*12
二人は故意に会話を避けようとしていたわけでも、話すべきことがなくなったわけでもなかった。むしろその逆に、結婚して以来、これほど会話の必要、欲求を感じたことはなかったのである。しかし、お互いにどう切り出せばいいのかわからなかった。言葉はそれぞれの心のなかでわだかまり、出口を見失っていた。
夫婦のどちらにしても器質的な問題なり異常は見当たらず、婦人科の看護師さんの指導に従って規則的な性生活を営んできたにもかかわらず、妊娠の徴候がない。
原因が見つからないということ自体が不安を招く。不安は現在と未来に属するものであるにも関わらず、人は過去との因果のなかにその由来を求めようとする。そして、どういうわけか、事態を悪いほう、悪いほうへと追いこんでいく。
——何もかも失ってしまった。
わたしはまた同じ言葉を繰り返している、と庸子さんは思う。あそこに断絶点があって、そこで自分は途切れている。一年間の生理の途絶えは、けっして女性の肉体の失調ではない。わたし自身が、そこで途切れ、それまでの自分は死んでしまったのだ、と思う。事実、死のうとさえしたのだから。
幼いころから優等生だった。女の子にしては背も高かったし、運動神経もよくて、ピアノの上達も早かった。父は銀行員で、母は専業主婦、小さいころからたくさんの習い事をさせられた。長女の庸子さんは、父にも母にも従順だった。素直に教えを守り、勉強をした。だから成績はよかった。
絵を描くことに目覚めたのは、中学校に入ってからだった。美術の時間に初めて石膏デッサンに触れて、夢中になってしまったのだ。先生に褒められたことは大きかった。だが、それよりも、ふだん文字と記号を書くために使っている鉛筆に、こんなに豊かな造形力が潜んでいるとは思ってもみなかった。石膏の——少し煤けて肌理の粗い——白い肌にうっとりした。でも、あの石膏たちは、元はといえば、どれも古代ギリシア・ローマの遺跡から象られたものなのだ。世界中の美術教室に散らばった二千年前の大理石像の複製。それを遠いアジアの果ての島国の、小さな中学校の、小さな美術教室で、十歳を超えたばかりの少年少女たちが息を詰めて、描き写している。
もちろん、そのとき中学生だった庸子さんが、そんなふうに考えたわけではない。失われてしまった自分の少女時代の、もっとも美しい思い出が石膏デッサンに目覚めた瞬間にあると、傷ついて大人になった今の——二十代なかばを過ぎた——庸子さんが思うのである。
彼女は、山の手の住宅街にこぢんまりと佇む、戦前に建てられた和洋折衷の居心地のいい家で育った。でも、そのころの東京は高度成長期に入って、どこもかしこも建設工事現場だらけ、電車は満員、道路は渋滞、あちこちでデモ隊が警官隊と衝突していた。
騒がしいのは苦手だった。大きな音を耳にするだけで、足がすくんだ。
美術教室は静かだった。そこでは時間が止まっていた——二千年以上前から。アジアでもヨーロッパでもない、世界のどこにもない場所、その密やかな空間の中で、2Bの鉛筆の音だけがさらさらと響く。画用紙に最初に薄く十文字の線を引く。そこに全体の輪郭を埋める。カールした髪の細部、眉、鼻梁、顎の線を引き、影をつけていく。
たしかにそれは目の前の石膏像——メディチでもいいし、マルスでもいいし、アリアスでもいい——を描き写しているのだけれど、白い紙の@なか{傍点}——けっして紙の上ではなく——に、一つの像が立ち現れていく時間は、まぎれもない造化の時間であって、世界のどこにも属していない、その真っ白な時間にわたしは魅せられていたのだと、今の彼女は思う。
そして、庸子さんは地元の——まだ大学区制にはなっていなかったころの——高校に入学し、美術部に入った。そこで鉛筆は木炭に代わり、画用紙は木炭紙に変わった。それは初めて毛筆を握ったときのとまどいにも似た衝撃を彼女に与えた。腕と手が宙に浮いていて、肩から上腕、二の腕から手首、指先までの筋肉の微細な連携が木炭にそのまま乗り移っていく。描いた線を消すときには消しゴムではなく、食パンを使うのも新鮮だった。彼女はますます粗描の世界へのめり込んでいった。
そこまではよかった。造形の世界がデッサンから水彩画、油彩画へと広がっていったとき、彼女は小さな躓きを経験する。高校の美術部では——おそらく美術の世界全般においても——、木炭のデッサンはあくまでも水彩や油彩、あるいは彫刻作品へといたる前段階のレッスンとしかみなされていなかった。
