*29 魏志倭人伝

魏志倭人伝、熊本の感興、

どっちのタイトルで書き出そうか迷ったが、結局同じことだと思い、あまり気張らずにだらだら書くことにしよう。

しかし、内心は穏やかでない。還暦の年にフランスは南仏のアルルに呼ばれ、こんなことはもうないのだろうなと思っていたら、その三年後、春先に熊本に呼ばれ、秋にはまたアルルに行くことになった。

熊本にも、九州にも、きっとまた訪れることになるだろう。ただの予感として言うのでもないし、宿命と言うほど重くもない。そのあたりの微妙なところは書いてみないと、自分でも何を感じているかわからない。

 

魏志倭人伝を読み返しているのである。岩波文庫の「中国正史日本伝(1)」という副題のつけられた巻に収められている(石原道博編訳)。奥付を見ると、一九五一年第一刷、一九八五年第四十三刷新改訂版、一九八八年第四十八刷とある。いつ、なぜこの本を買って読もうとしたのか、もう思い出すことはできない。ただ、次の一節だけは鮮やかに記憶に残っている。

 

男子は大小となく、皆黥面文身す。古より以来、その使中国に詣〔いた〕るや、皆自ら大夫と称す。夏后小康の子、会稽に封ぜられ、断髪文身、以て蛟竜の害を避く。今倭の水人、好んで沈没して魚蛤を捕らえ、文身しまた以て大魚・水禽を厭〔はら〕う。後やや以て飾りとなす。諸国の文身各々異り、あるいは左にしあるいは右にし、あるいは大にあるいは小に、尊卑差あり。その道里を計るに、当に会稽の東冶の東にあるべし。

 

刺青をした男たちが素潜りで魚介をとっている。最初は鮫や海蛇の害を避けるための刺青であったが、後に飾りになったと記し、遠い夏の時代、長江の下流一帯の会稽に封じられた小康の子(無余)が断髪入墨し、水害を避けたという伝説が紹介されている。

夏という神話時代の伝説を思い出すくらいだから、千数百年前の魏の国の記者(陳寿)は、刺青をした漁をする男たちの姿によほど強い印象を覚えたのだろう。不思議なのは、この一節を、倭の国は(海を挟んで)ちょうどこの会稽の東冶(現在の福建省)の東にあたる、と結んでいることだ。

魏志倭人伝はのっけから倭の国の位置を詳しく説明するところから始まっている。朝鮮半島の帯方郡を発って、対馬、壱岐に渡り、末魯国(肥前松浦郡、今の名護屋か唐津)に上陸し、伊都国(糸島郡)、奴国(博多付近)、不弥国(?)、投馬国(?)、そして邪馬台国へと至る道のりを、方角と距離を添えてかなり詳細に記そうとしている。だが、この「詳細」さが徒になって、われわれ日本人に難題をふっかけることになる。邪馬台国はどこにあったのか? 不弥国あたりから畿内大和説と九州説とに分かれて、いまだに決着がついていないようだ。

それも無理はない。倭人伝に記された妙に細かい地理の記述を読んでいると目眩がしてきて、これを書いた魏の国の記者は方向音痴だったのではないかと思えてくるほどだ。その一方で「(倭の国までの)道里を計るに、当に会稽の東冶の東にあるべし」と、あきれるほど大雑把に書かれている。これでは読者は戸惑うしかない。

つまり、この記者は実際に倭の国を訪れ、みずから調査して書いているわけでなく、又聞きで——伝聞をかき集めて——邪馬台国までの道のりを記し、「会稽の東冶の東」のところでは自らの感慨を述べているということなのだろう。

だが、重要なのはそんなことではない。この記者が倭の国の風俗、とりわけ鮮やかな刺青の美しさに触れて、中国の神話時代の記憶を新たにしているということだ。この刺青に驚いたのは古代の中国人ばかりではなく、大航海時代の西洋人もまた南太平洋諸島に住む民の浅黒い肌に彫り込まれたみごとな刺青に驚嘆し、おびただしい細密画を残している。

そしてなによりも、四方を海に囲まれた列島に住む日本人が、かつて——農業の民であるよりも前には——もっぱら漁労採集生活を営んでいたことを、この倭人伝の一節は鮮やかにわれわれ自身に思い出させてくれる。

邪馬台国の位置に関する論争は、魏志倭人伝の解釈をめぐる論争のように見えて、じつは日本という国の起源に関する論争なのだ。かつてわたしは次のように書いた。

 

ヨーロッパはかつてケルトの民が住むところだった。ローマがそこを襲う。ガリアの首領ウェルキンゲトリクスはカエサルに敗れ、ローマで処刑される。やがてローマは疲れる。そのローマをゴート諸族がゲルマン諸族が襲う。ケルトの民もゲルマンの民も文字を知らなかった。彼らはやがて自分たちの神話と聖書物語を融合させて、ヨーロッパの民となっていく。

わたしはときどき、ヨーロッパにとって古代地中海世界は目の上のたんこぶではないかと思うことがある。ヘレニズムとヘブライズム。ギリシア人とユダヤ人。いつまでたってもそれを越えることができないというコンプレックス。彼らは文化の起源としての古代地中海世界と彼らの存在の根源としてのケルト・ゲルマン世界にいつも切り裂かれている。音楽(ノスタルジー)はその亀裂から溢れだす。(パスカル・キニャール『音楽への憎しみ』解説、青土社、1997年)

 

九州もしくは九州北部の地は、かつて「海の道」と「絹の道」の交点に位置していた。「海の道」は命の道であり、「絹の道」は文明の道だ。われわれもまた文明・文化の起源としての大陸・半島世界と、みずからの存在の根源としての環太平洋世界に切り裂かれている。柳田国男が三河の半島の岸辺に流れ着いた椰子の実から直感したものは、そのことであっただろう。

白川静は『中国の神話』を次のように書き出している。

 

わが国の神話は多元的であり、複合的であるといわれている。それはさらに遡っていえば、わが国の民族と文化とが、多元的であり、複合的な成立をもつものであることを意味していよう。神話はいうまでもなく、その民族と文化の成立する過程において生まれ、その発展の段階に応じて展開し、何らかの統一的意志によって体系づけられるものである。はじめから統一的な民族、統一的な文化というものはなかった。統一はその最終的な段階において、ある求心的な目的に対して、その神話的表象を通じて成就されるのである。わが国の場合、それは国家成立の段階においてなされて。わが国の神話に、国家神話としての政治的性格が著しいのはそのためである。

 

これに続けて、日本の神話は「時間的な結びつきで成立する組織様態」(a)に特徴があり、ギリシア、ゲルマン、ケルトなどの西欧諸族の神話では「横様に結びつく組織様態」(b)、すなわち同時現象的なものを特徴としていると述べている。とくにギリシアの神話にはわが国の神話のような求心的な複合の関係がない、と。中国の神話はこのどちらにも属せず、「それぞれ孤立的、非体系的な群」をなす第三の神話様態(c)を特徴としている。中国はときに「神話なき国」と呼ばれたりすることがあるが、神話がないように見えるのは、このCの神話様態もまた複雑な構造と時間を内に秘めているからだ。もう少し引用を続けてみよう。

 

殷にかわった周は、もと西方の国である。それは古く、夏といわれる地であった。中国の古代文化は、東方の夷と西方の夏の対立としてとらえることができる。周が都を東の洛陽に遷した春秋期以後には、秦がその地を占めた。この周、秦は、西域とすでに交通をもっていたと思われる。西域の遊牧者、あるいは騎馬族によって、遠い西方の文化が次第にもたらされていた。東アジアの文化が不断に東海のわが国に波及していたように、その文化は草原と沙漠を越えて、中国に影響を与えた。こうして西方に対する神秘な想念が、やがて世王母説話を発展させた。神々の世界が、世王母の住むという崑崙を中心に展開される。古い山岳信仰を伝えるとされる『山海経』の神話は、この崑崙に集中されている。殷の神話がa的であるとすると、それはb的な平面的、同時的な世界である。

