じつに二年半ぶりの投稿ですね。
新年の挨拶のところでも書きましたので、ここではデータのみを記しておきます。
note という投稿プラットフォームに、このブログと並行して新たなページを立ち上げました。アドレスは https://note.com/takahashikei です。
よろしかったら、そちらも覗いてみてください。
いまのところ、note は文章中心、blog は写真が中心という感じで進めています。
どうか、どちらもご贔屓に。
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どうか、どちらもご贔屓に。
もちろん時代小説家・藤沢周平の長編小説のことである。テレビドラマにもなったし、映画化もされたから、とくに時代小説のファンでなくとも、この作品と作者の名を知っている人は多いだろう。
『山形新聞』に一九八六年(昭和六十一年)七月から翌年四月まで連載された小説である。八八年に単行本となり(文藝春秋)、九一年に文庫化された(文春文庫)。
この小説を読んだのがいつ頃だったか、正確には思い出せない。文庫版で読んだことは憶えているから、その奥付でも見ればだいたいのところはわかるはずだが、その文庫本が手元にない。二人の娘のどちらかの本棚で眠っているのではないかと思う。
ただし、藤沢周平氏がお亡くなりになったのは一九九七年のことだから、それ以前に読んだことだけは確かである。
ここに書いておいておきたいと思ったのは、作品の中身のことではない。作者みずから述懐しているこの作品を執筆していたときの心境と単行本になってからの思いがけない反響についての感想である。藤沢氏は「新聞小説と私」というエッセイのなかで、この小説を新聞に連載しているあいだ、「書けどもかけども書けども小説がおもしろくならないので」苦痛だったと記し、「作者がおもしろくないのだから、読者もさぞ退屈しただろうと思った」とまで言っている。
ところが、である。一冊の本になってみると『蝉しぐれ』は人がそう言い、私自身もそう思うような少しは読みごたえのある小説になっていたのである。これは大変意外なことだった。ばかばかしい手前味噌めいた言い方までしてそう言うのは、新聞小説には書き終えてみなければわからないといった性格があることを言いたいためである。(『ふるさとへ廻る六部は』所収。新潮文庫)
私は『蝉しぐれ』を読んで涙した読者の一人である。海坂藩——たびたび藤沢周平作品の舞台として登場する架空の藩名——で郡奉行を務める家に生まれた牧文四郎の幼年期から晩年までの成長の過程を縦糸とする堂々たる長編小説である。この縦糸にそっと寄り添うように絡む綾糸が、隣家に住む幼馴染の娘、ふくの文四郎に寄せる恋心である。文四郎は、政争に巻き込まれて切腹を命じられた父の名誉を晴らす運命を担わされており、ふくのほうは藩主の屋敷に女中奉公に出たことをきっかけに大きく運命が変わっていくという設定になっている。ふくは藩主のお手つきとなり、やがては側女となって藩主の子を宿したことが、後継をめぐる藩の政治の大きな火種となる。そして文四郎もまた父と同じように、藩内の政争に巻き込まれていくのである。その政争の裏で暗躍しているのは、父に切腹を命じた家老その人であった。
それぞれの運命に翻弄されて、かけ離れた人生を歩むことになった文四郎とふくが最後に再会する場面がやってくる。血で血を洗う政争を持ち前の冷静沈着さと鋭い剣さばきによって切り抜け、勝利者側の閥に属していた文四郎は、名誉を回復した生前の父の功績と自らの功績によって、かつて父が務めていた郡奉行の職に就いている。政変から長い歳月が経過し、ふくを寵愛した藩主もこの世を去ったある日のこと、文四郎はふくから呼び出しを受ける。出家する前に一目会いたいというのである。
そのときのふくの言葉。
——わたくしが文四郎さんの妻で、文四郎さんの妻がわたくしであるような人生はなかったのでしょうか。
文四郎の答え。
——そのことをそれがし人生最大の悔いとしております。
手元に本がないので、あらすじも引用も正確でないかもしれない。そもそもこの会話の引用は、この一文を書き起こした動機から逸れている。
言いたかったことは、一冊の本を書き上げる作業は——たとえそれが翻訳であっても——ときに苦痛がつきまとい、こんな仕事を引き受けるのではなかったと後悔することもある。しかし、仕事を終え、その仕事が一冊の本となって書店に出回り、書評なども出たりして、一定の時間が経過すると、思いのほか「読みごたえのある」作品になっている場合があるということなのである。
そして、それは人生にも当てはまるのではないか、と最近思うのである。
翻訳家という人生は自分にはそぐわないとずっと思ってきた。ただの飯の種に過ぎなかった。ところが最近、こんな人生もまんざらではないなと思うようになってきたのである。