色って、何? 形はつかまえられる。でも、色はつかまえられない。逃げていく、彼女にはそう感じられる。鉛筆や木炭で把握した精緻な物の形が、色を塗ったとたんに溶けていく。一所懸命に目の前の色をつかまえて、画布に定着させようとするのだが、色と自分の目のあいだ、色と自分の手のあいだに隙間があるのを感じてしまう。
もちろん、彼女は小学校でも中学校でも、絵の具を使って風景や花を写生をしたり、自画像を描いた経験はあった。でも、彼女が強くひかれたのは、あくまでも石膏像のデッサンだった。色彩の世界にひかれたことは一度もなかった。油絵の具には触れたことさえなかった。
庸子さんの色覚に異常があるわけではなかった。しかし、彼女の内部には、色彩に対する頑なな抵抗が潜んでいた。あるいは、色がうるさいと感じられる。とりわけ暖色系の、赤、紅、緋、茜、臙脂と呼ばれる色彩群は、大きく口を開けて叫んでいる口腔内の赤い色を思い出させる。あるいは月に一度の血の色。オレンジ色に染まる夕暮れも秋の紅葉も庸子さんには刺激が強すぎた。
せいぜい心洗われるのは新緑の季節、澄みきった冬の空。色は淡ければ淡いほど、心に染みた。色がはみ出ないように、騒がないようにと神経を使い、その結果、絵は静かになるが、色は画布の奥に引っ込んでしまう。
石に象られた二千年前の胸像を紙の上に描き写したときには、命が通う感動と興奮を得ることができるのに、自然界の物を描き写すと、どうして死んでしまうのか。
でも、庸子さんは努力家だから、あきらめなかった。デッサンは得意だったし、勉強もできたから、美術大学に入ることはそんなに難しいことではなかった。両親も、娘がまさか画家を志しているとは思わなかったから——本人にもそこまでの野心はなかった——、反対はしなかった。
しかし、そこで予想外の挫折が待っていた。色がなんであるか、ますますわからなくなってしまったのである。庸子さんにとって、物の本質は形態にある。色はその装いにすぎなかった。一個の石に赤い絵の具を塗れば赤くなり、青を塗れば青くなる。そういうものと思っていた。だから印象派の画家たち——前期にせよ、後期にせよ——の色彩の冒険は、まったく縁遠いものだったのである。
そして、美大に進学したのは間違いだったのではないかと深刻に悩みを深めていった三年目の時期に、出会ったのである。まさに色彩の野獣のような男に。
友人と好奇心から覗きにいった油絵科のアトリエに、その男はいた。ちなみに庸子さんは、油絵にひかれることはなく、色彩には苦手意識はあったものの、静かで芯の強い岩絵の具には憧れるところがあったので、日本画科を選んだのである。
その第一印象は、汚い、であった。男も絵も、何もかも。何日も洗っていないにちがいないシャツとジーンズ、髪はもじゃもじゃの長髪。百号のキャンバスに何やら絵の具を叩きつけているが、何を描いているのかはわからない。いわゆる抽象画と呼ばれているものくらいのことはわかっても、それ以上の距離は縮まらない。それどころか見ていて吐き気がしてきた——ほんとうに。鼓膜が痛くなってきた——ほんとうに。
庸子さんの苦手な赤系統の色、茶色、焦げ茶、ダークグレー、黒、重苦しい色たちが、これでもか、これでもかという具合に、画布に盛り上げられている。足もとにはペンキの缶、砂や泥を入れたバケツもあった。
彼が何を描いているかではなく、彼が何をしているのかがわからなかった。激しい嘔吐感に襲われて、すぐに立ち去ろうとしたとき、呼び止められた。
——おい、失礼だろ。
庸子さんはハンカチで口もとを抑えながら、立ち止まり、振り返り、頭を下げた。そして、そのままトイレのほうに足早に歩いていこうとした。声はなおも追ってきた。
——おい、どこへ行くんだよ。トイレか? だったら用がすんだら戻ってこいよ。挨拶するくらいは礼儀だろ。
庸子さんは吐き気と恥ずかしさで泣きたくなった。トイレに入ると、不思議と吐き気は収まった。あの共同アトリエには戻りたくなかった。また吐き気がぶり返してきたらどうしよう。でも、お嬢さん育ちの庸子さんは、礼儀知らずと言われたまま立ち去るわけにはいかなかった。
