第四章
ウァロ〔古代ローマを代表する碩学〕はおびただしい著作を残しているが、そのなかに登場する古代ローマ人はギリシア人の風俗や哲学、空虚な思想、弁証の手続き、理論の便法などの発明を痛快にこきおろしている。ウァロはその小説のある登場人物にこう言わせている。「哲学者などというものは口論ばかりしている人魚{シレーヌ}のようなもので、そのあいだにオデュッセウスは通り過ぎてしまう。」ラトロによれば、このウァロさえも、またルクレティウスでさえも、ギリシアの思想におびえているとみなしていた。アカイア人たちとその子孫の作品には、神々はギリシア語で語っていたという思いが染みこんでいる。ギリシア人が「ロゴス」と呼び、また同時に彼らにとっての道理をも意味したその言語は、むろんオリンポス宮殿で語られ尊ばれた言葉だったが、ポセイドンをまつるタイナロンの岬の傾斜地や入り江に生きる漁師たちも使っていた言葉だった。古代ローマ人は自分たちが使っている言葉の持つ猥雑な起源の記憶を失うことはなかった。彼らは恥じらいもなく、自分たちの言語が街と同じように木の端切れと石の塊と人間と、そして雨に対する恐れからできあがっていることを認めていた。
ラトロは理{ラティオ}と情{アフェクトゥス}はたがいに切り離すことができないと言い――正確を期すると in ratione habere aliquem locum affectus〔理にはその一部に情が含まれている〕――また、理が先走ってしまったため、情はそれにぶらさがっているとも言い、最終的には「理にかなった思考はおそらく、より情の深いものから作られたものだ」とも言った。
彼は言う、われわれはこの人生において、いつも些細なことで不安を呼び起こす、それは小さな騾馬の悲鳴であり、思考は山のなかの板張りの避難小屋であり、書物は今を流れる時から逃れるためにあり、寝台は眠りと羽毛のなかで縮こまるためにある。
ようするにこれもまた、「マルケルス〔「ローマの剣」と称された古代ローマの武将〕の衝突」のひとつであり、ラトロはそれをさかんに振りまいたのである。
私は、ラトロを駆り立てたこの思考の動きを他にあまり知らない。ときにはこれに似たエピソードもある。アルキメデスにとって、パスカルにとって、ヴィトゲンシュタインにとって、数学は火事からの、肉体的苦痛からの、そして同性愛の欲望からの逃避だった。アルキメデスは幾何学の問題を解くことに没頭するあまり、シラクサ劫掠の際に街が燃えていることにも、熱い白い灰が自分の手に降りかかっていることにも気づかなかった。この地上に大英帝国を築きつつあったディズレーリは“Never explain.”〔いっさい釈明するな〕と語った。このディズレーリことビーコンズフィールド伯爵は次のようにつけ加えることもできたかもしれない。すなわち、その根拠を問われれば主権は揺らぐ、と。権力というものはそもそも野蛮なものでありながら、その根拠や起源を隠しうるかぎり、神に似ている。人それぞれが今ここにあることをさかのぼれば、快楽の野卑なうめき声があり、そのイメージはふだんあまり脳裏に浮かんでくることはない。ノルマンディーのモルターニュにエミール=オーギュスト・シャルティエとして生まれた哲学者のアランは、何かを断るとき、けっしてその理由を言ってはならないと主張した。なぜなら、ひとたび正当化をはじめれば、断るのをやめるはめになるから。最後に私は、ポルトガルのブラガンス大公の軍事的才能について語ったリーニュ公爵の言葉を喜んでここに書き写しておこう。ドン・ジュアン・デ・ブラガンスは七年戦争のとき将軍としてオーストリア軍に加わった。リーニュ公爵はこう言っている。彼の言うことはいつも理にかなっていた。というのも、彼は敵にも理があることを想定していなかったから。
第五章
