『ヴュルテンベルクのサロン』をめぐって
図1にあげたのは、『世界のすべての朝』(註1)に登場するボージャンの〈ゴーフレット〉である。ボージャンという画家については、この小説の主人公のガンバ奏者サント・コロンブと同じように、17世紀中葉に活躍した画家ということ以外、伝記的詳細がつかめず、A・ボージャンとL・ボージャンという二人の画家がいたのか、それともこの二人が同一人物だったのかもはっきりしていない。パスカル・キニャールはこの小説のなかで、伝記的事実のはっきりしないこの画家に「私としては、あの神秘の炎にまでたどりつく道を探しているのだがね」と語らせている。キニャールはこの小説の刊行と同じ年にジョルジュ・ド・ラ・トゥールについてのエッセイ(註2)も書いているから、ほぼ同時代を生きたこの二人の画家のイメージを小説の肉付けのために重ね合わせたものと思われる。
ラ・トゥールの〈マグダラのマリア〉(図2)は、この世の「はかなさ(ウァニタス)」を寓意とするフランス初期バロックの代表作と言われているが、ボージャンの〈ゴーフレット〉もまた、ウァニタスを寓意として描いた同時代の典型的な作品であり、双方ともその静寂の奥に潜む異様な緊迫感によって観る者を画布の前に釘付けにしてしまう作品である。
触れただけで壊れてしまいそうな華著なグラスと、それに注がれているいかにも糖度の高そうな茶色がかった赤ワイン。冷たく鈍い光をはなつ錫の盆と、その上に載せられた鋭利な剃刀のようなゴーフレット。死の底のイメージを喚起する青いテープルクロス。こもかぶりのどっしりとしたワインの瓶。ここには安定と不安定、日常と非日常、自然さと不自然的さが同居し、いかにも単純な遠近法で画面が構成されているかのように見えて、細部をよく注視すると遠近法がわずかに歪んでいて(たとえばグラス、錫の盆)、鑑賞者に軽い目眩を感じさせる。この緊張感はバロック絵画に特有の性質なのだろうか。それともマニエリスムから受け継がれた特徴なのだろうか。あるいは優れた作品に普遍的に内在する特徴と言うべきなのだろうか。
アーノルド・ハウザーの『マニエリスム』(註3)を読むと、これまで私が漠然と「バロック的」と考えてきた要素・性質の大半が「マニエリスム的」なものに取り込まれているので、正直言って、頭が混乱してくる。とりわけマニエリスムの概念を文学にも応用し、モンテーニュもパスカルもシェークスピアもマニエリスムであるとなると、ほとんどついていけない。だが、ハウザーのきわめて拡張されたマニエリスムの概念は一方で魅力的であることも事実である。彼は、バロックの本質的性格を「主観主義、過剰と豊饒」にのみ求めることは片手落ちであり、「より広範な階層の公衆に訴えるための感情的に決定された一つの芸術傾向」であるという根本的要因を見落としてはならないと説く。これに対してマニエリスムは「本質的にある排他的な知的及び社会的基盤の上に成立つ精神的運動」であると言い、「バロックが比較的自発的で簡素であるのに対して」、マニエリスムは「より文化的な伝統に首までつかった、晦渋な、内省的な、分裂をきたした様式」であると述べている。
かりにハウザーの見解に従うとするならば、ここでその魅力の一端を紹介しようとするパスカル・キニャールの『ヴュルテンベルクのサロン』(註4)は完全にマニエリスティックな作品だと言える。この小説が「文化的な伝統に首までつかった、晦渋な、内省的な、分裂をきたした」作品であることは歴然としているからである。彼がこれほどマニエリスティックな傾向を突出させたのはこの小説だけである。89年に上梓された『シャンボールの階段』(註5)はがらりと傾向を変えて軽快な文体を用いているし、他の多くの作品——たとえば『世界のすべての朝』や『理性』(註6)——においては「自発的で簡素」な美しさにあふれているからである。ハウザーが言うように、バロックとマニエリスムがある局面で対立するものであるならば、本質的にバロッキストである作家——彼自身が『ジョルジュ・ド・ラ・トゥール』のなかで使っている表現を借りれば、ジャンセニスト的バロックの作家——がなぜマニエリスティックな作品を書いたのかという疑問が当然起こってくる。キニャールはあるインタヴューで次のように語っている。
