒飲めなくなるのか。

適度な晩酌はいいですよ。寝酒はやめてと言ってるんです。

なんか絶望的だなぁ。

真夜中の絶望とどっちがいいですか?

*19 高倉健

夢はどこから始まっているのかよくわからない。終わりもはっきりしないが、たいていは目が覚めたときだろう。

とにかく、高倉健が夢のなかに侵入してきたのである。気がつくと高倉健が目の前にいた。もちろん同姓同名の知人なんかではない。今年他界した映画俳優の高倉健、その人が夢に登場してきたのである。寒いところがよく似合う俳優と言われた人だから、その縁かもしれないが、夢には北海道らしい風景などどこにも見当たらず、場面はひたすら室内で終始する。四畳半か六畳くらいの狭い、板張りの部屋である。窓もない。

筋らしい筋もない。物語の片鱗もない。ひたすら健さんがしゃべっているのである。あの無口な健さんが、である。奇妙なことに子供がひとりいる。小学校の低学年ほどの子。私とその子は座卓の向こう側にいる健さんの話を黙って聞いている。話の内容は、まったくもって取り留めがない。だからここに書き留めることもできない。

健さん、じつは酔っぱらっているのである。あの飲めない健さんが、コーヒーしか飲まない健さんが、である。聞こし召している。だから呂律がよく回らない。気の毒である。断っておくが私が彼を夢に呼んだわけではないし、無理やり酒を飲ませたわけでもない。

で、よせばいいのに「今日はずいぶん調子がいいんですね」とか口をはさんでしまった。

すると健さん、はたとわれに返ったのか、すねたようにして、部屋の隅の別のテーブルに移ってしまった。

私は小声で子供に耳打ちする。「健さんって、ほんとはああいう人なんだね。映画やテレビで見るときとはぜんぜん違うね」

子供はうなずく。健さん、落ち着かなさそうである。もじもじしている。するといたたまれなくなったのか、また、こちらのテーブルに寄ってきて、しきりにしゃべりかけてくる。

今度はもっと呂律が回らない。何を言っているのかまったくわからない。よく見ると、どこで食べたのか饅頭のような餃子のようなものが口いっぱいに詰まっている。これじゃまともに声を出せるわけがない。

「健さん、口にものを入れたまましゃべるもんじゃないですよ」と私が言うと、健さん、気色ばんで言い返す。

「おまえ、どうしてそんな堅苦しいことを言うんだ」

夢はそのあたりで切れた。場面はなおも続くようであったが、覚めてしまった夢の続きを見るわけにはいかない(そういうことができると豪語する人もいるけれど)。

釈然としない。何もかも。どうしてこんな夢を見てしまったのか。どうして高倉健なのか。どうして子供がいるのか。どうして窓のない部屋なのか。夢だから仕方ないだろうと言われれば、それまでだが。

夢を合理的に判断することには嘘くささがつきまとう。フロイトの『夢判断』は何度手に取っても読み通すことができなかった。

夢は一回性のものである(繰り返しのパターンはあるかもしれないが)。人生と同じように。

私たちは生まれた場所と生まれた時間、時代を選べるわけではない。人との出会いも選べるわけではない。雨のような偶然がひらすら降りつづいている。

偶然というのも人の言葉である。必然というのも人の言葉である。

高倉健が死んで、テレビでは彼の仕事や人柄を偲ぶ回想番組がしばらく続いた。そのなかで印象に残った場面がある。小学生が高倉健に質問するのである。

「どうしたら健さんみたいにカッコよくなれるんですか?」

すると高倉健は二、三秒真顔で考え、言葉をひとつひとつ選ぶようにしてこう答えた。

「きみはこれからたくさんの人に出会う。人との出会いを大切にしなさい。人との出会いがきみをつくってくれるのだから」

これほどのインテリジェンスにはめったにお目にかかれない。インテリと称する人種にはほとんど皆無である。

*18 贈与

なにか異様なものが喉につかえていて、ほとんど苦しい感じになっている。

机の端にはM・モースの『贈与論』とB・マリノフスキの『西太平洋の遠洋航海者』が置いてある。

思い出すのは妻の葬儀にまつわることである。葬儀は自宅で、と言い残して妻はこの世を去った。しかし、自宅といっても集合住宅である。いくら限られた親戚知人だけの小さな葬儀といってもかなり無理がある。棺の出し入れさえ難儀した。

九月はじめのその日、天気は大荒れだった。雷雲から稲光が落ち、神鳴りが轟いた。棺を持つ人はずぶ濡れになった。

葬式など、出したくなかった。誰も家に呼びたくなかった。しばらくひとりでいたかった。先に逝った女房と向き合っていたかった。しかし、遺体を腐らせるわけにはいかない。考え得るかぎり小さな葬儀を出すことにした。それが妻の願いでもあったから。

それでもなすべきことはたくさんあった。まずは葬儀屋に電話した。営業がやってきた。高い。葬式ってこんなに金がかかるものなのか。あきれ果てて、別の葬儀屋を呼んだ。まあまあ妥当な見積もりだったので、そこに頼むことにした。

葬儀の段取りから、その後の法要のすべてを通じて動いていたのは金だった。通帳の預金残高を確認し、香典の総額を計算し、香典返しを何にするか娘と相談し・・・・・・。

そもそも、香典とは何のためにあるのか。悲しみに沈み、喪に服する者への慰めのためなら、なぜそれにお返しなど存在するのか。いつから始まった習慣なのか。儒教的なもの? それならば西欧にはない習慣なのか?

そもそも、なぜ自分はしたくもないことをしているのか。そう、問いつめていくとき、わたしは「社会」という大きな岩盤に突き当たっているのを感じる。

人はなぜしたくもない「戦争」をするのか? 先の戦争で、軍人も政治家も知識人も市民も庶民も含めて、「戦争」がしたくて賛成し、関与した人ははたしていたか。あれだけの軍備を持っていれば、軍人はむずむずしていただろう、「戦争」をしたくてしたくてたまらなかっただろう、とは想像できる。しかし、大義名分はそうはならない。「戦争」をしたいからする、では通らない。日本にはない資源を大陸に求めることは死活問題である。アジアを列強の歯牙から解放しなければならない。日本がアジアの盟主になることが世界の恒久平和を開く道である。八紘一宇。大東亜共栄圏。

したくもない葬式をあげることと、したくもない「戦争」をすることには通じるものがある。頭のなかで短絡させてみると火花が散る。

どちらも大きな金がいっぺんに動く。個人の資金と国家の資金のレベルの差こそあれ。

人がいちばんしたくないことは、命を失うことである。しかし、「戦争」では自分より大きなものに人は自分の命を捧げる。「自分より大きなもの」を神と呼ぶか、国家と呼ぶかはともかく、これは割の合う「交換」であるか? 民俗学者あるいは文化人類学者、経済学者や社会学者たちは「互酬」という言葉を使う。互酬のなかの一部として「等価交換」もあるという説明をする。

ここに「犠牲」という言葉を持ってきほうが、たぶん、わかりやすくなる。社会は個々人の奉仕、犠牲のうえに成り立っている。そこに「相互的報酬」があると社会学者は説明するだろう。

しかし、そもそも、社会とは理不尽なもの、なのではないか? 人間を是として考え、その人間が共同で営む社会を是と考える。いわゆる性善説と呼ばれるもの。しかし、人間の欲望を野放しにすると地球が危ないと人間みずから考えざるをえなくなった、この「現代」という時代にあって、そんな単純な「性善説」に与することのできる人がいたらお目にかかりたい。しかし、それと同じ程度に単純な「性悪説」によっては出口が見つからないことも、現代人は痛いほどよく知っている。

結論は出ない。しかし、考えることこそもっとも大切なことであると、わたしは考える。少なくとも、進歩だの進化だのをたやすく信じ、自惚れないために。長くなるが引用する。

 

