*86 泉さんの回想(esq.19)

*13

 

庸子さんの物語を猫さんが知ったのは、彼女が住む洗足のアパートで初めて二人が結ばれた日のことだった。

庸子さんは堰を切ったように朝まで語りつづけた。その間、猫さんは隣でうとうとしたり目覚めたりを繰り返しながら、話をずっと聞いていた。聞いていたというよりも、耳に入っていたというべきかもしれない。庸子さんの声は、メゾソプラノかアルトか、ちょうどそのあいだくらいの柔らかい声だった。それに加えて、少し滑舌の悪いところがあって——正確に言うと、ときどき興奮して声が高くなると、ファルセットのように声が裏返る——、言葉が乱れるたびに、猫さんは沈みかけた眠りから釣り上げられる。

彼女がしゃべり疲れて眠りに落ちたとき、彼もまた聞き疲れて眠りに落ちた。

白々とした光のなかで目が覚めたとき、彼女はすでにゆったりした生成りのブラウスにジーンズをはき、足を組んでインスタントコーヒーを飲んでいた。

——飲む?

猫さんは無言でうなずくと、服を着て、トイレに入り、顔を洗って出てくると、丸テーブルの上にはコーヒーが用意してあった。ソーサーの上には角砂糖とスプーンがが置いてあり、その隣に瓶の牛乳が立っていた。

庸子さんは語ることはもう何も残っていないと思ったか、もう何もしゃべるまいと心に決めたか、唇は一文字に結んだままだったが、化粧を落とした素顔は晴れやかだった。

猫さんのほうも満ち足りてはいたけれど、人の話を聞くだけ聞いて、自分のことは話さなくてもいいのかという思いが残っていた。でも、庸子さんが何も言わず、何も訊いてこないので、自分のほうからあえて打ち明けるという気分にはなれなかった。コーヒーに角砂糖を一つ落とし、牛乳の蓋——厚紙の押し蓋——を開け、コーヒーと牛乳を交互に飲んでいるうちに、また軽く勃起してきた。自然と腰が上がり、彼女の額に唇をつけた。

 

猫さんと庸子さんの夫婦は二十五年続いた。あるいは二十五年で途切れた。その間に夫は妻にどれだけのことを語り、妻は夫にどれだけのことを語ったか。自分の学生時代のことを、どのくらい語っただろうか。何も語らなかったわけではない、もちろん、二十五年も一緒に暮らしていたのだから。おまけに子供のいない夫婦であったから。よく話した夫婦だったのではないかと猫さんは思うのであるが、こればかりは他の夫婦と比較ができないので、なんとも言えない。

でも、自分の学生時代の、あの失恋、あの理不尽な別れと、その後の失意と絶望の一年については、築地の病院の看護師さんに話したこと以上のことは、結局何も話さなかったのではないかと思い、そのことがなぜか、猫さんの悔いになっているのである。

庸子はあれだけ自分の失恋、あるいは破綻した恋について語っておきながら、なぜ夫の過去を問い質すことをしなかったのか。気遣ったのか。知る必要を感じなかったのか。

それが今となっては——今さらのように——、猫さんの心残りになっているのである。

猫さんが彼女——もちろんこの彼女は庸子さんのことではないし、庸子さんの場合と同じように、相手の固有名詞もあえて特定しないけれど——と知り合ったのは、彼が大学に入った年の夏のことだった。

夏休みは金を貯めると決めていた。入学したばかりで勝手がわからず、前期はたいしたアルバイトもできず、なけなしの貯金——心配した親から渡された小遣い——はほとんど底をついていた。

求人案内をいろいろ調べた結果、昼はデパートのお中元の仕分けと発送、夜は同じデパートの屋上で夏場だけ営業するビアガーデンの求人に応募するという強攻策に打って出た。時給の単価もさることながら、肉体労働とはいえ銀座のデパートで働くというのも魅力のひとつだった。そのビアガーデンで二人は出会ったのである。ジョッキをテーブルに配り歩く仕事はまさに重労働だった。一リットル入りのジョッキを左右の手に三つずつ持って、ひっきりなしに場内を歩き回る。腕も脚もまさに棒になった。彼女は厨房で食器洗いを担当していた。昼は歯科衛生士の学校に通っているとあとで聞いた。

仕事は過酷だったが、爽快だった。本とノートと筆記用具から解放されることがこんなにも心躍ることなのかと思った。

デパートのビアガーデンは九時がラストオーダー、十時には店じまいとなる。ホール担当はテーブルの上を布巾できれいに二度拭きし、コンクリートの床にデッキブラシをかけ、モップで水分を吸い取って業務終了となる。厨房の食器洗いもそのころ同時に終わる。

アルバイト学生がいっせいに乗り込む帰りの業務用エレベーターのなかで、たまたま二人の視線が合った。その日は勤めて初めての金曜日だった。土曜日の夜のビアガーデンは休業で——週休二日制にはなっていなかったけれど、土曜日は午前だけ、当時はまだ「半ドン」という言葉が残っていた——、アルバイト料は日給だが、週末の金曜日に支払われることになっていた。

夜の銀座は、ここは日本かと思うほどネオンが美しく、街路は整然として、夜風に揺れる並木は涼しげだった。当時は新宿も渋谷も池袋もまだ雑然として騒がしく、戦後のまま時間の止まっている場所がいたるところに残っていた。銀座だけ、時代を超越しているかのようにとり澄ましている。

デパートの裏口から銀座の裏通りに出たとき、解放感のあまり、猫さんは思わず大きな声を出した。深呼吸したつもりだった。そのとき背後で、クッと笑う声がした。よほどタイミングがよかったのだろう、自分のほうから女性に声をかけたことなど一度もない猫さんが「ぼくらもビール飲みに行きませんか」と誘ったのである。

二人は表通りに出て、ビール会社の経営するビアホールに入った。二人とも給料をもらったばかりで、自然に笑みがこぼれた。彼女は小柄で丸顔で、髪は短かった。ほとんどすべてが庸子さんとは正反対だったと、今になってあらてめて猫さんは思い返すのである。

その夜から二人の付き合いは始まった。若かったし、疲れていたし、まだろくに飲み方も知らないビールが全身に回ってしまえば、もうとめどなかった。彼は初めて女の身体を知った。嘘だろうと思った。なぜか。夢精のときの、あのもどかしくも吸い込まれるような快感が、そっくりそのままそこにあったから。自分は蝶になった夢を見ているのか、蝶の夢にまぎれこんでしまったのか。

彼女は豹変した。陸の生物から海の生物へと姿を変えた。汗ばむ肌は潮の香りを含み、全身が溶けて、ペニスは標的を失った。やがて風は怒気を増して海面を逆立て、彼はたちまちなぎ倒されて、海に沈んだ。

彼には何が起こったのか理解できなかった。暴風雨に襲われたようでもあり、気の遠くなるような進化の時間を一瞬にして経験したようでもあり、そんな快感を最初に知ってしまったことは、けっして幸福な記憶とはならず、かえって苦い思い出となった。相手は天然の娼婦というべき女性だったかもしれないし、そうだとすれば、なぜそんな女が彼を選んだのかもわからないし、ただ濃密なだけのこの奇妙な性的関係が、なぜ一年も続いたのかもわからない。

次の年の夏がめぐってきて、いつものように仕事の帰りに——彼は家庭教師の口を見つけ、もう肉体労働はしていなかった——、彼女のアパートに寄ったとき、思いがけない言葉が彼女の口から出てきた。「できちゃったみたい。ちゃんと計算していたのにね」

頭の芯が痺れて、すぐには返事ができなかった。彼女は若いのに、毎朝自分の体温を記録し、避妊具も用意していた。「だいじょうぶ。あなたに迷惑かけないから」と言った。

目の前が真っ白になったか、真っ暗になったか、そのとき自分がどんなに情けない顔をしていたか、もちろん本人にわかるわけがないし、そもそも相手の言っていることの意味がわからなかった。迷惑をかけない?

迷惑ってなんだ?

結婚して、籍を入れて、ちゃんと産んで育てようと言った。

彼女は伏し目がちになり、さびしそうな、相手を見下したような、かすかな笑みを浮かべた。同い年のはずなのに、一回りも二回りも年上に見えた。「うん、ありがとう」と彼女は答えた。

帰り道、大学をやめなくてはならない、と猫さんは思い詰めた。去年の夏の、あの解放感を思い出していた。学者の家に育ち、厳格な父の影響圏から逃れようとして一人暮らしを始めたのだ。学校をやめ、一人の労働者として所帯を持ち、父親になり、子を育てることはまっとうな人生の道を歩むことではないかと、健気に考えた。

そう思うと、あの学内でラウドスピーカーでがなり立てている学生たちに対する憤りのような、敵愾心のようなものが、ふつふつと自分の内部に沸きあがってくるのを感じた。自分自身が学生であり、大学に所属しているのに、大学解体を叫ぶ。学費はいったい誰が払っているのか。大学を解体して、自分たちで新たな、自由な大学を創るなんてことが可能だと本当に信じているのか。あらゆる政治制度に対する、あのすべての抗議と主張を、きみたちは本当に信じているのか。

すべてはパラノイアの妄想ではないか。自分を何様だと思っているのか。

おれはそういうものをすべて捨てよう。たったひとりのふつうの人間になって、ふつうの生活者になって、誰にも知られず、何ひとつ主義主張を語ることなく、妻を愛し、子を愛し、黙々と働き、生きていこう。宮澤賢治のような言葉が浮かんでくると、顔が火照って、何も恐れることはないという声が聞こえてくる。

この期に及んで、猫さんは正しい人でありたかったのだ。

主義主張がなんであれ、人は正しいことをしようとして、正しい言葉でみずから納得しようとするとき、じつは何も見えなくなっている。女に溺れることと、主義主張、政治思想に溺れることは同じことなのだという考えは、若い人にはふさわしくない。同時代を生きる青年の表と裏に過ぎないということも、どちらが表で裏なのかも、その時代を生きている人間にはとうてい知り得ないということなど、わかるはずもない。

それにしても——と、還暦を過ぎた猫さんは思うのだ——なんと口惜しい青春か。

次の週の家庭教師の帰りに、彼女のアパートに立ち寄ると、鍵がかかっていた。いつもなら、その曜日のその時間帯には彼を待っているはずだった。それが一年間続いた習慣だった。

食料でも買いに出たのかもしれないと思い、部屋の前の吹きさらしの通路でしばらく待った。隣の住人が出てきた。顔見知りになっていたので、向こうから声をかけてきた。たぶん、今夜は帰ってこないのではないか、昨日、救急車が来て運ばれていったから、と言う。

病気なのか、怪我をしたのか、事故か、事件か、どこの病院に運ばれたのかと畳みかけてみても、そのとき部屋にいなかったからわからないという答えしか返ってこない。彼女が帰ってくるのを待つしかなかった。当時は、若くて部屋に電話を備えている人は少数だった。携帯電話など夢のまた夢、いや夢を見る人さえいなかった。彼女のほうから彼の部屋にやってくることはなかった。

毎日のように彼女の部屋を訪れても、鍵はかかったままだった。

一ヵ月がたったある日、訪れてみると部屋のドアが開いていた。覗いてみると、部屋は空になっていて、大家がいた。どこに行ったのかと尋ねてみると、越した先は聞いてないけど、実家にでも帰ったんじゃないの。若くして流産したんじゃ、辛いだろうし、養生もしなくちゃならないだろうし、という。

流産? 妊娠を告げられたときよりもなお深い穴に突き落とされたような気がした。しかも、なんの相談もなく姿を消した。何もかもわからなくなった。

子供というものは、母親のものなのか。胎のなかの児はひとりで身ごもったものなのか。おれはいったい何者なのか。彼女にとって、自分はなんだったのか。彼女はなぜおれを選んだのか。何が目的だったのか。

明晰に考えられることなど何ひとつなかった。

ただ自分は取り残され、どこかに流れていった胎児のように捨てられたという感情だけが潰瘍のように腹部を蝕んだ。

まるで夢のようだという思いは、すべて嘘だったのかという思いに変わった。彼女が歯科衛生士の学校に通っているということも、郷里は四国の松山で、家は観光客相手のお土産屋で、兄が一人いるという話も、すべて彼女の作り話のように思えた。

かりに作り話ではないにしても、意味を失う。彼女とはもう接点がないのだから。

おれは他人の記憶のごみ箱ではない。

おれは同じことを繰り返している。

生まれ育った土地を捨て——いや、捨てさせられたのだ——、東京に出てきたときも、ただ呆然として、新たな環境に馴染むことができなかった。教室のなかで一人取り残された感じ。世界から見捨てられている感じ。

なぜこんなことが繰り返されるのか。

このおれの、いったい何が問題なのか。

こうして猫さんは大学を休学した。朝夕は新聞配達をして、家庭教師の仕事は続けた。残った時間はひたすら本を読んだ。

結局その一年間で得たものは、ただ、時間はたしかに慰謝を与えてくれるという手応えだけだったが、そのおかげで猫さんは、あの荒れ果てた大学に戻るしかないと腹をくくることができたのだった。

遠い記憶のなかで彼女の顔も声もかすんでしまっている。あれほど激しかった快楽の記憶も、もう何万年も前の化石のようでしかない。しかし、かすかな記憶のなかで、ひょっとして彼女は本当にこの自分を愛していたのかもしれないと思うとき、人が過去を美化するのではなく、過去のほうで人間に余計な思いをさせないようにしてくれているのだという哲学者の言葉を、猫さんはあらためて噛みしめるのである。上手に思い出せる人は幸せだ。

*85 庸子さんの回想(esq.18)

*12

 