(『ヴュルテンベルクのサロン』を書いたひとつの理由には)ガリマール社の出版選考委員の仕事もかなり関係あると思います。私を信頼して作品を託してくれた作家たちの作品を読み、彼らに、もう構造主義だとか何だとか、そういう理論の時代は終わった、登場人物のない小説とか、何がない小説とか、制約をつけてものを書かなければならない時代は終わった[中略]、そう70年代は終わった。社会を縛っていた規範は消えた。だから、やりたいことをやらなくてはいけない。そういうアドバイスを与えていて、自分自身から実行に移さなくては、と感じていたのかもしれません(註7)。
ここで「登場人物のない小説とか、何がない小説」と言われているのはおそらく、かつてヌーヴォー・ロマンとかアンチ・ロマンなどと呼ばれた一群の作品、あるいはその亜流の作品のことだろう。なぜ70年代全般を通じてフランスの小説は痩せてしまったのか? この問いに対する答えのひとつとして、いわゆる東西の冷戦対立の構造が行きつくところまで行ったにもかかわらず、あいかわらずその遺制が作家の感受性を支配していたということがあげられるだろう。それは言うまでもなく全世界的なものだった。ベトナム戦争の泥沼化、68年のプラハの事件、パリにおける5月危機、そして東京では「全共闘」の騒乱と三島由紀夫の自決。アメリカ的な資本主義が理想だとは誰も思えず、既成の社会主義には絶望し、かといって単純なナショナリズムに回帰することもできない。もちろん作家たちはイデオロギーに依拠して作品をつくるわけではない。だが作家の感受性と政治的イデオロギーの関係はもつれた糸のようにどこかでつながっているし、少なくとも時代感情を反映していることはたしかだろう。そこで作家たちは、言葉の技法(マニエラ)とスタイルの洗練というきわめて知的に統御された作品を構築し、やがてその繰り返しは痩せ細っていく……。ヴァルター・フリートレンダーは『マニエリスムとバロックの成立』(註8)のなかで次のように言っている。
(本来的なマニエリスムの)精神主義は、原始主義(プリミティヴィズム)と空間的形体的抽象を通して、内容を深めることを求めていた。それは単なる文学上の、理論上の反対運動ではなかった。客観性の手段による、単純に実際的作品による反抗であった。このやり方は、もっともよく芸術的感情の変換を示すものだ。しかし、本当の敵はすでに述べたような習慣的手法に陥ったマニエリスムだった。その精神面にさえ及ぶ浅薄さに対して、1580年頃の変革の鋒先が向けられたのである。その新しい運動の攻撃目標は、形体の堕落を救い、同様に精神的なものが、単なる遊びやアレゴリーに堕落しているものを救うことにあった。(強調筆者)
この一節から、きわめてマニエリスティックな『ヴュルテンベルク』の真の敵がじつはヌーヴォー・ロマン風の無意識的なマニエリスムにあったことを指摘するのはいささか無理があるが、引用の目的はむしろ、マニエリスムという様式がルネサンスとバロックの狭間にあって、一筋縄ではとらえきれないものであることをここで再確認することにある。すなわち、この一節は美術史においてマニエリスムという概念を初めて侮蔑的な呼称の枠から解放し、バロックという概念からも自立させる契機をつくった記念碑的宣言なのだろうが、それと同時に、「精神主義的なマニエリスム」と「習慣的手法に陥ったマニエリスム(=マンネリズム)」を対立させることによって、反マニエリスム的な画家が真のマニエリストであるという同語反復的な矛盾をきたしているように思えるからである。事実、その同語反復的な矛盾は前述のハウザーにも受け継がれている。すなわち、バロックという概念の濫用を諫めるために、みずからマニエリスムという概念を濫用しているという矛盾である。ようするにバロックという概念がそうであるように、マニエリスムという概念もまた、それを使う人の数と同じだけの定義があるのかもしれない。(つづく)
註
(1)Tous les matins du monde, Galimard, 1991 (邦題『めぐり逢う朝」、拙訳、早川書房)
(2)Georges de LaTour, Flohic, 1991
(3)アーノルド・ハウザー『マニエリスム』(若桑みどり訳、岩崎美術社)
(4)Le salon du Wurtemberg, Galimard,1986 (拙訳、早川書房)
(5)Les escaliers de Chambord, Galimard,1989 (拙訳、早川書房)
(6)Le Raison, Le Promeneur/Quai Voltaire,1990 (拙訳、青土社『アプロネニア・アウィティアの柘植の板』に所収)
(7)『中央公論文芸特集』1994年春季号(インタビュー・訳/浅野素女)
(8)ヴァルター・フリートレンダー『マニエリスムとバロックの成立』 (斎藤稔訳、岩崎美術社)