*93 忘れえぬ人々

昨日の夕方、五年越しで取り組んできた長編小説(原文五百ページ、四百字詰め原稿用紙換算だと千枚くらいになる)をようやく訳了することができたので、ほっと胸をなで下ろしている。といっても、これから初稿が出てきて、担当編集者や校正者を相手にバトル(?)が繰り広げられるので、束の間の休息みたいなものである。そうこうしているうちに次の翻訳の声もかかってくるだろうし、安閑としてはいられないのだけれど……。

ところで最近、どういうわけだか国木田独歩のことが気になってしかたがないのである。「牛肉と馬鈴薯」とか「空知川の岸辺」とか、北海道にゆかりのある作品がとくに気になるというわけでもない。

初めて独歩の作品に出会ったのは、高校時代の教科書のなかに収められていた「忘れえぬ人々」という短編であったと記憶しているが、半世紀も前の教科書が家に残っているわけもないので、証拠はない。

その後、一度くらいは読み返したようなことがあるような気がするけれど、それもおぼろげな記憶でしかない。

で、去年の暮れにふと思い立って、本棚の奥に眠っている文学全集(河出のグリーン版)から一葉と独歩がペアになっている巻を取り出してみたのである。「忘れえぬ人々」の冒頭の一行を目にして驚いた。

 

多摩川の二子の渡しをわたって少しばかり行くと溝口という宿場がある。

 

まさか、この短編が溝口の宿場の場面から始まっているとは思いもよらなかったのである。その昔、溝口が宿場だったということも知らなかった。次女にこの話をしたら、国木田独歩の碑が駅の近くにたっているという。

この二子(ふたご)の渡しは、今では多摩川をはさんで二子玉川と二子新地という田園都市線の駅名になっていて、隣の高津駅の次が溝口である。次女の家がさらに少し先の宮前平付近にあって、東京に出たときにはこの田園都市線と半蔵門線をよく利用する。とくに溝口は宮前平方面に行くバスが出ているので、この駅で娘たちと待ち合わせをして買い物をしたりするから、親しみがある。

作中に出てくる地名に心当たりがあるかないかで、作品との距離感がずいぶん違うことは、長年フランス文学の翻訳を生業としてきた身としては、ある意味で切実な問題である。

首都のパリくらいなら誰もが知っていて、観光で訪れた人も多いだろうけれど、それでも北のほうにあるか南のほうにあるかと尋ねてみると、不確かな答えが返ってきたりする。マルセイユが地中海沿岸の大都市であることも、二人に一人くらいしか正解できないのではないか。地元の短期大学でフランス語と比較文化論を担当しているから、そんなに当てずっぽを言っているわけではない。

地名にはその土地の霊——地縛霊とは言わないけれど——のようなものが宿っている、というのはけっして大袈裟な話ではない。北海道の場合なら、「和人」(シャモ)がやってきてアイヌの土地を征服したわけだから、勝手に日本語の名前をつけてもよさそうなものだけど、いや良し悪しの問題ではなく、実際にそんなことはできないのである。ここ帯広はオペレペレケプ(もしくはオベリベリ)というアイヌ語が語源で、意味は「川尻が幾重にも避けているもの」ということになるらしい。

それに加えて、作者にとっての思い入れや、「忘れえぬ」思い出があったりする場合には、人であるよりも土地が主人公ではないかと思わせる作品も多々ある。その代表例はプルーストの『失われた時を求めて』だろう。病弱で旅することも叶わない主人公にとって夢想のなかのバルベック(ノルマンディのカブールがモデルだと言われている)という地名はこのように描写される。

 

バルベックはといえば、あたかもそれが焼かれたころの土の色を保っているノルマンディの古い陶器の表面のように、いまはすたれたある習慣、封建法のなごり、土地の昔の状態、奇妙なシラブルができてしまったすたれた発音法、といったものがまだそこから浮かびあがる、そんな名の一つであった。(『失われた時を求めて』第一篇「スワン家のほうへ」第三部「土地の名、——名」井上究一郎・訳)

 

僕は週末には写真を撮りに、十勝管内のあちこちを——ときには釧路や日高のほうまで足を伸ばすこともある——経巡っているけれど、もちろんそれは「美しい」景色に出会って癒されたいという願いを抱いているわけだが、この「美しい」はとてつもなく謎めいている。たんなる視覚的に均整の取れた対象ではないからだ。たぶんそこに根付いている、潜んでいる、あるいは眠っている力、磁場のようなものが、光や風の加減や、雨や雪、雲の様相、湿度の加減で、先週と今週ではまったく違う様相で現れてくるからだと思う。

こんな話をしていると切りがないので、国木田独歩の「忘れえぬ人々」に戻る。亀屋という旅籠のある溝口の宿場はこのように描かれている。

 

ちょうど三月の初めのころであった。この日は大空かき曇り北風強く吹いて、さなきだに淋しいこの町が一段と物淋しい陰鬱な寒そうな光景を呈していた。昨日降った雪がまだ残っていて高低定まらぬ南の軒先からは雨滴が風に吹かれて舞うて落ちている。草鞋の足痕には溜まった泥水にすら寒そうな漣が立っている。

 

まるで江戸時代の——時代劇で見るような——風景だ。そんなことに驚く必要はないのだろう。この短編が書かれたのは一八九八年(明治三十一年)であって、きっとまだ至る所に江戸の景色と風習と生活が残っていたにちがいないから。注意すべきは、ほとんどプルースト張りの緻密な筆致で寒々しい宿場の光景が描かれていることだ。

ところでこの「忘れえぬ人々」という作品は、ちょっとトリッキーな構成になっている。というのは、この溝口の宿場で「無名の文学者」大津弁二郎が「無名の画家」の秋山松之助を相手に、えんえんと「忘れ得ぬ人々」——ちなみにこの短編のタイトルは「忘れえぬ人々」だが、本文では「忘れ得ぬ人々」と表記されている。独歩に何か意図があったのか、よくわからない——について語るという構成なのだが、日本の近代文学史上最初の「小説を書く小説」ではないかというのが、高橋個人の密かな印象なのである(プルーストの『失われた時を求めて』は、じつは小説を書く小説だということをお忘れなく)。

大津は秋山の前に「忘れ得ぬ人々」と題された半紙十枚ほどの書きかけの原稿を差し出す。「忘れ得ぬ人々は必ずしも忘れて叶うまじき人にあらず」というのが、このスケッチ風の草稿の書き出しである。このスケッチに登場する人物は、大津が旅の途中で出会った名も知らぬ人々ばかりなのである。正確に言えば、出会ったわけでもなく、袖触れ合ってさえいない。風景のなかの人影のようなものばかりなのである。たとえば、阿蘇山の火口から降りてくるときの描写、

 

下りは登りよりかずっと勾配がゆるやかで、山の尾や谷間の枯草の間を蛇のように蜿蜒{うね}っている路を辿って急ぐと、村に近づくにつれて枯草を着けた馬を幾個{いくつ}か逐いこした。あたりを見るとかしこここの山の尾の小路をのどかな鈴の音夕陽を帯びて人馬幾個となく麓をさして帰りゆくのが数えられる、馬はどれもみな枯草を着けている。

 

あるいは四国の三津ヶ浜での琵琶僧との出会いの描写、

 

僕はじっとこの琵琶僧を眺めて、その琵琶の音に耳を傾けた。この道幅の狭い軒端の揃わない、しかも忙しそうな巷の光景がこの琵琶僧とこの琵琶の音と調和しないようでしかもどこかに深い約束があるように感じられた。あの嗚咽する琵琶の音が巷の軒から軒へと漂うて勇しげな売声や、かしましい鉄砧{かなしき}の音に混ざって、別に一道の清泉が濁波の間を潜って流れるようなのを聞いていると、嬉しそうな、浮き浮きした、面白そうな、忙しそうな顔つきをしている巷の人々の心の底の糸が自然の調べをかなでているように思われた。

 

この短編の描写の密度は並大抵のものではなく、どこを引用していいのかわからないほどであるけれども、共通しているのは、風景を視覚的に描写するだけでなく、そこに音や風や、人々の生活やら、楽器の音色やら、すべてを封じ込めようとしている印象を読者に与えるという点だ。

それはまことに象徴主義の詩を思い起こさせる。

大津は秋山に「忘れ得ぬ人々」とは何かについて説明する。

 

親とか子とかまたは朋友そのほか自分の世話になった教師先輩のごときは、つまり単に忘れ得ぬ人とのみはいえない。忘れて叶うまじき人といわなければならない、そこでここに恩愛の契りもなければ義理もない、ほんの赤の他人であって、本来をいうと忘れてしまったところで人情も義理も欠かないで、しかもついに忘れてしまうことのできない人がある。

 

でも、国木田独歩のこの作品を読みすすめていくうちに、われわれは「忘れ得ぬ人々」の定義が逆転してしまうことを感じる。つまり、本当に忘れてはいけない人(=忘れて叶うまじき人)というのは親でも子でも友人でもなく、おそらくは旅先でふと見かけた「無名の人々」のことではなないかと。

独歩のこの短編に描かれた風景とそこに住う人々はみな、もうこの現代日本から消えてしまったものばかりだ。独歩が書き残したから、その風景は永遠に残ったとは言わない。むしろ、作家や画家が描こうと描くまいと、おそらくは人々の胸の奥——無意識という言葉は使わないでおこう——にしまわれて、ふと何かの瞬間に表層に浮かび上がってくるものではないか、と思う。

芸術や文学は、そういった遠い記憶の触媒をはたすもの、はたさなければならない、それをわれわれは必要としている。独歩の作品はそのことを痛切に語りかけてくる。

ところで、さっきこの作品の構成がトリッキーだと言ったのは、もちろんそういうことではない——すこしは関係するかもしれないけれど。この短編の最後はこんなふうに締めくくられている。大津が溝口で秋山と出会ってから、二年が経過している。

 

大津は故あって東北のある地方に住まっていた。溝口の旅宿{やど}で初めて遇った秋山との交際は全く絶えた。ちょうど大津が溝口に泊まった時の時候であったが、雨の降る晩のこと。大津は独り机に向かって瞑想に沈んでいた。机の上には二年前秋山に示した原稿と同じの「忘れ得ぬ人々」が置いてあって、その最後に書き加えてあったのは「亀屋の主人{あるじ}」であった。
「秋山」ではなかった。

 

そこで読者は自然と最初のページに戻る。すると「亀屋の主人」の風貌はこう描かれている。

 

