*100 ムルソーの食卓(連載2)

(1 ムルソーの食卓・承前)

 

 

それはそうと、とにかく同人誌に掲載するエッセイを書きはじめなければならない。

ムルソーはセレストの店で昼を食べてから、二時のバスに乗り、アルジェから八十キロ離れたマランゴの養老院に向かう。

彼は養老院の死体置き場で、門衛といっしょにカフェオレを飲み、煙草をふかし、母親を弔う通夜の晩を過ごすことになる。この行為は、のちの裁判シーンでは、検察官がムルソーの「無感動」な態度を告発するときの格好の材料となるが、ここでは飲み食いする場面として、ことさら取り上げるほどのことでもない。

次にムルソーが食事をする場面は、二日後の日曜日にとぶ。ちなみに、その前日の土曜日——つまり、葬儀の翌日——は海に泳ぎに行き、そこでかつて同じ事務所で働いていたマリー・カルドナという女性と再会し、映画を観てからそのまま夜をともにしている。「夜、マリーはすべてを忘れ」、ムルソーが目覚めたときには「いなくなっていた」。

彼は、今日が自分の嫌いな日曜日であることを思い出し、マリーの髪の毛が残した潮の香りに埋もれて、また十時まで眠り、目が覚めても昼までベッドのなかで煙草を吸っている。

いつものようにセレストの店で食事をする気にはなれなかった。行けばきっとあれこれ質問されるだろうし、そういうのは苦手だから。卵をいくつか焼いて、そのまま食べた。パンはもうなくなっていたけれど、わざわざ買いに行くのがおっくうだった。

いかにも、日曜日の昼まで寝ていた独身男の食事らしい。目玉焼きも、ちゃんと作ろうとすればデリケートな料理だというが、この場合はフライパンで焼いて、皿にも盛らずじかに食べている。塩をふったのかどうかもわからない。

このあとムルソーは、自分の住む下町の集合住宅の一室から、ひたすら往来を見下ろして午後を過ごす。晴れていた空が陰り、雨がぱらぱらと降り、ムルソーはまた煙草をふかしたり、チョコレートをかじったりしながら、下町の賑わいを見つめている。やがて日は傾き、夕闇が降りてくる。

 

すると突然、街灯がともり、すでに夜空に上がっていた最初の星たちの輝きがうすれた。歩道の上の人々と光を見ているうちに、目が疲れてくるのを感じた。街灯がぬれた舗石を照らし、規則的に行き交う路面電車の明かりが、つややかな髪や笑顔や銀のブレスレットに反射した。やがて電車があまり通らなくなり、樹木や街灯の上ではすでに宵闇が濃さをまし、いつのまにか街から人影が消え、ふたたび閑散とした通りを最初の猫がゆっくりと通りを渡っていった。そこでようやく、夕食をとらなければと思った。椅子の背に長いこと顔をあずけていたせいで、少し首が痛んだ。外に出てパンとパスタを買ってくると、自分で料理を作り、立ったままで食べた。また窓辺で煙草を吸いたくなったが、夜風が冷たく、寒気がした。窓を閉めて引き返そうとしたとき、窓ガラスに映ったテーブルと、その上に置いてあるアルコールランプとパン切れが目に入った。なんの変哲もない、あいかわらずの日曜日だった。ママはもう埋葬されたし、明日からはまた仕事、結局なにひとつ変わりはしないのだ、と思った。

 

数ページにわたって続く、街路の描写はとても美しい。この眺めは、著者のカミュが少年時代に住んだアルジェの下町、ベルクール地区——アルジェの市街地は海から急激に立ち上がる崖っぷちのような傾斜地に建設されているから、文字どおりこのあたりは町の下に位置している——の中心をなすリヨン通りの景色だろう。独立後はモハメド・ベルイズダード通りと改称されたこの通りに、私は運転手のラムダニといっしょに何度足を運んだことか。正直に言うと、リヨン通りの独立後の通りの名前を正確にどう発音すべきか、知らないのである。現地のベテラン運転手ラムダニは、独立前のアルジェの通りの名前をちゃんと記憶していて、日本人がどちらの名前で呼んでもちゃんと応じてくれたからである。

彼は街のあらゆるところに連れていってくれた。工具や金具を買うならこの店、車の修理ならあのガレージという具合に、まさに生き字引というか、生きている地図というか、だから今でもアルジェ、アルジェリアの地図は持っていない。彼が地図だったから。ラムダニは敬虔なイスラム教徒で、高見山みたいにどっしりした体つきで、大きな目が愛くるしかった。右手——左手だったかもしれない——の親指には独立戦争のときの名誉の負傷があった。自宅に招かれて、クスクスをご馳走になったこともあった。

ムルソーの行きつけのセレストの店も、彼が住んでいる——つまりカミュ一家が住んでいた——部屋もこのリヨン通りに面しているのだろう。残念なことに、この下町のリヨン通りでは、サハラの工事現場で急遽必要になった金具類を買いにいったり、事務所で使う文房具を買ったりした以外、とくに食事をしたり、コーヒーを飲んだりしたこともなかったから、セレストの店のモデルになった店がそこにあったのかどうか定かではない。ただ、ムルソーの行きつけの店として登場するから、おそらく自分の住まいの近くだろうと見当をつけているだけのことである。

それはともかく、じつに細かく、ときに遠近法を無視して描かれた街の夜景は、繰り返すが、異様なまでに美しい。ムルソーの目が潤んでいるとしか思えない。でも、彼がこのとき何を食べたかはわからない。パンとパスタを買ってきたのだから、スパゲティか、マカロニかペンネの料理でも作ったのだろう。トマトも買ったと書いてあれば、赤いソースのからんだ白いパスタが目に浮かぶが、パンとパスタだけじゃ、何もわからない。この物語の冒頭でムルソーが受け取る電報と同じだ。

 

今日、ママが死んだ。もしかすると昨日かもしれないが、よくわからない。養老院から来た電報には、「ハハウエシス。マイソウアス。アイトウノイヲヒョウス」とある。これじゃまるで要領を得ない。たぶん昨日だったのだろう。

 

ムルソーの語りには、わからない、知らない、どうでもいい、などの言葉が頻出する。カミュの最初の構想では「無関心な男」というタイトルだったそうな。やがてそれは「幸福な死」という長編小説となるが、結局この小説は未刊のままに終わった。何が気に入らなかったのか。そして時間が経過して「異邦人」という名の小説に生まれ変わる。それと同時にカミュという作家が生まれ、時代の寵児となり、ノーベル賞を受け、プロヴァンスの家から車でパリに向かう途中、プラタナスの街路樹に激突して、あっけなく死んでしまう。

 

 

食事の話を続けよう。
ムルソーは何事もなかったかのように、仕事に精を出す。彼の仕事は通関代行業、港のなかにある海運事務所で働いている。

さて、昼時。ムルソーは発送係のエマニュエル——黒のネクタイを借りた相手だ——といっしょに外に出る。港に浮かぶ貨物船が真昼の光にまぶしく照り映えている。そこにトラックがやってくる。ムルソーとエマニュエルはけたたましいエンジン音を響かせて通りすぎるトラックを追って駆けだし、荷台に跳び乗る。トラックは巻き上がる埃と太陽の光のなかを疾走し、不揃いな波止場の敷石の上ではね、エマニュエルは大声で笑いこける。

 

汗だくでセレストの店に着いた。太鼓腹と前掛けと白い口ひげという、いつもの出で立ちでセレストが迎えてくれた。「どうにかやってるかい」ときくので、うん、と答え、腹がへってるんだと言った。そそくさと食って、コーヒーを飲んだ。それから部屋に戻って、少し眠った。ワインを飲みすぎたせいだろう。目が覚めると、煙草が吸いたくなった。遅くなったので、走って電車に飛び乗った。午後はずっと働いた。事務所の中はとても暑く、夕方外に出て、波止場をゆっくりと歩いて帰るのは気持ちがよかった。空が碧くて、満たされた気分になった。でも、ゆでたジャガイモの料理が作りたかったので、まっすぐ部屋に帰った。

 

