学生時代に夢中になって読んだ本のひとつに、ポール・ヴァレリーの『レオナルド・ダ・ヴィンチの方法への序説』という本がある。
この本を開いたとたん、文字どおり、目を奪われた記憶がある。奇妙な二段組みになっていたからだ。「奇妙な」というのは、ページの中央で均等に分かれている二段組みではなく、一対三くらいの割合の二段組みなのである。よく見ると、ただの二段組みではなかった。本文があって、上三分の一(原著の場合は横組みなので、左ページは左三分の一、右ページは右三分の一)がその本文にたいする自註なのだった。自註のほうが活字も少し小さい。
最初からそんな版面の本だったわけではない。本文は一八九五年に『新評論』(La Nouvelle Revue)に発表された。著者、若干二十四歳のときのことだ。単行本になったのは、それから二十四年が経過した一九一九年、この時点では自註はなく、当然、ふつうの版組だった。
欄外自註は一九二九年から三〇年のあいだに書かれ、一九三一年に刊行された Sagitaire 版と呼ばれる複写版の刊本で初めて読者の目に触れることになったという(筑摩書房版ヴァレリー全集、一九七三年新装版第五巻の書誌より)。
夢中になって読んだと冒頭に書いたけれど、よく理解できなかったので悪戦苦闘したというべきかもしれない。悪戦苦闘のまま卒論にまとめて出したら、論文主査の室淳介先生に「おれにはこれしかわからんよということがよくわかる」と言われて、変に感動した記憶がある。「あ、ちゃんと読んでくれたんだ」
室先生はサント=ブーヴが専門で、レヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』を本邦初訳した人でもある。といっても、当時はサント=ブーヴにもレヴィ=ストロースにも興味がなかった。
「きみ、うちに遊びにおいでよ」と言われて、のこのこ国立のお宅にお邪魔したことが一度あった。「駅から歩いていくと、大きな欅の木が見えるからすぐわかるよ」。浮世離れした先生だった。授業中に黙りこくってしまう。一分や二分ではない。五分くらい。教室がざわめく。お会いしたとき、「先生、あの沈黙はとても不安です」と言ったら、「いや、授業中に考え事するのは気持ちがよくてね」だと。
世が世なら、大学院に残って、この先生の指導を受けていたかもしれない。
*
この本の欄外自註に、こんな文章がある。
思考における、とりわけ現実的なものとは、感覚でとらえられる現実の素朴な似姿{イマージュ}ではないもの、とでも言おうか。ところが、われわれの内部で生じるものを観察すると、そもそもこの観察自体が不確かで、往々にして疑わしいものなのだが、ついわれわれは、この〔思考と感覚の〕二つの世界は比較可能なものと信じてしまう。その結果、いわゆる心的世界を感性的世界の隠喩、とりわけ身体的に実行可能な行為や操作から借りた隠喩でおおまか{グロッソ・モード}に表現することになる。
たとえば、思考[pensée]と計量[pesée]、把握[saisir]、理解[comprendre]、仮説[hypothèse]、総合[synthèse]、など。
最後の一段落を補足すると、フランス語における「考える」という動詞penser はラテン語の pensare に由来し、元来は重さを量るという意味だった。peser という動詞も、諸説あるが、同語源らしい。saisir はもともと「握る」という意味。comprendre は、com という接頭辞とprendre という動詞に分解できる。すなわち「まとめて掴む」という意味。hypothèse (仮説)は「下に置く」という意味。synthèse(総合)は「一緒に置く」という意味。
ちなみに日本語の「考える」はカムカフ、すなわち二つのものを向き合わせるという意味(岩波古語辞典、補訂版一九九〇年、古くてスイマセン)。加えて、オモヒ(思ひ)とオモシ(重し)はどこか似ているが、語源は違うらしい。
言語が、われわれ人間が外部世界と触れるときの感覚に依拠していることは、それはもう言語の宿命というほかないだろう。だが、認識——とりわけ科学的認識——は、素朴な感覚的イメージから身を切り離すところにその本質がある、あるいはそのとき初めて精神はおのれにふさわしい固有の現実性を獲得すると、ヴァレリーはここで言っている。
これはガストン・バシュラールが『科学的精神の形成』(La formation de l’esprit scientifique, 1938)で展開している「認識論的障害物」に関する主張とほぼ同じことを言っているように思える。
