*77 閑話、その三(esq.10)

また「閑話」です——それなりの理由があって。

六月半ばの日曜日、今朝は雨が降っている。

「内地」であれば、梅雨のまっただなか、雨が降っていても、なんの不思議もないが、北海道だとやはり地球温暖化の影響かと思ってしまう。そのむかし、北海道に梅雨はないと言われ、台風も津軽海峡を渡らないはずだった。

今日は雨。おそらく梅雨、もしくは本州にかかる梅雨前線の影響ということになるのだろう。

日曜日の早朝なので、通りを走り抜ける車の音もしない。たまに通る車があっても、雨のせいで速度も緩やかなうえに、雨が音を遮るカーテンの役割をはたしてくれる。

 

 

このブログをお読みいただいている方のなかには、前回書いた猫のことを心配してくれている人もいるかもしれない。

安心してください。だいじょうぶです。そう簡単には死にません。

血液検査に続いて、ホルモンの検査もしてもらったところ——「内地」の専門検査機関に血液サンプルを送るので、結果がわかるまでに一週間かかる——、予想どおり甲状腺ホルモンが過剰に分泌されていることがわかった。甲状腺ホルモンが過剰に出ると、まずは食欲が減退し、興奮状態が続いて攻撃的になったりするらしい。うちのシマの場合、変な具合に仔猫がえりして、家中をちょろちょろ動き回り、台所で食事の支度をしていると、俎板からこぼれ落ちる屑を待っていたり、テーブルの上の焼き魚を床に引きずり降ろそうとしたり、はたまた風呂掃除を始めると、排水口に吸い込まれる残り湯にやたらに興味を示したりする。

攻撃的にはならなかったけれど、壮年——十歳前後——のときには見せなかったこの落ち着きのない行動ぶりは、甲状腺ホルモンの作用だったのかもしれない。

それはともかく、先週の木曜日、動物病院から検査結果の報告があり、甲状腺ホルモンの分泌を抑える薬を処方してもらった。

この薬を食餌に混ぜて——糖衣錠を四分割したものが一回の投与量だが、これをスプーンの背で粉々に砕いてチュールに練りこむ——与えるようになって、今日で四日目、昨日の午後あたりから目に見えて食欲が出て来た。チュールと混ぜなくても、ウェットタイプの食餌なら食べるようになった。ドライのものも少量ならかりかり音を立てて食べるようになった。

これで一安心。といっても、十六歳の高齢なので、いつまで生きるかはわからない。いたずらに延命させようとは思わないが、食欲が戻ってきて、元気でいられるなら、それに越したことはない。

死を覚悟したのは、猫ではなく、たぶんこの私だったということなのだろう。お騒がせしました。

 

 

文字どおりの閑話休題。これからが本題です。

金曜日の夕方、一通のメールが届きました。以前、東京でお会いしたことのある方です。プライベートな内容を含む私信なので、そのままの引用は憚られますが、このブログを続けていくうえで、あるいは「小説のためのエスキス」という試みを続けていくうえでも、とても大切なこと、とても励みになることが書かれているので、この場を借りて、僕なりの感想を記しておきたい。

「猫の記憶」と題した*72には、犬のこと、キタキツネのことを書いた。

吹雪の原野をキタキツネの親子が歩いていく。遅れはじめた子狐が歩けなくなってその場にうずくまる。母狐が数歩戻って歩み寄り、二、三秒、わが子の顔に鼻を近づけ、何かを確認すると、また踵を返して、吹雪のなかを歩き去っていく場面を書いた。

それに続けて、猫さんの奥さんが絶命する場面を置いた。この世を去っていく奥さんに向かって、猫さんは「おーい、いっちゃうのか」と叫ぶ。

この「二、三秒」の場面を読んで、A・Iさん——取りあえず、そう呼ばせていただきます——は、ほろほろ涙が止まらなくなったんだそうである。そして、その勢い(?)でメールを送ってきた。ご主人が心房細動で心臓停止して、救急車で病院に運ばれ、心臓バイパスの緊急手術を受けて一命を取り留めたときのことがよみがえってきたのだそうだ。

A・Iさんは小説家志望の人である。ヘルニアの持病も持っている。小説を書きたい、書かねばならぬと思っても、人生の諸事情や病気のことが重なって、思うようにならない。「生まれて初めて底の知れない恐ろしい想い」をしたことや自分の感情の動きを、このブログを読んで、振り返る時間を持てた。そのことを感謝するといった内容のメールである。

A・Iさんと初めてお会いしたのは、今から六年前、パスカル・キニャールの国際学会が東京恵比寿の日仏会館で開かれたときのことだった。私もパネラーとして参加したのだが、そのときの聴衆のひとりにA・Iさんが含まれていた。その後、何かのきっかけで東京のどこかでもう一度お会いしたことがある。

仔細は忘れてしまった。そのとき彼女が小説家志望であることを知った。たしか相談のようなものを受けたように記憶しているが、徹頭徹尾個人的な営為である文学や小説に関して、何か有益なアドバイスだとか、忠告だとかを与えることなど、どんなキャリアのある作家でも不可能だろう。ましてこっちは一介の翻訳者、長く出版業界で生きてきたに過ぎない。

ただそのとき、小説家になりたいというのなら、藤沢周平の『半生の記』というエッセイを読んでみたら、と薦めた記憶がある。

その理由は——その場で口にしたか、説明しようとしたか、もう忘れてしまったけれど——、あらためてここに書くとすれば、あなたは小説が書きたいのか、小説家になりたいのか、という質問に尽きる。それを聞けば、大方の人は、それは二者択一の問題なのか、と怪訝な顔をするだろう。つまり、小説を書く人が小説家であるだろうし、小説家は小説を書くのが仕事の人だろうと。

でも、微妙に違う。なぜなら、趣味で小説を書いて、同人誌などを仲間で発行して、それに発表している人も存在するから。あるいは小説家の肩書きで世間に知られてはいるが、もう書かなくなった人、書けなくなった人もいるから。

A・Iさんに藤沢周平の自伝的エッセイを薦めたのは、彼は明らかに小説家になるべくしてなった人だと思っているからである。彼はたまたま「時代小説」——「歴史小説」でも「私小説」でもなく——というジャンルを選んだわけではない。

しかし、若いときから小説家を志したわけではけっしてなかった。山形の師範学校を出て、教員生活を送っていたが、結核にかかり、地元の病院で治療を続けたが、なかなか病状が好転せず、本格的な結核治療の場所として東京の東村山にある療養所に入ったのである。結核専門の病院で三度の手術を受け、療養中には何度か外出許可をもらって、地元での再就職の道を探したと『半生の記』には書いてある。しかし、その願いも叶わず、そのまま東京に住みつくことになる。最初に得た仕事は業界紙の記者だった。

繰り返すが、彼は野心を抱いて小説家になろうとしたわけでもないし、何かの野心があって上京したわけでもなかった。長期にわたっての結核治療、そのせいで地元に戻って再就職する道も絶たれ、気がつくと、都会の雑踏のなかで業界紙の記者として歩き回っている。人生、理不尽、その気持ちがときに東京の街角で湧き上がってくることもあっただろう。

こういうやるせない想いを救ってくれたのは、山形の教員時代の教え子で、たまたま同時期に上京してきた女性と結婚したことだったろう。彼は新橋にある「日本食品経済社」に通い、ときには妻の勤め先があった池袋で待ち合わせ、映画館に足を運んだり、公園を散歩したり、そういう平凡な生活がいっときつづき、やがて一女が誕生する。「展子と名づけた長女は健康に育ち、私たちはそういう生活がずっとつづくものだと思っていた」

しかし、妻の悦子は長女の出産後、体調を崩し、一年も経たないうちに、進行の早いガンでこの世を去ってしまうのである。

「そのとき私は自分の人生も一緒に終わったように感じた。死に至る一部始終を見届けるあいだには、人に語れないようなこともあった。そういう胸もつぶれるような光景と時間を共有した人間に、この先どのようなのぞみも再生もあるとは思えなかったのである」(『半生の記』)

そして、彼は会社勤めをつづける傍ら「一番手近な懸賞小説」に応募をはじめる。

「小説は怨念がないと書けないなどといわれるけれども、怨念に凝り固まったままでは、出てくるものは小説の体をなしにくいのではなかろうか。再婚して家庭が落ち着き、暮らしにややゆとりが出来たころに、私は一篇のこれまでとは仕上がりが違う小説を書くことが出来た。「溟い海」というその小説がオール読物新人賞を受けたとき、私はなぜか悲運な先妻悦子にささやかな贈り物が出来たようにも感じたのだった。……しかしこのとき、私にしても妻の和子にしても、将来小説を書いて暮らして行くことになるとは夢にも思っていなかった。そのあとのことは成り行きとしか言えない」

彼は新人賞を取るまでに何度も落選を重ねている。それでも彼は懸賞小説への応募を続けた。そうすることが死に別れた先妻への供養であり、鎮魂でもあるというように。

しかし、ひとの人生に口を挟むようで、まことに僭越だが、これは理不尽な人生への「怨念」をバネとした、自分自身への鎮魂ではなかったか。

彼は妻の死とともに自分の人生も終わったと感じる。そのとき彼はすでに「この世」から「あの世」に渡っている。「怨念に凝り固まったままでは小説の体をなしにくいのではなかろうか」というのは、この時点ではじつは「あの世」に渡りきっていないということではないのか。そして、「あの世」はあの世にあるわけではなく、この世にあるということ、それが小説という器の不思議なところ、それはどんな芸術にも、どんな職業——プロフェッショナルとしての——にも通じるところではあるまいか。それに気づいたとき、ひとりの人間は自分のスタイルを発見し、小説家として、芸術家として、あるいは職人として再生するのではあるまいか。

藤沢周平は結果として——成り行きで——小説家になったわけではない。彼は小説家になるべくしてなった、それが彼の宿命であった。『半生の記』に書かれているのは、まさにそのことにほかならない。私はそう信じている。

*76 閑話、その二(esq.09)

どうやらうちの猫は死を覚悟したようである。「うちの猫」というのは、あくまでも現実の猫であって、猫さんが飼っているネコという名の猫のことではない。

東京に住んでいたとき、家の近くのクリニックで発行してくれた「動物の健康手帳」によれば、生年月日が二〇〇三年四月二十四日、このクリニックの初診日が六月六日、その翌月に初めて記載のある体重は一・三キロ、その半年後の冬に去勢手術をしたときの体重が四・六キロとなっている。まだ一歳をなっていない時点での体重である。いちばん大きかったときは七キロくらいはあったはずだ。

それが一昨日、こちらの掛かりつけの病院で診てもらったら、二・六キロにまで落ちている。三年前にこの病院で血液検査をしてもらったときには、獣医師さんを含めて四人がかかりで押さえつけなければならないほど元気——というよりは強暴——だったのに、今回はもう抵抗したり、シャーシャー威嚇したりする気力もない。

診察台の上で、優しそうな看護師さんに前脚と後ろ脚の付け根を握られておとなしくしている様は、まるで俎板の上の鯉——たとえが安直すぎるけれども——のようだった。

食餌も口にしようとしない。東京時代から下部尿路疾患用のダイエット食を与えてきたのだが、食べてもすぐに吐くようになり、今では手のひらの上に載せて食べさせようとしても、鼻先を背けてしまう。