友人と二人で恐る恐るアトリエに戻ると、男は後片づけをしているところだった。二人が戻ってきたことに気づくと、愛嬌のある笑みを浮かべた。
——へぇ、戻ってきたんだ。見所あるじゃん。
三人は学食の売店——まだ自動販売機は学内にはなかった——で瓶のコカコーラ——缶もまだ普及していなかった——を三本買うと、木陰のベンチに座った。新学期が始まったばかりで、キャンパスを歩く学生の数多く、楓の若葉を揺らす風が気持ちよかった。
——オレの絵を見て、ほんとに吐き気を催すなんて、見所あるじゃん。
彼は——固有名詞を思い出したくない庸子さんのために名前は出さない——「見所」という言葉を二度使った。
——評論家なんて、頭の悪い不感症女みたいなもんだから、吐き気さえ感じないんだよ。そんなんがこの学校で先生やってんだから、退屈しちゃうよね。
だったら、やめればいいのにと庸子さんは思った。
最初は吐き気、次には反発、そのあとのことは成り行き、詳しく書いたところでさほどおもしろくもなく、美しくもないので——庸子さんにとっても、読者にとっても、また筆者(書いているこの私のこと)にとっても——、要所だけかいつまんでお伝えしよう。
とにかく、その日から彼と庸子さんの付き合いは始まったわけだが、どちらかと言えば潔癖症に近い庸子さんが、身なりにも清潔にも無頓着な男に引き寄せられたのは、ひとえに色彩についての彼の考えなり信念によるものだった。庸子さんは健気にも、自分の色彩に対する弱点を克服しようとしていたのである。
色は光の属性ではない、というのが彼の持論だった。
——いいかい、色は物それ自体の属性なんだ。林檎は深夜、闇の色に染まるかい? 光が当たるから赤く見えるのかい? 違うよね。青い林檎は昼でも夜でも青いよね。夜に食べても朝に食べても、酸っぱい林檎は酸っぱいよね。ニュートンはさ、林檎が落ちるのを見て、あれは落ちてるんじゃなく、地球が引っ張ってるんだと考えた。そして、地球が引っ張っているだけじゃなく、林檎もまた地球を引っ張っている。ほんのわずか、地球は林檎のほうに引き寄せられている。色もそれと同じなんだ。生き物であれ、無生物であれ、物には力がみなぎっている。物がそういう形をしているのは、そこに力の臨界線のようなものがあって、かろうじて均衡が保たれているからなんだ。そして、この均衡はたえず、そして永遠に揺らいでいる。石を風の通り道に置いておけば、百年かそこらで風化してしまうだろう。百年なんて、あっという間さ。そう、だからさ、色彩はね、その物が内部に貯めこんでいるエネルギーが表面ににじみ出て、光に照らされて、おぎゃーって声を上げているんだよ。色は命なんだ、生命なんだ、命の色は赤いんだよ。空は死の色だよ。赤い命が通わなくなった死の世界なんだ。でも、美しい? いや、だから美しいのかもしれないね。だったら、オレはさ、美しいものは描きたくないのさ、どろどろした生まれたての、血みどろの胎児みたいなものを描きたいのさ。
庸子さんが愛したのは、彼の絵でも、肉体でもなく、言葉だった。その言葉に彼女は自分の身を捧げた。いや、そんな受動的なことではなく、むしろ、刺し違えたのである。
庸子さんは表向きはおとなしく清楚だったが、情熱の人であり、果断の人でもあった。
庸子さんは彼の言葉を愛した。しかし、自分の肉体や生活を疎かにすることには違和感を覚えた。身なりも身体も清潔にしていてほしいと思った。部屋は小ぎれいに片づけ、小まめに掃除してほしいと思った。ちゃんとしたものを食べてほしいと思った。
けれど庸子さんは、彼の生活に手を伸ばそうとは思わなかった。たとえ、彼の散らかった部屋で、風呂にも入っていない肉体に抱かれようと。
そして、ある日、彼が誰か知らない女の人と駅前を歩いているのを見たとき、彼女は終わったと思った。
それは嫉妬ではなかった——いや、それが嫉妬なのかもしれないけれど。彼女には見えたのである。その誰か知らない女の人は、きっと彼の部屋を片づけ、掃除をして、洗濯してやり、お料理もしてあげているのだろうと。
そして、彼が画家になることもないだろうと思った。
わたしも絵をやめよう、そのとき、彼女は思ったのである。
それからの庸子さんは、大学では粗描だけに没頭した。卒業制作を仕上げるのは辛かったけれど、できるだけ色のない、白い牡丹の絵を描いた。