ある首長の個人的な威信やその首長のクラン〔氏族〕の威信が、消費することに、そして自分が受け取った贈り物以上の物をきちんとお返しすることに、これほど結びついているところはほかにない。自分が受け取った以上の物をお返しすることによって、自分に返礼の義務を負わせた当の相手が、今度は逆に自分に対する返礼の義務を負うようになる。ここにあっては、消費と破壊は本当に際限がない。ある種のポトラッチ〔北米大陸北西部先住民の使うチヌーク語で「贈り物」を意味する〕の場合には、人はみずからがもてる物をすべて消費しなければならず、何も残しておいてはいけない。みんなが競い合ってもっとも富裕になろうとし、同時にまたもっとも激烈な消費家であろうとするのだ。すべての根底にあるのは敵対と競合の原理である。個人が儀礼結社やクランのなかで占める政治的な地位や、あらゆる類の位階は「財の戦争」によって獲得される。それは、地位や位階が実際の戦争や偶然や相続や姻戚関係・婚姻関係によって獲得されるのと同じことである。だが、あたかもそれが「富の合戦」であるかのように、すべてのことが構想されているのだ。子供たちの結婚相手にせよ、儀礼結社による席次にせよ、ポトラッチを取り交わし、ポトラッチでお返しをする、そうしたポトラッチのさなかで獲得されるのである。そしてまたそれらは、ポトラッチにおいて失われもする。それは、それらが実際の戦争や賭け事やレース競技や格闘競技において失われるのと同じである。いくつかの場合においては、与えること、お返しすることはもはやどうでもよく、破壊することが大事となる。お返しがもらえるのを期待していると思われたくないがために、である。ユーラカン(ロウソクウオ)の脂肪やクジラの脂肪を入れた箱を丸ごと全部燃やしたり、家屋を燃やしたり、何千枚にも登る毛布を燃やしたりするのである。一番大切にしている銅製品を破壊し、水に投げ捨てるのであるが、それも自分の競合相手を打ち負かし、競合相手を「ぺしゃんこにする」ためなのだ。(『贈与論』マルセル・モース著、森山工訳)

*17 UFOについて

2月の初めに叔父が亡くなった。

母と同年齢で享年86歳。めまいがするというので、世話をしていた娘——つまり、わが従妹——が念のために入院させたところ、食事をうまく嚥下できずに咳き込み、それが原因で亡くなったという。死因は肺炎ということになるが、病の苦しみはなかったらしいから、一昔前なら老衰で済んだだろう。わたしの父のきょうだいは7人いて、父は上から3番目の長男、そのすぐ下の妹が叔父のもとに嫁いだわけだが、すでに数年前に病を得て他界している。

身内だけの小さな通夜の席にいたのは、故人の実弟、長女と次女、その従兄弟(わたしを含めて3人)だけ。4つ年上の従兄はわが親族の菩提寺の住職なのだが、体調が思わしくなく、実質的に住職を務めている息子が読経した。

通夜振る舞いの寿司を食べたあと、従兄弟同士で飲みに出た。思い出話に花を咲かせるためには、年上の従兄が欠かせないのだが、その代わりに読経をつとめた息子が酒席にも同行することになった。自分がまだ生まれていないころの昔話はためになるという。殊勝なことだ。

この叔父叔母に、わたしたち従兄弟はとても可愛がってもらった。家に男の子がいなかったせいもあるだろう。昭和30年代の北海道、十勝は、市内ですら未舗装の道路がほとんどだった。そんな時代に、この叔父は自家用車(ライトバン)とオートバイを所有し、ライフルで狩りをし、豪快に海釣りを楽しんだりしていた。つまり、男子の憧れるものすべてを持っている人だった。

わたしたちが幼かったころ、叔父の一家は十勝平野の奥まったところにある集落に住んでいた。人口は数百といったところではなかったか。この集落の名は糠内(ぬかない)、もちろんアイヌ名に無理やり漢字を当てた地名だ。ここで従兄は空気銃を撃ったり、バイクを乗り回して遊んでいた。彼が撃ち落とした山鳥の剥製が今もわが家に飾ってある(お寺に動物の剥製を置くのはさすがにまずかったのだろう)。

わたしが泳ぎを覚えたのは、叔父の家の裏手を流れる浅い川だった。流れの淀んだところがあって、夏に裸になって水遊びをしているうちに自然に泳げるようになったのだ。石灰岩が剥き出しになっているからか、住民はそのあたりの岸辺を「磨き粉」と呼んでいた。畑を荒らす害獣である野兎を「駆除」すると称する「鉄砲撃ち」に連れて行ってもらったこともあった。ずっしりとした錘ついた釣り糸を遠くまで投げ込むと、浜にどっかりと座りこんで あたり を待つ叔父の傍らで戯れているうちに波に攫われそうになったこともあった。

そんなことを思いつくままに話しているうちに夜も更け、酔いも回ってきた。幼いころの思い出話を肴に酒を飲んでいれば、誰もが自然に少年時代に回帰していく。

同い年で学年はひとつ上の従兄がUFOの話をしだした。ああ、また始まったと思った。この人は酔うと必ずUFOだとか、魂の不滅だとか、そういう話をするのだ。多感な少年時代には、彼と会えば夢中になってそういう話題に興じたものだ。

だが、哲学だの思想だのに深入りしていくうちに、そういう主題からどんどん興味が失せていった。星空に向けられた人類の自意識の投影。それで打ち止めになってしまった。

おもしろいことに、われわれよりもはるかに若い——といっても40代にはなっているのだが——菩提寺の住職は徹底的な現実主義者なのだった。肉体は死んでも魂は生き残る、必ず生まれ変わるのだと主張する従兄に対して、「その生まれ変わった自分とはいつの時点での自分なのですか?」と鋭く反論すると、従兄はややうろたえつつ「死んだ時点での自分かなぁ」と答える。

「それじゃつまらないな。よぼよぼの爺さんがそのまま生まれ変わったって、何にもできないもの」

同感したついでに、わたしも口をはさむ。

「ところでUFOがはるか遠くの惑星からやってきた高度な知的生命体のものだとして、なんの目的があって地球にやってくるんだろう?それだけの知性と科学技術を持っているのなら、さっさと征服してしまえばいいじゃないか」

「いや、彼らは征服することが目的なんじゃない。ただ観察しに来ているんだよ」

「え、観察?」

「うん、おれたち人間も、たとえばさ、蟻の生態を観察したりするじゃない。見ているだけでもおもしろいわけだよ。蟻なんか征服したって仕方ないだろ」

それを聞いて、カウンターに並んだバーの客がどっと笑った。女性バーテンダーも笑った。話が受けたので、従兄はご満悦だった。わたしは何も反論しなかった。そもそもこの種の話題には、基本的には口を出さないと決めているから。

宗教の話をすると友を失うという格言がある。政治の話もダメ、スポーツの話もダメ。巨人が勝っておもしろくない阪神ファンが試合終了と同時にチャンネルを変えようとして流血騒ぎになった居酒屋の話を聞いたことがある。

じつは心密かに、この広い——あるいは無限の——宇宙に生命の宿った星は、この地球だけと思っているのだ。信念というべきか、信条というべきか。UFO信者たちは確率論を持ち出してきて、これだけの星雲、これだけの銀河系があれば、当然のごとく、この太陽系とほぼ同じ条件の恒星とその周囲を回る惑星があるはずだ。そのなかにはとてつもなく高度な文明を持つ生命体が住む惑星があって、かれらの宇宙船は軽々と宇宙の磁場と空間の歪みを超えて、自在に飛び回っているのだ、云々。

そういう話は死ぬほどつまらない。中学生や高校生じゃあるまいし、還暦を過ぎてそういう話を持ち出されると、そんなに人生辛かったのですか、と言いたくなる。

この世にひとりで生まれて、ひとりきりで死んでいく。地球もこの広大な宇宙のなかで孤独に誕生し、孤独に死んでいく。それでいいじゃないかと思う。

朝日に向かって立ち上がり腹をさらすミーアキャット。じっと空を見上げるモアイ像。天空からの眼がなければ見えないナスカの地上絵。それらは言葉がないから美しい。

叔父の住んでいた糠内は今でも真冬には氷点下30度を下ることがある。

そのむかし、帯広でも真冬には氷点下20度以下の朝が1週間以上続いた。−30度も珍しくなかった。

むかし、人に飼われていた猫たちは、死期が近づくとこっそり人目につかないところで死んだ。

死期が近づいたら——そしてまだかろうじて足腰が立つならば——ピート臭のきついウィスキーのボトルなんか片手に凍てついた川岸まで歩いていって、満天の星を見ながら死ねたらいいとは、ときどき思うけれど。