 

だが、強固な文字文化(漢字)を基礎とする中華の伝統はa的な世界にも、b的な世界にも自らを定めることはできなかった。殷の太陽神伝説も、夏の洪水神話も、たんなる古い帝王の説話として経典の形に取りこまれていく。「(C類型の)神話はこうして、経書のなかに隠されるのである」と白川静は言う。

少し遠回りしすぎているようだが、ようするに、どんな文明、どんな文化も一筋縄で語られるべきものではないということが言いたいだけだ。文明や文化、あるいは国に一つの起源だけを求めようとすることは、どんなに理と論を尽くそうと、それは短絡でしかなく、ある偏ったイデオロギーを粉飾しているにすぎない。

魏志倭人伝の世界に戻ろう。

 

その南に狗奴国あり、男子を王となす。その官に狗古智卑狗あり。女王に属せず。

 

「その南」というのは、邪馬台国の南という意味である。岩波文庫の編訳者橋本道博氏は、この狗奴国をクナ(国)と読み、「熊襲であろう」と比定し、クマソは球磨(Kuma)と阿蘇(Aso)のつづまったものだと自説を註で述べている。そして狗古智卑狗は菊池(久々智)彦のことではないかと推定している。たしかに、広大な阿蘇の西部には菊池という地名が今も残っている。もちろんこれは邪馬台国北九州説に拠らなければ成立しない論理である。

さて、問題はその北である。狗奴国の北は現在の佐賀、福岡にあたる。そこに二十一の国名が並んでいる。斯馬国、已百支国、伊邪国、都支国、弥奴国、好古都国、不呼国、姐奴国、対蘇国、蘇奴国、呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、為吾国、鬼奴国、邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国と続き、「これ女王の境界の尽くるところなり」という記述で締めくくられる。こんな面妖な国名を羅列しても読みにくくなるだけだろうが、なんらかの呼び名を採用すること自体がその仮説に与することになるので、あえてそのままにしておく。

橋本説によれば、狗奴国=熊襲は「女王に属さない」ところで、その北は「女王に属する」ところということになる。

だが、「女王に属する」国々の名前をよく見ると、対蘇国とか、蘇奴国とか、華奴蘇奴国とか、「蘇」のつく国名が三つも含まれている。これはたんに和音に漢字を当てただけのことなのか?

ひょっとすると、阿蘇山の北側は「女王に属する」ところだったのではあるまいか? 「男子を王となす」国はもっと南に下がるのではあるまいか?

どうやら、卑弥呼と阿蘇を無理やりにでも近づけたくなったらしい。

阿蘇山を初めて見て、火を噴く雄々しい山という先入観は消し飛んだ。世王母のような地母神の住む豊穣の山とでも言おうか。阿蘇のカルデラが描き出す曲線は、富士の絶妙に均整のとれた線でも、アルプスの剣呑な稜線でもない。そこから草千里の広大な斜面がたおやかになだれおちていく。

よくもまあ、こんな土地と縁ができたものだと思う。熊本、博多、日田といえば、ちょうど邪馬台国とその境界あたりをうろうろしていたことになる。個人的には、頭のなかに畿内説が残る余地はまったくなくなった。

魏志倭人伝の読み方もすっかり変わってしまった。もはや史書ではなく、日本の起源について考えるための資料でもなく、空間的にも時間的にもはるか彼方の世界に思いをはせ、想像力の翼を羽ばたかせてくれる書物となった。

こんな機会を与えてくれた伽鹿舎のスタッフと、歓迎してくれた各地の人々に深く感謝したい。

今度熊本に行ったら、ぜひ有明と不知火の海を見てみたい。

*26 ニュートリノの雨

学生時代——ああ、もう四十年以上も昔のことだ——、四畳半のアパートに住んでいた頃のこと。いつも夜更かしばかりして、目が覚めるのは昼近くだった。雨が降ろうが降るまいが、寝るときは雨戸を閉めた。カーテンだけでは外光がまぶしくて目が覚めてしまうから。

ある日、とてつもない大音響に驚いて目を覚ますと部屋のなかは真っ暗だった。まだ夜なのか? それにしてもこの音はなんだ?

雨だった。しかも、かなりの大雨、昼でもあたりが暗くなるほどの大雨が降っている。トタン屋根を打つ音はまるで雹のよう、ドラムの連打のようでもあり、地滑り、雪崩のようでもあり、それでいて雨の一滴一滴が粒立ち、際立っていた。

一粒一粒の雨音が聞き分けられるような気がした。文字どおり無数の、部屋の屋根に叩きつける雨粒から、はるか彼方の、人間の耳にはとうてい届きそうもない微細な雨音の振動まで、たとえ地面に衝突して他の雨滴と溶け合い、道を流れ、下水道を流れ、やがて川に、いつか海に合流することになろうとも、今、この瞬間に降る雨の、一滴一滴には固有の命があり、固有の音があり、固有の形状があるはずだ…。

古代ギリシアのソフィストみたいな詭弁を弄して、いたずらに時間を浪費し、気がつくと卒業しなければならない年になっていた。

いい大学生活だったと懐古することは今もできない。今も夢をみる。悪夢。試験が行われる教室がわからずに校舎をさまよっている。この試験が通らないと単位がもらえず、卒業ができない。何年も通った学校なのに、教室の番号がわからない。いったい自分はどこにいるのか…。

今年もノーベル賞の季節がやってきて、梶田隆章氏と大村智氏がそれぞれ物理学賞と生理学・医学賞を受賞した。梶田氏はニュートリノに質量があることを確認した功績が認められたという。師匠の小柴昌俊氏がその観測でノーベル賞を受賞したときと同じように、新聞やテレビにはニュートリノという言葉が踊った。

素粒子の一種。これだけでは何もわからない。素粒子そのものだって、ちゃんと説明しろと言われれば言葉に詰まる。

古代ギリシアにおいては、物質の究極の粒子をアトムと呼んだ。われわれはそれを原子と呼び習わしてきた。やがてその究極の粒子である原子には構造があることがわかった。原子核の周囲を、素粒子である電子が回っている。原子核は陽子と中性子からなり、それを束ねる力を媒介しているのが中間子、湯川秀樹が理論的にその存在を予言し、その功績が称えられて日本で最初のノーベル賞受賞者となった。その中間子はクォークと反クォークから構成され、云々……。

切りがない。言葉を並べているだけで、わかったという実感はどこにもない。なぜならば、素粒子は物質として実体のあるものなのか、それとも物質の究極の構造を説明するための物理学的(数学的)概念なのか、そのあたりが素人にはまったく手の届かない専門領域に属しているからだ。

梶田氏は素粒子の一種であるニュートリノに質量があることを証明したという。質量があるということは重さがあるということであり、物質であるということだ。しかし、それが物質であるならば、そこにも構造があるだろう。構造のないただの点(位置)であるならば、質量は存在しないだろうから。では、その構造を支えるさらに微細な粒子の存在を予想しなければならないのか。

やっぱり切りがない。

宇宙空間を飛来している宇宙線(放射線)が地球の大気に衝突すると、中性子がβ崩壊を起こして、ニュートリノを発生させるのだという。このニュートリノはつねに雨のように地上に降りそそいでいて、すべての物質を貫通しているのだと、テレビはわかりやすく映像で——CGかなんかで——説明しようとする。

視覚化するといっけんわかりやすいが、さっぱりわからないのはそのままだ。理解したのではなく、そこで考えるのをやめてしまうからだ。

質量とは何か? 物質とは何か? という言葉による素朴な問いかけが無効になったとは思わないし、哲学が時代遅れになったとも思わない。超絶技巧の演奏家に拍手喝采を送り、超人的な運動能力を誇るアスリートに興奮するのと同じように、何が何だかよくわからないけれど先端科学の業績をうっとりと眺めたりするのはまっぴらごめんだ。シンフォニーのコンサートにもオリンピックにもノーベル賞にも興味がなくなってしまったのは、年をとったせいだろうか。

