*77 閑話、その三(esq.10)

また「閑話」です——それなりの理由があって。

六月半ばの日曜日、今朝は雨が降っている。

「内地」であれば、梅雨のまっただなか、雨が降っていても、なんの不思議もないが、北海道だとやはり地球温暖化の影響かと思ってしまう。そのむかし、北海道に梅雨はないと言われ、台風も津軽海峡を渡らないはずだった。

今日は雨。おそらく梅雨、もしくは本州にかかる梅雨前線の影響ということになるのだろう。

日曜日の早朝なので、通りを走り抜ける車の音もしない。たまに通る車があっても、雨のせいで速度も緩やかなうえに、雨が音を遮るカーテンの役割をはたしてくれる。

 

 

このブログをお読みいただいている方のなかには、前回書いた猫のことを心配してくれている人もいるかもしれない。

安心してください。だいじょうぶです。そう簡単には死にません。

血液検査に続いて、ホルモンの検査もしてもらったところ——「内地」の専門検査機関に血液サンプルを送るので、結果がわかるまでに一週間かかる——、予想どおり甲状腺ホルモンが過剰に分泌されていることがわかった。甲状腺ホルモンが過剰に出ると、まずは食欲が減退し、興奮状態が続いて攻撃的になったりするらしい。うちのシマの場合、変な具合に仔猫がえりして、家中をちょろちょろ動き回り、台所で食事の支度をしていると、俎板からこぼれ落ちる屑を待っていたり、テーブルの上の焼き魚を床に引きずり降ろそうとしたり、はたまた風呂掃除を始めると、排水口に吸い込まれる残り湯にやたらに興味を示したりする。

攻撃的にはならなかったけれど、壮年——十歳前後——のときには見せなかったこの落ち着きのない行動ぶりは、甲状腺ホルモンの作用だったのかもしれない。

それはともかく、先週の木曜日、動物病院から検査結果の報告があり、甲状腺ホルモンの分泌を抑える薬を処方してもらった。

この薬を食餌に混ぜて——糖衣錠を四分割したものが一回の投与量だが、これをスプーンの背で粉々に砕いてチュールに練りこむ——与えるようになって、今日で四日目、昨日の午後あたりから目に見えて食欲が出て来た。チュールと混ぜなくても、ウェットタイプの食餌なら食べるようになった。ドライのものも少量ならかりかり音を立てて食べるようになった。

これで一安心。といっても、十六歳の高齢なので、いつまで生きるかはわからない。いたずらに延命させようとは思わないが、食欲が戻ってきて、元気でいられるなら、それに越したことはない。

死を覚悟したのは、猫ではなく、たぶんこの私だったということなのだろう。お騒がせしました。

 

 

文字どおりの閑話休題。これからが本題です。

金曜日の夕方、一通のメールが届きました。以前、東京でお会いしたことのある方です。プライベートな内容を含む私信なので、そのままの引用は憚られますが、このブログを続けていくうえで、あるいは「小説のためのエスキス」という試みを続けていくうえでも、とても大切なこと、とても励みになることが書かれているので、この場を借りて、僕なりの感想を記しておきたい。

「猫の記憶」と題した*72には、犬のこと、キタキツネのことを書いた。

吹雪の原野をキタキツネの親子が歩いていく。遅れはじめた子狐が歩けなくなってその場にうずくまる。母狐が数歩戻って歩み寄り、二、三秒、わが子の顔に鼻を近づけ、何かを確認すると、また踵を返して、吹雪のなかを歩き去っていく場面を書いた。

それに続けて、猫さんの奥さんが絶命する場面を置いた。この世を去っていく奥さんに向かって、猫さんは「おーい、いっちゃうのか」と叫ぶ。

この「二、三秒」の場面を読んで、A・Iさん——取りあえず、そう呼ばせていただきます——は、ほろほろ涙が止まらなくなったんだそうである。そして、その勢い(?)でメールを送ってきた。ご主人が心房細動で心臓停止して、救急車で病院に運ばれ、心臓バイパスの緊急手術を受けて一命を取り留めたときのことがよみがえってきたのだそうだ。

A・Iさんは小説家志望の人である。ヘルニアの持病も持っている。小説を書きたい、書かねばならぬと思っても、人生の諸事情や病気のことが重なって、思うようにならない。「生まれて初めて底の知れない恐ろしい想い」をしたことや自分の感情の動きを、このブログを読んで、振り返る時間を持てた。そのことを感謝するといった内容のメールである。

A・Iさんと初めてお会いしたのは、今から六年前、パスカル・キニャールの国際学会が東京恵比寿の日仏会館で開かれたときのことだった。私もパネラーとして参加したのだが、そのときの聴衆のひとりにA・Iさんが含まれていた。その後、何かのきっかけで東京のどこかでもう一度お会いしたことがある。

仔細は忘れてしまった。そのとき彼女が小説家志望であることを知った。たしか相談のようなものを受けたように記憶しているが、徹頭徹尾個人的な営為である文学や小説に関して、何か有益なアドバイスだとか、忠告だとかを与えることなど、どんなキャリアのある作家でも不可能だろう。ましてこっちは一介の翻訳者、長く出版業界で生きてきたに過ぎない。