まず彼は、円盤が目に見えていたあいだの数秒間に、彼の心を満たしていた至福の感じを反芻した。それはまぎれもなく、ばらばらな世界が瞬時にして医やされて、透明な諧和と統一感に達したと感じることの至福であった。天の糊がたちまちにして砕かれた断片をつなぎ合わせ、世界はふたたび水晶の円球のような無疵の平和に身を休めていた。人々の心は通じ合い、争いは熄み、すべてがあの瀕死の息づかいから、整ったやすらかな呼吸に戻った。

重一郎の目が、こんな世界をもう一度見ることができようとは! たしかにずっと以前、彼はこのような世界をわが目で見ており、そののちそれを失ったのだ。どこでそれを見たことがあるのだろうか? 彼は夏草の露に寝間着をしとどに濡らして座ったまま、自分の記憶の底深く下りていこうと努めた。さまざまな幼年時代の記憶があらわれた。市場の色々の旗、兵隊たちの行進、動物園の犀、苺ジャムの壺の中につっこんだ手、天井の木目のなかに現れる奇怪な顔、それらは古い陳列品のように記憶の廊下の両側に、所窄し飾られてはいたけれど、廊下の果ては中空へ向かっていて、つきあたりのドアを左右にひらくと、そこは満天の星のほかには何もなかった。(三島由紀夫『美しい星』)

*16 コーランを読もうと思って、

コーランを読もうと思って、日本語訳を買い込んだものの、本棚のなかでずっと眠ったままになっていた。

買ったのはいつだったか。東京で買ったのだったか、帯広に来てからだったか。アルカイダがニューヨークのツインタワーに突っこんだあたりから気になっていたのだったか。

いや、それよりずっと前から気になっていたことは、ローマによるエルサレム神殿の破壊(後70年)ののちユダヤ人のほとんどが離散し、新興のキリスト教が西へ西へと(ローマへ、そしてヨーロッパ全域へと)向かっていくなか、パレスチナの地に、あるいは旧約聖書の大いなる舞台であるチグリス・ユーフラテスの流域に残されたものは何であったか、ということだった。

しかし、こういう考え方は「歴史」のお勉強に毒された考え方だ。文明の主役が「オリエント」から「ローマ」へ移っていったとしても、人の生活は続いていくだろう。たとえ王家の血筋が途絶え、「神」が死んだとしても、人の生活は続く。ただ黙々と、羊を追い、麦を育て、オリーブの実を摘み、乳を搾り、酸っぱいビールを醸造していただろう。

悠久の暮らしが続く。

そこにムハンマドという男が現れる。彼は商人だった。25歳で、大富豪の女商人と結婚し、2男4女をもうけるが、男子は二人とも夭折した。彼はヒラー山にこもり、瞑想の日々をおくる。そこに大天使ガブリエルの啓示が下る。遊牧と隊商の行き交うその大地に眠る、偉大な聖典の伝統に彼は目覚めたのだ(西暦610年)。

・・・・・・しかし、いきなりコーランは重い。そこで同じときに買った『イスラーム文化』(井筒俊彦、岩波文庫)から読むことにした。

つい1週間ほど前に読み終えたのだが、衝撃を受けた。

その衝撃を書き残しておこうと思うのだが、どう書けばいいのかわからない。1週間悶々としていたのだが、とにかく書いてみないと、書き出してみないと、どう書けばいいのかさえわからないだろう。というわけで書き出してみたのだ。こういうときは、まっすぐ本題に入っていくのがよろしい。衝撃を受けたのはこの箇所だ。

 

イスラーム教徒が聖典『コーラン』を読み、それをさまざまに理解し、解釈する。その解釈が文化形態として具体化していく。これはイスラーム文化史一般にあてはまる原則でありますが、シーア派はとくに 意識的 に解釈学的です。意識的に解釈学的にならざるをえない事情があるのです。と申しますのは、シーア派では『コーラン』を読む場合に、顕教としてのイスラームを代表する正統派〔=スンニー派〕のウラマーたち、つまり「外面への道」を行く人たちのように、『コーラン』のテクストをふつうのアラビア語の文章や語句として、アラビア語の語義や文法が指示し許容する範囲で、その意味を解釈するだけにとどめておきませんで、必ずそのもう一段奥に「内的意味」を探ろうとするからであります。しかしここで内的意味といいますのは「秘密の意味」、つまり秘教的(エソテリック)な意味のことでありまして、こういう解釈をほどこされますと、『コーラン』のテクストが、しばしば、通常のアラビア語の知識ではとても考えることのできないような異常な意味をもってきます。無論、顕教のウラマーたちにしましても『コーラン』をただ文字どおり外面的、表面的意味に理解して満足しているわけではない。彼らも聖典をできるだけ 深く 理解しようとはします。つまり彼らにも彼らなりの内面的解釈がある。しかしその内面的解釈はシーア派が問題とするような「秘密の意味」にまでは至らないのであります。

 

井筒氏の講演(昭和56年春、国際文化教育交流財団の主催する「石坂記念講演シリーズ第4回目)は、このあたりから締めくくりに向けて異様な密度、深度を伴って熱を帯びていく。引用を続ける。

 

暗号はもちろん解読されなければなりません。この暗号解読、つまり外面的意味から内面的意味に移る解釈学的操作を、シーア派の独特の述語で ta’wil(タアウィール)と申します。というのは、一般的にアラビア語では「原初に引き戻す」こと、つまり一番はじめの状態に還帰させるということです。ですから、シーア派の解釈学的述語としてましては、ふつうの人間の言葉で表現され、外面化された神の意志を、もとの神の意志そのもの、いわば啓示の原点に引き戻すということでありまして、要するに顕教的に解釈されたコーランの言葉の意味を、もう一度密教的、エソテリックな意味に解釈し直して、表面的意味を内面化しつつ、それを原初のイデーにまで引き戻すということであります。例えば『コーラン』にはその当時、預言者ムハンマドのまわりに起こったいろいろな事件が具体的に記述されております。戦争とか、和解とか、ムハンマドの家庭に起こった私的事件とか。そういう外的事柄を空間的、時間的に次元を移して、内的空間、内的時間での事柄として解釈する。そしてこのような内的解釈の結果、そこに立ち現れてくる根源的イメージの世界、それこそが神の世界、純粋に精神的な聖なる世界の姿であると考えるのであります。

 

なぜこの箇所に衝撃を受けたか。それは私が翻訳者であるからだ。翻訳者は原文を読み、解釈し、解読するからだ。しかし、読むこと、解釈すること、解読すること、いずれをとっても一筋縄ではいかない。この職業を長年やってきて、場数と時間をかければかけるほど、読むことは何か、解釈すること、解読することとは何か、わからなくなってくる。

翻訳者はまず原文を読む。初めて読むときには、基本的には辞書を引かない、メモも取らない(付箋を貼ったり、アンダーラインを引くくらいのことは、ときにはするけれど)。それなりにわかったつもりでいる。そうでなければ、編集者の要望(梗概を書き、感想を記す)に応えられない。

いざ翻訳をはじめると、徹底的に辞書を引く。何種類もの辞書を引く。いや、辞書を引くというより、辞書を読むといったほうが正しい。なぜならば正解を求めて辞書を引くのではないから。辞書を「読む」ことによって、その単語がもつ「原初の姿」を見ようとする、「原初の音」を聴こうとする、そういう作業だから。

辞書を読む作業を通じて、原文を解釈する。それが読むことにほかならない。人の表情を読み、人の心を読むように。人が表に出さないようにしているものを読み取ること。つまり暗号解読。