主人の言葉はあいそがあっても一体の風つきはきわめて無愛嬌である。年は六十ばかり、肥満{ふと}った体軀{からだ}の上に綿の多い半纏を着ているので肩からすぐに太い頭が出て、幅の広い福々しい顔の目眦{まなじり}が下がっている。それでどこか気懊{きむずか}しいところが見えている。しかし正直そうなお爺{やじ}さんだなと客はすぐ思った。

 

戦後七十年余りが経過して、われわれはもうこの手の緻密な人物描写をしなくなった。風景についても同じである。会話ばかりがえんえんと続く軽い小説に慣れている。

独歩を読んでいると、文は呪詛だということを思い起こさせる。文字も言葉も、そもそもが呪詛なのだから。

死者とのコミュニケーションということを最近は考えるのである。

以前にも言いましたが、このブログ本文の更新は月に一度くらいになるでしょう。小説のスケッチのようなことをこのブログで展開することは断念しましたが、水面下では続行しています。その片鱗はちらちらと表に出てくるかもしれませんが。

*92 正月の身辺

このところ、ちょっと気張ったものが続いたので、正月の三日でもあることだし、お口直しに(?)身辺雑記風のものを当て所なく書いてみようかと思う。

同じ屋根の下で暮らしている母は今年九十二歳になる。十二月には自分の寝室で二回、いつも買い物に行くスーパーの駐車場で一回転んだ。さいわい骨を折ることもなく、手足に痺れが出ることもなくすんだ。でも、本人は惚けることをひどく恐れて、毎晩子守唄のようなものを自分に歌い聞かせて眠りについている。

家は玄関のところが吹き抜けになっているので、深夜、母の歌声が一階から聞こえてくる。いささか怪談じみているというか、横溝正史的というか、さすがに心穏やかではいられない。

十年前に東京から連れてきた猫——シマという——のほうは、今年十七歳になる。猫の年齢を人間の年齢に換算すると、八十半ばくらいになるらしい。母ほどではないが、高齢にはちがいない。

昨年の春先から夏の初めにかけて、食餌をすべて吐いてしまうようになって、一時期は体重が二・二キロまで落ちた。近くの動物病院に連れていくと、甲状腺ホルモンの分泌を抑える薬を処方してくれた。これが劇的に効いて、今は三・六キロ前後まで体重が戻り、階段も元気よく駆け上がったり、駆け下りたりしている。

猫のシマがぐったりして身動きしなくなったとき、最初に思ったことは、母と猫が同時に逝ってしまったらどうしようということだった。すぐに葬儀のことが頭をよぎった。

妻が死んだときは、文字どおり近親者だけに声をかけて狭い自宅で慎ましい葬式をあげた。雷が鳴り、大雨が降った。傾斜地に建てられたメゾネット式の集合住宅に棺を運び込み、運び出す作業はたいへんだった。そんなことも思い出した。

験直しではないけれど、大晦日には一念発起して(?)、久しぶりにおでんを仕込んだ。昆布でだしをとったあと、荒けづりの鯖節と煮干しを十分ほど煮出してから目の細かいざるで濾したものに、花かつおをたっぷり入れ、二番だしをとった。鰹節が浮かんできたところで火を止め、鍋底に沈んだら取り出す。

大根は四センチくらいの厚さに切って皮をむいて面取りし、一握りの半分くらいの米を入れた水を沸かして一時間ほど下煮をした。キャベツの葉を二枚ほど茹でてしんなりさせてから、芯の部分を取って二枚に切り分け(合わせて四枚)、それで豚のひき肉と長ネギのみじん切りを練り合わせて塩胡椒で軽く下味をつけたものを包み、かんぴょうでしっかり縛った。あとはこんにゃく、はんぺん、がんも、昆布巻き(だしをとった昆布をくるくると巻いてかんぴょうで縛った)、ゆで卵などを投入して、あとはただことこと煮るだけ。

夕方には、小ぶりの牛腿の塊をフライパンで全体に焼き目をつけたあと、アルミホイルで包み、さらに厚手の布巾でくるんで一時間ほど放置。これで、なんちゃってローストビーフのできあがり(味付けの詳細はうるさくなるので省くけれど、決め手は自家製の梅酒とにんにく醤油)。

老いた母も懸命に筑前煮などを作った。市販のなますとか黒豆、数の子、かまぼこ、お隣さんからいただいた昆布巻など、三段のお重に盛り付ければ、立派なおせちの出来上がり。酒は学生時代の友人がお歳暮に送ってくれた栃木産の吟醸酒。

完璧な大晦日でした。

元旦の夜のおでんは、さらに味が染みて、申し分なし。

本年が佳い年でありますように。

みなさまのご多幸をお祈り申し上げます。

*91 望郷

『星の王子さま』を書いたサン=テグジュペリは奇妙な言葉を残している。「ノスタルジーとは、何かよくわからないものにたいする欲望のことだ」(La nostalgie, c’est le désir d’on ne sait quoi.)

じつはこの言葉、どの著作に記されているのか、いまだに確かめることができないでいる。というのは、サン=テグジュペリの本を読んでいて発見したのではなく、Le Petit Robert というフランス語の定番辞書のなかの、nostalgie の項に用例として載っているのを若い頃に発見して以来、ずっと気になっている言葉なのだ。

かつては「得体の知れない欲望のことだ」と解釈していた。でも、今読み直してみると、「よくわからないものを求めること」だと解釈したほうが自然なような気がする。しかし、どちらにしても、ある意味では「よくわからない」定義だ。

ふつうは「郷愁」とか「望郷の念」とか、訳される。

でも、サン=テグジュペリの言葉は、過去を懐かしんだり、惜しんだりしているようには受け取れない。すでに存在した過去を振り返っているというより、まだ確定していない先の何かを見ている。つまり、得体の知れないものを希求している。

はたして「ノスタルジー」とは、そういうものだろうか?

 

 

感性という言葉も、ノスタルジーに負けず劣らず、考えだすとよくわからなくなる。はたしてこれは、その人の持っている資質を指す言葉だろうか。感受性とどう違うのだろうか。感性に経験はどんなふうに作用するのだろうか、云々。

このブログに扉として掲げている写真にしても、そこに自分の感性が反映しているのかどうか、それは自分で撮った写真のことなので、自分ではよくわからない。

ただこの齢になるまで、おびただしい絵画、造形、映像作品をみてきたことは確かだ。パリのルーブル、オルセーには何度足を運んだかわからない。言うまでもなく、パリにはほかにもたくさんの個人美術館がある。ドラクロワ、モロー、ロダン……切りがない。パリも、ノルマンジーも、南仏も、どれだけ歩き回ったことか。

東京で暮らしていたころには、気になる画家の回顧展があれば、必ず足を伸ばしたものだ。芋を洗うように混んでいる評判の展覧会ではなく、ひっそりとしている美術館がいい。

ある風景に目を奪われたとき、まずはファインダーを覗く。そこで角度も枠も定まればシャッターを切る。でも、微妙に落ち着かないときは、一歩、二歩、三歩、あるいは十メートル、あるいは数十メートル、対象に近づくこともあれば、遠ざかることもある。しゃがみ込んで低く構えることもあれば、カメラを高く掲げて、背面のモニタを通じて構図を確認することもある。

そのときの基準はどこにあるのか?

感性、だろうか?

よくわからない。

でも、なにか、頭か心のなかで、一生懸命あちこちの抽斗を開けたり、閉めたりしているような気がする。

いや、それ以前に、ある風景に出会って、それに心惹かれるとき、その体験は、例のデジャビュ(déjà-vu)、既視感に近いような気がする。あ、どこかで見たことがある!

でも、それがどこかの美術館、展覧会で見た絵の記憶なのか、記憶のなかに眠っている子供のころに見たどこかの景色なのか、それはわからない。

ただ、はっきりしているのは、ああきれいだ、ああ美しい、と思う心が動いていて、その心の動きを正確に伝えるためのフレームやアングルを、適切な露出やホワイトバランスを求めていることは確かであり、それを決める要素は、やはりたくさん見てきた造形作品にモデルがあるような気がしている。

感性といえば感性なのだが、憧れのような気もするし、嫉妬のような気もする。突き詰めていくと、やっぱり得体が知れない。

そもそも、美しさ、あるいは美しい、きれいだと感じることそのものが、得体の知れないものではないか。

『カラマーゾフの兄弟』の長兄ドミートリーだったか、『白痴』のラゴージンだったかの言葉(面倒だから確認しない)。
「美とはおっかないものだよ」

 

 

で、今朝、起きがけに、ふと思ったのだ。

それは、恋しい、ということなのではないだろうか、と。

手の届かないものを求める焦慮に近い気持ち。

英語では、I miss you. という。

フランス語では、Je te manque.という。

そこにないもの、そこにいないひとを切に求める気持ち。

それが、サン=テグジュペリがノスタルジーという言葉を通じて伝えたかったものではなかったか。

パイロットだったサン=テグジュペリは、サハラ砂漠に墜落して死んだ。

*90 エラム、ニネベ、バビロン……。

かつてメソポタミアの地に興亡した王国や都市の名を初めて気に留めたのは、高校の歴史の時間だったろう。

日本史にせよ、世界史にせよ、いわゆる暗記科目というのが、大の苦手だった。たぶん暗記能力に欠陥があるのだろう。棒暗記、丸暗記というのが、拷問のようにしか思えなかった。

それなのに、ある日、突然、歴史がおもしろくなった。「ある日、突然」というのは日付を憶えていないからだが、きっかけは憶えている。友人に教えられたか、本屋で見つけたかは忘れたが、薄っぺらい横長の「世界歴史地図」という参考書を手にしたときからである。

横書きの本と同じく、左側のページを右に繰ってゆく造りになっていて、原始、先史と呼ばれる時代から始まって、四大文明、古代ギリシア・ローマ、古代中国王朝の興亡というように順繰りとページは続いていく。

横に長いページの左三分の二が四色刷りの地図になっていて、右三分の一が縦に年号が並ぶ年表になっている。

本というよりは冊子に近いこの参考書を開いた途端、魅せられた。

見えないはずの時間を俯瞰している気分に満たされた。

その歴史地図は薄いけれども、情報がぎっしり詰まっていた。学校で使う教科書では小さく隅のほうに追いやられた国の名や都市の名が、ほとんど大国と同じ扱いで記載されている。

エラム、ニネベ、バビロンのような地名を口に出してみると、何か秘事めいた気分になった。突厥、ウィグル、渤海、契丹、遼……、西域に明滅する国々の名をうっとりと見つめていた。