ほぼ一日中、ソファで寝ている。それでも階段の上がり下がりとか、ベランダに出て外の空気にあたるくらいのことはできる。

血液検査をしてもらった結果、肝臓と腎臓の機能がかなり落ちていることがわかった。外部の検査機関にあらためてホルモン分泌の状態を調べてもらう必要があるが、おそらく甲状腺に問題があるのではないか、と獣医師は言う。

甲状腺という言葉を聞いて、ガンかもしれないと思った。

同時に、十六歳まで生きたのだ、人間であれば八十余、静かに逝かせてやってもいいのではないか、とも思う。

この猫の名前はシマという。この猫をもらってきた経緯は、*23にも書いたし、その変奏曲みたいなものを*71にも書いた。

幼いころ、わが家の二階のテラスまで上がってきた野良猫——近くの飼い猫かもしれないが——と大げんかして、首筋に深傷を負ったときも、彼はベッドの隅でじっとしていた。痛いからといって、人間のように泣き喚いたりしない。

今日は手のひらの上にマグロのチュール(流動食みたいなもの)に胃薬と肝臓の薬を混ぜたものを載せて、食べさせてやった。それだけ、ほかのものはいっさい口にしない。ただ寝ている。

その寝姿を見て、思い出すことがある。

*68に書いた父方の祖父のことだ。この祖父は晩年、心臓の調子が悪くなって、八十を過ぎてからは床に就いていることがおおくなった。そのころ私は東京で学生生活を送っていて、いっしょに暮らしていたわけでもないし、たびたび帰省していたわけでもないから、すべて母から聞いた話なのだが、米の飯はいっさい口にせず、夕飯はお猪口一杯の酒とマグロの刺身一切れだけで命をつないでいたという。

この祖父は私が大学を卒業する直前の年の暮れにこの世を去った。野辺送りの車の中で、どういうわけだか涙が止まらなくなった。人生ははかないものだと思ったか、ああ、なんという潔い死だと思ったか、大学に進学したものの、自分の将来を思い描けるようになるどころか、ただひたすら混乱をきわめ、自分が何をしたいのか、自分が何者なのかまったくわからなくなっている自分が情けなくなったか、とにかく、感情の嵐のようなものが押し寄せてきて、文字どおり滂沱の涙があふれた。

さっさと大学を出なければ、廃人になると思った。

そして、就職した出版社で妻となる女性と出会った。

その妻も十五年前に亡くなった。

彼女が死ぬ一年半ほど前に家に来たのが、シマと名づけられた猫である。

その猫が今、死を覚悟してソファに横たわっている。

おまえも覚悟せよ、ということなのだろう。

閑話という題にふさわしくない内容になってしまったが、「心静かに話すこと。ゆったりとした気持ちで話すはなし」(日本国語大辞典)というほうの意味を強調しておいて、今日はここまで。

*75 モズ(esq.08)

*6

猫さんの就職した出版社は目黒にあった。初冬の空に初めてモズの大群を見かけた日のことを、彼は今も鮮明に憶えている。入社して半年ほどが経ち、会社勤めにも仕事にも少しは慣れてきたころ、横殴りの北風に吹きつけられながら、山手線沿いに目黒駅のほうに向かって歩いていると、白銀台のほうから押し寄せてくる真っ黒な雨雲のようなものが目に入った。まるで駅ビルに襲いかかるように接近してきたかと思うと、駅ビルの壁に沿って急上昇し、寒風を突いて昇れるだけ昇り、今度は戦闘機のような形になって真っ逆さまに降下し、それを何度も繰り返す。駅ビルの前まで来たとき、ようやくそれがモズの大群だということがわかった。モズの群れはひとしきり駅の上空を旋回すると多摩川のほうに向かって飛び去っていった。

唖然としてその場に立ち尽くしていると、背後で女性の声がした。

——猫柳くん。

振り返ると、キャメルのコートの襟もとから暖色系のスカーフと灰色のハイネックを覗かせた女性が立っていた。冷たい風に当たっているせいか、白い肌が紅潮し、目が涙ぐんで見える。虚を衝かれて動揺した猫さんは、言葉を返すことができなかった。それがどういう場面であれ、状況であれ、虚を衝かれるというのはあまり気持ちのいいものではない。彼は、声をかけてきたこの同僚の女性を意識していたし、それゆえ避けていたから、なおさらだった。

猫さんは大学を卒業すると目黒線——当時は目黒と蒲田を結んでいたので目蒲線と呼ばれていた——の沿線に引っ越したので、目黒駅の改札口を通り抜ける彼女の後ろ姿を何度か見かけることがあった。しかし、声をかけることはなかった。それどころか、彼女の後ろ姿に気づくと同じ電車に乗らないように、必要もないのに駅の売店——当時はまだキオスクという呼称は定着していなかったし、そもそもJRではなく、歴とした日本国有鉄道であった——でガムを買ったり、週刊誌を買ったりしていた。

二人の勤めている会社は、出版社としてはそんなに大規模な会社ではなかった。出版しているのは国語と英語と美術の教科書だけだったから、営業部を除いた編集部にかぎっていえば、そんなに大人数ではなかった。猫さんは国語のセクションに配属され、彼女は美術の担当だった。ただし、彼女は二年先輩だった。しかし、年齢は同じだった。彼女は四年制の美術大学を順当に卒業し、猫さんのほうは中学を卒業するのに四年かかり、高校は三年で卒業したが、大学は一年留年したのである。

会社は三階建ての社屋で、二階のフロア全体が編集部になっていた。部署は簡単なパーティションで区切られていた。当然のことながら、狭い給湯室のなかで顔を合わせることもあるし、コピー機の前で譲り合うこともある。当然のことながら礼儀として、頭を下げるし、精一杯の笑顔を作ることにもなる。

彼女の目は大きくもなく小さくもなく、二重でもなかった。しかし、日本人には珍しい薄い鳶色の目をしていた。そして一七〇センチ近い背丈があった。これは当時——七〇年代——の女性としては、大女の部類に入った。

男性社員の誰もが、まぁ美人なんだろうけど、と言葉を濁した。虹彩が薄いのも、背が高いのも、おそらく日本人の男の大半が敬遠したくなる身体的特徴なのだろう。しかも、本人に悪気はないのだろうが、彼女には相手の目をじっと見つめる癖があった。

彼女は背が高いから社のどこにいても目立った。すれ違いざまに目が合うと、彼女はかすかにほほ笑み、目を逸らさなかった。おそらく誰に対してもそうしていたのだろうが、猫さんは否応なく彼女を意識した。意識すればするほど、距離を保とうとした。

猫さんが懸命に彼女を避けようとしていた理由はもうひとつある。べつにもったいをつけるほどの理由ではなく、ようやく手に入れた独身生活——親から経済的にも精神的にも完全に独立した生活——をもっと楽しみたかったのである。ガールフレンドがほしいとは思わなかった。はっきり言えば、様々な理由が重なって女性を恐れていた。その理由をほじくり出して、あれこれ分析したり反省したりするのは、彼の性分には合わなかった。面倒だから遠ざける。それでいいではないかと思っていた。

彼が大学を卒業するのに五年かかったのは、いわゆる学業と生活の両立は、やはりたいへんだったのである。一年分余計にかかった学費は親に負担してもらうしかなかった。そういう親に対する負い目からようやく解放されたばかりだったのである。

それに加えて、学生時代の四畳半一間、トイレは共同、風呂は銭湯という暮らしからも自由になりたかった。目黒にある出版社に就職することが内定したとき、猫さんは目黒線沿線の不動産屋を小まめに歩いて回った。最低でも六畳間と台所、浴室とトイレもほしかった。駅まで多少遠くても、歩いて通えるのであればよしとした。新築でなくとも、しっかりとした造りのアパートを探していると不動産屋には告げた。

そして探しはじめて半月もしないうちに、その条件に適う物件が出てきた。目黒駅から二駅の武蔵小山、駅まで歩いて十分、背後には林業試験場の跡地を整備したばかりの広大な公園が広がる。部屋は八畳、もちろん台所もバス・トイレも付いている。想定していた上限よりもいくらか高かったが、初任給は学生時代にアルバイトで稼げる額の二倍ほどだったから、家賃が高くなっても、それなりにやっていけると計算できた。自炊には慣れていたし、もう学校には行かなくていいのだから、これはほとんど天国ではないかと、学生時代に生活のやり繰りで苦労した猫さんはその場で足踏みしたいほど喜んだのである。この幸福をたった半年、一年で放棄してなるものか。

彼女の名前は波多野庸子という。新入社員として、編集部のひとりひとりに挨拶して回ったときに渡された名刺に印刷されていたこの名前を、猫さんは容姿とともにすぐに記憶した。しかし、モズの大群を目黒の上空に初めて見た日、初対面とは言わないけれど、会社の外で二人きりで顔を合わせるのは初めてなのに、彼女は相手を「猫柳くん」と呼んだのである。後にも先にも、学校の女性教師以外から、くんづけで呼ばれたのは初めてだった。猫さんにしてみれば、相手から一気に距離を詰められ、主導権を奪われたということになる。そういう展開は——男としては——好ましくなかったし、できれば避けたかった。

——これから帰るの?

彼女はいきなりそう尋ねてきた。猫さんはいささか面食らった。先輩風を吹かせたいのか、とも思った。

——いや、ちょっと、本屋に寄ってから……。

嘘ではなかった。早めに帰れるときには本屋に寄るのが、彼のお決まりのコースだった。駅ビルのなかに小さな本屋が入っていて、月末の給料払いでツケにすることもできた。猫さんは当惑したまま歩き出し、そのまま改札口の前を通り、駅ビルの反対側に位置する本屋に向かった。彼女は無言で後ろからついてきた。猫さんは本屋に入ると、文芸誌や囲碁・将棋の月刊誌が並ぶ棚のほうに進んでいった。彼女はモードや映画の雑誌が並ぶ反対側の棚に回った。五分ほど雑誌のページをめくってみたものの気分が落ち着かないので、同年代の若い雇われ店主に会釈をすると店を出た。彼女もあとを追うように店を出て、そのまま二人は改札口を通り抜けた。

言うまでもなく目黒線は目黒駅が始発なので、同じプラットフォームに並ぶことになる。猫さんがいつもの位置に立つと、当然のように彼女も隣に立った。列車が入ってくると、同じ車両の同じドアから車内に入り、並んで吊革を握った。猫さんが避けたかった展開である。無言が続いた。二人ともまっすぐ前を見ていた。外はすでに暗くなりかけていた。並んで立っている二人の姿が窓に映っている。二駅はほんの一瞬である。このまま無言を押し通すわけにはかないと思っていると、彼女のほうが先に沈黙を破った。

——夕食はいつもどうしてるの?