徹底的に解釈、解読することによって、原文はどろどろのマグマのようなものと化す。冷えて固まった表面的な外皮(地殻)が融けて、熱い内部が露出するのだ。

けれども翻訳者はスーフィーの隠者とは違う。どろどろに融けたものを、また冷やして固めるのだ。著者が考え、表現した形にできるだけ近く、言葉の形を整えていくのだ。このときの作業がもっとも悩ましい。なぜならば、言語が違う。文法が違う。単語のひとつひとつが違う形をしているから。音韻のひとつひとつの響きが違うから。だから、翻訳は基本的に不可能だというのは正しい。

詩の翻訳は不可能だとよくいわれる。『コーラン』の翻訳も不可能だという。そのとおりだろう。しかし、翻訳は必要だ。なぜなら、われわれは意味の世界に生きているから。意味の世界は、そもそも「外面的」であるほかないのだ。その意味では「内面的意味」「秘密の意味」などありえない。自家撞着するほかない。なぜなら、意味として取り出せば、つまり言葉として取り出せば、それは内面的でも秘密でもなくなるから。

著者はおそらくこう考えて、このような文を書いたのだろうと想像し、推理し、納得し、こちらの言語に移し換える。もちろん、想像するだけでは話にならない。推理するのもだめ。手前勝手に納得するのもだめ。理詰めで原文を分析した果てに、一体感のようなものが得られる。それが心の、頭の奥底から湧き上がってくるのを待つこと。もっと単純な比喩を使うなら、手動のカメラのピントがぴたっと一分の隙もなく合い、対象の輪郭がくっきりと浮かび上がってくるのを待つ。

意味の解釈のことを言っているのではない、形態(文の形、リズム、流れ)のことを言っているのだ。それが鮮明に見えてきたとき、日本語で書くべき文の形も鮮明に見えてくる。そのとき大切なのは、名詞や動詞や形容詞など意味を担っている単語ではなく、「てにをは」のような機能語、あるいは句読点のような、意味の剥奪された、かぎりなく記号に近いもの(これを国語学者の時枝誠記は「辞」と呼んで「詞」と区別した)。

翻訳家の快楽とは、あくまでも理詰めで、しかし、体感としては「啓示」のような「法悦」のような快感なのだ。ワタシハ作家自身ヨリ作家ノ心ガ見エテイル・・・・・・。

ムハンマドは瞑想の果てに、心の、無意識の奥底から、熱いマグマのようなものが噴出してくるのを感じたことだろう。しかし、その前には「読む」という行為があったはずだ。離散(ディアスポラ)から取り残された少数のユダヤ教徒たち、原始キリスト教の信者たちが大切に守ってきた聖典を読み、衝撃を受けたはずだ。かつてはこの地はこんなに肥沃な文化と文明の咲き誇る土地だったのに・・・・・・。

この「啓示」と呼ばれる転身、転回、転向は、ブラックボックスのような、ブラックホールのような、時間の凝縮した闇のなかで、一瞬の爆発として感知されるのだろう。

その闇はわれわれには見えない。ナザレのイエスは40日間荒野に留まり、サタンの誘惑を受け、野獣とともに過ごし、天使たちに見守られていた(マルコ福音書)。シャカ族の王子はなにゆえ家を出たのか、たくさんの伝説が残っているが、真実はもう確かめようもない。いや、そもそもきらびやかな栄華を捨て、「出家」の道を選んだ心の闇は、深ければ深いほど、われわれの目には隠されているといったほうがいいだろう。

魯の国の人、孔丘は孤児であった。父母の名も知られず、母はおそらく巫女。その人生の大半は亡命の旅に明け暮れた。『論語』に穿たれた闇も深い。

翻訳をやってきてよかったと思えるときは、この闇が見えたと感じるときだ。もちろん、その奥は見えない。正しくは、そこに闇があると感じられるとき、と言ったほうがいいだろう。

イスラム学の井筒俊彦、原始キリスト教の田川健三、原始仏教の中村元、古代中国の白川静。こういう恐るべき専門家の著作に導かれるようにして、古典中の古典をひもといていると、太古の闇が近しく感じられてくる。

この闇は解析すべき闇ではない。エネルギーの源としての闇だ。そして、宗教や思想の誕生する場所はその闇であり、もとより闇は反社会的なものである。なぜならば、人間の社会(文明)は闇を恐れることから出発しているから。

*15 音楽建築家、チェリビダッケ

このところチャイコフスキーを立てつづけに聴いた。といっても、シンフォニーの5番と6番だけ。指揮者は全部で5人。カラヤン、ベーム、ザンデルリンク、オフチニコフ、チェリビダッケ。

チャイコフスキーは長いこと素直に聴けなかった。高校時代にブラスバンド部員の友人が二人いて、一緒になれば必ずクラシック談義になった。部長をやっていたほうは、いつもいっぱしのことを言った。若いときは誰もがいっぱしのことを言いたがるものだ。チャイコフスキーって、自分の情念に溺れちゃうんだよね、とかなんとか。

それ以来、チャイコフスキーにのめり込むのが恥ずかしくなったのかもしれない。そもそも、評論家たちが口を揃えて、ロシア的情念だの、苦悩だの、絶望だのという「用語」を使いたがるし、標題音楽だかなんだか知らないけれど、音楽の題名に「悲愴」ってことはないだろうと・・・・・・。そんなことを言えば、英雄、運命、田園ってなんだってことになるけれど。

というわけで、この音楽家を少し敬遠しておりました。

ところが、つい最近、ひょんなことから(きっかけは忘れてしまった)ヴィヤチェスラフ・オフチニコフという人が指揮する「悲愴」を聴いて、おおっ!と声を上げてしまったのだ。ええっ?でもいいかもしれない。

演奏はモスクワ放送交響楽団、録音は1982年。うちにあったレコードで、今まで針を乗せたことがなかった。ジャケットの帯には錚々たる賛辞が並んでいる。

「暗いスラブの憂うつと情熱にみち、楽曲の内部に秘められた表題性や悲劇性を鋭く追求したスケールの大きい演奏」(音楽評論家・小石忠男)

「汚れなき天使の純粋さと悪魔の笑い。・・・・・・彼こそ天才だ」(ヴァイオリニスト・佐藤陽子)

「オフチニコフの才能と実力は大変なもので、この「悲愴」も実にすばらしい演奏である」(音楽評論家・志鳥栄八郎)

「作曲家でもある彼の音楽的発想を、豊かな想像力をもって展開した「新しい悲愴」」(音楽評論家・藤田由之)

作曲家でもあり、指揮者でもあるこのオフチニコフという人が、その後どういう活躍をしているのか、文字どおり寡聞にして知らない。

なぜ、この演奏と指揮を聴いて、おおっ!(あるいは、ええっ?)となるのか自分でもわからない。帯のコメントがそれを言い当てているとも思えない。

スピード? テンポ?

というわけで、わが家にある数少ないチャイコフスキーのレコード、CDをかき集めて聴き比べてみたのである。音楽、あるいは演奏を言葉で再現することは不可能なので(少なくとも、わが貧寒な筆力では)、数値に表しうるデータだけ並べてみる(第6番のみ)。

1.ヴィヤチェスラフ・オフチニコフ指揮、モスクワ放送交響楽団

(1982年、モスクワ)

第1楽章:アダージョ〜アレグロ・ノン・トロッポ(20:29)

第2楽章:アレグロ・コン・グラチア(7:24)

第3楽章:アレグロ・モルト・ヴィヴァーチェ(9:04)

第4楽章:フィナーレ、アダージョ・ラメントーソ(11:18)
2.カール・ベーム指揮、ロンドン交響楽団

(1978年、ロンドン、ウォルサムストウ・タウンホール)

第1楽章:(19:06)

第2楽章:(9:02)

第3楽章:(9:16)

第4楽章:(10:02)
3.ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

(1964年、ベルリン、イエス・キリスト教会)

第1楽章:(18:45)

第2楽章:(7:53)

第3楽章:(8:35)

第4楽章:(9:55)
4.セルジュ・チェリビダッケ指揮、ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団

(1992年、ミュンヘン、ガスタイク)

第1楽章:(25:12)

第2楽章:(8:38)

第3楽章:(10:39)