翻訳という仕事が思いのほか「手ごたえのある」仕事だと思えるようになってきた。尊敬する藤沢周平先生の言葉をもじって言うならば、人生と職業には生き抜いてみないとわからないといった性格があるのではないか。とまぁ、そういうことになるだろうか。
連載というより分載といったほうが適当かもしれないが、まぁ、どうでもいいことだろう。分載にしないで、全文一挙掲載——あるいは章ごとに分割して——という方法もあったが、それではいささか乱暴なような気がして、できるだけ丁寧に分割し、それぞれの冒頭部分を小見出しにする——多少手を加えたところもある——という方法をとった。小見出しに惹かれて開いてみて、ほかも読んでみたいと思ってくれるなら本望、そうでなければそのまま閉じてもらえばいい、そんな心算である。
コンピュータの計算では、全部で10万字ほどあるので、単純に400字詰原稿用紙の枚数に換算すると250枚になる。実際に原稿用紙を埋めていくと、改行したり、ページを変えたりしたところに空白ができるので、300枚近くになるかもしれない。電子本のフォーマットになっているのならいざ知らず、これだけの分量を最初から最後までコンピュータあるいはスマートフォンやタブレットの画面で読み通すのはほとんど不可能と言っていい。
なので、小分けにして、どこからでも覗けるように工夫したのである。
これがこの作品の最終形態である。本にする——つまり自費出版する——予定はない。本という形式には——翻訳という形で何十冊も出してきたので——とくに愛着もこだわりもない。
ジャンルという意味での形式にもこだわらなかった。むしろジャンルを横断したかった。だから、この作品には小説の要素も批評の要素もあるし、随所に翻訳——拙訳——も散りばめられている。翻訳はそもそも、すでにある作品とその形式、文体をなぞる作業である。その意味では形式そのものである。私はそこから自由になりたかった——たとえいっときでも。
私はなろうとして翻訳家になったわけではない。いつのまにか翻訳家になっていたというのが正直なところなのである。
でも、発端ははっきりしている。
二十代の終わりから三十代へと跨ぎ越す時期、アルジェリアに二度渡った。そのときの経験がなければ、翻訳という仕事に手を染めることはなかっただろう。
たどり着いた地点もはっきりしている。
東京から生まれ育った町に帰り、還暦を過ぎてまもなく、アルルに本拠を置く翻訳学校から、短期の講師として呼ばれたのである。アルルはゴッホの才能が開花した街であるし、足を伸ばせば、セザンヌのエク=サン=プロヴァンスもあるし、若いとき毎日のようにアルジェから地中海を隔てて見つめていたマルセイユもある。
私はそこに三十数年の歳月をかけてたどり着いたのである。
自作については、多くを語らないほうが賢明だろう。
人は自分の言っていること、していることがわからない。いわんや自分の書いたもののことなどわかるはずがない。
そのくせ、こんなことを自ら投稿欄に書き記すのは、固定ページには読者がコメントを書き込む欄がないので、もし感想などお持ちの方があれば、ここに書き込んでいただければという願いからである。この作品を開かれたものにしておきたいのである。ただし、メールアドレスは私には伝わりますが、公開されることはけっしてありませんから、ご安心ください。
思い直して、プルーストの話を続けることにしよう。
暑い夏の日が続いていた。ほぼ半世紀前のことである。夏休みに帰省した私は毎日のように図書館に通っていた。駅前にある今の新しい図書館ではない。今よりずっと西寄りの、市役所の裏手にあった小さな図書館である。木造モルタルだったような気もするし、小さいながらもコンクリート造りだったような気もする。二階建ての建物の玄関を入ると、たしか右手に階段があって、二階が閲覧室になっていたように思うのだが、これも定かではない。
ただし、この年の夏がとても暑い夏であったことはまちがいない。当時、エアコンの装備などあるわけもなく、開け放した窓からときおり暑気を含んだ風の吹き込む閲覧室で、こめかみからしたたり落ちる汗を拭いながら本を読んでいたことだけは鮮明に憶えている。
読んでいたのは、プルーストの『失われた時を求めて』。個人完訳はまだ出ていなかった。たしか十人くらいのフランス文学専門の先生方が手分けして訳した六巻本で、箱が印象派風の絵で飾られていたことまでは記憶に残っているが、それが誰の絵かはもうわからなくなっている。
今はもう手元にないのだから、確かめるすべもない。
読み終わって、しばらくたってから人にやってしまったのである。
すでに読み終わった時点で、もう二度とこの作品を読み返すことはあるまいと思っていた。読了するまでに二週間か二十日くらいはかかっていたはずである。それなのに感動もなければ満足感もなく、ただ徒労の感覚しか残らなかった。
失われた時を求めて、その時は見出されるどころか、ついに語り手(著者)は時間に捕縛され、囚われ、呑み込まれてしまったとしか思えなかったのである。
