①心静かに話すこと。ゆったりとした気持ちで話すはなし。閑談。
②内容に重きをおかない話。むだばなし。雑談。
精選版・日本国語大辞典(小学館)
二十世紀の終わり頃——ということはつまり四半世紀まえの話、ついこないだ終わりを告げた平成が始まったばかりで、私が三十から四十の峠を越えようとしていた頃、次から次へとなりふり構わず引き受けた翻訳と血眼になって格闘していた当時のこと——、仕事の傍らで夢中になって読んでいた小説がある。
藤沢周平の時代小説だ。
まさにはまるとはこのことかと、みずからあきれるほどはまってしまって、たぶん文庫版のほとんどを読んだはずだ。きっかけは『蝉しぐれ』という題の長編小説だった。たしかこの作品の文庫版の書評が朝日の夕刊に載っていて——評者は秋山駿——、さっそく買い求めて読みはじめたら止まらなくなったのである。一作を読み終えたら、すでにそのときこの作家の紡ぎ出す物語の虜になっていた。
作品紹介をしようというわけではないので、細かいことは省く。牧文四郎という下級武士の家に生まれた青年が藩の政争にもみくちゃにされながら成長していく物語である。
ふくという名の幼なじみが登場する。文四郎の初恋の相手である。文四郎は切腹して果てた父の遺恨を背負い、ふくは藩主の側室となり、両者とも悲運に翻弄されて人生を歩むが、長い歳月が経過して、藩主亡き後、出家して尼僧となることを決意したふくは、文四郎と再会することを願う。
その再会の席で、ふくは文四郎に言う。
「ふくが文四郎様のお側で生きる道はなかったのでしょうか」
この言葉どおりだったか、文四郎がそれにどう応じたか、じつは心許ない。というのはさっき、原作を確かめなくてはと思い、本棚を調べてみたのだが、どういうわけだか『蝉しぐれ』だけ見つからないのである。これだけのロングセラーだから、図書館か最寄りの本屋にでも行けば、すぐに確認できるはずだが、あえてこのままにしておきたい気分なのである。
馬で帰路につく文四郎に降りそそぐ、耳を聾さんばかりの蝉しぐれ、それは読者の心に永遠に鳴り響いてやまない。
*
*69(esq.03)では、「これは猫さんが恋をする話である」と書いた。次の*70(esq.04)では「この物語は、書き手の気まぐれによって命名された人物が、私とは何か、私はどこから来たのか、誰を愛しているのか、問いを重ねていく物語である」と書いた。
初めから、そんなことを想定していたわけではない。ほとんどやけくそのように、猫柳香という名前が頭に浮かんできたとき、物語は勝手に始まったのである。猫さんが医者に鬱病と診断される場面も突然降ってきた(原形は*20の「診察室」にある)。
この断片を書き終えたとき、はっきりと、初恋(ファーストラブ)が終の恋(ラストラブ)になり、核融合のようなエネルギーを爆発させる、そんな物語にしたいと思った。人生を歩むエネルギーは核分裂のようなものかもしれない。だから終わりくらいは融合させてみたい。それはおそらく小説のなかでしか実現できないだろう。
始まったばかりで、文字どおり海のものとも山のものともしれない物語をみずから解説する愚は避けたい。七〇年代を生きた文学青年のあいだで、ほとんど伝説と化した堀川正美の白鳥の歌、「新鮮で苦しみおおい日々」全篇をここに書き写しておくことにする。
時代は感受性に運命をもたらす。
むきだしの純粋さがふたつに裂けていくとき
腕のながさよりもとおくから運命は
芯を一撃して決意をうながす。けれども
自分をつかいはたせるとき何が残るだろう?
恐怖と愛はひとつのもの
だれがまいにちまいにちそれにむきあえるだろう。
精神と情事ははなればなれになる。
タブロオのなかに青空はひろがり
ガス・レンジにおかれた小鍋はぬれてつめたい。
時の締切まぎわでさえ
自分にであえるのはしあわせなやつだ
さけべ。沈黙せよ。幽霊、おれの幽霊
してきたことの総和がおそいかかるとき
おまえも少しぐらいは出血するか?
ちからをふるいおこしてエゴをささえ
おとろえてゆくことにあらがい
生きものの感受性をふかめていき
ぬれしぶく残酷と悲哀をみたすしかない。
だがどんな海へむかっているのか。
きりくちはかがやく、猥褻という言葉のすべすべの斜面で。
円熟する、自分の歳月をガラスのようにくだいて
わずかずつ円熟のへりを噛み切ってゆく。
死と冒険がまじりあって噴きこぼれるとき
かたくなな出発と帰還のちいさな天秤はしずまる。