*53 福音

塾で聖書を取り上げることにした。

新約聖書に収められている四福音書のうち、もっとも早い時期に書かれたと言われている「マルコによる福音書」。

それをフランス語訳で読み、翻訳する余裕のある人は試訳を提出してもらい、フランス語と日本語を付き合わせてみようという試みである。

なぜそんなことをするのかと問われると、少し困る。どこから説明すればいいのか・・・・・・。

 

 

少し遠回しになるが、直訳と意訳という言葉から考えていってみよう。この二つの言葉は単純な反意語のように見えるが、じつは翻訳という作業にまつわる一筋縄ではいかない複雑な内容を含んでいる。

たとえば、bonjour という言葉がある。ふつう、おはよう、こんにちは、などと訳される。フランス語の場合、午前と午後の挨拶に区別はない。夜に bonjour と言ったとしても、そんなに違和感はない。挨拶の言葉として、bonjour は幅広く使われるからだ。

初対面のとき、日本語で言う「初めまして」に当たる言葉として、「アンシャンテ」[enchanté (e) ]という言葉があるが、これはちょっとかしこまった感じのする挨拶である。もっとくだけた場面では「ボンジュール」を使う。お店やレストランのドアを開ければ、「ボンジュール」と声をかけられる。これを「こんにちは」と訳したのでは、その場の雰囲気が正しく伝わらないだろう。日本なら「いらっしゃいませ」と言うのが一般的だから。

つまり、bonjour に一対一で対応する日本語はないということだ。状況に合わせて、訳語を選定しているということになる。言い換えれば、bonjour を「直訳」する言葉はない。

これは基本的にはすべての単語に当てはまる。すなわち直訳は存在しないという結論になる。

しかし、そんなに簡単に結論していいものか。翻訳はつまるところ意訳なのだから、その場の雰囲気さえ伝わればどう訳してもよいということになるだろうか?

これはじつは、翻訳とは何かという根本的な問題なのである。翻訳は厳密に言えば意味しか伝えられない。音は伝えられない(カタカナによる音写は、ふつう翻訳とは言わない)。相手の言語が持つ特有のリズム、音楽性は伝えることができない。それはこちら側のまったく異なる言語の音楽とリズムに置き換えるしかない。それこそが翻訳であり、あるいは翻訳の不可能性であり、あるいはだからこそ翻訳の醍醐味なのだと言い換えてもいい。

ここで直訳と意訳に関する定義を見直してみよう。直訳とは、原文に記された音とその背景にある状況(コンテクスト)をそのまま他言語に置き換えることであり、意訳とは原文の意味を汲み取り、解釈するものであると。前者は、原文が短ければ訳文も短くなり、原文が美文であれば、訳文も美文調になり、原文が拙ければ、訳文も拙くなる。後者は、原文の意図するところ(書き手が書きたかったこと)を解釈し、想像し、原文の長さ、調子にとらわれずに、意味だけを十全に読者に伝えることを目的とする。

前者は理想的であり、後者は便宜的だということになる。もちろん100%の前者もないし、100%の後者もない。その都度、テクストの様態によって前者に傾いたり、後者に傾いたりする。統辞も文法もまったく異なる言語同士の交渉であり、取引なのだから、そうならざるを得ない。

それが聖書とどういう関係があるのか。それが問題である。

 

 

しばらく前にこのブログに掲載した記事(*50 持ち重りのする言葉)のなかで、福音書がギリシア語で書かれた時代的背景について少し触れた。

 

福音書の主人公であるナザレ生まれのイエスはユダヤ人である。使徒と呼ばれる最初の弟子たちもユダヤ人である。イエスが論争した相手の律法学者たちも、もちろんユダヤ人である。ユダヤ人である以上は、当時のユダヤ人の日常語であるアラム語を話していた。ならば、なぜアラム語で書かなかったのか。なぜ文語のヘブライ語で書かなかったのか。

 

こう書けば、そして、これを読めば、なるほど、そうなのか、と思うかもしれない。しかし、ふつうは——信者でもなく研究者でもなく、ごく一般の読者という意味——聖書が何語で書かれたのかということ自体に興味を持つ人は少ない。日本語訳を読む人すら少ないののだから、大元が何語で書かれているのかについて関心を持つきっかけさえないというのが実情だろう。

これは大きな問題である。聖書を読む人が少ないのが問題なのではない。キリスト教関係者でもないのに、そんなことを問題視するわけがない。

信仰にとって、書かれたものは本当に必要なのだろうか、という問題である。

ごく最近まで——近代の国民教育が始まるまで——、どの国、どの民族であっても、文字を読める人は少数だった。一部の聖職者、知識人が書物の富を独占していたと言ってもいい。

