今から半世紀近くにもなんなんとする年の夏休み、東京から帰省した学生の私は、今年の夏こそ、プルーストの『失われた時を求めて』全巻を読破しようと、図書館通いを続けた。
例年にない猛暑の夏だった。今ではしゃれたデザインの建物となって駅前に移った図書館も、当時は繁華街から少し外れた市役所の隣にあって、なんの愛想もないただの箱のような、古ぼけた鉄筋コンクリート二階建ての建物だった。もちろん空調システムなどあるわけがなく、扇風機すら付いていなかったように記憶している。
午後になると、自転車をこいで、この図書館に行き、ほとんど誰もいない二階の閲覧室で、プルーストのページを文字どおり黙々と繰った。
読点はところどころあるものの、句点はまばらにしか打たれていないページがえんえんと続く、著者自身の意図的な「悪文」を、しかも途方もない誤訳に満ちた翻訳で毎日読みつづける作業は苦行であり、拷問ですらあった。
フランス文学専攻の学生なのだから、プルーストくらい読んでおかないと恥ずかしいと思ったか、義務だと思ったか、理解できようとできまいと、とにかく読み進めた。
開け放たれた閲覧室の窓から、ときおり熱風が吹きこんできた。こめかみからも首筋からも汗が噴き出し、滴り落ちた。暑いのだからしかたがない。でも、本人は暑いと思わず、どうしてこんなに汗が出るのだろう、夏風邪でもひいたかと思っていた。それほど読書に集中していたというよりも、あまりの悪文、難文なので、少しでも意識がそれると読みつづけられないのだ。
毎日、二、三時間、一週間か二週間かかけて読み通した結果、この作品のページを開くことはもう二度とあるまいという断念なのか失望なのか怒りなのか、よくわからない印象だけが残った。そして、新潮社版の箱入り全巻セットは、親しい友人に進呈してしまった。
でも、こんな本、読まなきゃよかったとか、時間の浪費だったとか、そういうことは思わなかった。むしろ、これは失われた時を求めて、それを見出す物語ではなく、失われた時を追い求めて、ついに時間に食いつぶされる男の話ではないかと思い、その徒労にも似た著者の、語り手の「私」の情熱に感銘さえ覚えた。今かりに、フランス語の原書を頼りに、若い人の新訳を読み進めれば——あるいはその逆——、別の印象を持つかもしれない。でも、第一印象がかき消されるほどの感動がやってくるとも思えない。
私にとっての『失われた時を求めて』は、あの夏の暑さと、失われた旧図書館の思い出とともにある。
われらが「猫さん」も、失われた時を求める。だが、失われた時を見出して、そこで満足し、追跡の円環が閉じるわけではない(プルーストの作品がそうだという意味ではない)。
彼は「見出された時」を奪還しようとするのだ。芸術や文学の表現手段を介することなく、まさしく実力行使によって、直接、好きなもの、ほしいものを強奪しようとする。
作品のタイトルのことなど、まったく念頭になく書きはじめたスケッチ=エスキスだが、二、三週間前に、どういうわけだか、有島武郎の『惜しみなく愛は奪う』を思い出して、あらためてページを繰ってみた。
読み出してはみたが、読み通そうという気力は湧いてこなかった(有島先生、すいません)。本は持っているものの、たぶん若いときから、この手の思い詰めたような、やたらに生真面目で自意識過剰の文学が嫌いだったことを思い出した。
でも、タイトルはかっこいい。意味はよくわからないけれど、わからないのがいい。かっこよさのなかには、わからなさも含まれているのだろう。
言うまでもなく、有島武郎の場合、惜しみなく奪うのは愛であり、愛が主語である。
でも、猫さんの場合、違う。惜しみなく、愛を奪うのである。愛は目的語である。
記憶を取り戻したとき、彼の脳、彼の意識、彼の肉体のなかに嵐のようなものが吹き荒れ、いったん死んで、よみがえる。
そして、自分に命ずる、惜しみなく奪え、自分の人生を奪還せよ、と。
*9
猫さん自身は、小学校の卒業文集に「鉄砲撃ちの思い出」という題の作文を書いたことを憶えていなかった。蓮見の叔父さんに連れられて行った兎狩りそのものは憶えている。忘れられない思い出として、記憶にしっかり保存されている。しかし、そのことを作文に書いたことは忘れている。忘れているのか、消されているのか、そのへんのところが不分明なのである。
猫さんがこの文集の存在を知ったのは、奥さんが亡くなったあとのことだった。遺品のなかに猫さんの母親から彼女が譲り受けたものがいくつかあって、そのうちの一つが、猫さんの小学生時代の思い出の品が詰まった段ボール箱だった。通信簿だとか賞状だとか、あるいは作文、写生、習字のたぐい——本人にとっては「記憶の遺品」とでも呼ぶべきもの——が整理されて中に収められていた。
もっとも、こういう段ボールがあること自体は、猫さんの母親が亡くなったとき、遺品を整理していた奥さんから聞かされて知っていたのである。
——ねぇ、あなた。
猫さんの奥さん——庸子さん——は、自分の夫を呼ぶとき二とおりの呼称を使い分けていた。「いずみさん」と「あなた」。「いずみさん」と呼ぶときは、話題が比較的軽く、明るいときである。声も必然的に高くなり、語尾のイントネーションも上がり気味になる。「あなた」と呼ぶときは、どちらかと言えば大切な——ときには深刻な——用件を伝えるときである。声も低くなり、イントネーションも語尾がいくぶん下がる。
——ねぇ、ちょっと、こっちに来てくれる?