彼女はまっすぐ前を見たまま、そう言った。猫さんは返事に詰まった。馴れ馴れしいというより、順序を一つか二つ飛ばしている。電車のなかで初めて隣り合わせた場合、どこで降りるのかとか、どこに住んでいるのかとか、ふつうそういうことを先に訊くものだろう。つまり、彼女もまた彼が目黒線で通勤し、二駅目で降りるということをすでに知っていたということだが、そんなふうに筋道を立てて考える余裕は彼のほうにはなかった。

——自分で適当なものを作って食べてるけど。

——自炊しているんだ。

そしてまた会話は途切れた。窓に映る彼女が猫さんを見ていた。電車はすでに不動前駅を過ぎて、武蔵小山に向かっていた。

——僕は次で降りますけど?

——次の洗足に行きつけのお店があるんだけど、どうかしら?

彼女が隣の駅から通勤しているということを、猫さんはそのとき初めて知った。まるで自分が誰かに監視されているような気持ちになった。彼女は、真横にいる猫さんの顔を覗きこんだ。ほほ笑んではいたが、真顔だった。

二人は結局、駅の近くの、おかみさんがひとりでやっている京都のおばんざい屋風の店に入ることになった。

ずっとあとになってから、猫さんがのちに奥さんとなる彼女の口から聞いた話であるが、彼が入社してきた第一日目に、わたしはこの人と結婚しようと思ったというのである。

男にとっては空恐ろしい話であるが、この話を聞かされたとき、自分の人生は自分ではどうにもならないものだということを彼は観念した。誰しもそうではないかという意見は正しい。しかし、正しい意見はにわかには信じられない。正しい意見はわかりやすいだけだから。そして、この世にわかりやすいものなど一つもないというのが、還暦を過ぎて生まれ育ったところへ帰ってきた猫さんの感慨であった。

*74 閑話(esq.08)

①心静かに話すこと。ゆったりとした気持ちで話すはなし。閑談。
②内容に重きをおかない話。むだばなし。雑談。
 精選版・日本国語大辞典(小学館)

二十世紀の終わり頃——ということはつまり四半世紀まえの話、ついこないだ終わりを告げた平成が始まったばかりで、私が三十から四十の峠を越えようとしていた頃、次から次へとなりふり構わず引き受けた翻訳と血眼になって格闘していた当時のこと——、仕事の傍らで夢中になって読んでいた小説がある。

藤沢周平の時代小説だ。

まさにはまるとはこのことかと、みずからあきれるほどはまってしまって、たぶん文庫版のほとんどを読んだはずだ。きっかけは『蝉しぐれ』という題の長編小説だった。たしかこの作品の文庫版の書評が朝日の夕刊に載っていて——評者は秋山俊——、さっそく買い求めて読みはじめたら止まらなくなったのである。一作を読み終えたら、すでにそのときこの作家の紡ぎ出す物語の虜になっていた。

作品紹介をしようというわけではないので、細かいことは省く。牧文四郎という下級武士の家に生まれた青年が藩の政争にもみくちゃにされながら成長していく物語である。

ふくという名の幼なじみが登場する。文四郎の初恋の相手である。文四郎は切腹して果てた父の遺恨を背負い、ふくは藩主の側室となり、両者とも悲運に翻弄されて人生を歩むが、長い歳月が経過して、藩主亡き後、出家して尼僧となることを決意したふくは、文四郎と再会することを願う。

その再会の席で、ふくは文四郎に言う。

「ふくが文四郎様のお側で生きる道はなかったのでしょうか」

この言葉どおりだったか、文四郎がそれにどう応じたか、じつは心許ない。というのはさっき、原作を確かめなくてはと思い、本棚を調べてみたのだが、どういうわけだか『蝉しぐれ』だけ見つからないのである。これだけのロングセラーだから、図書館か最寄りの本屋にでも行けば、すぐに確認できるはずだが、あえてこのままにしておきたい気分なのである。

馬で帰路につく文四郎に降りそそぐ、耳を聾さんばかりの蝉しぐれ、それは読者の心に永遠に鳴り響いてやまない。

*69(esq.03)では、「これは猫さんが恋をする話である」と書いた。次の*70(esq.04)では「この物語は、書き手の気まぐれによって命名された人物が、私とは何か、私はどこから来たのか、誰を愛しているのか、問いを重ねていく物語である」と書いた。

初めから、そんなことを想定していたわけではない。ほとんどやけくそのように、猫柳香という名前が頭に浮かんできたとき、物語は勝手に始まったのである。猫さんが医者に鬱病と診断される場面も突然降ってきた(原形は*20の「診察室」にある)。

この断片を書き終えたとき、はっきりと、初恋(ファーストラブ)が終の恋(ラストラブ)になり、核融合のようなエネルギーを爆発させる、そんな物語にしたいと思った。人生を歩むエネルギーは核分裂のようなものかもしれない。だから終わりくらいは融合させてみたい。それはおそらく小説のなかでしか実現できないだろう。

始まったばかりで、文字どおり海のものとも山のものともしれない物語をみずから解説する愚は避けたい。七〇年代を生きた文学青年のあいだで、ほとんど伝説と化した堀川正美の白鳥の歌、「新鮮で苦しみおおい日々」全篇をここに書き写しておくことにする。

 

時代は感受性に運命をもたらす。

むきだしの純粋さがふたつに裂けていくとき

腕のながさよりもとおくから運命は

芯を一撃して決意をうながす。けれども

自分をつかいはたせるとき何が残るだろう?

 

恐怖と愛はひとつのもの

だれがまいにちまいにちそれにむきあえるだろう。

精神と情事ははなればなれになる。

タブロオのなかに青空はひろがり

ガス・レンジにおかれた小鍋はぬれてつめたい。

 

時の締切まぎわでさえ

自分にであえるのはしあわせなやつだ

さけべ。沈黙せよ。幽霊、おれの幽霊

してきたことの総和がおそいかかるとき

おまえも少しぐらいは出血するか?

 

ちからをふるいおこしてエゴをささえ

おとろえてゆくことにあらがい

生きものの感受性をふかめていき

ぬれしぶく残酷と悲哀をみたすしかない。

だがどんな海へむかっているのか。

 

きりくちはかがやく、猥褻という言葉のすべすべの斜面で。

円熟する、自分の歳月をガラスのようにくだいて

わずかずつ円熟のへりを噛み切ってゆく。

死と冒険がまじりあって噴きこぼれるとき

かたくなな出発と帰還のちいさな天秤はしずまる。

*73 夫婦のこと、親子のこと(esq.07)

*5

 

猫さんの奥さんと、猫さんの母親は仲がよかった。まるで血のつながった親子のように。いや、その譬えは違うのかもしれない。実の親子というものは、そもそも仲がよくないものではないのか。自分自身が父親に対しても、母親に対しても、そしてその関係に対しても齟齬と葛藤を抱えて成長してきた猫さんはそう思うのである。

でも、それもわからない。誰しも余所の親子の愛のかたちなど窺い知れるはずもないし、自分の家族については距離が近すぎて、誰しもよく見えないものであるだろうから。仲のよい親子というのもあるだろうし、仲のよい嫁と姑というのも世間にはごくふつうに存在するのかもしれない。

とにかく、猫さんの奥さんと母親は仲がよかった。最初から気が合ったというのではなく、年を追うごとに、歳月を重ねるにつれて、親密さの度が増していき、最後には共犯関係のような壁さえ築かれて、夫であり息子であるはずの猫さんさえ容易に立ち入ることのできない二人だけの世界が醸成されていったのである。

猫さんは、それに違和感を覚えながらも、妻と親が仲良くしてくれるのは基本的にはありがたいことだったし、妻からも母親からも鬱陶しい干渉がないのはむしろ救いであった。

猫さんは高等学校を卒業して大学に入ったとき、両親の家を出た。学費は親が出してくれたが、生活費は自分で働いて稼いだ。アルバイトと学業の両立はたいへんだったでしょうと人によく言われるのであるが、猫さん本人はそんなにたいへんだと思ったことはなかった。それよりも親の家を出て、自立した生活を送ることのできる喜び、解放感のほうが圧倒的に大きかった。

猫さんは一人っ子であった。だから、その分だけ親の干渉、とくに母親の干渉が大きかったのだろうと誰もが想像するだろうけれど、猫さんが家を出た理由はそこにはなかった。奇妙な言い方になるけれども、父と母の絆が強すぎて、水入らずの家族であるはずの空間に自分の居場所が見つからなかったのである。

しかし、奇妙なのは自分のほうかもしれない、と猫さんは最近思うのである。両親と死に別れ、妻とも死に別れ、半世紀以上暮らしてきた東京を離れ、幼少期を過ごした土地に戻ってきて、あらゆるものと距離を置いて振り返ってみたとき、自分の感受性のなかに、いつのまにか自分自身を群れや集団から孤立させてしまう何かが潜んでいるのかもしれないと思うようになったのである。

猫さんの父は哲学者であった。朝から晩まで考えている顔をしていた。文字どおり無口であった。ほとんど何もしゃべらなかった。生活に関する一切合切、すべて妻に任せっきりであった。衣食住にまつわる好き嫌い、趣味、嗜好、そういうものにいっさい関知しなかった。すべて妻が選択し、それに異を唱えることはなかった。もしかすると、自分が今何を食べていて、何を着ているのか、それさえわかっていなかったかもしれない。生活に関しては、すべてが上の空であった。妻が肉体で、彼は頭脳であった。頭脳は肉体の一部にすぎず、肉体に依存しているくせに、肉体の中心にいて、肉体に指令していると勘違いしている奇妙な細胞集団である。

猫さんには、父と会話したという記憶がない。そのあるかないかの父と子の会話さえ、妻であり母である存在が代行していた。猫さんの母親は自分の夫の世話で精一杯であった。息子のことにまで気も手も回らなかった。

だから、すべてにわたって猫さんの父親は息子の反面教師であった。物心ついてからは——正確に言えば、中学生になって東京に出て来てからは——身の回りのことはすべて自分でやった。着るものは小遣いのなかから自分で買い、自分で洗濯し、アイロンが必要であれば自分でかけた。気むずかしい父の世話で神経をすり減らしている母の手を煩わせたくなかった。いや、母の世話になりたくなかった。高校生になって、生活のリズムが両親のそれと合わなくなり、ずれるようになると、食事も自分で作るようになった。母が台所に立っていない隙をぬって、弁当を作り、夜食を作った。

だから、大学に入り、自活するようになったとき不便はいっさい感じなかった。夜のアルバイト——居酒屋の店員であるとか、夜間の土木工事であるとか——で疲れた身体を引きずって学校に通うのはなかなか辛いものがあったが、睡眠不足はキャンパスのベンチで補うことができたし、勉強や読書は講義のない教室や図書館ですませた。四畳半のアパートはただ寝るだけの場所だった。

自分は自由だと感じられるとき、人は思いがけない力を出せる。逆に人に強いられて何かをするとき、そこには計り知れないエネルギーロスが生じるというのが、猫さんの生活信条であった。

大学を卒業して就職した先は教科書の出版社だった。文学部を出て就職できる先は限られていた。教職の免状を取得して教員になるか、新聞社か出版社に勤めるか、猫さんが思い描ける就職先はそれくらいしかなかった。教員にはなりたくなかった。理由は単純明快、父親が教員だったからだ。北海道では高校教師、東京に出て来てからは某女子大学の教授。教師にだけはなりたくなかった。新聞社も自分には向いていないと思った。誰かに会って取材したりインタビューしたりしている自分が想像できなかった。残るは出版社しかなかった。