二人は故意に会話を避けようとしていたわけでも、話すべきことがなくなったわけでもなかった。むしろその逆に、結婚して以来、これほど会話の必要、欲求を感じたことはなかったのである。しかし、お互いにどう切り出せばいいのかわからなかった。言葉はそれぞれの心のなかでわだかまり、出口を見失っていた。

夫婦のどちらにしても器質的な問題なり異常は見当たらず、婦人科の看護師さんの指導に従って規則的な性生活を営んできたにもかかわらず、妊娠の徴候がない。

原因が見つからないということ自体が不安を招く。不安は現在と未来に属するものであるにも関わらず、人は過去との因果のなかにその由来を求めようとする。そして、どういうわけか、事態を悪いほう、悪いほうへと追いこんでいく。

 

——何もかも失ってしまった。

わたしはまた同じ言葉を繰り返している、と庸子さんは思う。あそこに断絶点があって、そこで自分は途切れている。一年間の生理の途絶えは、けっして女性の肉体の失調ではない。わたし自身が、そこで途切れ、それまでの自分は死んでしまったのだ、と思う。事実、死のうとさえしたのだから。

幼いころから優等生だった。女の子にしては背も高かったし、運動神経もよくて、ピアノの上達も早かった。父は銀行員で、母は専業主婦、小さいころからたくさんの習い事をさせられた。長女の庸子さんは、父にも母にも従順だった。素直に教えを守り、勉強をした。だから成績はよかった。

絵を描くことに目覚めたのは、中学校に入ってからだった。美術の時間に初めて石膏デッサンに触れて、夢中になってしまったのだ。先生に褒められたことは大きかった。だが、それよりも、ふだん文字と記号を書くために使っている鉛筆に、こんなに豊かな造形力が潜んでいるとは思ってもみなかった。石膏の——少し煤けて肌理の粗い——白い肌にうっとりした。でも、あの石膏たちは、元はといえば、どれも古代ギリシア・ローマの遺跡から象られたものなのだ。世界中の美術教室に散らばった二千年前の大理石像の複製。それを遠いアジアの果ての島国の、小さな中学校の、小さな美術教室で、十歳を超えたばかりの少年少女たちが息を詰めて、描き写している。

もちろん、そのとき中学生だった庸子さんが、そんなふうに考えたわけではない。失われてしまった自分の少女時代の、もっとも美しい思い出が石膏デッサンに目覚めた瞬間にあると、傷ついて大人になった今の——二十代なかばを過ぎた——庸子さんが思うのである。

彼女は、山の手の住宅街にこぢんまりと佇む、戦前に建てられた和洋折衷の居心地のいい家で育った。でも、そのころの東京は高度成長期に入って、どこもかしこも建設工事現場だらけ、電車は満員、道路は渋滞、あちこちでデモ隊が警官隊と衝突していた。

騒がしいのは苦手だった。大きな音を耳にするだけで、足がすくんだ。

美術教室は静かだった。そこでは時間が止まっていた——二千年以上前から。アジアでもヨーロッパでもない、世界のどこにもない場所、その密やかな空間の中で、2Bの鉛筆の音だけがさらさらと響く。画用紙に最初に薄く十文字の線を引く。そこに全体の輪郭を埋める。カールした髪の細部、眉、鼻梁、顎の線を引き、影をつけていく。

たしかにそれは目の前の石膏像——メディチでもいいし、マルスでもいいし、アリアスでもいい——を描き写しているのだけれど、白い紙の@なか{傍点}——けっして紙の上ではなく——に、一つの像が立ち現れていく時間は、まぎれもない造化の時間であって、世界のどこにも属していない、その真っ白な時間にわたしは魅せられていたのだと、今の彼女は思う。

そして、庸子さんは地元の——まだ大学区制にはなっていなかったころの——高校に入学し、美術部に入った。そこで鉛筆は木炭に代わり、画用紙は木炭紙に変わった。それは初めて毛筆を握ったときのとまどいにも似た衝撃を彼女に与えた。腕と手が宙に浮いていて、肩から上腕、二の腕から手首、指先までの筋肉の微細な連携が木炭にそのまま乗り移っていく。描いた線を消すときには消しゴムではなく、食パンを使うのも新鮮だった。彼女はますます粗描の世界へのめり込んでいった。

そこまではよかった。造形の世界がデッサンから水彩画、油彩画へと広がっていったとき、彼女は小さな躓きを経験する。高校の美術部では——おそらく美術の世界全般においても——、木炭のデッサンはあくまでも水彩や油彩、あるいは彫刻作品へといたる前段階のレッスンとしかみなされていなかった。

色って、何? 形はつかまえられる。でも、色はつかまえられない。逃げていく、彼女にはそう感じられる。鉛筆や木炭で把握した精緻な物の形が、色を塗ったとたんに溶けていく。一所懸命に目の前の色をつかまえて、画布に定着させようとするのだが、色と自分の目のあいだ、色と自分の手のあいだに隙間があるのを感じてしまう。

もちろん、彼女は小学校でも中学校でも、絵の具を使って風景や花を写生をしたり、自画像を描いた経験はあった。でも、彼女が強くひかれたのは、あくまでも石膏像のデッサンだった。色彩の世界にひかれたことは一度もなかった。油絵の具には触れたことさえなかった。

庸子さんの色覚に異常があるわけではなかった。しかし、彼女の内部には、色彩に対する頑なな抵抗が潜んでいた。あるいは、色がうるさいと感じられる。とりわけ暖色系の、赤、紅、緋、茜、臙脂と呼ばれる色彩群は、大きく口を開けて叫んでいる口腔内の赤い色を思い出させる。あるいは月に一度の血の色。オレンジ色に染まる夕暮れも秋の紅葉も庸子さんには刺激が強すぎた。

せいぜい心洗われるのは新緑の季節、澄みきった冬の空。色は淡ければ淡いほど、心に染みた。色がはみ出ないように、騒がないようにと神経を使い、その結果、絵は静かになるが、色は画布の奥に引っ込んでしまう。

石に象られた二千年前の胸像を紙の上に描き写したときには、命が通う感動と興奮を得ることができるのに、自然界の物を描き写すと、どうして死んでしまうのか。

でも、庸子さんは努力家だから、あきらめなかった。デッサンは得意だったし、勉強もできたから、美術大学に入ることはそんなに難しいことではなかった。両親も、娘がまさか画家を志しているとは思わなかったから——本人にもそこまでの野心はなかった——、反対はしなかった。

しかし、そこで予想外の挫折が待っていた。色がなんであるか、ますますわからなくなってしまったのである。庸子さんにとって、物の本質は形態にある。色はその装いにすぎなかった。一個の石に赤い絵の具を塗れば赤くなり、青を塗れば青くなる。そういうものと思っていた。だから印象派の画家たち——前期にせよ、後期にせよ——の色彩の冒険は、まったく縁遠いものだったのである。

そして、美大に進学したのは間違いだったのではないかと深刻に悩みを深めていった三年目の時期に、出会ったのである。まさに色彩の野獣のような男に。

友人と好奇心から覗きにいった油絵科のアトリエに、その男はいた。ちなみに庸子さんは、油絵にひかれることはなく、色彩には苦手意識はあったものの、静かで芯の強い岩絵の具には憧れるところがあったので、日本画科を選んだのである。

その第一印象は、汚い、であった。男も絵も、何もかも。何日も洗っていないにちがいないシャツとジーンズ、髪はもじゃもじゃの長髪。百号のキャンバスに何やら絵の具を叩きつけているが、何を描いているのかはわからない。いわゆる抽象画と呼ばれているものくらいのことはわかっても、それ以上の距離は縮まらない。それどころか見ていて吐き気がしてきた——ほんとうに。鼓膜が痛くなってきた——ほんとうに。

庸子さんの苦手な赤系統の色、茶色、焦げ茶、ダークグレー、黒、重苦しい色たちが、これでもか、これでもかという具合に、画布に盛り上げられている。足もとにはペンキの缶、砂や泥を入れたバケツもあった。

彼が何を描いているかではなく、彼が何をしているのかがわからなかった。激しい嘔吐感に襲われて、すぐに立ち去ろうとしたとき、呼び止められた。

「おい、失礼だろ」

庸子さんはハンカチで口もとを抑えながら、立ち止まり、振り返り、頭を下げた。そして、そのままトイレのほうに足早に歩いていこうとした。声はなおも追ってきた。

「おい、どこへ行くんだよ。トイレか? だったら用がすんだら戻ってこいよ。挨拶するくらいは礼儀だろ」

庸子さんは吐き気と恥ずかしさで泣きたくなった。トイレに入ると、不思議と吐き気は収まった。あの共同アトリエには戻りたくなかった。また吐き気がぶり返してきたらどうしよう。でも、お嬢さん育ちの庸子さんは、礼儀知らずと言われたまま立ち去るわけにはいかなかった。

友人と二人で恐る恐るアトリエに戻ると、男は後片づけをしているところだった。二人が戻ってきたことに気づくと、愛嬌のある笑みを浮かべた。

「へぇ、戻ってきたんだ。見所あるじゃん」

三人は学食の売店——まだ自動販売機は学内にはなかった——で瓶のコカコーラ——缶もまだ普及していなかった——を三本買うと、木陰のベンチに座った。新学期が始まったばかりで、キャンパスを歩く学生の数多く、楓の若葉を揺らす風が気持ちよかった。

「オレの絵を見て、ほんとに吐き気を催すなんて、見所あるじゃん」

彼は——固有名詞を思い出したくない庸子さんのために名前は出さない——「見所」という言葉を二度使った。

「評論家なんて、頭の悪い不感症女みたいなもんだから、吐き気さえ感じないんだよ。そんなんがこの学校で先生やってんだから、退屈しちゃうよね」

だったら、やめればいいのにと庸子さんは思った。

最初は吐き気、次には反発、そのあとのことは成り行き、詳しく書いたところでさほどおもしろくもなく、美しくもないので——庸子さんにとっても、読者にとっても、また筆者(書いているこの私のこと)にとっても——、要所だけかいつまんでお伝えしよう。

とにかく、その日から彼と庸子さんの付き合いは始まったわけだが、どちらかと言えば潔癖症に近い庸子さんが、身なりにも清潔にも無頓着な男に引き寄せられたのは、ひとえに色彩についての彼の考えなり信念によるものだった。庸子さんは健気にも、自分の色彩に対する弱点を克服しようとしていたのである。

色は光の属性ではない、というのが彼の持論だった。

——いいかい、色は物それ自体の属性なんだ。林檎は深夜、闇の色に染まるかい? 光が当たるから赤く見えるのかい? 違うよね。青い林檎は昼でも夜でも青いよね。夜に食べても朝に食べても、酸っぱい林檎は酸っぱいよね。ニュートンはさ、林檎が落ちるのを見て、あれは落ちてるんじゃなく、地球が引っ張ってるんだと考えた。そして、地球が引っ張っているだけじゃなく、林檎もまた地球を引っ張っている。ほんのわずか、地球は林檎のほうに引き寄せられている。色もそれと同じなんだ。生き物であれ、無生物であれ、物には力がみなぎっている。物がそういう形をしているのは、そこに力の臨界線のようなものがあって、かろうじて均衡が保たれているからなんだ。そして、この均衡はたえず、そして永遠に揺らいでいる。石を風の通り道に置いておけば、百年かそこらで風化してしまうだろう。百年なんて、あっという間さ。そう、だからさ、色彩はね、その物が内部に貯めこんでいるエネルギーが表面ににじみ出て、光に照らされて、おぎゃーって声を上げているんだよ。色は命なんだ、生命なんだ、命の色は赤いんだよ。空は死の色だよ。赤い命が通わなくなった死の世界なんだ。でも、美しい? いや、だから美しいのかもしれないね。だったら、オレはさ、美しいものは描きたくないのさ、どろどろした生まれたての、血みどろの胎児みたいなものを描きたいのさ。

庸子さんが愛したのは、彼の絵でも、肉体でもなく、言葉だった。その言葉に彼女は自分の身を捧げた。いや、そんな受動的なことではなく、むしろ、刺し違えたのである。

庸子さんは表向きはおとなしく清楚だったが、情熱の人であり、果断の人でもあった。

庸子さんは彼の言葉を愛した。しかし、自分の肉体や生活を疎かにすることには違和感を覚えた。身なりも身体も清潔にしていてほしいと思った。部屋は小ぎれいに片づけ、小まめに掃除してほしいと思った。ちゃんとしたものを食べてほしいと思った。

けれど庸子さんは、彼の生活に手を伸ばそうとは思わなかった。たとえ、彼の散らかった部屋で、風呂にも入っていない肉体に抱かれようと。

そして、ある日、彼が誰か知らない女の人と駅前を歩いているのを見たとき、彼女は終わったと思った。

それは嫉妬ではなかった——いや、それが嫉妬なのかもしれないけれど。彼女には見えたのである。その誰か知らない女の人は、きっと彼の部屋を片づけ、掃除をして、洗濯してやり、お料理もしてあげているのだろうと。

そして、彼が画家になることもないだろうと思った。

わたしも絵をやめよう、そのとき、彼女は思ったのである。

それからの庸子さんは、大学では粗描だけに没頭した。卒業制作を仕上げるのは辛かったけれど、できるだけ色のない、白い牡丹の絵を描いた。

*84 夫婦(esq.17)

*11

 

深く愛し合っていて、深く信頼し合っていて、性の営みにも深い悦びがあり、二人とも切に子ができることを願っているのに、願いの叶わない夫婦がある。産婦人科学会の統計資料によると、ごくふつうの性生活を営んでいれば、一年間で約九〇%の夫婦が妊娠する。千組の夫婦がいれば、九百組の夫婦に子が授かる。残る百組は一般不妊治療を受け、基礎体温表に基づいて排卵日を予測して、受精の確率を高める方法を試したり、男性の精子に問題がある場合には薬物治療を受けたりすれば、五十組が妊娠に至り、残る五十組も体外受精や顕微授精などの生殖補助医療を受ければ四十組が妊娠する。しかし、それでも妊娠に至らず、治療を断念する夫婦が十組は残る。

 

猫柳泉と庸子さん夫婦が不妊に関する相談を受けるために、築地にある総合病院の産婦人科を訪れたのは、結婚してから一年後のことだった。今から四十年も前のことである。

電話で予約した日の朝に産婦人科の病棟を訪れると、相談室というプレートのかかった部屋に案内された。室内には、豪華でもなく、粗末でもない、黒い合成皮革の応接セットが置かれていた。壁を背にした長いほうのソファに腰を降ろし、数分待つと、白衣を着た年配の看護師さん——当時は看護婦という呼称が一般的だったけれど——が現れた。二人はまだ二十代だったから、落ち着き払った看護婦さんの物腰に安心はしたものの、緊張感が和らぐことはなかった。

——不妊のご相談と伺っていますが、それでよろしいですか?