セレストの店では何を頼んだのか、あいかわらずわからないが、会話を避けるかのように「そそくさと」食べ、コーヒーを飲んで帰ってしまう。そのあと、ワインを飲みすぎたせいで眠くなったというから、料理を食べるのと同じ勢いで、立てつづけに何杯か飲んだのだろう。おもしろいのは、夕暮れどきのムルソーの気分の揺れ方だ。鬱陶しい事務所を出て、気持ちのいい潮風の吹く波止場を歩き、「空が碧くて、満たされた気分」になっているのだから、どこかのカフェに立ち寄って、ビールとか、あるいは——アルジェリアのビールは当時も今もまずいだろうから——、地中海沿岸では夏定番のパスティスの水割りなんかを引っかければいいものを、そうはしないで、まっすぐ家に帰って自分で夕食を作ろうとする。芋をゆでて、どうするのかはわからないけれど。

料理をするムルソーというイメージは好もしい。美食家ではないが、生活の手触りというのか、かたちというのか、そういうのは大切にする。とはいえ、それを強調するために、食事のシーン、食べ物についての場面をことさら詳しくは書こうとしていない。絵にたとえるなら、わざと白地を残している。
ものを食う場面ばかりではない。たとえばムルソーに兄弟・姉妹はあったのか。養老院の院長は、母親の通夜と葬儀のためにやってきたムルソーに向かって、こう語りかける。

 

「マダム・ムルソーがここに入られたのは、三年前のことです。あなたはたったひとりの扶養者だった」何かとがめられているような気がして、弁解しようとした。だが、院長がさえぎった。

 

「たったひとりの扶養者」という言葉から、ムルソーが一人っ子だったと結論することはできない。兄弟姉妹がいても、遠くに住んでいるとか、この小説の書かれた時代からすれば戦死してしまったという可能性もある。そもそも、ムルソーの弁解自体が封じられている。

父親のこともまったく書かれていない。いや、正確に言えば、たった一箇所で言及されている。それは、小説の第二部第五章に記されている。裁判で死刑が確定し、ムルソーは独房へと引き戻される。そして三たび、御用司祭の面会を拒否し、もうじき自分の首を刎ねるであろうギロチンのことをひたすら考える。

 

そんなとき、ふと母から聞いた父に関する話を思い出した。僕は父を知らずに育った。この人について正確に知っていることといえば、このときママが話してくれたことだけだろう。彼はある殺人犯が処刑されるところを見に行ったというのだ。刑場に行くと考えただけで具合が悪くなった。それなのに刑場に行き、帰ってきて、朝食べたものの一部を吐いた。それを聞いて、自分の父が少し嫌になった。

 

奇妙な記憶だ。というか、よりにもよって、こんなことを息子に詳しく語る母親も母親だ。ムルソーの父と母は離婚したのだろうか。それとも死別したのだろうか。これもわからない。著者カミュも父を知らずに、母の手で育てられた。彼の父は一歳のアルベールと四歳上の長男を残して、第一次大戦で戦死している。しかし、著者は著者、小説の主人公ではない。

これは小説を読むうえでの原則であり、礼儀であるだろうと思う。しかし、(かつての)批評の多くが——べつに『異邦人』の場合にかぎらず——、著者の生い立ちを詳しく調べ上げ、作品に書かれた場面や状況に当てはめては、探偵小説みたいに創作の謎を解こうとした。

あるいは精神分析医のように、主人公の(あるいは作者の)心の病を解析するものもある。これは完璧な「父殺し」「母殺し」の心理構造を持つ作品であり、オイディプス・コンプレックスの象徴的物語であると。

なるほど。

でも、今はもう、こういった解読や解析にはあまり心動かされなくなった。

 

 

それはともかく、さらに食事の話を続けよう。
ジャガイモ料理をしようとまっすぐ帰宅したムルソーは、アパルトマンの暗い階段を登りながら、同じ階に住むサラマノ老人と鉢合わせになる。この老人は、自分と同じように老い、なおかつ重い皮膚病にかかっているスパニエル犬と暮らしている。

狭い部屋に犬とふたりで暮らしているせいで、サラマノ老人はついに犬に似てきた。老人は顔に赤みがかったかさぶたがあり、黄色い毛がまばらに生えている。犬のほうも飼い主の猫背がうつったのか、首を伸ばし、鼻面を前に突き出して歩く。似たもの同士だが、憎み合っている。

細かい描写だ——食事の場面とはうってかわって。一日に二回、決まって朝の十一時と夕方の六時に、老人は犬を散歩に連れ出す(つまり、物語の現在時刻は六時ということだ)。妻を失って以来八年、散歩の経路はかわらない。犬が老人を引っ張り、ときどき老人はつまずく。すると老人は犬を打ち、ののしる。犬はおじけて、はいつくばり、今度は逆にずるずると引きずられる。ときには歩道に立ちつくし、たがいの顔を見つめあう。

階段の途中で老人は「こんちくちょう! くたばりぞこないめ!」とどなり、犬はうなり声をあげている。ムルソーが、こんにちは、と声をかけても、老人は振り向きもせず、「こいつ、まだ生きてやがるんで」と言い残して通りに出ていく。
ムルソーはさらにもうひとりの隣人と出会う。女を食い物にしている女衒だと近所では評判の悪い男が「部屋にブーダンとワインがあるんだが、いっしょにやらないか?」と声をかけてくる。ムルソーは自分で夕飯を作らなくてもすむと考え、誘いにのる。

ブーダンとは、豚の血と脂身で作る腸詰めのことだが、独特の臭みがあって、フランス人でも敬遠する人がいる。まあ、庶民の食べ物といっていいだろう。

話が遠回しになったが、結局この夜、ムルソーはジャガイモ料理を作ろうとまっすぐ家に帰ってきたのに、隣に住む女衒の誘いで、しこたま酒を飲むはめになる。このレイモンという男、「小柄で肩幅が広く、ボクサーのように鼻がつぶれていて」、台所付きの一部屋に住み、「ベッドの上のほうにはスポーツ選手の写真やら、女のヌード写真が二、三枚貼ってある」という、典型的な街のチンピラとして描かれている。
レイモンは四方山話をするために、ムルソーを部屋に誘ったわけではない。金ばかり浪費して働こうとしない女を懲らしめてやりたいのだが、「あいにくまだ、あいつの@からだ{傍点}に未練を感じている」。そこで、その未練を断ち切り、女にさんざん痛い思いをさせてから捨て去るために、ムルソーに手紙を書いてほしいというのだ。嘘八百の甘い手紙を書いて、女を呼び寄せ、まんまとこの部屋にまたやってきたら、ベッドの上でたっぷりいい思いをさせてやってから、「最後の最後というときになって」女の面に唾を吐きかけてやりたいという。ムルソーは「レイモンを満足させない理由はない」という奇妙な理由で、手紙の代筆を引き受ける。

サラマノ老人と犬のエピソードが、みじめで哀れな話なら、こちらのレイモンと娼婦のエピソードは自堕落な男と女の、ふつうなら犬も食わない情痴話だ。男は、偽の手紙でまんまと呼び寄せた女を「血を見るほど」ひっぱたき、女は血を見て喚き、やがて警察がやってくる。

貧しい下町における、貧しい集合住宅の、貧しい隣人たちの話がえんえんと続くが、なぜか卑しくはない。

もう少し食事の話を続けよう。

次にムルソーが食事をする場面は、かなり奇異な印象を与える。彼は「いつものように」セレストの店にやってくるのだが、そこで奇妙な女性客に遭遇する。

すでに食事を始めていたとき、妙な感じのする小柄な女が店に入ってきて、同じテーブルに座ってもいいか、ときいてきた。もちろん、かまわない。しぐさがひどくぎくしゃくしていて、小さなリンゴみたいな顔のなかで二つの目がきらきら輝いている。ジャケットを脱いで腰かけると、夢中になってメニュをのぞきこんだ。そしてセレストを呼びつけ、間髪置かず明瞭だがせわしない声で、選んだ料理をいっぺんに注文した。前菜が出てくるまでのあいだ、バッグから小さな四角い紙と鉛筆を取り出し、前もって代金の総額を計算し、それにチップを加えた額を財布から抜き出して、自分の目の前に置いた。そのとき前菜が運ばれてきたので、それをまたたくまに平らげた。次の料理が出てくるまで、またもやハンドバッグから青鉛筆と週のラジオ番組表が載っている雑誌を取り出した。そして、ひどく入念に、ほとんどすべての番組にひとつずつ印をつけていった。

女は食事のあいだじゅう、ずっとこの作業を続け、食べ終わると、ジャケットをはおってすぐに出ていってしまうのだが、奇妙なのはこの女の行動だけでなく、ムルソーもおかしいのである。先に食べ終わっているというのに、彼もまた何かに憑かれたように女の一挙手一投足をじっと見つめ——それが上の引用に該当する——、おまけに女が店を出てからも、そのあとを追いかける。
これはいったいどうしたことか?