死んでしまった国があり、死んでしまった言語がある。史書に記録がなければ、あったのかなかったのか、それさえわからない国もあるだろう。そこで暮らしていた民族もあっただろう。そこで使われていた言語もあったにちがいない。

名もなき国、名もなき民、名もなき人々、名もなき草花とは、書き記されなかっただけのことで、存在しなかったわけではない。存在しないわけではない。

といっても——繰り返すけれど——記録も遺跡もなければ、かつて存在したことさえわからない。でも、その見えない彼らは少数派ではない。黙しているが圧倒的多数を占めている。その無言には、意味こそないけれど、たしかな重さがあって、われわれの生存の根底を支えている。齢を重ねるにつれ、そんなことを思うようになった。

高校を出て大学に入り、東京でひとり暮らすようになってからポール・ヴァレリーという詩人・思想家の本を夢中になって読んだ一時期がある。普仏戦争とパリ・コミューンというフランス近代史における衝撃的な事件の勃発した一八七一年に生まれ、第二次世界大戦終結の一九四五年にこの世を去り、国葬にふされた大作家だ。

 

エラム、ニネヴェ、バビロンは漠として美しい名であり、それらの世界が完全な廃墟になったことも、それらがかつて存在したこと同様、われわれにとってはさほど切実なことではありませんでした。しかし、フランス、イギリス、ロシア、それらもまた美しい名になろうとしているのかもしれません。

 

こんなふうに書き出されている「精神の危機」というエッセイは、一九一九年にイギリスの雑誌の求めに応じて発表された。今から百年前のことだ。フランス、イギリス、ロシアは、それぞれ戦争と革命の前世紀をくぐり抜け、いまだ大国として健在であると言えるかどうかはともかく、たんなる美しい名になりはてたわけでもない。

アルジェ、アルジェリアもまた、美しい名だと思う。もちろん、死んだ都市でも、死んだ国でもない。漠ともしていない。国の人口は四千万以上、首都のアルジェには三五〇万人ほどの人が住んでいる。アフリカ大陸の北側にあって、地中海に面している。アトラス山脈の背後にサハラ砂漠を抱える大きな国だ。

かつて私はその国で二十代最後の年を過ごした。三十年以上前のことだ。個人的な記憶のなかでは、その地の時間はそこで止まっている。ニネベやエラム、バビロンと同じように。そこで濃密な時間をともに過ごした友人や同僚、知己とも、とうに音信は絶えている。あえて記憶を掘り起こすこともなかった。

アルジェ、アルジェリア。

それはまるで青春時代の終わりに読んで、本棚の隅にしまい込まれたままになった一冊の本のようだ。そのページを繰るのには、やはり勇気がいる。そこに紛れもなく愚かな自分がいるというだけでなく、得体も由来も知れない罪障感のようなものも潜んでいるから。

*89 ゴルトベルク変奏曲

思うところあって、扉の写真だけでなく、ブログの本文も更新再開することにしました。といっても、そんなに深い考えがあるわけでなく、小説の試みを連載形式で更新していくのはさすがに無理ということは痛いほどよくわかったので、元のスタイルに戻そうということにすぎません。前口上はこのくらいにして、さっそく……。

バッハの「ゴルトベルク変奏曲」(変則的な英語読みだとゴールドベルグ)というと、ほとんどの人がグレン・グールドの演奏を思い出すのではないだろうか。正確を期すれば、この曲名を知っている人のほとんどは、と言うべきかもしれない。

そう言う自分も、この曲を初めて聞いたのは、グールドの演奏だった。

今は、アナログ・レコードで聴いている(1955年のモノラルではなく、1981年のステレオ盤)。

仕事に煮詰まったときは、BGMとしてのストリーミングでは意味がなく、CDも物足らず、もったいぶってターンテーブルにビニールのレコードを載せて、おもむろに針を落とすという儀式めいた動作が気分転換にはもってこいなのだが、さて何を聴くか選ぶ段になって、あれこれ迷ったあげく、ま、いいかと、グールドのゴルトベルクを選ぶことが最近多くなった。

グールドのゴルトベルク。J・S・バッハの、ではないのである。ほかの演奏家では、だめなのである。うちにはユゲット・ドレフュスによるクラブサン(=チェンバロ、ハープシコード)演奏もあるし、ギター・デュオ用に編曲された演奏もあるし、高橋悠治の途方もなく速い演奏もある。

でも、癒してくれるというか、落ち着かせてくれるのは、グールドなのである。

どうしてなのかは、よくわからない。

彼の演奏は、語りかけてくるような気がする。歌いながら弾くのは彼独特のスタイルではあるけれど、必ずしもそのせいではないと思う。分析するのはよそう。どこにもたどり着けないから。

グレン・グールドというピアニストの名を知ったのは、じつは村上春樹の処女作『風の歌を聴け』を読んだときだった。

この小説はすでに手もとにないし(たぶん、二人の娘のどちらかの本棚にある)、遠い昔(三十数年ほど前)に読んだきりなので、記憶が不確かであることをご容赦いただきたいのだが、そのなかに主人公の「僕」がレコード店でベートーヴェンのピアノ・ソナタを買い求める場面がある。全三十二曲のうち何番だったかは忘れてしまったけれど、たしかガールフレンドのためのクリスマスのプレゼントだったような気がする。応対に出たレコード店の若い女性店員に「バックハウス、それともグレン・グールド?」と尋ねられると、「僕」は即座に「グレン・グールド」と答える。

この作品を読んだのは、三十歳を越えたばかりの頃、場所はアルジェリアのジジェルという地中海沿岸の小さな町だった。町外れに冷凍倉庫を建設する現場があって、そのプロジェクトに通訳として雇われたのである。

そこで初めて、飯場暮らしというものを経験した。鉄骨とベニアのプレハブ住宅で半年寝起きをした。部屋は四畳半、スチールのベッドがひとつ、小さな机と椅子が用意されていた。数十人ほど収容できる食堂と十畳ほどの娯楽室(ビデオを見るためのテレビがあるだけ)、それにコンクリート剥き出しの床にバスタブを置いただけの風呂があった。トイレは住居の外にあった。建設現場によくある仮設トイレを思い出してもらえばいい。

土曜日の午後と日曜日が休日だった。

暇だったわけではないが、よく本を読んだ。いちおうフランス語の通訳なので、原書など持っていったが(ファーブルの昆虫記)、ほとんどページを開くこともなく、現場の同僚が日本から持ってきたエンターテインメント系の小説(冒険小説、アクション小説、サスペンス、ミステリーのたぐい)を、まるで砂が水を吸い込むように読み漁った。

そんなときに村上春樹の本が三冊、日本から届いたのである。アルジェリアの片田舎の、野なかの建設現場に! 郵便局もポストも見たこともないし、郵便局員がいるのかどうかもわからない!(でも、いたのだろう、ちゃんと小包が届いたのだから)。

送り主はミドリさんという。妻の独身時代からの友だちで、娘たちのことを親身になって世話をしてくれたし、我が家でよく一緒に食卓を囲んだ人である。

『風の歌を聴け』と『一九七三年のピンボール』はすでに文庫版になっていて、三冊目の『羊をめぐる冒険』は出たばかりだった。

唖然とした。自分自身にである。

『風の歌を聴け』という作品も、村上春樹という新人作家の名前も知っていた。大学を出て教科書関連の出版社に勤めることになった年、彼は講談社の文芸誌「群像」の新人賞をとったのである。駅ビルの小さな本屋で、たまたまこの新人賞受賞作品が掲載されている最新号をぱらぱらとめくっていると、手書きのTシャツの挿絵が目に飛び込んできた。こんな作品が文芸誌の新人賞を受賞する時代になったのかと思って、平積み台の上に投げ捨てるように雑誌を戻した記憶がある。

それなのに、アルジェリアの片田舎でこの作品を読むことになるとは想像だにしなかった。むしろ虚を突かれたというべきか。

感動してしまったのである。

ああ、そうか、と合点がいった。

アルジェでの一年を経て、またアルジェリアに舞い戻ってきて、しかも、ジジェルという片田舎を吹き渡る風と、真上から照りつける地中海の太陽に焼かれて、観念だとか思想だとか、ようするに難しい言葉ばかりギシギシに詰まった脳味噌が音を立てて崩れていく、ちょうどそのときに日本から『風』が送られてきたのである。

もう、どうでもよくなった。

どうにでもなれと思った。

帰国すると、すぐにグールドのレコードをさがした。

『風の歌』の主人公が、バックハウスの演奏をあっさり切り捨てるかのようにグールドを選ぶ場面に、ただならぬものを感じたからである。

母が自宅でピアノを教えていたので、子供の頃から安物のアップライトの音を聞いて育った。たいていはバイエル止まり、ツェルニーとかソナチネを弾けるようになる生徒はわずかだった。家でまともなソナタが鳴り響くのを耳にしたことはなかった。

偉そうなことを言っているが、幼稚園の頃、無理やりにピアノを習わされて、二、三ヶ月くらいでやめてしまった。基礎練習に辟易してしまったのである。三つ子の魂百までとはよく言ったもので、強制的に何かさせられるのが、心底いやなのである。受験勉強も拷問のように思えたし、大学に入って触れたフランス語も、なんでいまさら、アー・ベー・セーとかアン・ドゥ・トロワとか繰り返さなければならないのか、嫌で嫌で仕方がなかった。なのに翻訳者になっている。人生、よくわからない。

それはともかく、帯広の我が家にはバックハウスのベートーヴェン・ピアノ・ソナタ全集があって、何度も何度も飽きるほど聴いていたのである。初めて一番から三十二番まで全曲聴き通したのは、大学時代に夏休みか何かで帰ってきたときだったと記憶している。それから四十年経って、帯広に戻ってきて、年代物のステレオ装置を修理に出して、また聴き通した。

バックハウスを聴いていると、ピアノという、たぶん人類が発明した最高傑作ともいえる楽器が過不足なく鳴っているという感じがする。バックハウスにはぎらぎらしたところが何もない。歌ってはいないが、無味乾燥ではない。レコーディングも、残響の少ないデッドなスタジオ録音であるのがいい。

さて、そのバックハウスが危ない。グールドって何者だ?