二人はまず無言でうなずき、その直後に「ええ」という声がほぼ同時に出た。

——そうしますと、まず前提条件からご説明しますね。今の産婦人科の基準では、二年間妊娠の徴候が現れない場合に不妊症と認定するということです。

庸子さんがうなずいた。いろいろ本を調べて、そのことは知っていた。

——ですから、あなた方はまだ妊娠はしていないけれども、不妊症ではない。

看護師さんは語尾を柔らかく丸めて、断定した。二人は笑みで応じた。

——ただし、一年間通常の夫婦生活を営めば、九十%のカップルが妊娠に至っているという事実からすると、不妊症と認定されなくても、それ相応の対処を始めてもいいだろうと思います。そこで、まずはいろいろ質問させてください。立ち入ったことも伺いますけど、治療の一環だと思って、照れずにリラックスして、正直に答えてください。

そう言うと、看護師さんは膝の上のファイルを開いた。

——基礎体温表のようなものは付けていますか?

庸子さんは「はい」と答えて、大きめのハンドバッグのなかから、仕事に使う手帳を取り出した。そこに毎朝の体温が記されている。

——見せていただいてもいいですか?

庸子さんはうなずいて、手帳を差し出す。

——基本的にはこれでけっこうですが、これからはグラフにして体温の変化を見やすくしたほうがいいかもしれませんね。基礎体温の正しい計り方については、あとで説明書をお渡ししますので。

看護師さんは手帳を戻すと、開いたファイルに目を落とし、そのなかの問診票のようなものに何か書きつけている。

——まずは奥さんのほうからお尋ねしますね。月経は規則正しいほうですか?

——早めに来たり、遅くなったり、規則正しいとは言えないかもしれませんが、必ず来ます。今は……。

——今は? というと、止まっていた時期があるということですか?

——はい。

——それはいつごろですか?

——三年ほど前です。

——どれくらいの期間続きましたか。

——一年以上続きました。

——再開したのは?

——一年半ほど前です。

——つまり、ご主人とお付き合いするようになってからということですか?

——ええ、だいたいそういうことになります。

——月経が止まってしまった理由に心当たりがありますか?

——ええ、たぶん失恋のせいです。

——そのとき、流産とか、あるいは堕胎とか、しましたか?

庸子さんは無言で顔を横に振った。看護師さんはさっきから顔を上げて、相手の目を見て質問している。庸子さんは隣にいる夫のほうに視線を向けた。失恋の経緯について、だいたいのことは知っていたから、猫さんは動じなかった。看護師は淀みなく続けた。

——セックスの回数を教えていただけますか。毎日とか、週に何回とか……。

猫さんと庸子さんは顔を見合わせた。どちらが答えるか、互いにさぐっている。結局、庸子さんが答える。

——その週によって変わりますけど、だいたい一回か二回くらいですね。最近は、排卵日がやってくる週には毎日するようにしているんですけど……。

——それでも妊娠しないのですね。でも、まあ、焦る必要はありませんよ。お二人とも二十代で若いんですから。その若さで不妊の相談にくる人は珍しいくらいです。

そういうと、看護師さんは視線を猫さんのほうに移した。

——言うまでもなく、不妊には女性側に原因がある場合と男性側に原因がある場合があります。その両方というケースもあります。お二人は信頼し合っているご夫婦だとお見受けしましたので、あえてお尋ねしますが、もちろん、答えたくない場合には答えなくてもかまいません。ここは警察の取り調べではありませんから、黙秘権とか、そんな大げさなことではなく、しゃべりたくなければ、それはそれでなんの問題もありませんので。

と言って、看護師さんはそれまで以上に顔を崩して笑みを作った。

——はい、答えられる範囲で答えます。

猫さんとしては精一杯ユーモアを交えたつもりだった。

——奥さんが妊娠しないことについて、ご主人の側から思い当たることはありませんか?

——というと?

——不妊因子が自分のほうにあるのではないかと思ったことはありませんか?

——つまり、僕の精子に問題があるということですか?

——それは検査してみないとわかりませんが、その前に本人に思い当たる節はないかということです。さきほど奥さんが、失恋によって月経が止まったということをおっしゃってましたが、それに類することです。

猫さんは庸子さんのほうを見た。庸子さんの目は少し潤んでいるように見えた。何を言ってもかまわないと促しているようにも見えた。

——僕も彼女とほぼ同時期に失恋したというか、ある女性との関係が終わってしまいました。彼女は妊娠したのですが、流産してしまったのです。でも、その前に子供を堕ろすというので、僕らの関係は終わってしまったのです。流産の原因がなんだったのかもわかりません。

看護師は笑みを絶やさずに、猫さんの言葉を聞いていた。庸子さんはその看護師さんの笑顔をじっと見つめていた。

——ああ、そうでしたか。辛いことをお尋ねしてしまいましたね。でも、お二人とも率直に、正直に話してくれて、とても感謝しています。問診だけでは、今のところ何も申し上げられないのですが、ただし不妊治療というのはたいへんデリケートな治療です。技術的なことを申し上げているのではありません。夫婦間の精神的な事柄、愛情に属することを申し上げているのです。わたしたち医療の現場にいる第三者が、夫婦という本来なら閉ざされた世界に介入することで、破局を迎えてしまうケースもあるのです。

そこで看護師は一呼吸置いた。

——あなたがたが正直に話してくれたので、それにほだされるわけでもないのですが、とても大事なことなので、わたしの身の上話も少しさせてくださいね。わたしはこの病院の婦人科の看護婦として、おもに不妊症の患者さんのカウンセリングと治療にあたっているのですが、じつはわたし自身が不妊症なのです。つまり結婚はしていますが、子供はいないのです。若いころはそれで死にたいほど悩みました。この世代ですから、女が@石女{うまずめ}と呼ばれることは死にも等しい屈辱であり、差別だったのです。幸い、私の夫も産婦人科の医師で、私の状態を理解してくれましたので、私はこの仕事を続け、不妊に関する専門の看護婦になることができました。子はかすがいって、江戸の昔から言われていますが、おそらく江戸の昔から、子はなくても愛情と信頼の深い夫婦はいたでしょうし、今でもいるのです。この病院で不妊治療を受けて、結局は治療を断念したご夫婦と今でもお付き合いがあったりするのですよ。あなたたちのような若い夫婦が不妊の相談に見えると、まるでわが子のように思えるのです。あ、でも、心配なく。あなたがたの場合、まだ不妊症と決まったわけではありませんからね。それは最初に申し上げたとおりです。

 

こうして二人は、親身に相談に乗ってくれる看護師さんの助言と指導に従って、一年間にわたって基礎体温表に基づいた規則的な性行為を重ねる一方、庸子さんは卵管や子宮の検査、猫さんは精液検査を受けたが、どちらにも器質的な欠陥は見られなかった。次に進むべき治療法としては人工授精、体外受精があることは、二人とも知っていたが、このころから夫婦の会話は少なくなり、無言の時間が長くなっていった。

*83 閑話、その4(esq.16)

「小説のためのエスキス」と題した記事(*67)をアップしてから四ヵ月になる。ほぼ毎週に更新してきたので、今回で16回目。第1回目(esq.1)には、次のような威勢のいいことを書いた。

 

だから、これから書こうとしているのは小説ですらない。文学でもない。そんなものには収まりきらない何か、なのである。

 

しかし、いま実感しているのは、「小説」という器はじつに吸引力の強い、それでいて、ちょっとやそっとでは動かない、なにか岩か城のような手強い存在だということである。

この第1回目の記事には、小説の試みを始める理由として、「直近のきっかけ」と「古い怨恨」のような理由をあげた。前者は、隔週火曜に自宅で催している「私塾」で「無知の知」に至る認識というようなテーマで話をしたことに起因している。話した当人が、こんなことを澄ました顔(?)で解説したところで、なんの説得力も持たないだろう。そこで何か具体的な行動か、作品によって範を示すことはできないか。それがこの小説の試みの背景にあると、言い訳めいたことを書いた。

問題は、小説を書く試みの基盤となっている「古い怨恨」のほうである。それについては、こんなふうに書いた。

 

ごくごく単純化して言えば、小説を書きたいという欲望が、おそらく幼いころからずっと意識の底に潜んでいるからだろう。欲望という言葉が正しいかどうかわからない。むしろ書くことはすでに小学校の低学年くらいから手に馴染んだ行為、作業だったので、翻訳というものを書く仕事を始めたとき(三十代の前半)、これは自分の天職であるとはっきりと自覚した。この仕事を失えば、おそらく自分の人生はないとも思った。

 

いま読み返すと、幼いころから「小説を書きたいという欲望」が意識の底に潜んでいたというのは、書いた本人も自覚しているようだけれど、少し不正確なのである。幼いころ(小学生のころ)に、小説を書くことや小説家になることを意識したことはなかった。漠然とした憧れはあったかもしれないが、それは小学生が将来なりたいものと訊かれて、バスの運転手とか消防士とか、あるいはお医者さんと答えるのと大差なかったと思う。

しかし、「書くことはすでに小学校の低学年くらいから手に馴染んだ行為」だったということには訂正の必要を感じない。文章を書くことは好きだった。正確を期すれば、読書感想文のたぐいは苦手だったし、国語の評価もいつも5だったわけではなかったような気がする。中学校に上がっても、高校に進学しても、教科としての国語の成績にはむらがあったと記憶している。もっとはっきり言えば、国語の教科書にもテストにもずっと違和感を抱きつづけていた。国語に正解なんてあるのか?

好きだったのは、いわゆる自由作文の類である。大人のジャンルに当てはめれば、エッセイとか随筆になるのだろう。おそらくこれは、われわれの育ってきた時代と大きく関係している。

日本が戦争に負けて、仮名遣いは「新仮名遣い」に改められ、ほとんど無限ともいえる漢字の世界に箍をかけるようにして「当用漢字」が制定され、「話すように書く」こと、平易に身近なことを書き綴ること、無着成恭の「綴り方運動」に代表されるような「民主教育」の一環として作文教育が、たぶん全国津々浦々に広がっていったのだろう。

原稿用紙に文字を書き、それをガリ版の上に置いたパラフィン紙に鉄筆で書き写し、謄写版と言われる印刷機にかける。ほとんど江戸の瓦版のような、その原始的な印刷物に、私は子供のころから魅せられていた。

それが「文学」にのめり込んでいくにつれて、ものを書く喜びは変質し、濁っていく。

高校の終わりころから、いわゆる世界文学全集や日本文学全集に収まっている作品を濫読するようになってからは、もう何がなんだかわからなくなってしまった。書くことよりも読むことのほうがおもしろくなった。そして、理屈っぽくなり、評論家っぽくなっていった。そういう素質もあったのだろう。

けれどいつも意識の底では、「書くこと」を、「書くことの喜び」を、裏切っているという思いがうずいていた。「小説を書きたいという欲望」とは、正確に言えば、そういうことなのだろうと思う。

翻訳を生業とするようになり、書く道具は鉛筆や万年筆からワープロ、パソコンへと移り変わっていくにつれて、書く喜びと仕事との乖離はますます広がっていった。ワープロ専用機を使いはじめた当初、漢字変換の機能にとまどって、いつもキーボードの右隣に大きめのメモ用紙を置いていたことを思い出す。漢字で書くのかひらかなにするのか、送りがなはこれでいいのか、手で書いて確かめないと落ち着かなかったのである。

書く当てもないのに、原稿用紙だけは用意してあった——いまもクローゼットのなかで眠っている。

時代はあまりにも目まぐるしく通り過ぎていった。心のなかには時代に取り残された部分が息づいている——眠っているのか起きているのかはわからないが。

先日、次女から電話があった。スマートフォンはまさに年々進歩・進化しつづけて、ついに片手に端末を持ってテレビ電話ができるようになった。生まれたときに電話もテレビもなかった世代に属する人間にとっては、それはもう唖然とする出来事のはずだが、いつのまにかごく自然に生活のなかに溶けこんでいる。東京圏に住んでいる長女とも次女とも、月に一度か二度はこのテレビ電話をしているんじゃないだろうか。
「オトーさん、小説書きはじめたの?」

いきなりである。娘が親父のブログなど見るわけがないと思っていたら、「ときどき」覗いているのだそうな。虚を衝かれるのは気まずいものである。とはいえ、本来なら表に出さない創作過程をブログというかたちで公開しているわけだから、どこで誰が読んでいるかわからない。そこに娘が含まれていたとしても驚くほどのことはなく、想定していなかったこと自体が迂闊だというほかない。