たしかに女の行動は少し偏執的かもしれないが、異常とまではいえない。都会ではよくある光景だ。ムルソーはこの女の何に引っかかったのか。その説明はない。
しかし、この小説を読みとおしたことのある人はおわかりだろうが、この女はムルソーを裁く公判の傍聴席にも顔を出すのである。セレストの隣に座っているという説明はあるが、どういう関係かはわからない。そして、今度は女のほうが被告席のムルソーをじっと見つめる。

おそらく、この女が『異邦人』という作品のなかでは、もっとも謎めいた人物として描かれている。その行動と態度が謎めいているというよりは、あまりに説明がないために。なぜ作者はこんな女を作中に登場させたのか、そのこと自体が謎めいている。

この女についても、おもしろい解釈があるが、ここでは謎は謎のままにしておこう。

 

*99 ムルソーの食卓(連載1)

1 (ムルソーの食卓)

 

今日の晩ご飯は何にしようかと思いめぐらせながら、近くのスーパーまで自転車を走らせているうちに、地元の同人誌から頼まれている原稿のことを思い出した。さて、何を書いたらいいものやら。

誘われて同人たちの会合に顔を出してみると、想像していたのとだいぶ違うので少し驚いた。おそらく多少ばかにしていたというか、なめていたというか。いや、そういうのとも違う。むしろ文学愛好家という人種に昔から違和感を持っていたというべきかもしれない。文学は愛好できるものなのか?

長いこと翻訳という仕事に関わってきたけれども、文学というものがいまだに遠く、どうも素直になれないのである。そもそも最初のころは、文学はおろか、書籍の翻訳さえやっていなかった。用が済めばシュレッダー行きになるような文書ばかり翻訳していた。その仕事は楽しかった。自分がタイプライターとか、ワープロとか、マシンと化す感覚が心地よかった。その快楽をどうして捨ててしまったのかと、今でもときどき思うのである。でも、そんなことは言っていられなくなった。三十年近くこの仕事を続けてきたのだから。

同人誌のことに戻る。この同人誌、きけば五十年も続いているというのである。これは何事かである。まるで時間が止まっているかのようでもあるが、みなさん熱心である。本を読むのが好きで、文字を書くことが好きで、年に一回、自分の書いたものが活字になることを楽しみに日々を過ごしている。学校の事務職であるとか、役場勤めとか、ローカル紙の記者とか職種はさまざまだが、文学的野心のようなものはなく——少しはあるかもしれないが——、ただ書くことを通じて自由感を味わうことができればいい。そんな人たちばかりのように見えた。

長いこと生きてくると、かえって何がなんだかさっぱりわからなくなってきて——自分が長いこと生きてきたのかどうかさえわからないし、長い短いは何を根拠にしているのかもわからないのだが——、とりあえず長く続いてきたものだけが正しい、信じられる、そういう気分になってきた。それで何か書いてくれというので、それじゃ書きましょうということになったのである。

詩を中心にした同人誌である。

さすがに詩は書けないから、エッセイということになるのだろうが、このエッセイというやつが曲者で、頼まれていくつか書いたことはあるが、なんだかどれも中途半端で満足したことがない。テーマも枚数も自由だといわれると、かえって茫洋として何を書いていいのかわからない。

スーパーに入って魚屋のあたりをうろうろしていると、大きな殻付きのホッキがごろごろしているのが目に入ってきた。手にしてみると持ち重りがする。刺身にするか、フライパンの上にバターを落としてソテーにするか、炊き込みご飯にするか、いろいろ手はあるけれど、さて、今夜はどうする。

 

 

夕飯の献立はどうにかなるとしても、何を書くかはいっこうに決まらない。さっきからずっと本棚の前で立ち尽くしている。本棚はぜんぜん整理されていない。国木田独歩の隣にプルーストがあったり、ミラン・クンデラの隣に開高健があったりする。東京から引っ越してきたときにとにかく段ボールの中の本を本棚に収めないと足の踏み場もないので、何も考えずに空いている棚にかたっぱしから放り込んでいったら、こんなことになってしまったのである。そのうち整理しようと思っているうちに数年が経ってしまった。

で、本棚の前をあっちに行ったりこっちに来たり、膝を折って一番下の段に目を凝らしたり、あるいは一番上を見やり、本棚の天板と天井とのあいだに無理やり押し込んだ文庫本の背表紙の列をながめていたら、かすれた「異邦人」の文字が目に飛び込んできた。

こんな隅っこに押し込んでいたのかと思いながら、脚立に乗って取り出してみた。あれ以来だから、何年ぶりになるのか。三十年、四十年? ついでに原書もさがしてみる。こちらは日本語の本より少ないから、すぐに見つかった。

パラ、パラと原書のページをめくって、ふと手が止まった。

 

二時のバスに乗った。とても暑かった。いつものように食事はセレストの店ですませた。みんな、ひどく同情してくれて、セレストは「母親はひとりだけだからな」と言った。店を出るときには、みんなで見送ってくれた。エマニュエルの部屋まで上がって黒のネクタイと喪章を借りなければならなかったから、あたふたしていた。彼も数ヵ月前に叔父を亡くしていた。

 

ムルソーは何を食べていたか?

セレストの店で彼が何を注文し、何を食べたかについては何も触れられてはいない。母親の葬式の前に何を食べたかなんてどうでもいいことかもしれないが、とにかく彼は食事をしている。ほかにも食事の場面はたくさんあったのではないか。その場面をつなげていったらどうなるか。ひょっとしたら、おもしろいものが見えてくるかもしれない。こうして久しぶりに『異邦人』のページを繰っていくことになった。

 

 

カミュの『異邦人』を最初に読んだのがいつのことだったか、それがどうもよく思い出せない。本棚の奥から引っ張り出してきた古ぼけた文庫版は黄ばんで擦り切れ、角も折れている。その奥付を見ると、昭和四十六年十二月三十一日、四十一刷となっているから、もしこの年に読んだとすれば高校時代である。といっても、奥付の日付が購入の時期に対応しているわけではないし、ましてや買ってすぐに読むともかぎらないから、証拠にはならない。

でも、最初に読んだときの印象はよく憶えている。あまり親近感を覚えなかった。主人公にも、文章にも。なので読むのを途中でやめた記憶がある。

手元の文庫版の奥付を見れば、初版が昭和二十九年で、四十六年の時点で四十一刷ということは、平均すると一年に二回くらいの割合で増し刷りしていることになる。このペースで行けば、現時点では優に百刷を超えているだろう。

いや、こんな細かい数字はどうでもいいことで、とにかく『異邦人』という小説がフランスの現代文学のなかで、おそらくは一番——あるいは例外的に——よく売れている作品ではないかということが言いたいだけだ。

でも、それが一番よく読まれているということにはならないのではないか、と話は続くのである。本の読み方、読まれ方はさまざまだ。本屋で立ち読みする、図書館から借りて読む、買っても読まずに積んでおく、しばらくたってから読む、あるいは読まずに死んでしまう。

『異邦人』の場合、ノーベル文学賞受賞作品であるし、世界的ベストセラーでもあるし、そんなに長い小説ではないから、手に取りやすく、ほぼワンコインで買える。

でも、それほどとっつきやすい小説だとは思えない。少なくとも自分の経験に照らして言えば、読んですぐに感動したとか、主人公に感情移入したとか、そういうことはなく、むしろ異様な感じ、あるいは違和感のようなものを覚えた。それは養老院の院長や予審判事や裁判官がムルソーに対して抱いた印象と同じものだったかもしれない。なにしろタイトルが@異邦人{エトランジェ}、すなわちストレンジャー、外国人、アウトロー、場違いな人なのだから。

でも、彼は街の人には好かれている。行きつけの食堂のセレストにも客のみんなにも、海運事務所のエマニュエルにも、アパートの隣人のレイモンからも。今、あらためてこの小説を読み返していると、たしかにこれはムルソーの視線で書かれたものではあるけれど、本当の主人公は彼の目に映る下町の暮らし、港と海の光景、そこに吹く風、そしてもちろん真上から照りつける太陽、したたる汗、そういうものなのではないかと思えてくるのである。

 

 