そうは言いつつも、前回(?)物理学でノーベル賞をとった南部陽一郎氏の論文に食らいついてみたりはするのだ。その受賞理由は「対称性の自発的破れ」という理論。それを聞いたとき、すぐにエピクロスの、いわゆるclinamen(原子の運動方向に生じる偏り、逸脱。エピクロスの哲学においては原子の衝突と結合を導く自然の生成原理)を思い出した。師のデモクリトスの機械的原子論(自然は原子と空虚からなり、必然が支配している)を受け継ぎながら、自然の多様性は原子の自由意志=クリナメンによるとした。南部陽一郎はノーベル賞の授賞式には出席することができず、その代わりにシカゴ大学で受賞講演を行っている(2008年12月10日)。

「対称性の自発的破れは、いわば要素のあいだの群集心理からおこります。広場に大勢の人が集まったとします。どちらの向きにも特に面白いものはありません。一人ひとりは、勝手な向きを向いてよいのです。しかし、一人がある特別な向きに何かを見つけ、他の人々はそれぞれ隣の人の向いているほうに向くということも、起こりうるわけです。そんな場合には、特別な向きはないとは言えません。好奇心に充ちた人がいて、頭の向きを少し変えると、隣の人もつられて頭を回し、これは波となって広がるでしょう。物理では、あらゆる向きが平等であることを対称性と呼びます。実際の世界は対称性が自発的に破れた状態にあります。好奇心の波はNG波(南部—Goldstone波)とよばれます。原子よりももっと小さい世界でおこるときにはNG粒子とも呼ばれます」(南部陽一郎『素粒子論の発展』岩波書店、2009年)

いかなる理論であれ、それは理論である以上、あるいは人間の理論である以上、世界を静止させる。おそらく人間の理論は世界という流動状態を流動状態のままに把握することはできないのだ。カメラというテクノロジーが、ありのままの状態を捉えようとして、一瞬を切り取り、固定することしかできないように。南部陽一郎は次のようにも言う。

「素粒子とは物質を構成する究極の単位だと一般には考えられている。それが何であるかを解明するのは物理学の根本問題の一つであるが、物理学の歴史をたどってみると、本当に究極的な単位が存在するかどうか疑わしくなる。ギリシア時代の哲学的思索はさておいて、〔近代の〕科学的な意味での最初の素粒子は、19世紀の化学、物理学の発展に伴って確立された原子であろう。しかし、原子はやがて電子と原子核とに分解され、更に原子核は陽子と中性子の集合であるということになる。従って素粒子とは相対的な概念で、一つの段階で素粒子と考えられるものも、このような進歩のためには、しかし、ますます大きなエネルギーが必要である。粒子の構造をさぐる一般的方法は、ほかの粒子をこれにぶつけることだが、エネルギーが大きくなれば、不確定性原理によって波長が小さくなり、分解能が上がるばかりでなく、結合エネルギーの大きな複合体をも破壊して構成分子を取り出すことができる。実際、素粒子物理学発展の歴史が加速器エネルギーの増大と平行していることは第1表の示す如くである」(同上、「素粒子」日本物理学会誌1977年)

この引用の最後で「第1表」と言われているものは、「素粒子物理学の各段階」と題された表を指す(対象としている粒子の大きさとその実験方法とエネルギーの大きさ、その年代を表にしたもの)。

科学の発展が観測装置、実験装置の精緻化と巨大化に比例していることは、すでにガストン・バシュラールが、学位論文の「近似的認識試論」や「科学的精神の形成」で指摘しているところだ。観測機器は人間の身体の延長なのだ。ガリレオの地動説は望遠鏡の発明と不可分の関係にあるし、電子顕微鏡、X線装置の開発が現代科学の進展と切っては切れない関係にあることは言うに及ばず、現在の天文学の飛躍的発展は1990年に打ち上げに成功したハッブル宇宙望遠鏡の存在なしには考えられない…。

このことは核兵器、核エネルギー、地球温暖化、人口増大といった地球規模の問題とも無縁ではないはずだ。

オリンピックでは世界中のアスリートたちが一堂に会して、その速度、その力、その技を競い合う。肉体は有限なのに、記録は日々更新される。しかし、人類が100メートルを5秒で走ることはありえないだろう(根拠はないけれど、9秒を切ることもないだろう)。いつか記録の破られない日が来たら、スタジアムは空っぽになるのだろうか。オリンピックは冴えないイベントになって、廃止されるのだろうか。

いや、と思う。計器、計測器だけは無限に加速し、どこまでも緻密になりうることは、科学の分野の計測器が証明していることだから。

だとしたら、つまり、肉体がこれ以上の修練も鍛錬にも耐えられなくなっているのに、計器だけは無限に細かい差異を刻むことができるとしたら、それは喜劇であるのか、悲劇であるのか、絶望であるのか。科学と哲学に関して、マルクスは次のように書いた。

「デモクリトスは〔客観的な知を追い求めて〕世界のあらゆる地域を彷徨する。これとは対照的にエピクロスがアテナイの〈園〉を離れたのは、イオニアを二度か三度訪れたときだけであり、しかも訪問の目的は研究ではなく、友人を訪れることだった。そして最後にデモクリトスは、知に絶望してみずから盲になるが、エピクロスは死のときが近づいてきたことを感じると温かい風呂につかり、生の葡萄酒を所望し、友人たちに哲学に忠実であれと助言するのである」(カール・マルクス「デモクリトスの自然哲学とエピクロスの自然哲学の差異」中山元訳、筑摩書房〈マルクス・コレクションI〉」

*25 『幸福はどこにある』再版に際して

 

翻訳業に手を染めるようになってから30年ほどの時間がたってしまいましたが、再版の声がかかる機会はそう多くありません。フランス文学にかぎっていえば、名著、名作の誉れは高いのに絶版になったままの翻訳書は星の数ほどあります。

そういう逆風(?)のなかで、今回この作品が再版されることになったのは快挙であります。この快挙を仕掛けたのは、ほかならぬ伽鹿舎を主宰する加地葉さんです。

そもそも熊本の地に、九州限定配本を旨とする伽鹿舎という出版社を立ち上げ、「片隅」という文芸誌の発刊にこぎつけたこと自体が、奇跡とまでは言わないものの、やはり快挙と申し上げるべきでしょう。

地方創成、地方の自立が叫ばれる昨今ですが、これが中央からの声に呼応しているだけなら、なんの意味もないどころか、本意に悖ることにもなります。もとより政治のムーブメントなど儚いものです。一介の翻訳者であるわたしに、もし誇りうるところがあるとすれば、信頼すべきものは個人の力であると頑なに信じ、どこにも属さず、ひとりで翻訳と向かい合ってきたところだけです。

その点、加地葉さんはさすが火の国の女、その突進力たるや、まさに天晴れ。ひとりで前に突き進もうとする若い女性がどんどん登場してくれば日本の未来は明るい!