そのころは東京の荻窪に住んでいたので、すぐに駅の近くのレコード店に飛び込んだ。ない。

「ビデオならありますよ」

レコードがなくて、どうしてビデオがあるんだ? VHS版で、ピアノ協奏曲第五番「皇帝」を収めたもの。違う、違う、ピアノ・ソナタが欲しいんだ。

まだ、CDが出回っていなかった時代のことだ。

その足で、銀座の山野楽器まで行った——なぜ、もっと近い新宿のタワーレコードでなかったのか、はっきり憶えてないが、たぶんそのころのタワレコは今ほど店舗が広くなくて、ごちゃごちゃしていたからだろうと思う。銀座まで来れば、さすがにあるだろうと思ったのだが、ない。

あったのは、リストがピアノ用に編曲した交響曲第五番「運命」、これをグールドが弾いている。なんで、こんな変態みたいなのしかないのか! でも、買うしかなかった。だって、ほかにないんだから!

いや、じっくりさがせばあったにちがいない。でも、なぜか焦っていた。いち早くグールドのピアノが聴きたかった。

メゾネット式の狭ぜましいアパートに戻ると、リビングのターンテーブルにレコードを置いて、そっと針を落とした。

それは今までにない音楽体験だった。

部屋には妻も子供たちもいなかった。

ターンテーブルが回り、ピアノの音だけが響く。

闇のなかに楽譜が浮いている。

楽譜自体が生き物のように呼吸している。

その楽譜はベートヴェンの生きた時代に属しているわけでもなく、もちろんその前のバッハの時代でもなく、二十世紀でもなく、ただ白い五線譜に書かれた黒い音符たちが踊っている。

これがグレン・グールドとの最初の出会いだった。

一九八二年に五十歳でこの世を去ったグレン・グールドという不世出のピアニストとその演奏については、おびただしい文言が費やされた。今さら、屋上屋を架すようなことはしたくないし、そのためにこの記事を書いているのでもない。

ジジェルの現場に、村上春樹初期の三部作を送ってくれたミドリさんは、その後しばらく我が家に足繁く通ってきたけれど、どちらの人生もそのまま何の変化もなくずっとまっすぐということはありえないので、やがて彼女が我が家を訪れる回数は減り、いつしか音信も絶えた。

ただし思い出は残る。彼女が遠いアルジェリアまで送ってくれた三冊の本は、そのままの形で娘たちの本棚で眠っている。

そして、今もどこかで、村上春樹の若い頃の作品を読んでいる人はいるだろうし、グレン・グールドというピアニストを親愛している音楽ファンもたくさんいるだろう。過去と現在はそのようにして繋がり、そして、目には見えないけれども信頼のおける確かな世界をかたちづくっているということを信じたい。

*88 最後の閑話(esq.21)

タイトルを見て、驚いた人もいるかもしれません。

ほぼ半年にわたって、ほぼ一週間に一回更新してきた〈小説のためのエスキス〉と題した試みは中断させていただきます。

「させていただきます」などという珍妙な丁寧語を使うのは、書いてきたのは本人だとしても、読む人と書く人の関係は表裏一体というか、持ちつ持たれつの関係であるということが今回の試みで痛いほどよくわかったので、一方的に中断してしまうのは申し訳ないという気持ちが先立つからです。

単純明快な理由から申し上げると、一週間に一回更新するのがしんどくなってきたということがあります。ならば隔週とか、一ヵ月に一回とか、いくらでもやり方はあるだろうと言われそうですが、この試みは規則的に連載するからこそ意味があり、続けられてきたように思います。

どだい、はじめて小説というものを試みるにあたって、専業の小説家でさえ、体力と精神力を削られるという連載形式(これは日刊紙の連載について、多くの作家たちが言っていることです)を採用したこと自体、身の程知らずであったのでしょう。

正確を期すれば、創作ノートの公開という形式そのものが破天荒でもあり、不遜でもあったわけですが、それにしても、こんなにしんどいものだとは思ってもみませんでした。年寄りの冷や水と言うべきかもしれません。

物語の軸となる人物の名を「猫さん」と呼ぶことで、この小説の試みはスタートしたわけですが、途中から、一人称と三人称の関係が不分明になってきて、小説というものは難しいものだなぁとしばしば考え込むようになった。

それに加えて、構想がどんどん膨らみ、変化していったということがあります(とりわけ*84のあたりから)。

どんなふうに構想が膨らんでいったかというと、そろそろ猫柳泉の父親の亮氏(*73で名前まで考案した)がO市を離れなければならなくなった事情を書かなければならないのですが、下手をするとそれだけでも一篇の小説になりそうな気配になってきたのです。

彼は同じ高等学校に勤めていた若い女性教師と親密な関係になり(つまり不倫関係)、それがために妻(=猫さんの母)は精神を病み、若い女性教師は自殺を図るという、まさにどろどろの三角関係に陥る。この構想——現時点ではむしろ妄想と言うべきもの——が肥大してきて、われながら、これを書き抜くだけの力が自分にあるか、心許なくなった。

これじゃまるで島尾敏雄の『死の棘』じゃないか……。

戦中派の猫柳亮氏は、独学でデカルトに関する学位論文を書いて東京の大学に送り、学位を取得している。不倫相手の女性が自殺を図るに至って、O市にはいられなくなり、妻と子を引き連れて東京に転居するという、まあ、途方もない構図です。

息子の泉は、狂乱する母の姿を直視できずに、同級生の幼なじみである多子(さわこ)さんの家に入り浸り、彼女の優しさに癒される。多子さんは猫さんの初恋の人であると同時に、狂乱し〈不在〉となった実の母親の代わりをつとめていたということになります。その絆が東京に引っ越すことで絶たれてしまう。そして、還暦を過ぎて生まれ育った町に帰ってきた猫さんは、精神科の医師になった同級生の北島晋一宅に招かれ、その妻、多子(さわこ)さんと再会する。そして凍結されていた忌まわしい記憶が一気に溶け出し、猫さんもまた錯乱に陥る。

さて、猫さんは多子さんを奪い取って、O市を終の棲家とするのか。それとも宿痾(?)の記憶喪失から立ち直って、結局は東京に帰っていくのか。

もう、おわかりでしょう。

休まないと体も頭も持たない。妄想はとてつもないエネルギーを消費する。小説家が尊敬される所以でもあり、身を滅ぼす原因でもあるのだろうなと思うに至ったしだいです。

早い話が、この種の長編小説を書く準備はまだ自分にはできていないということです。

 

今抱えている五百ページの翻訳がようやく三分の二あたりまで来たところです。

まずはこれを仕上げなければなりません。

さて、仕上げたのち、膨れあがりすぎた妄想を小説という器に盛る作業に再度立ち向かう気力が戻ってくるかどうか。

ここにネタバレのような、これからの物語の展開を記したのは、ただたんに中絶してしまうのではあまりにも芸がないし、読者の方々に失礼でもあるだろうと思うと同時に、もしこの小説の試みに何か必然性のような、定めのようなものがあるとすれば、きっとまたここに戻ってくるだろうとも思っているからです。そういうものがなければ、ここで途絶えてしまっても仕方がない。

よみがえってくる場所が、このブログになるのか、あるいはすでに本になっているのか、それは書いている自分にもわからない。

いずれにせよ、半年間続いたこの〈小説のためのエスキス〉は書いている本人にとっては、計り知れない収穫がありました。小説とは何かと上から目線で論じることはさほど難しいことではありません。みずから書いてみて、初めて気づくことがたくさんありました。

ですから、ここまでお付き合いいただいた方々には感謝しかないのです。物申したいという読者の方がいれば、コメント欄にどしどしお書きください。コメント欄に公表されるのは抵抗があるという方で、私のメールアドレスをご存じの方は、そちらに一筆お願いします。

ただし、扉の写真だけは頑張って更新します。こっちのほうは週に一度の更新がすっかり習慣になり、楽しくもなってきました。ブログ本文の更新はたまにしかできなくなるでしょうが、せめて写真で一息ついていただけば幸いです。

*87 美術展(esq.20)

*14

 

泉さんは庸子さんを美術展に誘った。もう、三十年前のことだ。

——今度の日曜に砧公園に行かないか。

——公園って、散歩?

——うん、それもあるけど、公園の隅に新しくできた美術館でワイエス展やってるんだよ。

——あら、そうだっけ。美術担当としては迂闊だったわね。ワイエス、好きなの?

——好きというより、ちょっと気になることがあって。名前を知っているだけで、絵は一枚も見たことがない。

——「クリスティーナの世界」も?

——うん。

——わたしは、あの絵、どうも好きになれないのよ。まるで演劇の舞台の一場面みたいで。

——どんな絵なの。

——女の人が枯れた草の上を這い上がっていくの。

——え……。

——ね、え、でしょ。画布の上のほうに地平線があって、いかにも開拓時代のアメリカで建てられたって感じのがっしりした木造の家が二、三軒があって、どうやらその女の人はその家に向かって這っていこうとしているようなの。

——どんな感じの女の人? 若いの、年取ってるの?

——背中から描かれているから顔はわからないけど、若いわね。髪が長くて、ワンピースを着ている。色は覚えてないけど、白っぽくて少し薄汚れている感じ……。

庸子さんは、そう言って、左手で右肘をつかんだ。

——たしか、下半身が麻痺してる人をモデルにしたってことはその絵の解説に書いてあったと思うけど。

——やめておくかい。

——いや、そうは言ってない。実物を見てみないとね。あんがい好きになるかも。よけいに嫌いになるってこともあるけど。

庸子さんは目を少し伏せて笑った。

——でも、あなたのほうから、美術展に誘うなんて、むしろそっちのほうが気になるけど。ワイエスの展覧会のことはどこで知ったの?