そして、フランス文学も、文学それ自体も、ずいぶん自分からは遠いものだなと思った。文学部に入ったことも、専攻にフランス文学を選んだことも、何か重大な過ちを犯したような気さえした。
それがどういうわけか、いつのまにかフランス語の翻訳者となり、数十冊もの現代フランス文学の小説を翻訳し、何の因果かまた生まれ育った町に舞い戻り、そして、半世紀ぶりにプルーストの畢生の大作を手にして読んでいるのである。みずみずしい日本語訳と、分厚いペーパーバックの原書を読み比べながら。
気がつくと、日本語は読まずに、プルーストのフランス語だけを追っている。そして、あたかも耳から音楽が入ってくるかのように気持ちよく文字を追いかけている。そこに記された語彙のすべてを理解しているわけではなく、日本語に変換せずに読んでいるのである。
遠い昔に放り投げたブーメランが、半世紀ののちに一巡りして、後頭部を直撃しているといえばいいのか。
これはひとつの成熟なのか。
だとすれば成熟とはこんなにも苦いものなのか。
もっと早く気がつけばよかったとも思い、ずいぶんと若い、未熟な後悔を引きずったものだとも思う。むかし読んだ詩人の言葉がよみがえる。
時の締切まぎわでさえ
自分にであえるのはしあわせなやつだ
マドレーヌは、当地では「大平原」という名で親しまれている。
マドレーヌは、福音書に登場するマグダラのマリアに由来する。
マドレーヌ・ペルーは、フランス人の母とニューオーリンズ出身のアメリカ人の父のあいだに生まれた。両親が離婚して、母と娘はフランスに戻り、マドレーヌは母からウクレレを教わり、ギターをおぼえ、ストリートミュージシャンとして歩み出した。
彼女の歌を耳にしていなければ、プルーストを読み返すことはなかっただろう。
ジャズのような、ブルースのような、あるいはアメリカン・カントリーのようでもあり、古いシャンソンのようにも聞こえる、どこか懐かしい歌と歌声に出会っていなければ。
われわれの過去もそうしたものである。それを呼び戻そうとしても徒労であって、知性がどんなに努力してもどうにもならない。過去は知性の及ぶ領域や射程の外にあって、思いがけない具体的な事物の中に(その具体的事物がわれわれにもたらす感覚の中に)潜んでいる。そういった事物と死ぬまでに出会うか、出会わないかは偶然による。
コンブレーについて、私の就寝時の舞台やドラマを除いたあらゆるものが私にとって無に等しい存在になって久しい年月が経ったある冬の日のこと、家に帰った私が寒そうにしているのを見た母が、いつもの私の習慣に反して、少し紅茶を飲んでみたらと勧めてきた。最初は断ったのだが、どういうわけか思い直した。母は、溝のある帆立貝の殻でかたどられたように見える、あの小ぶりのふっくらとした〈プチット・マドレーヌ〉というお菓子をひとつ持ってこさせた。やがて私は、陰鬱なその日一日を思い、明日も悲しい日になるだろうという思いにうちひしがれつつ、マドレーヌのひとかけを浸しておいた紅茶をひと匙すくい、なんとはなしに口に運んでいった。ところが、お菓子のかけらの混じったひと口が口内の皮膚に触れたとたん身震いし、自分の内部に異様なことが起こっているのに気づいた。得体の知れない隔絶した甘美な快感が内部に浸透していたのである。そしてたちまちのうちに、自分がこの人生の艱難辛苦から無縁の存在であり、その厄災の数々も無害であり、その短さも錯覚だと思えてきた。恋愛の作用と同じく、なにかの貴重な@精油{エッセンス}で私は満たされていたのである。あるいはむしろ、このエッセンスは私の中にあったものではなく、私自身であったのかもしれない。私は自分自身を凡庸で、偶然にさらされた死すべき存在だとは感じられなくなっていた。これほど力強い喜びはいったいどこからやってきたのか。それは紅茶とお菓子の味に関係しているとしても、そんなものははるかに超え、もはや同じ性質のものではなくなっているのではないかと思えた。それはどこからやってきたのか。何を意味しているのか。その所在はどこか。二口目を飲んでみるが、一口目以上のものは感じられず、三口目にいたっては二口目よりも印象が薄くなっている。もうやめにしよう、飲み物自体の効力は減じているらしい。私の求めている真実はその中にはなく、私の中にあることははっきりしている。飲み物は真実を目覚めさせたかもしれないが、それを識ることはなく、ただ際限なく同じ証言を繰り返し、そのたびに力を失っていく。私にはその証言をどう解釈すればいいのかわからず、せめて何度も自分の意のままに問い返せるよう当初の状態のままに残して、いつか決定的な解明がやってくるのを待ち望むほかない。私はカップを置き、自分自身の精神に向き合う。真実を見出すのは精神の仕事だから。だが、どうすればいい? 精神が対象を前にして自分の手には負えないと感じるたびに襲ってくる、深刻な不安。探求者である精神そのものが不案内な土地と化してなお探究を続けなければならず、しかもそこではそれまでの知見は何の役にも立たない。探究? のみならず創造しなければならないのだ。そのとき精神はいまだ存在しないものを前にしている。それを現実のものにし、そこに自らの光を当てることができるのは精神だけなのだ。
