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自分が小学校の終わりに書いた作文を読み終えた猫柳泉さんは、目をつぶり、ソファの背に首をあずけて、じっとしている。
膝に重みを感じて目を開けると、こちらを見上げているネコと目が合った。ネコはニャーと鳴き、猫さんの膝の上で二、三度足の位置を変え、落ち着く場所を見つけると、そのままうずくまった。ネコの体温が腿の内側に浸透していくにつれて、眠りが忍び寄ってきた。
目ざめたときには、膝の上の重みはどこかに消えていた。西向きの窓のレースが橙色に染まり、テラスに通じる大きな硝子戸には夕暮れの長い影が落ちていた。どれくらい寝ていたのか、時間の感覚がなかった。時計はソファの後ろの壁にかかっている。
急に視界が曇って、猫さんの目から大粒の涙がぼろぼろとこぼれた。こんこんと湧き出す地下水のように、いつまでも止まらなかった。苦くも、甘くもなく、しょっぱくもなく、ただ、こんな量の涙がどこに潜んでいたかと思うほど、とめどなく溢れだす。
こんなにもおれは疲れていたのか、と思う。
十年間に三回も葬式の喪主をつとめた男は、おれくらいしかいないんじゃないか。内心そう自嘲してみるが、涙が止まらないので、笑みは浮かんでこない。
ネコが戻ってきて、またニャーと鳴く。低いテーブルの上に置いてあるティッシュペーパーの箱から紙を一枚取り出し、眼鏡を外して涙を拭くと、ようやく気が晴れてきた。まるで射精のあとのようだと思い、ようやく笑うことができた。
もう四時か、と猫さんは背後の時計を見ることもなく、つぶやいた。ネコが催促がましい鳴き声を出すのは、夜が明ける前の四時頃か、陽が沈む前の四時ころと決まっているからだ。
振り返ると、果たして時計の短針は四時をさし、長針は五分をさしている。
立ち上がって、キッチンへ足を運ぶと、ネコの鳴き声は長めの低いニャーから、短めのニャ、ニャ、ニャと高めのトーンに変わる。サイドボードから猫用のドライフードを取り出し、大きめのプラスチックのスプーンですり切り一杯、ネコ用の食器に入れてやると、鳴き声はおさまり、部屋にはただドライフードを噛み砕く音だけが響く。
テーブルの上にはガリ版刷りの卒業文集が置いてある。二百ページほどの文集だが、わら半紙に刷って袋綴じの製本になっているので、かなりの厚みがある。
これを読んだことは正しかったのか? 正しいも正しくないもない。もう読んでしまったのだから。
感動したのでも感心したのでもなかった。あきれて呆然とした。そして、意識を失うように眠りに落ちた。
あきれたのは、まずその長さだった。四百字詰めの原稿用紙で十二、三枚はある。ほかの生徒が長くて四、五枚なのに、その倍以上ある。猫さんは編集者の習い性で、活字になった文章——この場合、ガリ版刷りではあるけれど——を見ると、すぐに原稿用紙の枚数に換算してしまう。
この長さはなんだろう?
自分が生まれ育った場所を去らなければならないことを知った小学生が、何か必死で——そう、必死で——忘れてはならないことを刻みつけようとしている。その忘れてはならないことが、なぜ兎狩りでなければならなかったのか?
長さだけではなく、その細かさ。むろん細かく書くから長くなっているのだけれど、小学生にしては尋常ではない。
そして、自分が半世紀以上も前に書いて、しかも書いたことを忘れている文章を読んで、猫さんは深く混乱しているのである。
これは誰の記憶か?
猫柳泉の記憶だ。
しかし、それは記憶の所有者の名前を特定したにすぎないではないか。
小学生だった猫柳泉と還暦をすぎた猫柳泉は同一人物か?
そもそも、記憶に所有者はいるのか?
記憶は海馬に刻まれる。だがその海馬は、はたして誰のものか?