こういう生きのいい出版社から刊行される最初の単行本として、拙訳書が選ばれたことは、翻訳者冥利につきます。

わたしはかねてから、書籍は編集者の作品であると思ってきました。書き手の作品は原稿用紙まで、せいぜい初校のゲラまで、あとは編集者におまかせする。だから、タイトルにも装幀にも口を出したことはありません。そして本はみごとなできばえとなりました。田中千智さんの作品を掲げた表紙も、本文のレイアウトもすばらしい。

今回、著者のフランソワ・ルロールさんは、再版への序文を寄せてくださいました。これもまた加地葉さんが仕掛けた「快挙」のひとつです。この序文を読めば、著者が本書にこめた思いがよくわかるでしょう。

幸福とは何か? それはフランス文学の主題そのものです。むしろ人生の主題そのものと言ったほうがいいかもしれない。モンテーニュ、デカルト、パスカル、スタンダール、ミシュレ、バシュラール、アラン、カミュ、メルロ=ポンティ、わたしの愛読してきた作家たちは例外なく、そして晩年になればなるほど、この「幸福」という謎に直面し、実人生と書くことの双方でそれを追い求めた人たちでした。翻訳家としてのわたしのライフワークとなったパスカル・キニャールもそうです。フランソワ・ルロールがこの系譜に連なる作家であることはまちがいありません。ただし、こんなに平易なフランス語で書いた人はいません。そして、平易なフランス語ほど翻訳はむずかしい。なぜなら、原文から立ちのぼる幸福の気配をとらえなければならないからです。

フランス語にはBon vivant(ボン・ヴィヴァン)という言葉があります。辞書を引けば、楽天家、享楽主義者、美食家などという訳語が並んでいます。でも、どれも少しずれている。要は人生を愛する人、人生を楽しむ人ということなのですが、みなさん、もうおわかりでしょう、これがじつにむずかしい。あとは本書をお読みください。

最後に北の果てなる凍土の国から火の国のみなさんへエールを送ります。

2015年師走

 

*熊本に本拠を置く出版社「伽鹿舎」から拙訳書が再刊されるにあたって、熊本市のカフェ「Cafe ファンタイム」で20115年12月27日に催される発売記念会に寄せて書いた挨拶文。

*24 ライオン

ライオンの夢を見たのである。
 筋のようなものは何もない。ただふつうに寝ていたら、ソファの上にライオンが寝ていたのである。
 私はいつも床に布団を敷いて寝ている。ベッドのかわりに小ぶりのソファが置いてあって、そこはいつも猫に占領されている。
 その猫がライオンになっていたのである。ライオンであるから、途方もなくでかい。ミニチュアのライオンでも、仔ライオンでもなく、あの百獣の王、鬣ふさふさの立派な雄ライオンがソファの上で寝ていたのである。
 こんなふうに書くと、首を傾げる人もいるだろう。あんなに大きな動物がソファに収まるはずないではないか? へたをすると寝室をふさいでしまうのでは、と。
 たしかに。しかし、巨大だった。巨大なまま、小さめのソファの上に居すわっていた。
 もちろん、どう考えたって遠近法が狂っているのだ。夢だから仕方がないじゃないか・・・・・・。それでは身も蓋もない。この拙文はここで終わってしまう。
 そもそもどうしてこんな夢を見てしまったのか?
 どこの猫もそうだろうが、夏であれば家のなかでいちばん涼しいところ、冬であればいちばん暖かいところに居すわって動こうとしないことがある。よくもそんなに寝ていられるものだと思うほど、ぐっすりひたすら、ときには半日ほどもずっと寝ていることさえある。こんなに安らかに眠られると、起こすのが忍びなくなる。そんなふうに遠慮しているうちに、主人の寝室のソファが飼い猫のベッドと化してしまったのだ。主人のほうが遠慮して端のほうにちょこんと腰かけ、テレビを見ている。猫を追い出し、堂々と足を投げ出して横になればいいじゃないかと不思議がる人は、猫を飼ったことのない人である。
 そういう遠慮が積もり積もって膨れあがり、ライオンになった、と考えてみたらどうだろう。つまり遠慮の塊がライオンの姿になったと考えるのである。少なくとも猫派の人なら賛同していただけるのではないだろうか。
 では次に遠近法の狂いについてはどうか? 夢のなかでは、なぜソファの上で横になっているライオンが原寸大に見えたのか? ここで重大な(?)問題が生じる。なぜならば、私は今現在、夢を見ているのではなく、一ヵ月ほど前に見た夢を思い出しているからである。こんなこと書いたって文章にならんのじゃないかと思って放置していたのだが、じつは内心ずっと気になっていたのだろう。ブログのアドレスを新しくした(keitakahashi-tr.com)記念に(?)何か書こうと気張ったところ、ライオンの夢を思い出したのである。
 さて、この夢の記憶は正しいか? そもそも記憶に正しいとか、正しくないとか、そういうことがありうるだろうか。たしかに記憶違いというのはある。林檎を五個もらったのに、三個だと記憶しているような場合。しかし、夢は自分の心のなか、あるいは頭のなか、あるいは意識のなかで視覚のかたちをとって体験する事柄である。その夢自体——人生と同じく、見るそばから消えていくのだから——検証不可能である以上、その記憶もまた検証不可能であると言わざるをえない。検証とは第三者を介在させることである。夢のなかにも、記憶のなかにも第三者は存在しない。
 とまあ、この問題を追及していくと、まるで観念論哲学の論証みたいになって延々と終わらない。
 でまあ、現象学の判断停止ではないけれど、とりあえずこの問題は棚上げにして(括弧でくくって)、ここでは一ヵ月前に見た夢が記憶のなかで正しく保存されていると仮定して、話を進めよう。
 まずは見た夢をできるだけ正確に再現してみる。それほど難しいことではない。こんなに単純な夢はないと言えるほど単純なのだから。
 私は床に布団を敷いて寝ていた。ふと目が覚めて、布団に平行しているソファを見上げると、なんとライオンの巨大な顔がそこにあるではないか。猫と同じく前足の上に下顎を乗せて寝ているのである。うわー、やばい、こんなものを起こしてしまったら、ひとたまりもない。さっさと目を覚まして、夢から逃げ出さないと食われて死んでしまうぞ! というわけで本当に目が覚めたのである。もちろん、目が覚めればライオンなどいない。わが家の猫が、常夜灯の薄暗い明かりのなか、同じポーズですやすや寝ているだけである。
 自分の寝室にライオンが出現することなどありえないから、夢を見ながら夢を見ていることを私は知っていた。よくあることだ。還暦を過ぎるまで生きてくれば、悪夢に襲われ、そこから逃れられずに足掻くなどということはまずない。悪夢は今でも見るけれど、怖くなったら目が覚める。目を覚ませと、自分で号令をかける。
 夢のなかのライオンが実物大として記憶されているのは、おそらく、夢のなかで見上げたライオンの顔があまりに巨大で、あまりにリアルで恐ろしかったからなのだろう。
 猫に対する遠慮の塊がライオンに変身した、という理屈づけは、それなりに説得力というか、面白みはあるが、本当はそれよりもっと切迫した何かがあって、それがライオンの姿になったのかもしれない。
 たとえば、先月の半ば、私が翻訳した『エディに別れを告げて』の作者エドゥアール・ルイが来日し、対談やらトークショーの司会をやらされるはめになった。こんなことはぶっつけ本番でできることではない。作家本人や対談相手に何度もメールを書いて、段取りする必要があった。慣れないことをやるストレスやらプレッシャーは、慣れていないゆえにどう対処していいかわからない。その大きなストレスがライオンの形になった、とか。
 ま、それにも一理あるだろう。
 でも、ひょっとして、わが家の猫がソファでライオンになった夢を見て、その脳波が私のレム睡眠の脳波と混線したと考えたらどうだろう。
 荒唐無稽か? でも、人の心のなかには荒唐無稽を愛する部分があって、そこではもったいぶった理路は排斥されてしまうのだ。
 そう、『荘子』に出てくる胡蝶の夢、これを思い出すと、いつもうっとりしてしまう。
 むかし、荘周、夢に胡蝶となる。楽しく飛び回る蝶となり、自分が荘周であるとは思わなかった。しかし、ふと目が覚めれば、まぎれもなく荘周その人がいるだけである。いったい荘周が蝶になった夢を見たのだろうか、それとも蝶が今、荘周になった夢を見ているのだろうか。

