先日、このブログの愛読者(?)から、猫さんって、高橋さんのことですか、読んでいると高橋さんの顔が思い浮かぶんですけど、そんな読み方をしてもいいんですか、と尋ねられた。帯広の人である。
いささか動揺しつつ、いいんです、と答えた。読者がどんな読み方をしようと、書き手は文句を言えない。こんなふう、あんなふうに読んでほしいという希望もない。ひとつのテクストが読者の目に触れたら、その時点で読者のものである、というのがわたしの物書きとしての基本的な考え方である。
もっと踏みこんで言うならば、読書はそれ自体で創造的な行為であると思っている。そんなふうに考えるようになったのは、たぶん翻訳という職業のせいだろう。読むという行為は、俗に言う「行間を読む」ことにほかならない。空白から何かを読み取っているのである。書かれている文字は、空白を読み取るための手掛かりにすぎない。翻訳家は、空白を読み取ったのちに、それを書かれた文字の流れと形(原文)に沿って訳文という形を整えていくのである。
この点を掘り下げていくと、翻訳をしているこの私、あるいは原文の作者とは何か、それは誰なのか、という悩ましい問いの迷路に入り込んでいくことになるが、ややこしい書き方はやめよう。
この小説の場合——まだタイトルさえ決まっていない骨組みにすぎないけれども——、書き手はこのブログの制作者と同じ名前を持つ人間であり、小説の主人公は、その書き手が命名した猫柳泉という人間である。そういうごく単純な構図がまずある。猫柳泉という人物を造形していくにあたって、無からは何も作り出せないので、素材を書き手の人生や経験から借りてくることになる。だから、その意味では主人公は書き手の分身である。だから、主人公はようするにおまえのことかと問われれば、はい、そうです、と答えて、ごちゃごちゃ言い訳しないというのが書き手の潔さであるとも考えている。
しかし、書き手が自分の書くことのすべてをコントロールしているとはかぎらない。というよりも、そんなことは不可能である。自分が何を言っているか、本当のところ、人はけっしてわからないものだから。
誰も私とは何かとか考えて生きてはいない。そんなことを考えながら生活を営むことはできない。しかし、この人生において、何かに躓いたとき、何かの事故に、何かの事件に遭遇し、巻きこまれ、二進も三進もいかなくなったとき、あるいは病に冒されたとき、あるいは恋に落ちたとき、何者かわかっていたつもりになっていた自分が崩落、崩壊するとき、人は初めて考える。
この物語は、書き手の気まぐれによって命名された人物が、私とは何か、私はどこから来たのか、誰を愛しているのか、問いを重ねていく物語である。
*2
猫さんはネコという名の猫の頭を撫でながら、最近ときどきふと、こいつが死んだらオレは天涯孤独になるなぁと思うのである。自分の生まれ育った町に戻ってきて五年、ようやく新しい生活にも慣れてきた。と言いたいところであるが、ことはそう単純なものではない。晩年——還暦を過ぎたのだから、こう言っても差し支えないだろう——になってから、生活の場所を変えるのは、たとえそこが自分の生まれ育った場所であっても、いやむしろ、いわゆる故郷と人の呼ぶ場所であるからこそ、得体の知れない齟齬のような、統合失調的な気分が終始つきまとうのである。
猫さんの場合、故郷といっても、小学生までのことである。中学校から先はずっと東京暮らしだった。小学校時代のアルバムや文集の類を後生大事に保存していたわけでもなく、年賀状のやり取りを続けている同級生がいるわけでもなく、特段、懐かしいと思った記憶もない。
なので、猫さんには、故郷は遠きにありて思うものというような感慨もなく、故郷の風に、おまえは何をしてきたのだと問われたこともない。
ただし、沈むことは沈んだ。医者には、立派な鬱だ、とまで言われた。たぶん、鬱病チェックシートのなかの「ときどき死にたいと思うことがありますか?」という項目に丸をつけたからだろう、と本人は思っている。けれども、これは正直に答えたまでで、物心ついたころからずっと「ときどき死にたい」と思ってきたのである。さしたる原因もなく、ただ漠然と。生きているのがつらい、というのでもないし、生まれてすいません、というのでもない。トラウマになるようないじめを受けたこともない。暗雲垂れこめるという感じではなく、脳内薄曇りという感じである。あえて言葉にするなら、死んだら気持ちいいだろうな、という感じに近い。そう、だから漠然と、たとえば昼下がりの空いている地下鉄のなかでエアコンの風に吹かれて揺れている週刊誌の広告を見ながら、あるいはなんとなく立ち寄った居酒屋で一杯目のビールを飲み干し、夏なら酎ハイ、秋冬なら麦焼酎のお湯割りか燗酒が口から喉へと通り過ぎていくときに、このままあっちに行けたらなぁ、と憧れにも似た感覚がふと脳内をよぎっていくのである。
