黒いA{あ}、白いE{う}、赤いI{い}、緑のU{ゆ}、青いO{お}、母音たちよ、
いつの日か語ろう、おまえたちの隠された生い立ちを。
A、毛ぶかい黒の胸当て、無惨な腐臭をめぐり
ぶんぶん飛びまわる燦めく蠅たちの。
陰の入江、E、湯気と天幕の無垢、
気高き氷河の切っ先、白き列王、傘形の花のふるえ。
I、緋の衣、吐血、美しきくちびるの嗤い
怒りに、悔悛に酔いしれながら。
U、緑青の海の、聖なる回帰と揺らぎ、
家畜らの点在する牧場の安らぎ、錬金の
奥義を求める碩学の額に刻まれた皺の安らぎ。
O、至高の喇叭、奇怪な甲高き叫び声に充ち、
数しれぬ世と天界の経てきた沈黙。
——おお、終末{オメガ}よ、紫の光を放つ、その両の眼よ!
第十七回目(二月二十日)の例会で、アルチュール・ランボーの「母音」の翻訳を取り上げてみた。もちろん、ランボーにかぎらず、詩の翻訳はむずかしい。不可能と言いたくなるほどに。でも、不可能ではない。もし、詩の翻訳が不可能だというのなら、翻訳そのものが不可能な行為であると言わなければならない。それが、三十年あまり、翻訳という仕事を生業として生きてきた人間の思想である。
そこに鳴り響く音を置き換えることはできないか。そこで休止し、読点を打ち、句点を打った著者の息づかいを、自分の使う母語のなかに取り入れることはできないか。言葉をそこに書き入れることよりも、黙して行を改え、飛躍を選んだ著者の心意気をどうすれば伝えることができるか。
詩の翻訳も散文の翻訳も本質的に変わるところは何もない。ただ、詩は言葉で成り立っているというよりも、句読点と改行から成り立っていると言ったほうがいいほど、それは一般の通念に反して、沈黙の芸術なのである。
今回、あらためて——たぶん四十年ぶりくらいに——ランボーの詩を読み直し、翻訳を試みて、この沈黙を痛感させられることになった。
詩の翻訳——そして翻訳一般——は、言葉と言葉の連想ゲームではない。沈黙に耳を澄ますこと。森のなかに分け入って、梢で鳴く鳥の声に心奪われ、山頂に辿り着いて耳をかすめる風の音に同化し、打ち寄せる波を前にして、対岸の波打ち際に心運ばれ、流れる川の弾ける水の分子の昂揚に共振すること。
しかし、ランボーの詩を日本語に置き換えてみると、そんなことだけではすまされないことも見えてくる。
たとえば、第二連目の「白き列王」という訳語は、rois blancs に当てたものである。「列王」は耳慣れない日本語かもしれないが、旧約聖書の「列王記」から取った。「列王記」はフランス語では、Les livres des Rois という。古代イスラエルの歴代の王たちの書、くらいの意味だろう。
「列王」という言葉を採用した理由は、この連の最初の行にある。
湯気と天幕の無垢(candeurs des vapeurs et des tentes)。砂漠をわたる遊牧民の生活を彷彿とさせる行との対応を意識したのである。砂漠のイメージから極地の氷河へ飛躍し、そこに旧訳の文書を思わせる言葉をかぶせる。ランボーの目には、せめぎ合う氷河の切っ先の連なる光景が、居並ぶ歴代王の石像か何かに見えたのかもしれない。
そのような説明をすると、イタリア語のMさんが、最後の連も黙示録風ですしね、と指摘した。言われてみて、そう、そう、と膝を打った。甲高い喇叭の音にしても、この世の終末を告げる神の目から放たれる紫色の光線にしても。
