前の記事の最後に(つづく)と書いて、ただ日にちだけが過ぎ去っていく。たぶん何かを間違えたのだろう。書き出しの方向が違うとか、展開の仕方を間違えたとか、そういう技術的なことではないような気がする。
人としての、個人としてのイエス——いわゆる「史的イエス」——を追っていっても、数多あるイエス伝の、階上屋を重ねる類のことくらいしかできないに決まっている。たとえ努力して、夥しい時間を費やして、玄人はだしにもならない背伸びみたいな、はったりみたいなことをやってのけたとして、それがいったい何になるだろう。誰のためになるだろう。
書き方を変えなければならない。認識というものが、自分の外側にあってそれをなぞるものではなく、自分の内側にあって、それを掘り起こすものだとすれば、おのれの身の丈にあった形式の発見こそが、本当の認識の端緒になると信じよう。
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「おい、いったい、あいつは何者だい?」
「知らないな。このへんのもんじゃないだろ?」
「なんでもナザレの出らしいよ」
「そんなやつが、どうしてこんなところで布教なんかしてるんだ」
「ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けたらしい」
「へぇ、ヨハネの弟子ってことか」
「だけどよ、ヨハネから洗礼を受けたやつはごまんといるだろ」
「なんでもそのあと四十日間断食したらしい」
「ふーん、どこで?」
「詳しくは知らないけど、人里離れたところらしいよ」
人々は最初は半信半疑である。そのうち、いろいろな噂が飛び交ってくる。
「おいおい、あいつ、病気を治すらしいぞ」
「病気って、どんな?」
「らい、とか」
「うそだろ、触れたらうつってしまうじゃないか」
「でも、みんなそう言ってる」
「悪魔払いもできるらしい」
「ほんとか?」
「うん、サタンよ、去れって言っただけで、悪魔が離れていく」
「おまえ、見たのか?」
「いや、だから噂だって」
「この目で見てみたいもんだね」
あるいは、
「見たわよ、見たわよ」
「え、なにを?」
「なにじゃなくて、ひとだよ、あのひとだよ」
「あのひとって?」
「いやだね、このひと、あのひとのことも知らないのかい。イエスさんのことだよ」
「え、あのイエスさん? 病気を治すイエスさん?」
「そうだよ!」
「どんなだった?」
「どんなもこんなも、ものすごい人だかりでさ。見えないんだよ」
「なんだ、見てないんだ」
というようなこともあっただろう。なにしろ福音書には、多いときには数千の人が集まってきたと書かれているから。噂は噂を呼び、どんどん広がっていく。
しかし、実際に見た人、声を聞いた人、話を聞いた人、触った人、触られた人もいただろう。たとえ少数であったとしても。最初のパン種。良い土地に落ちた何粒かの麦。
(つづく)