それって日常生活におけるささやかな至福の瞬間じゃないの、と訝る人もいるかもしれない。そう言われれば、そうとも言える。しかし、ハッピーではない。どんよりと曇っている。昔からそうなのである。中学校でも高校でも、授業中に窓を通して、校庭の隅に立っている桜の木——花はとうに散ってあおあおと葉の茂っている桜——が目に入ったときとか、増水した川にかかっている橋を渡るときとか……。いや、おそらく風景や季節やシチュエーションとは関係ないのだと思う。ときどき、脳がそういう波長になる。でも、今回は明瞭に、鬱だ、と言われた。精神科医に。引っ越し疲れが今ごろ出てきたのではないかとも言われた。
この偶然には念が入っていると猫さんは思う。というのは、故郷に帰ってきて出会った唯一の知り合いが、この精神科医だったからである。猫さんの小学校時代に成績を競い合った同級生がいた。成績の上ではライバルだったが、とても仲がよかった。いっしょに勉強し、遊んだ唯一の友だった。彼はその当時から医者になると言っていた。猫さんには、小学生のうちからそんなに明確な目標が持てること自体信じられなかった。いつも漠然としているのである。だから、鬱と平常の区別がつかない。どこまで行ってもグレーのグラデーションである。真っ白になることも真っ黒になることもない。
それはともかく、二ヵ月に一回血圧降下剤をもらっている行きつけの内科・呼吸器科のお医者さんに、どうも睡眠が不安定でと嘆くと、O市で唯一の精神科専門病院を紹介してくれたのである。
診察室のドアに取り付けられている担当医のプレートを見ると、北島晋一、と書いてある。一瞬、視野が狭くなり、軽い目眩のようなものが襲ってきた。名前に心当たりがあった。ひょっとしてと思ったが、同姓同名ということは珍しくない。恐る恐るドアを開けると、デスクの向こうの人物と、目と目が合った。記憶のなかに残っている顔貌と今目の前に見ている顔とが重なるのに、たぶん一秒か、二秒かかった。半世紀以上の歳月を遡るのにそれだけの時間がかかったのだろう。北島くんは頭頂部が禿げあがり、太っていた。猫さんの頭髪は限りなく真っ白に近いグレーで、ここ数年で五キロ以上痩せた。
——晋ちゃん?
猫さんのほうから、声をかけてみた。
——猫か?
そう、猫さんは子供のころからこんなふうに呼ばれていたのである。泉ちゃんだと女の子みたいだし、猫柳という苗字も変わっているし、長すぎる。しかし、猫という愛称も変わっているのだが、本人は気にしていないし、要は慣れの問題である。そんなことよりも、半世紀ぶりの再会である。話は尽きないけれども、待合室にはたくさんの患者さんがいる。身の上話は夜に一杯やりながらにしようということになった。以下は、北島医師と猫さんの一問一答。
——どうなの、体調は、全般的に?
——うん、まぁ……。
——まぁ、というのは芳しくない……?
——いや、まぁ、芳しくないというほどのことでもないんだけれど……。
——ま、しかし、本調子ではない?
——ま、そういうことかな。
——具体的には?
——睡眠がどうもね……。
——よく眠れない?
——まぁ、一言でいえば……。
——寝付きが悪い?
——いや、寝付きはいいんですよ。
——早く目が覚めてしまう?
——朝早くならいいんだけれど、四時でも五時でも。
——眠りが浅い?
——そういうことになるかな……。
——必ずしもそういうわけじゃない、と。
——布団に入ったとたん、眠りに落ちるんですよ。たぶん、かなり深く。
——布団に入るのは何時頃?
——だいたい十二時頃ですかね。朝気持ちよく起きたいと思って……。
——ところが途中で目が覚めてしまう。
——そう、そうなんだ。
——何時頃ですか?
——一時とか、二時とか。
——なるほど。
——そう、ぱっと寝付くんだけども、ぱっと目が覚める。時計を見ると一時だったり、二時だったり。
——そのあとは?
——もうだめ。なにしろ電灯のスイッチを入れたみたいに、ぱっちり目が覚めてしまうから。真夜中に、頭が白々と冴えてくるのはなんとも不気味というか、気持ち悪いというか。
——で、どうするんですか?
——不眠と根比べです。布団に入ったまままんじりともしないで、天井を見ている。するとね、どんどん絶望的な気分になってきます。
——で、そのまま朝を迎える?