父親が大学教授だったから、家の中は本で溢れかえっていた。書斎はもちろんのこと。玄関にも廊下にも本が積んであった。猫さんが家を嫌い、教師を嫌う理由は、この山のような本のせいかもしれなかった。しかし、血筋は争えないというべきか、猫さんも読書家であった。ただし、哲学書は読まない。読んだのはもっぱら小説であり、詩であった。猫さんの寝室もまた、本で溢れかえっていた。

一人暮らしをはじめたとき、これらの本を全部、四畳半のアパートの一室に運びこむことは不可能だった。けれども、実家の自分の部屋に本を残して出たくなかったので、古本屋を呼んで大半を処分した。四畳半の部屋に持っていくべき本を本棚一つに限定し、選別する作業はことのほか辛かったし、時間もかかった。迷ったら捨てるという原則を貫いても、本棚一つには収まりきらなかった。

出版社は何社か回った。猫柳という名前が珍しいので、まずそれが面接担当者の目を惹いた。父の名を知っている編集者もいた。「ひょっとして、あの哲学者の猫柳亮先生の息子さん?」父の名が出ると、猫さんの気持ちは萎えた。できれば父の重力圏の及ばないところに行きたかった。

そうして数社回り、最後にたどり着いたのが教科書の出版社だった。そこの面接担当者もまた猫柳亮の名を知っていた。しかし、哲学者としての父ではなく、高校教師だったころの父を知っている人だった。

——高校の先生にしてはとてつもない学識を持った人だと思っていたけど、やっぱり収まりきらなかったんだね、と言って、その人は遠くを見るような目つきになった。若いときは、北海道を回る営業マンだったと懐古した。教科書というのは地区で一括採用される出版物なので、採用されると大きな数字になる。だから、各社の営業合戦が激しい業界でもある。

——それとね、やっぱり色男だったよな。研究者気質なんだけど、色気があった。

この「やっぱり」は何を意味するのか、と猫さんは訝った。しかし、高校教師だった頃の父を知っている人に初めて出会ったことが、猫さんの心を揺すぶった。もう少しこの人の話を聞きたいと思った。

——父とはどういうお付き合いだったんでしょうか? と尋ねてみた。

——ごくふつうの教科書会社の営業マンと教科の担当の先生との、年に一度か二度のお付き合いにすぎないけれどね。猫柳先生は絶対に接待を受けない人だったから、そのお付き合いも難しいのだけれど、見識は抜群だから、編集部からも教科書の出来栄えについてよく話を聞いてきてくれと言われたし、教育委員会の教科書選定会議でも鶴の一声じゃないけど、影響力があったからね。

猫さんはそんな話には惹かれなかった。堅物の親父のことなら自分が一番よく知っている。気になるのは、さっきのあの「やっぱり」だ。しかし、新入社員を採用するための面接の席で、これ以上突っこんだ質問を繰り出せるわけがなかった。ここに入社すれば、話の続きが聞けるかもしれないと期待したわけではないが、何か因縁じみたものは感じた。そうしたら後日、出版社から猫さんのアパート宛てに採用通知が送られてきた。別にいいじゃないか、ここで。猫さんに迷いはなかった。

そして、この会社で猫さんは、のちに奥さんとなる女性と出会ったのである。

*72 猫の記憶(esq.06)

文字は石にきざまれて、そこに残る。

声は風にのって、空に消える。

石は風にけずられて砂となり、

砂をはこぶ風の行方は風にもわからない。

 

*4

 

猫さんはテレビを見ている。チャンネルはBSのどこか。景色はスコットランドのどこか。青々とした牧草地がどこまでも広がっている。たくさんの犬たちが草原を走り回り、跳ね回っている。大型犬もいれば小型犬もいる。微風に乗って滑空するフリスビーを追ってジャンプし、空中でキャッチするシェトランド・シープドック。遠くに放り投げたテニスボールを追って疾走するディアハウンド。燦々と降りそそぐ日の光を浴びて草むらに横たわるゴードン・セッター。近景にも遠景にもまだまだたくさんの犬たちが走り、じゃれ、跳躍している。

スコットランドのトップブリーダーと称される女性が画面に大写しになっている。赤みがかった金髪をポニーテールにしている。化粧っ気はなく睫が長い。肌は小麦色、見るからに健康そうだ。中背で細身だが、鍛えられた身体であることは、ワークシャツの肩を盛り上げている筋肉の張り具合からもわかる。ゲール訛りの英語のせいか、画面の下に字幕が出ている。日本語吹き替えの合間から聞こえてくる本人の肉声はアルトだ。

——犬というのは、人間が狩猟生活を集団で行うようになったころから人間とともに生活してきました。虚弱で野性の生活には不向きで親から見捨てられた狼の仔を拾ってきて、人間の群れのなかで育てたのがはじまりだと言われています。だから犬はとても依存性が強いんです。人間にとてもよく似ています。犬が躾けやすいのはそもそも人間に似ているからです。似た者同士なんです。猟犬、牧羊犬にはじまり、近代に入ってからは盲導犬、警察犬、麻薬犬など、様々な分野で彼らは人間とともに働いてきました。それは今も変わりません。でも、圧倒的に増えたのが愛玩犬です。それとともに圧倒的に悲劇も増えました。事故、病気、そして虐待です。犬もときとして牙を剥きます。人間だって暴力をふるいます。彼らは動物です。人間も動物です。でも、動物だから暴力をふるうのではありません。人間だから暴力をふるうのです。犬が突然人間に噛みつく。その理由はさまざまです。言えることはひとつだけです。適切な距離を保つこと。スキンシップは大切です。でも、だらだらと節度なくいつまでもくっついているのはよくありません。人間にとっても犬にとっても。私たち人間が成熟しなければいけません。犬を依存性の強い生き物にしてしまったのは、私たち人間です。人間にはその責任があります。人間とともに生きてきた犬たちは、まさに人間の鏡です。彼らは幸福なんだろうかと私はときどき思います。同時に、私たち人間は幸福なのだろうかとも思います。

カメラが女性の顔から逸れて、遠くで草を食んでいる羊の群れをパーンしていく。その手前には元気に飛び跳ねている犬たちがいる。空の雲が画面の左から右に向かって流れていく。

猫さんがこの番組を見たのは、ずいぶん昔のことだ。たしかBS放送がはじまって間もなくのころではなかったかと見た本人は思っているが、ビデオに録画したわけでもないので証拠はない。記憶だけはくっきりしている。そのころのBSでは、海外の放送局が制作した番組がよく流れていた。スコットランドの女性ブリーダーが登場した番組はBBCの制作ではなかったか。これもまた猫さんの記憶に属することで、確証はない。

猫さんが見るテレビ番組は、ニュースを除けば、野生の動物たちの生態を特集したドキュメンタリーが多い。ドラマや音楽番組はあまり見ない。いわゆるバラエティのたぐいはまったく見ない——と本人は言っている。録画することはないので、そのための装置もない。猫さんが鮮明に憶えているもう一つの映像がある。これも野生の動物を映したものだが、どんな番組だったか、地上波だったか、BSだったか、それさえも忘れて、映像の断片だけが残っている。

登場するのは犬でも猫でもなく、キタキツネの親子だ。キタキツネが登場するのだから北海道の風景であるが、猫さんがこの映像を見たのはこちらに帰ってきてからではなく、東京である。例によって、いつごろ見たのか、どこで見たのか——自宅か、どこかの店内か——、まったく記憶にない。映像だけが残っているのである。

真っ向から吹きつける猛烈な地吹雪のなかを、キタキツネの親子が歩いていく。画面はほぼ真っ白である。中央にぽつんと二つ黒っぽい点が見えるだけ。遠景にはカラマツの防風林らしきものがぼんやりと映っている。北海道のどこかの畑だろう。あたり一面雪に覆われ、なおかつ吹雪のせいで地形も何もわからない。これでは地方を特定することなどできない——いや、番組ではたしかナレーションが入っていたはずだが、猫さんの記憶からはすっぽり抜け落ちている。

カメラが中央の二つの黒い点をズームアップする。尻尾が長く太いからキツネであることがわかる。顔面をまともに襲う吹雪をさけるために前屈みになり、前脚を踏み出すたびに少し埋まり、引き抜いてはまた前に差し出し、また埋まる。それを四本の脚で繰り返す。見るからに重労働だ。どこから来て、どこに向かうつもりなのか。画面に映し出だされているのは、荒れ狂うホワイトアウトの世界だ。

餌を求めて? いや、こんな吹雪のなかを移動するくらいなら、どこかの林のなかでじっと息を潜めていたほうがいい。移動しているうちに猛吹雪に遭遇した? そうかもしれない。

後ろの一匹が埋もれて立ち止まる。やや小柄に見えるから、子狐かもしれない。それに気づいた母狐——たぶん——が立ち止まり、振り返り、そして二、三歩戻り、鼻先を相手の鼻先に近づける。子狐は力を振り絞り、前脚を踏み出し、後ろ脚を抜き、また前に歩きはじめる。

後ろの子狐は徐々に遅れていく。そしてまた雪に埋もれる。母親がまた戻っていく。自分の鼻を子の鼻に近づける。何度も何度も。そして顔を上げる。その間、二秒か三秒。母親は吹きつける地吹雪のほうに顔を向け、子供から立ち去っていく。

画面は固定されている。母親は画面の中央から左に向かって歩きつづけ、やがて画面から消える。カメラはそのあとを追わない。ホワイトアウトのなかに、ぽつんと小さく黒い点が残る。

その映像を見終わったあと、猫さんはあれこれ想像した。母親は子供のところに戻ると、二、三秒、鼻を近づけた。あれはまだ歩けるかどうか確認していたのだろうか。それとも死んだわが子を弔ったのだろうか。でも、むしろ猫さんが気になったのは、その二、三秒のあいだに母親が何を考えたか、何をしていたかではなく、そのときたしかに時間が止まっていたように感じられたことだった。

時間が止まっていた? いや、その間も吹雪は舞い、母狐は鼻先を動かしていたではないか。時間が止まっているように感じられたのは、おまえが息を詰めてその場面を見ていたからではないのか。猫さんは自問自答する。

いやいや、そうではない。

どっちも、違う。

時間は同じように動いていたのでも、止まっていたのでもない。

あの瞬間——二、三秒のあいだ——、時間は加速して、重みを増したのだ。

自分はそれを経験したと、猫さんは思っている。奥さんが病院のベッドで絶命する寸前の、二、三秒間、時間は止まったのではなかった。時間は急激に加速して、ブラックホールに吸い込まれていくように、死の井戸に落下していったのだ。猫さんもまた、その死の井戸に吸い込まれるようにして——キタキツネの母親がわが子の鼻先に鼻を近づけたように——奥さんの顔を覗きこみ、叫んだのだ。