第4楽章:(13:10)

一目瞭然だろう。とくにカラヤンとチェリビダッケを比べてみると同じ曲かと思うほど、演奏時間に開きがある。もちろん聴いた印象もまるで違う。このなかで、チェリビダッケの「遅さ」にもっとも近いのがオフチニコフだということもよくわかる。
生前、自分の演奏をレコードにすることを拒みつづけたチェリビダッケは、その理由を問われて、こんなふうに答えている(どの本、どの雑誌、どこの解説で読んだのだったか忘れてしまったので、筆者の個人的記憶に過ぎない)。

自分はコンサートホールの音響状態に合わせてオーケストラを指揮している。たとえば残響の長いところでは速めに、残響の短いところでは遅めに。なぜなら、残響の長いところで遅めに演奏すると、音が重なって濁ってしまうからだ。楽器の響きは季節によっても違う。そんなふうにして、きわめてデリケートにホールの状態を考慮しながら一回一回の演奏をつくりあげているのに、レコードにしてしまうと、録音技術者のレベル、録音装置のレベル、再生装置のレベルと再生環境しだいで、その都度、もとの演奏の微細な響きが勝手に変更されてしまう。そんなことは耐えがたい・・・・・・。

このチェリビダッケの述懐を考慮に入れて、演奏時間のデータを比べてみると、また違うことが見えてくる。スタジオ録音に並々ならぬ意欲を示したと言われるカラヤンの演奏が、このレコードで「異様に」速く棒を振っているのは、ひょっとしたら、演奏・録音された場所がベルリンのイエス・キリスト教会だったからかもしれないと。この教会は残響が長いので有名な建築で、ここで録音された演奏で忘れられないのが、カール・ベーム指揮、ベートーヴェン交響曲第7番(ベルリン・フィル、1958年)だ。このレコードは何度ターンテーブルの上に乗せたことか。この演奏もめっぽう速い(ベームにしては)。

それはともかく、このレコードで聴くかぎり、カラヤンの「悲愴」は速くて軽い。まさに「疾走する悲しみ tristesse allante」、モーツァルトみたいに一目散に駆け抜けていって、あっというまに後ろ姿も見えなくなる(べつにモーツァルトの悪口を言っているわけではありません)。華やかではあるだろう。久しぶりにカラヤンの指揮を聴くと、オーケストラという楽器を美事に鳴らす名ソリストという感じがする。

しかし、チェリビダッケが鳴らしているのはオーケストラではない。ホールそのものだ。この人の演奏は、パイプオルガンによる教会音楽の伝統なしには考えられない。

数年前、僕はパリのサン=シュルピス教会の大聖堂に鳴り響くオルガンを聴いたことがある(たしか荘厳ミサか何かの特別な催しだったように思う)。圧倒された。これはもはや音楽ではない、地響きだと思った。事実、サン=シュルピスのオルガンはあまりに古く、音が濁っているらしい。そのため、改修派と存続派のあいだで議論が対立しているとも聞いた。

この種の経験はこれにかぎらない。フルトベングラーが一九四三年(だったと思う)に指揮したという伝説の名盤——もちろんベートーヴェンの第5番だ——を聴いたときもそう思ったのだ。こんなふうに演奏されたら、猫だって感動するだろうと。

この名盤を聴かせてくれたのは、大樹という町で曹洞宗の寺の住職をやっている従兄だった。坊主、医者の例に漏れず、彼もオーディオマニアで、そのころ使っていたのは——僕が学生だったころだから、四〇年くらい前——、巨大なタンノイのスピーカーだった。じつはチェリビダッケという指揮者の存在を教えてくれたのも、この従兄なのだ。かれこれ二〇年くらい前のことだろうか。彼のオーディオルームで、チェリビダッケの演奏を記録したビデオを見せてもらった(そのころは、遺産相続人の息子が認めた正規版のCDがまだ出ていなかった)。曲はラヴェルの「ボレロ」。一発でKOされた。後にも先にもこんなすばらしいボレロを聴いたことはない。

地響きと言えば、もうひとつ思い出がある。ワーグナーの「リング」。これはうちにあるレコード。サー・ゲオルグ・ショルティー指揮、ウィーン・フィルハーモニー、「ニーベルングの指輪」。細かい録音データは省く。なぜなら、全曲聴いたことは一度もないから。というか、冒頭の「地響き」のところで大笑いして、聴くのをやめてしまったのだ。バイロイトで聴くのならともかく、録音された「リング」を自宅で聴くなんて、正気の沙汰とは思えない(買ったのはたぶん母親。地元の楽器店——当時はレコードも売っていた——で嘱託のような仕事をしていたから、店長にそそのかされたのだろう)。

話が逸れてしまった。

とにかく、オフチニコフの「悲愴」に驚いたせいで、あらためてチャイコフスキーを聴き直し、チェリビダッケの指揮法、演奏法についても考えさせられることになったわけだ。

わが家の慎ましいライブラリには、チェリビダッケのCDが2箱ある(つまり24枚)。でも、このうちチャイコフスキーの5番と6番は一度も聴いたことがなかった。そう、敬遠していたのだ。今回、初めて聴いてみて、チャイコフスキーがチェリビダッケの大切なレパートリーであることを確認できたのはよかった。

チャイコフスキーがすばらしい作曲家であるということを素直に感じられたこともよかった。

さっきカラヤンのことを、オーケストラという楽器を鳴らすソリストだと言ったが、それに平衡させるなら、チェリビダッケはホールという建物を鳴らす建築家だと言えるだろう。

パイドロスはある建築家について、こんなふうに回想している。

 

彼は光のために無類の装置をつくりあげたのでした。光に明瞭な形と、ほとんど音楽的ともいえる特性を与えて、それを死すべき人間たちの動き回る空間へとまき散らしたのです。ソクラテスよ、あなたが先ほど念頭に置いて語っていた雄弁家や詩人たちと同じように、彼は微妙な抑揚のもたらす神秘的な効果に通暁していました。一見すると簡素で軽やかに仕上げられた建築を前にして、じつは無数のかすかな屈曲と、建築家がそこに目立たぬように忍ばせた整合と不整合の深い組み合わせによって、いつしか幸福のようなものに導かれているとは誰ひとり気づかないのでした。その結果、建築を見る人は不可視の存在の意のままになるがごとく、前に進み出ては引き返し、また近づいていくといった動きを繰り返し、建築作品それ自体に突き動かされ、ただ賛嘆の虜となるがごとくに光の場をさまようにつれて、幻影(ヴィジョン)から幻影へ、大いなる沈黙から喜悦のささやきへと移っていくのでした。そう、このメガラの男はこう言っていたのです。「わが寺院は、愛する対象がそうするように人を動かさなければならない」と。

 

もちろん、このパイドロスはプラトンの対話篇には出てこない。ポール・ヴァレリーの「エウパリノス、すなわち建築家」と題された対話篇のなかで、ソクラテスと語り合うパイドロスであり、メガラの人エウパリノスは、じつは建築家というより技師であったと覚書には記されているが、すべての芸術家は何よりもまず職人であり、技師であるだろう。

*14 絵に描いたような夢

どうも、東京の娘の住まいから帯広へ帰ろうとしているようである。しかし、いつもと何か勝手が違う。そそくさと荷物をまとめ、家を出るのだが、ここがどこだかわからない。つまり、実際に娘(次女)が住んでいる場所とは違うようなのである。

空港(といっても、羽田かどうかもわからない)へ向かう電車に乗ろうとするのだが、プラットフォームがおかしい。土手のようなところにある。電車がやってくる。それに乗るには土手の傾斜を登っていかなければいけない。そんなバカなと夢のなかのは思っている。

たくさんの乗客が列車に乗りこんでいくのを、は土手の下から見上げている。あれはひょっとしたら空港行きではないのか? でも、今から土手を登っていっても間に合いそうもない。そうこうしているうちに電車は出ていってしまう。