次女はフリーランスの編集者として、父親と同じく出版業界に棲息している。二人の子を持つ母親でもあるので、父親のブログをまめにフォーローするほどの暇も必要もないし、ときどき覗いても、「フランス文学関係のめんどくさいこと」が書いてあるので、すぐ閉じるんだという。健全な親子関係である。

それがどういうわけだか、久しぶりにブログを覗いてみたら「小説」が連載されているのを発見した。おもしろい、と言ってくれるのだが、どうもこそばゆい。

それはともかく、ブログを覗いた娘から、主人公の名前を変えたのかと尋ねられた。え? 最初は「泉」さんだったのが、途中から「香」さんになっているという。これはこれは、まことに迂闊でした。さすがに、駆け出しとはいえ編集者を名乗っているだけのことはある。というか、たくさんの人が気づいていることで、知らないのは本人だけだとしたら、穴に入りたい気分である。さっそく直しました。

お詫びのしるしに(?)、なぜ「泉」という名前にしたかというと、そのとき館野泉のピアノを聴いていたからである。いずみ、っていい響きだな、と思ったのである。男性にも女性にも使うことのできる名にしたかったということもある。それがどうしてか、途中から香になってしまった。字形が似ていて、音も三つだから? 頭が混線したとしか思えない。

冒頭のほうで、小説は岩か城のように手強い存在だと書いたけれども、手強いというより、何か恐怖心のようなもの誘発すると言ったほうがいいのかもしれない。

子供のころには、当たり前のことだが、この種の恐怖心は感じたことがなかった。いまも、「閑話」と題した日常の延長線上にあるエッセイ風の記事を書く分には恐怖は感じない。

恐怖は、登場人物に名前を与え、それを動かすとき——あるいは、それが動いていくときである。小説とは所詮妄想だと、少し前のブログ(*79)に書いた。妄想にリアリティを与える作業は、まさしく力仕事だということを、いま痛感している。たとえばミラン・クンデラは、こんなふうに書いている。

 

私の計算では、毎秒この世で二ないし三人の虚構の人物が洗礼を受ける勘定になる。だから私は、そんな無数の洗礼者ヨハネの群れに加わることに、いつもためらいを覚えるのだ。しかし、どうしようもない。どうしても私は、人物たちに名前を与えなければならないのである。この場合、ヒロインがたしかに私のヒロインであり、(私が他のだれよりも彼女に愛着を覚えるのだから)私にしか所属していないことをはっきりと示すため、これまでどんな女性にも与えられたことのないタミナという名前で彼女を呼ぼう。(『笑いと忘却の書』西永良成訳)

 

著者自ら、こんなふうに告白してくれなければ、タミナという名前がチェコでは平凡な名前なのか、珍しい名前なのかさえ、読者にはわからなかっただろう——すくなくともチェコの読者以外は。

おそらく小説の登場人物の名前——とくに主人公(すなわちヒーロー、ヒロイン)の場合——を決めるという段階は、ただたんに気恥ずかしいだけでなく、小説全体を決定するものだから——あとから変えることは、作品全体のトーンを変えてしまうことになる——、やはり勇気がいることなのだろう。ミラン・クンデラのような天性の語り部でさえも。いや、だからこそ、というべきか。

ミラン・クンデラは、どこからタミナという名前を思いついたのか、そこのところは書いていない。天から降ってきたのかもしれないし、読者にそう思わせようとしているのかもしれない。

猫柳についても、そういうことにしておこうか。泉については、ばらしてしまったけれど。ついでにばらしてしまうなら、波多野庸子の姓は、メゾソプラノ歌手の波多野睦美さんから拝借した。声楽についてはよく知らないのだが、あまりにも美しい声なので、彼女の歌が入っているCDは三枚持っている。あとはストリーミングで聴き惚れている。庸子については、ヨウコという発音が好きで、庸の字がなんとなく好きだから、ということにしておこう。

今回も「閑話」ということで、本筋から逸れているわけだが、さっきからくどくど恐怖とか不安とか言い訳しているとおり、書き出せないでいるのだ。

波多野庸子は猫柳泉と結婚して、猫柳庸子となるわけだが、*69(esq.3)ですでに書いたように、この夫婦には子供がいない。この時点では、そんなに深くは考えずにそう書いた。この試みはあくまでも創作ノートのようなものであるから、とにかく書き出してみること、辻褄が合わなくなれば変更すればいい、それくらいの考えだった。

それに猫さんは書いている自分の分身であり、庸子さんが、五十代のなかばでこの世を去った私の妻の分身——モデルというのは多少憚れる——であることは、このブログをときどき覗いてくださっている方なら、程度の差こそあれ、気づいていることだろうと思う。

すでに書いたように、私たちには二人の娘がいる。現実の要素をそのまま小説に持ち込むと、小説としては書きづらくなる。よほどの自覚があるか、自虐精神に富んだ人でないかぎり、今どき私小説は書かないだろう。

私小説を書くつもりはなくても、「私」とか「僕」とか、一人称で書きはじめると、どうしても自分の延長線上のものになってしまう。自分の経てきた人生についての打ち明け話がしたいわけではない。

哲学は文学という世界のなかで王様のように君臨している。あるいは、哲学は自分が文学の世界に含まれることさえ認めたがらないかもしれない。哲学が死んだとは思っていないが、西洋文明(文化)が営々として積み重ねてきた無数の概念の構築物は、やはり閉ざされていると思う。大学で専門的に研究している人か、少数の知識人にしか読めない。ようするに難しい。だが、重要なことは難しいのは内容ではなく、言葉だということだ。ふだんは使わないような言葉ばかりが出てくる。

中原中也は、身の回りのものだけで無限を夢みると語り、独特の柔らかな音と言葉の世界を築き上げた。それを柔らかい認識と呼んでみたらどうだろう。詩とはそうしたものではないか。わかりやすい詩ばかりとはかぎらないけれど。

小説でその先鞭をつけたのは、やはり太宰治だったし、太宰は今でも読まれている。太宰に傾倒している又吉くんが『火花』で芥川賞をとったのも慶賀すべきことだ。

妙な言い方に聞こえるかもしれないが、太宰は終生「文学」と格闘した人だった。若いころに共産主義に傾倒したのもそうだし、晩年に志賀直哉に噛みついたのも、彼の「思想」の現れだった。「フローベールはおぼっちゃん、モーパッサンは苦労人」と言ったのも太宰治だ。

趣はだいぶ違うけれど、谷川俊太郎の詩も平易な言葉だけできている。みなさんご存じのように、御尊父は哲学者の谷川徹三だが、息子の俊太郎は親の反対を押して大学には進まず、詩人として食べていく道を選んだ。

このなかに村上春樹の名を加えておくと、何を言おうとしているのか、さらに明確になるだろう。最近、「文藝春秋」(六月号)に父との葛藤を綴ったエッセイが発表されたが、読んで驚いた。谷川俊太郎も村上春樹も一人っ子だが、それだけでなく父親がどちらも京都帝国大学を出た秀才なのだ。ちなみに猫柳泉もその生みの親の私も一人っ子ですが、うちの父は旧制中学どまりです。

われ万巻の書を読めり、と詠った詩人をまねるわけではないけれど、むずかしい哲学の本はもういい、と思う。

半世紀近い昔のことになるが、大学の文学部に入ったその年からずっと大学には違和感を感じてきた。大学をやめて、新聞配達でもしようかと思ったことさえあった。でも、その勇気も根性もなかった。とくにフランス文学は遠かった。だったらなぜフランス語なんか選んだんだと当然問われるだろうが、なんとなくである。みんなその程度だ。ただ問題は、この私だけ、えんえんとその違和感にこだわりつづけて、半世紀が経ってしまったということだ。そして、落ち着いた先が、この違和感は日本人だから発生するものではなくて、フランスの作家たち、詩人たちが一様に抱えている違和感だということ。古代ギリシア・ローマ文化の正当なる嫡子にして、カトリックの長女フランス、ああ、そんなものは幻想なのだ。そして作家たちや芸術家たちは、この幻想と闘ってきたのだ。

話題はさらに遠くに逸れてしまった。もとい。

猫さんと庸子さんのことだ。なぜ彼らには子供がいないのか? できなかったのか、それとも、子をつくろうとしなかったのか?

それ、おかしいだろう、とみなさん思うだろう。なぜなら、そういう設定にしたのは、書き手の私なのだから。勝手にしてよ、と言われてもしかたがない。

この設定は思いつきにすぎないけれど、それを突き詰めていけば、ある「認識」に至るのではないかと思っているのだ。あるいは、たんなる思いつきだと思っていることが、もしかすると根の深い問題だったと気づくこともあるかもしれない。

それが本当の哲学なのではないか。誰かが書いた難しいテクストを解読することが哲学ではないだろう。それは訓詁学だ。

現段階では、つくろうとしなかったのではなく、できなかったという設定のほうが自然ではないかと思っている。その根拠はない。ないというよりも、やはり自分がそうだったから。結婚した以上は、それが自然の流れだと思っていた。あえて妊娠を拒む理由はなかった。

だとすれば不妊の理由を考えなければならない。そしてこの問題については、庸子さんの視点に立って書くべきだとも思っている。もちろん、男性の側が不妊因子を抱えていることもあるわけだが、重要なことは女性の側に立って書くということ、そのこと自体にある。

男が男中心の考え方から脱却できなければ、それは本当の「認識」にはならないだろう。人間が人間中心主義の考え方から脱却できなければ、あらゆる科学はむなしいだろう。地球はぼろぼろになっていくだろう。われわれ人類はそういう段階——たぶん最後の段階——に突入したのだと思う。

今度は話が大きくなりすぎた。そうならないために「小説」——君子の説く「大説」ではなく、小人が小さな声で説くもの——を書こうとしているのに。

去年から看護専門学校で講師を務めているので、不妊と不妊治療に関して、専門家の先生にいろいろ教えを請うているところである。

そして、驚いたことがある。古い資料でも最新の資料でも、男女ともに原因を特定することのできない不妊が10%あるということ。その事実に驚き、書き出せないでいる。

勇気をもって書き出すべきだが、もうこの段階に入ると、とりあえず書いてみましたではすまされなくなる。妄想とはいえ、子をなすかなさないかは、軽々しくは書けないものだから。

多くの小説の読者は、そこに描かれたドラマの展開と行方を追って読むだろう。もちろん、それが小説を読む醍醐味であることに半畳は入れない。でも、その小説が何百ページあろうと、それはたったひとつの、作者にとってはかけがえのない、実人生における生死の交換にも近い「認識」の暗喩であるということも、頭の片隅に置いてほしい。

さらには、その「暗喩」は——あえて言葉に置き換えるならば——、私の愛した人、愛している人たちすべてが幸せでありますようにという祈りであることも、どうか信じてほしい。

*82 記憶の在処(esq.15)

*10

 

自分が小学校の終わりに書いた作文を読み終えた猫柳泉さんは、目をつぶり、ソファの背に首をあずけて、じっとしている。

膝に重みを感じて目を開けると、こちらを見上げているネコと目が合った。ネコはニャーと鳴き、猫さんの膝の上で二、三度足の位置を変え、落ち着く場所を見つけると、そのままうずくまった。ネコの体温が腿の内側に浸透していくにつれて、眠りが忍び寄ってきた。

目ざめたときには、膝の上の重みはどこかに消えていた。西向きの窓のレースが橙色に染まり、テラスに通じる大きな硝子戸には夕暮れの長い影が落ちていた。どれくらい寝ていたのか、時間の感覚がなかった。時計はソファの後ろの壁にかかっている。

急に視界が曇って、猫さんの目から大粒の涙がぼろぼろとこぼれた。こんこんと湧き出す地下水のように、いつまでも止まらなかった。苦くも、甘くもなく、しょっぱくもなく、ただ、こんな量の涙がどこに潜んでいたかと思うほど、とめどなく溢れだす。

こんなにもおれは疲れていたのか、と思う。

十年間に三回も葬式の喪主をつとめた男は、おれくらいしかいないんじゃないか。内心そう自嘲してみるが、涙が止まらないので、笑みは浮かんでこない。

ネコが戻ってきて、またニャーと鳴く。低いテーブルの上に置いてあるティッシュペーパーの箱から紙を一枚取り出し、眼鏡を外して涙を拭くと、ようやく気が晴れてきた。まるで射精のあとのようだと思い、ようやく笑うことができた。

もう四時か、と猫さんは背後の時計を見ることもなく、つぶやいた。ネコが催促がましい鳴き声を出すのは、夜が明ける前の四時頃か、陽が沈む前の四時ころと決まっているからだ。

振り返ると、果たして時計の短針は四時をさし、長針は五分をさしている。

立ち上がって、キッチンへ足を運ぶと、ネコの鳴き声は長めの低いニャーから、短めのニャ、ニャ、ニャと高めのトーンに変わる。サイドボードから猫用のドライフードを取り出し、大きめのプラスチックのスプーンですり切り一杯、ネコ用の食器に入れてやると、鳴き声はおさまり、部屋にはただドライフードを噛み砕く音だけが響く。

テーブルの上にはガリ版刷りの卒業文集が置いてある。二百ページほどの文集だが、わら半紙に刷って袋綴じの製本になっているので、かなりの厚みがある。

これを読んだことは正しかったのか? 正しいも正しくないもない。もう読んでしまったのだから。

感動したのでも感心したのでもなかった。あきれて呆然とした。そして、意識を失うように眠りに落ちた。

あきれたのは、まずその長さだった。四百字詰めの原稿用紙で十二、三枚はある。ほかの生徒が長くて四、五枚なのに、その倍以上ある。猫さんは編集者の習い性で、活字になった文章——この場合、ガリ版刷りではあるけれど——を見ると、すぐに原稿用紙の枚数に換算してしまう。

この長さはなんだろう?

