なにか異様なものが喉につかえていて、ほとんど苦しい感じになっている。
机の端にはM・モースの『贈与論』とB・マリノフスキの『西太平洋の遠洋航海者』が置いてある。
思い出すのは妻の葬儀にまつわることである。葬儀は自宅で、と言い残して妻はこの世を去った。しかし、自宅といっても集合住宅である。いくら限られた親戚知人だけの小さな葬儀といってもかなり無理がある。棺の出し入れさえ難儀した。
九月はじめのその日、天気は大荒れだった。雷雲から稲光が落ち、神鳴りが轟いた。棺を持つ人はずぶ濡れになった。
葬式など、出したくなかった。誰も家に呼びたくなかった。しばらくひとりでいたかった。先に逝った女房と向き合っていたかった。しかし、遺体を腐らせるわけにはいかない。考え得るかぎり小さな葬儀を出すことにした。それが妻の願いでもあったから。
それでもなすべきことはたくさんあった。まずは葬儀屋に電話した。営業がやってきた。高い。葬式ってこんなに金がかかるものなのか。あきれ果てて、別の葬儀屋を呼んだ。まあまあ妥当な見積もりだったので、そこに頼むことにした。
葬儀の段取りから、その後の法要のすべてを通じて動いていたのは金だった。通帳の預金残高を確認し、香典の総額を計算し、香典返しを何にするか娘と相談し・・・・・・。
そもそも、香典とは何のためにあるのか。悲しみに沈み、喪に服する者への慰めのためなら、なぜそれにお返しなど存在するのか。いつから始まった習慣なのか。儒教的なもの? それならば西欧にはない習慣なのか?
そもそも、なぜ自分はしたくもないことをしているのか。そう、問いつめていくとき、わたしは「社会」という大きな岩盤に突き当たっているのを感じる。
人はなぜしたくもない「戦争」をするのか? 先の戦争で、軍人も政治家も知識人も市民も庶民も含めて、「戦争」がしたくて賛成し、関与した人ははたしていたか。あれだけの軍備を持っていれば、軍人はむずむずしていただろう、「戦争」をしたくてしたくてたまらなかっただろう、とは想像できる。しかし、大義名分はそうはならない。「戦争」をしたいからする、では通らない。日本にはない資源を大陸に求めることは死活問題である。アジアを列強の歯牙から解放しなければならない。日本がアジアの盟主になることが世界の恒久平和を開く道である。八紘一宇。大東亜共栄圏。
したくもない葬式をあげることと、したくもない「戦争」をすることには通じるものがある。頭のなかで短絡させてみると火花が散る。
どちらも大きな金がいっぺんに動く。個人の資金と国家の資金のレベルの差こそあれ。
人がいちばんしたくないことは、命を失うことである。しかし、「戦争」では自分より大きなものに人は自分の命を捧げる。「自分より大きなもの」を神と呼ぶか、国家と呼ぶかはともかく、これは割の合う「交換」であるか? 民俗学者あるいは文化人類学者、経済学者や社会学者たちは「互酬」という言葉を使う。互酬のなかの一部として「等価交換」もあるという説明をする。
ここに「犠牲」という言葉を持ってきほうが、たぶん、わかりやすくなる。社会は個々人の奉仕、犠牲のうえに成り立っている。そこに「相互的報酬」があると社会学者は説明するだろう。
しかし、そもそも、社会とは理不尽なもの、なのではないか? 人間を是として考え、その人間が共同で営む社会を是と考える。いわゆる性善説と呼ばれるもの。しかし、人間の欲望を野放しにすると地球が危ないと人間みずから考えざるをえなくなった、この「現代」という時代にあって、そんな単純な「性善説」に与することのできる人がいたらお目にかかりたい。しかし、それと同じ程度に単純な「性悪説」によっては出口が見つからないことも、現代人は痛いほどよく知っている。
結論は出ない。しかし、考えることこそもっとも大切なことであると、わたしは考える。少なくとも、進歩だの進化だのをたやすく信じ、自惚れないために。長くなるが引用する。
ある首長の個人的な威信やその首長のクラン〔氏族〕の威信が、消費することに、そして自分が受け取った贈り物以上の物をきちんとお返しすることに、これほど結びついているところはほかにない。自分が受け取った以上の物をお返しすることによって、自分に返礼の義務を負わせた当の相手が、今度は逆に自分に対する返礼の義務を負うようになる。ここにあっては、消費と破壊は本当に際限がない。ある種のポトラッチ〔北米大陸北西部先住民の使うチヌーク語で「贈り物」を意味する〕の場合には、人はみずからがもてる物をすべて消費しなければならず、何も残しておいてはいけない。みんなが競い合ってもっとも富裕になろうとし、同時にまたもっとも激烈な消費家であろうとするのだ。すべての根底にあるのは敵対と競合の原理である。個人が儀礼結社やクランのなかで占める政治的な地位や、あらゆる類の位階は「財の戦争」によって獲得される。それは、地位や位階が実際の戦争や偶然や相続や姻戚関係・婚姻関係によって獲得されるのと同じことである。だが、あたかもそれが「富の合戦」であるかのように、すべてのことが構想されているのだ。子供たちの結婚相手にせよ、儀礼結社による席次にせよ、ポトラッチを取り交わし、ポトラッチでお返しをする、そうしたポトラッチのさなかで獲得されるのである。そしてまたそれらは、ポトラッチにおいて失われもする。それは、それらが実際の戦争や賭け事やレース競技や格闘競技において失われるのと同じである。いくつかの場合においては、与えること、お返しすることはもはやどうでもよく、破壊することが大事となる。お返しがもらえるのを期待していると思われたくないがために、である。ユーラカン(ロウソクウオ)の脂肪やクジラの脂肪を入れた箱を丸ごと全部燃やしたり、家屋を燃やしたり、何千枚にも登る毛布を燃やしたりするのである。一番大切にしている銅製品を破壊し、水に投げ捨てるのであるが、それも自分の競合相手を打ち負かし、競合相手を「ぺしゃんこにする」ためなのだ。(『贈与論』マルセル・モース著、森山工訳)