(これはプルーストの『失われた時を求めて』のなかの、おそらくはいちばん有名な、冒頭数十ページほど読み進めていくと遭遇する一節です。先週か、先々週のある日、マドレーヌ・ペルーという歌手——日本の音楽業界ではマデリンと呼んでいるようですが——の歌をきいていて、ふとこの一節がよみがえったのです。読み返して愕然としました。その理由はここには書きません。いや、書けません。「記憶の真実」なるものを探し求めて、プルースト自身、あの膨大な本を書かなかければならなかったくらいなのですから)
今年、母は九十三歳になる。当然のごとく年々足腰は衰えるし、少しボケたような振る舞いも多くなったが、朝ご飯の支度と洗濯はなんとかこなしているので助かっている。
夕食は私が作る。のたくら情けない手つきで一時間ほどかけて、二品か三品作る。ときどき自分が何をしているのかわからなくなる。九十を過ぎた母よりも早く認知症の徴候が出てきたのではあるまいか、ときどき心配になる。
それはさておき食事の段になると、母は小さなグラスに注いだビールで口がほぐれてくるにつれて昔話を語り出す。そのほとんどがすでに何度か耳にした話で、数年前までは「その話、聞いたよ」と半畳を入れていたが、もうそういうことはしない。相槌こそ打たないが、黙って聞いている。
弟子屈に住んでいたころの少女時代の話、釧路の女学校の寄宿舎生活、あるいは札幌で過ごした戦時中の話。ときには子供のころの私の話も出る——前回の作文の話もそれに連なる。
この前、初耳のエピソードを聞いた。私が小学生だったころの話だ。まだ低学年だったのか、すでに高学年になっていたのか、母の記憶は定かではない。
私が小学校から帰ると、母が熱を出して寝込んでいた。たぶん、ただの風邪だったと母は言う。私は友達とどこかで遊ぶ約束をしていたらしい。しかし、母親が寝込んでいるのに、そのまま放置して遊びに行くわけにはいかない、と幼い私は考えたのだろう。
その当時、町内——今、私が住んでいる町内のことである——に電話を備えている家は一軒しかなかった。所さんという家である。私はその名を忘れているが、母は憶えているのである。
私は所さんの家を訪れ、電話を借りた。そして、父が勤めている学校に電話をして、父を呼び出してもらい、「お母さんが大変なことになっているから、すぐに帰ってきてほしい」と伝えたというのである。
私自身は、このエピソードの詳細どころか、何もかも憶えていない。
「しかし学校の電話番号をどうして知っていたのだろうね」と母。
電話帳を貸してもらって調べたのかもしれないし、一〇四番に電話したのかもしれない。
「それにしても、お母さんが大変なことになっているって、あきれたもんだね」
たしかに。ほとんど詐欺師である。
小学生の私は父が大慌てで帰ってくるまで、待っていたのだろうか。それとも、父がただちに帰ってくることを確信して、さっさと遊びに行ってしまったのだろうか。そのあたりのことまでは記憶魔の母親も憶えていない。
おそらく、とすでに六十代の後半に突入している私は推察するのであるが、子供の私は友達との約束と母の容態を天秤にかけて、どちらを取るかではなく、どちらも取る方法はないかと考えたのだろう。
それにしても、勤務中の父に電話をかけて家に呼び戻すとは、まさしくあきれた子供である。フランス語でこういう子のことを、enfant terrible という。恐るべき子供とか、手に負えない子供とか、翻訳はさまざまあるが、途方もない子供とか、呆れた子供とか、そんなニュアンスもあるだろう。
そのうち余裕があれば、母と叔母の双方から聞いたエピソードもここに書き残しておこうかと思っている。これも呆れた話である。
子供のころに書いた作文を掲載して、そのままほったらかしにしておくわけにもいかないので、こんなものを公開した意図を記しておきます。
一読してあきれた、と前回の記事に書きましたが、あきれた理由はいくつかあります。わかりやすいところから挙げていくと、
1.改行しても、次の行の頭が一字下げになっていない。原稿用紙に書かれたままを掲載したのだとしたら、ちゃんと指導しなかった教師とそのまま掲載した新聞社は何を考えているのか。
2.無駄な繰り返しが多すぎる。これだってちゃんと指導すべきだ。
3.最後の一行、「これからも、こういうためになる本を読んで、頭をよくしたいと思います」だと! そもそも、こんな本を探してきて読む小学三年生などいるはずもないから、おそらくは担任の先生に薦められて読んだのだろう。こんな本を読んだところで、頭がよくなるはずがないではないか。
とまあ、あきれた理由をまとめるとこんな具合になる。
すべてネガティヴな理由である。それだけなら人目につくところに出さないほうがいいに決まっている。
たったひとつポジティヴな理由がある。それは、小学校の三年生から基本的に考え方が変わっていないという点である。