——昨日、駅ビルの本屋で雑誌を立ち読みしてたら、「三代続くアメリカの現代画家」というタイトルの美術展紹介記事が目に入ったんだ。画家って二代続くのも珍しいのに、三代って、どういう親子関係だったんだろうと思ってね。とくに現代絵画の世界は破天荒な伝説が多いだろ。アル中だとか、精神病だとか、親子の葛藤とか軋轢とかさ。代々受け継がれていく職人技術ならともかく、芸術なんだから、親子が真っ向からぶつかっても不思議ではない。その辺がどう受け継がれていったのか。

——ふーん、おもしろいじゃない。行こう、行こう。

 

絵から圧倒的な衝撃を受けたのは、誘った猫さんよりも、むしろ庸子さんのほうだった。

〈アメリカン・ヴィジョン〉と銘打たれたその企画展は、まずは、初代のN・C・ワイエスから二代目のアンドリュー、そして三代目のジェイムズへと仕事と画風がどのように変遷していったかを写真と作品とテキストのパネルで説明するイントロダクションの部分、それからN・Cの作品を展示するコーナー、アンドリューのコーナー、そして一番若く同時代的なジェームズのコーナーで締めくくられる、かなり大がかりな構成になっていた。

庸子さんの軽快な足取りは徐々に重くなり、アンドリューのコーナーに入ったときには貧血に見えるほど顔色が青ざめ、作品の前でいちいち立ち尽くす時間が増えていった。

声をかけられる雰囲気ではなかったので、猫さんは同じ展示を三回見て、ミュージーアム・ショップで図録を買うと、庸子さんが出てくるのが目に入る位置にある腰かけに座り、買ったばかりの図録のページを繰った。

どれくらい時間が経過したのか、肩を軽く叩かれて、われに返った。

——待たせちゃってごめん。

——いや、時間を忘れてた。

——図録買ったのね。

——うん。すごい。図録見て、再確認した。

庸子さんは、どこか遠くを見ているようにぼんやりとしていた。

——レストランで何か食べようか。

——何か食べるって気分じゃないかも。公園散歩しない?

広い芝生を取り囲む大きな桜の木のほとんどが花びらを散らし、柔らかい緑の若葉が光を集めていた。花見の時期が終わったばかりで、おそれるほどの人出ではなかったものの、晴れ上がった春の空に誘われて、たくさんの家族連れが公園内を賑わしていた。

歩きはじめて、しばらくしてから庸子さんが口を開いた。

——ねぇ、会社辞めていい?

あまりに唐突だったので、猫さんは自分の左側を歩いている庸子さんの横顔に視線を向けることしかできなかった。二人は結婚したのちも、それまでと同じように教科書会社に勤めつづけた。おしどり夫婦と冷やかされることもあったが、気にはならなかった。

——また絵が描きたくなっちゃった。こんなの初めて。

たしかに、二人はこれまでいくつもの美術展に足を運んだけれど、庸子さんがこんなことを言い出すのは初めてのことだった。

——わたしね、色のついた絵を見て、こんなに感動したの初めてなの。本物のテンペラ画を見るのもじつは初めてなの。テンペラ画ってこんなにすごいものなのね。たぶんアンドリューが研究に研究を重ねた結果の色遣いなんでしょうけど。

また、庸子さんの独演がはじまった。ふだんは無口なのに、一年に一度か二度、たまっていたものを吐き出すように、えんえんとしゃべり出すのだ。

色が向こうから迫ってくるのではなく、自分が色のなかに吸い込まれていくような気がしたというのだ。色のなかにたしかな空気感があって、それに包まれる。まるでこの公園にいて、緑の芝生があって、桜が大きく枝を張り、鳥が鳴き、虫が飛んでいる、そんな感じ。正確に風景を模写したというのじゃなく、風景を画布のなかに取り込んで、そこを空気が自在に行き来している感じ。ヨーロッパの写実主義にも日本画にもない、リアルな感じ。画家が何かを表現しているのではなく、人も動物も生物も風景も、そこにそっと佇んでいる。

庸子さんのいつ終わるともしれない独り言を耳にしながら、猫さんも、作品の印象を反芻していた。いや、反芻ではなく、忘れていた記憶が揺り戻ってくる感じがあった。三代にわたるワイエス家の画家たちが描き出す風景、風物は、彼が育った北海道の空、風、雪、川そのものだった。N・Cの描くインディアン——ネイティブ・アメリカンというのが正しい呼称かもしれないが、それではイメージと肉体が伴わないので——は、猫さんが小学生だった当時、どのクラスにも一人や二人いたアイヌの少年少女を思い出させた。しかし、N・Cの作品にある生命の率直な躍動感のようなものが息子のアンドリューの代になると、なぜか息を潜めて、どの作品にも沈降する死というのか、質量感とでもいえばいいのか、そういうものが画面の奥へ奥へと引きこもっていくように見えるのは、どうしたことなのだろう。舟や納屋や牛舎の内部に湛えられた静けさ、無時間の感覚はただ事ではない。

庸子さんも同じことを考えていた。アンドリューの裸婦は——背景こそ窓の開いた室内であったり、奥深い森のように見えるものであったりするが——、きわめてがっしりとした骨盤を持つ肉厚の女性たちばかりだ。テンペラ画に描かれた彼女たちの肉体は、中学生のときに美術室で初めて出会った石膏像の手触りそのもの、あのミロのビーナスの堂々たる腰回りを思い出させる。

——わたし、また絵を描く。アンドリューの水彩を見て、絵が呼んでる、色が呼んでるって思ったの。

公園内の散歩はえんえんと続いた。公園の縁は起伏のある林になっていて、その向こう側には住宅街を抜ける道路が走っていた。公園の南側の空を高速道路がかすめていた。

二人はもう子供をつくることは断念していた。築地の病院では、人工授精とか、最新の生殖補助医療も紹介してくれた。しかし、すべて手を尽くして、目的がかなえられなかったらどうするのか。今よりもずっと絶望するように思えた。むしろ、子を断念することで開ける人生もあるのではないか。温厚で包容力のある婦人科の看護師さんは、「それは賢明な選択だと思います。わたしもそのような人生を選びましたから」と言った。

庸子さんは出版社を辞めて、来る日も来る日も鉛筆のデッサンに取り組んだ。そして、ある日、そのデッサンに水で溶いた薄い色をのせた。満足できるものに仕上がると、額に入れて寝室に飾った。

川辺に咲いていたマーガレットの一輪とか、気に入って買ってきたグラスやお茶碗とか、読みかけの本とか。窓のレースを通して入ってくる陽射しとか、風をはらんだカーテンとか、日常のあらゆるものが、画用紙のなかに取り込まれた。

猫さんは趣味にしておくのはもったいないと思い、会社に持っていくと、本の挿絵や装幀に採用されるようになった。その評判が口コミで広がり、ほかの出版社からも声がかかるようになった。

こうして庸子さんは少しずつ忙しくなっていった。

自分の胸にしこりがあるのに気づいたのは、ワイエス展から数えて五年後のことだった。

*86 泉さんの回想(esq.19)

*13

 

庸子さんの物語を猫さんが知ったのは、彼女が住む洗足のアパートで初めて二人が結ばれた日のことだった。

庸子さんは堰を切ったように朝まで語りつづけた。その間、猫さんは隣でうとうとしたり目覚めたりを繰り返しながら、話をずっと聞いていた。聞いていたというよりも、耳に入っていたというべきかもしれない。庸子さんの声は、メゾソプラノかアルトか、ちょうどそのあいだくらいの柔らかい声だった。それに加えて、少し滑舌の悪いところがあって——正確に言うと、ときどき興奮して声が高くなると、ファルセットのように声が裏返る——、言葉が乱れるたびに、猫さんは沈みかけた眠りから釣り上げられる。

彼女がしゃべり疲れて眠りに落ちたとき、彼もまた聞き疲れて眠りに落ちた。

白々とした光のなかで目が覚めたとき、彼女はすでにゆったりした生成りのブラウスにジーンズをはき、足を組んでインスタントコーヒーを飲んでいた。

——飲む?

猫さんは無言でうなずくと、服を着て、トイレに入り、顔を洗って出てくると、丸テーブルの上にはコーヒーが用意してあった。ソーサーの上には角砂糖とスプーンがが置いてあり、その隣に瓶の牛乳が立っていた。

庸子さんは語ることはもう何も残っていないと思ったか、もう何もしゃべるまいと心に決めたか、唇は一文字に結んだままだったが、化粧を落とした素顔は晴れやかだった。

猫さんのほうも満ち足りてはいたけれど、人の話を聞くだけ聞いて、自分のことは話さなくてもいいのかという思いが残っていた。でも、庸子さんが何も言わず、何も訊いてこないので、自分のほうからあえて打ち明けるという気分にはなれなかった。コーヒーに角砂糖を一つ落とし、牛乳の蓋——厚紙の押し蓋——を開け、コーヒーと牛乳を交互に飲んでいるうちに、また軽く勃起してきた。自然と腰が上がり、彼女の額に唇をつけた。

 

猫さんと庸子さんの夫婦は二十五年続いた。あるいは二十五年で途切れた。その間に夫は妻にどれだけのことを語り、妻は夫にどれだけのことを語ったか。自分の学生時代のことを、どのくらい語っただろうか。何も語らなかったわけではない、もちろん、二十五年も一緒に暮らしていたのだから。おまけに子供のいない夫婦であったから。よく話した夫婦だったのではないかと猫さんは思うのであるが、こればかりは他の夫婦と比較ができないので、なんとも言えない。

でも、自分の学生時代の、あの失恋、あの理不尽な別れと、その後の失意と絶望の一年については、築地の病院の看護師さんに話したこと以上のことは、結局何も話さなかったのではないかと思い、そのことがなぜか、猫さんの悔いになっているのである。

庸子はあれだけ自分の失恋、あるいは破綻した恋について語っておきながら、なぜ夫の過去を問い質すことをしなかったのか。気遣ったのか。知る必要を感じなかったのか。

それが今となっては——今さらのように——、猫さんの心残りになっているのである。

猫さんが彼女——もちろんこの彼女は庸子さんのことではないし、庸子さんの場合と同じように、相手の固有名詞もあえて特定しないけれど——と知り合ったのは、彼が大学に入った年の夏のことだった。

夏休みは金を貯めると決めていた。入学したばかりで勝手がわからず、前期はたいしたアルバイトもできず、なけなしの貯金——心配した親から渡された小遣い——はほとんど底をついていた。

求人案内をいろいろ調べた結果、昼はデパートのお中元の仕分けと発送、夜は同じデパートの屋上で夏場だけ営業するビアガーデンの求人に応募するという強攻策に打って出た。時給の単価もさることながら、肉体労働とはいえ銀座のデパートで働くというのも魅力のひとつだった。そのビアガーデンで二人は出会ったのである。ジョッキをテーブルに配り歩く仕事はまさに重労働だった。一リットル入りのジョッキを左右の手に三つずつ持って、ひっきりなしに場内を歩き回る。腕も脚もまさに棒になった。彼女は厨房で食器洗いを担当していた。昼は歯科衛生士の学校に通っているとあとで聞いた。

仕事は過酷だったが、爽快だった。本とノートと筆記用具から解放されることがこんなにも心躍ることなのかと思った。

デパートのビアガーデンは九時がラストオーダー、十時には店じまいとなる。ホール担当はテーブルの上を布巾できれいに二度拭きし、コンクリートの床にデッキブラシをかけ、モップで水分を吸い取って業務終了となる。厨房の食器洗いもそのころ同時に終わる。