*23 鳴かない猫

どこのうちの猫も、飼い主が声をかければ返事をするのだろうか。ミャーとかニャーとか。そんなことを疑問に思うのは、たぶんうちの猫が、最初のうちは鳴かなかったからだろうと思う。

うちの猫は捨て猫だった。近所に篤志家の女性がいて––今時、篤志家などという言葉を使う人はいないかもしれないが、ボランティアという言葉が嫌いなのである––、捨てられた子猫を拾ってきては、その子が元気になるまで、あるいは病気が治るまで自分の家で育てたのち、里親を探すというまことに奇特なことを続けていた(過去形で書くのは、その頃は東京に住んでいたから)。

死んだ女房がその篤志家と親しかったので、子猫をもらうことになった。二匹の子猫が小さな段ボールの中に入っていた。兄弟で捨てられたのだという。二匹まとめて引き取るか、兄か弟、どちらかを選ぶか、選択を迫られた。妻にしろ私にしろ、それまで猫を飼ったことがなかったので、いっぺんに二匹を飼うのは少し負担だった。では、兄と弟、どちらを選ぶか。兄は活発で、健康そうだった。弟のほうは痩せていて、元気がなかった。兄はパンダのような白黒模様で、弟は背中が部分的に縞になっている。兄は活発だが、面構えといい、斑の模様といい、どうもガサツな感じがする。弟のほうはやせ細って神経質そうだが、顔立ちが引き締まっていて、気品があった。洋猫(シャム系)との混血らしい。

そっちのほうをもらってきた。いかにも華奢で弱々しいので、妻がせっせと面倒をみた。その甲斐あってか、見る見る元気になっていった。

数日して(あるいは一か月ほど経っていたかもしれない)、妻が「この子、声が出ないんじゃないかしら?」と言い出した。

確かに。家族の誰もが、猫の鳴き声を聞いたことがなかった。で、近くの動物病院へ行って、きいてみた。「鳴けない猫っていますか?」

鳴き声を出すのが遅い猫はいるという。うちの猫の場合は、生後間もなく捨てられたせいで、母親に乳をねだる機会がなかったのではないかと獣医師は推測した。なるほど。

それなりに納得したものの、では、いつ鳴くか、それが家族の気がかりになった。
しかし、いつ鳴いたのか、正確には思い出せない。最初の鳴き声を確認した「第一発見者」が誰だったのかも、今となっては不明である。

当時行き付けの動物病院から渡された「健康手帳」––まだ手元に残っている––には、「H15.7.4 1.3kg ワクチン」と記されている。これが最初の検診だろう。そう、今から12年前の夏、やせっぽちの子猫はわが家に引き取られ、シマと名付けられた。それから1年後の秋、妻は他界した。

鳴かなかった子猫は、今ではよく鳴く。時には自分の生命力を誇示するかのように、あるいは遠くにいる誰かを呼んでいるかのように、家じゅうに響き渡る朗々とした声で鳴くこともある。

さっき、ベランダに続くガラス戸を開けてやったら、ひとしきり黄色い落ち葉と戯れてから室内に戻り、ごろりと床に横たわった。いかにも満足そうだったので、「そうか、気持ちよかったか?」と声をかけたら、

ニャー、と答えた。

*22 川田絢音詩集

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(青土社1986年初版)

この人の詩集が思潮社の〈現代詩文庫〉に入ったことはけっこう前から知っていた(と思う)。

気になる詩人のひとりで、少なくとも『朝のカフェ』という詩集は新刊で買った。奥付には1986年発行(青土社)とある。

80年代の終わりころまでは、よく詩集を買っていた。目立つところでは『ウンガレッティ全詩集』(河島英昭訳、筑摩書房、1988年)、『カヴァフィス全詩集』(中井久夫訳、みすず書房、1988年)、二つとも本棚の特権的なところで眠っている。

人と待ち合わせるのに、神田神保町の東京堂で時間を潰していたら、〈現代詩文庫〉版の川田絢音詩集が目に飛び込んできて、迷わず買った。

こういう気分になるときとならないときがある。こういう気分になるときは、たぶん何かがよい方に向かっているときだと勝手に思っている。

この十年は、あまりに人が死にすぎた。

詩集は忌むべきもののひとつだった。

川田絢音の詩集を読んでいて、不思議に思うことがでてきた。

私はなぜ、この詩人がイタリアに住んでいることを知っているのか?

私が所有している唯一の詩集『朝のカフェ』には、そんな情報はいっさい記されていない。

詩集は忌むべきもの、とはいえ、本屋に行っても詩集の棚には近づかなかったというわけではないから、今は机の上に置いてある思潮社〈現代詩文庫〉の『川田絢音詩集』(1994年初刷)をどこかの本屋で立ち読みしてそれを知り、買わずに棚に戻したのだろうか?

いや、そのずっと前から、そのことを知っていたような気がする。
『朝のカフェ』をどうして買う気になったのか? 彼女がイタリアに住んでいることを知ったから? でも、この詩集にはそれを証拠立てる記述はない。詩のなかにイタリアの地名くらいは出てくるが、そんなもの、作者がそこに住んでいる証拠にはならない。

それは、ま、いいか。

ウンガレッティ、カヴァフィス、川田絢音には共通していることがある。南欧の光と影。

そして、今になってはたと気づかされるのだ。これらの詩人の詩のなかに、きっと自分はアルジェで初めて体験した地中海の光と影を無意識のうちに(便利な言葉だ)追い求めていたのだろうと。僕が二度目のアルジェリア滞在から帰ってきたのは、1984年のことだから。

東京堂で川田絢音の詩集を買ったのは——確定申告のために取ってあるレシートによれば——(2010年)6月7日の14:09pm。そして、青山ブックセンターで須賀敦子の『イタリアの詩人たち』を買ったのは、同日18:34pm(お、なんだか松本清張みたいになってきたぞ)。東京堂で時間を潰している時点では、その日のうちに青山ブックセンターにまで足を伸ばすつもりはなかったのだ。

久しぶりに川田絢音の詩を読んで、唖然としている。

須賀敦子の紡ぎ出す、20世紀イタリア詩の世界となんと共通していることか。

当たり前だと人は言うか?

イタリアに住んでいるからといって、イタリア人みたいな詩が書けると言うのか?

須賀敦子は言う。

 

おおよそ死ほど、イタリアの芸術で重要な位置を占めるテーマは他にないだろう。この土地において、死は、単なる観念的な生の終点でもなければ、痩せ細った生の衰弱などではさらにない。生の歓喜に満ち溢れれば溢れるほど、イタリア人は、自分たちの足につけられた重い枷——死——を深く意識する。(『イタリアの詩人たち』)

川田絢音はこう記す。

 

青い空が素速いので

鏡ににじむ生あたたかい血を舐めなければならない。(詩集『空の時間』)

 

だが、これはあくまでもイタリアへ旅立つ前の詩の断片だ。

イタリアへ行くとどうなるか?