——おーい、いっちゃうのか、と。

その声もまた井戸に吸い込まれていった。

彼女の意識も消えた。記憶も消えた。肉体も焼かれて消えた。

けれども、猫さんの記憶のなかに、彼女の姿、彼女のしたこと、語ったこと、書き残した言葉のいくつかも残っている。

でも、それは脳のある一部分——海馬とか呼ばれているところ——に刻まれたものだろうか。

長椅子の横で丸くなって寝ているネコの眉間を撫でながら、猫さんは思うのだ。

彼女が今ここに現れたら、ネコはきっと驚き、二、三秒とまどい、そして彼女に擦り寄っていくだろう、と。たとえ匂いもなく、声もなく、姿さえ見えなくても。

*71 猫は丸くなって眠る(esq.05)

*3

 

猫は炬燵で丸くなるという童謡の一節もあるし、そもそもネコの語源は寝る子から来ているという説もあるし、猫がよく寝るのはむしろ健康な証拠なのかもしれないが、老齢の猫がひたすら朝から晩まで寝ているのを見ると、心配になってきたりもする。

猫さんのところのネコも、じつによく眠る。朝になると餌をねだりにやってくるが、一口二口食べるとまた寝てしまう。もっとも最近は、ペットショップに行っても、ペットクリニック——昔は犬猫病院と言ったものだと、還暦を過ぎた猫さんは思うのであるが——に行っても、餌とは言わない。はい、はい、いつものネコちゃんのお食事ですねと言う。その度に猫さんは、餌と言ってはいけないのかと訝るのだが、声には出さない。偏屈じいさんとは思われたくないからである。生まれ育った故郷に帰ってきたというのに、知り合いがほとんどいないせいか、よそ者感が強い。その分だけ変人扱いされたくない。息を詰めてというほどのことはないが、できるだけ目立たないようにしている。

なんのために帰ってきたのかと、猫さんはときどき思うのである。

朝の五時頃、ネコは主人を起こしにやってくる。猫さんは布団のなかには入っているが、たいていは目が覚めている。小学校の同級生だった精神科医に睡眠薬代わりの抗鬱剤を処方してもらってからは、一時、二時に眼がぱっちり開くことはなくなったが、年齢のせいか、朝はあいかわらず早い。

ネコがやってくるのを合図に起き上がり、処方食の餌——尿路に結石がたまりやすい体質なのである——を与えると、猫さん本人はトイレに入って用を足し、顔を洗ってから布団を上げ——ベッドは落ち着かないので、若いときから布団を敷いて寝ている——、電気剃刀で髭をあたり、乾いたモップで床を軽く拭き、オーディオ装置やデスクの上にほんのうっすら積もった埃を静電気除去布巾とかいう代物で拭き取り、革張りの長椅子——ソファという呼称はいまだに馴染めない——に腰かけて新聞を読む。するといつのまにか、ネコが隣で寝ている。

いつもほとんど同じ姿勢である。右前脚で後ろ脚を抱えこむようにして丸くなり、左前脚をアイマスク代わりにして眼のあたりを覆う。まるで眠りを抱えこんでいるようだと猫さんは思う。

最近はよく寝るだけでなく、よく鳴くようになったとも思う。しかも、犬の遠吠えのように、遠いところにいる誰かを呼んでいるのかとも思えるような野太い声で鳴くのである。もらってきた当初は、か細い声を出すどころか、まったく鳴かなかったのに。それに最初に気づいたのは、猫さんの奥さんだった。

——ねぇ、ひょっとしてこの子、鳴かないんじゃないかしら。

——鳴かない? 鳴くだろ?

——あなた聞いたことある?

そう言われてみると、聞いた覚えがない。

——そのうち鳴くだろ。

——仔猫って、ふつうミャーミャーかわいい声で鳴くものでしょ。変よ。

というわけで、近くの犬猫病院——ペットクリニックではなく——で診てもらうことにした。

——鳴かない?

若い獣医さんは明らかに当惑している。猫さん夫妻も当惑しているので、頷くことしかできない。
——ぜんぜん?

また頷く。若い獣医さん、診察台の上に籠ごと乗せられた仔猫のネコを覗きこむ。ウンともスンとも、ミャーともシャーとも言わない。ただプルプル震えている。獣医さんに怯えているようにも見えるが、春先に猫さんのところにやってきてから、ずっとプルプル震えているのである。体が虚弱なのかもしれないし、あちこち引き回されて怯えが常態になっているのかもしれない。

——そのうち鳴くでしょ、というのが若い獣医師の出した結論であった。猫を飼ったこともない素人の考えと変わるところがなかった。帰り道、仔猫用の小さな籠を胸にそっと抱きしめながら、猫さんの奥さんは明らかに不満そうだった。

——彼女にきいてみる。

彼女というのは、多摩川縁に住む篤志家の女性のことである。捨て猫を拾ってきては里親を見つけるまで育てるという手間も費用もかかる仕事を善意で続けている人なのである。ヴォランティアと呼ぶ人もいるが、猫さんは篤志家という。

いずれにせよ、猫さんの家にやってきてネコと名づけられた猫は、この女性が多摩川縁で拾ってきた捨て猫だったのである。たまたまその篤志家の奥さんと猫さんの奥さんが、自然食品の学習会とか称する主婦の消費者運動を通じて知り合いになり、うちに今、仔猫の兄弟が二匹いて、もらい手を探しているんだけど、とかいう話になったのである。

——ねぇ、ねぇ、今度の土曜なんだけど、見に行かない?

どういう風の吹き回しか知らないが、声がはしゃいでいた。それまで猫さんの奥さんは、犬にせよ猫にせよ、小鳥にせよ金魚にせよ、ペットを飼いたいと言ったことなど一度もなかったのにである。

猫さんにしてみれば、猫が猫を飼う、照れくさいような、シャレにもならないというような気持ちがつきまとう。そして何より、誰にも言ったことのない秘密に属する事柄なのだが、猫柳という名前で、幼いころから猫という愛称で呼ばれてきたのに、じつは猫さん、犬が好きだったのである。

とりわけ大型犬に、どういうわけか、無性に惹かれるのである。ゴールデンリトリバーでも土佐犬でもいいし、シェパードでもドーベルマンでもいい。セントバーナードになると、通りを散歩しているのを目にするだけで抱きつきたくなってしまうのである。

それなのに猫を飼う。あまり気乗りがしないだけでなく、不吉な予感のようなものもあった。あとから思えば、というようなこじつけではなく、何かがまずいほうに流れ出していると感じたのである。

ならばはっきりと奥さんに、猫を飼うのはよそうと言えばよかったじゃないか、と誰しも思うだろうが、そういうときにかぎって、猫さんは何も言えないのである。人任せにしてしまう。どっちでもいいさとか、どうせ大差ないだろうとか、自分の気持ちをごまかしてしまう。

人生の一大事であっても。

そして、猫さんの人生における唯一の決断が、自分の生まれ育った町に帰るということだった。還暦を過ぎてから、このままだと手遅れになる、なぜかそう思ったのである。

ネコ——猫ではなく——の話に戻そう。とにかく、その週の土曜、猫さんと奥さんは多摩川縁に住む篤志家さんを訪れたのである。せっかくお越しいただいたのに、家のなかは犬と猫だらけなので、おかまいもできませんが、と言って差し出されたのは、小さめの段ボールに入れられた二匹の仔猫だった。

この二匹は見るからに対照的だった。まず柄が違う。一方は大きな白黒の丸い模様に覆われている。一方は背中の部分が濃い茶色の毛で覆われていて、よく見ると濃い茶色と黒の縞模様になっている。一方はすでに大きく育ち、動きも活発で、か細いけれども通る声で、さかんにミャーミャー鳴いている。縞模様のほうは白黒よりも小さく、段ボールの隅に小さくうずくまり、プルプル震えている。

——これ、兄弟ですか?

猫さんの奥さんが、思わず質問した。

——いっしょに捨てられていたから、とりあえず兄弟ということにしてあるけど、ほんとうのところはわからないわね、と篤志家の奥さんは言う。ただし、野良猫が産んだ子だとすると、同じ腹から生まれてきても、まったく柄が違うことはよくあることだという。篤志家の奥さんは、できれば二匹とも連れていってもらえるとありがたいですけど、と言って、大きな笑顔をつくる。

——それはちょっと無理よね。

猫さんの奥さんは旦那さんのほうに目を向ける。猫さんは躊躇なく頷く。そもそも飼うと誰が決めたのか、というのが本音である。

——それならば、せめてどちらか一匹でも。

家のなかにはもう置き場がないのだと奥さんは嘆く。おまけに病気の猫も最近増えてきて——エイズの猫もいるらしい——、それを隔離するためのスペースも必要だという。

——人間の寝場所を確保するのがやっとなの、と言って、奥さんは大きな声で笑った。

これでもらわずに帰ったら、鬼だと罵られそうである。

——ねぇ、どっちにする?

猫さんの奥さんはすでにどちらか一方をもらっていく心づもりでいるらしい。困ったことになった。飼うこと自体、気乗りしないのに、この対照的な猫のどちらかを選べというのは、ほとんど究極の選択ではないか。というのは、猫さんは大きな白黒の丸い模様がついたほうを見たとたん、これはない、と思ったのである。丸い模様がなんとなく気に入らなかっただけでなく、動きが活発で、ミャーミャー——むしろピャーピャーに聞こえる——鳴く様が、うるさいというよりも、性格が自分本位で意地汚い印象を与えたのである。むろん言うまでもなく、猫さん個人の感想である。

それに比べて、背中が縞模様になっている小柄なほうは、大柄なほうに——たぶん兄だろう——比べると華奢だし元気がない。見るからに虚弱そうだ。でも、こっちのほうが美しいと猫さんは思ったのである。

健康だが醜い猫と虚弱だが美しい猫がいる場合、ふつう世間一般はどちらを選ぶだろうか? まるでグリム童話か日本昔話に出てくる話のようではないか。こういう場合、心優しい飼い主は虚弱だが美しい猫をもらっていって、精魂込めて大切に育て上げると、じつはその猫は王子さまの化身であったとか、飼い主が殿様に無理やり城に連れ去られていく朝に領内の全野良猫が結束して、殿様の家来たちに襲いかかったとか、どんな物語も作れそうではないか。

——小さいほうにしよう。

そう言ってしまってから、猫さんは、しまったと思ったが、時すでに遅しであった。罠にでもかけられたような気がした。

そして、いつのまにか、鳴かない猫も鳴くようになった。頼りなさそうに見えた若い獣医師は正しかったのである。鳴くようになったのが、病院で診てもらってから一ヵ月後だったか、二ヵ月後だったか、猫さんの記憶にはない。記憶にあるのは、

——あら、この子、今、小さく鳴かなかった? という奥さんの言葉だけである。

あれから十五年も経つのか、と猫さんは背中の縞模様を誇示するように丸くなって寝ているネコを見つめながら思う。猫の年齢は四倍か五倍すると人間の年齢に相当するらしい。とすれば、このネコはおれとほぼ同じ年齢ということになるではないか。こんなに長生きするとは思わなかったし、年を取れば取るほど、さかんに鳴くようになるとも思わなかった。