トゥリウス・キケロはめったに演説することがなく、したとしても小数の聴衆の前で、しかも室内でおこなったが、ポルキウス・ラトロは好んで公衆の前で演説した。戸外で演説した。呼び出しを受けると、自宅のそばにあるオリーブの林の陰をその場所に選んだ。ラトロはあまり仕事をしなかったが、ふと思い立つと延々と仕事をした。五十時間ぶっ続けに働き、すべてを片づけた。
ポルキウスの妻はウンブリア地方の出身だった。娘は容姿も表情もまさにローマ女だった。その瞳は青く、ちぢれたブロンドの髪をシニョンにまとめ、豊満な胸は両わきに広がり、肌はあくまでも白く、太陽にはけっしてさらさず、口数は少なく、気性は激しく、唇は赤かった。ウィミナリスの丘にある邸宅からはティブルティーナ街道に響く馬の鉄具といななきが遠くから聞こえてきた。前二四年、インドからの皇族の使節がローマを訪れた。ちょうどこのころ、彼は毎朝夜明けととも古い唄をうたい、しつこいルフランを繰り返すようになった。「Semper! Semper!」(いつまでも!いつまでも!)。このあたりから彼の頭はおかしくなっていた。
狩りは彼のお気に入りの道楽で、書物や賽子遊びの趣味を凌駕していた。山に入るときには、その前日の黄昏どき、槍の手入れや馬の世話をする前に、彼は森の中に分け入り、雄鹿の鳴き声に耳を澄ました。性欲にさいなまれた長い叫び、喉の奥からしぼりだすその荒々しい鳴き声、いきなり甲高く響いたかと思うと、ぴたりと止まり、丘を下り、谷を渡るその声に、彼は嵐が迫っているときと同じ胸騒ぎをおぼえるのだった。
ほぼこの時期、彼はウィミナリスの丘を、街なかの丘を離れたいと思った。彼はティベリス〔テヴェレ川〕の近くに住まうことにした。ピンキウス山の向こう、フラミニア門の北に居を移した。平石を積みあげただけで漆喰も塗らず、窓もないたった二部屋だけの小屋で彼は満足した。妻と娘はすでの彼のもとから去っていた。彼は二年かけてこのあばら屋を新しい黄色の瓦でふいた。ここを訪れてきた者(彼にはたくさんの弟子がいた)にはつぶした葡萄と黒パンを与えた。床は土間だった。そこに羊毛の敷物をしいて座った。彼は礼服{トガ}を捨て、白い略衣{トゥニカ}をまとい、肩には灰色の羊毛の生地(十九世紀になってショールと呼ばれたもの)をかけた。朝は髭を焦がすのをやめた。その顔はたちまち白く短い髭でおおわれた。小屋の戸口に立っても、岸辺に乾いた藺草が密生しているために川の景色は見えなかったが、途絶えることのない水の流れる音だけは聞こえた。みずから愛着を抱き、また他人も喜ばせたあの挑発的な名言が生まれたのはこのころのことだった。いわく「真理の探求とは、つまるところ花弁の奥を探らんとして馬に乗ることに帰する。そもそも正義とは、ローマの乳母である雌狼が吠えるとき、その唇を押し広げる飢え以外のどこにあるだろう。」古いフランス語では狼にしか吠える[hurler]という言葉を使わなかった。猫にはミャオ[miauler]、人がわめくときにはバヴェ[baver]と言った。若者はポルキウスの言葉を聞きたがった。哲学者については「知恵につける薬を自分は知らない」と語った。ポルキウス・ラトロ特有の言い回しにはいくつかのヴァージョンが残っている。たとえば「おおやけ{パブリック}とは、いちもつ{メンツーラ}にひっかける亜麻の下ばきのことである」とか「われわれは糞をする。われわれは小便をする。われわれは雌どもの陰門のぬくもりを欲する。私は生涯で二度、万人の利益について考えたことがあったが、いずれのときもまぼろしだった。」ローマに商館が建てられたとき、インダス川のほとりからやってきた賢人が彼に慈善と人間の尊厳について説いたことがあったが、そのとき彼はこう言った。「あなたはじつに正しいから、私にはあなたが夢を見ているとしか思えない。」そしてこんな言葉も残っている。「みずから進んですることに良いことはない。」
第六章