ただそのとき、小説家になりたいというのなら、藤沢周平の『半生の記』というエッセイを読んでみたら、と薦めた記憶がある。

その理由は——その場で口にしたか、説明しようとしたか、もう忘れてしまったけれど——、あらためてここに書くとすれば、あなたは小説が書きたいのか、小説家になりたいのか、という質問に尽きる。それを聞けば、大方の人は、それは二者択一の問題なのか、と怪訝な顔をするだろう。つまり、小説を書く人が小説家であるだろうし、小説家は小説を書くのが仕事の人だろうと。

でも、微妙に違う。なぜなら、趣味で小説を書いて、同人誌などを仲間で発行して、それに発表している人も存在するから。あるいは小説家の肩書きで世間に知られてはいるが、もう書かなくなった人、書けなくなった人もいるから。

A・Iさんに藤沢周平の自伝的エッセイを薦めたのは、彼は明らかに小説家になるべくしてなった人だと思っているからである。彼はたまたま「時代小説」——「歴史小説」でも「私小説」でもなく——というジャンルを選んだわけではない。

しかし、若いときから小説家を志したわけではけっしてなかった。山形の師範学校を出て、教員生活を送っていたが、結核にかかり、地元の病院で治療を続けたが、なかなか病状が好転せず、本格的な結核治療の場所として東京の東村山にある療養所に入ったのである。結核専門の病院で三度の手術を受け、療養中には何度か外出許可をもらって、地元での再就職の道を探したと『半生の記』には書いてある。しかし、その願いも叶わず、そのまま東京に住みつくことになる。最初に得た仕事は業界紙の記者だった。

繰り返すが、彼は野心を抱いて小説家になろうとしたわけでもないし、何かの野心があって上京したわけでもなかった。長期にわたっての結核治療、そのせいで地元に戻って再就職する道も絶たれ、気がつくと、都会の雑踏のなかで業界紙の記者として歩き回っている。人生、理不尽、その気持ちがときに東京の街角で湧き上がってくることもあっただろう。

こういうやるせない想いを救ってくれたのは、山形の教員時代の教え子で、たまたま同時期に上京してきた女性と結婚したことだったろう。彼は新橋にある「日本食品経済社」に通い、ときには妻の勤め先があった池袋で待ち合わせ、映画館に足を運んだり、公園を散歩したり、そういう平凡な生活がいっときつづき、やがて一女が誕生する。「展子と名づけた長女は健康に育ち、私たちはそういう生活がずっとつづくものだと思っていた」

しかし、妻の悦子は長女の出産後、体調を崩し、一年も経たないうちに、進行の早いガンでこの世を去ってしまうのである。

「そのとき私は自分の人生も一緒に終わったように感じた。死に至る一部始終を見届けるあいだには、人に語れないようなこともあった。そういう胸もつぶれるような光景と時間を共有した人間に、この先どのようなのぞみも再生もあるとは思えなかったのである」(『半生の記』)

そして、彼は会社勤めをつづける傍ら「一番手近な懸賞小説」に応募をはじめる。

「小説は怨念がないと書けないなどといわれるけれども、怨念に凝り固まったままでは、出てくるものは小説の体をなしにくいのではなかろうか。再婚して家庭が落ち着き、暮らしにややゆとりが出来たころに、私は一篇のこれまでとは仕上がりが違う小説を書くことが出来た。「溟い海」というその小説がオール読物新人賞を受けたとき、私はなぜか悲運な先妻悦子にささやかな贈り物が出来たようにも感じたのだった。……しかしこのとき、私にしても妻の和子にしても、将来小説を書いて暮らして行くことになるとは夢にも思っていなかった。そのあとのことは成り行きとしか言えない」

彼は新人賞を取るまでに何度も落選を重ねている。それでも彼は懸賞小説への応募を続けた。そうすることが死に別れた先妻への供養であり、鎮魂でもあるというように。

しかし、ひとの人生に口を挟むようで、まことに僭越だが、これは理不尽な人生への「怨念」をバネとした、自分自身への鎮魂ではなかったか。

彼は妻の死とともに自分の人生も終わったと感じる。そのとき彼はすでに「この世」から「あの世」に渡っている。「怨念に凝り固まったままでは小説の体をなしにくいのではなかろうか」というのは、この時点ではじつは「あの世」に渡りきっていないということではないのか。そして、「あの世」はあの世にあるわけではなく、この世にあるということ、それが小説という器の不思議なところ、それはどんな芸術にも、どんな職業——プロフェッショナルとしての——にも通じるところではあるまいか。それに気づいたとき、ひとりの人間は自分のスタイルを発見し、小説家として、芸術家として、あるいは職人として再生するのではあるまいか。

藤沢周平は結果として——成り行きで——小説家になったわけではない。彼は小説家になるべくしてなった、それが彼の宿命であった。『半生の記』に書かれているのは、まさにそのことにほかならない。私はそう信じている。

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