何百匹もの捨て猫を育てたあの多摩川縁の篤志家さんの見解では、生まれてすぐに捨てられた仔猫は鳴いて乳をせがんでも母親がいないので、鳴かなくなってしまうのだという。ならば、兄のほうの白黒はなぜあんなにも鳴くのか? 健康だからというのがその答えだった。犬猫病院から帰るとすぐに篤志家さんに電話した猫さんの奥さんがそう言っていたのである。弟のほうが虚弱になってしまったのは、餌を別々にやっても、食欲旺盛な兄のほうが弟の分まで食べてしまうからだとも。ほら見たことか、おれの直感は正しかったじゃないかと思い、本来なら猫は飼いたくなかったはずの猫さんは自分の見立てに満足した。

背を丸くして、猫にしては大きな寝息をたてて、すやすや寝ている丸い寝姿を見るにつけ、これがあの虚弱でプルプル震えていた仔猫とは思えないし、ネコ本人(?)にあの多摩川縁で過ごした幼年期の記憶があるとも思えない。

でも、ほんとうにそうだろうか、猫さんはときどき思うのである。丸くなって寝ている猫が抱いているのは眠りではなく、記憶ではないのか。

(つづく)

*70 メランコリー(esq.04)

 先日、このブログの愛読者(?)から、猫さんって、高橋さんのことですか、読んでいると高橋さんの顔が思い浮かぶんですけど、そんな読み方をしてもいいんですか、と尋ねられた。帯広の人である。
 いささか動揺しつつ、いいんです、と答えた。読者がどんな読み方をしようと、書き手は文句を言えない。こんなふう、あんなふうに読んでほしいという希望もない。ひとつのテクストが読者の目に触れたら、その時点で読者のものである、というのがわたしの物書きとしての基本的な考え方である。
 もっと踏みこんで言うならば、読書はそれ自体で創造的な行為であると思っている。そんなふうに考えるようになったのは、たぶん翻訳という職業のせいだろう。読むという行為は、俗に言う「行間を読む」ことにほかならない。空白から何かを読み取っているのである。書かれている文字は、空白を読み取るための手掛かりにすぎない。翻訳家は、空白を読み取ったのちに、それを書かれた文字の流れと形(原文)に沿って訳文という形を整えていくのである。
 この点を掘り下げていくと、翻訳をしているこの私、あるいは原文の作者とは何か、それは誰なのか、という悩ましい問いの迷路に入り込んでいくことになるが、ややこしい書き方はやめよう。
 この小説の場合——まだタイトルさえ決まっていない骨組みにすぎないけれども——、書き手はこのブログの制作者と同じ名前を持つ人間であり、小説の主人公は、その書き手が命名した猫柳泉という人間である。そういうごく単純な構図がまずある。猫柳泉という人物を造形していくにあたって、無からは何も作り出せないので、素材を書き手の人生や経験から借りてくることになる。だから、その意味では主人公は書き手の分身である。だから、主人公はようするにおまえのことかと問われれば、はい、そうです、と答えて、ごちゃごちゃ言い訳しないというのが書き手の潔さであるとも考えている。
 しかし、書き手が自分の書くことのすべてをコントロールしているとはかぎらない。というよりも、そんなことは不可能である。自分が何を言っているか、本当のところ、人はけっしてわからないものだから。
 誰も私とは何かとか考えて生きてはいない。そんなことを考えながら生活を営むことはできない。しかし、この人生において、何かに躓いたとき、何かの事故に、何かの事件に遭遇し、巻きこまれ、二進も三進もいかなくなったとき、あるいは病に冒されたとき、あるいは恋に落ちたとき、何者かわかっていたつもりになっていた自分が崩落、崩壊するとき、人は初めて考える。
 この物語は、書き手の気まぐれによって命名された人物が、私とは何か、私はどこから来たのか、誰を愛しているのか、問いを重ねていく物語である。
*2
 猫さんはネコという名の猫の頭を撫でながら、最近ときどきふと、こいつが死んだらオレは天涯孤独になるなぁと思うのである。自分の生まれ育った町に戻ってきて五年、ようやく新しい生活にも慣れてきた。と言いたいところであるが、ことはそう単純なものではない。晩年——還暦を過ぎたのだから、こう言っても差し支えないだろう——になってから、生活の場所を変えるのは、たとえそこが自分の生まれ育った場所であっても、いやむしろ、いわゆる故郷と人の呼ぶ場所であるからこそ、得体の知れない齟齬のような、統合失調的な気分が終始つきまとうのである。
 猫さんの場合、故郷といっても、小学生までのことである。中学校から先はずっと東京暮らしだった。小学校時代のアルバムや文集の類を後生大事に保存していたわけでもなく、年賀状のやり取りを続けている同級生がいるわけでもなく、特段、懐かしいと思った記憶もない。
 なので、猫さんには、故郷は遠きにありて思うものというような感慨もなく、故郷の風に、おまえは何をしてきたのだと問われたこともない。
 ただし、沈むことは沈んだ。医者には、立派な鬱だ、とまで言われた。たぶん、鬱病チェックシートのなかの「ときどき死にたいと思うことがありますか?」という項目に丸をつけたからだろう、と本人は思っている。けれども、これは正直に答えたまでで、物心ついたころからずっと「ときどき死にたい」と思ってきたのである。さしたる原因もなく、ただ漠然と。生きているのがつらい、というのでもないし、生まれてすいません、というのでもない。トラウマになるようないじめを受けたこともない。暗雲垂れこめるという感じではなく、脳内薄曇りという感じである。あえて言葉にするなら、死んだら気持ちいいだろうな、という感じに近い。そう、だから漠然と、たとえば昼下がりの空いている地下鉄のなかでエアコンの風に吹かれて揺れている週刊誌の広告を見ながら、あるいはなんとなく立ち寄った居酒屋で一杯目のビールを飲み干し、夏なら酎ハイ、秋冬なら麦焼酎のお湯割りか燗酒が口から喉へと通り過ぎていくときに、このままあっちに行けたらなぁ、と憧れにも似た感覚がふと脳内をよぎっていくのである。
 それって日常生活におけるささやかな至福の瞬間じゃないの、と訝る人もいるかもしれない。そう言われれば、そうとも言える。しかし、ハッピーではない。どんよりと曇っている。昔からそうなのである。中学校でも高校でも、授業中に窓を通して、校庭の隅に立っている桜の木——花はとうに散ってあおあおと葉の茂っている桜——が目に入ったときとか、増水した川にかかっている橋を渡るときとか……。いや、おそらく風景や季節やシチュエーションとは関係ないのだと思う。ときどき、脳がそういう波長になる。でも、今回は明瞭に、鬱だ、と言われた。精神科医に。引っ越し疲れが今ごろ出てきたのではないかとも言われた。
 この偶然には念が入っていると猫さんは思う。というのは、故郷に帰ってきて出会った唯一の知り合いが、この精神科医だったからである。猫さんの小学校時代に成績を競い合った同級生がいた。成績の上ではライバルだったが、とても仲がよかった。いっしょに勉強し、遊んだ唯一の友だった。彼はその当時から医者になると言っていた。猫さんには、小学生のうちからそんなに明確な目標が持てること自体信じられなかった。いつも漠然としているのである。だから、鬱と平常の区別がつかない。どこまで行ってもグレーのグラデーションである。真っ白になることも真っ黒になることもない。
 それはともかく、二ヵ月に一回血圧降下剤をもらっている行きつけの内科・呼吸器科のお医者さんに、どうも睡眠が不安定でと嘆くと、O市で唯一の精神科専門病院を紹介してくれたのである。
 診察室のドアに取り付けられている担当医のプレートを見ると、北島晋一、と書いてある。一瞬、視野が狭くなり、軽い目眩のようなものが襲ってきた。名前に心当たりがあった。ひょっとしてと思ったが、同姓同名ということは珍しくない。恐る恐るドアを開けると、デスクの向こうの人物と、目と目が合った。記憶のなかに残っている顔貌と今目の前に見ている顔とが重なるのに、たぶん一秒か、二秒かかった。半世紀以上の歳月を遡るのにそれだけの時間がかかったのだろう。北島くんは頭頂部が禿げあがり、太っていた。猫さんの頭髪は限りなく真っ白に近いグレーで、ここ数年で五キロ以上痩せた。
 ——晋ちゃん?
 猫さんのほうから、声をかけてみた。
 ——猫か?
 そう、猫さんは子供のころからこんなふうに呼ばれていたのである。香ちゃんだと女の子みたいだし、猫柳という苗字も変わっているし、長すぎる。しかし、猫という愛称も変わっているのだが、本人は気にしていないし、要は慣れの問題である。そんなことよりも、半世紀ぶりの再会である。話は尽きないけれども、待合室にはたくさんの患者さんがいる。身の上話は夜に一杯やりながらにしようということになった。以下は、北島医師と猫さんの一問一答。
 ——どうなの、体調は、全般的に?
 ——うん、まぁ……。
 ——まぁ、というのは芳しくない……?
 ——いや、まぁ、芳しくないというほどのことでもないんだけれど……。
 ——ま、しかし、本調子ではない?
 ——ま、そういうことかな。
 ——具体的には?
 ——睡眠がどうもね……。
 ——よく眠れない?
 ——まぁ、一言でいえば……。
 ——寝付きが悪い?
 ——いや、寝付きはいいんですよ。
 ——早く目が覚めてしまう?
 ——朝早くならいいんだけれど、四時でも五時でも。
 ——眠りが浅い?
 ——そういうことになるかな……。
 ——必ずしもそういうわけじゃない、と。
 ——布団に入ったとたん、眠りに落ちるんですよ。たぶん、かなり深く。
 ——布団に入るのは何時頃?
 ——だいたい十二時頃ですかね。朝気持ちよく起きたいと思って……。
 ——ところが途中で目が覚めてしまう。
 ——そう、そうなんだ。
 ——何時頃ですか?
 ——一時とか、二時とか。
 ——なるほど。
 ——そう、ぱっと寝付くんだけども、ぱっと目が覚める。時計を見ると一時だったり、二時だったり。
 ——そのあとは?
    ——もうだめ。なにしろ電灯のスイッチを入れたみたいに、ぱっちり目が覚めてしまうから。真夜中に、頭が白々と冴えてくるのはなんとも不気味というか、気持ち悪いというか。
 ——で、どうするんですか?
 ——不眠と根比べです。布団に入ったまままんじりともしないで、天井を見ている。するとね、どんどん絶望的な気分になってきます。
 ——で、そのまま朝を迎える?
 ——いや、さすがに四時、五時になるとうとうとしてきて。といっても、そのくらいの時間になると朝日が差しこんでくるから、もう観念してのそのそ起き出す……。
 というような押し問答みたいな問診のあと、北島医師は、簡単なチェックをしてみましょうかね、と言って、いわゆる「鬱病チェックシート」を取り出したのである。幼なじみが半世紀の時間を経て、医師と患者として対面し、会話を交わすというのはいかにもくすぐったく、距離の取りづらいものである。
 そして、いくつもチェック項目の並んでいる質問表のなかに「ときどき死にたいと思うことがありますか?」という問いがあったのである。もちろん、猫さんの鉛筆を握る手は止まった。鬱病に関する専門的な知識がなくても、これにチェック・マークを入れれば、はい、私は鬱病です、と言っているようなものではないかと思ったのである。でも、チェックせざるを得なかった。それが猫さんの常態だからなおさらだった。
 チェックシートを受け取った北島医師は、シートを見ながらしばらく無言だった。そして、わずかな躊躇の気配とともに口を開いた。
 ——これはメランコリーだなぁ。
 最初は鬱病とは言わなかった。少し間が空いた。癌とは言わずに、悪性の腫瘍と言うようなものかと猫さんは思った。そんなに深刻なものでもないだろうとも思った。すると北島医師は、猫さんの無言の中身を察したかのように、
 ——鬱だよ、立派な鬱病だよ、と言ったのである。かつて歯に衣着せずに何でも言い合った幼なじみの間柄を取り戻そうとかのように。
 猫さんは苦笑した。
 ——鬱に立派も何もないだろう。
 ——いやいや、診断書を書いてやると、翌日から鬱病休暇と称してハワイに行っちゃうのもいるからね。
 ——ようするに仮病か。
 二人は声を上げて笑った。その笑顔のまま、晋ちゃんは続けた。
 ——とりあえず、睡眠導入剤的なのを出してみようか。
 ——でも、睡眠薬って癖になるんでしょう?
 ——うん、たしかに。正しく服用しないと依存性がある。
 ——そういうのは嫌だな。そもそも薬はあんまり飲みたくない。血圧の薬だって、ほんとうは飲みたくない。
 ——でも、まだいいほうだよ。心臓病に、糖尿病、病気のデパートみたいな人だっているんだから。
 ——依存性のあまりない眠剤というはないんですか?
 ——いや、あるよ。正確には眠剤ではなく、抗鬱剤の部類に入るけどね。
 ——え、抗鬱剤? そんなもの飲んで眠れるの? かえって興奮して眠れなくなるんじゃないの?
 ——いやいや、抗鬱剤って興奮剤じゃないから。まぁ、わかりやすく言うと、薬の力を借りて、くよくよしないようにするわけ。すると寝付きがよくなる。
 ——で、その抗鬱剤に依存性はない?
 ——うん、基本的には。
 ——ということは依存してしまう人もいる?
 ——何ごとにつけ、依存性の強いタイプの人もいるからね。
 ——なるほど。おれはどっちのタイプなのかな・・・・・・。
 ——ま、そんなに心配することはないよ。ためしに飲んでみたらいいじゃないか。効かないようならまた別の方法考えればいいわけだから。
 ——効き過ぎるとどうなんだろう?
 そこで、晋ちゃんは笑った。
 ——あいかわらずだな。
 ——あいかわらず?
 ——心配性ってことだよ。昔から石橋を叩いても渡らなかった。
 と言って、彼は何かを思い出したようだった。何を笑っていると問い詰めると、
 ——憶えているかな、小学校のグラウンドの隅に枝振りのいい柏の木があったろう。ドングリがなると、みんな登って取りにいったじゃないか。で、木ってのは登りは勢いで登っていくけど、降りるのがけっこうむずかしい。それでみんな降りきれなくなると、枝にぶらさがったりして飛び降りた。でも、おまえはぜったい飛び降りなかった。地面を見つめたまま、じっと枝にまたがっていた。そのうち、用務員さんか担任の先生がやってきて、梯子をかけてやるとようやくのそのそ降りてきた。
 そう言われて、猫さん、必死で思い出そうとするのだが、憶えていない。相手が作り話をするわけがないから、たんに記憶に残っていないだけなのだろうが、虚をつかれたように感じた。自分がそんなに臆病だとは思ったことがなかった。猫さんの無言をまた察するように、北島医師は軽い調子で話を続けた。
 ——ま、悪いようにはしないからさ。信用しろよ、こっちは専門家なんだから。ためしに毎日寝る前に一錠、一ヵ月分出しておこうか。
 猫さん、神妙に頷く。
 ——それが効くようだったらしばらく続けてみよう。効かないようだったら二錠にするか、別の薬を処方するか、一ヵ月後にまた考えてみよう。ときに寝酒はやるの?
 ——ほぼ、毎日。
 ——あ、できればそれやめて。薬といっしょにアルコールを摂取すると効果が出ないから。
 ——え、酒飲めなくなるのか。
 ——適度な晩酌はいいよ。寝酒はやめてと言ってるの。
 ——なんか絶望的だなぁ。
 ——真夜中の絶望とどっちがいいんだよ。
 いつのまにか、二人は五十年前の小学生に戻ったような気分になった。それから差しで飲む夜の日取りを決めて、猫さんは精神科の病院を出た。
(つづく)