科学的精神は〈自然〉に抗して形成されなければならないのである。われわれの内部においても、われわれの外部においても存在する〈自然〉からの衝迫や教唆に抗して、自然の牽引力に抗して、彩色された多様な事象に抗して形成されなければならない。科学的精神は、おのれを作り直すことを通じて形づくられていくものなのである。
だから、現代の科学は数式の体系と表現を必要とする。言語はそれ自体のうちに認識論的障害物を含むから。科学的精神が〈自然〉に抗して形づくられるべきものならば、それはある意味で〈非人間的〉なものでもある。
言い換えるなら、ガストン・バシュラールのいう「科学的認識」とは、身体的イメージに依存する呪術的な実体論{レアリスム}を思考から切り離そうとする不断の努力をさす。しかし、彼はその一方で呪術的イメージにあふれる文学論を展開したのである。『蝋燭の炎』『水と夢』『空と夢』・・・・・・、いずれもタルコフスキーの映像世界を言葉と論理に置き換えたような著作ばかりだ。ベクトルが真逆を向いている科学認識に関する論文と文学論の二つを併せ読まないと、バシュラールを読んだことにはならない。
先日の塾の例会で、「持ち重りのする言葉」という表現を使った。もしかりに、自分が頭のなかで行っている翻訳作業を、ヴァレリーの言うように「身体的に実行可能な行為や操作から借りた隠喩でおおまか{グロッソ・モード}に表現する」ならば、両腕を左右に開き、それぞれの手のひらを天に向け、左にフランス語の単語を、右に日本語の単語を置いて、あたかも自分の身体を天秤にするがごとくに、いつも左右の重さを量り比べているような感覚に近い。もちろん、左右の天秤皿に載っているのは単語ばかりではなく、複数の単語からなる熟語の場合もあるし、文全体のこともあるし、段落丸ごと載せることもある。
こうして翻訳全体が一冊の本となってできあがったとき、左に載せたフランス語の原本と翻訳本が釣り合っていれば、それは完璧な仕事ということになる。
が、そんなことはありえない。単語でさえ、釣り合うことはない。まったく違う言語なのだから。できることは、できるだけその誤差を小さくすることだけ、というわけだ。
翻訳は、基本的には意味(signifié)しか置き換えることができない。そのような限定——あるいは断念——のもとでは、意味さえ釣り合っていればよいということになる。しかし、言語(langue)は意味だけで成り立っているわけではない。言語は音韻の体系でもある。日本語と印欧語の場合、文法と統辞以上にこの音韻体系がまったく違う。これは翻訳不可能である。詩が翻訳不可能と言われる所以もここにある。
しかし、詩の翻訳はある。元の詩が豊かな詩情を湛えていればいるほど、そしてその詩が書かれている言語にたいする理解が進めば進むほど、それを母語に置き換えてみたいという意欲なり野心なりは抑えがたいものになる。なぜか、とは問わない。むしろ、翻訳の本質と困難は、詩の翻訳に象徴されていて、人はその対象が困難であればあるほど、それを乗り越えたいという衝動を刺激されるものだと言うに留めておこう。アルチュール・ランボーの詩に「母音」と題された有名な作品がある。中原中也の訳で引用してみよう。
Aは黒、Eは白、Iは赤、Uは緑、Oは青、母音たち、
おまへたちの隠密な誕生をいつの日か私は語ろう。
ランボーはこう語り出して、A、E、I、U、Oの五つの母音それぞれのイメージを二行ずつに分けて、いかにも象徴詩{サンボリスム}風に歌い上げている。さすがの中也もここでは律儀に一語ずつ丁寧に拾い上げて、どちらかと言えば「直訳」っぽく訳している。それはたぶん、この詩が他国語の理解を拒んでいるからだ(たとえば英語、ドイツ語、イタリア語を母語にする人にとってはどうかわからないけれど)。
むしろ、フランス語を母語にする読者にとっても、ただちに共感できるというようなものではないと言ったほうがいいだろう。「アー」と発音する母音から、
A、眩ゆいやうな蝿たちの毛むくぢゃらの黒い胸衣{むなぎ}は
むごたらしい悪臭の周囲を飛びまはる、暗い入江。
というようなイメージをそのままのかたちで共有できる人はほとんどいないだろう。いるとしたら、その人は特異体質か何かだ。事実、この詩を精神病理学の一症例として読み解く論文をどこかで読んだ記憶がある(どの本だったか、どうしても思い出せない)。
それはともかく、母音に色があるというのなら、言葉(単語)には、重さがあると言ってみたらどうか。もちろん、匂いのようなものもあれば、手触りのようなものもあると言ってみてもいいのだけれども、いちばん肝心なのは、重さ、重みではないか。
重さというのは、端的に言って、時間の重みをさす。