そこまで話が進むと、ランボー詩の全体がいかに聖書の––旧約も新約も含めて––イメージと言葉に彩られていることが実感されてくる。
俺は『教会』の長女、フランスの歴史を想い起す。俺は賤民なりに聖地の旅をしたのかも知れない。俺の頭には、スワビヤの野を横切る諸街道、ビザンスの四方の眺めもジェルサレムの館もある。聖母への信心と救世主への感激とは、俗界百千の魔境を交えて、この身に目覚める。——太陽に蝕まれた石垣の下に、破れた壺、いらくさの上に、俺は癩を病み座っている。——降っては中世紀、騎卒となって、ドイツの夜々を、野営に明かしたかも知れない。(「地獄の季節」小林秀雄訳)
アルチュール少年は信心深い——あるいは、ほとんど狂信的と言っていいほどの——母親に育てられた。聖書の文言はすでに幼年期からこの異様な詩才に恵まれた脳髄に刻まれていた。彼は母の厳しい宗教的躾と聖書の文言の虜囚としての少年期を送った。彼の詩才はこの虜囚の身からの脱出を叶えてくれるものであると同時に、永遠に言葉の虜囚とならざるをえない宿命を担わされることになった。
だから、天才ランボーは二十歳にして詩を捨て、砂漠の地に冒険の旅に出たなどというロマンチックな伝説はほとんど意味をなさない。なぜならば、この種の伝説は詩の生まれ出る所以に目を向けないまま文芸を、芸術をあがめようとしているにすぎないから。
ランボーは詩に食われた。端的にそう言うべきである。
*
数年前に、パスカル・キニャールとパリの自宅でお会いしたとき、思い切ってこんな質問をぶつけてみた。
——詩は、捨てることができると思いますか?
——そうは思わない。
——ランボーは詩を捨てたと言われますが、あれは結局のところ、詩を捨てようとして詩に取り憑かれ、肉体で詩を演じるはめになって、最後には悲劇を演じることになったように思うんですけど。
——いや、あれは悲劇だとは思わないよ。たんに才能が去っていっただけだ。
身も蓋もないことを言う人である。そして、こんなふうに話を続けた。
——些細な個人的経験だけどね、文学を捨てようとして、精神分析を受けたことがあるんだ・・・・・・。
ふつうは文学を捨てることと精神分析は結びつかないはずだが、この人の場合はそうではないのだろう。話はやたらに厄介な方向に進んでいったので、半分も理解することができなかったけれど、衝撃的ではあった。
まずは、今やフランスを代表する作家のひとりとなったこの人も、文学を捨てようとしたことがあったのかという驚き。精神分析によって、心の奥が明るみに出れば文学を捨てられると思ったらしい。人はまず自分の心に嘘をつくから。というか、自分にとってもっとも大切なことは言葉にしたくないものである。自分にとっていちばん大切なことを言葉にするのが文学だと思っている人がいるかもしれないが、そうではない。もっとも大切なことは言葉にできない。言葉にすると嘘になる。パスカル・キニャールの翻訳を長いことやってきて、ほとんど座右の銘のように大切にしている言葉がある。
On ne sait pas ce qu’on fait, ce qu’on dit.
(人は自分のしていることがわからない、自分の言っていることがわからない)
だから、告白というものは容易には信じられない。
——言語的才能というものはどこから来るものなんでしょうね?
——・・・・・・。
——母から受け継がれるものでしょうか?