自分が生まれ育った場所を去らなければならないことを知った小学生が、何か必死で——そう、必死で——忘れてはならないことを刻みつけようとしている。その忘れてはならないことが、なぜ兎狩りでなければならなかったのか?

長さだけではなく、その細かさ。むろん細かく書くから長くなっているのだけれど、小学生にしては尋常ではない。

そして、自分が半世紀以上も前に書いて、しかも書いたことを忘れている文章を読んで、猫さんは深く混乱しているのである。

これは誰の記憶か?

猫柳泉の記憶だ。

しかし、それは記憶の所有者の名前を特定したにすぎないではないか。

小学生だった猫柳泉と還暦をすぎた猫柳泉は同一人物か?

そもそも、記憶に所有者はいるのか?

記憶は海馬に刻まれる。だがその海馬は、はたして誰のものか?

でも、そんなことを言い出したら、この肉体は誰のものか、ということになる。

人間はこの地球を自分のものだと思っているが、ほんとうは人間は地球環境に属し、依存する一つの種にすぎない……。

猫柳泉は、自分が小学校のときに書いた作文を突きつけられて、混乱の極みに達したのである。

いやいや、話が大きすぎる、と猫さんは思い直す。

自分はこの作文を小学校の終わりに書いたことを憶えていなかった。だが、蓮見の叔父と兎狩りに行ったことは憶えている。この作文に書かれているほど鮮明ではないにしても。

しかし、この作文を読んでしまった今、もう自分の思い出はこの作文が描写するひとつひとつの場面、風景、そこに登場する人物、物、道具の映像によってかき消されてしまった。

もうどれが自分の頭に刻まれた記憶なのか、この作文に保存された記憶なのかわからない……。

おい、待て。そこのところ、考え方がおかしいではないか。さっきまで脳内——の海馬と呼ばれる部分——に保たれていた記憶は、小学校のときにすでに刻まれた記憶が年齢とともに薄められ、ぼやかされたものなのではないか。それがその当時に書かれた作文によって鮮明によみがえってきたと考えるべきなのではないか。

文章は記憶ではない。備忘録ではあったとしても。

たしかに。

そうだ、そんな難しいことではないだろう。自分の記憶からは失われていたはずのこの作文が、母親によって保存され、それが妻に受け渡されていた、しかも、捨てろと命じたのに捨てなかった、ただそれだけのことではないのか。

庸子を恨むのはお門違いだ、と猫さんは思い直す。捨てるべきものなら、自分で捨てるべきだった。彼女は捨てるに忍びなかった、それだけのことだ。

だったら、それでいいじゃないか。

あらためて、自分の手で始末するがいい、目の前にある段ボール箱を、文集も何もかも詰めこんだまま。

すると自分の心のどこかから、苦しげな声が反論する。

よくもそんな、酷いことが言えるな。

人は二度死ねないし、二度記憶を捨てることもできない。

あの中学校最初の一年の暗い、喪のような時間がそう言っている。

何かわけがあって、それ以前の失われた記憶が——穴だらけの断片的な記憶が——よみがえろうとしているとしか思えなかった。

 

釣瓶落としの秋の夕暮れ。

あたりはすっかり暗くなっていた。

猫さんは、テラスに通じるガラスの引き戸にも、西側の窓にもカーテンを引いた。

空腹を覚えたので、冷蔵庫の中を開けてみた。めぼしいものといえば、トマトとレタスと卵しかなかった。週末に庸子さんと買いだめする習慣が失われて、冷蔵庫には空きが目立つようになった。冷凍庫を開けると、六枚切りの食パンが二枚残っていた。

大きめの皿を取り出し、レタスを洗ってから、一口大にちぎり、皿に敷きつめる。小さな鍋を火にかけ、トマトの皮に浅く十文字の切れ目を入れる。一かけのバターをレンジでほんのちょっとだけ温めてから、パンに塗り、溶けるチーズを上からパラパラと落とす。卵を二個ボールに割り入れて、よく攪拌する。塩胡椒を少々、牛乳もちょっぴり。沸いたお湯の中にトマトを入れ、皮がむけてきたらすぐに取り出して、冷水に浸し、皮をむき、八分割にしてからさらに乱切りにする——猫さんの包丁は切れる。オーブントースターにパンを二枚入れて、五分にセット。その間に大きめのフライパンにオリーブ油とバターを入れて、火を強くして薄く引き延ばし、細かい泡が見えてきたら、卵もトマトもいっしょに投入する。適度にかき混ぜながら、水分を飛ばす。オーブントースターがチンと鳴ったら、パンを取り出して中皿に重ね置く。フライパンのトマト入りのかき卵をどかっとレタスの上に載せる。安物のチリワインをグラスに注ぐ。

猫さんの、一人だけの晩餐である。バジルの葉っぱがあればよかったのに、と思いながら。

卵とトマトをスプーンですくって口に入れ、パンの角をかじり、赤ワインを一口流しこみ、帰ろうと思う。

自分の生まれ育った場所に、記憶の眠る場所に。

*81 惜しみなく奪え(esq.14)

今から半世紀近くにもなんなんとする年の夏休み、東京から帰省した学生の私は、今年の夏こそ、プルーストの『失われた時を求めて』全巻を読破しようと、図書館通いを続けた。

例年にない猛暑の夏だった。今ではしゃれたデザインの建物となって駅前に移った図書館も、当時は繁華街から少し外れた市役所の隣にあって、なんの愛想もないただの箱のような、古ぼけた鉄筋コンクリート二階建ての建物だった。もちろん空調システムなどあるわけがなく、扇風機すら付いていなかったように記憶している。

午後になると、自転車をこいで、この図書館に行き、ほとんど誰もいない二階の閲覧室で、プルーストのページを文字どおり黙々と繰った。

読点はところどころあるものの、句点はまばらにしか打たれていないページがえんえんと続く、著者自身の意図的な「悪文」を、しかも途方もない誤訳に満ちた翻訳で毎日読みつづける作業は苦行であり、拷問ですらあった。

フランス文学専攻の学生なのだから、プルーストくらい読んでおかないと恥ずかしいと思ったか、義務だと思ったか、理解できようとできまいと、とにかく読み進めた。

開け放たれた閲覧室の窓から、ときおり熱風が吹きこんできた。こめかみからも首筋からも汗が噴き出し、滴り落ちた。暑いのだからしかたがない。でも、本人は暑いと思わず、どうしてこんなに汗が出るのだろう、夏風邪でもひいたかと思っていた。それほど読書に集中していたというよりも、あまりの悪文、難文なので、少しでも意識がそれると読みつづけられないのだ。

毎日、二、三時間、一週間か二週間かかけて読み通した結果、この作品のページを開くことはもう二度とあるまいという断念なのか失望なのか怒りなのか、よくわからない印象だけが残った。そして、新潮社版の箱入り全巻セットは、親しい友人に進呈してしまった。

でも、こんな本、読まなきゃよかったとか、時間の浪費だったとか、そういうことは思わなかった。むしろ、これは失われた時を求めて、それを見出す物語ではなく、失われた時を追い求めて、ついに時間に食いつぶされる男の話ではないかと思い、その徒労にも似た著者の、語り手の「私」の情熱に感銘さえ覚えた。今かりに、フランス語の原書を頼りに、若い人の新訳を読み進めれば——あるいはその逆——、別の印象を持つかもしれない。でも、第一印象がかき消されるほどの感動がやってくるとも思えない。

私にとっての『失われた時を求めて』は、あの夏の暑さと、失われた旧図書館の思い出とともにある。

われらが「猫さん」も、失われた時を求める。だが、失われた時を見出して、そこで満足し、追跡の円環が閉じるわけではない(プルーストの作品がそうだという意味ではない)。

彼は「見出された時」を奪還しようとするのだ。芸術や文学の表現手段を介することなく、まさしく実力行使によって、直接、好きなもの、ほしいものを強奪しようとする。

作品のタイトルのことなど、まったく念頭になく書きはじめたスケッチ=エスキスだが、二、三週間前に、どういうわけだか、有島武郎の『惜しみなく愛は奪う』を思い出して、あらためてページを繰ってみた。

読み出してはみたが、読み通そうという気力は湧いてこなかった(有島先生、すいません)。本は持っているものの、たぶん若いときから、この手の思い詰めたような、やたらに生真面目で自意識過剰の文学が嫌いだったことを思い出した。

でも、タイトルはかっこいい。意味はよくわからないけれど、わからないのがいい。かっこよさのなかには、わからなさも含まれているのだろう。

言うまでもなく、有島武郎の場合、惜しみなく奪うのは愛であり、愛が主語である。

でも、猫さんの場合、違う。惜しみなく、愛を奪うのである。愛は目的語である。

記憶を取り戻したとき、彼の脳、彼の意識、彼の肉体のなかに嵐のようなものが吹き荒れ、いったん死んで、よみがえる。

そして、自分に命ずる、惜しみなく奪え、自分の人生を奪還せよ、と。

*9

猫さん自身は、小学校の卒業文集に「鉄砲撃ちの思い出」という題の作文を書いたことを憶えていなかった。蓮見の叔父さんに連れられて行った兎狩りそのものは憶えている。忘れられない思い出として、記憶にしっかり保存されている。しかし、そのことを作文に書いたことは忘れている。忘れているのか、消されているのか、そのへんのところが不分明なのである。

猫さんがこの文集の存在を知ったのは、奥さんが亡くなったあとのことだった。遺品のなかに猫さんの母親から彼女が譲り受けたものがいくつかあって、そのうちの一つが、猫さんの小学生時代の思い出の品が詰まった段ボール箱だった。通信簿だとか賞状だとか、あるいは作文、写生、習字のたぐい——本人にとっては「記憶の遺品」とでも呼ぶべきもの——が整理されて中に収められていた。

もっとも、こういう段ボールがあること自体は、猫さんの母親が亡くなったとき、遺品を整理していた奥さんから聞かされて知っていたのである。

——ねぇ、あなた。

猫さんの奥さん——庸子さん——は、自分の夫を呼ぶとき二とおりの呼称を使い分けていた。「いずみさん」と「あなた」。「いずみさん」と呼ぶときは、話題が比較的軽く、明るいときである。声も必然的に高くなり、語尾のイントネーションも上がり気味になる。「あなた」と呼ぶときは、どちらかと言えば大切な——ときには深刻な——用件を伝えるときである。声も低くなり、イントネーションも語尾がいくぶん下がる。

——ねぇ、ちょっと、こっちに来てくれる?

開けっぱなしになっている寝室の戸口からリビングのほうに顔を出した庸子さんにそう言われて、猫さんは軽く緊張した。中に入っていくと、庸子さんは小ぶりの段ボール箱を指さした。

——これ、知ってる?

見ると、黒のフェルトペンで「泉・小学校」と書いてある。

——いや、知らない。母親の持ち物については何も知らない。

——あなたの小学校時代の成績だとか文集だとか、ぎっしり入ってるのよ。

虚を衝かれて、猫さんの顔が強ばった。

——どうする?

——どうするって?

——見る?

——冗談じゃない。

——じゃ、どうするの?

——捨ててくれ。

猫さんは迷いなく答えた。それ以来、この段ボール箱ことが二人の話題に持ち出されることはなかった。猫さんは捨ててくれたものと思っていた。なんの未練もなかった。

ところが庸子さんは捨てていなかったのである。

亡き妻の遺品を整理していたとき、猫さんはこの段ボール箱をふたたび目にしたのである。

思い切り遠くに投げてどこか遠くに飛んでいってしまったはずのブーメランが、忘れたころに戻ってきて後頭部を直撃したような感じだった。

そのまま捨てようか、それとも開けてみようか。彼は迷った。

猫さんは迷うことが生理的に嫌いな人だった。気質的にそうだというよりは、小学校と中学校の時期のあいだにある深い亀裂——人はそれをトラウマと言ったりする——のなせるわざだろうというのが本人の自覚である。

あまりにも突然、生活と学校の環境が激変したために、猫さんは中学校の一年目を棒に振ってしまったのである。登校拒否などという言葉がまだ存在しない時代だった。

その暗い穴のような一年を乗り切るために、彼は別人になる必要があった。別人になるためには大切なものを捨てる必要があった。大切なものとは思い出であり、記憶であった。なぜならば、東京に移り住んだ彼の周囲には、生まれ育った土地の風景も親しかった人々の顔も声も存在しないのに、記憶だけは、むしろ鮮明に残っている。

もう存在しないのに、記憶だけは残っている。でも、記憶は映像でもないし、言葉でもない。匂いでもないし、触ることもできない。にもかかわらず、こんなに生々しいのはどうしたことなのか。

猫さんは十二歳にして、そうとは知らずに深い哲学的難問に直面していたのである。

それに加えて、いじめもあった。@いじめ{傍点}などという概念も当時は存在していなかった。転校生がいじめられるのは当たり前のことだった。発する言葉の訛りをからかわれた。何よりも、小学校時代の優等生が平均以下の生徒になってしまった。教師に当てられると答えられなかった。緊張のあまり失禁した。教室内でも、家でもほとんど失語症のような状態になった。どのように手を動かせばいいのか、足を動かせばいいのかさえわからなくなった。学校に行くことができずに、自分の部屋に引きこもった。

そして、彼は自分の幼年期の、もっとも幸福を感じたときの記憶を抹消しようと努力した。なぜなら、その記憶が残っているかぎり、自分は永遠に不幸のままだという結論に達したから。