その単語に降り積もった時間の重さ。語源的に古ければ重いということではなく、太古の昔から今の今まで使いつづけられてきた言葉。
とくに動詞。なぜなら、どんなに時代と文明が変転しようと、人間の肉体はそれほど変化していないから。少なくとも、人間が言語を得て、文字を得てからの数千年単位ではほとんど変化していないだろう。たとえば「見る voir」「聞く entendre」「触る toucher」など、五感に関係する動詞、あるいは「立つ se lever」「歩く marcher」「走る courir」などの基本的動作にかかわる動詞など。その土地に自生する植物のような言葉、そういう言葉を「持ち重りのする言葉」と呼びたいのである。
こういう動詞が出てきたときに、漢熟語は当てたくない。漢字そのものも、できるだけ開きたくなる。漢字は見た目は重そうに見えるが、日本人の感覚にとっては音であるよりもほとんど視覚的概念なので——だから、やたらに同音異義語が多い——、じつは軽い。日本人にとっては、漢語よりも和語のほうが重い。漢字の多用は、見た目を煩雑にし、思考に負担をかけるので重く感じられるが、じつはその反対なのだ。天秤は左に傾く。
翻訳家は天秤が傾くことを嫌う。
*
話の角度を変えてみよう。聖書から引用する。
太初{はじめ}に言{ことば}あり、言は神と偕{とも}にあり、言は神なりき。
これは新約聖書中四番目に置かれている「ヨハネ福音書」冒頭の文語訳である。岩波文庫の一冊として復刊された『改訳 新約聖書』(米国聖書会社、一九一七年)からの引用である。たぶん、誰もが一度は耳にしたことがあるだろう。口語訳ではどうなっているか、新共同訳(日本聖書教会、一九八七年)から引用してみる。
初めに言{ことば}があった。言は神と共にあった。言は神であった。
この二つの訳を比べたとき、日本人ならば誰もが、文語訳のほうが格調が高く、重々しいと感じるのではないか。ここに引用した新共同訳(カトリックとプロテスタント双方の聖書学者、神学者の共同作業による翻訳という意味)は一九五四年に成立した初めての口語訳聖書を母胎にしていて、このヨハネ福音書の冒頭訳は、この戦後初の口語訳聖書をそのまま踏襲している。この口語訳の評価は、とりわけ文語訳に馴染んだキリスト教信仰者、あるいは作家たちには、必ずしも高いものではなかった。聖なる書物の言葉らしからぬ、と。
しかしここには、聖書の翻訳のみならず、翻訳一般にとっての重大な問題が潜んでいる。新約聖書の原典はギリシア語で書かれている。もちろん、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四福音書もギリシア語で書かれている。なぜか。
福音書の主人公であるナザレ生まれのイエスはユダヤ人である。使徒と呼ばれる最初の弟子たちもユダヤ人である。イエスが論争した相手の律法学者たちも、もちろんユダヤ人である。ユダヤ人である以上は、当時のユダヤ人の日常語であるアラム語を話していた。ならば、なぜアラム語で書かなかったのか。なぜ文語のヘブライ語で書かなかったのか。
ギリシア語で書かれていると言ったが、正確にはコイネーのギリシア語といって、ギリシア本土のアッチカを中心にして語られていたギリシア語とは区別されている。専門的なことはよくわからないし、ここで深く立ち入る必要もないので、イギリス本土で語られている本来の意味での英語と、国際標準語と化した感のある米語の違い程度におさえておけば、ここでは足りるだろう。
四つの福音書のうち、最初に書かれた福音書の作者マルコは原始キリスト教団のなかで、ヘレニストと呼ばれるグループに属していたと推定されている。ギリシア語を話す人という意味である。イエスの教えは、彼が十字架の上で処刑されたのち、瞬く間に地中海沿岸各地に住む、いわゆる離散ユダヤ人のあいだに広まっていった。迫害されて離散していったのではなく、商人として各地に根付いていった人々である。彼らは商人である以上、当時の地中海世界の共通語であるギリシア語を話す人々であった。ユダヤ人であっても割礼の習慣を失った人もいた(パウロの手紙参照)。
マルコは、そういう人々に向けて、ギリシア語で風変わりなイエスの伝記を書いたのである。ふたたび、なぜか。イエス亡きあと、最初期のキリスト教団は、当然のごとく「十二使徒」と呼ばれる人々によって立ち上げられた。ペテロ(今はペトロと呼ぶのが主流)を初めとするイエスの召命を受けた最初の使徒たちは「ヘレニスト」ではない。イエスもまた、ギリシア語を語った形跡は、少なくとも福音書のなかには見いだせない。あろうことか、最初期の教団の中心には、この使徒たちだけではなく、イエスの母と兄弟のも含まれていた。