 

隣に住む老人の咳がきこえる
 男は眠っていて
 外を 重いトラックが何台も通る
 夜明け前に
 男が工場へ行く
 オートバイの音が消えて
 わたしは街の方へ歩いていく
 ピサ通りは くらい
 じぶんのような塊りがころがっているのではないか
 と 振りかえる。(「ピサ通り」(詩集『ピサ通り』1976年)

 

観念的な青空は姿を消す。だが、しっかりとした距離感のある——地に足をつけた——夜の街が息づいている。これはもうパヴェーゼだ。カミュの『異邦人』のにおいだってする。

ウンベルト・サバの一節を引いてみようか。

 

一日で、いちばんいいのは

宵の時間じゃないか? いいのに

それほどは愛されてない時間。聖なる

休息の、ほんの少し前に来る時間だ。

仕事はまだ熱気にあふれ、

通りには人の波がうなっている。

四角い家並みのうえには、

うっすらと月が、穏やかな

空に、やっと見えるか、見えないか。(「われわれの時間」——『ウンベルト・サバ詩集』須賀敦子訳、みすず書房、 1998年)

 

連想を急ぎすぎているかもしれない。

でも、たしかなことは、川田絢音がイタリアに旅立ったのは1969年のこと、須賀敦子がイタリアから日本に帰ってきたのは、1971年だということ。

この二人の詩人——須賀敦子を詩人と呼んでなんの不都合があるか——はなんという時代の裂け目にすれ違っていることだろう。

川田絢音はいまもイタリアに住んでいるのだろうか。彼女は1940年生まれ(旧満州のチチハル)だから、もう70歳を迎えるか、なっているかだ。でも、『朝のカフェ』の帯の小さな写真でも、現代詩文庫の裏表紙の写真でも、彼女は永遠に少女のままだ。

作家にとって、作品のなかで成熟したり老いたりするということはどういうことなのか、ふと考えてみたりした。

(2010年6月14日に公開した文章に少し手を入れた)

*20 診察室

どうですか、調子は?

ええ、まぁ・・・・・・。

まぁ、というのは、芳しくない・・・・・・?

いや、まぁ、その、芳しくないというほどのことでもないんですが・・・・・・。

ま、しかし、本調子ではない、と?

ま、そういうことになりますかね。

具体的には?

そうすね、なんというか、睡眠がどうも・・・・・・。

よく眠れない?

ええ、ま、一言でいえば・・・・・・。

寝付きが悪い?

いや、寝付きはいいんですよ。

早く目が覚めてしまう?

朝早くならいいんですけどね、4時でも5時でも。

眠りが浅い?

そういうことになりますかね・・・・・・。

必ずしもそういうわけじゃない、と。

布団に入ったとたん、眠りに落ちるんですよ。たぶん、かなり深く。

布団に入るのは何時頃です?

だいたい12時頃ですかね。朝気持ちよく起きたいと思って・・・・・・。

ところが途中で目が覚めてしまう。

そう、そうなんです。

何時頃ですか?

1時とか、2時とか。

それはまた。

そうなんですよ。ぱっと寝付くんだけども、ぱっと目が覚める。時計を見ると1時だったり、2時だったり。これってけっこう絶望的なんですよ。寝付きはいいのに1時間や2時間で目が覚めてしまうのなら、なんのために12時に床に入るようにしているのか。

そのあとはどうですか?

簡単には眠れません。なにしろ電灯のスイッチを入れたみたいに、ぱっちり目が覚めてしまうんですから。真夜中に、頭が白々と冴えてくるのはなんとも不気味というか、気持ち悪いというか。こんなに早くから仕事を始めるわけにはいかないし。

で、どうするんですか?

不眠と根比べです。布団に入ったまままんじりともしないで、天井を見ている。するとね、あ〜あ、おれの人生はろくでもない人生だったなぁとか思えてきて、そのうち腹が立ってきて、いっそのこと・・・・・・。

そりゃまずいですね。

そう、まずいです。絶望的です。

で、そのまま朝を迎えるわけですか?

いや、さすがに4時、5時になるとうとうとしてきて。といっても、どんどん日の出が早くなっているから、朝日が差しこんでくる。で、のそのそ起き出す。

眠剤を出しましょうかね。

でも、あれは癖になるんでしょう?

ええ、たしかに。上手に服用しないと依存性がある。

そういうのは嫌だな。そもそも薬はあんまり飲みたくない。血圧の薬だって、ほんとは飲みたくない。

でも、まだいいほうですよ。心臓病に、糖尿病、病気のデパートみたいな人だっていますから。

そういうのは遺伝ですか。

そういう場合もあるし、本人の不摂生ということもある。

依存性のあまりない眠剤というはないんですか?

いや、あるんですよ。正確には眠剤ではなく、抗鬱剤の部類に入りますが。

え、抗鬱剤?

ええ。

そんなもの飲んで眠れるんですか? かえって興奮して眠れなくなるんじゃないですか?

僕はそっちのほうの専門ではないんですが、心療内科みたいな分野には精神科の知識というか経験も必要になるもんだから、定期的に交換学習会みたいなものをやってるんですよ。

ほう。で?

まぁ、有り体にというか、わかりやすく言うと、薬の力を借りて、くよくよしないようにするわけです。すると寝付きがよくなる。

でも、わたしの場合、寝付きはいいんですよ。

不眠にもいろんなタイプがありますからね。途中覚醒で悩んでいるひともけっこういる。

わたしもその部類ですか?

そういうことになりますね。

で、その抗鬱剤には依存性はない?

ええ、基本的には。

ということは依存してしまう人もいる?

何ごとにつけ、依存性の強いタイプの人もいますから。

なるほど。おれはどっちのタイプなのかな・・・・・・。

ま、そんなに心配することはないですよ。依存性がないというのは、薬の化学的成分からして、ということですから。服用者の性格の問題じゃないんですよ。

う〜ん、なるほど。

ま、ためしに飲んでみたらいいじゃないですか。効かないようならまた別の方法考えればいいわけだから。

いや、効き過ぎるとどうなんだろう、と。

基本的に依存性はないわけだから、眠りのリズムが戻ってきたと思ったらやめればいいんですよ。

ああ、なるほどね。

ためしに1錠出しておきましょうか。

ええ、はい。

ただ、1錠だとあんまり効かないことが多いんですけどね。すると服用する期間が長くなる。

そういうのはいやだな。2錠にしようかな。

では、そうしましょう。寝る直前に飲んで下さい。ときに寝酒は飲みますか?

ほぼ、毎日。

あ、できればそれやめてください。薬といっしょにアルコールを摂取すると効果が出ませんから。

え〜え、酒飲めなくなるのか。

適度な晩酌はいいですよ。寝酒はやめてと言ってるんです。

なんか絶望的だなぁ。

真夜中の絶望とどっちがいいですか?

*19 高倉健

夢はどこから始まっているのかよくわからない。終わりもはっきりしないが、たいていは目が覚めたときだろう。

とにかく、高倉健が夢のなかに侵入してきたのである。気がつくと高倉健が目の前にいた。もちろん同姓同名の知人なんかではない。今年他界した映画俳優の高倉健、その人が夢に登場してきたのである。寒いところがよく似合う俳優と言われた人だから、その縁かもしれないが、夢には北海道らしい風景などどこにも見当たらず、場面はひたすら室内で終始する。四畳半か六畳くらいの狭い、板張りの部屋である。窓もない。

筋らしい筋もない。物語の片鱗もない。ひたすら健さんがしゃべっているのである。あの無口な健さんが、である。奇妙なことに子供がひとりいる。小学校の低学年ほどの子。私とその子は座卓の向こう側にいる健さんの話を黙って聞いている。話の内容は、まったくもって取り留めがない。だからここに書き留めることもできない。

健さん、じつは酔っぱらっているのである。あの飲めない健さんが、コーヒーしか飲まない健さんが、である。聞こし召している。だから呂律がよく回らない。気の毒である。断っておくが私が彼を夢に呼んだわけではないし、無理やり酒を飲ませたわけでもない。

で、よせばいいのに「今日はずいぶん調子がいいんですね」とか口をはさんでしまった。

すると健さん、はたとわれに返ったのか、すねたようにして、部屋の隅の別のテーブルに移ってしまった。

私は小声で子供に耳打ちする。「健さんって、ほんとはああいう人なんだね。映画やテレビで見るときとはぜんぜん違うね」

子供はうなずく。健さん、落ち着かなさそうである。もじもじしている。するといたたまれなくなったのか、また、こちらのテーブルに寄ってきて、しきりにしゃべりかけてくる。

今度はもっと呂律が回らない。何を言っているのかまったくわからない。よく見ると、どこで食べたのか饅頭のような餃子のようなものが口いっぱいに詰まっている。これじゃまともに声を出せるわけがない。