つまり、頭がいいという基準を成績の良し悪しに置いていないということ。なければそれなりに工夫すればいいと考えていること。
帯広に帰ってきてから、地元の短大と専門学校で講師を勤めているが、毎年のように学生たちに言ってきた言葉がある。
知性は偏差値では測れない、サバイバルする能力のことだよ、と。
すると目を輝かせる学生もいれば、きょとんとしていたり、ぽかんと口を開けたままの学生もいる。
でも、毎年同じことを繰り返すのである。
まるで自分に言い聞かせるかのように。
そうやって自分は生きてきたではないか。
なければないなりに工夫してきた。
無い物ねだりはしたことがない。
欲しいものがあれば、なんとしてでも手に入れてきた。
それはたぶん死ぬまで続くだろう。
ご無沙汰をしておりました。
最後に投稿したのが、一月の二十七日(*93 忘れえぬ人々)ですから、九ヶ月も経っている勘定になります。
べつに改まって復活(復帰?)宣言のようなものは出しません。
いろいろなことが重なって、即興的な文章が書きにくくなってしまったのです。
このブログをフォローしてくれている読者の方が、ここ帯広にも、東京にも、はたまた全国のどこかにもいらっしゃるようなので、一生懸命(?)毎朝写真を撮って、できるだけ印象的なのを選び、タイトルを考え、文を添える、そういうことだけはまめに続けていきたいとは思っています。
だんだん写真がおもしろくなってきました。と同時に、それに添える文を書くときの呼吸なども、よそゆき(?)の文章を書くときとは別の感触——脱力しながら集中するような——を楽しめたらいいかな、と思うようになりました。
今日、久しぶりに投稿するのは、みなさんにお見せしたい文章があるからです。説明はあとにしますので、まずはお読みください。
†
「私達は考える、家庭生活」という本に、「身のまわりのしまつ」というお話がでていました。
それは勝彦くんという男の子が、学校から帰って来て、「かばんとぼうし」をポーンと投げて、でていこうとして、おかあさんにおこられてしまうというお話です。ぼくも、そういうことがよくあるのでどうもちようしがわるいなあと思いました。勝彦くんは、じぶんべやがなくて、「だからそんなにきちんとする気にならない。」のです。ずっと前ぼくの、家につくえがありませんでした。その時ぼくは、みかんばこ二つと、いたをよういして、みかんばこも、いたも白い紙をはつて白くして、はこと、はこのあいだに、いたをわたして、それででき上がりにしました。勝彦くんも、やつてみたらどうかなあ、と思いました。
ほんばこも、同じように、みかんばこ二つで、横につめばできます。「身のまわりのしまつ」の中に、「おとうさんは、つくえをかつてくれない勝彦くんのように、『じぶんのへやがないから、ちらかすのがあたりまえだ。』こういつてしまったのでは、ダダっ子みたいじゃありませんか。つくえがなかったら、なんとかくふうはできないものでしようか。
二つのリンゴばこをならべてその上に、ちょっと板を、わたしただけでもいいじゃないですか。そのはこに、おみせのつつみ紙を、はつてみればなお、たのしいものになりましょう。」と、こういうことが書いてあったので、ぼくはほんとうにそうだと、なんべんも思いました。それから、「いたの上には、ありあわせのキレをかけるのです。」ということが書いてあります。ぼくは「ありあわせ」ということがわからないので、おかあさんにきいたら、「あまつたきれで、つかえるきれのことですよ」といったので、このことはぼくは気がつかなかったので、今はぼくのつくえがあるけれど、だれかぼくたちの組の、つくえのない人は、やってみたらいいと思いました。
ぼくたちの組でも、つくえのない人が多いことでしょう。そういうばあいは、みかんばこ二つと板をよういして、みかんばこも、いたも、白い紙でしろくして、はこにかぶせればもうできあがりです。ない人はやってみたらどうでしょう。
この本には、まだまだ「ぼくはテレビのけらいではない」とか、そのほかいっぱいお話がでていましたけど、ぼくがいちばんためになったのは、「身のまわりのしまつ」がためになりました。
これからも、こういうためになる本を読んで、頭をよくしたいと思います。
†
この文章は、昭和三十七年の十月二十一日(日曜日)付の『十勝毎日新聞』——あるいは『北海道新聞』。切り抜きだけだと今のところ特定できない——に掲載されたものである。コラムの右肩には「第二回北海道青少年読書感想文コンクール十勝地方審査入選作から(上)」 とゴシック体の活字で記されていて、中央には明朝体の大きめの活字で『「わたしたちは考える」を読んで』とタイトルが記されている。筆者は、わたくし本人、記事の末尾には(光南小学校三年)と付されている。ここに転載するにあたって、加筆訂正はいっさいしていない。
昨日は毎年暮れの大掃除を少し繰り上げ、ハウスクリーニングに来てもらって、台所まわりの掃除であるとか、床のワックスがけ、あるいは窓ガラス拭きなどをやってもらったのだが、部屋の片付けをしていた母親が偶然、こんな切り抜きを発見して、私のところに持ってきたのである。