なぜ「あろうことか」、なのか。マルコ福音書の第三章には、次のような記述がある。
イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。大勢の人がイエスの周りに座っていた。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」(新共同訳)
つまり、肉親、血縁の延長上に信仰はないと明言しているのである。それなのに現実には、イエスによって否定された肉親たちが初期の教団の中枢にいて、ヘレニストたちを抑圧とは言わないまでも、ないがしろに扱う(「使徒言行録」参照)。これはイエスの教えに背くのではないか。
そう、マルコはのちに「福音書」(Evangile)と呼ばれるイエスの伝記を書くことで、当時の教団のあり方にノーを突きつけたのだ(田川健三)。
さて、これが前提である。そして、問題はマルコが書いたギリシア語による福音書はどんなものであるか、ということだ。
ひとつの言語の歴史を背負う文語ではなく、当時の地中海世界で日常的に流通していた口語なのである。しかも、マルコのギリシア語は、マタイ、ルカ、ヨハネと比べて、下手だったというのである。イエスが肉親を否定するこの場面、格調高い日本の文語ではどのように訳されているか。
爰{ここ}にイエスの母と兄弟と来りて外に立ち、人を遣わしてイエスを呼ばしむ。群衆イエスを環{めぐ}りて坐したりしが、或者いふ『視よ、なんぢの母と兄弟・姉妹と外にありて汝を尋ぬ』イエス答へて言ひ給ふ『わが母、わが兄弟とは誰{たれ}ぞ』斯{かく}て周囲{まはり}に坐する人々を見回して言ひたまふ『視よ、これは我が母、わが兄弟なり。誰にても神の御心を行ふ者は、是わが兄弟、わが姉妹、わが母なり』(仮名遣いは原文のママ。総ルビだが一部だけ残した)
たしかに格調高い日本語である。だが、「格調高い」と感じるのは、そもそも文語だからではないのか。そして、原文が口語で書かれているとき、文語でなされた翻訳は正しいのか。
そもそもの問題は、ギリシア語で書かれた新約聖書をヒエロニムスがラテン語に訳した時点にさかのぼる。そもそもこのラテン語訳聖書(ウルガタ聖書と呼ばれる)が文語であり、信仰の主体である一般信徒には読めないものだった。だから、ラテン語の読める神父さんが教会で嚙んで含めるように信者に伝えていった。やがて教会組織の肥大化と中央集権化にともなって堕落と腐敗が進行し、あの血気盛んなマルチン・ルターの登場となるわけだが、それはまた別の話だ。
要は、ここにギリシア語原文を引用して、解説できるだけの教養と語学力があればいいのだが、無い物ねだりをしてもはじまらない。苦肉の策として、フランス語訳をここに挙げてみよう。フランス語訳ならなんでもいいというわけにはいかない。ここに引用するのは、フランスのカトリック、プロテスタント双方の共同作業による「共同訳」(Traduction Oecuménique de la Bible. 1995. 略してTOB——トープと発音するらしい)である。最新の聖書学の知見をもとに、ギリシア語原文にできるだけ「忠実な」翻訳を試みたといわれる労作である。
Arrivent sa mère et ses frères. Restant dehors, ils le firent appeler.
La foule était assise autour de lui. On lui dit : “Voici que ta mère et tes frères sont dehors ; ils te cherchent.” Il leur répond : “Qui sont ma mère et mes frères ?” Et parcourant du regard ceux qui étaient assis autour du lui, il dit : “Voici ma mère et mes frères. Quiconque fait la volonté de Dieu, voilà mon frère, ma soeur, ma mère”.
その母と兄弟がやってくる。外に立ち、彼を呼んできてくれとたのむ。
群衆が彼を取り巻いて座っていた。「あなたの母親と兄弟が外に来ている。あなたを迎えに来たのです」と言われて、「わたしの兄弟、わたしの母とは誰のことか」と彼は答える。そして、自分の周囲に座っている人々を見回し、こう言った。「ここにいるのがわたしの母とわたしの兄弟である。神の意志をおこなうものこそ、わたしの兄弟、わたしの姉妹、わたしの母なのである」(高橋訳)
*
解説はしない(できない?)