「健さん、口にものを入れたまましゃべるもんじゃないですよ」と私が言うと、健さん、気色ばんで言い返す。

「おまえ、どうしてそんな堅苦しいことを言うんだ」

夢はそのあたりで切れた。場面はなおも続くようであったが、覚めてしまった夢の続きを見るわけにはいかない(そういうことができると豪語する人もいるけれど)。

釈然としない。何もかも。どうしてこんな夢を見てしまったのか。どうして高倉健なのか。どうして子供がいるのか。どうして窓のない部屋なのか。夢だから仕方ないだろうと言われれば、それまでだが。

夢を合理的に判断することには嘘くささがつきまとう。フロイトの『夢判断』は何度手に取っても読み通すことができなかった。

夢は一回性のものである(繰り返しのパターンはあるかもしれないが)。人生と同じように。

私たちは生まれた場所と生まれた時間、時代を選べるわけではない。人との出会いも選べるわけではない。雨のような偶然がひらすら降りつづいている。

偶然というのも人の言葉である。必然というのも人の言葉である。

高倉健が死んで、テレビでは彼の仕事や人柄を偲ぶ回想番組がしばらく続いた。そのなかで印象に残った場面がある。小学生が高倉健に質問するのである。

「どうしたら健さんみたいにカッコよくなれるんですか?」

すると高倉健は二、三秒真顔で考え、言葉をひとつひとつ選ぶようにしてこう答えた。

「きみはこれからたくさんの人に出会う。人との出会いを大切にしなさい。人との出会いがきみをつくってくれるのだから」

これほどのインテリジェンスにはめったにお目にかかれない。インテリと称する人種にはほとんど皆無である。

*18 贈与

なにか異様なものが喉につかえていて、ほとんど苦しい感じになっている。

机の端にはM・モースの『贈与論』とB・マリノフスキの『西太平洋の遠洋航海者』が置いてある。

思い出すのは妻の葬儀にまつわることである。葬儀は自宅で、と言い残して妻はこの世を去った。しかし、自宅といっても集合住宅である。いくら限られた親戚知人だけの小さな葬儀といってもかなり無理がある。棺の出し入れさえ難儀した。

九月はじめのその日、天気は大荒れだった。雷雲から稲光が落ち、神鳴りが轟いた。棺を持つ人はずぶ濡れになった。

葬式など、出したくなかった。誰も家に呼びたくなかった。しばらくひとりでいたかった。先に逝った女房と向き合っていたかった。しかし、遺体を腐らせるわけにはいかない。考え得るかぎり小さな葬儀を出すことにした。それが妻の願いでもあったから。

それでもなすべきことはたくさんあった。まずは葬儀屋に電話した。営業がやってきた。高い。葬式ってこんなに金がかかるものなのか。あきれ果てて、別の葬儀屋を呼んだ。まあまあ妥当な見積もりだったので、そこに頼むことにした。

葬儀の段取りから、その後の法要のすべてを通じて動いていたのは金だった。通帳の預金残高を確認し、香典の総額を計算し、香典返しを何にするか娘と相談し・・・・・・。

そもそも、香典とは何のためにあるのか。悲しみに沈み、喪に服する者への慰めのためなら、なぜそれにお返しなど存在するのか。いつから始まった習慣なのか。儒教的なもの? それならば西欧にはない習慣なのか?

そもそも、なぜ自分はしたくもないことをしているのか。そう、問いつめていくとき、わたしは「社会」という大きな岩盤に突き当たっているのを感じる。

人はなぜしたくもない「戦争」をするのか? 先の戦争で、軍人も政治家も知識人も市民も庶民も含めて、「戦争」がしたくて賛成し、関与した人ははたしていたか。あれだけの軍備を持っていれば、軍人はむずむずしていただろう、「戦争」をしたくてしたくてたまらなかっただろう、とは想像できる。しかし、大義名分はそうはならない。「戦争」をしたいからする、では通らない。日本にはない資源を大陸に求めることは死活問題である。アジアを列強の歯牙から解放しなければならない。日本がアジアの盟主になることが世界の恒久平和を開く道である。八紘一宇。大東亜共栄圏。

したくもない葬式をあげることと、したくもない「戦争」をすることには通じるものがある。頭のなかで短絡させてみると火花が散る。

どちらも大きな金がいっぺんに動く。個人の資金と国家の資金のレベルの差こそあれ。

人がいちばんしたくないことは、命を失うことである。しかし、「戦争」では自分より大きなものに人は自分の命を捧げる。「自分より大きなもの」を神と呼ぶか、国家と呼ぶかはともかく、これは割の合う「交換」であるか? 民俗学者あるいは文化人類学者、経済学者や社会学者たちは「互酬」という言葉を使う。互酬のなかの一部として「等価交換」もあるという説明をする。

ここに「犠牲」という言葉を持ってきほうが、たぶん、わかりやすくなる。社会は個々人の奉仕、犠牲のうえに成り立っている。そこに「相互的報酬」があると社会学者は説明するだろう。

しかし、そもそも、社会とは理不尽なもの、なのではないか? 人間を是として考え、その人間が共同で営む社会を是と考える。いわゆる性善説と呼ばれるもの。しかし、人間の欲望を野放しにすると地球が危ないと人間みずから考えざるをえなくなった、この「現代」という時代にあって、そんな単純な「性善説」に与することのできる人がいたらお目にかかりたい。しかし、それと同じ程度に単純な「性悪説」によっては出口が見つからないことも、現代人は痛いほどよく知っている。

結論は出ない。しかし、考えることこそもっとも大切なことであると、わたしは考える。少なくとも、進歩だの進化だのをたやすく信じ、自惚れないために。長くなるが引用する。

 

ある首長の個人的な威信やその首長のクラン〔氏族〕の威信が、消費することに、そして自分が受け取った贈り物以上の物をきちんとお返しすることに、これほど結びついているところはほかにない。自分が受け取った以上の物をお返しすることによって、自分に返礼の義務を負わせた当の相手が、今度は逆に自分に対する返礼の義務を負うようになる。ここにあっては、消費と破壊は本当に際限がない。ある種のポトラッチ〔北米大陸北西部先住民の使うチヌーク語で「贈り物」を意味する〕の場合には、人はみずからがもてる物をすべて消費しなければならず、何も残しておいてはいけない。みんなが競い合ってもっとも富裕になろうとし、同時にまたもっとも激烈な消費家であろうとするのだ。すべての根底にあるのは敵対と競合の原理である。個人が儀礼結社やクランのなかで占める政治的な地位や、あらゆる類の位階は「財の戦争」によって獲得される。それは、地位や位階が実際の戦争や偶然や相続や姻戚関係・婚姻関係によって獲得されるのと同じことである。だが、あたかもそれが「富の合戦」であるかのように、すべてのことが構想されているのだ。子供たちの結婚相手にせよ、儀礼結社による席次にせよ、ポトラッチを取り交わし、ポトラッチでお返しをする、そうしたポトラッチのさなかで獲得されるのである。そしてまたそれらは、ポトラッチにおいて失われもする。それは、それらが実際の戦争や賭け事やレース競技や格闘競技において失われるのと同じである。いくつかの場合においては、与えること、お返しすることはもはやどうでもよく、破壊することが大事となる。お返しがもらえるのを期待していると思われたくないがために、である。ユーラカン(ロウソクウオ)の脂肪やクジラの脂肪を入れた箱を丸ごと全部燃やしたり、家屋を燃やしたり、何千枚にも登る毛布を燃やしたりするのである。一番大切にしている銅製品を破壊し、水に投げ捨てるのであるが、それも自分の競合相手を打ち負かし、競合相手を「ぺしゃんこにする」ためなのだ。(『贈与論』マルセル・モース著、森山工訳)