でも、そんなことを言い出したら、この肉体は誰のものか、ということになる。
人間はこの地球を自分のものだと思っているが、ほんとうは人間は地球環境に属し、依存する一つの種にすぎない……。
猫柳泉は、自分が小学校のときに書いた作文を突きつけられて、混乱の極みに達したのである。
いやいや、話が大きすぎる、と猫さんは思い直す。
自分はこの作文を小学校の終わりに書いたことを憶えていなかった。だが、蓮見の叔父と兎狩りに行ったことは憶えている。この作文に書かれているほど鮮明ではないにしても。
しかし、この作文を読んでしまった今、もう自分の思い出はこの作文が描写するひとつひとつの場面、風景、そこに登場する人物、物、道具の映像によってかき消されてしまった。
もうどれが自分の頭に刻まれた記憶なのか、この作文に保存された記憶なのかわからない……。
おい、待て。そこのところ、考え方がおかしいではないか。さっきまで脳内——の海馬と呼ばれる部分——に保たれていた記憶は、小学校のときにすでに刻まれた記憶が年齢とともに薄められ、ぼやかされたものなのではないか。それがその当時に書かれた作文によって鮮明によみがえってきたと考えるべきなのではないか。
文章は記憶ではない。備忘録ではあったとしても。
たしかに。
そうだ、そんな難しいことではないだろう。自分の記憶からは失われていたはずのこの作文が、母親によって保存され、それが妻に受け渡されていた、しかも、捨てろと命じたのに捨てなかった、ただそれだけのことではないのか。
庸子を恨むのはお門違いだ、と猫さんは思い直す。捨てるべきものなら、自分で捨てるべきだった。彼女は捨てるに忍びなかった、それだけのことだ。
だったら、それでいいじゃないか。
あらためて、自分の手で始末するがいい、目の前にある段ボール箱を、文集も何もかも詰めこんだまま。
すると自分の心のどこかから、苦しげな声が反論する。
よくもそんな、酷いことが言えるな。
人は二度死ねないし、二度記憶を捨てることもできない。
あの中学校最初の一年の暗い、喪のような時間がそう言っている。
何かわけがあって、それ以前の失われた記憶が——穴だらけの断片的な記憶が——よみがえろうとしているとしか思えなかった。
釣瓶落としの秋の夕暮れ。
あたりはすっかり暗くなっていた。
猫さんは、テラスに通じるガラスの引き戸にも、西側の窓にもカーテンを引いた。
空腹を覚えたので、冷蔵庫の中を開けてみた。めぼしいものといえば、トマトとレタスと卵しかなかった。週末に庸子さんと買いだめする習慣が失われて、冷蔵庫には空きが目立つようになった。冷凍庫を開けると、六枚切りの食パンが二枚残っていた。
大きめの皿を取り出し、レタスを洗ってから、一口大にちぎり、皿に敷きつめる。小さな鍋を火にかけ、トマトの皮に浅く十文字の切れ目を入れる。一かけのバターをレンジでほんのちょっとだけ温めてから、パンに塗り、溶けるチーズを上からパラパラと落とす。卵を二個ボールに割り入れて、よく攪拌する。塩胡椒を少々、牛乳もちょっぴり。沸いたお湯の中にトマトを入れ、皮がむけてきたらすぐに取り出して、冷水に浸し、皮をむき、八分割にしてからさらに乱切りにする——猫さんの包丁は切れる。オーブントースターにパンを二枚入れて、五分にセット。その間に大きめのフライパンにオリーブ油とバターを入れて、火を強くして薄く引き延ばし、細かい泡が見えてきたら、卵もトマトもいっしょに投入する。適度にかき混ぜながら、水分を飛ばす。オーブントースターがチンと鳴ったら、パンを取り出して中皿に重ね置く。フライパンのトマト入りのかき卵をどかっとレタスの上に載せる。安物のチリワインをグラスに注ぐ。
猫さんの、一人だけの晩餐である。バジルの葉っぱがあればよかったのに、と思いながら。
卵とトマトをスプーンですくって口に入れ、パンの角をかじり、赤ワインを一口流しこみ、帰ろうと思う。
自分の生まれ育った場所に、記憶の眠る場所に。