ランボーの詩に戻ろう。同じ「母音」の第一連。でも、鈴木信太郎訳である。
A{アー}は黒、E{ウー}白、I赤、U緑、O{オー}は藍色、
母音よ、汝が潜在の誕生をいつか、我は語らむ。
A{アー}、無慙なる悪臭の周囲に唸りを立てて飛ぶ
燦めく蠅の 毳斑{けまだら}の 黒き胸當{コルセエ}、
(人文書院版『ランボー全集』第一巻、一九七六年)
いかにも古いという印象を与える翻訳だ。まるでラテン語から訳したような感じさえする。学生のころは、こんなのが名訳としてもてはやされる時代は終わったと思っていた。何が気にくわなかったか。やたらに画数の多い、強迫(脅迫?)めいた漢字の使い方。文学といえば漢文学をさし、詩といえば漢詩をさしていた時代の残滓のようなものを感じたのである。
でも、最近は考え方が変わってきた。ランボーの原詩のなかにすでに衒学趣味が潜んでいると思うようになった。中原中也はそれを vanité、すなわち虚栄と呼んでいる。
アルチュール少年はことばの天才だった。中学生ですでにラテン語の詩を書いていた。すげぇな、と若いころは思ったが、よく考えてみれば、多少早熟であれば、日本人だって中学生で平安朝風の短歌を詠む子はいるだろう。優れた作品になるかならないかは別として。
言語{ラング}は規範{コード}であるから、それなりの才覚とセンスさえあれば、たちまちのうちにこれを習得することはそんなに難しいことではない——と凡才の自分が断言するのも憚れるけれど。
そういうことよりも、最近は時代と個人が交錯するときの、宿命とか運命とか呼ばれるもののほうに関心が向くようになってきた。年をとってきたというべきなのか、それなりに成熟してきたというべきなのかは、自分ではもちろんわからない。
ランボーの詩的世界のまばゆさは、電流がショートしたときの火花に似ている。ランボーという一個の肉体の現在時が、ひとつの言語のなかに蓄えられた幾重にもかさなる時間と時代の層を突き破っていくときの快感をまざまざと見せつけてくれる。
でも、こんなたとえでは、ランボーの詩的秘密を暴いたことにはならない。詩そのものがそういう芸術かもしれないし、音楽もまたそうであるかもしれないのだから。
ランボーは一八五四年に北仏のシャルルヴィルという町に生まれた。そして、パリに出て詩人たちと交わり、アフリカに渡って武器商人となり、骨肉腫を得てフランスに舞い戻り、一八九一年に三十七歳の若さで死んだ。十九世紀のど真ん中を疾走したわけだ。生まれたのは第二共和制が崩壊して、ルイ・ナポレオンが帝位に就いた一八五二年の直後、そして彼の青春は普仏戦争の勃発、そしてフランスの敗北、そしてパリコミューンの成立と崩壊という時代の激流に翻弄されている。この間、フランスは未曾有の政治的混乱を経験しているが、その一方で産業革命は、イギリスに遅れを取っているとはいえ、着実に進み、その象徴は鉄道敷設の全国展開だろう。シャルルヴィルとパリのあいだに鉄道が敷かれていなければ、アルチュール少年が何度も家出を繰り返すこともなかったし、一九七一年のパリ・コミューンのときにパリにいることもなかった。
おそらくランボーの詩は、この激動の時代の叫びなのだ。激動の時代とは、時間の流れがどんどん加速していって、古いものが振り切られ、新しいものには手が届きそうで届かない、そんな時代のことだ。
だからランボーの詩には古いものと新しいものが同居している。いや、同居しているのではなく、葛藤し、衝突し、あるいは爆発している。あるいは太平洋プレートがユーラシアプレートの下に潜りこもうとしているというべきか。
もうランボーの詩について書くのはよそう。それが本意ではないから。何が本意か。つまり、翻訳とは何かということ。
一つの文学作品は時代とともにある。あるいは天才的な文学作品は時代の声そのものであって、天才と呼ばれる芸術家、思想家、あるいはリーダーたちは、この時代の要請に応えようとして、ときに神のように崇められ、ときに犠牲{いけにえ}として天に召されるのだ。あるいは、この声の要請に応えられたものだけが、天才の名をほしいままにするというべきか。
もし、翻訳がこの声をよみがえらせることを使命とするものであるならば、翻訳はそもそも可能な行為なのか。なぜならば、言葉はいつも時代に拘束されているから・・・・・・。
さあ、こういったことを踏まえたうえで、あなたならランボーの詩をどう翻訳するか。「母音」冒頭のスタンザの原文を最後に挙げて、この稿を締めくくることにしよう(べつに宿題ではありませんので、誤解なきよう!)
A noir, E blanc, I rouge, U vert, O bleu : voyelles,
Je dirai quelque jour vos naissances latentes :
A, noir corset velu des mouches éclatantes
Qui bombinent autour des puanteurs cruelles,