*17 UFOについて

2月の初めに叔父が亡くなった。

母と同年齢で享年86歳。めまいがするというので、世話をしていた娘——つまり、わが従妹——が念のために入院させたところ、食事をうまく嚥下できずに咳き込み、それが原因で亡くなったという。死因は肺炎ということになるが、病の苦しみはなかったらしいから、一昔前なら老衰で済んだだろう。わたしの父のきょうだいは7人いて、父は上から3番目の長男、そのすぐ下の妹が叔父のもとに嫁いだわけだが、すでに数年前に病を得て他界している。

身内だけの小さな通夜の席にいたのは、故人の実弟、長女と次女、その従兄弟(わたしを含めて3人)だけ。4つ年上の従兄はわが親族の菩提寺の住職なのだが、体調が思わしくなく、実質的に住職を務めている息子が読経した。

通夜振る舞いの寿司を食べたあと、従兄弟同士で飲みに出た。思い出話に花を咲かせるためには、年上の従兄が欠かせないのだが、その代わりに読経をつとめた息子が酒席にも同行することになった。自分がまだ生まれていないころの昔話はためになるという。殊勝なことだ。

この叔父叔母に、わたしたち従兄弟はとても可愛がってもらった。家に男の子がいなかったせいもあるだろう。昭和30年代の北海道、十勝は、市内ですら未舗装の道路がほとんどだった。そんな時代に、この叔父は自家用車(ライトバン)とオートバイを所有し、ライフルで狩りをし、豪快に海釣りを楽しんだりしていた。つまり、男子の憧れるものすべてを持っている人だった。

わたしたちが幼かったころ、叔父の一家は十勝平野の奥まったところにある集落に住んでいた。人口は数百といったところではなかったか。この集落の名は糠内(ぬかない)、もちろんアイヌ名に無理やり漢字を当てた地名だ。ここで従兄は空気銃を撃ったり、バイクを乗り回して遊んでいた。彼が撃ち落とした山鳥の剥製が今もわが家に飾ってある(お寺に動物の剥製を置くのはさすがにまずかったのだろう)。

わたしが泳ぎを覚えたのは、叔父の家の裏手を流れる浅い川だった。流れの淀んだところがあって、夏に裸になって水遊びをしているうちに自然に泳げるようになったのだ。石灰岩が剥き出しになっているからか、住民はそのあたりの岸辺を「磨き粉」と呼んでいた。畑を荒らす害獣である野兎を「駆除」すると称する「鉄砲撃ち」に連れて行ってもらったこともあった。ずっしりとした錘ついた釣り糸を遠くまで投げ込むと、浜にどっかりと座りこんで あたり を待つ叔父の傍らで戯れているうちに波に攫われそうになったこともあった。

そんなことを思いつくままに話しているうちに夜も更け、酔いも回ってきた。幼いころの思い出話を肴に酒を飲んでいれば、誰もが自然に少年時代に回帰していく。

同い年で学年はひとつ上の従兄がUFOの話をしだした。ああ、また始まったと思った。この人は酔うと必ずUFOだとか、魂の不滅だとか、そういう話をするのだ。多感な少年時代には、彼と会えば夢中になってそういう話題に興じたものだ。

だが、哲学だの思想だのに深入りしていくうちに、そういう主題からどんどん興味が失せていった。星空に向けられた人類の自意識の投影。それで打ち止めになってしまった。

おもしろいことに、われわれよりもはるかに若い——といっても40代にはなっているのだが——菩提寺の住職は徹底的な現実主義者なのだった。肉体は死んでも魂は生き残る、必ず生まれ変わるのだと主張する従兄に対して、「その生まれ変わった自分とはいつの時点での自分なのですか?」と鋭く反論すると、従兄はややうろたえつつ「死んだ時点での自分かなぁ」と答える。

「それじゃつまらないな。よぼよぼの爺さんがそのまま生まれ変わったって、何にもできないもの」

同感したついでに、わたしも口をはさむ。

「ところでUFOがはるか遠くの惑星からやってきた高度な知的生命体のものだとして、なんの目的があって地球にやってくるんだろう?それだけの知性と科学技術を持っているのなら、さっさと征服してしまえばいいじゃないか」

「いや、彼らは征服することが目的なんじゃない。ただ観察しに来ているんだよ」

「え、観察?」

「うん、おれたち人間も、たとえばさ、蟻の生態を観察したりするじゃない。見ているだけでもおもしろいわけだよ。蟻なんか征服したって仕方ないだろ」

それを聞いて、カウンターに並んだバーの客がどっと笑った。女性バーテンダーも笑った。話が受けたので、従兄はご満悦だった。わたしは何も反論しなかった。そもそもこの種の話題には、基本的には口を出さないと決めているから。

宗教の話をすると友を失うという格言がある。政治の話もダメ、スポーツの話もダメ。巨人が勝っておもしろくない阪神ファンが試合終了と同時にチャンネルを変えようとして流血騒ぎになった居酒屋の話を聞いたことがある。

じつは心密かに、この広い——あるいは無限の——宇宙に生命の宿った星は、この地球だけと思っているのだ。信念というべきか、信条というべきか。UFO信者たちは確率論を持ち出してきて、これだけの星雲、これだけの銀河系があれば、当然のごとく、この太陽系とほぼ同じ条件の恒星とその周囲を回る惑星があるはずだ。そのなかにはとてつもなく高度な文明を持つ生命体が住む惑星があって、かれらの宇宙船は軽々と宇宙の磁場と空間の歪みを超えて、自在に飛び回っているのだ、云々。

そういう話は死ぬほどつまらない。中学生や高校生じゃあるまいし、還暦を過ぎてそういう話を持ち出されると、そんなに人生辛かったのですか、と言いたくなる。

この世にひとりで生まれて、ひとりきりで死んでいく。地球もこの広大な宇宙のなかで孤独に誕生し、孤独に死んでいく。それでいいじゃないかと思う。

朝日に向かって立ち上がり腹をさらすミーアキャット。じっと空を見上げるモアイ像。天空からの眼がなければ見えないナスカの地上絵。それらは言葉がないから美しい。

叔父の住んでいた糠内は今でも真冬には氷点下30度を下ることがある。

そのむかし、帯広でも真冬には氷点下20度以下の朝が1週間以上続いた。−30度も珍しくなかった。

むかし、人に飼われていた猫たちは、死期が近づくとこっそり人目につかないところで死んだ。

死期が近づいたら——そしてまだかろうじて足腰が立つならば——ピート臭のきついウィスキーのボトルなんか片手に凍てついた川岸まで歩いていって、満天の星を見ながら死ねたらいいとは、ときどき思うけれど。

まず彼は、円盤が目に見えていたあいだの数秒間に、彼の心を満たしていた至福の感じを反芻した。それはまぎれもなく、ばらばらな世界が瞬時にして医やされて、透明な諧和と統一感に達したと感じることの至福であった。天の糊がたちまちにして砕かれた断片をつなぎ合わせ、世界はふたたび水晶の円球のような無疵の平和に身を休めていた。人々の心は通じ合い、争いは熄み、すべてがあの瀕死の息づかいから、整ったやすらかな呼吸に戻った。

重一郎の目が、こんな世界をもう一度見ることができようとは! たしかにずっと以前、彼はこのような世界をわが目で見ており、そののちそれを失ったのだ。どこでそれを見たことがあるのだろうか? 彼は夏草の露に寝間着をしとどに濡らして座ったまま、自分の記憶の底深く下りていこうと努めた。さまざまな幼年時代の記憶があらわれた。市場の色々の旗、兵隊たちの行進、動物園の犀、苺ジャムの壺の中につっこんだ手、天井の木目のなかに現れる奇怪な顔、それらは古い陳列品のように記憶の廊下の両側に、所窄し飾られてはいたけれど、廊下の果ては中空へ向かっていて、つきあたりのドアを左右にひらくと、そこは満天の星のほかには何もなかった。(三島由紀夫『美しい星』)