原書のほうの奥付に記されているパリの国立図書館への、いわゆる法定納本日は一九七七年となっている。これは明らかに大学時代に買い求めたものだ。当時、新宿の西口にはフランス語とフランス文学専門の本屋さんがあって、原書が必要になったときにはかならずこの店で買っていた。今ならインターネット経由でフランスのアマゾンに注文すれば一週間以内で本が届くけれど、そのころは船便で二、三カ月から半年、航空便でも一カ月近くかかっていたのではないだろうか。でも、航空便は高かった。下手をすると本代と同じくらいの料金が上積みされた。そう、勉強するには金がかかる。時間がかかる。でも、身銭を切らないと身につかないこともある。時間が経過しないと見えてこないこともある。齢を経てわかったことはそのくらいのことか。

それはともかく、原書のページを繰っていくと、アンダーラインや書き込みがやたらに目立つ。フランス語がいかに読めなかったかを如実に物語っている。でも、書き込みのなかには明らかに解読のためのものとは異なる印——斜線やレ点のチェックマーク——がおもに句読点やアクセント記号のあたりに、鉛筆で小さく刻まれている。

この小説を丸暗記したときの悪戦苦闘の痕跡だ。なにゆえ、こんな暴挙に及んだかといえば、不安で不安でたまらなかったのである。学生時代の話ではない。

二十代も終わりかけるころ、私は勤めていた会社を辞め、一念発起してアルジェリアに出かけていった。なんでまたアルジェリアくんだりまで、と訝る人もいるかもしれないが、今でこそイスラム圏は、アフリカも中近東もすっかり物騒になってしまったが、当時はいたるところで日本からのプラント輸出なるものが盛んで、仕事口もたくさんあったのである。

いくらそこに仕事があるとはいえ、よほど追い詰められていなれば、人は海も国境も渡らないだろうと言われれば、そうかもしれない。でも、そこはまだ二十代、怖いもののなんたるかを知らないから、あと先考えずに足を踏み出してしまった。ただし、アルジェリアという国が地中海に面したところでなければ、足も心もそっちに向かなかったとは思う。

フランス政府公認の語学学校の壁に貼り出してあった求人広告を見ると、現場通訳募集、赴任地北アフリカ、月収最低三十万とか書いてある。自分が大学を卒業して勤めた会社の初任給は十万円くらいだったから、目が眩んだ。応募すると、とりあえず候補者としてウェイティングリストに登録され、現場通訳の職に就くための研修のようなものを受けることになった。しかし、こんなことで通訳の仕事が勤まるだろうかと、ただただ不安だった。

そこで切羽詰まって思いついたのが『異邦人』の丸暗記だったのである。西新宿のフランス文学専門の書店を覗いてみると、たまたま——運命のように?——、著者アルベール・カミュ本人が朗読しているカセットテープが、狭い書店の入口近く、平積み台の上に置いてあった。すぐに買い求めると、ちょうどそのころ発売されたばかりの初代ウォークマンにカシャっとはめて、寝ても覚めてもそればかり聞いていた。
サハラ砂漠に点在するオアシスに小さなディーゼル発電所を建設するプロジェクトの通訳として採用が決まったのは、それから半年後、あるいは一年くらい経っていただろうか、正確には思い出せない。ただしフランス語の原書を片手に何度も何度も巻き戻しと早送りを繰り返し、カミュの声に自分の声を重ねたので、哀れウォークマンは旅立つ直前についに動かなくなってしまった。さすがのソニーもそんなユーザーは想定していなかったのだろう。

ようやく仕事先との契約が整い、いざアルジェへという朝、妻がもうじき二歳になる長女の手を引いて、駅まで見送りに来た。初めての海外赴任である。しかも、いきなりサハラ砂漠。その時点ではアルジェ事務所の常勤になるとは決まっていなかった。いつサハラの奥地に飛ばされるかわからなかった。ヘッドフォンから流れ出すカミュの声を聞きながら、ずっと地中海の青い海原を夢見てきたのに、待っているのは砂漠なのである。

妻も私も、どれだけ緊張していたことか。家には生まれたばかりの乳飲み子を置いてきていた。何をしゃべったか、どれくらい見つめ合っていたか、もう覚えていない。突然、長女が火のついたように泣き出した。改札口周辺にいた人がみな振り返るほどに。私は足早に改札口を通り過ぎた。

電車に乗りこんで、窓から外を見ると、長女を抱いた妻が手を振っていた。

(つづく)

 

*連載開始にあたって

このブログをフォローしていただいている読者であれば、「ムルソーの食卓」というタイトルの記事が、投稿記事一覧の最初のほうにあることにお気づきになったかもしれません。

本稿は、地元の同人誌のために書いた原稿用紙30枚ほどのエッセイを、その十倍近い長さに膨らませたものです。なぜこんなことを試みたかといえば、このブログに掲載している短い切れ切れの文章形式に物足らなさを感じていたからです。ですから、本稿の素材はこのブログのどこかに潜んでいます。まったく新しく書き起こした部分もかなりありますが。

これをエッセイと呼ぶか、小説と呼ぶか、一種の批評作品と呼ぶかは、読者の判断に任せます。いずれにせよ、筆者としてはあまり形式にはとらわれたくなかった。

本稿を書き終えたのは、昨年の秋です。でも、期するところがあって春を待っていました。

連載は断続的に続けられます。短くて半年、長ければ一年くらいかかるかもしれません。全体の構成は次のようになっています。

 

1.ムルソーの食卓

2.アルジェ

3.サハラ

4.アルル

5.サント=ヴィクトワール

 

お楽しみいただければ幸いです。

 

*98 マドレーヌ——その2

思い直して、プルーストの話を続けることにしよう。

暑い夏の日が続いていた。ほぼ半世紀前のことである。夏休みに帰省した私は毎日のように図書館に通っていた。駅前にある今の新しい図書館ではない。今よりずっと西寄りの、市役所の裏手にあった小さな図書館である。木造モルタルだったような気もするし、小さいながらもコンクリート造りだったような気もする。二階建ての建物の玄関を入ると、たしか右手に階段があって、二階が閲覧室になっていたように思うのだが、これも定かではない。

ただし、この年の夏がとても暑い夏であったことはまちがいない。当時、エアコンの装備などあるわけもなく、開け放した窓からときおり暑気を含んだ風の吹き込む閲覧室で、こめかみからしたたり落ちる汗を拭いながら本を読んでいたことだけは鮮明に憶えている。

読んでいたのは、プルーストの『失われた時を求めて』。個人完訳はまだ出ていなかった。たしか十人くらいのフランス文学専門の先生方が手分けして訳した六巻本で、箱が印象派風の絵で飾られていたことまでは記憶に残っているが、それが誰の絵かはもうわからなくなっている。

今はもう手元にないのだから、確かめるすべもない。

読み終わって、しばらくたってから人にやってしまったのである。

すでに読み終わった時点で、もう二度とこの作品を読み返すことはあるまいと思っていた。読了するまでに二週間か二十日くらいはかかっていたはずである。それなのに感動もなければ満足感もなく、ただ徒労の感覚しか残らなかった。

失われた時を求めて、その時は見出されるどころか、ついに語り手(著者)は時間に捕縛され、囚われ、呑み込まれてしまったとしか思えなかったのである。

そして、フランス文学も、文学それ自体も、ずいぶん自分からは遠いものだなと思った。文学部に入ったことも、専攻にフランス文学を選んだことも、何か重大な過ちを犯したような気さえした。

それがどういうわけか、いつのまにかフランス語の翻訳者となり、数十冊もの現代フランス文学の小説を翻訳し、何の因果かまた生まれ育った町に舞い戻り、そして、半世紀ぶりにプルーストの畢生の大作を手にして読んでいるのである。みずみずしい日本語訳と、分厚いペーパーバックの原書を読み比べながら。

気がつくと、日本語は読まずに、プルーストのフランス語だけを追っている。そして、あたかも耳から音楽が入ってくるかのように気持ちよく文字を追いかけている。そこに記された語彙のすべてを理解しているわけではなく、日本語に変換せずに読んでいるのである。

遠い昔に放り投げたブーメランが、半世紀ののちに一巡りして、後頭部を直撃しているといえばいいのか。

これはひとつの成熟なのか。

だとすれば成熟とはこんなにも苦いものなのか。

もっと早く気がつけばよかったとも思い、ずいぶんと若い、未熟な後悔を引きずったものだとも思う。むかし読んだ詩人の言葉がよみがえる。

 

