*24 ライオン

ライオンの夢を見たのである。
 筋のようなものは何もない。ただふつうに寝ていたら、ソファの上にライオンが寝ていたのである。
 私はいつも床に布団を敷いて寝ている。ベッドのかわりに小ぶりのソファが置いてあって、そこはいつも猫に占領されている。
 その猫がライオンになっていたのである。ライオンであるから、途方もなくでかい。ミニチュアのライオンでも、仔ライオンでもなく、あの百獣の王、鬣ふさふさの立派な雄ライオンがソファの上で寝ていたのである。
 こんなふうに書くと、首を傾げる人もいるだろう。あんなに大きな動物がソファに収まるはずないではないか? へたをすると寝室をふさいでしまうのでは、と。
 たしかに。しかし、巨大だった。巨大なまま、小さめのソファの上に居すわっていた。
 もちろん、どう考えたって遠近法が狂っているのだ。夢だから仕方がないじゃないか・・・・・・。それでは身も蓋もない。この拙文はここで終わってしまう。
 そもそもどうしてこんな夢を見てしまったのか?
 どこの猫もそうだろうが、夏であれば家のなかでいちばん涼しいところ、冬であればいちばん暖かいところに居すわって動こうとしないことがある。よくもそんなに寝ていられるものだと思うほど、ぐっすりひたすら、ときには半日ほどもずっと寝ていることさえある。こんなに安らかに眠られると、起こすのが忍びなくなる。そんなふうに遠慮しているうちに、主人の寝室のソファが飼い猫のベッドと化してしまったのだ。主人のほうが遠慮して端のほうにちょこんと腰かけ、テレビを見ている。猫を追い出し、堂々と足を投げ出して横になればいいじゃないかと不思議がる人は、猫を飼ったことのない人である。
 そういう遠慮が積もり積もって膨れあがり、ライオンになった、と考えてみたらどうだろう。つまり遠慮の塊がライオンの姿になったと考えるのである。少なくとも猫派の人なら賛同していただけるのではないだろうか。
 では次に遠近法の狂いについてはどうか? 夢のなかでは、なぜソファの上で横になっているライオンが原寸大に見えたのか? ここで重大な(?)問題が生じる。なぜならば、私は今現在、夢を見ているのではなく、一ヵ月ほど前に見た夢を思い出しているからである。こんなこと書いたって文章にならんのじゃないかと思って放置していたのだが、じつは内心ずっと気になっていたのだろう。ブログのアドレスを新しくした(keitakahashi-tr.com)記念に(?)何か書こうと気張ったところ、ライオンの夢を思い出したのである。
 さて、この夢の記憶は正しいか? そもそも記憶に正しいとか、正しくないとか、そういうことがありうるだろうか。たしかに記憶違いというのはある。林檎を五個もらったのに、三個だと記憶しているような場合。しかし、夢は自分の心のなか、あるいは頭のなか、あるいは意識のなかで視覚のかたちをとって体験する事柄である。その夢自体——人生と同じく、見るそばから消えていくのだから——検証不可能である以上、その記憶もまた検証不可能であると言わざるをえない。検証とは第三者を介在させることである。夢のなかにも、記憶のなかにも第三者は存在しない。
 とまあ、この問題を追及していくと、まるで観念論哲学の論証みたいになって延々と終わらない。
 でまあ、現象学の判断停止ではないけれど、とりあえずこの問題は棚上げにして(括弧でくくって)、ここでは一ヵ月前に見た夢が記憶のなかで正しく保存されていると仮定して、話を進めよう。
 まずは見た夢をできるだけ正確に再現してみる。それほど難しいことではない。こんなに単純な夢はないと言えるほど単純なのだから。
 私は床に布団を敷いて寝ていた。ふと目が覚めて、布団に平行しているソファを見上げると、なんとライオンの巨大な顔がそこにあるではないか。猫と同じく前足の上に下顎を乗せて寝ているのである。うわー、やばい、こんなものを起こしてしまったら、ひとたまりもない。さっさと目を覚まして、夢から逃げ出さないと食われて死んでしまうぞ! というわけで本当に目が覚めたのである。もちろん、目が覚めればライオンなどいない。わが家の猫が、常夜灯の薄暗い明かりのなか、同じポーズですやすや寝ているだけである。
 自分の寝室にライオンが出現することなどありえないから、夢を見ながら夢を見ていることを私は知っていた。よくあることだ。還暦を過ぎるまで生きてくれば、悪夢に襲われ、そこから逃れられずに足掻くなどということはまずない。悪夢は今でも見るけれど、怖くなったら目が覚める。目を覚ませと、自分で号令をかける。
 夢のなかのライオンが実物大として記憶されているのは、おそらく、夢のなかで見上げたライオンの顔があまりに巨大で、あまりにリアルで恐ろしかったからなのだろう。
 猫に対する遠慮の塊がライオンに変身した、という理屈づけは、それなりに説得力というか、面白みはあるが、本当はそれよりもっと切迫した何かがあって、それがライオンの姿になったのかもしれない。
 たとえば、先月の半ば、私が翻訳した『エディに別れを告げて』の作者エドゥアール・ルイが来日し、対談やらトークショーの司会をやらされるはめになった。こんなことはぶっつけ本番でできることではない。作家本人や対談相手に何度もメールを書いて、段取りする必要があった。慣れないことをやるストレスやらプレッシャーは、慣れていないゆえにどう対処していいかわからない。その大きなストレスがライオンの形になった、とか。
 ま、それにも一理あるだろう。
 でも、ひょっとして、わが家の猫がソファでライオンになった夢を見て、その脳波が私のレム睡眠の脳波と混線したと考えたらどうだろう。
 荒唐無稽か? でも、人の心のなかには荒唐無稽を愛する部分があって、そこではもったいぶった理路は排斥されてしまうのだ。
 そう、『荘子』に出てくる胡蝶の夢、これを思い出すと、いつもうっとりしてしまう。
 むかし、荘周、夢に胡蝶となる。楽しく飛び回る蝶となり、自分が荘周であるとは思わなかった。しかし、ふと目が覚めれば、まぎれもなく荘周その人がいるだけである。いったい荘周が蝶になった夢を見たのだろうか、それとも蝶が今、荘周になった夢を見ているのだろうか。

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