猫さんの頭に迷いが生じると、そのときの不安、緊張がぶりかえしてくる。その気配を感じると、彼は目をつぶって一歩踏み出す。経験の分析から何かを引き出すのではなく、瞬時の本能的判断を信じるようになったのである。とまどうこと、躊躇することは、彼にとって死を意味した。

結局、彼は段ボールを開けてみることにした。そして、「光が丘小学校卒業文集」に出会ったのである。

*80 兎追いし(esq.13)

*8

 

小学校生活で最も印象的な出来事をずっと考えていて、やはりこれしかないと思うことがあります。それは蓮見のおじさんに鉄砲撃ちに連れていってもらったときのことです。叔父さんは兎狩りとは言わず、「鉄砲撃ち」と言うのです。

蓮見の叔父さんというのは、父の妹の夫のことです。いとこが二人います。姉のほうのほうはもう中学生ですが、妹のほうは同じ光が丘小学校に通っています。同じO市内に住んでいるので、僕はときどき泊まりに行きます。向こうからは泊まりに来ません。うちは父が厳しいので、息が詰まるというのです。僕も息が詰まります。

僕が叔父のうちに遊びに行くのは、小さいときには家が近くて、いとこたちと本当の姉妹のようにいつもいっしょに遊んで育ったということもありますが、叔父のところには釣り竿とか空気銃とか猟銃とか、そういう道具がたくさんあって、本当に楽しいからです。

海釣りで使う太い竿もあれば、渓流釣りで使う細い竿もあります。忍者が使うような三本か四本の太い針を束ねた仕掛けもあれば、注射針の先よりも細い細い針もあります。テグスも何種類もあります。うどん粉を丸めた餌もあるし、ミミズもブドウ虫もいます。イクラもあります。

この前は空気銃を撃たせてもらいました。家の前の畑を取り巻いている柵の上に空き缶をのせて、それを狙うのです。緊張しました。一メートルくらい離れたところからだと当たりますが、二メートル、三メートル離れると、なかなか当たりません。引き金を引くときに緊張して、銃口がぶれてしまうのです。

叔父さんはときどき、家の前に米粒をまいて、それをついばみに来た雀を撃つことがあります。家の中に隠れていて、窓の隙間から空気銃の先だけ出して狙うのです。でも、そんなにたくさんは捕れません。雀が警戒して来なくなるからです。叔父さんがそう言っていました。雀は賢いんだなと思いました。

でも、一番緊張するのは、猟銃です。叔父さんの持っているのは、水平二連の散弾銃です。銃身が二本水平に並んでいるのでこう呼ばれます。直径が二センチくらい、長さが五センチくらいの筒に小さな弾がぎっしり詰まっているのが散弾です。ライフルの弾のように一点を撃ち抜くのではなく、小さな弾がいっぺんに発射されて、徐々に半径が広がっていくんだそうです。だから、空を飛ぶ鳥とか地上を素速く動く小動物を撃つのに使われます。

猟銃は見ているだけで、緊張します。長さ一メートルほどの銃身は黒光りしています。見るからに重そうです。実際に持たせてもらったことがありますが、子供の力では銃をちゃんと水平に保つことさえ難しいと思いました。それに恐ろしいです。弾は入っていないから大丈夫だと言われても、引き金を引いたら爆発して弾が飛び出すんじゃないかと思ってしまうのです。銃口を向けられると足がすくみます。

釣り竿は生け捕りにするための道具です。空気銃は軽いし、弾は小さなアルミ玉です。至近距離から撃たれて心臓に当たれば死ぬかもしれませんが、そんなに恐怖感はありません。

でも、猟銃は相手を殺すための道具です。見ているだけでそれが伝わってきて、足が震えるのだと思います。叔父のところではありませんが、日本刀を見せてもらったことがありますが、そのときも同じことを考えました。

この蓮見の叔父さんに「鉄砲撃ち」に連れていってもらったのは、去年の春のことです。叔父さんが家まで迎えに来てくれて、車三台連ねて、目的地に向かうのです。行き先は鹿追というところだと聞きました。初めて聞く地名で、町なのか村なのかもわかりません。兎を撃つのに変だなとも思いました。

市内から一時間以上砂利道に揺られて、畑と落葉松の防風林だけしか見えないところに着きました。道は除雪されていて、雪もほとんど融けていて、ところどころ水たまりができているほど暖かい日でしたが、畑は一面雪におおわれていて、表面はかちかちに固まっていますが、踏み抜くと三十センチか四十センチは深さがあって、子供だと足が抜けなくなります。

春が近づいてきて、暖かくなると兎の活動が活発になって、でも食べ物はろくにないので、防風林の根本を食い荒らすのだそうです。害獣指定になっている動物なので、仕留めた兎の耳二本そろえて市役所に持っていくと百円もらえるのだそうです。奨励金だと叔父は言っていました。

車は二手に分かれて停まりました。先頭を走っていた車が百メートル先のほうに停まったかと思うと、少し腰の曲がったおじいさんが猟銃を斜めに背負って、雪をかぶった畑のなかをどんどん歩いていきます。
「村田のおやじ、また勝手なことをしやがって。兎が逃げてしまう……」と、叔父はぶつぶつ言っています。「さて、こっちも行くぞ」とみんなに号令をかけています。

どうやら、向こうの防風林から兎を追い出して、こちらから迎え撃つ作戦のようです。車の中にいたときから、心臓がどきどきして、あくびばかりしていたのですが、いよいよ狩が始まるのかと思うと、緊張のあまり、声も出ず、息もできなくなりました。

快晴の日で、太陽は真上にあって、半分凍りついた雪の表面がぎらぎら輝いています。

遠くから銃声が響きました。さっきの腰の曲がった老人が撃ったのかもしれません。

一瞬の間をおいて、銃声が何発か続けざまに響きました。

あちらの防風林から、なにか黒っぽい点のようなものが、道のほうにむかって、まるでこわれた玩具のようにぎくしゃく、駆け出しました。

こちらからも銃声が何発も響きました。鼓膜が破れるかと思いました。頭がキーンとなりました。白い煙がふわっと漂い、火薬の臭いが立ちこめました。

兎です。茶色くなりかけた兎。後肢で思い切り蹴ろうとすると、畑の真ん中の柔らかい雪に埋もれて、ちゃんと走れないのです。そして動かなくなりました。

あたりはまた静かになりました。

男たちはしばらく銃を構えていましたが、やがて銃を降ろし、銃床と銃身が別れるところで銃を二つに折って、空になった薬包を取り出している。

え、たった一匹?

僕が叔父さんのほうに目を向けると、なんだかがっかりしたような、怖そうな目をして、倒れた兎のほうを見てから、無言で銃の後始末をしています。そして、
「おい、センちゃん、あれ取ってこれるか?」と言うではありませんか。

え、どうして? 一瞬、意味がわかりませんでした。でも、なぜか反射的にこっくりうなずいていました。試されているんだと思いました。

叔父さんは僕のことを「センちゃん」と呼ぶのです。イズミと呼び捨てにするのでもなく、叔母さんや従姉妹のようにイズミちゃんとも呼ばずに、泉を音読みするのです。物心ついたときには、もうこんなふうに呼ばれていました。僕にとっては第二の名前で、なぜかこう呼ばれるほうが男らしい気持ちになります。

叔父さんは僕を一人前の男として扱おうとしているように思いました。さすがに弾の入った銃を持たせるわけにはいかない。でも、少なくとも獲物を拾ってくるくらいのことはさせたい。叔父さんの心意気が伝わってくるような気がしました。

五十メートルほど先の兎のほうに向かって、歩き出すと、背後から叔父が呼び止めました。

「いいか、耳を持つんだぞ。腹に手を回すな。がぶりとやられるからな」

緊張しました。心臓がばくばくしました。ときどき床が抜けるように、雪に足を取られました。畑の真ん中のほうにいくと雪は浅くなりました。風が通り抜けるので、あまり積もらないのです。

兎はまだ生きていました。生きているというより、左の後ろ肢に弾が当たっただけで、右の後ろ肢にも、前肢にも怪我はないから、ものすごい勢いで前に進もうとしているのです。でも、左後ろ肢に怪我をして、雪は浅くなっているとはいえ、深さ二十センチくらいはあるので、前に進めないのです。ただ足掻いているのです。

一メートルほどのところまで近づくと、兎はものすごい顔で僕を睨みました。口の中は真っ赤でした。血の赤さなのか、兎の口の中はもともとこんなに赤いのか、僕にはわかりません。ただ、長い前歯が狼の牙のように真っ白に光っていました。

猫よりも小さな兎が、僕をおどかしているのです。命がけで僕に闘いを挑もうとしていると思いました。

僕は自分が子供だと思いました。兎は大自然のなかで懸命に生きてきた大人ですが、僕は大人に守られて生きている子供なのです。真っ赤な口を開けて、僕に噛みつこうとしている兎を前にして気後れしました。自分が恥ずかしいと思いました。でも、怖がって叔父さんのところに戻ったら、もっと恥ずかしい。

どうすればいいのか。

僕は暴れる兎の背後に回ることにしました。真正面からではなく、後頭部から耳を捕まえました。でも、野兎の耳は短くて、すぐにすり抜けてしまうのです。白い飼い兎の半分もないから、握ることさえできない。僕は手袋を脱いで、ジャンパーのポケットにしまいました。そして、ありったけの力を込めて、両耳を束にして握りしめました。素手だとなんとか握れます。でも、持ち上げることはできません。兎は二キロか三キロはあったと思います。持ち上げたとしても、後ろ肢をばたばたさせる野兎をそのまま五十メートルの距離を持って歩いて帰ることはできません。

僕は後ろ肢をつかまえてみました。でも、兎の後ろ肢は思ったよりもずっと強く、かえって右手で持った耳を振りほどかれてしまいました。兎はまた雪のなかに落ちて足掻きましたが、前には進めません。

僕はまた同じことを繰り返し、今度は腹を持ってみようと思いました。「がぶりとやられる」かもしれませんが、ほかに方法がないのです。僕は右手で両耳をしっかりと握り、小さな兎の下腹部に左手を回し、そのまま自分の腹に押しつけて、どんなに後ろ肢を激しくバタバタさせても落ちないように、そしてあの長く鋭い前歯が腹を押さえている左の甲に届かないよう、しっかりと上に吊り上げました。そう、両手で兎の体を上下に引き伸ばすようにしたのです。

そうして、焦らずゆっくりと叔父の待っているところに戻っていきました。

叔父はにこにこ笑顔で迎えてくれました。その笑顔が誇らしく思えました。

でも、誇らしさはそこまででした。

兎を受け取った叔父は、小さな体を思い切り地面に叩きつけると、銃床で何度も何度も側頭部を打ちつけたのです。でも、兎は死にません。声にならない声を絞り出し、口も裂けよとばかりに歯を剥き出しにするのです。ほかの大人たちも来て、銃床で叩くわ、ぶ厚い革の長靴の踵で踏みつけにするわ、もうリンチです。

僕は見ていることができませんでした。でも、おまえが持ってきたんだろう。最後まで見届けろという声がします。

さすがに兎はぐったりしてしまいました。でも、まだ息は残っているように思えました。

「どんな動物でも、仕留めた獲物を生殺しにしちゃいけない」

叔父は、そう言いました。でも、僕の膝は震えていました。叔父は、命絶えた兎から、二本の耳をナイフで切り離しました。百円です。

僕が帰りの車の中で何を考えたか、もう覚えていません。たぶん疲れ果てて寝てしまったのだろうと思います。

僕はこの光が丘小学校を卒業すると、東京に行きます。父の仕事の関係で東京に引っ越すことになったのです。

東京のどこに住むのか、どこの中学校に入るのか、僕にはわかりません。名前がわかったところで、どうせ知らない土地です。

ときどき不安な気持ちになりますが、この光が丘小学校で過ごした六年間がきっと支えてくれると思います。そして、何年かしたらまたここに戻ってきて、みんなに会いたいです。

大人になって、叔父さんといっしょにまた釣りに行ったり、山登りに行ったりしたいです。でも、今のところ「鉄砲撃ち」に行きたいとは思いません。一生忘れられない思い出として、ずっとこの胸に刻んでいきたいと思います。

(猫柳香「鉄砲撃ちの思い出」光が丘小学校卒業文集より)

*79 兎追いし(esq.12)

じつは「兎追いし」というタイトルで、昨日一日、ああでもない、こうでもないと考えあぐね、書きあぐね、ついに活路が見いだせないまま、寝てしまった。このブログの更新は、原則的に土曜日にすることにしている。週日は翻訳や授業の準備に当てるというリズムを崩さないようにしている。そうしないと持続できないから。そして、日曜日はできるだけ仕事をしない。具体的には、コンピュータに電源を入れない。本を読むか音楽を聴くか、車を転がして写真を撮りに行くか。

ところが今朝は日曜日なのに、起きてからずっとぐずぐずとその原因を考えつづけている。反省は不毛だと思っている。自分のやっていることを見直し、反芻しているうちに、始めた動機さえも疑うようになり、いつしか弱気になって、最後には、やめた、やめた、と結論しかねない危険な代物である。だが、やめたら終わりである。そうやって翻訳を三十年やってきた。やめたら終わりだと言い聞かせて。この「小説」の試みも同じである。

以下、書けない原因を列挙してみる。密かに(?)、この連載をフォローしていただいている少数の——スタンダールみたいに「ハッピーな」という言葉は付け足しませんが——読者のみなさん、退屈でしょうが、ご海容ねがいます。

 