開けっぱなしになっている寝室の戸口からリビングのほうに顔を出した庸子さんにそう言われて、猫さんは軽く緊張した。中に入っていくと、庸子さんは小ぶりの段ボール箱を指さした。
——これ、知ってる?
見ると、黒のフェルトペンで「泉・小学校」と書いてある。
——いや、知らない。母親の持ち物については何も知らない。
——あなたの小学校時代の成績だとか文集だとか、ぎっしり入ってるのよ。
虚を衝かれて、猫さんの顔が強ばった。
——どうする?
——どうするって?
——見る?
——冗談じゃない。
——じゃ、どうするの?
——捨ててくれ。
猫さんは迷いなく答えた。それ以来、この段ボール箱ことが二人の話題に持ち出されることはなかった。猫さんは捨ててくれたものと思っていた。なんの未練もなかった。
ところが庸子さんは捨てていなかったのである。
亡き妻の遺品を整理していたとき、猫さんはこの段ボール箱をふたたび目にしたのである。
思い切り遠くに投げてどこか遠くに飛んでいってしまったはずのブーメランが、忘れたころに戻ってきて後頭部を直撃したような感じだった。
そのまま捨てようか、それとも開けてみようか。彼は迷った。
猫さんは迷うことが生理的に嫌いな人だった。気質的にそうだというよりは、小学校と中学校の時期のあいだにある深い亀裂——人はそれをトラウマと言ったりする——のなせるわざだろうというのが本人の自覚である。
あまりにも突然、生活と学校の環境が激変したために、猫さんは中学校の一年目を棒に振ってしまったのである。登校拒否などという言葉がまだ存在しない時代だった。
その暗い穴のような一年を乗り切るために、彼は別人になる必要があった。別人になるためには大切なものを捨てる必要があった。大切なものとは思い出であり、記憶であった。なぜならば、東京に移り住んだ彼の周囲には、生まれ育った土地の風景も親しかった人々の顔も声も存在しないのに、記憶だけは、むしろ鮮明に残っている。
もう存在しないのに、記憶だけは残っている。でも、記憶は映像でもないし、言葉でもない。匂いでもないし、触ることもできない。にもかかわらず、こんなに生々しいのはどうしたことなのか。
猫さんは十二歳にして、そうとは知らずに深い哲学的難問に直面していたのである。
それに加えて、いじめもあった。@いじめ{傍点}などという概念も当時は存在していなかった。転校生がいじめられるのは当たり前のことだった。発する言葉の訛りをからかわれた。何よりも、小学校時代の優等生が平均以下の生徒になってしまった。教師に当てられると答えられなかった。緊張のあまり失禁した。教室内でも、家でもほとんど失語症のような状態になった。どのように手を動かせばいいのか、足を動かせばいいのかさえわからなくなった。学校に行くことができずに、自分の部屋に引きこもった。
そして、彼は自分の幼年期の、もっとも幸福を感じたときの記憶を抹消しようと努力した。なぜなら、その記憶が残っているかぎり、自分は永遠に不幸のままだという結論に達したから。
猫さんの頭に迷いが生じると、そのときの不安、緊張がぶりかえしてくる。その気配を感じると、彼は目をつぶって一歩踏み出す。経験の分析から何かを引き出すのではなく、瞬時の本能的判断を信じるようになったのである。とまどうこと、躊躇することは、彼にとって死を意味した。
結局、彼は段ボールを開けてみることにした。そして、「光が丘小学校卒業文集」に出会ったのである。