アルバイト学生がいっせいに乗り込む帰りの業務用エレベーターのなかで、たまたま二人の視線が合った。その日は勤めて初めての金曜日だった。土曜日の夜のビアガーデンは休業で——週休二日制にはなっていなかったけれど、土曜日は午前だけ、当時はまだ「半ドン」という言葉が残っていた——、アルバイト料は日給だが、週末の金曜日に支払われることになっていた。

夜の銀座は、ここは日本かと思うほどネオンが美しく、街路は整然として、夜風に揺れる並木は涼しげだった。当時は新宿も渋谷も池袋もまだ雑然として騒がしく、戦後のまま時間の止まっている場所がいたるところに残っていた。銀座だけ、時代を超越しているかのようにとり澄ましている。

デパートの裏口から銀座の裏通りに出たとき、解放感のあまり、猫さんは思わず大きな声を出した。深呼吸したつもりだった。そのとき背後で、クッと笑う声がした。よほどタイミングがよかったのだろう、自分のほうから女性に声をかけたことなど一度もない猫さんが「ぼくらもビール飲みに行きませんか」と誘ったのである。

二人は表通りに出て、ビール会社の経営するビアホールに入った。二人とも給料をもらったばかりで、自然に笑みがこぼれた。彼女は小柄で丸顔で、髪は短かった。ほとんどすべてが庸子さんとは正反対だったと、今になってあらてめて猫さんは思い返すのである。

その夜から二人の付き合いは始まった。若かったし、疲れていたし、まだろくに飲み方も知らないビールが全身に回ってしまえば、もうとめどなかった。彼は初めて女の身体を知った。嘘だろうと思った。なぜか。夢精のときの、あのもどかしくも吸い込まれるような快感が、そっくりそのままそこにあったから。自分は蝶になった夢を見ているのか、蝶の夢にまぎれこんでしまったのか。

彼女は豹変した。陸の生物から海の生物へと姿を変えた。汗ばむ肌は潮の香りを含み、全身が溶けて、ペニスは標的を失った。やがて風は怒気を増して海面を逆立て、彼はたちまちなぎ倒されて、海に沈んだ。

彼には何が起こったのか理解できなかった。暴風雨に襲われたようでもあり、気の遠くなるような進化の時間を一瞬にして経験したようでもあり、そんな快感を最初に知ってしまったことは、けっして幸福な記憶とはならず、かえって苦い思い出となった。相手は天然の娼婦というべき女性だったかもしれないし、そうだとすれば、なぜそんな女が彼を選んだのかもわからないし、ただ濃密なだけのこの奇妙な性的関係が、なぜ一年も続いたのかもわからない。

次の年の夏がめぐってきて、いつものように仕事の帰りに——彼は家庭教師の口を見つけ、もう肉体労働はしていなかった——、彼女のアパートに寄ったとき、思いがけない言葉が彼女の口から出てきた。「できちゃったみたい。ちゃんと計算していたのにね」

頭の芯が痺れて、すぐには返事ができなかった。彼女は若いのに、毎朝自分の体温を記録し、避妊具も用意していた。「だいじょうぶ。あなたに迷惑かけないから」と言った。

目の前が真っ白になったか、真っ暗になったか、そのとき自分がどんなに情けない顔をしていたか、もちろん本人にわかるわけがないし、そもそも相手の言っていることの意味がわからなかった。迷惑をかけない?

迷惑ってなんだ?

結婚して、籍を入れて、ちゃんと産んで育てようと言った。

彼女は伏し目がちになり、さびしそうな、相手を見下したような、かすかな笑みを浮かべた。同い年のはずなのに、一回りも二回りも年上に見えた。「うん、ありがとう」と彼女は答えた。

帰り道、大学をやめなくてはならない、と猫さんは思い詰めた。去年の夏の、あの解放感を思い出していた。学者の家に育ち、厳格な父の影響圏から逃れようとして一人暮らしを始めたのだ。学校をやめ、一人の労働者として所帯を持ち、父親になり、子を育てることはまっとうな人生の道を歩むことではないかと、健気に考えた。

そう思うと、あの学内でラウドスピーカーでがなり立てている学生たちに対する憤りのような、敵愾心のようなものが、ふつふつと自分の内部に沸きあがってくるのを感じた。自分自身が学生であり、大学に所属しているのに、大学解体を叫ぶ。学費はいったい誰が払っているのか。大学を解体して、自分たちで新たな、自由な大学を創るなんてことが可能だと本当に信じているのか。あらゆる政治制度に対する、あのすべての抗議と主張を、きみたちは本当に信じているのか。

すべてはパラノイアの妄想ではないか。自分を何様だと思っているのか。

おれはそういうものをすべて捨てよう。たったひとりのふつうの人間になって、ふつうの生活者になって、誰にも知られず、何ひとつ主義主張を語ることなく、妻を愛し、子を愛し、黙々と働き、生きていこう。宮澤賢治のような言葉が浮かんでくると、顔が火照って、何も恐れることはないという声が聞こえてくる。

この期に及んで、猫さんは正しい人でありたかったのだ。

主義主張がなんであれ、人は正しいことをしようとして、正しい言葉でみずから納得しようとするとき、じつは何も見えなくなっている。女に溺れることと、主義主張、政治思想に溺れることは同じことなのだという考えは、若い人にはふさわしくない。同時代を生きる青年の表と裏に過ぎないということも、どちらが表で裏なのかも、その時代を生きている人間にはとうてい知り得ないということなど、わかるはずもない。

それにしても——と、還暦を過ぎた猫さんは思うのだ——なんと口惜しい青春か。

次の週の家庭教師の帰りに、彼女のアパートに立ち寄ると、鍵がかかっていた。いつもなら、その曜日のその時間帯には彼を待っているはずだった。それが一年間続いた習慣だった。

食料でも買いに出たのかもしれないと思い、部屋の前の吹きさらしの通路でしばらく待った。隣の住人が出てきた。顔見知りになっていたので、向こうから声をかけてきた。たぶん、今夜は帰ってこないのではないか、昨日、救急車が来て運ばれていったから、と言う。

病気なのか、怪我をしたのか、事故か、事件か、どこの病院に運ばれたのかと畳みかけてみても、そのとき部屋にいなかったからわからないという答えしか返ってこない。彼女が帰ってくるのを待つしかなかった。当時は、若くて部屋に電話を備えている人は少数だった。携帯電話など夢のまた夢、いや夢を見る人さえいなかった。彼女のほうから彼の部屋にやってくることはなかった。

毎日のように彼女の部屋を訪れても、鍵はかかったままだった。

一ヵ月がたったある日、訪れてみると部屋のドアが開いていた。覗いてみると、部屋は空になっていて、大家がいた。どこに行ったのかと尋ねてみると、越した先は聞いてないけど、実家にでも帰ったんじゃないの。若くして流産したんじゃ、辛いだろうし、養生もしなくちゃならないだろうし、という。

流産? 妊娠を告げられたときよりもなお深い穴に突き落とされたような気がした。しかも、なんの相談もなく姿を消した。何もかもわからなくなった。

子供というものは、母親のものなのか。胎のなかの児はひとりで身ごもったものなのか。おれはいったい何者なのか。彼女にとって、自分はなんだったのか。彼女はなぜおれを選んだのか。何が目的だったのか。

明晰に考えられることなど何ひとつなかった。

ただ自分は取り残され、どこかに流れていった胎児のように捨てられたという感情だけが潰瘍のように腹部を蝕んだ。

まるで夢のようだという思いは、すべて嘘だったのかという思いに変わった。彼女が歯科衛生士の学校に通っているということも、郷里は四国の松山で、家は観光客相手のお土産屋で、兄が一人いるという話も、すべて彼女の作り話のように思えた。

かりに作り話ではないにしても、意味を失う。彼女とはもう接点がないのだから。

おれは他人の記憶のごみ箱ではない。

おれは同じことを繰り返している。

生まれ育った土地を捨て——いや、捨てさせられたのだ——、東京に出てきたときも、ただ呆然として、新たな環境に馴染むことができなかった。教室のなかで一人取り残された感じ。世界から見捨てられている感じ。

なぜこんなことが繰り返されるのか。

このおれの、いったい何が問題なのか。

こうして猫さんは大学を休学した。朝夕は新聞配達をして、家庭教師の仕事は続けた。残った時間はひたすら本を読んだ。

結局その一年間で得たものは、ただ、時間はたしかに慰謝を与えてくれるという手応えだけだったが、そのおかげで猫さんは、あの荒れ果てた大学に戻るしかないと腹をくくることができたのだった。

遠い記憶のなかで彼女の顔も声もかすんでしまっている。あれほど激しかった快楽の記憶も、もう何万年も前の化石のようでしかない。しかし、かすかな記憶のなかで、ひょっとして彼女は本当にこの自分を愛していたのかもしれないと思うとき、人が過去を美化するのではなく、過去のほうで人間に余計な思いをさせないようにしてくれているのだという作家の言葉を、猫さんはあらためて噛みしめるのである。上手に思い出せる人は幸せだ。

*85 庸子さんの回想(esq.18)

*12

 

二人は故意に会話を避けようとしていたわけでも、話すべきことがなくなったわけでもなかった。むしろその逆に、結婚して以来、これほど会話の必要、欲求を感じたことはなかったのである。しかし、お互いにどう切り出せばいいのかわからなかった。言葉はそれぞれの心のなかでわだかまり、出口を見失っていた。

夫婦のどちらにしても器質的な問題なり異常は見当たらず、婦人科の看護師さんの指導に従って規則的な性生活を営んできたにもかかわらず、妊娠の徴候がない。

原因が見つからないということ自体が不安を招く。不安は現在と未来に属するものであるにも関わらず、人は過去との因果のなかにその由来を求めようとする。そして、どういうわけか、事態を悪いほう、悪いほうへと追いこんでいく。

 

——何もかも失ってしまった。

わたしはまた同じ言葉を繰り返している、と庸子さんは思う。あそこに断絶点があって、そこで自分は途切れている。一年間の生理の途絶えは、けっして女性の肉体の失調ではない。わたし自身が、そこで途切れ、それまでの自分は死んでしまったのだ、と思う。事実、死のうとさえしたのだから。