一読して、あきれた。
今日のところはここまで。続きはまたあらためて。
(週末は新刊書——『言語の七番目の機能』、「履歴と書誌」のところを開くと追加してあります——のプロモーションのための上京します)。
昨日の夕方、五年越しで取り組んできた長編小説(原文五百ページ、四百字詰め原稿用紙換算だと千枚くらいになる)をようやく訳了することができたので、ほっと胸をなで下ろしている。といっても、これから初稿が出てきて、担当編集者や校正者を相手にバトル(?)が繰り広げられるので、束の間の休息みたいなものである。そうこうしているうちに次の翻訳の声もかかってくるだろうし、安閑としてはいられないのだけれど……。
†
ところで最近、どういうわけだか国木田独歩のことが気になってしかたがないのである。「牛肉と馬鈴薯」とか「空知川の岸辺」とか、北海道にゆかりのある作品がとくに気になるというわけでもない。
初めて独歩の作品に出会ったのは、高校時代の教科書のなかに収められていた「忘れえぬ人々」という短編であったと記憶しているが、半世紀も前の教科書が家に残っているわけもないので、証拠はない。
その後、一度くらいは読み返したようなことがあるような気がするけれど、それもおぼろげな記憶でしかない。
で、去年の暮れにふと思い立って、本棚の奥に眠っている文学全集(河出のグリーン版)から一葉と独歩がペアになっている巻を取り出してみたのである。「忘れえぬ人々」の冒頭の一行を目にして驚いた。
多摩川の二子の渡しをわたって少しばかり行くと溝口という宿場がある。
まさか、この短編が溝口の宿場の場面から始まっているとは思いもよらなかったのである。その昔、溝口が宿場だったということも知らなかった。次女にこの話をしたら、国木田独歩の碑が駅の近くにたっているという。
この二子(ふたご)の渡しは、今では多摩川をはさんで二子玉川と二子新地という田園都市線の駅名になっていて、隣の高津駅の次が溝口である。次女の家がさらに少し先の宮前平付近にあって、東京に出たときにはこの田園都市線と半蔵門線をよく利用する。とくに溝口は宮前平方面に行くバスが出ているので、この駅で娘たちと待ち合わせをして買い物をしたりするから、親しみがある。
作中に出てくる地名に心当たりがあるかないかで、作品との距離感がずいぶん違うことは、長年フランス文学の翻訳を生業としてきた身としては、ある意味で切実な問題である。
首都のパリくらいなら誰もが知っていて、観光で訪れた人も多いだろうけれど、それでも北のほうにあるか南のほうにあるかと尋ねてみると、不確かな答えが返ってきたりする。マルセイユが地中海沿岸の大都市であることも、二人に一人くらいしか正解できないのではないか。地元の短期大学でフランス語と比較文化論を担当しているから、そんなに当てずっぽを言っているわけではない。
地名にはその土地の霊——地縛霊とは言わないけれど——のようなものが宿っている、というのはけっして大袈裟な話ではない。北海道の場合なら、「和人」(シャモ)がやってきてアイヌの土地を征服したわけだから、勝手に日本語の名前をつけてもよさそうなものだけど、いや良し悪しの問題ではなく、実際にそんなことはできないのである。ここ帯広はオペレペレケプ(もしくはオベリベリ)というアイヌ語が語源で、意味は「川尻が幾重にも避けているもの」ということになるらしい。
それに加えて、作者にとっての思い入れや、「忘れえぬ」思い出があったりする場合には、人であるよりも土地が主人公ではないかと思わせる作品も多々ある。その代表例はプルーストの『失われた時を求めて』だろう。病弱で旅することも叶わない主人公にとって夢想のなかのバルベック(ノルマンディのカブールがモデルだと言われている)という地名はこのように描写される。
バルベックはといえば、あたかもそれが焼かれたころの土の色を保っているノルマンディの古い陶器の表面のように、いまはすたれたある習慣、封建法のなごり、土地の昔の状態、奇妙なシラブルができてしまったすたれた発音法、といったものがまだそこから浮かびあがる、そんな名の一つであった。(『失われた時を求めて』第一篇「スワン家のほうへ」第三部「土地の名、——名」井上究一郎・訳)
僕は週末には写真を撮りに、十勝管内のあちこちを——ときには釧路や日高のほうまで足を伸ばすこともある——経巡っているけれど、もちろんそれは「美しい」景色に出会って癒されたいという願いを抱いているわけだが、この「美しい」はとてつもなく謎めいている。たんなる視覚的に均整の取れた対象ではないからだ。たぶんそこに根付いている、潜んでいる、あるいは眠っている力、磁場のようなものが、光や風の加減や、雨や雪、雲の様相、湿度の加減で、先週と今週ではまったく違う様相で現れてくるからだと思う。
こんな話をしていると切りがないので、国木田独歩の「忘れえぬ人々」に戻る。亀屋という旅籠のある溝口の宿場はこのように描かれている。