は大きめのショルダーバッグのような、頭陀袋のようなものを引きずりながら土手を登り、プラットフォームに上がる。そこで気づく。しまった。もう一つのバッグを忘れてきた。むしろあっちのほうにたくさん荷物が詰まっているのに。どうりでバッグが軽いと思った。今さら引き返せない。それどころか、飛行機にも間に合いそうにない。そうか、さっきの電車がそうだったのだ。あれに乗れば間に合ったのだ。しかたない。今さら戻るわけにもいかない。とにかく空港には行こう。行けばなんとかなるだろう。

しかし、電車は来ない。あーあ、これじゃ、いつ空港に着くことやら、と溜息をついているうちに、一両編成の電車がやってくる。なんだこれは? と思いつつ、乗りこむと、間もなく次の停車駅に到着する。

今度の駅は、土手の上の駅とはうって変わって、コンクリートで密閉されたようなプラットフォームである。とりあえず降りたはいいが、出口がない。つまり改札口に通じる開口部がどこにもないのである。はプラットフォームに立っている他の乗客にきいてみる。
「この線路はどこに通じているのですか?」
「さあ」

さあってことはあるか。みんなどこに行くのかわからないまま、次の電車が来るのを待っているということか。「私」は駅員らしき制服姿の男にきいてみる。
「次に来る電車はどこに行くのですか?」
「さあ、来てみないとわからないね」

そんなバカな。これじゃ埒が明かない。は閉ざされたプラットフォームのなかをうろうろしはじめる。どこにも出入口はない。ただ湿っぽいコンクリートの壁があるだけ。対面も上部もコンクリートで塞がれている。線路の通り道だけが空いている。はさっき乗ってきた電車の進行方向へ歩き、その向こうに広がっている風景を覗きこむ。

川が見える。かなり大きな川だ。線路はその川に沿って続いているようだ。川の向こうには大きな湖が見える。その大きな湖の奥に白いものが見える。

波だ。風による波ではなく、湖底から湧き上がってくるような波。波はしだいに大きくなって湖面全体を覆い、ついには津波のように膨れあがり、こちらに押し寄せてくる。線路はすでに水没している。

これでは逃げようがないではないか。コンクリートで固められたプラットフォームにまで壁のような波が押し寄せてきたら、もう一巻の終わりだ。

目を覚まさないと、溺れ死ぬぞ。
「絵に描いたような夢」というのは、日本語としておかしいのはわかっているが、昨夜こんな夢を見て、自分で笑ってしまった。まるで、絵に描いたような夢だな、と。

睡眠障害が深刻になりそうである。布団を敷いても、その布団に入りたくない。眠るのが怖いというわけではないし、寝てはいけないと思っているわけでもない。寝ることに対する嫌悪感のようなものがある。しかし、12時を過ぎれば寝たほうがいいと思う。次の朝、どうせ6時には目が覚めるのだから。

で、とりあえず、布団をかぶる。寝付きは悪くない。しかし、2時、3時に目が覚めてしまう。あまりに冴え冴えとすると、頭に来て仕事を始めることもある。そのまま布団のなかにいて、また眠れることもある。しかし、5時、6時になれば、飼い猫のシマが餌をくれと起こしにくる。

一日中、熟眠感のないまま過ごすことになる。昼寝も妙に深いので、目覚めると疲労感が残っている。

原因はわかっている。今、やっている翻訳が「病気」なのだ。これが終わるまではこの睡眠障害に悩まされることになるだろう。しかし、数ヵ月で終わる仕事ではないのだ。2年、いや3年はかかるだろう。

やれやれ、先が思いやられる。

*13 パスカル・キニャールとマニエリスム(3)

『ヴュルテンベルクのサロン』をめぐって(承前)

 

シュノーニュの故郷ベルクハイムはヴュルテンベルク地方の片田舎にある。この町の丘の上にはプロテスタント教会があり、ふもとにはカトリック教会がある。アウグスブルグの宗教和議の妥協がそのまま町の構造をなしているというわけである。だがじつは、このベルクハイムは架空の町である。作者は小説のなかで、ベルクハイムという町が三つあり、一つはフランスのアルザス地方、あとの二つはドイツの、エルフト川とヤクスト川のほとりにあると書いているが、ヤクスト川のほとりにベルクハイムという町は存在していない(これについては著者に直接確かめた)。さて、その架空の町のカトリック教会はどのように描写されているか。

 

町の下のほうにある教会は——そこにわが家の寄進したオルガンがあったわけだが——、とても美しいと同時にとても醜く、ちぐはぐな建物だった。外陣は13世紀のポワトゥー様式で、これに——たぶんパリの工房が施工したものだろうが——20メートルほどの小さな周歩廊がくっついていた。正面は19世紀のもの——つまりルイ16世様式だった。  入ってすぐ左手には、陰惨で見るからにサディスティックな大きな画布——辱めを受けたキリスト、子供の私はこの絵におびえたものだった——がかけられていた。実を言うと、この絵の前にはイグナーツ・ギュンターの、あのとほうもなく美しくみだらなマニエリスム調のバテシバ像が置いてある。

 

ベルクハイムが架空の町である以上、その教会も架空であり、その教会にある「マニエリスム調のバテシバ像」も架空である。あるいは、作者がどこか別の町の教会か美術館で見たギュンターの作品を遊び心で拝借したのかもしれない。だが、ここで重要なのは、この「とても美しいと同時にとても醜く、ちぐはぐな」教会が、主人公の幼年期の分裂した心象風景そのものであり、ある意味ではデフォルメされ、ミニチュア化されたヨーロッパの自画像だということである。この教会にはロマネスク的、ゴシック的なものと19世紀的なものが混在している。しかも、町にはカトリック教会とプロテスタント教会が同時に存在している。それはヨーロッパの町にあって珍しい光景ではない。いまだにヨーロッパはかつての宗教対立の遺制を生きている。戦後のイデオロギー対立の構図もまた、おそらくその「繰り返し」なのだ。この作品でキニャールはたびたび「繰り返し」という言葉を使っているが、歴史は繰り返すなどという呑気なことを言っているのではない。ヨーロッパの政治支配とその心理的抑圧のパターンを「繰り返し」と呼んでいるのである。彼は昨年3月に刊行された『性と畏怖』(註12)のなかで、そのパターンの出発点が共和政ローマから帝政ローマへの転換とそのイデオロギーとしてのキリスト教の成立にあることをローマ人の性意識から解きほぐし、次のように言っている。

 

ローマ世界を帝政に改造した56年間のアウグストゥスの治世に、ギリシア人の嬉々として精緻なエロティシズムは畏怖をともなう憂愁に変化した。この移行はたった30年ほどで成し遂げられたにもかかわらず(前18−後14年)、今もなお私たちを包みこみ、私たちのパッションを支配している。キリスト教はこの変容のひとつの帰結でしかない。

 

フリートレンダーと並んでマニエリスム研究に大きく貢献したドボルシャックの師アイロス・リーグルは、それまでギリシア美術の衰退あるいは野蛮化として省みられなかった後期ローマ美術に固有の美的価値を認め、近代の主観主義的な無限空間の把握の端緒が、キリスト教の影響を受けたローマ末期の美術にあることを指摘している(註13)。キニャールもまた、帝政ローマのポルノグラフィックな壁画と静物画を集めた『性と畏怖』というこの作品のなかで、人間存在の死角を見つめているかのようなローマ人の「平行の視線」に注目し、「ギリシア人の嬉々として精緻なエロティシズム」から「ローマ人の畏怖をともなう憂愁」への変化を見つめている。キニャールの方法論からすれば、その移行はルネサンスからマニエリスム・バロックへの移行とパラレルであり、その底にも性意識の変質が流れているということになろう。それは言うまでもなく、プロテスタンティズムの屈折した性意識の問題である。そしてこの性意識のパターンは——ここでは詳しく論拠を展開することはできないが——コミュニズムあるいはマルキシズムにも受け継がれているはずである。その抑圧された感情は『ヴュルテンベルクのサロン』では徹底的な故意の言い落とし(レチサンス)によってあぶりだされているというのが、私の個人的解釈である。

