僕は今でもビニールのレコードを聴いています。
翻訳がはかどらなくなると、書く手を止めて、レコードを引っぱり出して、ターンテーブルの上に置き、軽くクリーナーをかけて埃を取り、アルコールを含んだ小さな刷毛で針先を拭い、おもむろにレコードに針を落とします。この儀式をしているうちに気分が落ち着いてくるのですね。
使っているプリメインアンプは四十年以上前に買ったラックスマンのL–309Vという機種で、ターンテーブルはやはり同じときに買ったヴィクターのQL-7、ダイレクトドライブです。
十年前に帯広に帰ったときには、どちらも半分死にかけていたので修理に出しました。ラックスマンの修理担当の技術者は、パーツがすべて製造中止になっているので部品交換はできませんが、接点だけ磨いておきましたというメモ書きを添えて送り返してきてくれました。使っても使わなくても、スイッチやノブはできるだけ動かすようにしてくださいとも記されていました。感動ものです。
ターンテーブルは地元のオーディオ専門店に持っていきました。ここでも丁寧に修理してくれて、小さなトランジスタをたくさん取り替えて、ちゃんと正確に回転するようにしてくれました。
こうしてここ十年、何の問題もなく、旧式のオーディオセットを鳴らしつづけてきたのでした。
ところが先月、突然、ターンテーブルの調子が悪くなって、三十三回転を維持できないどころか、加速度的に暴走するようになってしまった。またオーディオ専門店に持っていきました。うちは修理屋じゃないんで、今度は新しいの買ってくださいよ、ラックスマンもマッキントッシュもアキュフェーズも扱ってますから、とかぶつぶつ言いながらも、ちゃんと直してくれました。
今の機械はほとんどプリント配線になっていますから、部品交換をして直すというようなことはできません。下手すると基盤をそっくり取り替えなければならなず、それなら新品を買おうということになります。
無駄の多い世の中になりましたね。
ところで、話の本筋は機械のことではありません。
ターンテーブルが修理から帰ってきたので、配線のすべてを一度電源から外し、ジャックも全部抜いて接点を磨き、プリメインアンプのトーンコントロールも取り扱い説明書やネットの記事を読みながら、最初から調節し直してみたのです——高音、低音それぞれに三段階の周波数湾曲点切替スイッチとレベルコントールがついていてなかなか面倒なのですが、記事に書いてあるとおりにしてみると、これまで聴いていたのはなんだったのかと思うほど、音の響きが透明になった。音量を増しても耳障りな感じがしないのです。すっかり嬉しくなって、お気に入りのレコードを次から次へとかけていった。
僕の学生時代は七十年代でしたから、日本コロムビアのDENONレーベルから〈PCM〉録音の盤が続々と出始めたころでした。わが家にもこの〈PCM〉のレコードが何枚かあります。
スメタナ・カルテットが演奏するベートーベンの初期弦楽四重奏曲集もそのなかの一枚です(Beethoven; The Early String Quartets, Op.18/No.2 In G major/ No.4 In C minor)。
録音は一九七六年ですから、学生時代に買い求めたのでしょう。でも、いつどこで、どういうわけでこのレコードを買ったのか、もうわかりません。たぶん、なんとなく買ったのだと思います。というのも、このレコードを何度も聞き返したという記憶がそもそもないからです。
繰り返し聴いたのは、モーツァルトなら〈ハイドン・セット〉、ベートーベンなら九番の〈ラズモフスキー〉、十一番の〈セリオーソ〉、十五番とか、どちらかといえば後期に属するものばかりでした。まあ、一所懸命背伸びしていたのでしょう。
ところが、久しぶりにベートーヴェンの初期のカルテットに針を落としてみて、息を呑みました。こんなに美しい曲だったのか。軽快で溌剌として、希望に満ちたといっていいほどの瑞々しさ。
そう、若さそのものを突きつけられて唖然としてしまったのです。
聴く方が歳をとった、そう思うと胸に染みるものがあります。
僕が二十歳代に出始めの〈PCM〉録音のレコードを夢中になって聴いていたころには、まさか自分が翻訳という仕事に手を染め、日本コロムビア洋楽部の編集室に出入りするようになるとは思いもしなかった。
そこで学校を卒業したばかりの初々しい女性編集者と出会ったわけです。CDのライナーノーツの翻訳をどれくらいしましたかね。余ったレコードやCDの見本盤を何枚も頂戴しましたね。
懐かしいというより、前世の記憶のようですが、続きはこの次お会いしたときにでも。
お元気でお過ごしください。