ちょうど三月の初めのころであった。この日は大空かき曇り北風強く吹いて、さなきだに淋しいこの町が一段と物淋しい陰鬱な寒そうな光景を呈していた。昨日降った雪がまだ残っていて高低定まらぬ南の軒先からは雨滴が風に吹かれて舞うて落ちている。草鞋の足痕には溜まった泥水にすら寒そうな漣が立っている。
まるで江戸時代の——時代劇で見るような——風景だ。そんなことに驚く必要はないのだろう。この短編が書かれたのは一八九八年(明治三十一年)であって、きっとまだ至る所に江戸の景色と風習と生活が残っていたにちがいないから。注意すべきは、ほとんどプルースト張りの緻密な筆致で寒々しい宿場の光景が描かれていることだ。
ところでこの「忘れえぬ人々」という作品は、ちょっとトリッキーな構成になっている。というのは、この溝口の宿場で「無名の文学者」大津弁二郎が「無名の画家」の秋山松之助を相手に、えんえんと「忘れ得ぬ人々」——ちなみにこの短編のタイトルは「忘れえぬ人々」だが、本文では「忘れ得ぬ人々」と表記されている。独歩に何か意図があったのか、よくわからない——について語るという構成なのだが、日本の近代文学史上最初の「小説を書く小説」ではないかというのが、高橋個人の密かな印象なのである(プルーストの『失われた時を求めて』は、じつは小説を書く小説だということをお忘れなく)。
大津は秋山の前に「忘れ得ぬ人々」と題された半紙十枚ほどの書きかけの原稿を差し出す。「忘れ得ぬ人々は必ずしも忘れて叶うまじき人にあらず」というのが、このスケッチ風の草稿の書き出しである。このスケッチに登場する人物は、大津が旅の途中で出会った名も知らぬ人々ばかりなのである。正確に言えば、出会ったわけでもなく、袖触れ合ってさえいない。風景のなかの人影のようなものばかりなのである。たとえば、阿蘇山の火口から降りてくるときの描写、
下りは登りよりかずっと勾配がゆるやかで、山の尾や谷間の枯草の間を蛇のように蜿蜒{うね}っている路を辿って急ぐと、村に近づくにつれて枯草を着けた馬を幾個{いくつ}か逐いこした。あたりを見るとかしこここの山の尾の小路をのどかな鈴の音夕陽を帯びて人馬幾個となく麓をさして帰りゆくのが数えられる、馬はどれもみな枯草を着けている。
あるいは四国の三津ヶ浜での琵琶僧との出会いの描写、
僕はじっとこの琵琶僧を眺めて、その琵琶の音に耳を傾けた。この道幅の狭い軒端の揃わない、しかも忙しそうな巷の光景がこの琵琶僧とこの琵琶の音と調和しないようでしかもどこかに深い約束があるように感じられた。あの嗚咽する琵琶の音が巷の軒から軒へと漂うて勇しげな売声や、かしましい鉄砧{かなしき}の音に混ざって、別に一道の清泉が濁波の間を潜って流れるようなのを聞いていると、嬉しそうな、浮き浮きした、面白そうな、忙しそうな顔つきをしている巷の人々の心の底の糸が自然の調べをかなでているように思われた。
この短編の描写の密度は並大抵のものではなく、どこを引用していいのかわからないほどであるけれども、共通しているのは、風景を視覚的に描写するだけでなく、そこに音や風や、人々の生活やら、楽器の音色やら、すべてを封じ込めようとしている印象を読者に与えるという点だ。
それはまことに象徴主義の詩を思い起こさせる。
大津は秋山に「忘れ得ぬ人々」とは何かについて説明する。
親とか子とかまたは朋友そのほか自分の世話になった教師先輩のごときは、つまり単に忘れ得ぬ人とのみはいえない。忘れて叶うまじき人といわなければならない、そこでここに恩愛の契りもなければ義理もない、ほんの赤の他人であって、本来をいうと忘れてしまったところで人情も義理も欠かないで、しかもついに忘れてしまうことのできない人がある。
でも、国木田独歩のこの作品を読みすすめていくうちに、われわれは「忘れ得ぬ人々」の定義が逆転してしまうことを感じる。つまり、本当に忘れてはいけない人(=忘れて叶うまじき人)というのは親でも子でも友人でもなく、おそらくは旅先でふと見かけた「無名の人々」のことではなないかと。
独歩のこの短編に描かれた風景とそこに住う人々はみな、もうこの現代日本から消えてしまったものばかりだ。独歩が書き残したから、その風景は永遠に残ったとは言わない。むしろ、作家や画家が描こうと描くまいと、おそらくは人々の胸の奥——無意識という言葉は使わないでおこう——にしまわれて、ふと何かの瞬間に表層に浮かび上がってくるものではないか、と思う。
芸術や文学は、そういった遠い記憶の触媒をはたすもの、はたさなければならない、それをわれわれは必要としている。独歩の作品はそのことを痛切に語りかけてくる。
ところで、さっきこの作品の構成がトリッキーだと言ったのは、もちろんそういうことではない——すこしは関係するかもしれないけれど。この短編の最後はこんなふうに締めくくられている。大津が溝口で秋山と出会ってから、二年が経過している。