1.やたらに疲れている。

このところずっと、朝五時か六時には起きて活動をはじめていたのだが——歳をとると朝早く目が覚めるだけのこと——、今週木曜日の夜に大谷短期大学で生涯学習講座を務めてから、朝が眠くて眠くてしかたがない。金曜日の朝は習慣から、六時くらいから、なんとなく動きはじめたが、脳も身体もしゃきっとしない。昨日土曜の朝は目は覚めても起きることができず、気がつくと七時過ぎまで寝ていた。今朝も同じ、七時過ぎにようやく起き出して、髭を剃り、部屋の掃除をして、朝食を食べ、ソファに横になって、見るともなくテレビに目を向けていたら、そのまままた眠ってしまった。目が覚めたは九時半頃である。帯広に帰ってきた直後、「鬱病」の診断を下されて以来のことである。また、あの「メランコリー」? ではないとおもう。たぶん。

 

2.脳みそが思うように反応してくれない。

上記1.と関係することだが、脳の反応が鈍いのである。手を動かしていても、脳が乗ってこない。あるいは脳の動きが鈍いので、手は勝手に動き言葉を並べていくが、その言葉を見ている眼が、なんかちがうなぁ、おもしろくないなぁ、とぼやいている。文章を書いているとき、いちばん大事なのは、この脳と手と眼の一致なのだが——そこからリズムのようなものが生まれ、思いがけない言葉や言い回しが生まれて、それが喜びにつながり、喜びは書くエネルギー源となる——、いつまでたっても、それがちぐはぐなのである。

 

3.妄想を持続させるためにはエネルギーがいる。

近代という時代に入って以来——近代はいつから始まったのかという問いは、とりあえず棚上げにしておこう——「小説とはなんぞや」という自問自答を小説家も批評家も繰り返してきた。さすがに最近はあまり見かけなくなったけれども——たぶん、「近代」という時代が終わってしまったせいだろう。難しい議論はさておき、小説は所詮、妄想である、というのが個人的考えである。その作品が「私小説」を自称しようと、「歴史小説」であると言い張ろうと、すべては妄想である。夢と言い換えてもいいし、幻想と言い換えてもいい。想像力という言葉は美化に美化を重ねて、ついには厚化粧の老婆みたいになってしまったが、所詮は妄想であると考えるとかなりの部分がすっきりする。この妄想はかんたんに掻き消せるものではないというところが曲者であり、かつ恐ろしいところであって、たぶん人間の本質のもっとも奥深い部分を形づくっている。この妄想は、人間の果てしない欲望に直結している。そんなものは存在しないとわかっていても、人間は造り出すのである。しかし、造り出すためには原料=資源とそれを加工するエネルギー源が必要になる。その資源が、もしかすると枯渇するかもしれない。地球を思うがままに搾取(=開発)してきた人類が初めて、ひょっとしてこれヤバイんじゃないのと思いはじめた。地下資源の限界、地球温暖化、環境汚染、生態系の危機、人口爆発……いくらでも列挙できる。小説はけっして平和なものではない。人が生存するためのエネルギーを食らい尽くすものである。読むにせよ、書くにせよ。文学の時代は終わったなどと、上から目線の素知らぬ顔の評論家には言ってやりたい。近代の終焉は人類の終焉であるかもしれないと、一度は考えてみるべきではないか。あなたの身の上だって危ないのだ。わかったわかった、大言壮語はわかったけれど、おまえの「小説」はそれとどう関係するんだい? という声が脳のなかで響く。そんな危ない妄想はやめたらいいんじゃないの? 正論である。かつてディープな鬱病に陥ったある作家——たしか吉行淳之介——が、鬱が疎ましいのは、鬱のなかで考えることは正しいからだ、と喝破していたことを思い出す。鬱が生のエネルギー状態の低下、沈滞であるのは論を俟たない。さあ、どうする?

 

4.できれば動物を主人公にした「小説」にしたい。

主人公——と言っていいのかどうかわからないけど——の名に猫の一字を含めただけでなく、その人の通称であるところの「猫さん」を小説中の呼称として採用し、なおかつ、この猫さんはネコという名の猫を飼っているというふうに設定したとき——というか、勝手にそんなふうに「手」が動き出してしまったのだけれど——、この小説の試みには決定的な方向性と枠組みが与えられてしまったのだろう。早い話が半分は自分の経験に基づくことなのだが、残りの半分は、この「手」の創作である。脳の妄想よりは、この「手」の暴走に委ねたい気分である。なぜならば脳の妄想には際限がないが、手の動きは経験に裏打ちされていて、おのずとブレーキが掛かり、自惚れとは一線を画した個性があるから。「猫の記憶」と題した *72は、書き手の経験を素材にしたものだが、書き出して一気に書き抜いたのは、この「手」である。書こうと思いついたのも、この「手」だと言っていい。脳が思いついたものはあまりいい結果にならない。*75の「モズ」もその延長線上に自然に出てきたものだし、今回の「兎」もやはり同じ延長線上にある。すらすらと流れていくはずだった。

 

5.作家たちはなぜあんなにも猫が好きなのか?

猫の好きな作家の名を挙げていくと切りがない。だから、よほど気をつけて書かないと、誰かの二番煎じになってしまう。だから——別に苦肉の策としてではなく——、われらが主人公(?)の猫さんは名前とは裏腹に、じつは犬が好きなのである(*71参照)。そして、ここが肝心なところであるけれど、けっして動物好きではなく、むしろ怖れを抱いているのである。愛玩動物であれ野生の動物であれ、単純に怖れを抱いている。もちろん、この怖れは畏れに通じるものであり、この畏怖こそが宗教の源泉であるばかりでなく、美の源泉でもあるはずだ。その源泉がいま涸れようとしている。漱石の『猫』はつまらない。どこまで行っても、どこまで読んでも、擬人化の域を出ないからだ。金太郎飴みたいに、どこを切っても同じ顔が出てくるだけ。日本の近代文学のなかでもっとも有名な作品の一つではあるけれど、全篇読み通した人は——研究者を除いて——ほとんどいないはずだ。そもそも、のっけからアンドレア・デル・サルトなんて、どこの馬の骨かわからないような画家——漱石によれば「伊太利の大家」ということになっているが、どこかの美術館が回顧展を催すほどの画家ではない——の名前を出してくるところが、悪趣味だ。でも、漱石が野性に対する畏怖とは無縁だったかといえば、そうではない。彼はこんな一文を残している。「木島櫻谷氏は去年澤山の鹿を並べて二等賞を取った人である。あの鹿は色といひ眼付といひ、今思ひ出しても気持の悪くなる鹿である。今年の「寒月」も不愉快な点に於てはあの鹿に劣るまいと思ふ」(「文展と芸術」東京朝日新聞、大正元年/1912)これほど嫌みな美術評もそうあるものではない。木島櫻谷氏は名誉毀損で訴えてもよかったのではないか。ま、いつの時代もヒョーロンカというのはこんな文章を書く人種ということかもしれない。でも、漱石を援護するわけではないが、この人は見るべきものは見ていると感じられる。木島櫻谷氏は花鳥風月のなかの鹿や狐を描きたかったのではないだろう。正しく「野性」を表現したかった。それを漱石は「気持ちの悪くなる」とか「不愉快」だとか言っている。そして、この評を「兎に角屏風にするよりも写真屋の背景にした方が適当な絵である」と結んだ。彼は、西洋美術のリアリズムの影響を受けた日本画家の野心を「不愉快」と言っているのである。僕はできることなら、木島櫻谷の夜の狐のような眼をした野生の兎の姿を描いてみたい。

 

6.こんなにも疲れてしまった理由。

ここまで書いてきて、わかった! こんなにも疲れてしまったのは、死にかけた猫のケアにエネルギーを吸い取られたからだ。食欲がなくなって、すっかり痩せ細ってしまったわが家のシマを動物病院に連れていったのが六月六日、その日血液検査をしてもらって、肝臓機能の値も腎臓機能の値も非常に悪く、おおもとの原因は甲状腺ホルモンの過剰分泌だろうと診断された。排便もしなくなり、ぐったりと寝たきりになってしまったので、排便処置と点滴をしてもらいに行ったのが十二日——放っておいたら死んでましたよと、あとで医師に言われた——、ホルモン分泌の分析結果に基づいて、甲状腺の薬を処方してもらったのが二十一日、その間、胃薬やら肝臓の薬やらを含めて、朝と夕方に二回、二つ乃至は四つに分割した錠剤をスプーンの背で粉々にして投薬用のチュールに混ぜ、食欲が戻ってくるまで根気よく食餌を与えつづけたのだ。その努力の甲斐があって、六月十二日の時点で2.4㎏にまで激減した体重が、一昨日(六月二十八日)は2.9㎏まで回復した。食欲がないので睡眠も浅く——猫の話である——、不安がって朝早くから起こしにくる。こちらは為す術もなく、朝四時くらいから食餌を与えることになるが、そのときに毎回薬をすり潰してチュールに混ぜ、ウェットとドライの食餌の配合を考え、猫の食べっぷりを横でじっと見ている。その都度、一喜一憂するのである。あと100㌘で3㎏に戻る。少し希望が見えてきた時点で、どっと疲れが出たのだろう。現実の猫と虚構(妄想)の猫の双方をケアするというのは、なかなか疲れるものである。それにしても、なんだかなぁ、正しいことやっているのだろうか……。

*78 メランコリー、その二(esq.11)

閑話が続いたので、ここらで「小説」の本筋に戻ることにしよう。おかげさまで(?)、わが家の猫の体調も戻り、食餌をふつうに食べてくれるようになったことだし。体重が元どおりにならないのは、老齢の猫の体重が増えるのはなかなか難しいことなのだろうと静観することにした。

今回は「メランコリー」と題した*70の続きである。

*7

猫さんは、処方された一ヵ月の薬が切れる日に、精神科医の北島医師をまた訪れた。診察室のドアをノックすると「どうぞ」という声が返ってきて、ドアの向こうでは、すっかり太って、頭頂部の禿げあがった顔がにこやかにほほ笑んでいる。

——どうだい、調子は?

——まぁまぁかな。最近は寝付いてからすぐに目が覚めるということはなくなった、おかげさまで。

——それはよかった。じゃ、この抗鬱剤をもう少し続けてみようか。

——それって、ずっと飲みつづけることになるのかな。血圧の降下剤みたいに。

——それとこれとは別だよ。また依存の話か? ふつうに眠れるようになったら、自然と薬を飲むのを忘れるから、心配ないよ。

——この年齢でもかい?

——個人差もあるけど、睡眠薬や抗鬱剤は悪循環に陥った生活習慣を改善するきっかけを作るためのものだからね。

——毎日飲む薬の数が増えていくだけでも気が滅入るんでね。

——ま、それはわかるけど、もっと医学と医師を信用しろよ。

北島医師のその言葉で、二人はようやく笑った。

——ところで、そのうち、うちに来ないか? 外で飲むより、家のほうがゆっくりやれるだろ?

突然の申し出に、猫さんは一瞬言葉に詰まった。

——迷惑にならないのかな。

——迷惑ってことはないさ。子供たちも自立して出ていったし、今は夫婦水入らずだ、と言って、北島医師は笑った。

——子どもは何歳になった?

——どちらも三十代後半だよ。正確な歳は、女房に聞かないとわからないけど。

そう言ってまた笑い、少し間をおいてから、北島医師は真顔に戻った。

——サワコのこと、憶えてるだろ?

——え?

虚を衝かれて、猫さんは聞き取れなかった。

——サワコだよ、サワコ。

目の前がかすみ、意識が遠ざかっていくような気がした。

——ああ……、と答えるのが精一杯だった。

——おい、おい、忘れちゃったのか? あんなに仲良かったのに。タコだよ、タコ、みんなそう言って、冷やかしていたじゃないか。本人はそれでだいぶ傷ついていたようだけど、ま、子供のことだから、悪気はないんだけどさ。

——タコ……。

猫さんには、なんのことやらわからない。

——おい、おい、ほんとに忘れちゃったのか。多い子って書いて、サワコ、珍しい読みだから、みんなふざけてタコって呼んでた。まあ、仕方ないか、あれから半世紀以上たつんだものな。おまえはずっと東京にいたわけだし。

猫さんの首筋に気持ちの悪い汗が流れているのがわかった。思い出せないというより、ぽっかりと穴が空いていて、そこを覗きこむと、全身の血流が冷えていく。内臓に不快感が広がり、視野も狭くなっていく。

——じつはさ、おれ、多子と結婚したんだよ。先月、おまえが診察を受けにひょっこりやってきたんで、猫柳が帰ってきたぞって言ったら、カミさん、目が飛び出るほど驚いていたよ。そりゃそうだよな、おまえが帰ってくるなんて、誰も思っていないから……。

猫さん、返事ができない。

——おいおい、顔色が悪いぞ。どうした、急に?

——いや、よくわからないんだけど、なんだか目眩がして……。

——昨日はちゃんと眠れたのか?