時の締切まぎわでさえ

自分にであえるのはしあわせなやつだ

 

マドレーヌは、当地では「大平原」という名で親しまれている。

マドレーヌは、福音書に登場するマグダラのマリアに由来する。

マドレーヌ・ペルーは、フランス人の母とニューオーリンズ出身のアメリカ人の父のあいだに生まれた。両親が離婚して、母と娘はフランスに戻り、マドレーヌは母からウクレレを教わり、ギターをおぼえ、ストリートミュージシャンとして歩み出した。

彼女の歌を耳にしていなければ、プルーストを読み返すことはなかっただろう。

ジャズのような、ブルースのような、あるいはアメリカン・カントリーのようでもあり、古いシャンソンのようにも聞こえる、どこか懐かしい歌と歌声に出会っていなければ。

 

*97 マドレーヌ

われわれの過去もそうしたものである。それを呼び戻そうとしても徒労であって、知性がどんなに努力してもどうにもならない。過去は知性の及ぶ領域や射程の外にあって、思いがけない具体的な事物の中に(その具体的事物がわれわれにもたらす感覚の中に)潜んでいる。そういった事物と死ぬまでに出会うか、出会わないかは偶然による。

コンブレーについて、私の就寝時の舞台やドラマを除いたあらゆるものが私にとって無に等しい存在になって久しい年月が経ったある冬の日のこと、家に帰った私が寒そうにしているのを見た母が、いつもの私の習慣に反して、少し紅茶を飲んでみたらと勧めてきた。最初は断ったのだが、どういうわけか思い直した。母は、溝のある帆立貝の殻でかたどられたように見える、あの小ぶりのふっくらとした〈プチット・マドレーヌ〉というお菓子をひとつ持ってこさせた。やがて私は、陰鬱なその日一日を思い、明日も悲しい日になるだろうという思いにうちひしがれつつ、マドレーヌのひとかけを浸しておいた紅茶をひと匙すくい、なんとはなしに口に運んでいった。ところが、お菓子のかけらの混じったひと口が口内の皮膚に触れたとたん身震いし、自分の内部に異様なことが起こっているのに気づいた。得体の知れない隔絶した甘美な快感が内部に浸透していたのである。そしてたちまちのうちに、自分がこの人生の艱難辛苦から無縁の存在であり、その厄災の数々も無害であり、その短さも錯覚だと思えてきた。恋愛の作用と同じく、なにかの貴重な@精油{エッセンス}で私は満たされていたのである。あるいはむしろ、このエッセンスは私の中にあったものではなく、私自身であったのかもしれない。私は自分自身を凡庸で、偶然にさらされた死すべき存在だとは感じられなくなっていた。これほど力強い喜びはいったいどこからやってきたのか。それは紅茶とお菓子の味に関係しているとしても、そんなものははるかに超え、もはや同じ性質のものではなくなっているのではないかと思えた。それはどこからやってきたのか。何を意味しているのか。その所在はどこか。二口目を飲んでみるが、一口目以上のものは感じられず、三口目にいたっては二口目よりも印象が薄くなっている。もうやめにしよう、飲み物自体の効力は減じているらしい。私の求めている真実はその中にはなく、私の中にあることははっきりしている。飲み物は真実を目覚めさせたかもしれないが、それを識ることはなく、ただ際限なく同じ証言を繰り返し、そのたびに力を失っていく。私にはその証言をどう解釈すればいいのかわからず、せめて何度も自分の意のままに問い返せるよう当初の状態のままに残して、いつか決定的な解明がやってくるのを待ち望むほかない。私はカップを置き、自分自身の精神に向き合う。真実を見出すのは精神の仕事だから。だが、どうすればいい? 精神が対象を前にして自分の手には負えないと感じるたびに襲ってくる、深刻な不安。探求者である精神そのものが不案内な土地と化してなお探究を続けなければならず、しかもそこではそれまでの知見は何の役にも立たない。探究? のみならず創造しなければならないのだ。そのとき精神はいまだ存在しないものを前にしている。それを現実のものにし、そこに自らの光を当てることができるのは精神だけなのだ。

 

(これはプルーストの『失われた時を求めて』のなかの、おそらくはいちばん有名な、冒頭数十ページほど読み進めていくと遭遇する一節です。先週か、先々週のある日、マドレーヌ・ペルーという歌手——日本の音楽業界ではマデリンと呼んでいるようですが——の歌をきいていて、ふとこの一節がよみがえったのです。読み返して愕然としました。その理由はここには書きません。いや、書けません。「記憶の真実」なるものを探し求めて、プルースト自身、あの膨大な本を書かなかければならなかったくらいなのですから)

*96 母の思い出話。

今年、母は九十三歳になる。当然のごとく年々足腰は衰えるし、少しボケたような振る舞いも多くなったが、朝ご飯の支度と洗濯はなんとかこなしているので助かっている。

夕食は私が作る。のたくら情けない手つきで一時間ほどかけて、二品か三品作る。ときどき自分が何をしているのかわからなくなる。九十を過ぎた母よりも早く認知症の徴候が出てきたのではあるまいか、ときどき心配になる。

それはさておき食事の段になると、母は小さなグラスに注いだビールで口がほぐれてくるにつれて昔話を語り出す。そのほとんどがすでに何度か耳にした話で、数年前までは「その話、聞いたよ」と半畳を入れていたが、もうそういうことはしない。相槌こそ打たないが、黙って聞いている。

弟子屈に住んでいたころの少女時代の話、釧路の女学校の寄宿舎生活、あるいは札幌で過ごした戦時中の話。ときには子供のころの私の話も出る——前回の作文の話もそれに連なる。

この前、初耳のエピソードを聞いた。私が小学生だったころの話だ。まだ低学年だったのか、すでに高学年になっていたのか、母の記憶は定かではない。

私が小学校から帰ると、母が熱を出して寝込んでいた。たぶん、ただの風邪だったと母は言う。私は友達とどこかで遊ぶ約束をしていたらしい。しかし、母親が寝込んでいるのに、そのまま放置して遊びに行くわけにはいかない、と幼い私は考えたのだろう。

その当時、町内——今、私が住んでいる町内のことである——に電話を備えている家は一軒しかなかった。所さんという家である。私はその名を忘れているが、母は憶えているのである。

私は所さんの家を訪れ、電話を借りた。そして、父が勤めている学校に電話をして、父を呼び出してもらい、「お母さんが大変なことになっているから、すぐに帰ってきてほしい」と伝えたというのである。

私自身は、このエピソードの詳細どころか、何もかも憶えていない。

「しかし学校の電話番号をどうして知っていたのだろうね」と母。

電話帳を貸してもらって調べたのかもしれないし、一〇四番に電話したのかもしれない。

「それにしても、お母さんが大変なことになっているって、あきれたもんだね」

たしかに。ほとんど詐欺師である。

小学生の私は父が大慌てで帰ってくるまで、待っていたのだろうか。それとも、父がただちに帰ってくることを確信して、さっさと遊びに行ってしまったのだろうか。そのあたりのことまでは記憶魔の母親も憶えていない。

おそらく、とすでに六十代の後半に突入している私は推察するのであるが、子供の私は友達との約束と母の容態を天秤にかけて、どちらを取るかではなく、どちらも取る方法はないかと考えたのだろう。

それにしても、勤務中の父に電話をかけて家に呼び戻すとは、まさしくあきれた子供である。フランス語でこういう子のことを、enfant terrible という。恐るべき子供とか、手に負えない子供とか、翻訳はさまざまあるが、途方もない子供とか、呆れた子供とか、そんなニュアンスもあるだろう。

そのうち余裕があれば、母と叔母の双方から聞いたエピソードもここに書き残しておこうかと思っている。これも呆れた話である。

*95 わたしたちは考える——その2

子供のころに書いた作文を掲載して、そのままほったらかしにしておくわけにもいかないので、こんなものを公開した意図を記しておきます。

一読してあきれた、と前回の記事に書きましたが、あきれた理由はいくつかあります。わかりやすいところから挙げていくと、

1.改行しても、次の行の頭が一字下げになっていない。原稿用紙に書かれたままを掲載したのだとしたら、ちゃんと指導しなかった教師とそのまま掲載した新聞社は何を考えているのか。

2.無駄な繰り返しが多すぎる。これだってちゃんと指導すべきだ。

3.最後の一行、「これからも、こういうためになる本を読んで、頭をよくしたいと思います」だと! そもそも、こんな本を探してきて読む小学三年生などいるはずもないから、おそらくは担任の先生に薦められて読んだのだろう。こんな本を読んだところで、頭がよくなるはずがないではないか。