「聖書に帰れ」とマルティン・ルターは主張し、みずから新約聖書も旧約聖書も、それぞれギリシア語、ヘブライ語から、当時の俗語であるドイツ語に翻訳したが、そもそも当時の民衆の大半は文字を識らなかったはずである。聖書の内容は聖職者の言葉と教会を飾る絵画や彫像によって、間接的に親しむほかなかった。

しかし、そのことが彼らの信仰の基盤を疑うということにはならない。教会の階層としては、神がいて、聖職者がいて、一般信徒がいるということになるだろうが、ルターはそうは考えなかった。一般信徒が聖書を読めるようになれば、聖職者は不要になる。神と信者は一体化できる。聖職者の腐敗など起こりようもなくなると。

政治的理想論からすれば、これは正しい見解かもしれない。

けれども、こういう考え方もあるのではないか。マルティン・ルターは徹頭徹尾知識人であった。最初から最後まで、文字そのものを「聖なるもの」と見なしていた。

だが、文字はそもそも神聖なものであるか?

信仰にとって文字は必要なものであるか?

イエスはなぜにあれほどまで、古代パレスティナの知識人であり法学者であった律法学者たちに食ってかかったのか?

なぜ、無知な子供を抱き上げ、手を置いて祝福したのか?

そもそも荒野での四十日間の試練から帰ってくると、なぜにいきなり、あるいはまるで手当たりしだいに、ガリラヤの湖で網を打っていた四人の漁師——どう考えても文字を識る人々ではなかった——を弟子にしてしまうのか?

そもそもイエスは文字を読むことができたのか? 文字を書くシーンはヨハネの福音書にしか出てこない。

この問題はキリスト教にかぎったものではない。

親鸞聖人はなぜ、(たとえ意味はわからなくとも)念仏を唱えさえすれば極楽浄土に行けると説いたのか?

 

 

福音書を虚心に読むこと。そう、虚心に、そしてまず読むこと。翻訳はその次にやってくる。書かれたとおりに読んでみること。もちろん、われわれはギリシア語で読むのではない。しかし、そんなことはどうでもいい。原語のギリシア語で厳密に読む作業は専門家に任せておけばいい。そして、ときどき参考にさせてもらえばいい。

ギリシア語でもなく、日本語でもなく、フランス語で読むことに意味はあるか? たいして意味はない。語学そのものの勉強になるわけでもない。

ただ、日本語で読むと、なんとなく読めてしまう。あるいは字面をさっとかすめてしまう。外国語の抵抗感がほしい。ほんらい読むということは、そういうことなのだ。小学校から、高校・大学まで、あるいは日常生活においても、われわれは日本語という母語を空気のように吸って生きている。なんとなく、それが当たり前のように。しかし、文字というものは、神聖なものである前に、異様なものだという自覚が欲しい。

文字の発明とその使用は、ひょっとすると言語の使用よりも人間を変えてしまったかもしれない。それについてはここでは論じない(おそらく書き出せば収拾がつかなくなるだろうから)。

だが、これだけは意識しておきたい。イエスは文字を書けたか書けなかったか、それを証明することはできない。しかし、福音書を書いたのは、マルコ、マタイ、ルカ、ヨハネの四人だ。彼らがイエスを直接知る人ではなかった、つまり弟子(使徒)ではなかったことは、聖書学の常識となっている。

ソクラテスもみずから書いたものを残さなかった。弟子のプラトンが書いた。しかも、書く行為に頼りすぎることをたしなめているソクラテス像まで書いている(どの作品だったか、今は思い出せない)。

論語も孔子が書いたものではない。

数ある仏典も、ブッダが書き残したものではない。ブッダは悟りをひらいたとき、これを他者に伝えることは不可能だろうと思った。つまり、自分の体験を言語化することを断念しようとしたと伝えられている。

これはどういうことなのか?

福音書を虚心に読むということは、解釈から無限に遠ざかることを意味する。それは神学を拒絶することでもある。ありのままにフラットに読むこと。読むことのうちにすでに解釈は含まれている。われわれは読むときに、すでに「意訳」している。この無意識の「意訳」を意識して剥ぎ取り、「直訳」のような状態に還元すること。

その果てに何が見えてくるか。見えてくるかどうかはわからない。ついに見えてこないかもしれない。

それでもいいから、やってみること。そう思い立ったのである。

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