——うん、まぁ……。

——べつの薬にしたほうがいいのかな。

——いや、そういうことではないと思う。

北島医師は無言で猫さんの顔を見ている。

——この町で暮らした幼年期のことが、ときどき思い出せなくなるんだ。というか、記憶がまだらになっている。東京に移ってからの記憶には、そういう感じはないんだけど、幼年期の記憶に関しては、あちこち断線している。

——それは自然なことじゃないのか。おれは医学部時代を除いて、ずっとこの町で暮らしてきたから、記憶は地続きのようなものだけど、小学校を出ると同時に東京に行ってしまったりすると、そういうことはあるんじゃないの。そっちの方面の勉強はあまりしてないけど……。

たしかに大げさに考える必要はないのかもしれないが、猫さんにとっては、定年退職したのち、ほとんど誰も知り合いのいない故郷の町に帰る決断をうながすほど大問題なのである。というか、その問題が何なのか解き明かすために帰ってきたと言ってもいい。

自分の生まれ育った町に帰ってきて眠れなくなった。紹介された精神科医が小学校時代の同級生だった。その男がサワコという名の同級生と結婚していた。そのサワコが思い出せない。というよりも、その名を耳にしたとたん、不快感のような、悪寒のようなものが襲ってきた。

北島医師によれば、猫さんと多子さんは仲がよかったという。なのに猫さんは思い出せない。なにひとつ。そのあたりだけが停電していて真っ暗な感じである。北島晋一くんのことは憶えている。彼と遊んだり、勉強した場面の記憶は明るい。その場所に多子さんはいたのか? 三人で遊んだことはなかったのか?

北島晋一本人が口を開いた。

——おれさ、うらやましかったんだよ。多子と猫がね。放課後になると、いっつも二人きりで何か話してた。帰る方向も一緒だった。二人並んで、学校の裏手の踏切のほうに歩いていった。

猫さんの動悸が激しくなった。やめてくれと叫び出しそうになった。その話はやめてくれ。人に話してもらいたくない。自分で思い出したいのだ。この町に帰ってきたとき、もちろん、小学校の前も通ってみたし、自分が住んでいた所番地のあたりにも行ってみた。しかし、そこには三階建ての集合住宅が建っていて、周辺には駐車場やら公園やらが広がり、往時を思い出させるものは何ひとつ残っていなかった。

もちろん、同級生の顔も名前も、仲のよかった友だちの顔も名前も、多子という名前も、何ひとつ浮かび上がってこなかった。

偶然——そう、偶然——、精神科の専門病院を訪れることがなければ、北島晋一に会うこともなく、多子という女性の名を告げられることもなかっただろう。

偶然? これを偶然というのか? こういう出会いを求めて、自分の生まれ育った町に帰ってきたのではないか、と猫さんは思うのである。

なぜ思い出せないのか? 多子って誰だ? 親しかった? それなのに思い出せない? 顔色がどんどん青ざめていくのがわかる。

——おいおい、そんなに深刻になるなよ。だから、うちに来いってば。そうしたら途切れていた記憶がいろいろよみがえってくるかもしれないじゃないか。多子だって、会いたがっていたぞ。

そうか、それだけのことか。何を怖がっている? 会ってみればいいじゃないか。何か思い出すかもしれない。いや、何かというような漠然としたものじゃなく、ひょっとすると……。いや、今から妄想をたくましくしてもしかたがない。

——ああ、わかったよ。面倒かけてすまん……。

——面倒ってこと、あるか。で、猫の都合はどうなんだ?

——そんなものあるわけないじゃないか。夜はいつもネコといっしょにテレビを見ているか、音楽を聴いているか、本を読んでいるか、だ。

——猫を飼っているのか?

——うん、東京から連れてきた。

——猫が猫を飼っているのか?

——うん、よく言われる。

二人とも笑いかけて笑えないでいる。

——うちは犬を飼ってる。ゴールデン・レトリバーだ。おれが飼っているというより、もっぱら多子が世話してるんだけどな。

意識がまた暗くなった。そう、たしかに犬がいた。大きな犬。長い毛、たしか黒の。犬種はわからない。また、胸が苦しくなった。

——わかった、こうしよう。今日、帰ったら多子と相談して日取りを決める。で、メールする。メールアドレスくらいあるだろ?

猫さんはうなずく。北島医師は自分の名詞に携帯電話の番号を書いた。

——ショートメールでおまえのアドレスを送っておいてくれ。二、三日中に返事するから。

猫さんは首筋の汗をハンカチでぬぐいながら、北島医師に一礼し、診察室を出た。

*77 閑話、その三(esq.10)

また「閑話」です——それなりの理由があって。

六月半ばの日曜日、今朝は雨が降っている。

「内地」であれば、梅雨のまっただなか、雨が降っていても、なんの不思議もないが、北海道だとやはり地球温暖化の影響かと思ってしまう。そのむかし、北海道に梅雨はないと言われ、台風も津軽海峡を渡らないはずだった。

今日は雨。おそらく梅雨、もしくは本州にかかる梅雨前線の影響ということになるのだろう。

日曜日の早朝なので、通りを走り抜ける車の音もしない。たまに通る車があっても、雨のせいで速度も緩やかなうえに、雨が音を遮るカーテンの役割をはたしてくれる。

 

 

このブログをお読みいただいている方のなかには、前回書いた猫のことを心配してくれている人もいるかもしれない。

安心してください。だいじょうぶです。そう簡単には死にません。

血液検査に続いて、ホルモンの検査もしてもらったところ——「内地」の専門検査機関に血液サンプルを送るので、結果がわかるまでに一週間かかる——、予想どおり甲状腺ホルモンが過剰に分泌されていることがわかった。甲状腺ホルモンが過剰に出ると、まずは食欲が減退し、興奮状態が続いて攻撃的になったりするらしい。うちのシマの場合、変な具合に仔猫がえりして、家中をちょろちょろ動き回り、台所で食事の支度をしていると、俎板からこぼれ落ちる屑を待っていたり、テーブルの上の焼き魚を床に引きずり降ろそうとしたり、はたまた風呂掃除を始めると、排水口に吸い込まれる残り湯にやたらに興味を示したりする。

攻撃的にはならなかったけれど、壮年——十歳前後——のときには見せなかったこの落ち着きのない行動ぶりは、甲状腺ホルモンの作用だったのかもしれない。

それはともかく、先週の木曜日、動物病院から検査結果の報告があり、甲状腺ホルモンの分泌を抑える薬を処方してもらった。

この薬を食餌に混ぜて——糖衣錠を四分割したものが一回の投与量だが、これをスプーンの背で粉々に砕いてチュールに練りこむ——与えるようになって、今日で四日目、昨日の午後あたりから目に見えて食欲が出て来た。チュールと混ぜなくても、ウェットタイプの食餌なら食べるようになった。ドライのものも少量ならかりかり音を立てて食べるようになった。

これで一安心。といっても、十六歳の高齢なので、いつまで生きるかはわからない。いたずらに延命させようとは思わないが、食欲が戻ってきて、元気でいられるなら、それに越したことはない。

死を覚悟したのは、猫ではなく、たぶんこの私だったということなのだろう。お騒がせしました。

 

 

文字どおりの閑話休題。これからが本題です。

金曜日の夕方、一通のメールが届きました。以前、東京でお会いしたことのある方です。プライベートな内容を含む私信なので、そのままの引用は憚られますが、このブログを続けていくうえで、あるいは「小説のためのエスキス」という試みを続けていくうえでも、とても大切なこと、とても励みになることが書かれているので、この場を借りて、僕なりの感想を記しておきたい。

「猫の記憶」と題した*72には、犬のこと、キタキツネのことを書いた。

吹雪の原野をキタキツネの親子が歩いていく。遅れはじめた子狐が歩けなくなってその場にうずくまる。母狐が数歩戻って歩み寄り、二、三秒、わが子の顔に鼻を近づけ、何かを確認すると、また踵を返して、吹雪のなかを歩き去っていく場面を書いた。

それに続けて、猫さんの奥さんが絶命する場面を置いた。この世を去っていく奥さんに向かって、猫さんは「おーい、いっちゃうのか」と叫ぶ。

この「二、三秒」の場面を読んで、A・Iさん——取りあえず、そう呼ばせていただきます——は、ほろほろ涙が止まらなくなったんだそうである。そして、その勢い(?)でメールを送ってきた。ご主人が心房細動で心臓停止して、救急車で病院に運ばれ、心臓バイパスの緊急手術を受けて一命を取り留めたときのことがよみがえってきたのだそうだ。

A・Iさんは小説家志望の人である。ヘルニアの持病も持っている。小説を書きたい、書かねばならぬと思っても、人生の諸事情や病気のことが重なって、思うようにならない。「生まれて初めて底の知れない恐ろしい想い」をしたことや自分の感情の動きを、このブログを読んで、振り返る時間を持てた。そのことを感謝するといった内容のメールである。

A・Iさんと初めてお会いしたのは、今から六年前、パスカル・キニャールの国際学会が東京恵比寿の日仏会館で開かれたときのことだった。私もパネラーとして参加したのだが、そのときの聴衆のひとりにA・Iさんが含まれていた。その後、何かのきっかけで東京のどこかでもう一度お会いしたことがある。

仔細は忘れてしまった。そのとき彼女が小説家志望であることを知った。たしか相談のようなものを受けたように記憶しているが、徹頭徹尾個人的な営為である文学や小説に関して、何か有益なアドバイスだとか、忠告だとかを与えることなど、どんなキャリアのある作家でも不可能だろう。ましてこっちは一介の翻訳者、長く出版業界で生きてきたに過ぎない。

ただそのとき、小説家になりたいというのなら、藤沢周平の『半生の記』というエッセイを読んでみたら、と薦めた記憶がある。

その理由は——その場で口にしたか、説明しようとしたか、もう忘れてしまったけれど——、あらためてここに書くとすれば、あなたは小説が書きたいのか、小説家になりたいのか、という質問に尽きる。それを聞けば、大方の人は、それは二者択一の問題なのか、と怪訝な顔をするだろう。つまり、小説を書く人が小説家であるだろうし、小説家は小説を書くのが仕事の人だろうと。

でも、微妙に違う。なぜなら、趣味で小説を書いて、同人誌などを仲間で発行して、それに発表している人も存在するから。あるいは小説家の肩書きで世間に知られてはいるが、もう書かなくなった人、書けなくなった人もいるから。

A・Iさんに藤沢周平の自伝的エッセイを薦めたのは、彼は明らかに小説家になるべくしてなった人だと思っているからである。彼はたまたま「時代小説」——「歴史小説」でも「私小説」でもなく——というジャンルを選んだわけではない。

しかし、若いときから小説家を志したわけではけっしてなかった。山形の師範学校を出て、教員生活を送っていたが、結核にかかり、地元の病院で治療を続けたが、なかなか病状が好転せず、本格的な結核治療の場所として東京の東村山にある療養所に入ったのである。結核専門の病院で三度の手術を受け、療養中には何度か外出許可をもらって、地元での再就職の道を探したと『半生の記』には書いてある。しかし、その願いも叶わず、そのまま東京に住みつくことになる。最初に得た仕事は業界紙の記者だった。

繰り返すが、彼は野心を抱いて小説家になろうとしたわけでもないし、何かの野心があって上京したわけでもなかった。長期にわたっての結核治療、そのせいで地元に戻って再就職する道も絶たれ、気がつくと、都会の雑踏のなかで業界紙の記者として歩き回っている。人生、理不尽、その気持ちがときに東京の街角で湧き上がってくることもあっただろう。

こういうやるせない想いを救ってくれたのは、山形の教員時代の教え子で、たまたま同時期に上京してきた女性と結婚したことだったろう。彼は新橋にある「日本食品経済社」に通い、ときには妻の勤め先があった池袋で待ち合わせ、映画館に足を運んだり、公園を散歩したり、そういう平凡な生活がいっときつづき、やがて一女が誕生する。「展子と名づけた長女は健康に育ち、私たちはそういう生活がずっとつづくものだと思っていた」

しかし、妻の悦子は長女の出産後、体調を崩し、一年も経たないうちに、進行の早いガンでこの世を去ってしまうのである。

「そのとき私は自分の人生も一緒に終わったように感じた。死に至る一部始終を見届けるあいだには、人に語れないようなこともあった。そういう胸もつぶれるような光景と時間を共有した人間に、この先どのようなのぞみも再生もあるとは思えなかったのである」(『半生の記』)

そして、彼は会社勤めをつづける傍ら「一番手近な懸賞小説」に応募をはじめる。

「小説は怨念がないと書けないなどといわれるけれども、怨念に凝り固まったままでは、出てくるものは小説の体をなしにくいのではなかろうか。再婚して家庭が落ち着き、暮らしにややゆとりが出来たころに、私は一篇のこれまでとは仕上がりが違う小説を書くことが出来た。「溟い海」というその小説がオール読物新人賞を受けたとき、私はなぜか悲運な先妻悦子にささやかな贈り物が出来たようにも感じたのだった。……しかしこのとき、私にしても妻の和子にしても、将来小説を書いて暮らして行くことになるとは夢にも思っていなかった。そのあとのことは成り行きとしか言えない」

彼は新人賞を取るまでに何度も落選を重ねている。それでも彼は懸賞小説への応募を続けた。そうすることが死に別れた先妻への供養であり、鎮魂でもあるというように。

しかし、ひとの人生に口を挟むようで、まことに僭越だが、これは理不尽な人生への「怨念」をバネとした、自分自身への鎮魂ではなかったか。

彼は妻の死とともに自分の人生も終わったと感じる。そのとき彼はすでに「この世」から「あの世」に渡っている。「怨念に凝り固まったままでは小説の体をなしにくいのではなかろうか」というのは、この時点ではじつは「あの世」に渡りきっていないということではないのか。そして、「あの世」はあの世にあるわけではなく、この世にあるということ、それが小説という器の不思議なところ、それはどんな芸術にも、どんな職業——プロフェッショナルとしての——にも通じるところではあるまいか。それに気づいたとき、ひとりの人間は自分のスタイルを発見し、小説家として、芸術家として、あるいは職人として再生するのではあるまいか。

藤沢周平は結果として——成り行きで——小説家になったわけではない。彼は小説家になるべくしてなった、それが彼の宿命であった。『半生の記』に書かれているのは、まさにそのことにほかならない。私はそう信じている。