とまあ、あきれた理由をまとめるとこんな具合になる。

すべてネガティヴな理由である。それだけなら人目につくところに出さないほうがいいに決まっている。

たったひとつポジティヴな理由がある。それは、小学校の三年生から基本的に考え方が変わっていないという点である。

つまり、頭がいいという基準を成績の良し悪しに置いていないということ。なければそれなりに工夫すればいいと考えていること。

帯広に帰ってきてから、地元の短大と専門学校で講師を勤めているが、毎年のように学生たちに言ってきた言葉がある。

知性は偏差値では測れない、サバイバルする能力のことだよ、と。

すると目を輝かせる学生もいれば、きょとんとしていたり、ぽかんと口を開けたままの学生もいる。

でも、毎年同じことを繰り返すのである。

まるで自分に言い聞かせるかのように。

そうやって自分は生きてきたではないか。

なければないなりに工夫してきた。

無い物ねだりはしたことがない。

欲しいものがあれば、なんとしてでも手に入れてきた。

それはたぶん死ぬまで続くだろう。

*94 わたしたちは考える。

ご無沙汰をしておりました。

最後に投稿したのが、一月の二十七日(*93 忘れえぬ人々)ですから、九ヶ月も経っている勘定になります。

べつに改まって復活(復帰?)宣言のようなものは出しません。

いろいろなことが重なって、即興的な文章が書きにくくなってしまったのです。

このブログをフォローしてくれている読者の方が、ここ帯広にも、東京にも、はたまた全国のどこかにもいらっしゃるようなので、一生懸命(?)毎朝写真を撮って、できるだけ印象的なのを選び、タイトルを考え、文を添える、そういうことだけはまめに続けていきたいとは思っています。

だんだん写真がおもしろくなってきました。と同時に、それに添える文を書くときの呼吸なども、よそゆき(?)の文章を書くときとは別の感触——脱力しながら集中するような——を楽しめたらいいかな、と思うようになりました。

今日、久しぶりに投稿するのは、みなさんにお見せしたい文章があるからです。説明はあとにしますので、まずはお読みください。

 


「私達は考える、家庭生活」という本に、「身のまわりのしまつ」というお話がでていました。
それは勝彦くんという男の子が、学校から帰って来て、「かばんとぼうし」をポーンと投げて、でていこうとして、おかあさんにおこられてしまうというお話です。ぼくも、そういうことがよくあるのでどうもちようしがわるいなあと思いました。勝彦くんは、じぶんべやがなくて、「だからそんなにきちんとする気にならない。」のです。ずっと前ぼくの、家につくえがありませんでした。その時ぼくは、みかんばこ二つと、いたをよういして、みかんばこも、いたも白い紙をはつて白くして、はこと、はこのあいだに、いたをわたして、それででき上がりにしました。勝彦くんも、やつてみたらどうかなあ、と思いました。
ほんばこも、同じように、みかんばこ二つで、横につめばできます。「身のまわりのしまつ」の中に、「おとうさんは、つくえをかつてくれない勝彦くんのように、『じぶんのへやがないから、ちらかすのがあたりまえだ。』こういつてしまったのでは、ダダっ子みたいじゃありませんか。つくえがなかったら、なんとかくふうはできないものでしようか。
二つのリンゴばこをならべてその上に、ちょっと板を、わたしただけでもいいじゃないですか。そのはこに、おみせのつつみ紙を、はつてみればなお、たのしいものになりましょう。」と、こういうことが書いてあったので、ぼくはほんとうにそうだと、なんべんも思いました。それから、「いたの上には、ありあわせのキレをかけるのです。」ということが書いてあります。ぼくは「ありあわせ」ということがわからないので、おかあさんにきいたら、「あまつたきれで、つかえるきれのことですよ」といったので、このことはぼくは気がつかなかったので、今はぼくのつくえがあるけれど、だれかぼくたちの組の、つくえのない人は、やってみたらいいと思いました。
ぼくたちの組でも、つくえのない人が多いことでしょう。そういうばあいは、みかんばこ二つと板をよういして、みかんばこも、いたも、白い紙でしろくして、はこにかぶせればもうできあがりです。ない人はやってみたらどうでしょう。
この本には、まだまだ「ぼくはテレビのけらいではない」とか、そのほかいっぱいお話がでていましたけど、ぼくがいちばんためになったのは、「身のまわりのしまつ」がためになりました。
これからも、こういうためになる本を読んで、頭をよくしたいと思います。

 

 

この文章は、昭和三十七年の十月二十一日(日曜日)付の『十勝毎日新聞』——あるいは『北海道新聞』。切り抜きだけだと今のところ特定できない——に掲載されたものである。コラムの右肩には「第二回北海道青少年読書感想文コンクール十勝地方審査入選作から(上)」 とゴシック体の活字で記されていて、中央には明朝体の大きめの活字で『「わたしたちは考える」を読んで』とタイトルが記されている。筆者は、わたくし本人、記事の末尾には(光南小学校三年)と付されている。ここに転載するにあたって、加筆訂正はいっさいしていない。

昨日は毎年暮れの大掃除を少し繰り上げ、ハウスクリーニングに来てもらって、台所まわりの掃除であるとか、床のワックスがけ、あるいは窓ガラス拭きなどをやってもらったのだが、部屋の片付けをしていた母親が偶然、こんな切り抜きを発見して、私のところに持ってきたのである。

一読して、あきれた。

今日のところはここまで。続きはまたあらためて。
(週末は新刊書——『言語の七番目の機能』、「履歴と書誌」のところを開くと追加してあります——のプロモーションのための上京します)。

*93 忘れえぬ人々

昨日の夕方、五年越しで取り組んできた長編小説(原文五百ページ、四百字詰め原稿用紙換算だと千枚くらいになる)をようやく訳了することができたので、ほっと胸をなで下ろしている。といっても、これから初稿が出てきて、担当編集者や校正者を相手にバトル(?)が繰り広げられるので、束の間の休息みたいなものである。そうこうしているうちに次の翻訳の声もかかってくるだろうし、安閑としてはいられないのだけれど……。

ところで最近、どういうわけだか国木田独歩のことが気になってしかたがないのである。「牛肉と馬鈴薯」とか「空知川の岸辺」とか、北海道にゆかりのある作品がとくに気になるというわけでもない。

初めて独歩の作品に出会ったのは、高校時代の教科書のなかに収められていた「忘れえぬ人々」という短編であったと記憶しているが、半世紀も前の教科書が家に残っているわけもないので、証拠はない。

その後、一度くらいは読み返したようなことがあるような気がするけれど、それもおぼろげな記憶でしかない。

で、去年の暮れにふと思い立って、本棚の奥に眠っている文学全集(河出のグリーン版)から一葉と独歩がペアになっている巻を取り出してみたのである。「忘れえぬ人々」の冒頭の一行を目にして驚いた。

 

多摩川の二子の渡しをわたって少しばかり行くと溝口という宿場がある。

 

まさか、この短編が溝口の宿場の場面から始まっているとは思いもよらなかったのである。その昔、溝口が宿場だったということも知らなかった。次女にこの話をしたら、国木田独歩の碑が駅の近くにたっているという。

この二子(ふたご)の渡しは、今では多摩川をはさんで二子玉川と二子新地という田園都市線の駅名になっていて、隣の高津駅の次が溝口である。次女の家がさらに少し先の宮前平付近にあって、東京に出たときにはこの田園都市線と半蔵門線をよく利用する。とくに溝口は宮前平方面に行くバスが出ているので、この駅で娘たちと待ち合わせをして買い物をしたりするから、親しみがある。

作中に出てくる地名に心当たりがあるかないかで、作品との距離感がずいぶん違うことは、長年フランス文学の翻訳を生業としてきた身としては、ある意味で切実な問題である。

首都のパリくらいなら誰もが知っていて、観光で訪れた人も多いだろうけれど、それでも北のほうにあるか南のほうにあるかと尋ねてみると、不確かな答えが返ってきたりする。マルセイユが地中海沿岸の大都市であることも、二人に一人くらいしか正解できないのではないか。地元の短期大学でフランス語と比較文化論を担当しているから、そんなに当てずっぽを言っているわけではない。