大津は故あって東北のある地方に住まっていた。溝口の旅宿{やど}で初めて遇った秋山との交際は全く絶えた。ちょうど大津が溝口に泊まった時の時候であったが、雨の降る晩のこと。大津は独り机に向かって瞑想に沈んでいた。机の上には二年前秋山に示した原稿と同じの「忘れ得ぬ人々」が置いてあって、その最後に書き加えてあったのは「亀屋の主人{あるじ}」であった。
「秋山」ではなかった。
そこで読者は自然と最初のページに戻る。すると「亀屋の主人」の風貌はこう描かれている。
主人の言葉はあいそがあっても一体の風つきはきわめて無愛嬌である。年は六十ばかり、肥満{ふと}った体軀{からだ}の上に綿の多い半纏を着ているので肩からすぐに太い頭が出て、幅の広い福々しい顔の目眦{まなじり}が下がっている。それでどこか気懊{きむずか}しいところが見えている。しかし正直そうなお爺{やじ}さんだなと客はすぐ思った。
戦後七十年余りが経過して、われわれはもうこの手の緻密な人物描写をしなくなった。風景についても同じである。会話ばかりがえんえんと続く軽い小説に慣れている。
独歩を読んでいると、文は呪詛だということを思い起こさせる。文字も言葉も、そもそもが呪詛なのだから。
死者とのコミュニケーションということを最近は考えるのである。
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以前にも言いましたが、このブログ本文の更新は月に一度くらいになるでしょう。小説のスケッチのようなことをこのブログで展開することは断念しましたが、水面下では続行しています。その片鱗はちらちらと表に出てくるかもしれませんが。
このところ、ちょっと気張ったものが続いたので、正月の三日でもあることだし、お口直しに(?)身辺雑記風のものを当て所なく書いてみようかと思う。
同じ屋根の下で暮らしている母は今年九十二歳になる。十二月には自分の寝室で二回、いつも買い物に行くスーパーの駐車場で一回転んだ。さいわい骨を折ることもなく、手足に痺れが出ることもなくすんだ。でも、本人は惚けることをひどく恐れて、毎晩子守唄のようなものを自分に歌い聞かせて眠りについている。
家は玄関のところが吹き抜けになっているので、深夜、母の歌声が一階から聞こえてくる。いささか怪談じみているというか、横溝正史的というか、さすがに心穏やかではいられない。
十年前に東京から連れてきた猫——シマという——のほうは、今年十七歳になる。猫の年齢を人間の年齢に換算すると、八十半ばくらいになるらしい。母ほどではないが、高齢にはちがいない。
昨年の春先から夏の初めにかけて、食餌をすべて吐いてしまうようになって、一時期は体重が二・二キロまで落ちた。近くの動物病院に連れていくと、甲状腺ホルモンの分泌を抑える薬を処方してくれた。これが劇的に効いて、今は三・六キロ前後まで体重が戻り、階段も元気よく駆け上がったり、駆け下りたりしている。
猫のシマがぐったりして身動きしなくなったとき、最初に思ったことは、母と猫が同時に逝ってしまったらどうしようということだった。すぐに葬儀のことが頭をよぎった。
妻が死んだときは、文字どおり近親者だけに声をかけて狭い自宅で慎ましい葬式をあげた。雷が鳴り、大雨が降った。傾斜地に建てられたメゾネット式の集合住宅に棺を運び込み、運び出す作業はたいへんだった。そんなことも思い出した。
験直しではないけれど、大晦日には一念発起して(?)、久しぶりにおでんを仕込んだ。昆布でだしをとったあと、荒けづりの鯖節と煮干しを十分ほど煮出してから目の細かいざるで濾したものに、花かつおをたっぷり入れ、二番だしをとった。鰹節が浮かんできたところで火を止め、鍋底に沈んだら取り出す。
大根は四センチくらいの厚さに切って皮をむいて面取りし、一握りの半分くらいの米を入れた水を沸かして一時間ほど下煮をした。キャベツの葉を二枚ほど茹でてしんなりさせてから、芯の部分を取って二枚に切り分け(合わせて四枚)、それで豚のひき肉と長ネギのみじん切りを練り合わせて塩胡椒で軽く下味をつけたものを包み、かんぴょうでしっかり縛った。あとはこんにゃく、はんぺん、がんも、昆布巻き(だしをとった昆布をくるくると巻いてかんぴょうで縛った)、ゆで卵などを投入して、あとはただことこと煮るだけ。
夕方には、小ぶりの牛腿の塊をフライパンで全体に焼き目をつけたあと、アルミホイルで包み、さらに厚手の布巾でくるんで一時間ほど放置。これで、なんちゃってローストビーフのできあがり(味付けの詳細はうるさくなるので省くけれど、決め手は自家製の梅酒とにんにく醤油)。
老いた母も懸命に筑前煮などを作った。市販のなますとか黒豆、数の子、かまぼこ、お隣さんからいただいた昆布巻など、三段のお重に盛り付ければ、立派なおせちの出来上がり。酒は学生時代の友人がお歳暮に送ってくれた栃木産の吟醸酒。
完璧な大晦日でした。
元旦の夜のおでんは、さらに味が染みて、申し分なし。
本年が佳い年でありますように。
みなさまのご多幸をお祈り申し上げます。