この小説は、1963年3月の「私」とセヌセの出会いから始まり、作品刊行と同じ年の1986年に終わる。物語は、その二人の友人とイザベルの三角関係、そしてその関係が破綻した後の「私」の女性遍歴に終始する。「私」は「濃い赤の隆起なめし革で装丁された、まるで司教の祭服のような小さな手帳」に日記をつけているという想定になっているが、政治的事件のことはまったく記されていない。たとえば68年5月についてもナデイダ・レフという歌手との出会いのことしか書かれておらず、「思い起こせば、70年代は猛勉強と試験で明け暮れた日のようだった。私は心の底で、68年の5月と6月を惜しみ、ナデイダのほっと一息つける肉体に出会ったこと」を懐かしむだけである。小説の終結部では、「私」が古い友人と再会するシーンが唐突に挿入されている。

 

「憶えているだろ」と彼は言った。「豚箱での十日間をさ!」  私は投獄されたことなど一度もなかった。鉄格子の向こう側に入ったこともない。吹聴できるような苦労話はいっさいない。

 

 

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図4.ヴァン・デル・ウェイデン「婦人像」

パスカル・キニャールの作品の特徴は、ユダヤ・キリスト教的倫理観のしがらみを断ち切り、エロスの全面的な解放を求めながらも、禁欲的な姿勢を崩さないところにある。これはもっぱら彼の資質によるものなのだろうが、同時に、心理的抑圧装置としての役割を果たしながらも、その内部および周辺におびただしいエロスと美を取りこんできたキリスト教文化の豊かさを抜きにしては語ることはできないだろう。だがこの豊かさはそもそも矛盾に満ちている。ユダヤ教および初期キリスト教の理念に従うならば、あらゆる偶像は否定されるべきである。だが、偶像崇拝を禁じるビザンチン教会においてさえ、あの美しいイコンまでは否定できなかった。あるいは、神の子イエスの死があれほどまでに官能的に、ときにはグロテスクなまでリアルに描かれるのはなぜなのか。あるいは教会に響く暗闇の朝課(ルソン・ド・テネブル)がときに異様なほど蠱惑的なのはなぜなのか。素朴な目と耳でキリスト教芸術に接するとき、私たち「異教徒」が受ける不思議な感動は、じつはパスカル・キニャールの作品を読むときの感動にそのままつながると言っていい。

最後に、ワシントンDCのナショナル・ギャラリーに所蔵されているヴァン・デル・ウェイデンの〈婦人像〉を掲げておこう(図4)。小説の話者シュノーニュは、1978年5月のある夜、音楽学校を出たところで、8年前にともにレコーディングしたことのあるジャンヌという女性ヴァイオリニストに出会い、夜をともにする。

 

彼女はみごとに老けていた。ウールの長いコートを着て、手にはレッスン用の小型ヴァイオリンを持っていた。クラーナハの肖像画のようでもあったが、むしろ——顔は苦しげで——、しかめた目がヴァン・デル・ウェイデンの描いたマリー=マドレーヌの目そっくりで、ウェストは細く、胸は豊かで引き締まり、悲劇的で青い目をしていた。

 

ヴァン・デル・ウェイデンのこの肖像画のモデルは、ブルゴーニュ公フィリップ・ル・ボンの庶子マリー・ド・ヴァランジャンではないかと推測されているらしいが、ここでは考証的事実はどうでもいい。この女性が内部に湛えている静謐な官能性を形容する言葉を私は知らない。「私」は、ジャンヌの肉体について次のように言う。

 

クラーナハ、ヴァン・デル・ウェイデン、これらの名前を通じて私が示したかったのは顔の表情ではなく、ある色だった。年齢によっておそらく肌は衰え、首筋や胸もゆるやかに生気を失っていたことはたしかだが、同時に年齢に洗われることによって、あの軽いバラ色、とても稠密で、とても透明な磁器のような色が強調されているかのようだった——あるいはむしろ、私はいつもそれらの肉体に、たぶんすでに失われた官能性を、きわめて鮮烈だが、ピューリタン的に抑えられたままの荒々しさ、みだらなものを想像してきたとも言える。

 

このプルースト的な、あからさまにマニエリスティックな文体はこの小説の基調をなすものである。だが、この小説はけっして饒舌ではない。形容と比喩を何重にも重ねる言葉の底につねに重い沈黙の通奏低音が流れている。それは作家がこの作品をみずからに課した責務のようなものとして、あるいは見えない敵に対する戦いのようなものとして書いていることに由来しているように思える。そして、作者がその作品にさりげなく忍ばせた絵画——たとえば、ここにあげたヴァン・デル・ウェイデンの作品——をじっと見つめていると、彼が本当に愛しているのは、歴史の僥倖から生まれたかのような盛期ルネッサンスの作品でもなければ、歴史のはざまで叫び声をあげているマニエリストのエキセントリックな作品でもなく、むしろ15世紀のフランドル絵画やバロック時代の小さな静謐な作品であることが実感されてくる。

いかにもひやりとした広い額とぽってりと厚く柔らかい唇の対比、きわめて知的だが熱い情念を奥に秘めている瞳、頭を覆う透けた白布と胸元の簡素な装飾。このヴァン・デル・ウェイデンの婦人像は、フォンテーヌブロー派の装飾過多のエロティシズムよりもじつははるかに官能的で豪奢な要素を内部に湛えているように思われる。それは冒頭にあげたボージャンの静物画がそうであるように、人間がこの世に存在することの根本的な矛盾が、自信にあふれた画家の手(マニエラ)とそれを抑制する意志力との均衡からごく自然ににじみでているからだろう。

『ヴュルテンベルクのサロン』は官能小説である。人間にとって官能とは何かを問うという意味で官能小説である。

 

ジャンヌとともに暮らした数年を振り返るとき、私には、愛よりはむしろ欲望がもたらす感覚だけがたしかな価値を持っているように思えてくる。たとえそれがあまり長続きせず、あまり失望が大きく、忘れ去られやすいように見えたとしても。快楽(ヴオリユプテ)は宇宙のはるかかなたで光を放つ星のようなものだが、その輝きは、天空全体の広がりのなかでほんのわずかの面積しか占めていないくせに、全人生をしびれさせ、導く。

 

宗教=思想は永遠の生を希うが、芸術は一瞬の官能の炎に永遠を見る。ヨーロッパのすぐれた芸術の魅力はこの相容れない二つのベクトルの交錯にある。パスカル・キニャールがこの「文化的な伝統に首までつかった」作家であることだけは否定しがたい。(了)

 


(12)Le sexe et l’effroi, Gallimard,1994 (前出『ユリイカ』1994年11月号の『理性』の解題を参照されたい)
(13)前出『マニエリスムとバロックの成立』の「訳者あとがき」およびマクス・ドヴォルシャック『精神史としての美術史」(中村茂夫訳、 岩崎美術社)の「解説」に基づく。

*12 パスカル・キニャールとマニエリスム(2)

 

『ヴュルテンベルクのサロン』をめぐって(承前)

 

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図3. バルドゥンク・グリーン「ノイブルク伯フィリップ」

しかし、フリートレンダーとハウザーの著作は対照的だが、それらを読み進めていくうちにおのずと浮かび上がってくるマニエリスムについてのイメージはたしかにある。それは一方向への突出というイメージである。

マニエリスムの典型的な画家として、たとえばポントルモ、ティントレット、エル・グレコ、あるいはフォンテーヌブロー派の作品がよく引き合いに出されるが、一見するとこれらの画家・画派の作品はひとつの様式には当てはめられないのではないかと思えるほど個性的である。それがわずかな時代差によるものなのか、それとも地域差、あるいは画家の個性に帰されるべきものなのかはともかくとして、これらの画家たちは様式上の共通項でくくるよりは、それぞれがある方向へべクトルを突出させているという、その突出感に共通性があるとしたほうがわかりやすいのではなかろうか。たとえば、精神性の、宗教性の、エロスの、アレゴリーの、色彩の突出といったように。それは少なくとも盛期ルネサンスの古典主義的な作品にも、バロック期の自然主義的な作品にも見られない性質であると思える。だが、このような突出はなぜ生じるのか。