地名にはその土地の霊——地縛霊とは言わないけれど——のようなものが宿っている、というのはけっして大袈裟な話ではない。北海道の場合なら、「和人」(シャモ)がやってきてアイヌの土地を征服したわけだから、勝手に日本語の名前をつけてもよさそうなものだけど、いや良し悪しの問題ではなく、実際にそんなことはできないのである。ここ帯広はオペレペレケプ(もしくはオベリベリ)というアイヌ語が語源で、意味は「川尻が幾重にも避けているもの」ということになるらしい。

それに加えて、作者にとっての思い入れや、「忘れえぬ」思い出があったりする場合には、人であるよりも土地が主人公ではないかと思わせる作品も多々ある。その代表例はプルーストの『失われた時を求めて』だろう。病弱で旅することも叶わない主人公にとって夢想のなかのバルベック(ノルマンディのカブールがモデルだと言われている)という地名はこのように描写される。

 

バルベックはといえば、あたかもそれが焼かれたころの土の色を保っているノルマンディの古い陶器の表面のように、いまはすたれたある習慣、封建法のなごり、土地の昔の状態、奇妙なシラブルができてしまったすたれた発音法、といったものがまだそこから浮かびあがる、そんな名の一つであった。(『失われた時を求めて』第一篇「スワン家のほうへ」第三部「土地の名、——名」井上究一郎・訳)

 

僕は週末には写真を撮りに、十勝管内のあちこちを——ときには釧路や日高のほうまで足を伸ばすこともある——経巡っているけれど、もちろんそれは「美しい」景色に出会って癒されたいという願いを抱いているわけだが、この「美しい」はとてつもなく謎めいている。たんなる視覚的に均整の取れた対象ではないからだ。たぶんそこに根付いている、潜んでいる、あるいは眠っている力、磁場のようなものが、光や風の加減や、雨や雪、雲の様相、湿度の加減で、先週と今週ではまったく違う様相で現れてくるからだと思う。

こんな話をしていると切りがないので、国木田独歩の「忘れえぬ人々」に戻る。亀屋という旅籠のある溝口の宿場はこのように描かれている。

 

ちょうど三月の初めのころであった。この日は大空かき曇り北風強く吹いて、さなきだに淋しいこの町が一段と物淋しい陰鬱な寒そうな光景を呈していた。昨日降った雪がまだ残っていて高低定まらぬ南の軒先からは雨滴が風に吹かれて舞うて落ちている。草鞋の足痕には溜まった泥水にすら寒そうな漣が立っている。

 

まるで江戸時代の——時代劇で見るような——風景だ。そんなことに驚く必要はないのだろう。この短編が書かれたのは一八九八年(明治三十一年)であって、きっとまだ至る所に江戸の景色と風習と生活が残っていたにちがいないから。注意すべきは、ほとんどプルースト張りの緻密な筆致で寒々しい宿場の光景が描かれていることだ。

ところでこの「忘れえぬ人々」という作品は、ちょっとトリッキーな構成になっている。というのは、この溝口の宿場で「無名の文学者」大津弁二郎が「無名の画家」の秋山松之助を相手に、えんえんと「忘れ得ぬ人々」——ちなみにこの短編のタイトルは「忘れえぬ人々」だが、本文では「忘れ得ぬ人々」と表記されている。独歩に何か意図があったのか、よくわからない——について語るという構成なのだが、日本の近代文学史上最初の「小説を書く小説」ではないかというのが、高橋個人の密かな印象なのである(プルーストの『失われた時を求めて』は、じつは小説を書く小説だということをお忘れなく)。

大津は秋山の前に「忘れ得ぬ人々」と題された半紙十枚ほどの書きかけの原稿を差し出す。「忘れ得ぬ人々は必ずしも忘れて叶うまじき人にあらず」というのが、このスケッチ風の草稿の書き出しである。このスケッチに登場する人物は、大津が旅の途中で出会った名も知らぬ人々ばかりなのである。正確に言えば、出会ったわけでもなく、袖触れ合ってさえいない。風景のなかの人影のようなものばかりなのである。たとえば、阿蘇山の火口から降りてくるときの描写、

 

下りは登りよりかずっと勾配がゆるやかで、山の尾や谷間の枯草の間を蛇のように蜿蜒{うね}っている路を辿って急ぐと、村に近づくにつれて枯草を着けた馬を幾個{いくつ}か逐いこした。あたりを見るとかしこここの山の尾の小路をのどかな鈴の音夕陽を帯びて人馬幾個となく麓をさして帰りゆくのが数えられる、馬はどれもみな枯草を着けている。

 

あるいは四国の三津ヶ浜での琵琶僧との出会いの描写、

 

僕はじっとこの琵琶僧を眺めて、その琵琶の音に耳を傾けた。この道幅の狭い軒端の揃わない、しかも忙しそうな巷の光景がこの琵琶僧とこの琵琶の音と調和しないようでしかもどこかに深い約束があるように感じられた。あの嗚咽する琵琶の音が巷の軒から軒へと漂うて勇しげな売声や、かしましい鉄砧{かなしき}の音に混ざって、別に一道の清泉が濁波の間を潜って流れるようなのを聞いていると、嬉しそうな、浮き浮きした、面白そうな、忙しそうな顔つきをしている巷の人々の心の底の糸が自然の調べをかなでているように思われた。

 

この短編の描写の密度は並大抵のものではなく、どこを引用していいのかわからないほどであるけれども、共通しているのは、風景を視覚的に描写するだけでなく、そこに音や風や、人々の生活やら、楽器の音色やら、すべてを封じ込めようとしている印象を読者に与えるという点だ。

それはまことに象徴主義の詩を思い起こさせる。

大津は秋山に「忘れ得ぬ人々」とは何かについて説明する。

 

親とか子とかまたは朋友そのほか自分の世話になった教師先輩のごときは、つまり単に忘れ得ぬ人とのみはいえない。忘れて叶うまじき人といわなければならない、そこでここに恩愛の契りもなければ義理もない、ほんの赤の他人であって、本来をいうと忘れてしまったところで人情も義理も欠かないで、しかもついに忘れてしまうことのできない人がある。

 

でも、国木田独歩のこの作品を読みすすめていくうちに、われわれは「忘れ得ぬ人々」の定義が逆転してしまうことを感じる。つまり、本当に忘れてはいけない人(=忘れて叶うまじき人)というのは親でも子でも友人でもなく、おそらくは旅先でふと見かけた「無名の人々」のことではなないかと。

独歩のこの短編に描かれた風景とそこに住う人々はみな、もうこの現代日本から消えてしまったものばかりだ。独歩が書き残したから、その風景は永遠に残ったとは言わない。むしろ、作家や画家が描こうと描くまいと、おそらくは人々の胸の奥——無意識という言葉は使わないでおこう——にしまわれて、ふと何かの瞬間に表層に浮かび上がってくるものではないか、と思う。

芸術や文学は、そういった遠い記憶の触媒をはたすもの、はたさなければならない、それをわれわれは必要としている。独歩の作品はそのことを痛切に語りかけてくる。

ところで、さっきこの作品の構成がトリッキーだと言ったのは、もちろんそういうことではない——すこしは関係するかもしれないけれど。この短編の最後はこんなふうに締めくくられている。大津が溝口で秋山と出会ってから、二年が経過している。

 

大津は故あって東北のある地方に住まっていた。溝口の旅宿{やど}で初めて遇った秋山との交際は全く絶えた。ちょうど大津が溝口に泊まった時の時候であったが、雨の降る晩のこと。大津は独り机に向かって瞑想に沈んでいた。机の上には二年前秋山に示した原稿と同じの「忘れ得ぬ人々」が置いてあって、その最後に書き加えてあったのは「亀屋の主人{あるじ}」であった。
「秋山」ではなかった。

 

そこで読者は自然と最初のページに戻る。すると「亀屋の主人」の風貌はこう描かれている。

 

主人の言葉はあいそがあっても一体の風つきはきわめて無愛嬌である。年は六十ばかり、肥満{ふと}った体軀{からだ}の上に綿の多い半纏を着ているので肩からすぐに太い頭が出て、幅の広い福々しい顔の目眦{まなじり}が下がっている。それでどこか気懊{きむずか}しいところが見えている。しかし正直そうなお爺{やじ}さんだなと客はすぐ思った。

 