*69 猫の登場(esq.03)

猫を登場させようかと思う。

といっても本物の猫ではなく、猫という愛称の人間、通称、猫さん。猫さんというくらいだから、本名は猫田とか猫村とか、それくらいしか猫のつく苗字は思いつかない。あとは猫柳とか。でも、こういう人名があるかどうか、調べがつかない。人名辞典のようなものを引けば出てくるかもしれないが、そこまでする必要もないだろう。

どうして、こんなことを思いついたかというと、*67*68と書いてきて、前口上ばかり書いていたんでは、いつまでたっても埒があかないと思ったのである。無駄なことを書いたとは思わないが、何かびびっている。それでは一歩前に踏み出すことはできない。そこで無理やり、まず登場人物に名前を与えて、とにかく歩かせてみること、そういう潔さみたいなものこそが、小説には必要だろうと思った次第である。

これは猫さんが恋をする物語である。

*1

猫柳泉、通称猫さんの生まれ育った場所は、北海道のO市である。といっても、中学校に入るときに東京に移ったので、そのあとはずっと東京である。しかし、還暦を迎え、出版社を定年退職したのち、一念発起して、生まれ育った町に帰ることにしたのである。

一念発起というよりは、四十代から五十代にかけて、想定外のことが立てつづけに起こり、その度に生まれ故郷の引力が強くなっていったというべきかもしれない。いずれにせよ、決断をするには何かを一気に切り捨てる膂力のようなものが必要なので、何となくそうしてみたというのとは違う。とりわけ生活する場所を変えるのは気力も勇気も必要になる。猫さんは、七十歳になってしまったら、もう動けないだろうと判断したのである。だったら早めに動いたほうがいい。

そういう決断を促した想定外の出来事というのは、椿事とか事故とか事件とは違う。家族のメンバーが、何となく思っていたよりも早く死んだということに尽きる。猫さんが四十五歳のときに父親が七十歳で亡くなり、五十歳のときに母親が七十二歳で亡くなり、五十五歳のときに妻が五十二歳で亡くなった。部位こそ違え、死因はみな癌だった。猫さんだけが残された。夫婦に子供はいなかった。

正確に言うと、猫さんと猫だけが残った。猫さんの奥さんが死ぬ二年前、猫を飼うと言い出したのだ。それまで猫さん夫婦は犬も猫も、小鳥も金魚も飼ったことがなかった。理由は様々あるだろうが、猫さんの母親が動物嫌いだったというのが一番大きかったかもしれない。動物は死ぬから嫌だというのである。いっしょに暮らしていたわけではないが、嫁と姑、奇妙に仲がよく、しょっちゅう行き来していたから、嫁は姑に遠慮していたということだろう。ところが猫を飼った二年後に本人が死んでしまったのだから、むしろ自分の命を猫に預けようとしたのではないかと、猫さんは奥さんが死んだあと、ふと思ったりした。余命わずかと気づいていたのかもしれない。四十歳のときに乳癌の手術をして、放射線治療やら抗癌剤治療などを続けてきたが、五十歳を超えた時点で肝臓への転移が見つかった。

残された猫の名前はネコ、少しややこしいが、奥さんがもらってきた子猫に特別な名前を付けようとせず、ただネコちゃん、ネコちゃんと呼んでいたので、妻が死んだからといって、新たに名前を付けるのも憚られて、猫さんもネコちゃんと呼んだり、あるいはたんにネコと呼び捨てにしたりしている。もちろん、北海道に移るときに、この猫も連れてきた。

呼び名のことでいえば、猫さんは家でも猫さんと呼ばれていたわけではない。親は泉と呼んだし、妻は泉さん、もしくはあなたと呼んでいた。猫さんと呼ぶのは職場の同僚であったり、懇意にしている作家や大学の先生である。新入社員も、最初のうちは猫柳さんと呼ぶのであるが、そのうちいつのまにか、先輩につられて、猫さんと呼ぶようになる。猫さんも、猫さんと呼ばれるのがまんざらでもなかったようで、相手が新入社員であっても自然に対応していた。

この辺のことを過去形で書いているのは、猫さんがもう会社を辞めてしまったからである。先ほど少し触れたように、猫さんの勤め先は出版社だった。出版社に勤務している人たちは、定年を迎えても、それまで勤めていた出版社の嘱託になったり、フリーランスの編集者になったり、いずれにせよ同じ仕事を続ける人が多いのだが、猫さんはきっぱり辞めてしまった。もちろん北海道の人口十数万の地方都市に移り住もうというのだから、嘱託もフリーランスもありえないという事情もあるが、それよりも猫さん自身が仕事を続けたくなかったのである。

猫さんが編集の仕事や出版業に愛想を尽かしたというのではないから、事情は多少やっかいである。本人にも説明がつかないところがあるので、書いている側が登場人物の考えていることを忖度するのも気が引けることである。

ただし、言えることは一つだけある。繰り返すけれども、猫さんはなんとなく生まれ育った町に帰ってきたわけではないということ。自分の出自に関することで、腑に落ちないというか、どうも釈然としない、冥い部分があって、それを死ぬまでに納得したかったのである。

(つづく)

*68 名前の発明(esq.02)

アルジェリアから帰ってきて一時期勤めた翻訳会社を辞め、狭いアパートの一室にワープロとファクスを備え付け、「よろず翻訳引き受けます」的な構えでフリーランスの翻訳者として独り立ちし、数年が経ったある日、荻窪の駅ビルに入っている本屋で、ある新刊書を見つけた。見つけたというより、向こうから目に飛び込んできたと言ったほうがいい。

ポール・オースターの『幽霊たち』。翻訳は言わずと知れた柴田元幸。その冒頭。

 

まずはじめにブルーがいる。次にホワイトがいて、それからブラックがいて、そもそものはじまりの前にはブラウンがいる。

 

一九八九年の夏のことだ。記憶に自信はないが、奥付に記された発行日に間違いはないだろう。七月二十日とある。

目が釘付けになった。ため息をついたか、アッという小さな悲鳴が出たか、顔が崩れたか、もう忘れた。忘れたというより、誰かがそばにいて写真でも撮っていてくれないかぎり、そのときの自分の行動や表情を憶えているわけがない。

それから二年が経って、『孤独の発明』が出た。柴田さんの解説を読めば、この作品がポール・オースターのデビュー作だという。それはそうだろう。人が作家になるには社会から離脱しなければならない。孤独を発明しなければならない。社会が彼を作家と認める以前に、彼の内部に作家が誕生するのである。

まずは父方と母方、二人の祖父の思い出から記すことにしよう。二人とも明治生まれで、私が二十代のころに亡くなった。

父方の祖父は農家の長男として宮城県に生まれた。北海道開拓のいわば第二世代に当たる人で、北海道で一旗上げたら故郷に戻って実家を継ぐはずだったらしいが、結局この地で骨を埋めることになった。彼の考えていた「一旗」がどんなものだったのか、どんな思いで老後を迎えたのか、今となっては誰にもわからない。