ハウザーのマニエリスム論は、マニエリスムがルネサンスとバロックの間の過渡期の様式であるよりも、マニエリスムとバロックが決定的に対立する様式であり、概念であることを強調している。そしてマニエリスムとバロックがじつは同時発生したものであり、盛期ルネサンスにおいてほんのしばらく均衡を保っていたが、やがて「知的な国際的エリートたちの芸術上の表現」であり「より複雑で、繊細で、排他的な」マニエリスムが支配的傾向となり、最終的には「民衆的で、主情的で、どの民族にも迎えられるような」バロックがこれに取って代わったと説く。この一見独断的な論法は、しかし、形式上の純粋な美しさを体現する古典主義様式が本来はかないものであり、「はじめから、ひとつの夢であり、望みであり、ユートピア」にすぎないというハウザーの前提をよく吟味してみるとき、説得力をもつ。

たとえば、素朴な目でイタリア盛期ルネサンスの傑作と呼ばれるレオナルドの〈最後の晩餐〉、ラファエロの一連の〈聖母子像〉、ミケランジェロの初期の〈ピエタ〉を見るとき、私たちはこれらの作品のあまりに完璧に均衡のとれた美しさに、人間の大地から生まれた作品であるというよりも、どこか別の星から降ってきたのではあるまいかという印象さえ受ける。あるいは社会的な束縛をいっさい知らない理想的な青春というイメージ。事実、これらの作品はすべてキリスト教的主題に基づきながら、完璧に異教徒的=ギリシア的であり、福音書の倫理性からはこのような理想的に調和のとれた作品が生まれないことは歴然としている。聖書のテクストから生まれる画像としては、ジオットの祭壇画やティントレットの劇的な〈最後の晩餐〉のほうがはるかに自然だろう。レオナルドの〈最後の晩餐〉はあまりに静的で、二次元の平面に無限の奥行をつくりだす画家の圧倒的な技量と知性だけが光っている。ラファエロや初期のミケランジェロが描く女性にしても、心身の成熟の絶頂にあって、いつでも母となれる条件を備えながら、母であることの重みから解放されている、女性がもっとも美しく輝くつかのまの一時期を「処女懐胎」という聖書の主題を自由に飛躍させて描いているという印象を受ける。

このイタリア・ルネサンスのどこにも属さない、いわば無臭の美的世界はおそらく歴史のエアポケットからしか生まれないだろう。すなわち、ヨーロッパ中世がローマ帝国の遺制から抜け出し、いゆる絶対王政を確立する過渡期と、勃興する民衆のエネルギーがローマ・カトリックの枠からはみだし、各国のプロテスタンティズムに吸収されていく二重の過渡期にあって、メディチ家を初めとする世俗の金融資本家によって保護されていたのがイタリア・ルネサンスの芸術だとすれば、マニエリスムの突出性は、ヨーロッパが歴史の幸福な空白期のようなルネサンスを経て、真にヨーロッパ的な肉体を備えていく過程でのきしみのように思われる。1510年、マルチン・ルターはローマを訪れ、「キリスト教的主題と異教的主題が奇怪千万な調和をなして混在しているラファエロ」が聖書研究と等価に見られているのに慣概してドイツに帰るが、結局、彼は教皇レオによって破門される。これが、1527年に多くのルター派の兵士を含む神聖ローマ皇帝軍によってカトリックの総本山であるローマが蹂躪される「ローマ略奪(サッコ・デイ・ローマ)」につながってゆくのはじつに象徴的である(註9)。

パスカル・キニャールの『ヴュルテンベルクのサロン』もまた、このような危機ときしみの構造を内部に備えている。キニャールの本来的な文体の特徴はジャンセニスト的な禁欲と簡素さにあるが、この作品ではそういった抑圧をあえて解除し、レトリックの遊び、アレゴリーの過剰、細部の誇張、倫理的分裂をいたるところで噴出させている。彼はこの小説を書くことで「羊水のようなものを獲得し」、小説に対する恐れを払拭したと述べている(註10)。これは、彼が小説家としての肉体を獲得したということと同義だろう。この作品の全体的基調がバロックであるか、マニエリスムであるかについては読者の判断にまかせることにするが、少なくともその細部にはマニエリスティックな要素がふんだんに含まれている。

この小説の主人公の親友フロラン・セヌセは、国立古文書学校の卒業生で、ギリシア・ローマの古典語に通暁し、美術館の学芸員のポストを求めている人物として登場する。彼の「生涯唯一の情熱はボンボン」であり、童歌の蒐集家でもある。彼の容姿は決のように描写されている。

 

彼はひょろっと背の高い男だった。フィリップ辺境伯——少なくともミュンヘンにあるバルドゥンク・グリーンが描いた肖像——に似ていたが、それよりずっと美しく、髪は栗色、顔は同じようにいびつで、目は大きく熱っぽく、きらきら輝いていた。

 

ミュンヘンのアルテ・ピナコテークにあるこの肖像画(図3)は〈ノイブルク伯フィリップ〉と呼ばれ、画家のフライブルク滞在中(1512−17)に同市の大学に遊学していた14歳の公子を描いたものだというが、クラーナハがそうであるように、きわめてマニエリスティックな雰囲気をもつ作品である。陶器のなめらかな釉{うわぐすり}ような肌合い、赤い帽子と瀟洒なアクセサリー、肩にまいた毛皮のショール。このフィリップに似ているというセヌセは、この小説のなかでもっともマニエリスティックで危うい人物として描かれている。この作品の冒頭を飾るセメセの部屋の描写は異常なまでに人工的である。その広い部屋の壁は薔薇色で、英国製の銅のレールから垂れ下がる青いカーテンは「大時代がかったドレープ」をつくり、その中央には黒っぽい大きなテーブルが置かれている。その上にセヌセは辞書を開いたままにしたり、何冊もの本を積み重ね、色とりどりの吸取紙や色鉛筆を並べている。しかも、それをでたらめに散らかしているのではなく、入念に演出していた……。彼は話者のシュノーニュに向かってこう言う。

 

「儀式にほんの小さな傷が入っただけで、星が落ちてくる」。そこで私が、そもそもきみの生きている世界は確固としたものではなさそうだね、と指摘すると、「人間は宇宙ほど確固としたものではない」と答えた。そして、しどろもどろになってこう言った。「文明は人間ほど確固としたものではない。ぼくの人生は小さな文明さ。そして文明は脆いものなんだ」

 

ここで私たちは、マニエリスムが「文化的な伝統に首までつかった、晦渋な、内省的な、分裂をきたした様式」であるというハウザーの定義に「脆さ」の要素を付け加えてもよいかもしれない。

バルドゥンク・グリーンはデューラー、クラーナハなどと並んで16世紀ドイツを代表する画家とされるが、ここでキニャールがこの画家を持ち出しているのは、たんに登場人物の外形描写を補強するためだけでなく、バルドゥンクがシュヴァーベン地方の出身であり、そこが主人公のシュノーニュの故郷であることも関係している。事実、この作品にはシュヴァーベン地方やアルザス・ロレーヌ地方、すなわち独仏国境沿いの地方に関係した作家・画家がおびただしく登場する。その端的な例は、小説の冒頭に引用されているグリンメルスハウゼンであり、本文中に何度も登場するヴィーラントであり、ヴュルテンベルクで活躍したフランスの二人の建築家フィリップ・ド・ラ・ゲピエールおよびニコラ・ド・ピガージュであり、エミール・ガレのガラス器である。キニャールの父方の家系はアルザス地方の出身であり、ドイツとフランスにはキニャールという名のオルガン奏者が百人以上存在するという(註11)。彼はその「存在証明」をしたかったのかもしれないと語っているが、おそらくその「存在証明」とはフランスとドイツという近代国家成立の過程で分裂した自我の存在証明でもあっただろう。それは古文書研究家のセヌセと音楽家の主人公シュノーニュという、明らかに作者自身を投影させた二人の分身の描き方に端的に表れている。(つづく

 



(9)クリストファー・ヒバート『ローマ——ある都市の伝記」(横山徳爾訳、朝日選書)
(10)Le Monde des livres, le 3 août 1986.
(11)前出『中央公論文芸特集』