幼いころから優等生だった。女の子にしては背も高かったし、運動神経もよくて、ピアノの上達も早かった。父は銀行員で、母は専業主婦、小さいころからたくさんの習い事をさせられた。長女の庸子さんは、父にも母にも従順だった。素直に教えを守り、勉強をした。だから成績はよかった。

絵を描くことに目覚めたのは、中学校に入ってからだった。美術の時間に初めて石膏デッサンに触れて、夢中になってしまったのだ。先生に褒められたことは大きかった。だが、それよりも、ふだん文字と記号を書くために使っている鉛筆に、こんなに豊かな造形力が潜んでいるとは思ってもみなかった。石膏の——少し煤けて肌理の粗い——白い肌にうっとりした。でも、あの石膏たちは、元はといえば、どれも古代ギリシア・ローマの遺跡から象られたものなのだ。世界中の美術教室に散らばった二千年前の大理石像の複製。それを遠いアジアの果ての島国の、小さな中学校の、小さな美術教室で、十歳を超えたばかりの少年少女たちが息を詰めて、描き写している。

もちろん、そのとき中学生だった庸子さんが、そんなふうに考えたわけではない。失われてしまった自分の少女時代の、もっとも美しい思い出が石膏デッサンに目覚めた瞬間にあると、傷ついて大人になった今の——二十代なかばを過ぎた——庸子さんが思うのである。

彼女は、山の手の住宅街にこぢんまりと佇む、戦前に建てられた和洋折衷の居心地のいい家で育った。でも、そのころの東京は高度成長期に入って、どこもかしこも建設工事現場だらけ、電車は満員、道路は渋滞、あちこちでデモ隊が警官隊と衝突していた。

騒がしいのは苦手だった。大きな音を耳にするだけで、足がすくんだ。

美術教室は静かだった。そこでは時間が止まっていた——二千年以上前から。アジアでもヨーロッパでもない、世界のどこにもない場所、その密やかな空間の中で、2Bの鉛筆の音だけがさらさらと響く。画用紙に最初に薄く十文字の線を引く。そこに全体の輪郭を埋める。カールした髪の細部、眉、鼻梁、顎の線を引き、影をつけていく。

たしかにそれは目の前の石膏像——メディチでもいいし、マルスでもいいし、アリアスでもいい——を描き写しているのだけれど、白い紙の@なか{傍点}——けっして紙の上ではなく——に、一つの像が立ち現れていく時間は、まぎれもない造化の時間であって、世界のどこにも属していない、その真っ白な時間にわたしは魅せられていたのだと、今の彼女は思う。

そして、庸子さんは地元の——まだ大学区制にはなっていなかったころの——高校に入学し、美術部に入った。そこで鉛筆は木炭に代わり、画用紙は木炭紙に変わった。それは初めて毛筆を握ったときのとまどいにも似た衝撃を彼女に与えた。腕と手が宙に浮いていて、肩から上腕、二の腕から手首、指先までの筋肉の微細な連携が木炭にそのまま乗り移っていく。描いた線を消すときには消しゴムではなく、食パンを使うのも新鮮だった。彼女はますます粗描の世界へのめり込んでいった。

そこまではよかった。造形の世界がデッサンから水彩画、油彩画へと広がっていったとき、彼女は小さな躓きを経験する。高校の美術部では——おそらく美術の世界全般においても——、木炭のデッサンはあくまでも水彩や油彩、あるいは彫刻作品へといたる前段階のレッスンとしかみなされていなかった。

色って、何? 形はつかまえられる。でも、色はつかまえられない。逃げていく、彼女にはそう感じられる。鉛筆や木炭で把握した精緻な物の形が、色を塗ったとたんに溶けていく。一所懸命に目の前の色をつかまえて、画布に定着させようとするのだが、色と自分の目のあいだ、色と自分の手のあいだに隙間があるのを感じてしまう。

もちろん、彼女は小学校でも中学校でも、絵の具を使って風景や花を写生をしたり、自画像を描いた経験はあった。でも、彼女が強くひかれたのは、あくまでも石膏像のデッサンだった。色彩の世界にひかれたことは一度もなかった。油絵の具には触れたことさえなかった。

庸子さんの色覚に異常があるわけではなかった。しかし、彼女の内部には、色彩に対する頑なな抵抗が潜んでいた。あるいは、色がうるさいと感じられる。とりわけ暖色系の、赤、紅、緋、茜、臙脂と呼ばれる色彩群は、大きく口を開けて叫んでいる口腔内の赤い色を思い出させる。あるいは月に一度の血の色。オレンジ色に染まる夕暮れも秋の紅葉も庸子さんには刺激が強すぎた。

せいぜい心洗われるのは新緑の季節、澄みきった冬の空。色は淡ければ淡いほど、心に染みた。色がはみ出ないように、騒がないようにと神経を使い、その結果、絵は静かになるが、色は画布の奥に引っ込んでしまう。

石に象られた二千年前の胸像を紙の上に描き写したときには、命が通う感動と興奮を得ることができるのに、自然界の物を描き写すと、どうして死んでしまうのか。

でも、庸子さんは努力家だから、あきらめなかった。デッサンは得意だったし、勉強もできたから、美術大学に入ることはそんなに難しいことではなかった。両親も、娘がまさか画家を志しているとは思わなかったから——本人にもそこまでの野心はなかった——、反対はしなかった。

しかし、そこで予想外の挫折が待っていた。色がなんであるか、ますますわからなくなってしまったのである。庸子さんにとって、物の本質は形態にある。色はその装いにすぎなかった。一個の石に赤い絵の具を塗れば赤くなり、青を塗れば青くなる。そういうものと思っていた。だから印象派の画家たち——前期にせよ、後期にせよ——の色彩の冒険は、まったく縁遠いものだったのである。

そして、美大に進学したのは間違いだったのではないかと深刻に悩みを深めていった三年目の時期に、出会ったのである。まさに色彩の野獣のような男に。

友人と好奇心から覗きにいった油絵科のアトリエに、その男はいた。ちなみに庸子さんは、油絵にひかれることはなく、色彩には苦手意識はあったものの、静かで芯の強い岩絵の具には憧れるところがあったので、日本画科を選んだのである。

その第一印象は、汚い、であった。男も絵も、何もかも。何日も洗っていないにちがいないシャツとジーンズ、髪はもじゃもじゃの長髪。百号のキャンバスに何やら絵の具を叩きつけているが、何を描いているのかはわからない。いわゆる抽象画と呼ばれているものくらいのことはわかっても、それ以上の距離は縮まらない。それどころか見ていて吐き気がしてきた——ほんとうに。鼓膜が痛くなってきた——ほんとうに。

庸子さんの苦手な赤系統の色、茶色、焦げ茶、ダークグレー、黒、重苦しい色たちが、これでもか、これでもかという具合に、画布に盛り上げられている。足もとにはペンキの缶、砂や泥を入れたバケツもあった。

彼が何を描いているかではなく、彼が何をしているのかがわからなかった。激しい嘔吐感に襲われて、すぐに立ち去ろうとしたとき、呼び止められた。

——おい、失礼だろ。

庸子さんはハンカチで口もとを抑えながら、立ち止まり、振り返り、頭を下げた。そして、そのままトイレのほうに足早に歩いていこうとした。声はなおも追ってきた。

——おい、どこへ行くんだよ。トイレか? だったら用がすんだら戻ってこいよ。挨拶するくらいは礼儀だろ。

庸子さんは吐き気と恥ずかしさで泣きたくなった。トイレに入ると、不思議と吐き気は収まった。あの共同アトリエには戻りたくなかった。また吐き気がぶり返してきたらどうしよう。でも、お嬢さん育ちの庸子さんは、礼儀知らずと言われたまま立ち去るわけにはいかなかった。

友人と二人で恐る恐るアトリエに戻ると、男は後片づけをしているところだった。二人が戻ってきたことに気づくと、愛嬌のある笑みを浮かべた。

——へぇ、戻ってきたんだ。見所あるじゃん。

三人は学食の売店——まだ自動販売機は学内にはなかった——で瓶のコカコーラ——缶もまだ普及していなかった——を三本買うと、木陰のベンチに座った。新学期が始まったばかりで、キャンパスを歩く学生の数多く、楓の若葉を揺らす風が気持ちよかった。

——オレの絵を見て、ほんとに吐き気を催すなんて、見所あるじゃん。

彼は——固有名詞を思い出したくない庸子さんのために名前は出さない——「見所」という言葉を二度使った。

——評論家なんて、頭の悪い不感症女みたいなもんだから、吐き気さえ感じないんだよ。そんなんがこの学校で先生やってんだから、退屈しちゃうよね。

だったら、やめればいいのにと庸子さんは思った。

最初は吐き気、次には反発、そのあとのことは成り行き、詳しく書いたところでさほどおもしろくもなく、美しくもないので——庸子さんにとっても、読者にとっても、また筆者(書いているこの私のこと)にとっても——、要所だけかいつまんでお伝えしよう。

とにかく、その日から彼と庸子さんの付き合いは始まったわけだが、どちらかと言えば潔癖症に近い庸子さんが、身なりにも清潔にも無頓着な男に引き寄せられたのは、ひとえに色彩についての彼の考えなり信念によるものだった。庸子さんは健気にも、自分の色彩に対する弱点を克服しようとしていたのである。

色は光の属性ではない、というのが彼の持論だった。

——いいかい、色は物それ自体の属性なんだ。林檎は深夜、闇の色に染まるかい? 光が当たるから赤く見えるのかい? 違うよね。青い林檎は昼でも夜でも青いよね。夜に食べても朝に食べても、酸っぱい林檎は酸っぱいよね。ニュートンはさ、林檎が落ちるのを見て、あれは落ちてるんじゃなく、地球が引っ張ってるんだと考えた。そして、地球が引っ張っているだけじゃなく、林檎もまた地球を引っ張っている。ほんのわずか、地球は林檎のほうに引き寄せられている。色もそれと同じなんだ。生き物であれ、無生物であれ、物には力がみなぎっている。物がそういう形をしているのは、そこに力の臨界線のようなものがあって、かろうじて均衡が保たれているからなんだ。そして、この均衡はたえず、そして永遠に揺らいでいる。石を風の通り道に置いておけば、百年かそこらで風化してしまうだろう。百年なんて、あっという間さ。そう、だからさ、色彩はね、その物が内部に貯めこんでいるエネルギーが表面ににじみ出て、光に照らされて、おぎゃーって声を上げているんだよ。色は命なんだ、生命なんだ、命の色は赤いんだよ。空は死の色だよ。赤い命が通わなくなった死の世界なんだ。でも、美しい? いや、だから美しいのかもしれないね。だったら、オレはさ、美しいものは描きたくないのさ、どろどろした生まれたての、血みどろの胎児みたいなものを描きたいのさ。