——いや、さすがに四時、五時になるとうとうとしてきて。といっても、そのくらいの時間になると朝日が差しこんでくるから、もう観念してのそのそ起き出す……。
というような押し問答みたいな問診のあと、北島医師は、簡単なチェックをしてみましょうかね、と言って、いわゆる「鬱病チェックシート」を取り出したのである。幼なじみが半世紀の時間を経て、医師と患者として対面し、会話を交わすというのはいかにもくすぐったく、距離の取りづらいものである。
そして、いくつもチェック項目の並んでいる質問表のなかに「ときどき死にたいと思うことがありますか?」という問いがあったのである。もちろん、猫さんの鉛筆を握る手は止まった。鬱病に関する専門的な知識がなくても、これにチェック・マークを入れれば、はい、私は鬱病です、と言っているようなものではないかと思ったのである。でも、チェックせざるを得なかった。それが猫さんの常態だからなおさらだった。
チェックシートを受け取った北島医師は、シートを見ながらしばらく無言だった。そして、わずかな躊躇の気配とともに口を開いた。
——これはメランコリーだなぁ。
最初は鬱病とは言わなかった。少し間が空いた。癌とは言わずに、悪性の腫瘍と言うようなものかと猫さんは思った。そんなに深刻なものでもないだろうとも思った。すると北島医師は、猫さんの無言の中身を察したかのように、
——鬱だよ、立派な鬱病だよ、と言ったのである。かつて歯に衣着せずに何でも言い合った幼なじみの間柄を取り戻そうとかのように。
猫さんは苦笑した。
——鬱に立派も何もないだろう。
——いやいや、診断書を書いてやると、翌日から鬱病休暇と称してハワイに行っちゃうのもいるからね。
——ようするに仮病か。
二人は声を上げて笑った。その笑顔のまま、晋ちゃんは続けた。
——とりあえず、睡眠導入剤的なのを出してみようか。
——でも、睡眠薬って癖になるんでしょう?
——うん、たしかに。正しく服用しないと依存性がある。
——そういうのは嫌だな。そもそも薬はあんまり飲みたくない。血圧の薬だって、ほんとうは飲みたくない。
——でも、まだいいほうだよ。心臓病に、糖尿病、病気のデパートみたいな人だっているんだから。
——依存性のあまりない眠剤というはないんですか?
——いや、あるよ。正確には眠剤ではなく、抗鬱剤の部類に入るけどね。
——え、抗鬱剤? そんなもの飲んで眠れるの? かえって興奮して眠れなくなるんじゃないの?
——いやいや、抗鬱剤って興奮剤じゃないから。まぁ、わかりやすく言うと、薬の力を借りて、くよくよしないようにするわけ。すると寝付きがよくなる。
——で、その抗鬱剤に依存性はない?
——うん、基本的には。
——ということは依存してしまう人もいる?
——何ごとにつけ、依存性の強いタイプの人もいるからね。
——なるほど。おれはどっちのタイプなのかな・・・・・・。
——ま、そんなに心配することはないよ。ためしに飲んでみたらいいじゃないか。効かないようならまた別の方法考えればいいわけだから。
——効き過ぎるとどうなんだろう?
そこで、晋ちゃんは笑った。
——あいかわらずだな。
——あいかわらず?
——心配性ってことだよ。昔から石橋を叩いても渡らなかった。
と言って、彼は何かを思い出したようだった。何を笑っていると問い詰めると、
——憶えているかな、小学校のグラウンドの隅に枝振りのいい柏の木があったろう。ドングリがなると、みんな登って取りにいったじゃないか。で、木ってのは登りは勢いで登っていくけど、降りるのがけっこうむずかしい。それでみんな降りきれなくなると、枝にぶらさがったりして飛び降りた。でも、おまえはぜったい飛び降りなかった。地面を見つめたまま、じっと枝にまたがっていた。そのうち、用務員さんか担任の先生がやってきて、梯子をかけてやるとようやくのそのそ降りてきた。
そう言われて、猫さん、必死で思い出そうとするのだが、憶えていない。相手が作り話をするわけがないから、たんに記憶に残っていないだけなのだろうが、虚をつかれたように感じた。自分がそんなに臆病だとは思ったことがなかった。猫さんの無言をまた察するように、北島医師は軽い調子で話を続けた。
——ま、悪いようにはしないからさ。信用しろよ、こっちは専門家なんだから。ためしに毎日寝る前に一錠、一ヵ月分出しておこうか。
猫さん、神妙に頷く。
——それが効くようだったらしばらく続けてみよう。効かないようだったら二錠にするか、別の薬を処方するか、一ヵ月後にまた考えてみよう。ときに寝酒はやるの?
——ほぼ、毎日。
——あ、できればそれやめて。薬といっしょにアルコールを摂取すると効果が出ないから。
——え、酒飲めなくなるのか。
——適度な晩酌はいいよ。寝酒はやめてと言ってるの。
——なんか絶望的だなぁ。
——真夜中の絶望とどっちがいいんだよ。
いつのまにか、二人は五十年前の小学生に戻ったような気分になった。そのうち一杯やろう、というような言葉を交わして、猫さんは精神科の病院を出た。
(つづく)