戦後七十年余りが経過して、われわれはもうこの手の緻密な人物描写をしなくなった。風景についても同じである。会話ばかりがえんえんと続く軽い小説に慣れている。

独歩を読んでいると、文は呪詛だということを思い起こさせる。文字も言葉も、そもそもが呪詛なのだから。

死者とのコミュニケーションということを最近は考えるのである。

以前にも言いましたが、このブログ本文の更新は月に一度くらいになるでしょう。小説のスケッチのようなことをこのブログで展開することは断念しましたが、水面下では続行しています。その片鱗はちらちらと表に出てくるかもしれませんが。

*92 正月の身辺

このところ、ちょっと気張ったものが続いたので、正月の三日でもあることだし、お口直しに(?)身辺雑記風のものを当て所なく書いてみようかと思う。

同じ屋根の下で暮らしている母は今年九十二歳になる。十二月には自分の寝室で二回、いつも買い物に行くスーパーの駐車場で一回転んだ。さいわい骨を折ることもなく、手足に痺れが出ることもなくすんだ。でも、本人は惚けることをひどく恐れて、毎晩子守唄のようなものを自分に歌い聞かせて眠りについている。

家は玄関のところが吹き抜けになっているので、深夜、母の歌声が一階から聞こえてくる。いささか怪談じみているというか、横溝正史的というか、さすがに心穏やかではいられない。

十年前に東京から連れてきた猫——シマという——のほうは、今年十七歳になる。猫の年齢を人間の年齢に換算すると、八十半ばくらいになるらしい。母ほどではないが、高齢にはちがいない。

昨年の春先から夏の初めにかけて、食餌をすべて吐いてしまうようになって、一時期は体重が二・二キロまで落ちた。近くの動物病院に連れていくと、甲状腺ホルモンの分泌を抑える薬を処方してくれた。これが劇的に効いて、今は三・六キロ前後まで体重が戻り、階段も元気よく駆け上がったり、駆け下りたりしている。

猫のシマがぐったりして身動きしなくなったとき、最初に思ったことは、母と猫が同時に逝ってしまったらどうしようということだった。すぐに葬儀のことが頭をよぎった。

妻が死んだときは、文字どおり近親者だけに声をかけて狭い自宅で慎ましい葬式をあげた。雷が鳴り、大雨が降った。傾斜地に建てられたメゾネット式の集合住宅に棺を運び込み、運び出す作業はたいへんだった。そんなことも思い出した。

験直しではないけれど、大晦日には一念発起して(?)、久しぶりにおでんを仕込んだ。昆布でだしをとったあと、荒けづりの鯖節と煮干しを十分ほど煮出してから目の細かいざるで濾したものに、花かつおをたっぷり入れ、二番だしをとった。鰹節が浮かんできたところで火を止め、鍋底に沈んだら取り出す。

大根は四センチくらいの厚さに切って皮をむいて面取りし、一握りの半分くらいの米を入れた水を沸かして一時間ほど下煮をした。キャベツの葉を二枚ほど茹でてしんなりさせてから、芯の部分を取って二枚に切り分け(合わせて四枚)、それで豚のひき肉と長ネギのみじん切りを練り合わせて塩胡椒で軽く下味をつけたものを包み、かんぴょうでしっかり縛った。あとはこんにゃく、はんぺん、がんも、昆布巻き(だしをとった昆布をくるくると巻いてかんぴょうで縛った)、ゆで卵などを投入して、あとはただことこと煮るだけ。

夕方には、小ぶりの牛腿の塊をフライパンで全体に焼き目をつけたあと、アルミホイルで包み、さらに厚手の布巾でくるんで一時間ほど放置。これで、なんちゃってローストビーフのできあがり(味付けの詳細はうるさくなるので省くけれど、決め手は自家製の梅酒とにんにく醤油)。

老いた母も懸命に筑前煮などを作った。市販のなますとか黒豆、数の子、かまぼこ、お隣さんからいただいた昆布巻など、三段のお重に盛り付ければ、立派なおせちの出来上がり。酒は学生時代の友人がお歳暮に送ってくれた栃木産の吟醸酒。

完璧な大晦日でした。

元旦の夜のおでんは、さらに味が染みて、申し分なし。

本年が佳い年でありますように。

みなさまのご多幸をお祈り申し上げます。

*91 望郷

『星の王子さま』を書いたサン=テグジュペリは奇妙な言葉を残している。「ノスタルジーとは、何かよくわからないものにたいする欲望のことだ」(La nostalgie, c’est le désir d’on ne sait quoi.)

じつはこの言葉、どの著作に記されているのか、いまだに確かめることができないでいる。というのは、サン=テグジュペリの本を読んでいて発見したのではなく、Le Petit Robert というフランス語の定番辞書のなかの、nostalgie の項に用例として載っているのを若い頃に発見して以来、ずっと気になっている言葉なのだ。

かつては「得体の知れない欲望のことだ」と解釈していた。でも、今読み直してみると、「よくわからないものを求めること」だと解釈したほうが自然なような気がする。しかし、どちらにしても、ある意味では「よくわからない」定義だ。

ふつうは「郷愁」とか「望郷の念」とか、訳される。

でも、サン=テグジュペリの言葉は、過去を懐かしんだり、惜しんだりしているようには受け取れない。すでに存在した過去を振り返っているというより、まだ確定していない先の何かを見ている。つまり、得体の知れないものを希求している。

はたして「ノスタルジー」とは、そういうものだろうか?

 

 

感性という言葉も、ノスタルジーに負けず劣らず、考えだすとよくわからなくなる。はたしてこれは、その人の持っている資質を指す言葉だろうか。感受性とどう違うのだろうか。感性に経験はどんなふうに作用するのだろうか、云々。

このブログに扉として掲げている写真にしても、そこに自分の感性が反映しているのかどうか、それは自分で撮った写真のことなので、自分ではよくわからない。

ただこの齢になるまで、おびただしい絵画、造形、映像作品をみてきたことは確かだ。パリのルーブル、オルセーには何度足を運んだかわからない。言うまでもなく、パリにはほかにもたくさんの個人美術館がある。ドラクロワ、モロー、ロダン……切りがない。パリも、ノルマンジーも、南仏も、どれだけ歩き回ったことか。

東京で暮らしていたころには、気になる画家の回顧展があれば、必ず足を伸ばしたものだ。芋を洗うように混んでいる評判の展覧会ではなく、ひっそりとしている美術館がいい。

ある風景に目を奪われたとき、まずはファインダーを覗く。そこで角度も枠も定まればシャッターを切る。でも、微妙に落ち着かないときは、一歩、二歩、三歩、あるいは十メートル、あるいは数十メートル、対象に近づくこともあれば、遠ざかることもある。しゃがみ込んで低く構えることもあれば、カメラを高く掲げて、背面のモニタを通じて構図を確認することもある。

そのときの基準はどこにあるのか?

感性、だろうか?

よくわからない。

でも、なにか、頭か心のなかで、一生懸命あちこちの抽斗を開けたり、閉めたりしているような気がする。

いや、それ以前に、ある風景に出会って、それに心惹かれるとき、その体験は、例のデジャビュ(déjà-vu)、既視感に近いような気がする。あ、どこかで見たことがある!

でも、それがどこかの美術館、展覧会で見た絵の記憶なのか、記憶のなかに眠っている子供のころに見たどこかの景色なのか、それはわからない。

ただ、はっきりしているのは、ああきれいだ、ああ美しい、と思う心が動いていて、その心の動きを正確に伝えるためのフレームやアングルを、適切な露出やホワイトバランスを求めていることは確かであり、それを決める要素は、やはりたくさん見てきた造形作品にモデルがあるような気がしている。

感性といえば感性なのだが、憧れのような気もするし、嫉妬のような気もする。突き詰めていくと、やっぱり得体が知れない。

そもそも、美しさ、あるいは美しい、きれいだと感じることそのものが、得体の知れないものではないか。

『カラマーゾフの兄弟』の長兄ドミートリーだったか、『白痴』のラゴージンだったかの言葉(面倒だから確認しない)。
「美とはおっかないものだよ」

 

 

で、今朝、起きがけに、ふと思ったのだ。

それは、恋しい、ということなのではないだろうか、と。

手の届かないものを求める焦慮に近い気持ち。

英語では、I miss you. という。

フランス語では、Je te manque.という。

そこにないもの、そこにいないひとを切に求める気持ち。

それが、サン=テグジュペリがノスタルジーという言葉を通じて伝えたかったものではなかったか。

パイロットだったサン=テグジュペリは、サハラ砂漠に墜落して死んだ。