庸子さんが愛したのは、彼の絵でも、肉体でもなく、言葉だった。その言葉に彼女は自分の身を捧げた。いや、そんな受動的なことではなく、むしろ、刺し違えたのである。

庸子さんは表向きはおとなしく清楚だったが、情熱の人であり、果断の人でもあった。

庸子さんは彼の言葉を愛した。しかし、自分の肉体や生活を疎かにすることには違和感を覚えた。身なりも身体も清潔にしていてほしいと思った。部屋は小ぎれいに片づけ、小まめに掃除してほしいと思った。ちゃんとしたものを食べてほしいと思った。

けれど庸子さんは、彼の生活に手を伸ばそうとは思わなかった。たとえ、彼の散らかった部屋で、風呂にも入っていない肉体に抱かれようと。

そして、ある日、彼が誰か知らない女の人と駅前を歩いているのを見たとき、彼女は終わったと思った。

それは嫉妬ではなかった——いや、それが嫉妬なのかもしれないけれど。彼女には見えたのである。その誰か知らない女の人は、きっと彼の部屋を片づけ、掃除をして、洗濯してやり、お料理もしてあげているのだろうと。

そして、彼が画家になることもないだろうと思った。

わたしも絵をやめよう、そのとき、彼女は思ったのである。

それからの庸子さんは、大学では粗描だけに没頭した。卒業制作を仕上げるのは辛かったけれど、できるだけ色のない、白い牡丹の絵を描いた。

*84 夫婦(esq.17)

*11

 

深く愛し合っていて、深く信頼し合っていて、性の営みにも深い悦びがあり、二人とも切に子ができることを願っているのに、願いの叶わない夫婦がある。産婦人科学会の統計資料によると、ごくふつうの性生活を営んでいれば、一年間で約九〇%の夫婦が妊娠する。千組の夫婦がいれば、九百組の夫婦に子が授かる。残る百組は一般不妊治療を受け、基礎体温表に基づいて排卵日を予測して、受精の確率を高める方法を試したり、男性の精子に問題がある場合には薬物治療を受けたりすれば、五十組が妊娠に至り、残る五十組も体外受精や顕微授精などの生殖補助医療を受ければ四十組が妊娠する。しかし、それでも妊娠に至らず、治療を断念する夫婦が十組は残る。

 

猫柳泉と庸子さん夫婦が不妊に関する相談を受けるために、築地にある総合病院の産婦人科を訪れたのは、正式に結婚してから一年後のことだった。それまで三年近く、互いのアパートを行き来していた期間があったから、同い年の二人はすでに三十歳を目前にしていた。今からだと三十年以上前のことである。

電話で予約した日の朝に産婦人科の病棟を訪れると、相談室というプレートのかかった部屋に案内された。室内には、豪華でもなく、粗末でもない、黒い合成皮革の応接セットが置かれていた。壁を背にした長いほうのソファに腰を降ろし、数分待つと、白衣を着た年配の看護師さん——当時は看護婦という呼称が一般的だったけれど——が現れた。二人はまだ若かったから、落ち着き払った看護婦さんの物腰に安心はしたものの、緊張感が和らぐことはなかった。

——不妊のご相談と伺っていますが、それでよろしいですか?

二人はまず無言でうなずき、その直後に「ええ」という声がほぼ同時に出た。

——そうしますと、まず前提条件からご説明しますね。今の産婦人科の基準では、二年間妊娠の徴候が現れない場合に不妊症と認定するということです。

庸子さんがうなずいた。いろいろ本を調べて、そのことは知っていた。

——そこで、まずはいろいろ質問させてください。立ち入ったことも伺いますけど、治療の一環だと思って、照れずにリラックスして、正直に答えてください。

そう言うと、看護師さんは膝の上のファイルを開いた。

——ご結婚なさって一年ということですが、婚前交渉はありましたか?

二人は同時にうなずいた。

——同棲なさっていたということでしょうか?

二人は視線を交わし、なんとなく庸子さんが答えることになった。

——いいえ、同棲はしていませんが、お互いのアパートをよく行き来していました。

——どのくらいの期間ですか?

——三年ほどです。

——どのくらいの頻度で行き来なさっていましたか?

——週末はいつもどちらかのアパートで過ごしました。

——今はご結婚なさって、一緒に暮らしているのですね?

——はい。

二人はなんとなく見つめ合った。

——基礎体温表のようなものは付けていますか?

庸子さんは「はい」と答えて、大きめのハンドバッグのなかから、仕事に使う手帳を取り出した。そこに毎朝の体温が記されている。

——見せていただいてもいいですか?

庸子さんはうなずいて、手帳を差し出す。

——基本的にはこれでけっこうですが、これからはグラフにして体温の変化を見やすくしたほうがいいかもしれませんね。基礎体温の正しい計り方については、あとで説明書をお渡ししますので。

看護師さんは手帳を戻すと、開いたファイルに目を落とし、そのなかの問診票のようなものに何か書きつけている。

——まずは奥さんのほうからお尋ねしますね。月経は規則正しいほうですか?

——早めに来たり、遅くなったり、規則正しいとは言えないかもしれませんが、必ず来ます。今は……。

——今は? というと、止まっていた時期があるということですか?

——はい。

——それはいつごろですか?

——学生時代の終わりから、働くようになってからも、しばらく続きました。

——どれくらいの期間ですか。

——三年くらいは続きました。

——再開したのは?

——四年ほど前です。

——つまり、ご主人とお付き合いするようになってからということですか?

——ええ、だいたいそういうことになります。

——月経が止まってしまった理由に心当たりがありますか?

——ええ、たぶん、当時付き合っていた人と別れたせいだと思います。

——そのとき、流産とか、あるいは堕胎とか、経験しましたか?

庸子さんは無言で顔を横に振った。看護師さんはさっきから顔を上げて、相手の目を見て質問している。庸子さんは隣にいる夫のほうに視線を向けた。失恋の経緯について、だいたいのことは知っていたから、猫さんは動じなかった。看護師は淀みなく続けた。

——セックスの回数を教えていただけますか。毎日とか、週に何回とか……。

猫さんと庸子さんは顔を見合わせた。どちらが答えるか、互いにさぐっている。結局、庸子さんが答える。

——その週によって変わりますけど、だいたい一回か二回くらいですね。最近は、排卵日がやってくる週には毎日するようにしているんですけど……。

——それでも妊娠しないのですね。でも、まあ、焦る必要はありませんよ。お二人ともまだお若いんですから。

そういうと、看護師さんは視線を猫さんのほうに移した。

——言うまでもなく、不妊には女性側に原因がある場合と男性側に原因がある場合があります。その両方というケースもあります。お二人は信頼し合っているご夫婦だとお見受けしましたので、あえてお尋ねしますが、もちろん、答えたくない場合には答えなくてもかまいません。ここは警察の取り調べではありませんから、黙秘権とか、そんな大げさなことではなく、しゃべりたくなければ、それはそれでなんの問題もありませんので。

と言って、看護師さんはそれまで以上に顔を崩して笑みを作った。

——はい、答えられる範囲で答えます。

猫さんとしては精一杯ユーモアを交えたつもりだった。

——奥さんが妊娠しないことについて、ご主人の側から思い当たることはありませんか?

——というと?

——不妊因子が自分のほうにあるのではないかと思ったことはありませんか?

——つまり、僕の精子に問題があるということですか?

——それは検査してみないとわかりませんが、その前に本人に思い当たる節はないかということです。さきほど奥さんが、失恋によって月経が止まったということをおっしゃってましたが、それに類することです。

猫さんは庸子さんのほうを見た。庸子さんの目は少し潤んでいるように見えた。何を言ってもかまわないと促しているようにも見えた。

——僕も彼女とほぼ同時期に失恋したというか、ある女性との関係が終わってしまいました。彼女は妊娠したのですが、流産してしまったのです。でも、でもその事実を知る前に僕らの関係は終わってしまったのです。流産の原因がなんだったのかもわかりません。

看護師は笑みを絶やさずに、猫さんの言葉を聞いていた。庸子さんはその看護師さんの笑顔をじっと見つめていた。

——ああ、そうでしたか。辛いことをお尋ねしてしまいましたね。でも、お二人とも率直に、正直に話してくれて、とても感謝しています。問診だけでは、今のところ何も申し上げられないのですが、ただし不妊治療というのはたいへんデリケートな治療です。技術的なことを申し上げているのではありません。夫婦間の精神的な事柄、愛情に属することを申し上げているのです。わたしたち医療の現場にいる第三者が、夫婦という本来なら閉ざされた世界に介入することで、破局を迎えてしまうケースもあるのです。

そこで看護師は一呼吸置いた。

——あなたがたが正直に話してくれたので、それにほだされるわけでもないのですが、とても大事なことなので、わたしの身の上話も少しさせてくださいね。わたしはこの病院の婦人科の看護婦として、おもに不妊症の患者さんのカウンセリングと治療にあたっているのですが、じつはわたし自身が不妊症なのです。つまり結婚はしていますが、子供はいないのです。若いころはそれで死にたいほど悩みました。この世代ですから、女が@石女{うまずめ}と呼ばれることは死にも等しい屈辱であり、差別だったのです。幸い、私の夫も産婦人科の医師で、私の状態を理解してくれましたので、私はこの仕事を続け、不妊に関する専門の看護婦になることができました。子はかすがいって、江戸の昔から言われていますが、おそらく江戸の昔から、子はなくても愛情と信頼の深い夫婦はいたでしょうし、今でもいるのです。この病院で不妊治療を受けて、結局は治療を断念したご夫婦と今でもお付き合いがあったりするのですよ。あなたたちのような若い夫婦が不妊の相談に見えると、まるでわが子のように思えるのです。あ、でも、心配なく。あなたがたの場合、まだ不妊症と決まったわけではありませんからね。それは最初に申し上げたとおりです。

 

こうして二人は、親身に相談に乗ってくれる看護師さんの助言と指導に従って、一年間にわたって基礎体温表に基づいた規則的な性行為を重ねる一方、庸子さんは卵管や子宮の検査、猫さんは精液検査を受けたが、どちらにも器質的な欠陥は見られなかった。次に進むべき治療法としては人工授精、体外受精があることは、二人とも知っていたが、このころから夫婦の会話は少なくなり、無言の時間が長くなっていった。