母方の祖父は、弟子屈という温泉町の大地主の家に婿入りした人だった。戦前は天皇の所有地である御用林を管理する役人だった。彼の生まれた実家は弘前の資産家だったようだ。兄弟が何人いたのかは知らないが、長男は東京帝国大学を首席で出て、満州国ではかなり上位の官僚だったらしい。でも、それが徒——私の母親の言葉——になって、シベリアから帰ってこられなくなったという。

父方の祖父は、私の学生時代の最後の年に死んだ。死の床で小さな盃一杯の酒で唇をぬらしてこの世を去った。私は死に目には会えなかったが、葬儀には出た。告別式には出たが、火葬場で骨を拾うことができなかった。二十歳をとうに越えているのに、祖父の死を受け入れることができなかった。死とはこんなにあっけないものなのか、と思うと同時に、あとに何も残さない完璧な死だとも思った。

母方の祖父は、私がアルジェリアに出稼ぎに行っているときに、この世を去った。まさか祖父の葬儀のために帰国するわけにもゆかず、妻が幼い娘二人の手を引いて参列した。この年、妻の父が亡くなり、私たちの仲人をつとめていただいた方までが亡くなった。自分は何か間違ったことをしているのか、地中海に沈む夕陽を見ながら、漠然とした罪悪感が頭をかすめていったことを憶えている。

父方の祖父は農学校を出ていたので、開拓農民の子供を教える小さな小学校の教師として郡部を転々とした。当時の大方の入植者と同じように、畑を耕し、馬、豚、羊、鶏を飼い、半ば自給自足の生活を送った。定年退職で教員を辞め、帯広に出てからも悠々自適の隠居生活からはほど遠く、朝は牛乳配達員として近所に瓶詰めの牛乳を自転車に満載して配り歩き、午後からは運送会社の運転手たちにパンと牛乳を売りに出かけるのが、彼の日常だった。市内に家を建て、もちろんそこには寝室があるのに、わざわざ裏庭の物置の一角にベッドをしつらえ、そこで寝起きしていた。子供のころ、私は祖父といっしょにその粗末なベッドに寝るのが好きだった。その色あせた緑のごわごわとした麻のシーツと凍りついた硝子窓を、今でもよく憶えている。

母方の祖父は、戦後、営林署の職員となったが、婿入りした弟子屈の家はアメリカの占領政策によって資産の大半を失った。相続権を持つ祖母は、最後に残った土地屋敷を売り払い、家は札幌に移った。当時はまだ空き地の目立つ宮の森という郊外の土地に家を建てた。すでに嫁いでいる長女の母を除いて、男四人、女三人のきょうだいと両親二人の大家族が住む家であったから、居間や食堂を含め、全部で十室くらいはあったろうか。その南側には家の敷地と同じくらいの面積の庭があった。営林署勤めの祖父は、木材の手配はもちろんのこと、家の設計まですべて彼自身がやった。あまりに完璧な図面だったので、大工の棟梁が手の入れようがないと嘆いたほどだったという。私は物心ついてから、中学に入るころまで、毎年一回は必ず札幌の母の実家に遊びに行っていた。札幌は路面電車が走り、テレビ塔がそびえ、デパートが幾つも建ち並ぶ大都市だったし、神社と動物園まで歩いて二十、三十分で行けるその家は子供の好奇心を満たして飽きさせないところだった。

父方の祖父は即興の人だった。ある日のこと、どこからかもらってきた古い材木を雨風から守るための物置を作りはじめた。家の前の空き地の四隅にまずは、樹皮を向いただけの節だらけの丸太材を支柱として地面に埋める。その支柱の上に同じ丸太材を梁として載せ、太い針金で結わえ付ける。直方体の枠ができると、屋根を薄い板で葺き、側面に正目、板目、様々な板を張りつけていって壁となす。子供の目の前で、あれよあれよというまに一個の建物ができあがる。にわか造りとはいえ、これを二、三日で立ち上げてしまうのである。この祖父は、ふだん孫に対しては笑みを絶やさない、文字どおりの好々爺であったが、一念発起して何か事に当たるときには圧倒的な集中力を発揮する人だった。

母方の祖父は緻密の人だった。宮の森の家は南に大きく開かれていた。広々とした庭は一面青々とした芝に覆われ、季節ごとに色とりどりの花が咲く煉瓦の花壇に囲まれていた。庭の南端の、居間から見て正面に位置するところに葡萄棚があり、その下でジンギスカン鍋を囲むこともあった。その手前に直径一メートルほどのコンクリート製の丸い水盤が埋め込まれていて、金魚が何匹か泳いでいた。葡萄棚のさらに南側の空き地には大きな胡桃の木が立っていて、庭と祖父母の家を見下ろしていた。庭の南西の角には梨の木が二本植えられていた。梨が白い花をつけ、花びらが散り、実が育っていくころになると、祖父は新聞紙で虫除けの袋を何枚も作った。梨の木は二本合わせて数十個くらいは実をつけたから、その数だけ袋が必要になる。祖父は居間に新聞紙を広げ、定規で正確に袋の展開図を画き、鋏で切り取っていく。いったん袋の形に折り曲げてから、澱粉を溶かした糊を小さな刷毛で糊代に塗り、ぴったりと貼りつける。出来上がった袋はどれも寸分の狂いなく、梨の実が最大限に育っても破れないように計算されていた。

父方の祖父はときおり孫の私を街に連れ出した。牛乳配達に使う大きくて頑丈な運搬用の自転車の荷台に私を乗せ、駅近くにあった運送会社のトラック運転手の溜まり場にパンと牛乳を売りに行ったり、あるいは映画館にチャンバラ映画を観に行くのである。あるとき運送会社に連れられて行ったとき、ひとりの若い運転手が青カビの少し生えた餡パンを差し出し、「おい、おやじ、昨日のパンにカビが生えてたぞ」と言った。すると祖父は、突き出されたパンを握ると、「なに、これくらい」とぼそりと答え、青カビの部分にかぶりついた。青年は唖然として立ち去った。映画館は最悪だった。私がすぐに泣き出してしまうのである。幼稚園のころだったか、小学生になったばかりのころだったか。赤胴鈴之助が洞窟に閉じ込められてしまうだけで、この世の終わりが来たかのように、全身の力を振り絞り、映画館の暗い空間を絶叫で埋めつくすのである。こうなれば映画館を出ざるを得ない。祖父は無言である。蕎麦屋に入っても無言である。申し訳ないと思っていても、言葉が出ない。ただ蕎麦をすするしかなかった。

母方の祖父は家にいる人だった。外出するところも、外出先から帰ってきたところも見たことがない。ずっと家にいて、庭いじりをしているか、部屋を片づけているか、手先を器用に動かしているか、そういう姿しか記憶にない。街に連れ出すのは、そのころまだ十代後半から二十代前半にかけての、娘盛りの叔母たちだった。あるとき私はデパートで迷子になった。叔母たちの姿を完全に見失った。そのあとのことは憶えていないのだが、つい最近、母の二番目の妹に当たる叔母から聞いたところによると、デパートの外に出て、タクシーを拾って一人で帰ったというのである。住所は宮の森以外知らないはずだから、運転手に道案内をしたのだろう。料金はどうしたか? 家についてから、留守番をしていた祖母に払ってもらったという。あきれた話である。

父方の祖父は酒に目がなかった。早朝の牛乳配達が終わると、湯沸かし器が連結されたルンペンストーブの前に胡座をかき、ストーブの上で乾き物を焼いたり、近所からいただいた兎や鹿の肉をフライパンでジュウジュウ焼きながら、熱燗をちびちび呑む。徳利は針金を首に巻きつけた一合瓶である。それを寸胴鍋を大きくしたような湯沸かし器の縁に引っかけておく、燗がついたころに引き上げて、新しい一合瓶をまた湯のなかにどぼんと入れる。どのくらい呑んでいたのかわからない。ただ、しばらくすると必ず台所のほうから飛んでくる「いいかげんにしなさい」という祖母の声だけははっきりとこの耳に残っている。すると祖父はにやにや笑いながら、必ず「いやいや、今やめようと思っていたんだよ」と答えるのだった。

母方の祖父も酒が好きだった。好きなだけでなく、強かった。どれだけ呑んでも崩れないというのが祖母と母の弁であるが、子供の私の記憶に残っているのは、晩酌の儀式である。備前のようなものではなかったと思うが、ちょうど一合入るくらいの黒っぽい徳利にお揃いのお猪口、というよりは小さめのぐい呑みで、正しく二本。それ以上は飲まない。きわめて礼儀正しい酒呑みであった。酒肴は塩辛とか納豆とか、ごくありきたりのものだった。あるとき発泡スチロールに入った一人分の納豆を箸でかき混ぜながら、「これはすこぶる便利なものだね」と言った。量が一人前でちょうどいいだということが言いたかったのか、それとも容器がコンパクトで捨てやすいということが言いたかったのか、今ではもう確かめる術もないが、子供の私に印象的だったのは「すこぶる」という、少し古風な副詞の使い方だった。でも、今思い出して気がついたが、発泡スチロールの容器に入った納豆が出回るようになったのはずっと後のことだから、たぶん私はもう子供ではなく、高校生か大学生になっていただろう。

この二人の祖父が一緒に酒を酌み交わしているところを一度見たことがある。場所は父方の祖父母の家の居間である。両雄、ルンペンストーブと湯沸かし器を挟んで対座している。というのはやや大げさだが、子供心にもこの二人の祖父はかけ離れた存在だったので、二人が同じ空間にいるということだけで少し緊張したのである。でも、その場の雰囲気はなごやなかものだった。父方の祖父は終始ころころと笑い声をあげていた。母方の祖父も終始にこやかに笑みを浮かべていた。話の内容もわからない子供がずっとその場にいるわけもない。たぶん、二人の対面を見届けると、どこかに遊びに行ったのだろう。だから後日談しか知らない。母方の祖父は、あのひとはいい酒呑みだ、と言っていた。母方の祖母は、あんな酒呑みなら何杯でも飲ましてやりたいね、と言っていた。父方の祖父と祖母からは何も聞いていない。もしかすると母方の祖父が帰っていったあと、父方の祖父は細君である祖母に小言くらい言われたのかもしれない。あんなに飲んで、酔っぱらって恥ずかしいとか……。でも、これは現時点での私の想像でしかない。

思い出は尽きない。ただ、新しく名前をつけるとしたら、父から受け継いだ今の苗字と母方の家の苗字から一字ずつ取ろうと思っている、その理由を自分で納得するために、思いつくままに記憶の断片を並べてみたまでである。その名がペンネームになるのか、主人公の名前になるのか、それともその両方になるのか、今のところわからない。わからないので、今この頭のなかにあるその名前は伏せておく。

やがてこの試みがネット空間から外に出て、書籍として市場に出回るようになり、たまたまこのブログの読者が書店でその本を手に取り、最初は首をひねり、やがて、ひょっとしたら、これがあの連載記事の完成形かと気づく。そんな光景を夢みているのである。