友のルキウス・ユニウス・ガリオは元老院議員になった。ポルキウス・ラトロは何にもならなかった。川のほとり、乾いた石を積みあげた小屋の前には、洪水と雨でむきだしになった大きな石がごろごろしていた。小屋の裏手にはオリーブの森と麦畑があり、刈り入れが終わって地面に干してある麦はサンダルの革と皮膚の隙間に入りこんでちくちく刺した。さらに遠くには、葡萄畑と野原が広がっていた。
彼の講義料は高かった。たびたび馬を買った。その生涯の盛りの時を狩りに費やした。よくまだらの小さな馬に乗り、クピエンニウスとともに出歩いた。前一九年のある日、槍を八回投げて、五回しとめた。しとめた獲物の一頭は枝角が退化した鹿だった。切り落とした角の根元に、彼はそれをギリシア文字で記した。その枝角は左右が非対称だった。片側がその反対側と三対一の割合で縮まっていた。剥製にした頭部はいびつで弱々しく、シグマの文字に似た形をしていると記した。前一九年の九月二十一日、汗にまみれてギリシアから帰り、ブリンディジの港に上陸した五十一歳のウェルギリウスは咳をしているときに息を詰まらせて死んだ。
クピエンニウスは、性交の前、女が体を洗うのを好み、あの部分を白いうすぎぬで覆うよう求めた〔原註3〕。全裸になった女を見るのは忍びなかった。ローマ中がこのクピエンニウスの奇癖を嗤った。彼は股に小さな白い布をつけた女でないと勃起しないのだと言った。これはいわゆる宮廷風恋愛のはしりである。このようなクピエンニウスの性的奇癖の起源はホラチウスのなかに見られる(『風刺詩』一巻第二歌)。ポルキウスは、クピエンニウスがこんなふうに振る舞うのは仰向けの女を抱くからだと言った。また、雄牛に仰向けの雌牛と交尾させるようにしむけることなどできないとも語った。ポルキウス・ラトロは、昔ながらの風習、つまり more ferarum(後背位のことだが、直訳すれば「野生の動物の習慣に従って」となる)で女を抱き、目が悪いので女の性器を鼻でたしかめる必要があるのだと言った。
彼の妻が離婚を求め、裁判を起こしたとき、娘も家を出た。彼は匙で食器をたたくのが好きだった。重々しい声に乗せて発せられるその不躾な言葉が弟子を夢中にさせればさせるほど、近所の顰蹙をかった。娘が家を出てしまうと、彼は元老院議員のご機嫌をうかがいに回った。施しの時間になると、クピエンニウスを伴って@貴族{パトロン}から貴族へと渡り歩いた。彼らは言った。「なぜ女たちは顔に下着をつけないのか。」ひとつの季節が過ぎるあいだ、クピエンニウスとポルキウスは毎朝のようにローマでもっとも勢力を誇っていた貴族の戸口に立ち、元老院を召集して、女の顔を覆わせる法律を採択すべきだと主張した。彼らの言動に憤慨した四人のご婦人連が彼らをそれぞれ帝国の正反対の辺境へ追放しようと働いた。ポルキウス追放運動をなんとかとどめたのは、皇帝の老いた妻リウィアとアウグストゥスそのひとだった。アウグストゥスはポルキウスの言葉をよく引き合いに出した。「私の身体は淀んだ泥の川だ。私の住まいはかろうじて立っている石の山だ。今朝私が柘植の木片に書きつけた言葉は、蝸牛が萵苣{レタス}の葉に残したきらきら輝くよだれにも及ばない戯言だ。」皇帝は胡瓜の薄切りやサラダ菜など新鮮な野菜の涼味を好んだ。食事することを前もって告げると、毒を盛られる恐れがあったので、人の手がかからない即席の料理が好きだった。アウグストゥスが金本位制を定めたのは前一五年のことである。
前一三年、セネカはローマを離れ、スペインに帰った。ポルキウス・ラトロはその送別会に出席している。二人は厩舎で馬が足踏みしている音を聞いていた。彼らはほとんどしゃべらなかった。黙って腕を取りあった。(続く)
*3)直訳すると「白い布でおおわれた性器しか愛でないクピエンニウス」(…mirator cunni Cupiennius albi)となる。