——・・・・・・。
かすかなほほ笑みを浮かべて、口をつぐんだこの沈黙を、わたしは生涯大切にするだろう。
アルチュール・ランボーは、過度に敬虔なカトリック信者の母親に育てられた。パスカル・キニャールの母親はパリ大学(ソルボンヌ)に籍を置く言語学者だった。その父親(パスカルの祖父)もまた著名な言語学の教授だった。
自分は母の愛情を受けることなく育ったと、彼は随所に書いている。幼年期に母親代わりをつとめたのはドイツ語を話す乳母だった。彼は大学を去ると、ロワール河のほとりにあるアンスニという小さな村の教会のオルガン弾きになろうとした。父方の家系は代々教会のオルガニストをつとめており、パスカルの姉が務めていたアンスニ教会の専属オルガニストのあとを継ごうとしたのだった。
しかし、人生は思いどおりには運ばない。アンスニでオルガンの練習のかたわらに書いた論文をガリマール社に送りつけたところ、当時この出版社で原稿審査委員をつとめていたルイ=ルネ・デ・フォレの目に留まり、彼はパリに呼び戻される。こうして彼は一九九四年までガリマール社で、デ・フォレと同じように原稿審査委員の職に就くことになる。
この間の経緯は『世界のすべての朝は』と題した翻訳(伽鹿舎刊)のあとがきに詳しく記したので、そちらを参照してほしい(このブログでは *40 に転載)。
父と子の葛藤と同様、母と子のあいだの葛藤もまた大きな文学の主題と言っていいだろう。ある意味では、母子の葛藤のほうが根が深いとも言える。われわれはみな母の胎内から生まれ出るのだから。
少年アルチュールの母にとって、キリスト教はすべての価値の源だった。生活習慣の上でも、文化の上でも。それを息子に有無を言わせず叩きこんだ。
われわれは誰しも、まずは言語を母から学ぶ。母の胎内において、授乳の胸のなかで、日常のすべての局面で。時間の速度が緩やかな時代であれば、それでさほどの問題はないだろう。しかし、アルチュールが生まれた時代は産業革命が加速度的に進み、政治体制は共和政、王政復古、帝政と目まぐるしく変わり、短い期間ではあったがパリ・コミューンが誕生し、プロシアが破竹の勢いでフランスを脅かしているときだった。
彼は中学校でイザンバールという若く野心的な、そして文学的素養の豊かな教師と出会い、爆発的に才能を開花させる。それは母の価値観との衝突を生み、何度も家出を繰り返すことになる。
だが、彼の言語の根底にあるのは、つねに聖書の言葉であり、つねに母の言葉だった。そう、それが文字どおり彼の母語だった。彼はどこまでいっても「教会の長女」の息子だった。その軋轢から逃れようとするエネルギーが彼の詩作品には横溢し、われわれの目を眩ませることになる。
病弱な幼年期を送ったパスカル・キニャールにとって必要だったのは、何よりも母の胸の温もりだっただろう。その温もりを与えてくれたのは、しかしながら、実の母ではなく、ドイツ人の乳母だった。
父方の音楽と母方の知性。彼の「母語」もまた異様な軋轢と葛藤のなかにある。
あるときわたしは、あまりにも乱暴で不躾な質問を繰り出した。
——あなたにとって、ポール・ヴァレリーとは何なんですか?
パスカル・キニャールはこの質問に苛立つこともなく、むしろ、わずかに目を輝かせて、「ちょっと待て」と言い、隣の部屋に姿を消し、薄い本を手にして戻ってきた。『パスカル・キニャール、ル・アーヴルの幼年期』と題された本。その名のとおり、パスカル・キニャールの幼年期の足跡を追う、ほとんど写真集に近いアルバムだった。彼はあるページを開いて、わたしに差し出した。(Pascal Quignard, une enfance havraise : Editions l’écho des vagues, 2015)
そのページには、新聞の切り抜きの写真複製が掲載されていた。ル・アーヴルの高校の先生をしていたパスカルの父ジュリアンが企画したポール・ヴァレリーの長編詩「若きパルク」に関する展覧会と講演会の記事だった。絶句した。
——あなたのお父さんはヴァレリーの専門家だったのですか?
そう尋ね返すだけで精一杯だった。彼はその大きな目に笑みを湛えて、うなずいた。
——朝早く起きて、本を読み、ノートをつけるのも、ヴァレリーに感化されたのかもしれないな。
そして彼はわたしに、マラルメとヴァレリーの美しい師弟愛について語ってくれた。マラルメに愛されたヴァレリーと、師を誰よりも敬愛し、だが師のあとは継がなかったヴァレリー。それはおそらく、パスカル・キニャールの師エマニュエル・レヴィナスとの関係を暗示するものだったにちがいない。それに気づいたのはずっとあとになってからのことだったけれど。
彼はその日、エマニュエル・レヴィナス全集の一巻をプレゼントしてくれた。(Emanuel Levinas : Oeuvres 2, Parole et Silence; Bernard Grasset / Imec, 2011)
さて、いったいこのわたしは彼にどんな恩返しをしたらいいのだろう。